G7では菅 義偉首相が柴犬(秋田犬)として登場させられた中国デジタルアーティストの風刺絵『最後の晩餐』,つまり柴犬としてこの会議において菅君が議論を主導したのだと〈日本国内ではフェイクに報道された〉日本国首相の「本当の立ち位置」は「ポツンとひとりぼっち」

 NHKは「G7  菅首相  議論を宣言に反映と評価  五輪開催『全首脳が支持』」(『NHK NEWS WEB』2021年6月13日 23時26分,https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210613/k10013083301000.htmlと報道した,だが,フェイク(ウソ)の要因を99%ほど詰めこんだ「大本営発表」的なデタラメ・ニュースしか流さない「本物の国営放送局」としての存在価値ならばいくらかはありそうな「忖度放送局」のことであり,まさしく「菅 義偉政権様のためのNHK」として成仏済みであった

 

  要点・1 菅 義偉に関する報道についても,「説明できること」と「説明できないこと」の区別がそもそも初めから「説明できない」し,その「説明じたいをしない」NHKの報道内容

  要点・2 だから,この国営放送は「イヌ・あっち・イケー」と “正式に俗称されている” ,この政権御用達である放送局は,いわば「反」「社会の木鐸」性を過載しており,公益性を欠く「非国民志向」の報道機関

  要点・3 安倍晋三前首相もまったくにそうであったが,主要先進国の首脳たちからは,完全に小バカにされつくし,頭から無視されているのに,菅 義偉がG7の舞台で「議論を主導した」などと,ホラ(ー)話を国民たちに向けて語る言論機関(NHKや読売新聞社など)の情けない基本姿勢

 

 G7首脳の中でぽつん 首相の『ディスタンス』に批判と同情」毎日新聞』2021/6/14(月) 17:39配信,https://news.yahoo.co.jp/articles/e7e577f78e9af0942a0499148bfe96eee7860b28

 〔6月〕13日まで英コーンウォールで開かれた主要7カ国首脳会議(G7サミット)は,菅 義偉首相にとって初の対面での国際会議で,存在感発揮も課題になった。首脳同士やエリザベス英女王との記念撮影などの関連行事の映像では,親しげに歓談する欧米の首脳らの輪から距離のある菅首相の様子が,ツイッターなどで話題を呼んだ。

 首相はサミット閉幕後の13日午後(日本時間14日未明),同行記者団に「(自分は)最初から(親しく)人と付き合うのは下手な方だが,みんな目的はいっしょだから,力まずいいたいことをいえた」と語った。「今回初めてサミットに出たが非常に家族的だった。チームの1人として迎えてもらった」と成果も強調した。

 インターネット上で話題になったのは,〔6月〕11日の写真撮影など。恒例のG7首脳による記念撮影のあと,米バイデン,仏マクロン両大統領らが肩を寄せて話しこみながら移動したのに対し,菅首相は黙々と後方を歩く様子。エリザベス女王との記念撮影後も,女王を囲んで歓談する英ジョンソン,独メルケル,カナダのトルドー各首相らと,菅首相の間には距離があった。

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 ツイッター上では「国際的孤立感がある」「おいてけぼり」「一般人と違い,首相の立ち居振る舞いは批判の対象」などと皮肉る声が上がった。一方では「自分なら,この輪に入るのは無理」「しりあいがいない初の国際会議での孤立はある程度仕方ない」などと,同情のコメントも寄せられた。(引用終わり)

 どの国のどの首脳でも初めての出席の時は,まず「しりあいが〔1人も〕いない〔と思われる〕」国際会議となるゆえ,この時にどのように振る舞い,あらためて新しくオトモダチをつくるかが大事の仕事でもあるが,菅 義偉君の場合,そのように動いているようには,映らなかった。

 ラサール石井のツイートが話題になっていた。ここに挿入しておく。

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 菅 義偉はG7の構成国ではないが,参集していた韓国の首脳(文 在寅)に対して,自分から進んであいさつをしていなかったと報道されてもいる。

 「日本側の説明によると,両首脳はサミット期間中,2回簡単なあいさつを交わした。いずれも文氏が菅氏に歩み寄って声をかけたという。菅氏は同行記者団に対し,『失礼のないようにあいさつさせていただいた』と語った」。

 註記)「日韓拭えぬ不信感,五輪ボイコット論も 首脳会談,G7で実現せず〈深掘り〉佐藤 慶・坂口裕彦・『毎日新聞』2021年6月14日 21:19(https://mainichi.jp/articles/20210614/k00/00m/030/236000c

 「NHKの報道」は,菅 義偉がG7の場でりっぱに主導する場面もあったかのように,フェイクとして描いた報道をおこなっていた。ところが,相手が韓国の大統領になると,菅の行動は「こうした後ろ向きのさま」になっていた。

 欧米の首脳に対して議論を主導できる〔はず(もない)?〕日本の首相が,隣国の大統領に対してとなると,自分からさきにあいさつしたくはない気持がありありとうかがえる。そこには,なにやら興味深いことがら,すなわち菅君自身が深層心理的にかかえている〈なにか〉が感知できそうである。

【参考記事】

 

 

 

 「中国,『最後の晩餐』でG7風刺 ネットに拡散」日本経済新聞』2021年6月16日朝刊11面「国際」 

【北京=羽田野主】 中国で主要7カ国首脳会議(G7サミット)をレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐(ばんさん)」に模した風刺イラストがネット上に広がっている。対中圧力を強める西側諸国を皮肉る宣伝工作の一環とみられる。

 題名は「最後のG7」。イエスと弟子の代わりに,各国の国旗をあしらった帽子をかぶる動物が話し合う。テーブルには中国の地図が描かれたケーキがある。

 補注)なお関連させては,つぎのような「疑問」を提示しておく余地がある。ウィキペディアにこう書いてある事件についての話題であった。

 シャルリー・エブド襲撃事件は,2015年1月7日11時30分(CET)にフランス・パリ11区の週刊風刺新聞『シャルリー・エブド』の本社にイスラム過激派テロリストが乱入し,編集長,風刺漫画家,コラムニスト,警察官ら合わせて12人を殺害した事件,およびそれに続いた一連の事件。テロリズムに抗議し,表現の自由を訴えるデモがフランスおよび世界各地で起こり,さらに報道・表現の自由をめぐる白熱した議論へと発展した。
  
 つまり,キリスト教徒(プロテスタント)の立場に照らして観れば,おそらく,シャルリー・エブド襲撃事件の含意するもの近いのが,この中国(人)側の風刺絵制作の立場ではないか? もちろん,イスラム教徒とキリスト教徒の宗教心に関する基本姿勢にもち方において〈相当の質的な差異がある〉とはいえ,この「レオナルド・ダ・ビンチの『最後の晩餐』に模した風刺イラストに関しては,こちらとして深刻になりうる問題が伏在している点が否定できない。

 この風刺絵の中身(パロディーの意図)を説明しておく。さきにこの画像そのものの内容は,こうなっている。

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 一番左側から黒鷲(ドイツ),カンガルー(オーストラリア),柴犬(日本),オオカミ(イタリア),白頭鷲(米国),ライオン(英国),ビーバー(カナダ),雄鶏(フランス)が登場する。テーブルの下の象はインドを象徴している。

 補注)柴犬と秋田犬は異なる犬種であるが,この風刺絵でくわしくは判明しえない点なので,とりあえずその違いには気にしない記述をしている。

 この真ん中では米国の国鳥のハクトウワシ白頭鷲)が,テーブルの上で米ドル札を印刷する。米国の2つ左で,日本になぞらえた秋田犬〔柴犬〕がグラスに緑色の液体をそそぐ。中国共産党系メディアの環球時報(英語版)によると,液体は福島第1原子力発電所の処理水という。

 ドイツの黒ワシとフランスの鶏はテーブルの両端に座り,米国と距離をとっている。オーストラリアを表現したカンガルーは目がうつろだ。米国が印刷するドル札に手を伸ばす一方で,中国の国旗がついた点滴につながれている。中国経済への高い依存度をやゆしたとみられる。

 補注)筆者に分かる範囲内では,この2~3日続けてだが,つぎの同じ出来事に関する報道が重ねてなされていた。「中国で放射性ガス 原発から放出 当局,重大性否定」『朝日新聞』2021年6月16日朝刊8面「国際」という記事がそれだが,つぎの引用をしておく。

 米CNNが中国・台山原子力発電所放射能漏れの疑いを報じたことをめぐり,建設にかかわったフランス電力公社(EDF)は〔6月〕14日,原子炉内の希ガス濃度が上昇したと明らかにした。AFP通信などによると,ガスは放射性で大気に放出されたという。仏メディアは燃料棒の覆いの一部が破損した可能性を伝えているが,同社は「放出は中国の安全基準に沿っておこなわれた」と主張している。

 

AFP通信などによると,同社は「希ガスが漏れることはよくある」「炉心溶融などの事故は起きていない」と説明。国際原子力機関IAEA)は「現時点では,放射能事故が起きたと示す兆候はない」との見解を示しているという。

 

 EDFによると,中国の原発運営会社は昨〔2020〕年10月,燃料棒の気密性が損なわれている可能性があることを認識。当初放射性希ガスはほとんど漏れていなかったが,しだいに悪化した。昨年12月には,中国当局に対し,運転を続けられるよう,安全基準の緩和を求めたという。

 

 仏紙フィガロなどによると,汚染濃度は5月末の時点で,フランスの基準で48時間以内の運転停止が必要とされる値の2倍に達した。広東省では数カ月前から電力不足に陥っていたといい,中国当局原発の安全性より経済を優先させた可能性を指摘している。

 

 一方,中国外務省の趙立堅副報道局長は〔6月〕15日の定例会見で「中国の原発で公衆の健康や環境に影響を与える事故は発生していない」と語り,重大な問題はなかったとの立場を示した。原発の安全基準の緩和に関する質問には答えなかった。

 

 台山原発の運営会社も13日夜,「周辺の観測データは正常である」との声明を発表。希ガス濃度が上昇したとされる1号機について「フル出力での運転状態にある」と明かした。中国の国家核安全局が公表した14日現在の空間線量は,日中経済協会北京事務所の真田晃・電力室長によると,原発建設前と同様の水準だという。(パリ=疋田多揚,北京=高田正幸)

 この種の原発関連の報道は,日本という国の住民であれば〈既視感〉を抱く内容だという印象を強くもつほかない。日本では原発の安全〈神話〉は,すっかり「過去のフィクション物語」になっている。いまとなっては,完全に「安全・安心・安価」な原発などありうるわけがない事情は,国民・市民たちがよく理解するところになっている。

 補注)中国はいまでは,米仏に次ぐ世界3位の原発大国になっている。原発の大事故を起こす可能性が一番高い国がこの中国である,といってもいいすぎにはならない。 

 

  原発好きの中国において最近起きた原発事故など

 日本が保有するプルトニウムは,高速増殖炉用の燃料として利用できないできた。そこで,このプルトニウムを通常のウラン燃料(核燃料)に混成させて転用することを狙って製造した「MOX燃料」は,『原子力資料情報室』の解説「MOX燃料はおいくら?」2021/06/01,https://cnic.jp/39197 を読むと,驚愕するほどの高価格(高原価)で売買されている事実が分かる。

 原子力資料情報室『通信』より紹介 ※


      プルサーマル-再処理-核燃料サイクル
  =『原子力資料情報室通信』第564号(2021/6/1)より =

 プルトニウムとウランを混ぜて作るMOX燃料。いろいろな加工をするので,高くなるはずですが,一体いくらなのでしょうか。試算してみました。

 

 1.貿易統計からの試算

 かつて日本は使用済み燃料を海外で再処理していました。そこで取り出されたプルトニウムがMOX燃料になって帰ってきています。貿易統計には輸入品目ごとに輸入元,輸入量と輸入価格が載っているので,これを調べると,輸入したMOX燃料の価格がわかります(次表)。

 

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 たとえば,2017年にフランスから舞鶴税関に10,576kgのMOX燃料が着きました。価格は160.9億円,1kg当り152万円です。2013年には米国から40,529kgのウラン燃料が到着しています。価格は61.7億円,1kg当り15.2万円です。為替の問題もありますが,ちょうど10倍になります。1999年からの推移をみると,輸入MOX燃料は輸入ウラン燃料の約9倍だったことがわかります。

 

 2.使用済燃料再処理機構の単価を使った試算

 使用済み燃料の再処理を実施するために設立された認可法人使用済燃料再処理機構は毎年,発生する使用済み燃料当たりの拠出金単価を発表しています。再処理の単価は584円/gで一律ですが,MOX加工は89~103円/gと使用済み燃料を発生させた会社ごとにばらついています。この値を用いて試算してみました。

 

 拠出金単価は再処理単価584円/g,MOX加工単価は間をとって96円/g,合計で680円/gとします。一方,現在の経産省の説明では,使用済み燃料を800トン再処理した場合6.6トンのプルトニウムが分離さます。使用済み燃料のプルトニウム含有率は0.8%ということになります。

 

 原子炉の形によっても変わりますが,MOX燃料のプルトニウム含有率は5~9%程度となっています。1kgのMOX燃料には50~90gのプルトニウムが含まれているということです。

 

 一方,使用済み燃料のプルトニウム含有率が0.8%の場合,1kgの使用済み燃料燃料に含まれるプルトニウムは8gです。MOX燃料のプルトニウム含有率を,間をとって7%と置いた場合,MOX燃料1kgに必要なプルトニウムを取り出すには,使用済み燃料8.75kgが必要となります。

 

 これを前提にすると,拠出金単価680円/g×8.75=5,950円/g,トン当たり59.5億円。ウラン燃料1トンは約3億円なので,ウラン燃料比で約20倍です。

 

 MOX燃料はプルトニウムを使うことでウラン資源を10%削減できるといいます。でもMOX燃料は通常のウラン燃料の10~20倍もします。上の計算だと3,000万円減らすのに,60億円支払っていることになります。あらためていったいなんのために再処理をするのかが問われます。

  ここで「本論の風刺絵」のほうにいったん戻って,少しだけ記述する。前段 ② で言及してみたように,中国では最近,他国を皮肉った風刺画がネットで出回っていた。中国外務省が4月末に葛飾北斎の浮世絵「富嶽三十六景神奈川沖浪裏」のパロディー画をツイッターに投稿。在日中国大使館も米国を死に神になぞらえて批判する風刺画を公式ツイッターに投稿し,削除していた「それ」であった。

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  中国の海外宣伝機関「孔子学院」という話題

 もっとも,中国側の当事者が描いたG7に関する風刺絵が「米欧側の国際政治」についてカリカチュアライズのための画像として提供されるのは,自由である。だが,中国じたいが逆に,自国側のあれこれについて描かれる時,どう反応してきたが興味深い。最近,孔子学院の宣伝的な役割については,次段に触れるごとき事情も生まれていた。

 とくに,北アメリカなどでは孔子学院が相次いでいる。つまり,中国浸透工作機関ともいわれているのが「孔子学院」である。しかし,日本ではいまだに新設が続くという「真逆の対応」がなされている。なお,本ブログ筆者は以前,関西地域にある私立大学において,ある教員が孔子学院の存在を指摘し,議論したことがあった(本ブログ内では未公表)

      孔子学院は「文化スパイ機関」-大阪産業大学幹部が発言 ★
  =『excite.ニュース』2010年6月4日 17:48,https://www.excite.co.jp/news/article/Searchina_20100604083/


 大阪産業大学大阪府大東市)重里俊行事務局長が〔2010年〕4月,「孔子学院は文化スパイ機関みたいなもの」と発言したことで,同大学の中国人留学生が猛反発し,提携先の上海外国語大学も釈明を求めた。環球網が報じた。

 

 孔子学院は中国が中国語の普及などを目的として,世界各地の大学に開設している。大阪産業大学は上海外国語大学と提携で2007年,「大阪産業大学孔子学院」を開学した。

 

 重里事務局長は4月27日の教職員組合と大学側の団体交渉で,「孔子学院は,中国政府による “ハード面” の侵略ではないが,中国の拡張主義の “ソフト・ランディング” だ」,「文化的なスパイ機関みたいなもので,われわれは協力すべきでない」などと発言した。

 

 大学側は6月1日,重里事務局長に辞任を求めた。応じない場合には,解任する方針という。

 

 大阪産業大学は経営悪化のため2009年,「孔子学院」のキャンパス外移転を求め,上海外国語大学と意見が対立。3月末には,孔子学院の廃校を上海外国語大学に通告した。

 

 5月31日に上海外国語大学の王 静副学長が来日して,一連の事態の説明を求めた。大阪産業大学は,「移転や廃校は,経営合理化のためだった。その他の理由はない」,「本学側に失礼な発言があったことについては,深くおわびする」と延べ,移転や廃校は「取りやめる」と回答した。

 

 環球網には,同記事に対して大阪産業大学を批判するコメントが寄せられた。上海外国語大学は中国でも一流校であるとして,格が違う大阪産業大学と提携すべきではないとの意見もある。スパイをするなら日本のAVの情報を収集しろとの書きこみもある。

 この大阪産業大学における重里俊行事務局長(経営学部教授)の発言に関した「事件化」の問題は,中国が「自国の中華思想」を海外において伝道するための機関として積極的に設置してきた「孔子学院」をめぐってなされていた。

 孔子学院とは,中華人民共和国が提案したプロジェクトであり,​海外の大学などの教育機関と中国の大学等が提携し,中国語や中国文化の教育および紹介,中華人民共和国との友好関係醸成を目的とする中国語教育機関である。

 したがって,かつてのアメリカ文化センター(現在はアメリカンセンター)と孔子学院を比較してみるのもいい。両者は基本において共通する性格をもっている。2010年の時点から2021年という現在の時点においてたどってきた,「アメリカと中国」間の「国力の差」や「政治力の関係性の変質」は,相対的にも絶対的にも後者が前者に迫ってくる推移を明示していた。

   ◆ 重里俊行(しげさと・としゆき,1950年大阪府生まれ)紹介 ◆

 

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 主務 (株)アカデミック・ブレーン社主,経営コンサルタント

