(2010年2月4日,更新 2021年1月20日)
天皇家の架空先祖までが「国民の祝日」になっている 不思議の国:日本を再考する
【要 点】 西暦5000年ころになったら,日本の祝日(休日)は1年に何日に増えているのか(?)という,当面に生きるわれわれには無縁だが,いささか楽しい話題
① 2010年2月11日は何回めの「建国記念の日」?
今日は,2010年2月4日(水曜日)である。1週間後の2月11日は「国民の祝日」としての「建国記念の日」である。なお,この祝日は1967〔昭和42〕年から設定されているので,今年で44回めを迎える祝日である。この「建国記念の日」の起源は,一般につぎのように説明されている。
いまから2670年も昔にさかのぼる紀元前660年2月11日,当時の天下を平定したとされる神武天皇が,大和橿原の宮で即位し,これが日本〔という国はまだ存在しなかったが〕の天皇制〔同じく天皇という名称の位もまだなかった〕の始まりとされる。
ただし,神武天皇という「日本の初代天皇」は《架空の人物》である。奈良県橿原市にある神武天皇陵が,神武天皇の遺体なり遺骨を収めているわけもない。なお「神武天皇」関連のホームページには〈素顔の神武天皇〉の絵も出されているから,昔話としてはひとまず楽しい気分で鑑賞できる。
けれども,あくまでも〈おとぎ話〔神話!〕の世界〉における「想像での似顔絵(?)」である。たとえば,つぎのように神武天皇として想像されて描いた似顔絵からヒゲを剃り落とすと,確かにあの「誰かによく似ている」ようにみえる。
② 「国民の祝日」について
★-1「国民の祝日に関する法律」(昭和23〔1948〕年法律第178号,最終改正 平成17〔2005〕年5月20日法律第43号 平成19年1月1日施行)は,こう規定している。なお,以下は「平成天皇の時期」,2010年時点での説明となる。
第1条 自由と平和を求めてやまない日本国民は,美しい風習を育てつつ,よりよき社会,より豊かな生活を築きあげるために,ここに国民こぞって祝い,感謝し,又は記念する日を定め,これを「国民の祝日」と名づける。
第2条 「国民の祝日」を次のように定める。
元 日 1月1日 --年のはじめを祝う。
成人の日 1月の第2月曜日 --おとなになったことを自覚し,みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます。
建国記念の日 政令で定める日 --建国をしのび,国を愛する心を養う。
昭和の日 4月29日 --激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす。
憲法記念日 5月3日 --日本国憲法の施行を記念し,国の成長を期する。
みどりの日 5月4日 --自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ。
こどもの日 5月5日 --こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する。
海の日 7月の第3月曜日 --海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う。
敬老の日 9月の第3月曜日 --多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し,長寿を祝う。
秋分の日 秋分日 --祖先をうやまい,なくなった人々をしのぶ。
体育の日 10月の第2月曜日 --スポーツにしたしみ,健康な心身をつちかう。文化の日 11月3日 --自由と平和を愛し,文化をすすめる。
勤労感謝の日 11月23日 --勤労をたっとび,生産を祝い,国民たがいに感謝しあう。
第3条 「国民の祝日」は,休日とする。
★-2 「建国記念の日となる日を定める政令」(昭和41〔1966〕年政令第376号)
国民の祝日に関する法律第2条に規定する建国記念の日は,2月11日とする。
附則(省略)
祝日のうち,「春分の日」及び「秋分の日」は,法律で具体的に月日が明記されずに,それぞれ「春分日」,「秋分日」と定められている。
「春分の日」及び「秋分の日」については,国立天文台が,毎年2月に翌年の「春分の日」,「秋分の日」を官報で公表している。詳しくは,国立天文台ホームページ「よくある質問」(質問 3-1)を参照。
★-4「昭和の日」について
国民の祝日に関する法律の一部を改正する法律(平成17年法律第43号)が平成19年から施行され,「国民の祝日」として新たに「昭和の日」が加わり,「みどりの日」は5月4日となった。
「昭和の日 4月29日」 --激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす(筆者註記:1945年以前における昭和天皇の事績:失敗は問わないということらしい)。
