武運長久の意味,戦争で息子(天皇の赤子)が死んで喜ぶ母親などいなかった



武運長久の意味,息子が死んで喜ぶ母親などいなかった,天皇の赤子が戦場などで無慮死んだ事情とは違い,皇族そのものの戦死者はいなかった
          (2017年8月21日)



  要点:1 奥崎謙三『ゆきゆきて,神軍』1987年8月の再上映
  要点:2 あの聖戦では皇族が死にたくなかったように臣民も死にたくなかった
  要点:3 天皇基準の「元号」とはなにか?



  武運長久(ぶうんちょうきゅう)軍事史的な意味

 1)「武運長久」と寄せ書きされた日章旗(日の丸)
 このことば「武運長久」とは,敗戦前つまり戦争中に兵士として戦場に駆り出された帝国臣民男子を,銃後から送り出すさいに決まって,とくに日章旗(日の丸)に寄せ書きされた文句であった。早速,その実例を画像で紹介する。  
  

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  出所)http://d.hatena.ne.jp/daikokuya2/20120815/1345047782

 これは「2012-08-15 終戦記念日によせて,不思議に命永らえて,武運長久の日の丸の寄せ書きに思いを馳せる」(01:23)という題目で記述されたブログ『大黒屋JIのエレガンス』の執筆者本人が,出征するときにもらい,復員してから保存していた「日章旗の現物」である。いわく「小生昭和19年9月1日三島の野戦重砲十部隊に現役で入隊」。
 
 この人がどのような戦歴(兵役の実際)をたどってきたのか,ここでは不詳であるが,ともかく運よく敗戦後にまで生きていた。このように寄せ書きされた日章旗に関しては,アメリカ兵が日本軍と戦闘したあと,敗れて戦死した日本兵の遺体から「記念品」としてもちかえられたもののが,彼らのほうで数多く保存されてきた事情もあって,なかにはその日本兵士の遺族との通信・交流ができて,返却されたりする事例もあった。

 前段のブログ『大黒屋JIのエレガンス』の執筆者は,どちらかというと,死者になった兵士にくらべて非常に運がよかったといえるかもしれない(配属された部隊によって大きくその運が異なっていた)。彼はともかく,その文句『武運長久』のとおり,敗戦後にも生き延びることができていた。どちらかといえば,武運つたなく,長久ならなかった兵士のほうが多かったともいえるなかで,とても幸運な結末になっていた。戦前・戦中において日本人男子が戦場に赴くときは,とくに戦時体制期〔昭和12年7月以降〕は,戦死することを覚悟させられるほかない戦局の展開になっていった。

 寄せ書きされた日章旗をたずさえて戦場に赴く兵士が,町内の人びとから見送られる風景はまだしも,彼らが遺骨になって戻ってくる風景も,戦争が進行するのにともない徐々に増えていった。

 2)「武運長久」の意味
 このことばは「武人としての命運が長く続き,出征した兵であればいつまでも無事で過ごせること」を意味する。「武運」は戦いにおける勝敗の運,あるいは武人としての命運を意味する。要は,戦争に駆り出された人びとが自身の命の安全を願うための文句であり,戦時体制期において戦場に出向いた兵士は,そのほとんどいってくらい,この寄せ書きされた日章旗をたずさえていた。

 戦前・戦中において「天皇崇拝主義・国家全体主義のための軍国主義教育」を受けてきた帝国臣民であっても,自分の命が惜しいことに変わりはない。しかし,露骨に正直にも「戦争にいきたくない」とか「戦場にいっても死にたくない」などと口に出すことができなかったので,せめてはこのように,日章旗に寄せ書きするときその冒頭・中心に「武運長久」を書きこんだものと思われる。

 要は,徴兵されて戦場に送り出される当人はもちろんであったが,彼の肉親たちも兵士になって戦場に出ていったその「息子」やその「夫」その「父」が,きっと生きて還ってくることを切望した。とりわけ,母親の立場の気持としては,そうした期待を自分の息子に対して願うことは,表現するまでもなくとても深いのである。

 敗戦前の大日本帝国内では,一般の帝国臣民が「反戦」の立場を実際に表明する態度は,とうてい採れるものではなかった。戦争中はとくに周囲の監視の目がいっそう厳しくなっており(「壁に耳あり障子に目あり」),公に「反戦」の立場を口にすることなど,とてもできそうにもない「時代の雰囲気」になっていた。だから,戦争中のそうした雰囲気のなかで,息子や夫に「無事に帰ってきてほしい」という精一杯の願いを代わりにこめた言葉が,この「武運長久を祈っています!」という表現であった。