 学歴 慶應義塾大学経済学部卒業,同大学院博士課程修了

 講演可能地域 全国

 主な講演テーマ
  「食楽入門・食と健康への身近な知恵」
  「メンタルヘルスは,食の工夫から」
  「生活習慣病は,我流で治そう」
  「人間はウシよりもライオンに近い?」

 主な著書
  「人生,出たとこ勝負-昨日は教授,今日は商人。ご同輩,自然流でいきませんか」
  「実体験で語る脱常識のすすめ-あなたも発想の規制緩和を!」
    「現代日本の人事労務管理-オープン・システム思考」
  「日本企業の国際化と労使関係」
  「変貌する金融機関と人材」(共著)
  「日本経済分析のフロンティア」など

 

 経歴
  1982年にフルブライト奨学金によりハーバード大学経済学部の客員研究員となる。1988年に慶應義塾大学商学部助教授,1991年に教授となる。父の死をきっかけに慶應義塾大学を辞職,1995年から1998年3月まで生家の「道頓堀すし半松五郎」二代目店主として毎日店頭にも立った。
  
  その後,大学(大阪産業大学)の経営学部教授,常務理事等を歴任して,現在は「食と健康」に関連した企画コンサルタントや講演等に注力している。最近の講演では,生物学・生理学等の成果を簡単でわかりやすく取り入れ,日常的な健康促進のセルフマネジメントについて,面白く解説をしている。

 註記)http://www.npa.co.jp/search/detail.php?person_id=265  参照。

 本日〔2021年6月16日〕,『日本経済新聞』夕刊の記事につぎのような,以上の記述に関連する一文があった。

   ▼ 本日『日本経済新聞』夕刊の最新記事 ▼  -午後5時追記-

 

 「『孔子学院』の実態調査へ」『日本経済新聞』2021年6月16日夕刊2面「ニュースぷらす2」がこう報じていた。なお,英文で書かれた原文を日本語訳にした文章となっている。

 

 日本の当局は,大学のキャンパスで活動する中国政府の資金提供を受けた「孔子学院」としてしられる教育機関について,中国のプロパガンダ手段になっているとの懸念を踏まえて調査を実施する。

 

 日本の文部科学省孔子学院を設置する大学に対し,財源や参加している学生の数,大学の研究に介入しているかどうかなどの情報を提供するよう求める。質問リストは年末までに決める。

 

 日本政府は(中国)政府のプロパガンダが広がることへの懸念にくわえて,人的交流を通じて中国側に技術が流出するのではないかと警戒している。この動きは孔子学院の国内活動を規制しようとする米欧の取り組みに続くものだ。

 

 萩生田光一文科相は「米欧など共通の価値観をもつ国ではさらなる情報を求めたり,孔子学院を廃止したりする取り組みが広がっている」と述べた。「組織運営や研究プロジェクトについての透明性を高めるべく,情報公開を促したい」という。

 

 中国は2004年,文化や言語を広めてソフトパワーの及ぶ範囲を拡大するため,世界中で孔子学院を設置しはじめた。


  むすびとして若干の意見

 以上のごとき「国際政治の力学がじかに働いてみえる現実のその舞台」として,このたびに開催されたG7における「日本国首相  菅 義偉」の立ち姿と観たら,なんとも頼りなくかつみっともなくも映るそれであった。要は,格落ちの政治家だという印象を世界中に向けて広くさらし,教えてしまった。

 スーツの仕立てぶりや着こなしのセンスなどはさておき,オリンピックの開催はコロナ禍が1年半もつづく最中なのだから即刻中止にすればいいものを,菅 義偉という首相は,この人なりに「私物(死物)化させてしまった」「現状における日本の政治状況」なかであっても,もっと「首相の地位を維持していきたい」という願望を実現させるための具材に悪用したいのである。

 というわけで,いまの彼は必死になって,それもこんどは「日本が発展途上国後進国)になり下がった証し」をえるがために,すでに1年延期となっていた2020東京オリンピックを開催させることにひどく執心している。

 日本における新型コロナウイルスのワクチン接種「率」は,G7諸国のなかでは一番遅れている。にもかかわらず,菅 義偉は日本が主導して発展途上国向けにワクチンを確保提供すると,G7の場で強調したとも伝えられている。

 ところが,肝心であるはずの《自国のワクチン接種率》が必らずしも順調に高まってはおらず,完全に後手の状況であった。つまり,ワクチン接種がけっして「円滑には展開」していないにもかかわらず,「この国の首相」はそのワクチン(手持ち分あるいは調達できる分)を海外諸国に提供するとまで強調していた。これは本当に不可解な言動であった。

 安倍晋三が首相在任中にもそうであった点だが,日本の国家最高指導者の「資性・実力の程度・水準」の実態は,G7諸国の首脳たちの網膜に明確に焼き付くほかなくなっていた。この指摘はむろん “褒めて語れるような〈ことがら〉” ではなかった。

 国会での討論がまともにできず,記者会見の場でもまじめに応答できない〔「しない」のではない〕ような「菅 義偉という日本国総理大臣」が,G7という国際政治の晴れ舞台にそれも初めて立ったさい,まともに振る舞えるはずなどなかった。

 前首相の安倍晋三が記録してきた “外交(外遊)ごっこ” もかなり問題ありであったが,現首相菅 義偉の国際政治の場における実際の演技ときたら,「観るに堪えなかった(忍びなかった)」。もっと,まともに政治(内政も外交も)に対峙できる人物を,国家最高指導者の立場に送りこまないことには,この日本国の後進性は今後においても加速するのではないかと怖れる。

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日本国内の古墳は誰のもの? 天皇家の私有財産ではなく,国有であるべき文化遺産ではないのか 

             (2010年9月27日,更新 2021年6月15日)

 日本全国に散在する古墳は誰のものかと問われて天皇家の所有物であり,宮内庁が管理するといった断言は,時代錯誤の歴史観にもとづく「歴史への不遜な態度」 

 牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査をとおして,「日本の古墳は天皇家のものだ」といったごとき,歴史の観念として腐朽かつ倒錯した「天皇中心的な〈世の中〉観」を検討する

 

  要点・1 千五百年もまえからいままでも〈天皇家私有財産〉としての墓があったという盲説

  要点・2 その確認すら不可能である「天皇家偏重になる視野狭窄皇国史観」に依拠していた古墳の解釈

 

  斉明(さいめい)天皇の墓と推定される牽牛子塚(けんごしづか)古墳の発掘調査

 2010年9月10日の新聞紙上をにぎわせた,つぎの報道があった。新聞から関連する記事3件を紹介する。〔 〕内補足は本ブログ筆者である。

 1)「斉明天皇の墓,ほぼ確実   牽牛子塚古墳は八角形墳  奈良」(『朝日新聞』)

 大化改新で知られる中大兄皇子なかのおおえのおうじ天智天皇)の母,斉明(さいめい)天皇(594~661〔在位は655-661年〕)の墓との説がある奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳(国史跡)が,当時の天皇家に特有の八角形墳であることが確認された。明日香村教育委員会が9月9日,発表した。

 墳丘全面が白い切り石で飾られ,内部の石室も巨大な柱状の切り石で囲われた例のない構造だったことも判明。斉明天皇は巨石による土木工事を好んだとされ,被葬者が同天皇であることがほぼ確実になった。

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 明日香村教委は,飛鳥地方の古墳群と藤原宮跡の世界遺産登録に向け,牽牛子塚古墳を昨年9月から調査。墳丘(高さ約4.5メートル)のすそは上からみると八角形状に削られており,北西のすそから3辺分の石敷き(長さ約14メートル)がみつかった。縦40~60センチ,横 30~40センチの凝灰岩の切り石が石畳のように3列(幅約1メートル)にすき間なく並べられており,八角形になるように途中で約135度の角度で折れ曲がっていた。

 墳丘は対辺の長さが約22メートルで3段構成だったと推定され,石敷きの外側に敷かれた砂利部分を含めると約32メートルに及ぶという。三角柱状に削った白い切り石やその破片が数百個以上出土し,村教委は,これらの石約7200個をピラミッド状に積み上げて斜面を飾っていたとみている。

 また,墳丘内の石室(幅5メートル,奥行き3.5メートル,高さ2.5メートル)の側面が柱状の巨大な16の安山岩の切り石(高さ約2.8メートル,幅1.2メートル,厚さ 70センチ)で囲まれていたことも確認された。

 過去の調査では,石室が二つの空間に仕切られていたことが判明している。斉明天皇と娘の間人皇(はしひとのひめみこ)を合葬したと記された日本書紀の記述と合致するほか,漆と布を交互に塗り固めて作る最高級の棺「夾紵棺(きょうちょかん)」の破片や間人皇女と同年代の女性とみられる歯などが出土していた。

 これまでの発掘成果と合わせ,「一般の豪族を超越した,天皇家の権威を確立するという意思を感じる。斉明天皇陵と考えるほかない」(白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館長)など,専門家らの意見はほぼ一致している。

 一方,宮内庁は同古墳の西に約2.5キロ離れた円墳の車木(くるまぎ)ケンノウ古墳(奈良県高取町,直径約45メートル)を,文献や伝承などから斉明天皇陵に指定。「墓誌など明らかな証拠が出ない限り,指定は変えない」(福尾正彦・陵墓調査官)としている。

 注記)http://www.asahi.com/culture/update/0909/OSK201009090092.html,2010年9月9日22時43分配信,『朝日新聞』2010年9月10日朝刊。前掲した画像資料は,2021年5月13日の新聞報道から借りた。

 2)「天皇陵研究の大きな一歩斉明天皇陵ほぼ確定で」(『産経新聞』)

 天皇陵にしか許されなかったとされる「八角形墳」だったことが分かった牽牛子塚古墳。同じく八角形墳の天武・持統天皇陵などは宮内庁が陵墓に指定し,学術調査がいっさいできない。指定から外れた牽牛子塚古墳の調査は,ベールに包まれた天皇陵の実態に迫る大きな一歩となった。

 初代・神武から昭和天皇まで124代にわたる〔と神話的に説明され,また天皇家の私有物と主張されてもきた〕天皇陵は,宮内庁が厳重に管理。陵墓指定上,第37代斉明天皇陵は牽牛子塚古墳ではなく,同古墳の南西約2.5キロの古墳(奈良県高取町)とされている。

 陵墓は尊皇の機運が高まった江戸幕末,幕府が歴代天皇の墓について日本書紀の記述や伝承をもとに指定したのがいまに続いている。発掘調査はおこなわれておらず,斉明天皇陵について,研究者の間では6世紀ごろの円墳ともいわれている。

 宮内庁は「被葬者名を記した墓誌などが出ない限り,現在の斉明天皇陵の指定を見直す予定はない」としている。これに対し,奈良県橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員は「現代の考古学や古代史研究を踏まえると,牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇が最有力」と指摘する。

 牽牛子塚古墳は,飛鳥時代の古墳が集中し,「王家の谷」ともいわれる明日香村北西部に位置する。精美な八角形で石室を巨大な石柱で囲んだ姿は,まさに天皇の神聖さと尊厳さを具体的に明らかにした。今回の調査を機に,陵墓の調査や公開のあり方が改めて議論されることが望まれる。

 注記)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20100909-00000595-san-soci,『産経新聞』2010年9月9日21時04分 配信。

 3)「女帝の権力ほうふつ  牽牛子塚古墳」(『産経新聞』)

 天皇のシンボルとされる八角形の墳丘をもち,巨大な石室を石柱で囲んでいたことが分かった奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳。「斉明天皇の墓に違いない」。激しい被葬者論争になりがちな古墳研究で,今回ばかりは多くの研究者が一致する。大規模な土木工事を繰り返し,人々から「狂(たぶれ)(ごころ)」と批判される一方,中国の脅威に備えて国土防衛に力を尽くした女帝・斉明の巨大な権力を彷彿させた。

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 「石に象徴される斉明天皇の墓にふさわしい」。猪熊兼勝・京都橘大名誉教授(考古学)は,石柱で囲まれた石室に注目する。謎の石造物の酒船石(国史跡)や庭園の噴水施設・須弥山(しゅみせん)石など,水と石の宮殿を築いた斉明天皇の “終の棲家” は,まさに石のモニュメントだったという指摘だ。猪熊氏は「大土木工事をおこない,数多くの石造物を築いた生前の姿を思わせる」と驚嘆する。

 一方,和田 萃(あつむ)・京都教育大名誉教授(古代史)は,斉明天皇の特異な人物像に迫る。大化の改新の発端となった古代史最大のクーデター「乙巳(いっし)の変」(645年)のさいは「皇極」として君臨。蘇我入鹿中大兄皇子(後の天智天皇)に殺されるのを目の当たりにしながら,しがみつく入鹿をふりほどいて無言で立ち去り,2日後にはあっけなく天皇を退いた。和田氏は「皇極天皇(後の斉明天皇)のころの功績は,雨ごいぐらいしかなかった」と語る。

 注記)http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/natnews/topics/438299/,『産経新聞』2010年9月9日 20:51 更新 配信。

  新聞報道の客観性に対する皇室「宮内庁の主観的・非科学的な見解」

 以上 ① に紹介した斉明天皇の墓と治定された牽牛子塚古墳の発掘に関する新聞報道は,2) の記事にも説明されているように,「被葬者名を記した墓誌などが出ない限り,現在の斉明天皇陵の指定を見直す予定はない」と意地を張っている宮内庁の非科学的な立場に対して,「現代の考古学や古代史研究を踏まえると,牽牛子塚古墳の被葬者は斉明天皇が最有力」と指摘するのが,奈良県橿原考古学研究所の今尾文昭・総括研究員である。

 宮内庁側が前段のようにいいはる根拠は,考古学的にも歴史学的にも非常に薄弱であるどころか,きわめて恣意的・一方的な決めつけであるだけに,専門の研究者たちが学術的に発掘し,調査・研究した結果にまともに対抗できるものではない。記事にも説明されているごとく,「尊皇の機運が高まった江戸幕末,幕府が歴代天皇の墓について日本書紀の記述や伝承をもとに」「陵墓」「を指定したのがいまに続いている」に過ぎない。

 宮内庁は,天皇家に因縁があると一方的に決めてある古墳群に関して,それを天皇家私有財産とみなす立場から,陵墓の発掘調査を積極的におこなわない。まだまだ間違いや不正確さを多く残す「陵墓の治定(じじょう)」が,より正確におこなわれるためには,研究者に学術的な発掘調査させねばならない。

 祖先=「故人の霊」の静謐を護るためには,発掘などは絶対ダメだといいはる宮内庁は,自庁のデタラメな「陵墓比定の無根拠」が暴かれかねないかと非常に恐怖しており,陵墓の実地調査にはなかなか応じなかった。最近になってようやく,陵墓の周辺をごく部分的に公開するに止めている。

 他方で,天皇家が指定していない「本物の陵墓〔歴代において本当に実在した天皇の墓〕」に関して発掘調査が徐々にすすむにつれ,現在まで治定されてきたはずの〈斉明天皇の陵墓〉が「間違っていた事実」が,暴露されていた。

 宮内庁はいわば,大恥〔赤恥・青恥など〕をかかせられる事態にみまわれている。しかし,今回調査された「牽牛子塚古墳」のほうは,もともと「天皇家のものだから,絶対に〈手を付けるな〉」などとは一言もいえなかった。ということで,科学的な発掘・調査がなされていた。

 ということで,宮内庁にとってはまことに苦しくも耐えがたい事態が生起したことになる。宮内庁の理屈でいうと本来であれば,今回のような発掘は「陵墓に祀られている天皇霊の安静を乱す行為」であるから,それこそ血相をかえて現場に駆けつけ,阻止しなければならない事態であった。

 ところが,天皇家が指定する陵墓ではないからと,表面的には済ました顔で様子をながめている。とはいえ,心中穏やかならぬこと,並々ならぬはずである。というのは,日本に散在する主要な古墳は,そのすべてが「天皇家の祖先のものだ」という私有意識を強烈に抱いているからであった。

 

  天皇家と日本の古墳

 天皇陵の問題性は,一般論としてつぎのように説明できる。

 イ) 天皇陵に治定されている墓(古墳)が,本当に実在した天皇の「誰の墓なのかどうか」を調べるための学術的な発掘がまともになされず,つまり,専門研究的に調査されないのであれば,そう簡単にはどの天皇のものなのか特定できるわけがない。したがて,宮内庁の治定には多くの〈指定違い〉が含まれている。

 ロ) 明治時代になってから,当時の学問水準で天皇陵の名前が強制的に,つまり学術研究の立場・視点とは無縁に決められていた。だから,21世紀になって今回実施された「牽牛子塚古墳の発掘調査」は,斉明天皇に関する天皇家の比定・治定が実のところ,「まったくのデタラメ」であった〈事実〉を教えた。

 宮内庁関係者の立場からすれば,その事実を報道する新聞やインターネットの記事には目をおおいたくなるし,またテレビ・ラジオなどに流れるニュースには耳を塞ぎたくなるはずである。

 ハ) 日本国政府の一組織である「宮内庁」は,天皇陵の発掘調査は,けっして直接てがけようとはしない。それでいて,陵墓への考古学者の立ち入りを基本的に拒否している。その理由は,天皇家の私物=私有財産に手を付けるな,あるいは故人の霊を騒がし・乱すような行為となる発掘調査はするな,というものである。

 しかし,この ハ)  のような理屈=主張は,もとより〈奇妙奇天烈な発想〉による「身勝手な要求」である。天皇が《日本国・国民の象徴だ》というならば,この天皇の祖先が歴史的にどのように暮らしていたのか調査する作業の必要性は,憲法上,つぎのように考えられる。

 それはまず,この天皇を総意によって選んだはずの「日本国および日本国民」の〈当然の権利〉である。つぎにまた,その発掘からえられた「〈事実〉の全体」に接し,その「詳細も知らねばならない」ことは,日本国国民にとっては〈当然の義務〉でもある。

 天皇家の人びとが京都御所に密かに暮らし,自分たちの祖先の墓守をしながら生活しているとすれば,いったいどれほど,祖先の墓=「陵墓」を把握・維持・存続できていたかを想像すればよい。