「みどりの日 5月4日」 --自然に親しむとともにその恩恵に感謝し,豊かな心をはぐくむ。
また,「国民の祝日」が日曜日に当たるときは,その日後においてその日に最も近い「国民の祝日」でない日を休日とすることになった。
註記)http://www8.cao.go.jp/chosei/shukujitsu/gaiyou.html 参照。
③「皇室祭祀令」明治41〔1908〕年に定められた皇室祭祀の日にち
以上に,現行「国民の祝日」を法律にしたがい一覧してみた。つぎに,旧・皇室令第1号として規定された「皇室祭祀令」(明治41〔1908〕年9月19日)から,「国民の休日」に比較する材料としてその一部のみ,「第2章」の第8条・第9条・第10章を紹介する。
第二章 大祭
第八条 大祭ニハ天皇皇族及官僚ヲ率イテ親ラ祭典ヲ行フ天皇喪ニ在リ其ノ他事故アルトキハ前項ノ祭典ハ皇族又ハ掌典長ヲシテ之ヲ行ハシム
第九条 大祭及其ノ期日ハ左ノ如シ
元 始 祭 一月三日
紀元節祭 二月十一日
春季皇霊祭 春分日
春季神殿祭 春分日
神武天皇祭 四月三日
秋季皇霊祭 秋分日
秋季神殿祭 秋分日
神 嘗 祭 十月十七日
新 嘗 祭 十一月二十三日ヨリ二十四日ニ亘ル
先 帝 祭 毎年崩御日ニ相当スル日
先帝以前三代ノ式年祭 崩御日ニ相当スル日
先后ノ式年祭 崩御日ニ相当スル日
皇妣タル皇后ノ式年祭 崩御日ニ相当スル日第十条 式年ハ崩御ノ日ヨリ三年五年十年二十年三十年四十年五十年百年及爾後毎百年トス
神武天皇祭及先帝祭前項ノ式年ニ当ルトキハ式年祭ヲ行フ註記)http://homepage1.nifty.com/gyouseinet/kenpou/koushitsu/koushitsusaishirei.htm 参照。
これをみても分かるように「先代などの天皇」の「命日(いわゆる崩御)〔ニ相当スル日〕」に,なにやら,ひどく・ずいぶん,こだわった規定になっている。先祖を祭祀することばかりに関する〈祭祀〉日だから当然とはいえ,この「皇室神道」の決まりに強く感じとれる宗教性に注目しておきたい。
なお,② に一覧した「国民の祝日」と共通する〈日にち〉が多いが,基本的には,この「皇室祭祀令」に定められた日にちが「国民の祝日」の〈骨格〉あるいは〈主柱〉になっている。
とくに「紀元節祭:二月十一日」は,歴史的に存在したかその保証など本当は皆無である〈初代の神武天皇〉が「成就させたとされる事績」に関して,決められていた日付であるから,どだいマユツバものである。自民党の衆議院議員であった中山正暉は「建国の日と神武天皇は無関係」と喝破したことがある(1984年)。
昭和天皇の末弟三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)は,1950年代後半に巻きおこった「建国記念日」に関する議論のなかで,自分の所属する「史学会」(1889:明治22年11月創立)に対して「建国記念日」制定に反対する決議を迫った。だが「史学会」がわは,学術団体に政治的決議は馴染まないと応せず,この態度に憤慨した三笠宮は「理事長独裁を批判する」とのコメントを出し,世間を騒がせた出来事がある。
三笠宮については,本ブログ内ではいくつか関連する記述をおこなってきた。なかでも,つぎにリンク先を挙げておく記述は,「明治以降,天皇家の万世一系のからくり」という問題に関連させてとりあげた文献,鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』成甲書房,2007年が,その日(「敗戦の日」)に皇居内で生起したクーデタの現場主導者:「犯人」が三笠宮であったと解明・推理している。
鬼塚英昭によるその指摘が的中しており,正当だとすれば,皇室一族の魑魅魍魎ぶりも一筋縄にはいかない。
◆ 戦前において軍人だった三笠宮の画像 ◆
出所)1943年8月,『朝日新聞』2016年10月28日朝刊。
出所)1933年5月25日,『朝日新聞』2016年10月27日夕刊。
出所)1936年4月,『日本経済新聞』2016年10月28日朝刊。
ここで参考にまで,中国人民共和国の休日,2007年12月14日公布の『全国の祝日および記念日の休暇弁法』により定められた「中国の祝祭日」を,以下にかかげておく。これらの公休日に合わせて前後の土日を振り替えたりし,3連休とするばあいが多いようである。 こちらのほうは正直に「農事」との暦的な関連を表記している。
(一) 新 年: 休み1日(1月1日)
(二) 春 節: 休み3日(農暦大晦日,正月1日,2日)
(四) メーデー(労働節): 休み1日(5月1日)
(六) 中秋節: 休み1日(農暦中秋当日)