 いいかえると「武運を祈る」ことを伝えながらも,この裏の意味としては「武人としての命運が長くつづくこと」,つまり死なずに戦いをまっとうすることを願っていた。だが,さらにもう一歩踏みこんでいえば,敵を殺しても自分は殺されるなよという意味も汲みとることができる文句でもあった。

    ★ 武運長久の文字だけの日章旗   

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   出所)https://aucfree.com/items/j551479189

 この「祈願熊野神社」「武運長久」の文字(関係)だけを簡素に書いていた日章旗は,寄せ書きがないところが特徴であって,知人であろう家族3名の姓名が,祈願に参拝した熊野神社名とともに墨書されているだけであった。要は,この兵士「金子八郎」に向けては,けっして「敵の弾が当たらない」ようにと,このクマの神社に参拝・祈願したさい準備したものと思われる。

 「〈声〉兄の出征壮行会,母が『死ぬな』」(『朝日新聞』2017年8月20日朝刊「投書」)

 1)上記投書の引用(石川勝司,埼玉県,無職 89歳)

  私が中学1年だった1941年3月,なりたての会社員だった兄が召集され,家の前で壮行会がおこなわれた。太平洋戦争開戦の9カ月前だが,中国との戦争はもう長かった。町会長や地域の国防婦人会会長らが「天皇陛下のために死んで帰れ」「靖国の神となれ」などと,お決まりの送辞を述べた。

 だが,いよいよ兄が発つとき,その背に母が叫んだ。「よっちゃん,死ぬんじゃないよ。母ちゃん待ってるからね」。兄は一瞬振り返ったが,なにもいわずに去っていった。見送りの町内の人たちは聞かなかったふりをした。

 家に戻ってから,退役軍人の叔父が「なんってことを」と厳しく母を叱った。その筋の耳に入ったら大変だ。けれど母はいい返した。「戦争に征
(い)く者がみんな死んだら勝てないでしょ。天皇さんだってそれは望んでない」。

 結局,兄は沖縄への途上に船が撃沈され,たどり着いた鹿児島県の徳之島で終戦を迎えたという。その翌月の夜,窓の外に近づく兄の足音を,母が真っ先に聞きつけた。

 この投書を読んだとき「やはり母は強い」と感じた。そのとおりである。きっと「戦さで勝ったほうの兵隊は死んでいない」と単純に考えてみるに,そのようにしかいいようがないからである。「武運の長久」が本物であれば「死ぬことなどは」なく,生きて還ってこれるに間違いない。ましてや「死んだら勝てない」ことは,本当は「天皇さんだって望んでいない」ことだというこの想念は,1本筋の通ったりっぱな理屈であり,それなりに説得力がある。

 この母の息子は幸いにも「生きて還ってきた」。この母親が望むとおりになっていた。しかし,敗戦した大日本帝国が大東亜・太平洋戦争を遂行しているときは,『戦陣訓』(陸軍省昭和16年1月8日)をもって,将兵たちにはつぎのように説いていた。本ホームページ筆者なりに,そのなから4箇所を任意に抜き出しておく。⇒以下は引用者の補足説明である。

  ★-1「戦陣の将兵,宜しく我が国体の本義を体得し,牢固不抜の信念を堅持し,誓って皇国守護の大任を完遂せんことを期すべし」。
  ⇒「大日本帝国の存立,すなわち国体の護持」=「天皇天皇制の大事」が,将兵としての第1の使命・任務である点を心えよ,と強調していた。

  ★-2皇軍軍紀の神髄は,畏くも大元師陛下に対し奉る絶対髄順の崇高なる精神に存す」。
  ⇒昭和天皇裕仁」に対する絶対的な忠誠心を要求していた。

  ★-3「恥を知るもの強し。常に郷党家門の面目を思ひ,愈々奮励して其の期待に答ふべし。生きて虜囚の辱を受けず,死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」。
  ⇒戦前・戦中風の「家制度・家族主義思想の絡み」を使い,将兵の立場を縛っている。国際法における軍事関連の常識など完全に無視して,このように「生きて虜囚の辱を受けず,死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」などと命じていた。

  欧米の兵士は捕虜になることを恥ずかしいとは教えられておらず,「死して罪過の汚名」などといった戦場における状況認識などもちあわせていなかった。どちらがまとも近代的な戦争観になっていたか,いまさらいうまでもない。

  ★-4「万死に一生を得て帰還の大命に浴することあらば,具に思を護国の英霊に致し,言行を悼みて国民の範となり,愈々奉公の覚悟を固くすべし」。
  ⇒このいい方:「万死に一生を得て」(つまり,とても助かるみこみがなかったところをかろうじて助かる)と条件づけてモノ:コトを発想する点からして,極度に異様なせりふであった。そもそも,死ぬために戦争をしていたのか?