 おそらく,江戸時代より以前のままに,ほとんどなにもしらぬ状態をつづけてくるほかなかったと思われる。かといって,いま天皇家の陵墓だと認めているつもりの多くの墓は,歴代に実在した各天皇に一致していない。考古学的・歴史学的な実証(検証の作業)を,科学的な次元において適用されていない。

 いわば「まがいもの」の陵墓治定がまかりとおってきた。宮内庁は,天皇家の祖先たちの墓を,それも独自・別個にデタラメに決めていておいても「恬と恥じない」だけでなく,他所の墓があらためて科学的な発掘調査の手順を経て,いついつの,どこそこの「本当の・本物の天皇(家)の墓だ」と判ったとしてもこれを認めない。

 宮内庁は,古墳問題に関する歴史理解に関して頑迷固陋な態度,換言すれば非科学的に立場に終始する姿勢を固持(誇示?)してきた。また,その必然的な結果だが, “破廉恥とまで非難されていい歴史認識” を堂々と提示しつづけている。

 さて2009年に,朝鮮民主主義人民共和国平壌で,5世紀ごろに築造された大規模な高句麗画古墳が発見された。関連の報道を紹介しておく。〔 〕内補足は本ブログ筆者。

    平壌に大規模高句麗古墳  日朝が初の本格合同調査 ☆

 

平壌共同】 北朝鮮平壌市楽浪区域で昨〔2009〕年,5世紀ごろに築造された大規模な高句麗壁画古墳が発見された。共同通信社は〔2010年〕8月14日までに学術調査団を現地に派遣,北朝鮮の社会科学院考古学研究所と合同学術調査を実施し,崩落を免れた天井や壁のほぼ全面に壁画やその痕跡を確認した。

 

 平壌近郊などに分布する高句麗古墳群のうち,旧楽浪郡中心地域での壁画古墳発見は初。古代東アジアの歴史や文化交流,絵画史などを考察する上で第一級の史料となりそうだ。北朝鮮側は「東山洞壁画古墳」と命名。今後,国宝に指定,国連教育科学文化機関に世界遺産登録を追加申請する方針。

 

 日本と北朝鮮による本格的な合同学術調査は初めて。日本から東大の早乙女雅博大学院〔准〕教授,サイバー大青木繁夫教授の研究者2人が参加。同古墳は,石室を覆う墳丘も残っていて直径約35メートル,高さ約8メートル。石灰,炭,赤色粘土が交互に積まれた構造が初めて確認された。約16メートルの墓道の先に南南東に開いた古墳の入り口と羨道があり,長方形の前室と遺体を安置する後室が狭い通路でつながっていた。 

 注記)http://www.47news.jp/CN/201008/CN2010081401000450.html

 7世紀の「牽牛子塚古墳」(日本)と5世紀のこの「東山洞壁画古墳」(朝鮮)とあいだには,歴史的な関係があるのか・ないのか,本ブログの筆者がよくなしうる論及ではないので,つぎのような論点に話を移そう。

 今回発掘された「牽牛子塚古墳」だけでなく,日本国内では多くの古墳の存在が新しく確認され,調査も進展している。日本の天皇陵は本来,国家の文化遺産・国民の共有財産である。

 だから,宮内庁のいいぶんのように「天皇家の祖先を霊を祀る神聖な場所」は「調査研究の対象とすべきでない」とふうに,いくらかは筋が通るかのようで,実はまったく意味の通らない屁理屈を申したてるのは,妄説ないしは暴論のたぐいだとしか受けとれない。

 先述のように「天皇は日本国および国民の象徴である」と規定されているなかで,この天皇天皇制にかかわる「国家の歴史的な文化遺産である〈墓〉」を,宮内庁はデタラメに治定している。それでいながらも,国民に対して〈平気の平左〉でいる。これは許しがたい傲岸不遜の対応であり,頑迷固陋の姿勢である。

 

  天皇家あるいは宮内庁がひどく恐れる事態

 1) 触らぬ神に祟りなし

 考えてもみよ。古墳の築造は,歴史の記録にその名も残すこともない〈数多くの民衆〉が,多くの労苦を強いられて造りあげたものである。宮内庁は「天皇陵」を「立入禁止」し,「学術的調査を実質,いっさい拒否」している法的根拠は,いったいどこにありうるのか? すべての天皇陵はすべて調査の対象にされ,その歴史的記録を学術的に制作しておく必要性がある。

 宮内庁側の認識は,単に「一般常識」的に〈天皇家の墓〉という認識で留めておきたい。だが,天皇天皇一族はあくまで,日本国の法律・政治的な制度のひとつである存在であるから,そのようなこじつけに類する理屈をもちだしては,あたかも「うちのお墓を勝手に荒らす」のは絶対にやめてほしいなどと強調する態度は,本末転倒である。

 そもそも,天皇およびこの係累たち自身が,こうした天皇陵の問題について明確に発言せず,そして皇室会議も具体的に言及しないのは疑問である。明治に入ってからの天皇たち(孝明天皇以後)は,古代史に登場した巨大な古墳に似た墓(陵墓)を建造してもらい,死んだあとはそこに埋葬されてきた。

 ※-1 まず「大正天皇夫婦・武蔵野陵」(中央)と「昭和天皇夫婦・多摩陵」(右側)が写っているが,その大きさの違いに注意したい。これらの左側(西方)に木々を伐採して整地されている敷地が写っている。ここが「平成天皇夫婦の陵墓が建造される予定地」である。

 

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 ※-2 つぎに※-1を中心部分に縮小してみた東京都八王子市の部分的な画像,下部にJR高尾駅がみえ,中央自動車道が右上から左下に通っている。

 

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  ※-3 平成天皇夫婦のために予定されている「陵」の設計図はすでに準備されている。説明のために参考となるその予想図を紹介しておく。

 

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      出所)『日本経済新聞』2019年3月9日朝刊38面「社会」

〔本文に戻る→〕 宮内庁はもしかすると,天皇陵の学術的調査が「天皇家朝鮮半島との歴史的に密接な関係」を,より鮮明にする事態が世間において話題になることを恐れているのか?

 平成天皇は,桓武天皇が韓国・朝鮮人の子孫であることを,いまさらにように表明したことがある(2001年)。

【参考記事】

Newsweek 「天皇家と朝鮮」

 本ブログの筆者にいわせれば,日本のマスコミがほとんどとりあげなかったその天皇発言は,21世紀に向う「平成天皇の皇室生き残り戦略」としての戦術的な口上の一言であったゆえ,これには注意してその意味を受けとる余地があった,ということになる。

 平成天皇のこのラブコール的な「韓国・朝鮮には遠い昔,親類がいました」という発言は,日本のマスコミにほとんど無視された。だが,日本以外の各国マスコミは大きく報道し,話題にもなった。

 f:id:socialsciencereview:20210612080330g:plain  付記)『ニューズウィーク』日本語版,2002年3月20日号。

 とくに,韓国の一部マスコミは「皇室は韓国人の血筋を引いている」とか「皇室百済起源論」などとか報道し,当時の大統領金 大中は,年頭記者会見でこの発言に対して歓迎の意を表した。こうした韓国側の好意的な反応は,平成天皇の発言が「皇室戦略的に成功した」一部の成果といってよい。

 なお,桓武天皇は諱(いみな)を「山部(やまのべ)」といい,母が百済帰化人の家系出身高野新笠(たかののにいかさ)であった。明仁天皇が「皇族にも韓国の血が入っていて,親しみを感じる」と述べて話題を呼んだ。

 だが,その発言には,日本の皇室を東アジア圏域にまで拡延的に位置づけ,そして意義づけて,天皇一家の日本における地位・威厳をより高め,確固たるものたらしめんとする彼の〈隠微な意図〉を,われわれは読みとらねばならない。

 また,山部皇子は帰化人の血のせいか体格がよく,「天姿嶷然(ぎょくぜん:堂々として背が高いこと)」と形容されている,けれども,いまの天皇そしてこの父は,その血統・遺伝子からはすっかり縁が薄れた体躯になっていた。

 昭和天皇を核心においてみればよく判るように,天皇一族関係の生殖力(Y染色体?)が顕著に劣化・低下してきた歴史的な現象は,皇室内的な生物史の事実そのものである。明仁の息子夫婦2組からは男子が1名しか生まれていない。この現実は,そうした遺伝学的な資質が歴然と尾を引いていることを如実に物語っているのかもしれない。

 ところで明治天皇は,いったい何人の側室をかかえていて,いったい何人の子どもを儲けていたか? 大正天皇:嘉仁をなんとか世継ぎ(男系天皇)として残すことができていたが,成人まで育った男子はこの1人だけであった。

 2) 天皇の発言は「日本の民主化」に寄与するか?

 京都大学名誉教授の上田正昭は,『日本神話』岩波書店新書,1965年,『新版 日本の神話』角川学芸出版,2010年として再刊のなかで,天皇家に朝鮮の血が入っていると述べたところ,それ以来,右翼団体に「売国奴」などと脅迫されつづけたという。

 ところが,この平成天皇の「おことば」以降は,脅迫がさっぱりなくなったと語っているそうである。この話には「ひとまず,笑って済ませられる要素」と「再度,今後に向けて考えておく要素」との二面性が含意されている。

 それは,日本の民主主義にとって「天皇天皇制という前近代的な政治制度」が「日本国民たち」に対して有する,その逆説的な「反民主主義的な政治精神」を意味してきた。天皇に一言いわれたら,あの右翼連も黙って引き下がるという「天皇と〈臣民(?)〉の関係」が存在する。日本国内では「皇室と国民の間柄」における〈異常・異様なる政治的意識〉という実体が,いまだに健在である。

 もっとも,論者によっては,水野俊平〔韓国の元全南大学日本語学科客員教授,現在は北海商科大学教授〕のごとき,つぎのような意見もある。

 水野は,朝鮮半島からの渡来人による古代日本における影響の大きさを認めつつも,彼らの日本社会への同化の程度も大きく(生母の高野新笠百済系渡来人の武寧王から10代目であり,しかも6代前に日本名(和氏)にして帰化もしている),はたして,彼らをして「韓国人」とみてもよいかどうかという疑問を投じている。 

 注記)以上は,http://ja.wikipedia.org/wiki/桓武天皇・水野俊平なども参照しつつ記述。

 ここでもわれわれは,平成天皇の「隠微なる意図」を読みとるべき事由がみいだせる。だが,水野のいう内容では,古代史において「渡来人による古代日本における影響の大きさ」と「日本社会への同化の程度の大きさ」とが,いったいどのように関連づけられて解釈されればよいのかという「この論点」については,一方的な断定しかうかがえない。

 平成天皇の「桓武天皇は祖先である」という発言のなかにしこまれた「天皇天皇家の版図拡大」への〈陰謀的な意図〉を,われわれは注意深く観察しなければならない。平成天皇の発言ひとつで,カタツムリではないが「簡単に角を引っこめる」ような軟弱な日本の右翼も,右翼である。結局,右翼の彼らにおいては〈特筆すべき思想も理論もない〉ことだけが,あらためて明確になった。

 

  伊藤博文明治天皇以下

 1) 伊藤博文の歴史的な役割

 新人物往来社編『伊藤博文直話-暗殺直前まで語り下ろした幕末明治回顧録-』(新人物往来社,2010年4月)を読んだが,この本のなかで伊藤博文はこういっていた。

 日本の古来の歴史を読んで,日本の国体に・・・いずれが適するかといったら,適するではない,すなわち日本は本来,主権君主にありという国なのである。一天万乗の天子は主権を固有しておられるからこそ,一天万乗の天子である。

 

 京都に屈んでいて,虚名を擁し,日本全国の政治が鎌倉でおこなわるるとか,江戸でおこなわるるならば,君主の名あって実(じつ)なきものである。これ,王政復古のなさざるべからざる所以である。王政復古のはすなわち主権の復古である(253頁)。
 
 政治は,人権を全うせしむる所以の方便である。この政治をおこなうには,君主政治の国においては,君主1人の意に任じ,立憲政体の国においては国民をして政治に参与せしむる,これを参政の権利という。すなわち人の政権である(270頁)。

 

 日本国は金甌無欠の皇室を中心として,政治を施すにあらざれば,とうてい国民の一致を保ち,国運の伸長は図られない。したがって,忠義の二字を心に体する者にあらざれば,真に国家に貢献することは不可能である(271頁)。

 伊藤博文は,民主主義と君主主義の違いをいちおうはよくしったうえで,このように明治の体制を発進させることにした。しかも「神格化した天皇」を頂点に置いておき,帝国運営の道具・手段=《玉》に使う基盤を創った。しかし,「金甌無欠」であったはずの日本帝国は1945年に壊滅したはずであるから,天皇天皇制を残す理由もなくなっていたはずでもあった。

 その論点はいったんさておくとしても,そもそも「伊藤の国体論とは」19世紀後半における「国際社会のなかでの主体的かつ協調的なアクターたりえる独立国家を弁証するための方便だったのではないかとすら考えられる」と指摘したのは,瀧井一博『伊藤博文-知の政治家-』(中央公論新社,2010年4月,95頁)である。

 当時,日本が囲まれていた国際政治情勢のなかで,伊藤博文が最善・最良・最適と判断して採用した日本帝国の政治体制は,帝国の臣民に明治天皇を神と崇めさせ,民主制的な政治意識,すなわち「〈人民:people〉としての意識」をもたせずに,そらせておかねばならなかった。

 日本帝国はその出立の時点からして,早くは1874〔明治〕7年に始まった自由民権運動など〈民主主義の要求〉を徹底的に弾圧し,圧殺する方向でしか国家運営を定めるほかなかった。伊藤之雄伊藤之雄-近代日本を創った男-』ミネルヴァ書房,2009年は,「明治天皇の厚い信頼を受け」ていた「伊藤」博文(542頁)を,こう説明していた。ここでは,吉田松陰から伊藤博文が学んだ2点が挙げられている。

 a) それはまず「既存の体制を否定し,変革するために,藩主や天皇という絶対的なものを設定する論理である」(30頁)。「伊藤は」「天皇を『忠誠』の対象として,明治初年から廃藩置県を主張し」「立憲国家の作る考え」を示しえた(31頁)。

 

 b) それはつぎに「天皇のいうことに単に服従して従うのではなく,天皇が『世界の大勢』を踏まえた,あるべき君主になるように天皇を教育し,明君としての資質を引き出した上で,天皇との信頼関係を基に,政治をおこなっていこうとする態度であった」(31頁)。

 この2つ「論理」(政治思想)が端的に語っているのは,天皇の役割に関して〈玉:タマ〉と〈玉:ギョク〉との使い分けを,基本で期待していた事実である。「伊藤は明治天皇の厚い信頼を受け」ていたという事実は,今日的な視点から観察するとき,どのように解釈されるべきか?

 ちまたに流布してもいる「睦仁:明治のすり替え説」などに言及する以前の段階において,伊藤博文が睦仁天皇に対しては〈政治的上位〉に陣取れていた歴史的事実がある。この点に十分注目しておく余地がある。

 2) 歴史の捏造を糺す

 明治維新にともない,〈明治の政治家たち〉が必要とした帝国主義体制的な「天皇天皇制的な君主政治」の手法は,敗戦後も宮内庁の陵墓政策に色濃く投影されている。これほどの時代錯誤もない。語るに落ちてしまった,それも実に時代錯誤で,幼稚で低劣な政治姿勢が,いまなお宮内庁のなかに浸潤している。それは,宮内庁における抜きがたい,封建的な残存の実体を意味する。

 平成天皇は,このような宮内庁の歴史的な体質をしらないわけがない。とはいえ,この体質をどのような方途にせよ是正・修正させることは,平成天皇にとって,はたして可能なのであろうか。

 伊藤博文的に,きわめて政治的な〈旧套の歴史観〉を少しも払拭できていない,いいかえると,けっしてそうしようとはしない宮内庁,そして平成天皇および皇室一族に対しては,ここで,家永三郎津田左右吉の思想史的研究』岩波書店,昭和47年の論述を利用し,こう語りかけておきたい。

 「天皇皇室は全国民の大宗家で,天皇は全国民の大氏であらせられる」というような「記紀の説話の筋に従って」「歴史教育を受けた日本国民の上代史についての知識は」,津田左右吉による詳細をきわめた研究が「根底から覆そうとするものであった」(297-298頁)。

 津田左右吉記紀に関して批判した「日本・天皇(大王)・昔話」の本性を,われわれは忘れてはいけない。戦争の時代,日本の帝国主義的侵略路線が狂躁をきわめる時期になるや,津田左右吉の諸著作が発禁処分を受けた事実は,なにを意味していたか?