(七) 国慶節: 休み三日(10月1日,2日,3日)
④ 「皇室祭祀令」から「国民の祝日」として登場した,とくにその「差分として現われた祝日」などについて
★「成人の日」は,以前は1月15日に決められていたが1月の第2月曜日に変更され,毎年のカレンダーに合わせて若干可動的に置かれている祝日である。どうしてこのように可動的に,月曜日になる日にちに設定しているかは,あえて説明しなくてもよいと思われるので,割愛する〔→2003〔平成15〕年「祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)」のこと〕。
★「昭和の日」4月29日は,現在は伏せて隠しているけれども,いうまでもなく「天皇裕仁」の誕生日である。昭和時代に生まれた世代はよくしっている。彼は,旧大日本帝国時代の帝国陸海軍を統べる大元帥でもあった。1945年の前後をとおしてこの「国民の祝日」が置かれており,彼はいまもなお「国民」に誕生日を祝ってもらっていることになる。
補注)現在,4月29日は祝日の「昭和の日」であるが,昭和前半:1927〜1947年は「天長節」,敗戦後になってから1948〜1988年は「天皇誕生日」,昭和天皇の死後1989〜2006年は “自然の恩恵に感謝する” 「みどりの日」といいかえられ,2007年に再度「昭和の日」へ戻された。
なぜ,そのように昭和天皇の誕生日が暦の上において指称される名前が変遷してきたのか,一考の価値もありそうである。
★「憲法記念日」5月3日は,戦争に敗北した大日本帝国が旧明治憲法を改正して〔より正確にいうと「占領軍に指示(主導)されて」そうしたから「押しつけられた」とも表現されることもある〕,日本国憲法を公布・施行した。この新憲法の公布されたのが 1946〔昭和21〕年11月3日,施行されたのが 1947〔昭和22〕年5月3日であった。
★「みどりの日」5月4日は,1週間程度の連休を〈ゴールデン・ウィーク〉と呼ばねばならないほどの働きバチ=日本人にために,前後の日がすでに休日(国民の祝日)だということ,そして,すでに実際にはこの4日も休みにしてしまう事業所も多くあった事情も斟酌して,「ついで休日にしてしまえ(!)」ということであった,と推察する。
★「こどもの日」5月5日は,となりの韓国にもある休日であるが,ほかの国々にはみかけないようである。ともかく,黄金の連休のしんがりに位置する「国民の祝日」である。「こどもの人格を重んじ,こどもの幸福をはかるとともに,母に感謝する」休日であるというけれども,この日にかぎってとくに思うべきことがらにも「思えない」が・・・。
★「海の日」7月の第3月曜日は「海の恩恵に感謝するとともに,海洋国日本の繁栄を願う」と説明されているが,これは本来の意味をすっ飛ばしている。制定当初は7月20日だったが,祝日法の改正(ハッピーマンデー制度)にともない,2003年〔平成15〕年から7月の第3月曜日に置かれる「国民の祝日」となった。
もともと「海の記念日」という記念日があった。これは,1876年〔明治9〕年に明治天皇が東北地方を巡幸したさい,軍艦ではなく灯台巡視用の汽船「明治丸」に乗船して航海をし,7月20日に横浜港に帰着したという。この明治天皇の行事に因んで,1941〔昭和16〕年,当時の逓信大臣村田省蔵が提唱して制定された〈記念日〉である。そして,2003年〔平成15〕年から「国民の祝日」のなかった〈7月〉に設定したわけである。
★「敬老の日」9月の第3月曜日は「老人を敬愛し,長寿を祝う」「国民の祝日」であるから,高齢社会に至っている21世紀の休日としては,とても適っている。とはいっても,孤独な生活を強いられている,それも過疎地域から離れられないで暮らしている多くの高齢者が「この日だけ敬愛され長生きを褒められ祝ってもらっても」,当人たちはそれほどうれしくなれないのではないか。
★「体育の日」10月の第2月曜日は,以前は休日のなかった10月に新しく,それも学校では運動会がおこなわれる月だということで,置かれたお休みの日と思われる。メタボチックなお父さんたちは「この日に若いころを思い出して急に張り切って運動したら,アキレス腱を切断するかもしれないので要注意」である。本ブログの筆者は,そうした実例を何人もみてきた。「スポーツに親しみ,健康な心身をつちかう」のは大いにけっこう,誰も否定しない。
★「文化の日」11月3日は,明治天皇の「隠れ誕生日」だと指摘してもけっして揶揄にはなるまい。日本国民が「自由と平和を愛し,文化をすすめる」という気持を,いかなる理由があってなのかしらないが,もとは「明治天皇の誕生日」であるこの「文化の日」に,なにゆえ特別にもたねばならないのか。歴史の事実はその〈真逆の成果〉を実証しているせいで,明治天皇の誕生日である点を正面に出せないのではないか?