  そうではなかったはずである。この点は,どこの国の軍隊であっても同じである。はじめから,ただ「死ね!」(死んでこい)という命令を下しているようでは,旧大日本帝国軍がある意味で「強かった」という評価とは,また完全に別の意味で,はじめから《狂気の軍隊》であったことになる。

 2)源田 実にもたれる疑問(特攻作戦では本当の黒幕だった?)
 太平洋(大東亜)戦争の最終段階で登場させて特攻作戦は,その狂気の軍隊の本質を具現した戦術であった。戦略なしのただの戦術としての特攻である。

 医学でいえば対症療法にも劣る,間に合わない,愚策であったにもかかわらず,その戦争行為を無駄・無理・ムラと思いたくない一部の高級将校たちは,自分は特攻を指揮だけする立場(安全地帯)に身を置きながら「戦争のために若者の命を浪費させる作戦」を得意になって敢行させていた。

 だからか,以下のような説明をする人もいる。

  
日本海軍は創設以来,日露戦争のときの旅順口閉塞隊のような高い危険を伴う「決死隊」を志願者を募って出すことはあったが,隊員が生還する道のない「必死」の作戦や兵器は認めなかった。開戦のとき真珠湾を攻撃した特殊潜航艇は,生還の手段が用意されていたので許可になり,一方,人間魚雷は各方面の若い士官たちが熱烈に提唱したのになかなかとりあげられず,やっと試作にかかったときも脱出装置の準備が前提条件であった。これらは,上層部がその伝統を切羽詰まるまで固く守ったからである。

  だが,あえて必死の飛行機特攻を始めたのは,比島沖で日米艦隊の総力を挙げた決戦を前にして,極度に劣勢な日本の航空隊にはこれ以外にはまともに戦う手段がなかったからである。しかし伝統を破ることであり,大西〔瀧治郎〕長官は「統率の外道」と自嘲して呼び,終戦直後に責任をとって割腹自殺した。この特攻は繰り返すつもりではなかったのに,飛行機による体当り攻撃が予想を上回る効果を挙げたこと,また,これ以外に戦う方法がなくなったために終戦まで繰り返された。
  
註記)「『統率の外道』について( '00.3) より」『回天特攻隊 KAITEN TOKKOUTAI』,http://www2s.biglobe.ne.jp/~k_yasuto/5_shougen/konada/tousotu_gedou.htm 参照。

 また,特攻隊については,出生 寿『一筆啓上 瀬島中佐殿-無反省の特攻美化慰霊祭-』(徳間書店,1998年)が,疑惑としてだが,次段のように痛烈な批判を源田 実に放っている。

  「筆者にいわせれば,帝国海軍がそもそも特攻作戦を採用せざるをえなくなった責任の大半は,南雲機動部隊の航空参謀だった源田〔実〕がハワイ奇襲作戦以来の連戦連勝に心驕り,ミッドウェー海戦で,黎明航空攻撃の基本である2段索敵を実施せず,大幅に遅れた敵機動部隊発見に驚き,兵装転換に手間どって戦機を逸し,大敗を喫したからである。南雲艦隊は1名“源田艦隊”とも呼ばれていたことは,誰がこの艦隊の作戦を指揮統制していたかを如実に物語っていた」(出生,前掲書,妹尾作太男「解説」314頁)。

 つぎの ③ に紹介する話題は,いまの時代に生きている20歳台の若者であれば,その曾祖父ほどの年代になる人の戦争体験である。
 
 「〈男のひといき〉語らなかった戦争」(『朝日新聞』2017年8月20日朝刊31面「リライフ」)