 明治以来の官許的な歴史研究は,韓国だとか朝鮮だとかの「歴史的に深い関係」を完全に排除したところに成立させられていた。だから,平成の天皇が「朝鮮と日本の皇室との歴史的な血統・親戚関係」を口にしたことは,同時にまた,「明治謹製」になる天皇史観に向かい彼みずからが諸刃を振りまわす行為を意味した。

 確かに,その片刃が「日本の右翼」を切り,黙らせる効果を挙げた。けれども,その反対側の片刃は,日本の皇室自身に向けられるほかない必然:宿命にある。

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日本における大学院教育の問題,はたして「21世紀の世界に通用する高等教育のあり方」になっているのか

             (2010年8月28日,更新 2021年6月14日)

 「日本の大学院が授与する学位(博士号)の実価」をあらためて考える,経営学の分野にみたその一事例に関する批判的感想,消化不良の未熟な博士論文が横行する日本経営学界での理論水準

 

  要点・1 博士号を積極的に授与するのは好ましい傾向(文教政策)であるが,中身に問題ありというかあまりにも水準の低い論文にもその学位を授与するのは,要警戒

  要点・2 博士号を授与された論文を1冊の著書にして公刊できないような「学位論文」では,問題あり

 

 🌑 前  言  🌑

 1)   高等教育機関における学生の状況(事前に考えたいほかのポイント)

 日本の大学学部の入学者数は2000年ころからほぼ横ばいに推移していたが,2014年度を境にやや増加し,2019年度では63.1万人となった。

 また,大学院修士課程の入学者数は2010年をピークに減少に転じた。2015年度を境に入学者数が増加していたが,2019年度では減少し,大学院修士課程入学者数は7.3万人となった。また,社会人修士課程入学者数は全体の約10%であり,割合に大きな変化はみられない。

 大学院博士課程の入学者数は,2003年度をピークに減少傾向にあるが,2018年度,2019年度は前年度から微増している。2019年度は1.5万人である。社会人博士課程入学者数については継続して増加している。全体に占める割合は42.4%と2003年度と比較すると約2倍となった。

 大学院修士課程修了者の進学率は減少傾向が続いており,2019年度では9.2%である。分野別で見ると「社会科学」「理学」「人文科学」の減少がいちじるしい。社会人博士課程在籍者を専攻分野別にみると,「保健」系が約6割を占め,長期的にもいちじるしく伸びている。

 「工学」系は,2008年度頃から漸減,他の専攻分野はほぼ横ばいに推移している。社会人以外の博士課程在籍者でも「保健」系は多いが,2000年度から2008年度にかけて大きく減少し,その後も漸減している。

 他の専攻分野では,「工学」系は2010年度ごろまでは緩やかに増減を繰り返し,2011年度から微減に推移している。その他の多くの専攻分野では減少傾向にある。

 註記)「高等教育機関の学生の状況(ポイント)」『文部科学省 科学技術・学術政策研究所(NISTEP)』https://www.nistep.go.jp/sti_indicator/2020/RM295_32.html

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     補注)この図表については,該当する年度ごとに,それまで減少してきた18歳人口との相対的な関係性も考慮した吟味が必要である。もっとも,日本に似て出生率の低い先進国も多くあるゆえ,その18歳人口の現象傾向を絶対的に関連のある統計数値として受けとる必要はない。

 日本の場合,前世紀最後の1990年代から定員を拡大させてきた大学院重点化計画の実施は,ほぼ失敗に終わったと判定されてよい。本日のこの記述は,各論としては経営学分野に関する分析・批判を試みているが,その前に総論の概説を つぎの 2)に記述しておくことにする。「日本の大学院問題」の具体的な事例問題を論じる前に,ひととおりはしっておきたい関連する全般的な事情・経過が,的確に説明されている。

 なお,本日ここに復活させた文章は,2010年8月28日付きであったが,つぎの 2)に引用する文章は,そのほぼ4年後に書かれており,本ブログ筆者の記述した内容がけっして的外れではなかった点を支持してくれていると考えたい。

 もっとも,21世紀に入ってからは,日本の大学院問題をめぐる問題=困難は,それほどむずかしい議論など必要もないほど明白になっていた。日本におけるノーベル賞受賞者は,21世紀になっていままで,かなり多数を輩出してきた。ところが,当の受賞者たちが「これからの日本(人)研究者」からはノーベル賞が出なくなる〈おそれ〉が強くあると警告している。そのほどに,日本の大学院を中心した科学技術研究体制の現状は危ぶまれている。

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 2)「大学ランキング 2015年版,特集 大学入試はどうなる」週刊朝日〈進学 MOOK〉』朝日新聞出版,2014年4月25日。

 a) 1990年代の大学院重点化政策は文部科学省の失政だった。大学院の増設によって院生を増やし,学位を授与したところで,就職口のない大学院修了者の構造的過剰供給状態をもたらした。博士号をもっていても路頭に迷う「高学歴ワーキングプア」だ。

 大学院重点化は,「高度の専門的知識・能力の育成」をもめざしており,専門職大学院をつぎつぎとつくったが,法科大学院の例にみるように,これも失敗だった。日本社会が院生の受け皿を増やしてくれるだろうという文科省の楽観的な予想は裏切られたのである。

 補注)そのほか,会計専門職大学院の衰微状況も目立っている。1990年代以降の日本は「失われた10年」を3回も繰り返してきたと理解されていい。もちろん,その10年ごとに関した経済社会のあり方の理解については,あれこれ議論の余地あるものの,なかでも最後の2010年代はアベノミクスからスカノミクスに継承されていく「日本国を破壊していく政治過程」が,これでもかというまでに展開されてきた。

 最近における日本は「いまや先進国ではない」し,むしろ「後進国になり下がり,多くの国民たちが貧困に苦しむ状況を克服もできない」でいる,と指摘されてもいる。というよりは,そうした現状を本気で改善しようつする気などまったくない「凡庸以下の為政者」(安倍晋三・菅 義偉)の連投のせいで,この国はヘタレて(破壊されて)いくばかりである。

 さて,2019年12月時点まで「会計大学院協会」に所属する会員校・賛助会員は,つぎのように推移してきたという。年次は開設年である。

 北海道大学大学院経済学研究科会計情報専攻,2005年
 東北大学大学院経済学研究科会計専門職専攻,2005年
 早稲田大学大学院会計研究科会計専攻,2005年

 明治大学専門職大学院会計専門職研究科会計専門職専攻,2005年
 青山学院大学大学院会計プロフェッション研究科会計プロフェッション専攻,2005年

 千葉商科大学大学院会計ファイナンス研究科,2005年

 LEC東京リーガルマインド大学院大学高度専門職研究科会計専門職専攻,2005年
 大原大学院大学大学院会計ファイナンス研究科,2006年
 関西学院大学専門職大学院経営戦略研究科会計専門職専攻,2005年

 兵庫県立大学大学院会計研究科会計専門職専攻,2007年
 熊本学園大学大学院会計専門職研究科アカウンティング専攻,2009年

 

   ※ 以下はすでに学生募集停止した元会員校 ※ 

 愛知淑徳大学大学院ビジネス研究科会計専門職専攻,2007年(2010年学生募集停止)
 愛知大学大学院会計研究科会計専攻,2006年(2014年度学生募集停止)

 法政大学専門職大学院イノベーション・マネジメント研究科アカウンティング専攻),2005年(2015年度学生募集停止)
 甲南大学大学院社会科学研究科会計専門職専攻,2006年(2015年度学生募集停止)

 立命館大学大学院経営管理研究科アカウンティング・プログラム,2006年(2015年度学生募集停止)
 中央大学専門職大学院国際会計研究科,2002年(2017年度学生募集停止) 

 以上,ウィキペディアに出ている関連情報である。本ブログ筆者はたまたま,このなかでも会計専門職大学院を廃止したうち,それも複数の大学の教員にしりあいがいたが,それらの大学院は新人の若者を教育するよりも,社会人(企業人・実務家)の再教育のための機関になっていたと教えられた。

 経営系の大学院教育の現状についても,こちらは会計系の事情と同じではないものの,共通する難題に直面してきた。経営学という学問が,社会科学としての「理論と実践」の間柄をどのように形成し維持しながら,大学院水準の教育をしていくのかに関しては,いまだに議論(そのための範型)が煮詰まって形成・準備されていない。

 文献資料としては若干年度が以前のものになるが,たとえば,『IDE 現代の高等教育』No.552,2013年7月号に掲載された,慶應義塾大学大学院経営管理研究科委員長・教授慶應義塾大学ビジネス・スクール校長河野宏和の寄稿,「今月のテーマ 大学院の現実」掲載(pp.28-34)1「経営系専門職大学院に未来はあるか?」は,一読したところ隔靴掻痒の感を否めない。なにをいいたいのかまだ判然としなかった。

 法科大学院の失敗と同じではないけれども,とくに会計専門職大学院のほうは,撤退を余儀なくされた大学,それも大学それじたいとしては,ほとんどが一流どころが設置した専門職系の大学院であっても,そういった顛末になっていた。この結果は,最初の時点(大学院重点化政策という原点)にもどった再吟味を要求している。

〔『週刊朝日〈進学 MOOK〉』記事に戻る  ↓  〕

 b) 日本の社会はメリトクラシー(資格社会)ではない。企業,官庁,自治体は学位をもつ者より,学部卒を選好する。修士号,博士号の取得者を採用しても,学位は評価の対象にならず,給与体系は学卒何年目と同じ。要する,学位の価値を認めていないのである。

 だから「就職先がない大学院生に自己責任を問うのは酷」という理解も示されている。

 b) 一方,大学院は定員充足を迫られ,受け入れのハードルを下げたところ,さまざまなレベルの大学院生が生まれた。英語文献はおろか,日本語の専門書も満足に読めない者もいる。研究者としての資質を疑わざるをえない者もいる。これでは,進学しても学位取得までの道のりは遠い。一部の大学で学位の粗製濫造が起こっているとも聞く。大学院生にすれば,苦労して学位を取っても就職先がない。

 補注)本ブログ筆者も複数聞きおよんでいる話題であったが,大学院で,それも後発系の非一流大学の修士課程においては,「日本語もろくに分からない〈留学生〉」や,日本人であっても「ご同類の日本人」の大学院生もかかえていたという。ここまで極端な事例は多数派ではないにせよ,まるで「大学(院)崩壊」という文字を想起させる。

 大学院生の供給が過剰となり,就職難と研究者養成のレベル低下が起こった。今日の事態は十分に予想されたことである。しかし,国はなんら責任をとろうとしない。文部科学省は失政を認めて,速やかに戦後処理をすべきである。

 では,どうしたらいいか。大学院の定員を絞るしかない。撤退あるいは縮小すればいい。法科大学院の一部で定員割れが起き,司法試験合格率低迷を打開するため統廃合が進んでいる。これに倣って,大学院も淘汰したほうがよいだろう。

 c) 大学院重点化政策のいちばんの被害者は大学院生である。彼らの自己責任を問う向きもあるが,それは酷である。政治の都合で増やした大学院,その失政を大学院生のせいにするのは責任転嫁以外のなにものでもない。

 文科省は当初,大学院重点化政策に際して,博士号の学位取得期間に5年という目安を立てていた。博士号の取得期間は分野によってばらつきがある。理系と文系でも違うし,人文系と社会科学系でも違う。学位の要求水準によっても差が出る。学位授与のハードルを下げた場合,「この程度の論文で学位が取れるのか」という情報はただちに世界的に流通するから,学位論文の品質管理も重要だ。

 補注)この「学位論文の品質管理」という点については,新制度のもとで博士号を取得・授与された人の執筆した論文を,実際に「採用人事」のために読んだ本ブログ筆者の体験に照らしていうと,はっきりいって水準にも達していない者がいた。

 なかには〈習作〉の水準にしか妥当しえない博士論文があったり,また社会科学の方法論として「演繹と帰納」の概念駆使がうまくできていないそれもあったりで,せっかく時間を割いて読んでみたところで,さっぱりこちらの勉強にもならないような博士論文の出来具合(駄作以下?)では,率直にいうに単なる「時間の無駄」であったと感じた。

〔記事に戻る→〕 しかし,それは同時に研究者としての就職活動がむずかしくなることを意味する。学位が研究歴の到達点であったドイツ型から,キャリアのスタートラインの資格条件となったアメリカ型への転換にともなって,学位がないと就職活動すらできなくなった。学位がなかなか取れないまま,年齢を重ねてしまい,非常勤をつないでその日暮らしを送る者もいる。

 学位の品質管理のきびしい大学ほど学位取得のハードルが上がり,就活市場で不利になるというディレンマもある。なかには,ゴールのみえない博士論文に取り組むよりも,目前のテーマでてっとり早くメディアで発信する若手もいる。研究者としてスタート地点にも立っていない彼らを,安易に消費するメディアにも責任がある。まずは,博士号をとってからだ。

 だから「博士論文に対して出版助成を積極的におこなう」べきだという意見も提示されている。

 d) 学位は,授与した大学名で評価が違うわけではないが,結果として,旧帝大系の大学院修了者のほうが,論文の生産性が高く,キャリアパスにつながるケースが多い。こうした大学のよいところは,大学院生の定員が相対的に大きいことである。

 2ケタ以上いれば,ピア(peer,同じ分野に取り組む同輩の研究者)から知的な影響を受けられる。たがいの研究情報を交換して批判しあったり,徹底的に議論を交わしたり,励ましあったりできるピアの教育力は,教員のそれに劣らず大きい。

 一方,小規模大学で定員が少なく,ピアが1人,2人の環境で研究を続けるのは,よほど強い意志をもたないとむずかしい。また,地方大学ではなく首都圏の大学にいることは,学位論文を刊行するため,編集者や出版社へのアクセスが大きいことも,有利な点だ。

 e) ところで,大学院重点化政策ではよいこともあった。学位取得へのプレッシャーが強まるなかで,もっとも生産性の高い年齢に大きなテーマに取り組むことで,内容の充実した学位論文がつぎつぎに生み出されたことだ。

 最近の社会学分野での成果には,佐藤雅浩(小樽商科大准教授)の『精神疾患言説の歴史社会学』2013年,新曜社福岡愛子の『日本人の文革認識』2014年,新曜社,などがある。いずれも博士論文がもとになったものだ。就職していればこれだけの重厚な著作は書けなかっただろう。

 補注)本ブログ筆者も,公刊されていて実際にたまたま一読した著作のなかに,そのような経歴の著者がいたのをしって,感心したものである。だが,残念ながらそうではない事例のほうが多い。

 大学院生にとっては学位のみならず,単著があることは,ジョブ・ハンティングの上で大きな武器になる。しかし,出版不況のもとで本は売れず,ましてや人文書の出版を引き受けてくれる版元は少ない。大学は「製造物責任」を果たすうえで,学位授与の証として博士論文に対する出版助成を積極的におこなうべきだろう。

 補注)大規模大学を中心に自学内に出版部門をもつ大学も多くある。そこで,全国的に統一された「博士号取得論文」出版のための公的な機関があってよいと考える。もちろん,この機関がある種の査読機能を担わされる点も想定されるはずである。

 アカデミック・マーケットのよいところは,業績評価の公平性が期待できることだ。職がなくても単著があれば,大学院生に大いに励みとなり,レベルも向上する。大学院重点化政策の失政を大学がフォローする意味でも検討してほしい。(引用終わり)

 要するに,1990年代に開始された大学院重点化政策が生んだものは,日本の大学院教育の単なる水増し化:肥大化であった。その教育の内容は,いちじるしく水準を低下させており,なんのための大学院の増設・拡大政策であったのかという疑念を抱かせた。

 なかでも法科大学院制度の失敗は,この制度が開始された2004年度から2005年度の2年間で最多の74校が設置されていたものが,2020年度になって学生を募集した法科大学院になるとその半数近い35校が消滅していた事実において,明白であった。文部科学省は当初から,法科大学院の設置を野放図に認めてきたのである。

 以上,本日:2021年6月14日から振りかえってみる「日本の大学院教育」の実際的な様相であった。大学院重点化政策が開始されてから20年が経ったが,この過程のなかで日本における大学院教育定員が大幅に増えた。とはいえ,その質的な学術的水準は「理論と実践」の領域に関して,低空飛行を余儀なくされてきた。

 つぎの ② に進む記述の内容は11年前のものある。だが,現時点にも妥当する議論をしていたと自認する。ここまでの ① の記述が概論だとしたら,② の記述は各論の一例となる。 

 

  粗製濫造の博士号授与を奨励した文部科学省の拙政,その場しのぎの高等教育政策

 1) 文部科学省の姿勢

 文部科学省のホームページをのぞくと,「新時代の大学院教育の展開方策」という項目のなかに「円滑な博士の学位授与の促進」という細目があった。その日付は 2005年9月時点のものである。まず「課程制大学院制度の趣旨の徹底を図るとともに,博士の学位の質を確保しつつ,標準修業年限内の学位授与を促進する」と謳い,その具体的取組を以下のように説明していた。

  「各大学院における円滑な学位授与を促進するための改善策等の実施(学位授与に関する教員の意識改革の促進,学生を学位授与へと導く教育のプロセスを明確化する仕組みの整備とそれを踏まえた適切な教育・研究指導の実践など」。

 

 「各大学院における学位の水準の確保等に関する取組の実施(学位論文等の積極的な公表,論文審査方法の改善など」。

 

 「国による各大学院の学位授与に関する取組の把握・公表の実施」。

 そして「現行のいわゆる『論文博士』については,企業,公的研究機関の研究所等での研究成果をもとに博士の学位を取得したいと希望する者もいまだ多いことなども踏まえつつ,学位に関する国際的な考えかたや課程制大学院制度の趣旨などを念頭にそのありかたを検討し,それら学位の取得を希望する者が大学院における研究指導の機会がえられやすくなるような仕組を検討していくことが適当である」とも,断わっていた。

 注記)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/009.htm

 21世紀になって顕著な傾向は,日本の大学院が博士号,それも課程修了にともなって提出させ授与する「学位としての博士」号が積極的に発行されてきた事実である。ところが,本ブログ筆者の専門領域である経営学分野だけでの話ではないが,最近授与された博士号所持者の該当「博士論文」を実際に読んでみるに,いまひとつパッとしない,つまり理論水準的にも内容展開面でもまったくさえない業績・成果が多いことが気になっていた。

 2) 「課程博士」論文の質的問題

 本ブログの筆者も最近まで(以前のこと),大学における採用人事関係や研究の必要上,大学院で学んで課程博士として学位を取得した研究者の該当論文(経営学関係)をいくつも読んできた。

 率直にその感想を述べれば,はたして「これで博士号に質的に値するのか」という疑念を生じさせる論文が大多数であった。どうやら,しりあいの大学教員たちの話も聞いて総合すると,大学院博士〔後期〕課程があるので「博士号をともかく出すために学位の博士をただ漫然と授与している」という〈時代の流れ〉が感得できた。

 すなわち,文部科学省の行政指導もあってか,いままでは博士号を出すことにおいて「あまり積極的でなかった日本の大学」の,それも文系の大学院がすすんで学位を授与するようになっている。

 また関連する背景には,大学院の新増設や大学院大学の新設の急増にみあった,いいかえれば,大学院における研究水準を維持・向上させるうえで最低限必要となるはずの資質や学力を備えた「大学院への進学者」が,必らずしても比例的に増員していなかったという事情もある。

 その結果,日本の大学院において授与される博士号の学位は,だいぶインフレ現象を来している,つまり,安易に博士号を出している現状〔乱発・乱造気味〕があり,その必然的な成果として執筆された論文の質的水準もいちじるしく低劣化している,と推測されざるをえない。