明治の時代はむしろ「差別と戦争を好み,アジア侵略をすすめた」気分が,大日本帝国内においては横溢していたのではないか? 台湾・朝鮮の植民地化,日清・日露戦争。この時代の天皇の産まれた日を「国民の祝日」として祝ってもらおうとするにも,躊躇があり,気まずくも思っているらしく,それを「文化の日」と名付けて〔=すり替えておき〕休日にしているのではないか。
こうした意図が奈辺にあるかどうかはあえて詮索しないとしても,その由来をわざと隠したかのように「休日=国民の祝日」である「文化の日」を,実は「明治天皇の生まれた日」に設定してきた。敗戦後,間もないころのことであった(1948年)。「坂の上の雲」が時鬱は,1945年8月を境に「坂の向こうの暗雲」に変わっていたという「歴史認識」がなかったとはいえまい。
★「勤労感謝の日 11月23日」は,皇室の祭祀(行事)でいえば「新嘗祭」である。キリスト教でいえば「感謝祭」である。この休日の主旨である「勤労をたっとび,生産を祝い,国民たがいに感謝しあう」ことと皇室の「新嘗祭」の宗教行事との関連づけは〈歴然としている〉。
にもかかわらず,それを故意に断ち切ったようなかたちで,この「勤労感謝の日」がを設定している。妙ちくりんに不自然でありつつも,なにやら皇室のためにこそ勤労できるらしい「日本国民」は,このありがたき自身の立場に感謝せよ,とでもつぶやかれるかのような11月23日……。
★「天皇誕生日 12月23日」はもちろん,平成の「天皇の誕生日を祝う」「国民の休日」である(本日:2021年1月20日~表現すると「であった」となるが)。もっとも,日本の国民は挙って無条件に「天皇明仁の産まれた日」を,かしこまってうやうやしく祝わねばならない絶対的な義務を課せられているというわけはない。この日を祝う気持に協調しない国民が〈非国民〉よばわりされる筋合いは寸毫もないし,それを罰する〈不敬罪〉のような法律もない。ただ,休日にしてくれていることに感謝する気持は,誰にでもあるかもしれない。
【付 論】 本日,2021年1月20日の『日本経済新聞』朝刊にだが,たまたまこういう記事が出ていた。
★タイ不敬罪,禁錮43年 過去最長,ネット投稿巡り判決 ★
=『日本経済新聞』2021年1月20日朝刊9面「国際」=
【バンコク = 村松洋兵】 タイの刑事裁判所は〔1月〕19日,不敬罪に問われた元国家公務員の60代女性に対し,禁錮43年6月の判決をいい渡した。2014~15年に王室を批判する音声をインターネットに投稿したとして有罪と判断された。弁護士団体によると不敬罪の刑期では過去最長という。不敬罪撤廃を求める反体制デモ隊が反発を強めるのは必至だ。
女性は王室に批判的なグループが作成した音声をフェイスブックなどで共有したとして,2015年に不敬罪容疑で逮捕された。不敬罪は1件につき禁錮3~15年が科される。裁判所は計29件に対して禁錮87年としたが,女性が罪を認めたため43年6月に減刑した。弁護士団体によると,これまでの最長は35年だった。
不敬罪はワチラロンコン国王の意向で2018年以降は適用が控えられてきたとされる。だが,2020年後半に王室改革を求める反体制デモが活発になると,政府は方針を転換して取り締まりを強める姿勢を示した。
警察は2020年11月以降にデモ隊の指導者ら40人以上に不敬罪の疑いがあるとして出頭を命じ,事情聴取した。1月13日には王族の肖像画にスプレーで批判的な文言を書いた容疑で,男子大学生を逮捕した。警察が一連のデモ参加者を同容疑で逮捕したのは初めてだ。
首都バンコクでは16日に不敬罪撤廃などを求める反体制集会が開かれた。警察は新型コロナウイルス対応の非常事態宣言により集会は禁じられているとして解散を命じた。この際に警察とデモ隊がもみ合いになりデモ隊の数人が逮捕された。(引用終わり)
この『日本経済新聞』朝刊の「社会」面には,つぎの記事も掲載されていた。見出しは「故羽田雄一郎氏に従三位 旭日大綬章も」,本文は「政府は〔2021年1月〕19日の閣議で,2020年12月27日に53歳で死去した元国土交通相の羽田雄一郎氏を従三位に叙し,旭日大綬章を贈ると決めた」となっている。
なお,従三位とは「位階」のひとつである。この位階(いかい)とは、国家の制度にもとづく個人の序列の標示であり,位(くらい)ともいう。基本的には「地位,身分の序列,等級」といった意味であり,天皇を最高・至上の「位」に置いたうえで,それ以下(足元)に人びとを,階層ごとに並べて位置づけた “古代的かつ中性的な封建政治思想” の具現体である。つぎの画像資料をみたい。(クリックで拡大・可)
さすがに新憲法(日本国憲法)のもとでは,位階の制度そものは廃止にしていた。しかし,その「生きる屍」的な制度は「死没者に対すす追賜・昇叙と生存者叙勲がある」として,21世紀の現在にまで,なお存続させられている。