 学位規則(昭和28年文部省令第9号)にもとづき授与した学位(いわゆる新制博士)の授与数は,1992年度の 10,885件 (そのうち論文博士は 6,106件,56%) から,2002年度の 16,314件 (4,962件,30%)に増加している。これから「論文博士」を除いた「課程博士」の増加数は,1992年度の 4,779件から,2002年度まで10年ほどで 11,352件と,2.38倍の伸長ぶりを示している。

 注記)http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo0/toushin/05090501/021/003-17.pdf

 要は,簡単にいえば,「博士論文として質的に水準に達しているのか」という〈強い疑問〉を惹起させるような学位論文が少なくない。本日の記述は,この現状を端的に物語るような博士学位「論文」を,あらたに1編みつけてしまい,それもたまたま関心がある題名・内容であったがために,それを読むことになった筆者の立場からの「具体的な考察」,いいかえると「批判的な吟味」である。なお,学問的な議論を前提・意識しており,遠慮容赦なく討究を実行する。

 

  長崎大学経済学部大学院経済学研究科が授与した学位論文

 1) 先行研究に関する文献渉猟

 『「長崎大学学位論文」学位記番号:博 (経) 甲  第7号  学位授与年月日:平成22〔2010〕年3月19日』として博士号を授与された論文として,永松博志『企業の指導原理と倫理~企業倫理論の射程を求めて~』(長崎大学大学院 経済学研究科 経営意思決定専攻,平成22年1月)がある。同論文は,インターネットにその全文が公開されている。

 最初にここでは,抽象的・間接的に指定するほかないが,この学位論文の本文中では「引用されていない」はずのある文献が,なぜか「引用文献」の一覧に挙げられていた。どうしてそうなったのかについて,ここではあえて問わないことにする。

 それよりも,この永松博志『企業の指導原理と倫理~企業倫理論の射程を求めて~』の学術的な評価に関心を向けて,議論したい。まず,巻末に一覧されているその「引用文献(日本語文献・英語文献・独語文献・WEB 資料)」をのぞくと早速,疑問が出てきた。

 ひとまず,日本語文献の話にかぎった言及とする。当該「論文」の論考にさいして,どのような文献がどのような範囲にわたって蒐集され,その研究に供されていたかという観点に立ち入るそのまえに,永松博志が「枚挙している」参考文献〔←「引用文献」のこと〕に関連させて,ある指摘をしておきたい。

 2) 具体的な疑問

 たとえば,小松 章については「論稿」文献2点(1977年,1978年)が挙げられている。だが,小松の単著『企業の論理-社会科学としての経営学-』三嶺書房, 1983年は挙げられていない。

 櫻井克彦『現代の企業と社会』千倉書房,1991年は出されていても,『現代企業の社会的責任』千倉書房, 1976年,『現代企業の経営政策-社会的責任と企業経営-』千倉書房,1979年は出していない。

 たとえばまた,杉村廣蔵『経済倫理の構造』岩波書店,1938年はあっても,杉村の『経済哲學の基本問題 』岩波書店, 1935年などは一覧に出されていない。

 高田 馨『経営の目的と責任』日本生産性本部,1970年,『経営者の社会的責任』千倉書房,1974年という著書はみえても,『経営の倫理と責任』千倉書房, 1989年,『経営学の対象と方法-経営成果原理の方法論的省察-』千倉書房,,1987年,『経営共同体の原理-ニックリッシュ経営学の研究-』森山書店,1957年,『経営の職能的構造-経営分業の原理-』千倉書房,1959年,『経営成果の原理』千倉書房, 1969年などは,無関係の文献とみなされたわけでもあるまいが,登場しない。

 たとえばくわえて,「Oliver Sheldon(1894-1951) 英国人経営者で,自己の経験を基礎とした論文を発表。翻訳版では田代義範訳(1974)『経営管理の哲学』,未来社,がある」(永松,38頁,注77)と解説しているけれども,同書の日本語訳はさらに2冊ある。戦前の,蒲生俊文譯述『産業管理の哲學』人格社, 1930年,戦後の,企業制度研究会訳『経営のフィロソフィ-企業の社会的責任と管理-』雄松堂書店, 1975年。

 論稿の方面でいえば,裴 富吉の論稿「経営学と『存在論的価値判断』-藻利学説:経営二重構造に関する研究覚書-」,札幌商科大学『論集〈商経編〉』第30号,1981年を挙げていても,この裴がほかにも「藻利経営学」に関してあまた公表している論著は,なにも触れられていない。

 以上の文献渉猟に関する指摘は,永松博志『企業の指導原理と倫理~企業倫理論の射程を求めて~』の追究内容であれば,いずれも深い関連を有するものであるゆえ,あえておこなってみた。それらは,学術研究にさいして「事前の文献渉猟」をひととおりおこなっていれば,おそらく,もらすはずもない文献:論著ばかりである。それとも特定の意向があって,以上に指摘された文献は「挙げていない」というのであれば,これは筆者の杞憂であり,余計なお節介である。

 永松博志『企業の指導原理と倫理~企業倫理論の射程を求めて~』末尾の「引用文献」一覧に掲示されている論著は,一般論でいって,もの足りないという印象を強く抱くほかなかった。先行する研究業績・成果への目配りはきちんとなされている,おこなっておいた,という事実を確実に提示しておくためにも,自己の研究に関連する文献リストの網羅的な制作は,けっして軽んじてはならない基本の作業である。

 

  先行研究に配慮不足の研究は「学位論文の品質水準」に大きくひびく

 1)「藻利経営学」に一知半解の立場

 永松博志は本文の末尾で,こういいわけしている。

 本研究にあたって,価値判断の問題に関して詳細に取り扱っていないことである。本研究においては,企業倫理を,藻利により体系化された企業の指導原理を基にして,その本質を究明することを主眼として考察および内在的批判を展開してきた。しかし,藻利の所論の根幹をなすとされる,存在論的価値判断に関しては論究できていない。

 

 本来,社会科学としての経営学ならびに経済学は,価値判断を含んだ時点で,もはや科学としては有り得ないと理解される。Martin Heidegger が,かつて「ある」という存在論から哲学を展開したように,また,かつて,山本安次郎が「経営」の存在から本質論を展開したように,最初に「存在」をあるものとして,そこから考察を試みる研究方法はある。

 

 ただし,注意すべきは,その主観を絶対的なものと認識し,主観のままに「存在」を認めておくことは研究者として採るべき道ではない。その「存在」を様々な検証にかけることで,その存在の性質と全容を調べ上げることにより,その過程の先に客観性が出現するのである。経営学における存在論的価値判断に関しては,論究を深める必要があろう(140頁)。

 さて,「以上,われわれの研究の先には,難解な課題が山積している」(140頁)という永松は,引用文献の一覧のなかにかかげた裴 富吉「経営学と『存在論的価値判断』-藻利学説:経営二重構造に関する研究覚書-」〔など一連の裴による藻利経営学批判「論」〕を,まったく反映しない,つまり適切な言及も必要な反論もしないままに,以上のような断わりを最後に残していた。

 裴のような経営学研究をしてきた立場であれば,永松がいうように「藻利経営学」の「その範囲が膨大かつ多岐にわたり,その内容も深遠であることから,藻利の所論の全てを網羅しつつ,その理解力が完全であることは難しい。さらなる藻利経営学に対する探求が必要不可欠である」などと悠長に構えて済ませる事由は,なにもみいだせない。勉強不足を弁解する文句にしか聞こえない。

 すでに四半世紀以前から裴以外の各論者によっても,いわゆる「藻利経営学」に対した批判的な研究が蓄積されてきている。日本経営学史の事情に疎い研究者ならばともかくも,いまどき,そのような「自身の無知でなければ,研究不足であること」を理由にしてなのか,藻利経営学の「深遠」さの「底の浅さ」に気づかずに済ませていられる「研究者の基本姿勢」が問題にならないわけがない。
 
 2) 経営学の基本的立場が定まらぬ問題意識

 永松は「本研究全体を通して,企業倫理の研究は学際領域では無く,経営学そのものという認識を得ている」(139頁)と表白している。しかし,企業倫理の研究が学際(インターディスシプリナリー:interdisciplinary)に研究対象をとりあげることは,いうまでもない特徴である。

 「経営学からの研究視点」はもとより,学際的な接近方法を基本的な特性のひとつにとりこんでいる。この点を,永松はいかように踏まえたうえで,そのような発言をおこなっていたのか? 実に〈奇怪な発言〉であったと受けとるほかない。

 企業倫理学はそもそも,アメリカの学会次元でいえば,倫理学者たちが経営学の研究領域に立ち入ってくる方途で発生してきた。経営問題を経営学者ではなく倫理学者が研究することになれば,ここに学際的な研究の状況が生まれるのは必然である。

 経営学者たちもそのうちに,自分たち側における固有な研究課題として企業倫理の問題を研究対象にとりあげるようになった。研究対象=企業「倫理」,研究の方法=経営学となれば,この組合せにしたがい「学際的な研究の視座」が要請されるのは,あまりにも当然である。

 企業倫理の問題は経営学だけでなく,社会学でも法律学でも政治学でも,そして倫理学・哲学・思想史学からでもなんでも接近可能である。それゆえ,「企業倫理の研究は学際領域では無く,経営学そのものという認識」と断定したところで,一人決めの無意味な提言である。永松が独自に,学際領域を縦・横断的に束ねて分析しうる「経営学の研究視点」を確立しえているというのであれば,話は違ってこようが……。
 
  見当違いの問題意識-研究視点の問題性-

 1) 学説史的研究の不足・欠落のために生じた陥穽

 永松は「われわれの〔注記:このとくに頻繁に多用される修辞・表現が,実は藻利重隆流にかぶれた修辞であることをあえて指摘しておく〕研究目的は」「企業活動に関して,実践理論の確立を志向する実践科学としての『企業学』の見地から経営学を捉え,その体系化の中で企業倫理の本質を探究する」(4頁)と宣言していた。

 そのさいさらに,「企業の指導原理たる新たな営利原則による企業倫理の確立を,社会的企業活動における『経営のイノベーション』として捉え」,「その基軸にある企業倫理とは何であるかを研究し,究明することが本研究の目的である」(5頁)と断わっていた。

 ただしそのとき問題となるのは,永松が「藻利の企業管理における所論は,企業の対内的存在構造に関しては多くを論述するが,企業の対外的・対社会的存在構造に関しての言及が少ない」(7頁)と指摘するところにみいだせる。「経営のイノベーション」という用語も自明のごとく使用されているが,ここではこまかい議論はしないで,指摘のみに留めておく。

 日本における偉大な経営学説・理論を構築したと〈あまねく誤解〉されている「藻利経営学」が,その当初の構想からは大きく外れてしまっていた。つまり「企業の対外的・対社会的存在構造」,すなわち「企業の生活境遇 [Lebenslage] からの考究が少ない」(30頁。[   ] 内補足は筆者)ことに関していえば,それなりに歴史的な事情があったのである。

 実は,戦時体制期において「ナチス経営共同体論を日本国家全体主義的に模倣し,構想した体験」の大失策に懲りた藻利は,敗戦後になると「羹に懲りて膾を吹く」精神状態に落ちこんだ。そのために「企業をかこむ〈政治・経済の状況〉との関連」問題には,うかつに手出しできなくなった。

 そういう日本の経営学史的に展開されてきた「顛末:彼の理論の傷跡」が記録されている。これを視野の外に置いたまま・みない「藻利経営学の後追い的な,それも藻利称賛にのみ先走ったかのような研究」が,後学として大きな制約を受けることは「火をみるよりも明らか」である。

 2) ゴットル,シェルドン,ニックシッリュ,そしてマルクス

 永松は,藻利が「当然ながら生成・発展期のドイツ経営学などにおける Friedrich von Gottl-Ottlilienfeld (ゴットル),Oliver Sheldon (シェルドン),Heinrich Nichlisch(ニックリッシュ)を始め,マルクス経済学にも精通している」という認識を示していた。だが,これらの独・英経営学説や独経済学説が,いったいどのように「藻利経営学」に理論的に反映されているのか,永松自身のほうでは,その理解に関して必ずしも〈精通している〉わけではなかった。

 藻利の主張には確かに,本質面ではゴットルとニックシッリュ,方法面ではシェルドン,論理面ではマルクスが利用されている。これらを前提にいおう。藻利の構想は,「生活境遇  [Lebenslage]  から得られる社会的要請や制約を生活態様  [Lebensstand]  で受けとめ判断した上で,意思決定し行動するその対応能力に求める」といった,すなわち,その「企業の生活態様  [Lebensstand]  の倫理の発揮」(39頁)という論点は,藻利においてどのような時代的な変遷をたどりつつ,具体的に描かれてきたのか?

 永松は「営利原則に端を発する企業倫理の動揺が,社会的に把握されていることが当然なる状態の中にあって,社会の成り行きに敏感な・・・不安と苦悩を与えることに依拠し,それをパラドックスとして藻利が感じ取った経営学の危機」というものに言及している。こういう理解を藻利経営学にみてとるのであれば,藻利の主張が時代ごとに変質していった足跡を観察することも,きっと有意義な「経営学史」的眺望を与えるに違いない。

 つまり,藻利の主張に関して「修正営利原則として,営利性と社会性の止揚から『企業の利潤獲得能力の動態的・発展的維持』として企業維持に即した新たな営利原則を」「試論として展開した」(77頁)というさい,そこに指摘された「社会性」という概念が問題となる。永松の触れたその「社会性」とは,「企業学として企業倫理を問題にするとき,企業に課すための倫理を問うのではなく,企業が自らの倫理的価値観を持って自らを律する行動を問うこと,ここに,藻利の企業倫理に対する探求の根本がある」(96頁)と解釈されていた。

 

  戦時体制期における「藻利経営学」の発想源泉

 1) 経営学研究史における1940年問題の介在

 しかし,戦時体制期における藻利の企業学は,永松が戦後における藻利理論に限定していうところの問題,すなわち「企業の指導原理も,藻利が求めた指導原理と,今,求められる指導原理に違いが出てきたと捉える」(永松,97頁)という考えかたと,まったく同じ要領で把握できる。

 要は「戦時期において藻利理論の提唱した企業学の指導原理」は,その後〔戦後〕に求められた指導原理と違いを来していた,という事実に注目しなければならない。敗戦という歴史の出来事をはさんで,こういう事情が生じていた。

 つまり,戦時期における「社会的存在」としての「企業の生活態様」は,戦争遂行中の全体主義国家体制が「企業の生活境遇」に対して強いていた「社会的・客観的な規制」にしたがう方途をとるほかなかった。

 当時,藻利学説の理論展開もまた,その方途に正直に応じ,反映させる学問を営為していた。それは,戦時下におけるナチス流経営生物学的な「経営共同体」論という提唱がなされていた。 

 ところが,笠原はこの種の論点にはけっして踏みこまないで,ただ「暗黙の理由」という表現のなかに封印しておいた。だからこそ,その論点の究明なくしては,戦後期の藻利「経営学の基本性格」となった「企業目的論や経営二重構造論の〈相即論〉」に関する「歴史的かつ論理的な解明」は,困難をきわめていた。

 つまり,「企業の営利原則の実質的・具体的形態がすでに変容しているのに」もかかわらず,藻利「経営学」の「企業目的論」および「経営二重構造論」を,「歴史的変容における特定の形態を表す一つの理想型的論述として,把握し直すことができる」と解釈したのは,単なる過褒でしかない。藻利学説は敗戦直後からすでに,「理想型」的な理論を,歴史的観点に密着して提供できなくなっていた(24頁参照)。

 文中に登場する笠原とは笠原俊彦であるが,永松博志も,笠原俊彦『資本主義の精神と経営学』千倉書房,2007年に論及していた(永松,49頁以下)。

 2) 指導教員側の能力問題

 永松は,指導教員である菅家正瑞『環境管理の成立』千倉書房,2006年の教えを継承する。菅家は,藻利経営学の特徴である二重構造経営論=「生産管理と労務管理」との相即論に対して,「経営市民的構造」の合理化を課題とする「市民化管理」をくわえて,さらにこれらを統合するための「総合管理」という生活態様の三重構造化を論じた(永松,35頁。菅家では17-21頁)。

 「菅家→永松」におけるそうした主張の継承は,こうも表現されていた。「超越的な軌範論を介さず企業倫理を実現するには,企業の自律的活動として,社会の要請を敏感に感じ取る能力が不可欠であり,それは企業の生活境遇からの刺激を,生活態様が機敏に対応することを示す。これは今日」における「倫理とビジネスが相伴う主張」「とも整合性を持つのである」(永松,40頁)。

 藻利経営学の,非常に困難な,それも克服不可能な戦時的課題が積み残されていたが,いまだにその理論的な批判も学問思想の吟味もなされていない。それは,前段に指摘されたような「藻利の戦時理論の展開」から必然的に発生していた重要な論点であった。同じ経営学者に関する論点のとりあつかいにおいて,「戦後はあつかうけれども,戦前・戦中はあつかわない」のでは,連続性を欠き,一貫しない分析になる。

 戦時体制期において披露された藻利の学説・理論は,全体主義国家体制が命じていた「社会の要請を敏感に感じ取る能力」を,遺憾なく発揮していた。それはまた,「国家の立場」が具体的に指示するその〈社会の要請〉が描いた〈企業の生活境遇〉に「機敏に対応する」〈企業の生活態様〉論を,『ナチス流経営生物学的な経営共同体論』として戦時の企業社会向けに公表していた。

 補注;2021年6月14日 追記)増地庸治郎編『戦時経営学』巖松堂書店,昭和20年2月に藻利重隆は「経営の共同体理論」を寄稿していた。この論文がその「ナチス流経営生物学的な経営共同体論」を提唱していた。いうところの「全体的個体性の理論に,従って民族的乃至国家的経営の理論に想到することによってのみはじめて」,当時における日本の経営学が「解明し得るものなることを信ずる」(372頁)と,結論していた。

 1945年以後における藻利経営学の発展・変遷をとりあげるならば,そのまえの戦争の時代から「敗戦後にかけて転向・変成していった」その理論の展開もとりあげるべきである。それでこそ初めて,経営学史研究として必要かつ十分な包括的・全体的な考察が,藻利経営学についても可能になるのではなかったか?