「位階」そのもののが,天皇を絶対的な価値中心とする「臣民⇒人民:国民」に対する「位」の授与であるかぎり,生きた人間であれ死んだ人間であれ,「天皇への近さ」を尺度として「人間じたいの価値」を絶対的に決めるという皇国社会的な政治価値観は,はたして日本国憲法の基本精神に合致しうるのか,矛盾することなどないのかと問うとすれば,ここに日本国憲法が「本来」よりかかえていた根柢の重大問題が,あらためてとなるけれども,ただちに指摘されうる。
参考にまで言及しておく。政府が公表している関連の資料は,「栄典制度の概要1」において,こう解説している。
註記)以下は,https://www8.cao.go.jp/shokun/yushikisha/290619shiryo6.pdf 参照。
※-1 栄典の根拠等
日本国憲法(抄)第7条は,「天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の国事に関する行為を行ふ。七 栄典を授与すること。第14条3 栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない。栄典の授与は,現にこれを有し,又は将来これを受ける者の一代に限り,その効力を有する」と定めている。
補注)とはいえ,このように断わっていても,絶対に「栄誉,勲章その他の栄典の授与は,いかなる特権も伴はない」と世間一般のあいだで理解されているかといったら,疑問は残るというほかない。
※-2 栄典制度の沿革
明治8〔1876〕年4月「勲章従軍記章制定ノ件」(太政官布告第54号) 公布により勲章制度を創設し,また,明治14〔1882〕年12月「褒章条例」(太政官布告第63号)公布により褒章制度を創設した。
※-3 生存者に対する叙勲は,戦後一時停止(昭和21〔1946〕年5月3日閣議決定)していたが,生存者叙勲として昭和39〔1954〕年春から春秋叙勲として再開(昭和38年7月12日閣議決定)された。そのさい,それまでの叙勲制度が官吏および軍人中心のものであったのに対し,国民の各界各層を対象とする叙勲制度にあらためられた。
補注)この解説はなにを意味しているか? 二重の,裏表(うらはら)の含意があったと受けとるほかない。焼け太り的な改制度になっていた要素がない,とはいえないからである。
※-4 21世紀を迎え,社会経済情勢の変化に対応したものとするため栄典制度の見直しをおこない(平成14〔2006〕年8月7日閣議決定),平成15〔2007〕年秋の叙勲及び褒章から現在の制度に移行した。
※-5 平成15〔2007〕年の改革から10年以上経過したことに鑑み,社会経済の変化に対応して栄典授与分野や事務の見直し等について定める「栄典授与の中期重点方針」(平成28〔2016〕年9月16日閣議了解)を策定。
⑤ いくつかの疑問
皇室の祭祀とはいっても日本の歴史,それも「皇室における歴史」を回顧してみると,新嘗祭・大嘗祭など祭祀(行事)が中世においては断絶していた時期もあった。それらはまた,どこまでも天皇家における・朝廷内における祭祀であったものを,明治時代になって,それも古代史的にも不確かな根拠しかない伝統(?)にもとづいていたに過ぎなかった。
けれども,近代的に「新しく創造」してみた「近代天皇制」は,国民=臣民に対してとなると,それもただ密教的に恭順させてきたに過ぎず,ともかく「我が国はそうなっていた」のだとだけ,ひたすら権柄ずくで無理やりに押しつけてきた。それを政治思想史的に疑ったり,顕教的に暴露させて反対したりする者たちはただちに排斥された。それでもまだ,国家の決めた皇国史観を否定する者たちは徹底的に弾圧され,時には必要に応じて死も与えた。
日本国憲法を「押しつけ憲法」という者もいるけれども,明治憲法(旧大日本帝国)のほうが国民=臣民にとっては,はるかに高度にかつよほど強烈に「押しつけ帝国憲法」であったことを忘れてはいけない。「国民の祝日」のなかには「国民の視野・目線」をあえて遮断・隠蔽するかのようにして,横槍的に「押しこめられている皇室祭祀」が伏在させられている。この「嘘っぽい要素」から目は離さないで,つぎに興味ある論点を考えてみたい。
天皇「誕生日」関係に注意してみると,明治天皇の休日〔に間違い日付としての「国民の祝日」〕はあるのに「大正天皇」のそれはない。なぜか? とても不思議である〔と思わないでいいのか?〕。大正天皇の誕生日は〈祭日〉に置く必要はないのか? この疑問はきわめて素朴な発想であるが,もっともなものでもあることは,ただちに理解してもらえるはずである。
「明治以降,天皇家の万世一系のからくり」「皇室における〈落胤の系譜〉に潜む秘密(みのがせない疑問)」とでも表題を付して論じてもいいのだが,大正天皇自身は,日本の皇室の連綿性〔=皇統譜〕を守るために必要である男子を4人も作ってくれた。それも側室1人も置かないで,貞明皇后にその子ども:男子を産ませてくれた。
大正天皇に因んで,なにゆえに「大正天皇の祝日(8月31日)」を設定していないのか? 父親の明治天皇はこの大正天皇を,唯一の男子として側室の1人に産ませていたが,多くの妾連を相手にしていたものの,それっきりであった。いささか,まぜっかえすようにいわせてもらうとするが,夏休みの最終日〔そうではない日本の地域もあるが〕が大正天皇の誕生日だからか?