 その意味で,永松博志『企業の指導原理と倫理~企業倫理論の射程を求めて~』(長崎大学大学院 経済学研究科 経営意思決定専攻,平成22年1月)は,消化不良で未熟,仕掛品的な学位論文であった。もっとも,こうした問題性が発生する背景に関しては,指導する教員たちの経営学研究能力に関しても疑問があった。

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司馬遼太郎が生前,『坂の上の雲』の「テレビ番組:大河ドラマ」化を許さなかったのは,それなりにまっとうな理由があった

             (2010年12月31日,更新 2021年6月13日)

 司馬遼太郎・作『坂の上の雲』の映像化問題を再考すべき必要に関する議論,すでに「国営放送局(権力の手先的な代弁者の言論機関)になりつつあったNHK」が,落ち目の兆候明らかである日本の「国・民」を力づけようと,明治後期からの「大日本帝国主義を万歳する番組」を制作・放送した意味は,どのような意図であったのか

 

  要点・1 日露戦争に勝った(完勝した)と信じていた旧・大日本帝国であったけれども,本当は(辛勝であり)欧米帝国主義の掌中で停戦工作をしてもらえた,というのが真相

  要点・2 結局,20世紀初頭から大国意識を抱くようになった日本は,軍国主義路線を突進したあげくに「1945年8月(9月)の敗戦」を迎えた,この「大日本帝国の〈敗戦の記憶〉」は,21世紀になってから起きた「東電福島第1原発事故」(2011年3月)および「コロナ禍」(2020年2月以後)を契機に,あらためて想起させられた

 

 

  辻井 喬『私の松本清張論-タブーに挑んだ国民作家-』2010年11月

 1) 司馬遼太郎の敗戦体験

 辻井 喬を筆名とする堤 清二(つつみ・せいじ,1927-2013年)は,日本の実業家・小説家・詩人,現在(ここでは2010年12月当時)は財団法人セゾン文化財団理事長である。西武流通グループ代表,セゾングループ代表などを長く歴任してきた人物である。

 本ブログ筆者は,辻井の本書『私の松本清張論-タブーに挑んだ国民作家-』を3分の2近く読みすすんだところで,今年〔2010年〕11月からNHK(いまでは実質,国営放送)が放映をはじめていた,その原作・脚本を司馬遼太郎坂の上の雲』に求めた同名の番組「坂の上の雲」が,話題に出てきた。辻井は,知人でもあった司馬遼太郎に関する有名な話をとりあげている。

 a) 大東亜戦争中の1943〔昭和18〕年11月,学徒出陣した司馬は戦車部隊に配属され,1944〔昭和19〕年4月,満州国の陸軍戦車学校に入校,12月に卒業すると,満州国牡丹江に展開する久留米戦車第1連隊の小隊長となった。

  1945〔昭和20〕年,本土決戦に備えて新潟県・栃木県に配属され,陸軍少尉として敗戦を迎えた。アメリカ軍の日本上陸作戦が実行されたと想定し,栃木から東京に移動・攻撃をおこなう作戦のさい予想される「市民と兵士が混乱」する事態が起きた,「そうしたばあいどうすればいいか」という疑問を,司馬がある将校が提起したところ,大本営のその少佐参謀は「轢き殺してゆく」と答えた。

 当時,22歳だった司馬は「なぜこんな馬鹿な戦争をする国に産まれたのか?  いつから日本人はこんな馬鹿になったのか」という疑問を抱いた。「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」と考え,「22歳の自分へ手紙を書き送るようにして小説を書いた」と述懐している。敗戦時の体験は,その後の作家生活の原点になったといわれる。その後すぐに図書館通いを始める。

 この a)  の記述はどこにでも書いてある司馬遼太郎に関する有名な話である。つぎの b) の記述は,辻井『私の松本清張論』から引用するかたちで紹介する。「ノモンハン事件(戦争)」1939〔昭和14〕年5月~9月での出来事である。

 b) ソ連の戦車は性能が良く,日本軍の速射砲では鋼鈑を撃ち抜けない。たちまち席巻されてしまう。ところがその実情を報告すると,「馬鹿をいうな,精神力で撃ち抜け」といわれる。それを聞いた司馬は後年,「辻井君,僕は日本はこれで敗けるなと思った」と良く話していた(辻井,114頁)。

 司馬のエッセイ『街道をゆく』(1971年9月から1996年11月,朝日新聞社,43巻目で絶筆)には,ちらちらと反戦的な感情が,日露戦争からつづいている日本の思いあがりに対する嫌悪感が出ていた。その司馬が『坂の上の雲』だけは “映像化しないで欲し い” といっていた。なぜなら「あれは演出のしかたによっては,日露戦争で勝ったことを美化し,軍国主義をあおりかねない危険性がある」からだということであった。

 2) 司馬遼太郎の遺志を踏みにじった国営放送局まがいのNHKのやりかた

 だが,現に脚本の原作に司馬遼太郎坂の上の雲(『文藝春秋』1969年4月 ~1972年9月に掲載され,単行本はまず3分冊で1973年6月~1973年8月に公刊。『司馬遼太郎全集』は第24・25・26巻)を求めて制作され,放映されていたNHK総合テレビによる放映番組「坂の上の雲」は,日露戦争を過当に美化し,明治以来の日本帝国主義軍国主義をあおる危険性を現実に発揮していた。

 その点をみずから認識していた司馬は,つぎのようなNHKとのやりとりを残していた。元NHKプロデューサーでスペシャル番組部長の経歴を有する北山章之助からの話である。

 北山章之助さんはNHKに勤務され「日本史探訪」等の制作ディレクターを長年にわたり担当された方です。司馬遼太郎さんとのお付合いも25年以上になるそうです。司馬さんと親しかった北山さんに,当時のNHK会長が「坂の上の雲」の映像化を司馬さんに了承してもらえるように交渉を依頼されたそうです。会長の頼みとあって,その場ではすぐ返事されなかったそうですが,下記のような断りの手紙を受けとったそうです。



 その後,考えました。やはりやめることにします。 “翻訳者” が信頼すべき人びとということはわかっていますが,初めに決意したことをつらぬきます。あの『坂の上の雲』を書きつつ,これは文章でこそ表現可能で,他の芸術に “翻訳” されることは不可能だ(というより危険である)と思い,小生の死後もそのようなことがないようにと遺言を書くつもりでした。(いまもそう思っています)

 

 小生は『坂の上の雲』を書くために戦後生きたのだという思いがあります。日本人とはなにか,あるいは明治とはなにか,さらには,江戸時代とはなにかということです。バルチック艦隊の旗艦「スワロフ」が沈んだときから,日本は変質します。山伏が,刃物の上を素足でわたるような気持で書いたのです。気をぬけば,足のうらが裂けます。

 

 単行本にしたときも,各巻ごと,あとがきをつけてバランスをとりました。たしかにソ連は消滅し,日本の左翼,右翼は,方途をみうしなっています。状況がかわったのだということもいえます。が,日本人がいるかぎり,山伏の刃渡りにはかわりません。日本人というのは,すばらしい民族ですが,おそろしい民族(いっせい傾斜すれば)でもあります。『坂の上の雲』は活字にのみとどめておきたいと思います。

 以上,このことについては議論なし,ということにして。

   平成4年6月23日 司馬遼太郎

 この話を紹介した人は,こういう寸評を口にしている。「司馬遼太郎さんの遺言ともいえるこの手紙,まだ,NHKに保存されている事と思います。この手紙のなかの,司馬さんの “『坂の上の雲』は活字にのみとどめておきたいと思います。” この言葉の意味をもう一度熟慮する必要があると思います。司馬遼太郎さんが大好きです。『坂の上の雲』を映像でみたい気持もまったくないといえば嘘になります。しかし,私としては,「映像化してはいけない」という気持ちの方が強いのです」。

 注記)http://blogs.dion.ne.jp/tontonton/archives/3811829.html

 

  映像化を担当していたNHKプロデューサーのいいぶん

 NHKの番組表のなかには,「坂の上の雲」の制作を担当する西村与志木(エクゼクティヴ・プロデューサー)の解説が記述されている。

   ☆ 西村与志木:「遥かな道・夢の実現」☆
 
 司馬遼太郎氏の代表作ともいえる長編小説『坂の上の雲』が,完結したのは 1972(昭和47)年とのことです。それ以来,あまたの映画やテレビの映像化の話が司馬さんのもとにもちこまれました。無論,NHKのドラマの先輩たちもその1人でありました。しかし,司馬さんはこの作品だけは映像化を許さなかった,というように聞いています。

 

 『坂の上の雲』が世に出てから40年近い歳月が流れました。そして,いまでもこの作品の輝きは変わっていません。いや,むしろ現代の状況がもっとこの作品をしっかり読み解くことを要求しているのではないでしょうか。

 

 この40年の時代の流れをみるとCGを始めとする映像表現の進化は目覚ましいものがあり,世界は新しい構図のなかで動き,日本もこれからの方向性を模索しています。司馬さんのこの作品の映像化の封印は,いまこそ解かれるべき時であると私たちは確信します。

 

 栃木県佐野の戦車部隊で敗戦を迎えようとしていた司馬さんは,避難してくる人びとを轢き殺して戦車を進めよという隊長の言を聞き「国民を守るべき軍隊が国民を轢き殺して行けという。なぜ日本という国はこんな情けない国になってしまったのだろうか」と想い,小説を志したそうです。

 

 司馬さんが40歳代のすべてを賭けた小説『坂の上の雲』の映像化は私たちにとって長い間の夢でした。その夢の実現に向けて,遥かな道へ力強く踏み出そうとしています。

 注記)http://www9.nhk.or.jp/sakanoue/about/

 補注)下から2段落目で,「避難してくる人びとを轢き殺して戦車を進めよという隊長」というくだりは,前段の記述においては「司馬がある将校が提起したところ,大本営のその少佐参謀は『轢き殺してゆく』と答えた」となっていた。解釈の余地がなお残る表現であったが,正確さに欠くところがあった。より正確には「少佐参謀⇒隊長⇒司馬」という命令系統の流れのなかで「それぞれが語る話であった」と受けとることもできる。

 この西村の解説「遥かな道・夢の実現」は,『坂の上の雲』の映像化だけは許さなかった司馬の遺志を,この小説が公表されてから40年が経った時点であれば,曲げてもよい・無視してよいと判断していた。

 「現代の状況がもっとこの作品をしっかり読み解くことを要求している」とか「世界は新しい構図のなかで動き,日本もこれからの方向性を模索してい」くとかのいいわけを用意できた西村は,「この作品の映像化の封印は,いまこそ解かれるべき時であると私たちは確信し」たところに,その「司馬の遺志を無視できる」時代的な理由があると明言していた。

 

  「21世紀に衰退する道を歩む日本」には「過去の栄光という虚妄の記憶」が要求されている。

 1) 日本帝国主義の残影

 辻井 喬は,「司馬遼太郎」に対しては「『最後の国民作家』という呼び方が使われ」るし,「たしかにナショナルなものの残光を追う最後の人で」あったと指摘する(辻井『私の松本清張論』143頁)。

 日露戦争の直接的な狙いは,欧米帝国主義による〈暗黙的な合意の枠組〉のなかで日本帝国主義がこれらの国々に倣い,朝鮮〔当時は大韓帝国〕を完全に植民地化するための戦いであったという点にみいだせる。

 そして,ここでとくに忘れてならないことがある。今年:2010年は,日本帝国がその大韓帝国〔朝鮮〕を完全に植民地化してから,つまり「日韓併合」(1910年8月22日)が強行されてからちょうど100年になったことである。

 伊藤博文が安 重根に暗殺されたのはその前年:1909年10月26日であった。伊藤を狙撃したあと安 重根は,ロシア語で「韓国〔朝鮮〕万歳を意味する」「コレヤ   ウラー! (Корея!   Ура!)」と,大きく叫んだという。

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 解説)写真は旧千円札の伊藤博文像。韓国・北朝鮮側では「世紀の極悪人である政治家」とみなされている。

 日本国の「純」国営放送であるNHKは,過去に日本・日本民族が記録してきた帝国主義侵略路線の実現過程における出来事・事件をとおして,すなわち

  a)  1910年以前にも被圧迫民族の立場から韓国・朝鮮人側が起こしてきた反発の動きや,

  b)  その後にもつづく朝鮮の独立運動という歴史的事実,

  c)  結局は敗戦してもとの4つの島に戻って生活するはめになった〈日本帝国のみじめな顛末〉などよりも,

  d)  明治末期からは「坂の上の雲」をめざした結果,日露戦争の〔薄氷の〕勝利によって,「欧米帝国主義」と肩を並べて浮かべるかのようにみえはじめた「日本帝国」へと飛躍させえたと,

 ときには理想化し〔とくに d)  について〕,ときには完全に無視し〔 a)  b) 〕,ときには沈黙する〔 c) 〕するために必要な「粉飾用の《おとぎ話》」が,歴史「物語風」の大河番組を制作するための脚本としてほしかった。

 いってみれば,「最後の国民作家」司馬遼太郎は,そのためにもっともふさわしい〈物語を書いた小説〉として,作品『坂の上の雲』を「ナショナルなものの残光を追う最後の人」の立場から残してくれていた。

 NHKのエクゼクティヴ・プロデューサー西村与志木は,司馬『坂の上の雲』の映像化を実現させるには40年の歳月を要したといった。しかし,当の作者自身が『坂の上の雲』だけは映像化しないで欲しいと考えていた。

 というのは,その「演出のしかたによっては,日露戦争で勝ったことを美化し,軍国主義をあおりかねない危険性がある」と,生前から心配していたからである。ところが,NHKはさすが国営放送である。司馬がひどく嫌がって応じなかった『坂の上の雲』の映像化に,当人の死後,こぎ着けたのである。

 2) 国際シンポジウム「『韓国併合100年を問う」

  2010年8月7・8日の両日,東京大学弥生講堂一条ホールで「国際シンポジウム「『韓国併合』100年を問う」が開催された。主催は国立歴史民俗博物館,共催が「『韓国併合』100年を問う会」,後援に岩波書店朝日新聞社。このシンポジウムには1000人超える聴衆が参加した。

 このシンポジウムは「植民地主義を克服し,問題解決の転換期に」という狙いのもと,2日間で4つのセッションと特別セッションが開かれ,27人の学者・研究者らが幅広い視野・視点から講じ,「韓国併合」100年について問題提起と発言をおこなった。

 国立歴史民俗博物館の平川南館長は開会のあいさつにつづき,韓国の成均館大学校東アジア学術院教授の宮嶋博史があいさつに立った。同シンポの意義について「『韓国併合』にまつわる諸問題がいまだ解決していない状態のまま,101年目を迎えてはならないという思いからこのシンポを開くこととなった。この問題解決の転換期になれば」と述べた。

 セッションに先立ち,奈良女子大学の中塚 明名誉教授が「歴史をもてあそぶのか-『韓国併合』100年と昨今の『伊藤博文言説』」と題して講演をおこなった。中塚は「今〔2010〕年の5月10日に発表された日韓知識人共同声明で,『韓国併合条約』について当初から不当で無効なものだと日本政府が一刻も早く認めるよう求めた。いま,日本で『韓国併合』そのものについてしらない人が圧倒的に多く,知識人のなかにも存在するのが現状である」と,日本人の無知と歴史離れを批判した。

 補注)この段落については,最近作,渡辺延志『歴史認識  日韓の溝-分かり合えないのはなぜか-』筑摩書房,2021年4月が参考になる。旧日帝は隣国の王妃を殺害した「歴史の事実」も有するが,はたして日本側の一般庶民のなかでその事実をしている者はどのくらいいるか?