a) 明治天皇の場合,複数いた側室との性的な営みに励んでいたと思われるが,成人まで育った男子は,大正天皇1人以外は儲けられなかった。
b) 昭和天皇は,平成天皇とこの弟の2人を男子として儲けていた。昭和天皇の場合,その2人の男子をはさんで上と下に女子を4人と1人,都合5人の子どもがいた。戦前のことでもあったし,昭和天皇は妻が平成天皇を産むまでは,お付きの者たちともども,やきもきさせられていた。
裕仁夫婦の周辺に陣どる宮内省関係者は,良子(ながこ)が男子を産むまで5人めの子どもの誕生を待たねばならなかった。こちらの者たちはそれなりの立場にあって,良子が初めて男子を産むまではやきもきし,焦っていた。男児を創れないこの夫婦のなかに “第2夫人を送りこめ” という提案(画策)もあったという。
--ということで,明治天皇は成人した男子1人,昭和天皇は男子2人をそれぞれ儲けていた。参考にまでいえば平成天皇は男子2人を儲けていたが,その息子の徳仁は現在まで世継ぎとなる男子は儲けていない。弟の秋篠宮が男子として悠仁を儲けていた。
c) 大正天皇は,裕仁・秩父宮・高松宮・三笠宮の4人を,側室の助け〔腹を〕を借りないでY染色体(遺伝子)の継承者を製作できていた。皇統の連綿性を考慮して評価すれば,天皇家の祭主は「皇位の継承者」である「種」主を絶やさないための仕事が非常に重要である。
以上 a) b) c) を勘案すれば,大正天皇の誕生日も休日としておき「国民に祝わせないほうがおかしい」のではないか? つい最近の世相であった出来事を思いだそう〔なお,この記述は2010年時点に書かれていたので,念のため〕。
現在は〔2019年5月から〕「令和の天皇の時期」になっているが,2010年当時までにおいて「皇太子徳仁と雅子夫妻のあいだにに男子ができていなかった」問題は,なにかと世の中を話題を提供していた。
その意味でも,天皇夫婦として自分の子ども:男子「皇位継承者」を4人も儲けていた大正天皇が,現在における日本の休日「国民の祝日」に利用(活用?)されていないのは,たいそうおかしく,不審なこと(=疑問になるはず)ではないか?