 おそらく10人中1人もいないはずである。両国間においてもしも,その逆の事件が起きていたら,おそらく日本人の10人中,9人くらいはしっているかもしれない。きっと中学校あたりの歴史科目でしっかりとテイネイに教えておくはずだからである。

 渡辺のその本が指摘するのは,日韓間の谷間にいまだ落ちこんだままであり,とりわけ「日本・人」の側においてはまったくみえていない「旧・日本帝国が東アジアを侵略して残してきた〈負の記憶〉」のことである。

〔記事・本文に戻る→〕 「韓国併合」から35年を経た1945年,日本帝国主義が第2次世界大戦によって敗戦したことは,日本史最大の教訓であると述べ,「朝鮮民族はもともと一つであるのに,敗戦から65年が経ってもなお日本は南北分断を固定化する動きに精力を傾けている。『韓国併合』100年のこの年にあらためて考える必要がある」と述べた。

 さて,NHKの番組『坂の上の雲』は,司馬遼太郎の小説を原作・脚本に使い「歴史ドラマ風に仕立てられた」,それも日本帝国主義を美化・高揚する狙いを切実にこめた〈大河小説:ドラマ〉であった。

 たとえば中塚 明は,司馬遼太郎坂の上の雲』がNHK風に大河ドラマに仕上げられ放送された結果をとらえて,「旧日本帝国の歴史的に記録した罪悪」,より具体的には「日本帝国による韓国併合という歴史的な罪悪」には目をつむった状態で,いかに明治維新以来の日本がすばらしい近代化をとげたか,このことばかりを称賛するテレビ番組に仕立てられていると,きびしく批判した。

 日本帝国は1説に,日露戦争までは国際外交・軍事交渉のルールを誠実に順守しながら「戦時の交戦」をおこなってきた国であったといわれている。だが,その後,革命を起こしたソ連へのシベリア干渉戦争を経て,「満州事変→支那事変」→大東亜戦争へと進展・深化させる大戦においては,国際法などいっさいかまわぬ軍事行動をする国になっていた。

 このように,日露戦争までは〈善〉として,その以降は〈非善〉とみなす日本帝国に関する軍事史観(これは司馬もおかしいと自己認識し,反省していた日本史観)は,軍事史そのものの観点に関して基本的な疑問を抱かせる。日本近代史の実相を直視したくない者の「後ろ向き」に偏向した歴史観である。

 たとえば,旧ソ連〔それ以前のロシア〕の軍事的侵略を常時受けてきた隣国,たとえばポーランドにとって,いついつまでのロシアの侵略は善的な軍事行動であって,それ以降の侵略は非善的な軍事行動であると認識するごとき区分は,無意味どころか,ポーランド人の猛烈な怒りを呼びおこすだけである。それだけでなく,日本・日本人はソ連〔ロシア〕の永久的同盟国:味方であるかとの誤解すら惹起させる。

 3) 帝国主義的な嫌がらせの実例

  a) 日本帝国は属国「満洲国」を建国させる日を「1932〔昭和7〕年3月1日」に決めた。1919〔大正8〕年3月1日に朝鮮独立運動が起きていた。

  b) 1945〔昭和20〕年3月10日の米国空軍による東京下町大空襲は,その日が日本帝国「陸軍記念日」であったことに合わせていた。日露戦争のとき,1905〔明治38〕年3月10日の奉天会戦日本陸軍は勝利していたのでる。

 このことを記念して制定された祝日が「陸軍記念日」であった。陸軍省は,翌年の1906〔明治36〕年1月25日奉天会戦1周年を迎え,毎年3月10日を祝日として制定した。しかし,その東京下町大空襲の1年あとの 1946年からは廃止された。

  c) 東京裁判極東国際軍事裁判〕の結果,絞首刑の判決を受けたA級戦犯7名は,昭和23〔1948〕年12月23日 巣鴨プリズン刑場において死刑を執行された。この日は,当時皇太子であった現天皇明仁の「15歳の誕生日」であった。

 この12月23日が平成の時期にあっては,「平成天皇」の誕生日として「国民の休日」とされていた。話はずれるが,「国民の象徴」である「各代天皇の誕生日」によって「国民の休日」に日付〔月日〕がかわるというのも,実に変妙な話である。

 ともかく,司馬本人の遺志〔死者の意向〕を完全に踏みにじったうえで,NHKが映像化し,放映した「坂の上の雲」は,いまでは反故でしかない「旧日本帝国主義観点」=「東アジア侵略合理化史観」にどっぷり漬かった架空物語を,わざわざ「大河ドラマ:動く紙芝居」化した愚作といってよい。

  21世紀にこの日本がひどく困窮しつつある現況のなかで,NHKは司馬の意図に反するだけでなく,それからはるか遠くに逸脱してしまった,しかも本ブログの筆者「風」にいえば『動く紙芝居』=「坂の上の雲」を映像化した。

 NHKの受信契約者と不契約者とを問わず,そしてNHKを観るとと観ないとにかかわらず,この歴史的に根拠もなにもない英雄物語「大河ドラマ坂の上の雲」を,公共の電波に乗せて,日本の社会に垂れ流し押しこもうとしている。

 もっとも,そのようにNHKが無理な番組作りをし,あえて放送をしてきたところで,現状の日本がはたして,いま以上に元気になれるかどうかの保証はない。

 補注)この記事が書かれてから早,11年と半年が経過した。しかし,2021年6月になっているこの国であるが,自民党コバンザメ政党・公明党との合体〕政権は,コロナ禍に対峙させられていながら,1年延期になっている東京オリンピックをどうしてでも開催するとこだわっている。

 「東京都⇔日本政府⇔JOC」という「トライアングル的なおバカ様の権益体」は,すっかり力みこんで,そう唱えている。五輪組織委員会は,旧日本軍が体験済みである「インパール作戦」に相当する事態になっても,国際大運動会としてのオリンピックを開催するつもりである。

 本日現在までJOCは,中止にするという意向をおくびにも出していない。それにしても,ムリを招致で五輪を強行に開催しようとする精神論は,旧大日本帝国の軍人精神に酷似している。

〔記事・本文に戻る→〕 しょせんは「過去の栄光」,それも日露戦争にようやく判定勝ちできたに過ぎない『日本帝国の「虚像である明治末期像」=「青い鳥」』をさがすような国営放送の報道姿勢は,哀れをとおりこして惨めと形容したらよい。辻井はこういっていた。

 皇国神話を基礎にしたビック・ロマンは望むべくもありませんから,司馬の眼差しは,たとえ虚構であれロマンを描くことのできた明治の時代へと注がれることになったのでした(辻井『私の松本清張論』152頁)。

 4) 参考文献による補足的な考察

 司馬「明治史観」に対する批判書はたくさんある。ここでは,ある2冊から,肝心と思われる批判点を参照・引用しておく。

 a)「イギリスの日本支援」(山田 朗『これだけは知っておきたい日露戦争の真実-日本陸海軍の「成功」と「失敗」-』高文研,2010年11月から)

 日露戦争日本海軍が動員できた戦艦6隻はすべてイギリス製であった。装甲巡洋艦8隻のうち4隻もやはりイギリス製で,最新鋭のものであった。なぜ,イギリスは戦艦・巡洋艦を日本に販売したのか?

 

 イギリスはバルチック艦隊が極東に向かう航路で一貫して妨害をくわえたりし,日本を支援してくれた。だが,この種の日本支援は,あくまでロシアを「満洲」に進出させないためのものであった。イギリスにすれば日本が大勝して「満洲」を独占するのは困る。

 

 だからイギリスは,日本海海戦直後にロシアに接近しはじめ,これ以上日本との戦争をつづけると元も子もなくなるから,もう戦争は止めたほうがいい,いいかえれば,ロシアがある程度「満洲で力をもっている」時期に,日本と講和したほうがいいと説得していた。イギリスにとっても日本の「勝ちすぎ」はよくないことであった。ここに帝国主義時代の大英帝国のドライなところ,自国の権益を最優先する立場が明快にでている(54-56頁)。

 

 アメリカも日露戦争の講和を斡旋していたが,その意図はイギリスとほとんど同じであった。ロシアが「満洲」に全面的に進出することを防ぐと同時に,日本の「勝ちすぎ」も防止したい。だからアメリカは,日本海海戦後に積極的に講和の斡旋をしていた。アメリカ側は,日本が決定的でないかたちで戦争に勝ち,ロシアもある程度北部「満洲」に勢力をもつ均衡状態のあいだに入りこんで,「満洲」進出を進める戦略であった(57頁)。

 

 しかし,日露戦争のときは良好な関係であった日米であったものが,その後,日本がロシアと裏で手を組んでアメリカが「満洲」に入ってくることを妨害し,イギリスもロシアと協約を結んだために,日本はロシアを敵とする戦略をとりにくくなった。この結果,アメリカは対日感情をいっそう悪化させ,のちには日米関係が破局をむかえ大東亜〔太平洋戦争〕に突入する原因を作る(58頁)。

 b)「明治の栄光という虚光」(高井弘之『誤謬だらけの『坂の上の雲-明治日本を美化する司馬遼太郎の詐術-』合同出版,2010年12月から)

 明治以来における日本の近代化の成功,戦後における民主主義,高度経済成長,「先進国」入りなど,日本の近・現代の歴史は,近代の出発以降,日本が朝鮮に対しておこなってきた加害・侵略の歴史との,まさに相関関係において成立してきたものばかりである。

 

 この日韓の近現代史のなかで生起してきた諸事件・諸出来事に対して真正面から立ち向かい,これを冷厳な歴史・事実として認めて痛く認識しないことには,いつまでも「司馬遼太郎歴史観」批判の地平に留まることになる(187頁参照)。

 そもそも司馬は,その小説『坂の上の雲』のなかに打ちこまれていた「基本的な欠陥」を認識していたのである。にもかかわらず,NHKの似非歴史番組「坂の上の雲」は,ありもしなかった「明治期日本の理想像」を勝手に造形しておき,これを「日本の国民」に追い求めさせるかのような「愚かな番組」を,制作・放映している。 

 「現実の政治は,歴史小説のようにはいかない」。

 注記)『日本経済新聞』2010年12月31日朝刊「大機小機」。

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毎年正月恒例の「皇室行事」は日本・国民たちにとってどのような政治社会的な意義があるのか

             (2011年1月3日,更新 2021年6月12日)

 今年(←2011年のこと)こそ少しはよい年になっていればよかったのだが,10年後の現在に回顧できる(その)2011年はどうだったかみれば,「3・11」に東日本大震災が発生,東電福島第1原発事故が起きてしまい,いまもなおその廃炉工程という本格的な後始末にまでは至れない段階 にある

 その2年半後,2013年9月に開催されたIOC総会において,安倍晋三は “フクシマはアンダーコントロールだ” と偽り,日本で2020年に開催予定だった「東京五輪」を承認されていた,だが,いま〔2021年6月段階〕になっても,なお引きつづきコロナ禍の最中に追いこまれていながらも,その五輪の開催強行しか念頭にない「壊国の首相:菅 義偉」が居る

 

  要点・1 この国が今年も「よい年になるためにはどうしたらよいのか」という「年頭における恒例あいさつ:天皇の期待表明」の行為は,皇室の家長:天皇だけがうまく・適切に発言できるそれなのか

  要点・2 天皇になにかをいわれなければ,この国はよくならないのか? 2012年12月に発足した安倍晋三政権,2020年9月に発足した菅 義偉政権,いずれもこの国を「滅亡へと向かわせるための国家指導ぶり」を,2人併せて発揮してきた

 

  皇居の一般参賀・皇族の新年祝賀

 1) 明仁,平成の天皇としての「22回めの新年」

 新年恒例の「一般参賀」が2011年1月2日,皇居であった。天皇明仁〕夫婦は,皇太子〔徳仁〕夫婦ら皇族らとともに宮殿のベランダに立ち,集まった人々に手を振った。天皇〈宮殿〉前に集まった〈国民〉に向かい,こうあいさつした。

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 2) 皇居で「新年祝賀の儀」を受ける平成天皇

 天皇夫婦が皇族,首相,三権の長,国会議員,外国大使などからあいさつを受ける「新年祝賀の儀」が,2011年1月1日,皇居・宮殿でおこなわれた。天皇夫婦は〈宮殿〉の「松の間」で,皇太子夫婦や秋篠宮夫婦など成年皇族15人からあいさつを受けたのち,皇族らとともに宮殿の複数の部屋を回りながら,つぎつぎとあいさつを受けた。

 衆参両院の議長らを対象とした松の間での儀式では,天皇が「一同の祝意に深く感謝いたします。新しい年をともに祝うことを誠に喜ばしく思います。年始に当たり,国の発展と国民の幸せを祈ります」と「お言葉」を述べた。また,皇太子夫婦の長女,敬宮(としのみや)愛子と秋篠宮夫婦の長女の眞子,次女の佳子の未成年皇族3人も,宮殿で天皇夫婦にあいさつをした。

 注記)http://sankei.jp.msn.com/culture/imperial/110101/imp1101011251005-n1.htm 参照。

 以上,天皇夫婦・皇族たちに関するニュースじたいが,正月からこの民主主義国である日本ではもっともだいじな恒例行事であるかのように報道されている。これら記事を読むと,どうやら日本国において一番エライ人は「象徴である天皇明仁夫婦〕である」らしく思える。そう思わないほうがおかしいくらい,彼ら夫婦に関する「新年の報道」が,このうえもなく,うやうやしくなされている。

 補注) なお,皇室主催の「新年祝賀の儀」に出席できるのは,認証官という「官職の身分」に就く官僚に限定される。--国務大臣副大臣内閣官房副長官,人事官,検査官,公正取引委員会委員長,宮内庁長官侍従長特命全権大使特命全権公使最高裁判所判事,高等裁判所長官,検事総長次長検事検事長。また,認証官とは「任免につき天皇の認証を必要とする国務大臣その他の官吏」のことをいう。任官者は「内閣総理大臣から辞令書を受け,その際,天皇陛下から〈お言葉〉がある」のが通例である。

 3) 皇居という名の宮殿

 さて,報道のなかに出てきたことば「宮殿」とは,なにか? ウィキペディアに聞くと,このように書いてある。

 王族,皇族などの君主およびその一族が居住する,もしくは居住していた御殿。君主が政務や外国使節の謁見,国家的な儀式などをおこなう部分と,君主が生活をおこなう私的な宮廷部分に分かれる。

 

 中世ヨーロッパにあっては,城壁に囲まれた城のなかに国王や領主が居住したことから,防衛機能と一体となった宮殿があるが,時代の変遷とともに防衛機能よりみた目の豪華さ,壮大さや居住性を重視して,都市のなかに建設されるようになった。ヨーロッパ大陸諸国では都市のなかに建てられた貴族の壮麗な邸宅を指すことがある。

 天皇一族のうち天皇夫婦は,東京都千代田区の真ん中にある「皇居」に,それも明治の時代になってから徳川幕府から明治政府が奪ったこの場所に住んでいる。皇太子夫婦は,東京都港区の赤坂に位置する東宮御所に住んでいる。

 いずれも庶民の感覚からすれば豪邸,否,超豪邸に暮らしている。お付きの者〔侍従〕たちもけっこうな人数おり,大衆であるわれわれの生活からは想像もできない豪勢な空間のなかで毎日を過ごしている〔もっとも彼らの立場においては,それなりに苦労はあるらしいが・・・〕。

 この天皇一族が,毎年正月になると,つぎのような文章で報道される「新年の儀式」が皇居・宮殿で執りおこなわれている。

 元日の1月1日,皇居では,天皇皇后両陛下が皇族方や首相などから新年のあいさつを受けられる「新年祝賀の儀」がおこなわれた。両陛下は1日午前11時すぎ,皇居・宮殿で,皇太子さまなど皇族方とともに,衆参両院の議長ら国会議員から新年のあいさつを受けられた。また,両陛下は午前中,皇太子ご一家や,がんの手術を受け,12月31日に退院した三笠宮寛仁さまなど皇族方や,菅首相などからもあいさつを受けられた。

 

 天皇陛下は,新年を迎えての感想を寄せ,きびしい経済情勢に触れたうえで,「家族や社会のきずなを大切にし,国民皆が支えあって,これらの困難を克服するとともに,世界の人びととも相携え,その安寧のために力を尽くすことを切に願っています」とつづられた。2日は,新年の一般参賀がおこなわれる。(〔2011/〕01/01 18:43)

 注記)http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00190542.html

 4) 素朴な疑念

 この種の報道に接したわれわれがその内容を読んで感じるのは,日本の元首,もちろん選挙で選ばれた選良たちが国会で指名した菅 直人が〔2011年1月当時の民主党政権の〕首相として存在しているにもかかわらず,この首相までもみずから皇居に出向き,天皇夫婦に新年のあいさつを口上している。

 日本国憲法の規定によると天皇は,あくまで〈日本国の象徴〉である。とすれば,「《象徴》である天皇」が,皇居に出向かせるかたちを採ってだが,日本国の元首および国家三権の最高責任者から新年のあいさつを受けているような間柄は,その「象徴=人間〔であって人間ではないのか?〕」という存在論的なありかたとして観るかぎり,彼我のあいだにおける政治的な根本の関係が,異常・異様にも〈逆立ち〉させられているというほかない。

 そこで,インターネット上にも出ている定義・説明などを若干探ることによって,「象徴」なることばの意味を,あらためて考えてみたい。日本の天皇天皇制に関する議論である。

 a) 「象徴」とは,抽象的な思想・観念・事物などを,具体的な事物によって理解しやすいかたちで表わすこと,もしくは,その表現に用いられたものを意味する。たとえば「ハトは平和の象徴」「現代を象徴する出来事」などとして使用されることばである。

 b) その〈平和〉や〈現代〉という用語が,特定の「意味を有するもの」として「象徴」に挙げられるとき注意したいことがある。「〈平和〉や〈現代〉→ 象徴」の関係は,一方通行的・片務的にのみ定められうるのであって,けっしてその逆の方向においてではない。

 c) すなわち,象徴とは,抽象的な概念を,より具体的な事物やかたちによって「表現すること」であり,またその表現に「用いられたもの」であるとすれば,この定義・説明の範囲・限界からその〈象徴〉性が僣越・逸脱する働き・機能・運動を,独自におこないはじめたとき,もはや象徴が象徴でありえなくなり破綻する。つまり,象徴みずからが象徴たるゆえんを,自己が矛盾させ破壊させたことになる。

 5) 天皇は象徴ではなく,憲法違反である疑似元首を演じている

 日本国憲法第1条に規定された天皇〔・天皇制〕は「日本国および日本国民統合の象徴であり,国政に関する権能を有しないとされる」。ところが「新年祝賀の儀」の光景をみていると,「ハトは平和の象徴である」といった定義的な一線を飛びこえており,「鳩=天皇」それじたいが「平和=国民なのである」という本末転倒の,意識混濁の政治的な意識状況を結果させてもいる。

 日本国憲法において,「天皇は日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴である」と規定されている。この天皇という存在は制度的なものである。ところが,実際においては逆になってもいて,日本国・民そのものが「天皇の象徴」(である対象物)に入れかえられている〈関係性〉も発生している。いうなれば,そこでは〈逆立ちした相互の関係〉が現象している。

 正月のあいさつにおいて「象徴である天皇」が,国民に対して「非常に抽象度が高いもの」とはいえ,世事万端に口だしをしている。国家のありよう・世界との関係に関してまで,理想的〔=空想的〕なありかたが,彼の口をとおして抽象的にだが,確かにいわれている。この事態は「国・民の象徴である」天皇の行為として,許されない,あってはならない相互関係のありかたであり,越権の発言行為を意味する。

 日本国を象徴する代表的な花(樹木)といえば「桜」といえよう。地方自治体のそれを例示すると,たとえば埼玉県の県花は「さくら草」である。とくに埼玉では春になると,各地で品評会や展示会が開かれ,親しまれている「花」であるという。また,アメリカを象徴する動物(国鳥)といえば「ワシ:白頭鷲」である。

 なかんずく,これら国家を象徴する動植物はものをいわないし,人間に対してあれこれ指示もしない。

 ところが,日本国の象徴とされる「生きている人間」=天皇は,正月になると国民が選んだ首相や「三権の長最高裁長官,衆院議長,参院議長」(認証官)たちを皇居に来させて,新年の挨拶を受けている。はたして,こうした「天皇」と「国民の代表たち」との「関係」は,象徴ということばのもつ概念関係で説明しきれるものではない。 

 象徴ということばに「新しい説明」がくわえられるさい,誰でもが勝手な判断できるならともかくとして,このことばの意味には本来含ませられない,それも憲法上の「天皇の国事行為」とも無縁である「新年のあいさつ」が,毎年正月に「皇居=宮殿(!)」を部隊に執りおこなわれている。それほど天皇「様」は日本国ではエライ人になっている。

 以上のように記述すると,ふつうの日本国民的な感覚からすれば,「オマエはなんと無礼で,非国民的な発言・解釈をするのか」と非難されそうである。だが,まともに日本国憲法を読める人であれば,またいろいろと解釈はありうるものの,以上のように「象徴としての天皇天皇制)に関する疑問を提起するのは,ごく自然な論理のなりゆきである。

 

  平成天皇の父の時代に起きた出来事

 1) 昭和16年,敗戦を予測した「戦争経済研究班」報告書

 昭和天皇は,大東亜戦争敗戦に至るまでの長い戦争の時代に関する政治責任を果たさぬまま他界した。このことは,いまでは否応なしに事実として認めざるをえない〈史実〉である。1945年9月に正式に終結した第2次大戦に関して,本日〔2011年1月3日」の日本経済新聞は,第1面につぎの解説記事を掲載していた。

   ☆ 三度目の奇跡 第1部 私は45歳(2)
        開戦前,焼き捨てられた報告書 現実を直視,今年こそ ☆

 

 70 年前の日米開戦前夜。正確に日本の国力を予測しながら,葬り去られた幻の報告書がある。報告書を作成した「戦争経済研究班」をとり仕切ったのは,陸軍中佐の秋丸次朗。1939年9月,関東軍参謀部で満州国の建設主任から急遽帰国した。同班は「秋丸機関」の通称でしられるようになる。英米との戦争に耐えられるかどうか,分析を命じられた秋丸。東大教授の有沢広巳,後の一橋大学長になる中山伊知郎ら著名学者を集め,徹底的に調べることにした。

 

 「1対20」を黙殺

 

 東京・麹町の第百銀行2階に常時20~30人がこもる。調査対象は人口,資源,海運,産業など広い分野に及んだ。いまと違い資料収集も簡単ではない時代。日本は経済封鎖のもとで軍需産業育成にどれだけ力をそそぐことができるか。英米との力の差はどの程度か。英知を結集した分析が進んだ。

 

 調査開始から1年半を経た1941年半ば。12月8日の日米開戦まであと数カ月の時期に,陸軍首脳らに対する報告会が催された。意を決するように,秋丸がいった。「日本の経済力を1とすると英米は合わせて20。日本は2年間は蓄えを取り崩して戦えるが,それ以降は経済力は下降線をたどり,英米は上昇し始める。彼らとの戦力格差は大きく,持久戦には耐えがたい」。秋丸機関が出した結論だった。

 

 列席したのは杉山元参謀総長ら陸軍の首脳約30人。じっと耳を傾けていた杉山がようやく口を開いた。「報告書はほぼ完璧で,非難すべき点はない」と分析に敬意を表しながらも,こうつづけた。「その結論は国策に反する。報告書の謄写本はすべて燃やせ」会議から帰ってきた秋丸はメンバー1人ひとりから報告書の写しを回収し,焼却した。

 

 有沢はただちに活動から手を引くよう命じられた。報告書の一部は88年の有沢の死後に遺品から発見される。104ページ分の報告は詳細を極めていた。みたくないものは,みない--。秋丸機関はほどなく解散し,現状認識を封印した戦争の結末は悲惨だった。終戦から今年で66年,日本は変わったのか。

 

 ※ 参考文献 ※
  纐纈 厚『総力戦体制研究-日本陸軍国家総動員構想-』三一書房,1981年。
  森松俊夫『総力戦研究所』白帝社,1983年。
  猪瀬直樹昭和16年夏の敗戦-総力戦研究所 “模擬内閣” の日米戦必敗の予測-』世界文化社,昭和58〔1983〕年。

  日本・日本人の大多数は「終戦」を「敗戦」と呼ばない。この事実は,「秋丸機関」の報告書に対して旧日本帝国陸軍幹部が示した反応=虚妄の意識が,21世紀のいまもなお,この日本社会のなかに生きつづけていること,その〈連続性〉を教示している。

 さらに,「敗けると判っていた」戦争に突入した「大東亜〔太平洋〕戦争」の責任は,陸軍幹部〔東條英機を代表とするA級戦犯たち〕に押しつけ,逃れた,かつての日本帝国の最高責任者がいた。

 敗戦後,「天皇〔=大元帥〕を総領役とした皇族たちと一部の政治家たち」は,国民やアジア諸国に対する戦争責任を負うことを,大戦後の世界情勢のなかで,マッカーサーのGHQとの連係もあって,巧妙に回避できていた。

 昭和天皇が戦争「敗戦・責任」〔たとえ勝利していたとしてもその責任の本質になにも変わりはないが〕をとらなかった事実は,彼の息子が「父の戦争体験の究極的な本義」を回顧するさいの「歴史観」にも大きく影響した。

 陸軍が悪いからあの戦争には負けたと,父から聞かされていた息子がいる。21世紀のいまにあっても,「現人神」とされたその父と似た風情で,その子が「国・民の象徴である」という地位にいる。親子2代にわたり「民主主義」の大原則とは無縁の「王様きどり」の生活をしている。正月になると彼らは,日本国の「正式・実質の元首たち」などを皇居=宮殿に呼びつけては「恒例行事である:新年のあいさつ」をさせている。

 補注)昭和天皇は戦後間もない1945〔昭和20〕年9月9日に,栃木県の奥日光に疎開していた長男,皇太子の継宮明仁親王(現:上皇明仁)へ送った手紙のなかで,戦争の敗因について,つぎのように書き,弁解していた。

 「国家は多事であるが,私は丈夫で居るから安心してください 今度のやうな決心をしなければならない事情を早く話せばよかつたけれど 先生とあまりにちがつたことをいふことになるので ひかへて居つたことを ゆるしてくれ

 敗因について一言いはしてくれ 我が国人が あまりに皇国を信じ過ぎて 英米をあなどつたことである 我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである

 明治天皇の時には山県 大山 山本等の如き陸海軍の名将があつたが 今度の時は あたかも第一次世界大戦独国の如く 軍人がバッコして大局を考へず 進むを知つて 退くことを知らなかつた 戦争をつゞければ 三種神器を守ることも出来ず 国民をも殺さなければならなくなつたので 涙をのんで 国民の種をのこすべくつとめたのである」(一部抜粋)

 このいいぶんは,どこまでもいいわけになっていた。息子に対する手紙のなかでの発言だけに,その点が正直に語られていたと解釈できる。

 それまで「皇国」「神国」の代表になっていた昭和天皇が,しかも帝国日本の陸海軍を統帥する大元帥であったこの人が,「我が軍人は 精神に重きをおきすぎて 科学を忘れたことである」などと非難し,自分の責任をすべて軍部の側に完全に押しつけていた。

 敗戦直後,日本が連合国軍の占領下にあった1945年9月27日,天皇連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)総司令官のダグラス・マッカーサーが居住する駐日アメリカ合衆国大使館を訪問し,初めて会見することになった。

 マッカーサー(『マッカーサー回想記』)は,こう記していた。

 「天皇のタバコの火を付けたとき,天皇の手が震えているのに気がついた。できるだけ天皇の気分を楽にすることに努めたが,天皇の感じている屈辱の苦しみがいかに深いものであるかが,私には,よく分かっていた」。

 また,会見のさいにマッカーサーと並んで撮影された全身写真が,2日後の9月異29日に新聞に掲載された。天皇が正装のモーニングを着用し,直立不動でいるのに対し,一国の長ですらないマッカーサーが略装軍服で腰に手を当てたリラックスした態度であることに,国民は衝撃を受けた。

 天皇と初めて会見したマッカーサーは,天皇が命乞いをするためにやってきたと思った。ところが,天皇の口から語られた言葉は,「私は,国民が戦争遂行にあたっておこなったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として,私自身をあなたの代表する諸国の裁決に委ねるためお訪ねした」。

 つまり,極東国際軍事裁判東京裁判)に被告人として臨む覚悟がある,というものだった。さらに,マッカーサーは「私は大きい感動に揺すぶられた。(中略) この勇気に満ちた態度は,私の骨のズイまでもゆり動かした」という。

 以上は,ダグラス・マッカーサー著,津島一夫訳『マッカーサー大戦回顧録  上・下』中央公論新社 , 2003年の内容であった。だが,マッカーサーがこの本のなかで昭和天皇について語ったという前段のごとき内容については,歴史研究の立場からは「歴史の事実」として認容されていない。要は,マッカーサーの作り話であると判定されている。

 2) 昭和17年,開戦後半年で戦争の敗北が予測・確認できた

 本日〔2011年1月3日〕の日本経済新聞は,「文化」欄の「〈私の履歴書生田正治(2)開戦   下校中 B25が素通り 初空襲時の不思議な静けさ」が,以下のように戦争中の歴史を回想していた。その一部分を抜き出しながら引用する。

 戦雲が迫るなかで1941年4月1日に小学校は国民学校となり1年生の国語教科書の第1ページは「さいた  さいた  さくらがさいた」から「こまいぬさん “あ” 。こまいぬさん “うん” 」に一新された。

 

 広い校庭と校舎には陸軍の対空防衛部隊が駐屯し,夜間に飛来する敵機を照らす探照灯,高射砲がそれぞれ数基とトーチカや塹壕が配置されていた。連日兵隊さんが訓練に励んでいるのを教室の窓越しに見物していただけで,勉強した記憶はほとんどない。

 

 放課後は校庭に出て訓練を終えた兵隊さんたちと遊んだ。東北出身の兵隊さんが多く,村上上等兵が「君たちはお国の将来のために一生懸命勉強しろよ」といって弟のようにかわいがってくれた。その上筒井国民学校跡は市立王子動物園となっている。

 

 入学した年の7月には米国が在米日本資産を凍結。10月には東条内閣が成立。太平洋戦争開戦の道をひた走り,12月8日の真珠湾攻撃となる。当日は早朝からラジオが「敵は幾万ありとても」と勇壮な軍歌をバックに,対米英開戦,真珠湾奇襲攻撃大成功の大本営発表を繰り返し,街では号外が乱舞した。

 

 校庭に整列した私たちに校長先生は「大和魂をもって戦えば,神国日本は必ず勝つ」と力強く訓示し,私たちはなんの疑念もなく勝利を信じて熱狂した。翌 1942年4月18日のお昼ごろだったろう。初めて警戒警報のサイレンが鳴りわたり,ただちに全員下校の指示が出た。空襲など予想したこともなかったので事態がよくのみこめず,友だちとふざけあいながら家路についた。

 

 途中,爆音がするので空を見上げると,見慣れない大型機が悠然と神戸上空を西に向かうのが見える。日本軍の新鋭機とばかり思っていたら,帰宅後それがドーリットル米軍中佐の率いるB25爆撃機編隊による日本初空襲の一環であったことをしった。私たちがみているあいだ,敵機は爆弾を投下せず,上筒井国民学校校庭の高射砲部隊も砲門を開かず,迎撃機の姿もない不思議に静かな風景だった。海上大決戦と位置付けたミッドウェー海戦の大敗は秘せられ,私たちは依然として戦勝気分のなかにあった。(商船三井最高顧問)

 本ブログ筆者は最近,藤井治枝『もう一度風を変えよう』ドメス出版,2010年12月の献本を受けた(2010年12月30日着)。著者の藤井は1929年生まれであるから,戦争の記憶がたしかに刻まれてきた世代である。彼女はこういう。

 いったい,この戦争で何が得られたのだろう。中国,東南アジアなど直接戦いの場に召集され,戦死,戦病死で命を失った兵士の数は300万人とされているが,おそらく実態はこの何倍がいるだろう。幸い内地に居住していても広島,長崎を始め,数々の都市で,多くの人々が命や大切な資産,住宅を失った。そのうえ,侵略を受けた広大な地域で数えきれない人々の命が奪われた。

 

 当時,日本の植民地とされていた韓国〔朝鮮〕も日本のファシズムに抑圧され,日本人並みに天皇絶対化教育,日本名への改姓,そしてやがて徴兵制の導入にまで進んだ。強制動員された労働者は72万人,兵士は24万人といわれている。おそらく,多くの犠牲者が出たと思われる。その償いは終わっていない。

 

 だが,講和条約と引き換えにわずか5億円〔ドル〕で解決済みとされてきた。こうして,日本は「戦争」を通して,自国民を苦しめただけでなく,数えきれない近隣の国々の人を不幸にした(45-46頁。〔 〕内補足・補正は本ブログ筆者)。

 日本の現天皇(ここでは明仁)は,この正月にも演技したように「国と民の統合の象徴」である自身の「憲法上の立場・地位」を,はるかに凌駕した役割を果たしている。彼は,朝鮮の古代王族と日本の古代皇室のあいだには,たとえば「桓武天皇からの血縁がある」といい,かつて侵略し植民地にした国家とその国民に対して「親愛の情」を示した。

 しかし,それよりも,ごく最近の時代に父:裕仁の起こした戦争が,アジア諸国に与えた苦痛と惨害を,むしろ皇室の人間として謝罪するほうが先決の問題である。こちらの「皇室的な歴史の課題」にとりくむ必要性について明仁は,十分客観的に自覚しており,冷静に把握できていた。

【参考記事】明仁が語った韓国・朝鮮と日本の歴史的な関係-

 

 『天皇陛下お誕生日に際し(平成13〔2001〕年) 天皇陛下の記者会見』において,明仁天皇がこう語る場面があった。

 

 問3 世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来〔2002〕年,日本と韓国の共同開催でおこなわれます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下がもっておられる関心,思いなどをお聞かせください。

 

 --日本と韓国との人々のあいだは,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招聘された人びとによって,さまざまな文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師のなかには,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,いまも折々に雅楽を演奏している人があります。

 

 こうした文化や技術が,日本の人びとの熱意と韓国の人びとの友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。

 

 私自身としては,桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことでしられております。

 

 しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

 

 ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人びとが,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確にしることに努め,個人個人として,違いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなくおこなわれ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。

 註記)https://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h13e.html

 さてともかく,正月に国民に向かって天皇明仁が「あいさつ」したことばのように,「新しい年を共に祝うことをうれしく思います。今年が皆さん1人1人にとり,少しでもよい年となるよう願っています」「年頭にあたり世界の平安と人々の幸せを祈ります」と述べたところで,藤井治枝の表現を借りれば,「言葉をもって解決することはできない」(藤井,前掲書,47頁2行)「歴史的に重大な責任」を,いまの天皇も「父からの負の遺産」として背負いつづけていることに変わりはない。

 ところで,それでは日本の国民たちは,前段で紹介した明仁天皇の「対・韓国朝鮮」発言をどうとらえていたか? つぎの関連する意見を紹介しておけば,そのあたりの事情が理解できる。

     ★「忘れずに,覚えておこう。『天皇家と朝鮮』Newsweek 2002.03.20」★
 =『YELLOW PEOPLE』2001年12月23日,http://home.att.ne.jp/apple/tamaco/2002/020509Newsweek320.html

 

  明仁天皇,68歳の誕生日。その日,かれはなんと,びっくりするような発言をした。「桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています」。

 

 これって,すごいことなのだ。皇室が韓国とのゆかりを公に認めたことは明治以降なかった」というのだから。そう,長年,古墳の発掘さえ私有財産だからという理由で認められてこなかった。

 

 でもホントの理由は,もしも発掘してしまうと日本人の祖先が朝鮮半島に由来があるということがバレてしまうからで,それで手がつけられないのだと。これはむかしからよく聞く話で,ホントかどうかはよく分からない。

 

 ともあれ,そんな話がまことしやかに語られつづけるほどに,天皇家朝鮮人の血をひくということは,タブーだったはず。

 

 では,なぜタブーだったのか。それは日本の明治以降の国家作りにとって,日本が朝鮮に対して圧倒的な優位性を保持していなければならなかったからではないだろうか。

 

 そこへもって,日韓ワールドカップ開催を目前に控えての,天皇みずからのこの発言。歴史的な発言だったにもかかわらず,日本のマスコミはなにごともなかったかのように素通りした。そして,待てど暮らせどこの話題が大きく取り上げられることはなかった。

 

 そんな日本のマスコミのあつかいに業を煮やしたかのように,3ヶ月たって,Newsweek 誌があらためて,この話題を取り上げた。それが,この〔2002年〕3月20日号だった。

 

 あれから1ヶ月。やはり,世間はこの話題を取り上げない。

 

 ワールドカップ共催を機会に歴史観までひっくりかえして友好をつくろうとしているのが,マスコミよりも天皇だというのは,いったいどういうことだろう?

 どの天皇であれ,天皇自身がこの種の発言をすることじたい,憲法上問題がないとはいえない。このあたりの問題は,「国事行為」とこの行為との関連において幅広く,皇族たち全員が日常的に執りおこなっている「公務」の問題として,議論がなされている。

 その点はいったん置いたとしても,以上のように天皇明仁)が発言した点は,国際関係にまで,大なり小なり,そして一定・特定の影響・効果をもたらしうることは否定できない。

 しかし,前段に引用した『YELLOW PEOPLE』2001年12月23日の書き手は,この明仁の発言が日韓間の友好関係に対して格別に発揮しうるはずと思われた効果が,実際のところ,日本社会の側からは99%ほどは無視されたとみなしていた。

 毎年,正月に皇居で開催される「新年恒例の一般参賀」に対して日本国民たちが抱いている平均的な感情とは,まったく別物である対韓感情が潜在している事実に『ニューズウィーク』2002年3月20日号の記事は言及していたのである。

 ニューズウィーク-2002年3月20日号の表紙画像-

 

                 f:id:socialsciencereview:20210612080330g:plain

  補注)図書館にでもいって,この雑誌の現物をみることができれば,もっと細密な画像資料として紹介できるのだが,ネット上で入手できるこの表紙の画像サイズは,19.0キロバイトしかなく,キメの粗いものとしてしか紹介できない。

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