単純な話,「労働者・サラリーマン」〔ただし正規社員を中心に,またとくに公務員など〕の立場からすれば,国家が公認する休日が増えるのは,ともかく大歓迎である。
2) 天皇誕生日をすべて休日にしていったら,今後はどうなるのか
天皇の誕生日を「休日:国民の祝日」の設定のために歴史的に利用していながら,それでいて「この由来を意図的に隠蔽した」かのようにもしている印象を残しているのは,奇妙な作法である。日本国の「国民の祝日」の設定に関する〈そういうやりかた〉をするのが,この国家の流儀なのであるといって,済まされる問題点ではない。
さて,以下につづけてとりあげる話題は,大正天皇の誕生日が休日になっていない事実は,ひとまず棚上げしての話となる。
日本が古代史のある時期に一国の体裁を形成しはじめてから,約千3百年が経つとされる。明治維新を契機にそれ以来急速に「朝廷:皇室」という歴史的な概念が,最大限に膨張させられる政治的な方針が採用された。日本という国のあらゆる場面・領域に「天皇・天皇制」の価値観を浸透させようとしてきたのである。
平成の元号をもついまの時代においては,天皇「誕生日」に由来する休日は,明治天皇と昭和天皇と平成天皇の3日がある。それでは,現行の「平成天皇の休日」は,彼が死んだあとにも「国民の祝日」として再設定されるのか? 本ブログの筆者は多分置かれる,と予想している。
補注)この段落の記述は,2010年2月中における記述であった。この予想「平成天皇の誕生日」が「『国民の祝日』になるとの予想」は外れた。しかし,今後においてなにか関連する動き(変化)が起こらないとはかぎらない。いま〔2021年1月〕から1年ほど前の『東京新聞』のつぎの記事を引用して,いくらか関連する含意のある文章をさらに書いておきたい。
◆ 上皇さま誕生日の12月23日,将来は祝日「平成の日」に? ◆
=『東京新聞』2019年12月24日 11時52分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/18365 =
30年ぶりに平日となった〔2019年〕12月23日。今年,平成から令和への天皇の代替わりがあり,天皇誕生日が2月23日に変わったからだが,明治天皇の誕生日は「文化の日」,昭和天皇の誕生日は「昭和の日」として続いている。平成の天皇だった上皇の誕生日は将来,「平成の日」として祝日に復活するのか。
◆-1 30年ぶりに12月23日が平日
平日の「12月23日」を街ゆく人たちはどう受けとめたか。「今月に入って,スマホのカレンダーをみたら23日が赤くなっていないのに気付いた。今日は午後から休みを取って,いつもより早く飲みにいきます」。そう話したのは東京・新橋駅前の広場で待ちあわせをしていた台東区の会社員女性(28歳)。ほかにも「職場のスケジュール表を見て初めて気づいた」(千葉県印西市の会社員男性)など,当然休みだと認識していた人も多いようだ。
昭和天皇の誕生日の4月29日は1989年1月7日の崩御後に国民の祝日の「みどりの日」とされた。だが,この一見,天皇と無関係な名称に対し自民党内の保守派などが反発。祝日法改正案が三度も提出され,2007年から「昭和の日」となった。「みどりの日」は5月4日に移されて現在に至る。
ただ名称はともかく,昭和天皇の誕生日は一貫して祝日なのに,12月23日はなぜ,平日になったのか。「国民の祝日」を所掌する内閣府大臣官房総務課に問い合わせると,天皇の誕生日が変わったという事実に沿った祝日法改正があったからだという。
◆-2「ご存命中は議論避けるべき」
同課管理室の山本昌男氏が「あくまでも個人的な意見」と念を押した上で,12月23日を祝日にすることについては「今後の議論にもよるが,少なくとも上皇陛下がご存命中に議論をするのはあまり好ましくない」と話した。昭和から平成への代替わりは,昭和天皇の崩御に伴うものだったが,今回は生前退位によるという事情が影響しているらしい。
ちなみに大正天皇の誕生日の8月31日は盛夏期であることから10月31日を祝日としていたが,現在は残っていない。明治天皇の誕生日である11月3日は,崩御から15年後の明治節として祝日になり,戦後は国民の祝日の「文化の日」として続いている。
武蔵野美術大の志田陽子教授(憲法)は「存命中の退位は憲法でも皇室典範でも想定されていないことなので,どうするかについては国民的な議論を呼びこむべきだ」と話す。
そして「存命中の人物の誕生日を祝日とすることは避け,逝去後に考えるという選択肢はありうる」としたうえで,「考えた結果,祝日にする選択もあれば,祝日として復活しないという選択もある。民意をきちんとすくい上げることが求められる」と付けくわえた。
◆-3「明治の日」制定の動き,元号の政治利用に懸念の声
ただ志田氏は,再び祝日にするとしても,「名称には注意が必要だ」として,昭和天皇の誕生日の「みどりの日」から「昭和の日」に変更された例にくわえ,「文化の日」も「明治の日」と名称を変えようとする動きを挙げる。
今〔2019〕年10月には,保守系市民団体「明治の日推進協議会」が国会内で集会を開き,自民党議員でつくる「明治の日を実現するための議員連盟」に,改称に賛同する百万人超の署名を手渡した。戦中・戦前に戻るかのような改称には,有識者から疑問の声が出ている。
志田氏は「元号を日本社会にとっての基本価値にしようとしているのではないか。天皇誕生日を祝日にするさいに,名称が政治利用されないように気を付けるべきだ」と訴える。(引用終わり)
この『東京新聞』の記事に反映されている議論,「天皇誕生日を祝日にするさいに,名称が政治利用されないように気を付けるべきだ」という指摘(留保:注意点)は,おかしい筋書きである。実際,この途中には,「国民的な議論を呼びこむべきだ」という識者の意見が紹介されている。
なかんずく,日本国憲法第1条から第8条まで天皇のことを書いているにもかかわらず,この天皇の誕生日を「国民の祝日」にするかどうかの議論をするさい,「政治利用されないように」と注文を付けることじたい,自家撞着した考え方になるほかない。政治そのものの問題であった。
本ブログは,別の記述のなかで,大正天皇の場合,1人の妻に4人産ませたはずの男子が,実はすべて彼の「実子」ではなく「他人の種(胤)」になるものであった,という秘話を紹介した。そのせいなのか,日本の「国民の祝日:休日」のなかにはいまもって,「大正天皇」の休日が置かれていないものと,推理してみるのも一興である。
そこには多分,国民・臣民にはけっして明かすことのできない天皇家内の,いうなれば,世間通常の感覚でいえば口にしにくい「秘密の事情」が隠されている。そうだとすれば,いつまでもそのように絶対的に隠しつづけていかねばならない皇室内の歴史的な事情もあった,といういうことになる。
とりわけ,戦前体制のなかでとなれば,いわゆる〈皇族〉集団じたいとこれに近しい人間関係の範囲では,みながその事実をしっていたと推察されていい。そういってみても,なにもおかしい点はない。もっとも,その付近の正確な情報はいまもなお,公にその事実が明るみに出されることはけっしてない。いわば〈完黙の禁句〉事項でありつづけている。
その種の話題はさておき,平成天皇の時代以降も,仮に歴代天皇たちがみな「休日」=「国民の祝日」を置かれるべき天皇になると想定した議論をしてみたい。
そこで,1世代を30年で計算すると,皇統の連綿たる継続性がとぎれないと仮定して,3百年が経つと,その休日は10日分だけ増える。さらに3千年が経つと,その休日は100日分までも増える。
すなわち,1年は52週あり,土・日曜日が計104日,これに「国民の祝日」15日を足すと合計119日となる。このとき,土曜日と祝日が重なる日はその分日数が減るわけが,ここではあえて代休の祝日は置かないとしておく。
これにさらに,前々段に計算しておいた上記の「3百年が経って10日分の祝日増加」あるいは「3千年が経って100日分の祝日増加」をくわえるとどうなる? 3千年後のばあい〔西暦5000年ころは〕,それもこの国がまだ存在しているかどうかという心配をしながらの話にもなるが,1年365日のうち220日が休日,10日に対してならば6日も休みの日ということになる。
あくまで仮想の話であったが,実に,変な・妙なところに到達した。日本の天皇・天皇制がこれから数千年も維持されていくと想定した,そうした遠いさきの〈予定〉ではあっても,それなりにいささかは現実味のある議論と「受けとめてもよい話」であった。
3) 民主主義の真価が問われる日本国の現状
要は,「国民の祝日:休日」とは「天皇本位・天皇家のために定められた『国民の祝日』」である。現行の日本国憲法を,実質において戦前・戦中体制寄りに引きずりこみ,そちら側に少しでも近づけたいと策謀する政治家たち〔およびこの方面を懐旧する政治勢力〕が,いままで必死になってその民主主義の原理性を,「戦前回帰」的に骨抜きするための努力をした成果が,そのような「国民の祝日」という名を騙ったところの「天皇家の祭祀」を骨格・主柱とした〈休日の設定〉の現状なのである。
本ブログの筆者は,「国民の祝日」はそのように〈観察され判断されるべき意味〉あいをもっていると理解する。それゆえ,歴史的にははるかに遠い未来にまで視線を投じてみる操作をおこない,これから還ってくる反響を聞いても明らかにされる論点に注意しなければならない。
以上に論じてみた問題は,明治維新のときこの国のなかに新しくしこまれるかたちで,創られていた「古代を復古的に志向した」「後ろ向き(!?)」の「近代の天皇・天皇制」,つまり,いまから1世紀半ほど以前に構築された〈過去の遺物〉を,21世紀になってもまだ捨て切れないでいる「日本における民主主義の永遠的に未熟な状態」を,あらためて客体的に認識しなければならないことを示唆する。
冨永 望『象徴天皇制の形成と定着』思文閣出版,2010年は,現行の日本国憲法に規定され運用されている「天皇・天皇制」のありかたに関して,吉田 茂のいった「議会主義的君主制」(116頁)という表現に言及していた。
専制君主制→立憲君主制→「『民主主義』的君主制」という並べかたができるのかどうか専門家の意見を,さらに聞きたいところである(立憲君主制は民主制「民主主義の一形態」たりうるのか?)。
いずれにせよ「共和制君主制」なる政治概念は,とうていありえない〈根本矛盾:形容矛盾〉の表現である。いうまでもなくその「民主主義的君主制」とは,日本国憲法にまつわって作られた,一種独特の政治的な概念であるが。
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