   
= 八郷 博(奈良県王寺町建築士 68歳)=

  終戦記念日を迎えると,50年前に亡くなった父を思い出す。父は戦後生まれの私に戦時中の様子を語らなかった。様子をしらせてくれたのは,太平洋戦争の激戦地,硫黄島から舞い戻った1枚のはがきだった。

  父が戦死した自分の弟に宛てたもので,米軍関係者がみつけ,30年近く前に母の元へ戻ってきた。はがきには「家のことは心配せず,元気で務めを果たせ」という弟への励ましがあった。見覚えのある懐かしい筆跡でこうも書かれていた。

  「俺も御国
(おくに)に御奉公致す覚悟でしたが,不幸病気で帰らねばならなかった。現在は,出水(いずみ)航空隊に大工でいっている」。病気で帰還した悔しさ。弟の身を案じ,銃後で懸命に頑張ろうとする姿。初めてしる父の姿が目に浮かび,涙が止まらなかった。

  私は高校時代,はがきにある海軍の航空隊跡地を通り通学していた。しかし,生前の父からは航空隊のことはもとより,戦争に関する話は一度も聞いたことがなかった。戦死した弟と生き残った自分。父にとって戦争というものが口にしたくないほど,つらく残酷な体験だったということだろう。

 ここで指摘されていた「戦争というものが口にしたくないほど,つらく残酷な体験だった」事実は,この事実を本当に経験した者にとってみれば,“その記憶:思い出じたい”すら口にしたくないものであることは,上に登場した人物だけではなくて,どの誰であっても同じであった。戦争体験というものはあまりに残酷すぎて,直接に表現することは憚れたのである。

 そうした事実は,日本の内地で戦争事態が起きていなかった昭和19〔1944〕年半ばまでならば,まだ海外の戦場での出来事であったけれでも,同年11月以降からはその残酷さを銃後の帝国臣民も,本格的に・直接に被る立場になっていた。アメリカ軍のB29による日本本土空襲が始まったのである。

  奥崎謙三「戦後に平等兵を自称した旧軍兵士の反天皇主張」
 

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 出所)下の画像資料は,https://blogs.yahoo.co.jp/clone1230/15983378.html

 a) 最近みつけたのだが,『uplink』をいう住所(アドレス;http://www.uplink.co.jp/)には,『ゆきゆきて,神軍』という映画が「公開30年記念上映」(特別興行)されている情報が掲載されている。今日は2017年8月20日〔前後してこの原文を執筆時の日付〕であるが,上映期間は8月12日(土)~8月25日(金)となっている。関連するそのほかの情報はつぎのとおりである。

 「料金 一般¥1,800 / UPLINK会員¥1,500」
 「※ 特別興業の為,各種割引・サービスデイ適用外,ポイント利用等の無料鑑賞不可」
 「作品分数 122分」
  註記)http://www.uplink.co.jp/movie/2017/48623

 b) 『映画.com』「ゆきゆきて,神軍」(劇場公開日,1987年8月1日のとき)による「解説」

 【監督など】 己れをたった1人の“神軍平等兵”と名乗る奥崎謙三が,終戦後偽日もたってから2人の兵士を“敵前逃亡”の罪で処刑した元上官たちを訪ね,真相を究明する姿を追ったドキュメンタリー。監督は「極私的エロス・恋歌1974」の原 一男が担当。(16ミリより35ミリにブローアップ。)

 【ストーリー】 1982年,兵庫県神戸市。妻・シズミと2人でバッテリー商を営む奥崎謙三は,ニューギニア戦の生き残りであり,1969年に,死んだ戦友の怨念をこめて“ヤマザキ天皇を撃て!”と叫んで天皇にパチンコ玉4個を発射した男である。

 奥崎はニューギニアの地に自分の手で埋葬した故・島本一等兵の母を訪ね,彼女をニューギニアの旅に連れていくことを約束した。奥崎の所属部隊・独立工兵第36連隊で,終戦後23日〔年?〕もたってから“敵前逃亡”の罪で2人の兵士が射殺された事件があったことをしった奥崎は行動を開始した。

 その2人の兵士,吉沢徹之助の妹・崎本倫子,野村甚平の弟・寿也とともに,処刑した5人の上官を訪ね,当時の状況を聞き出す。だが,それぞれ,処刑に立ちあったことは白状したものの,ある者は空砲だったといい,ある者は2人をはずして引き金を引いたという。

 いったい誰が彼らを“撃った”のかは不明のままだった。さらに彼らは飢餓状況のなかで人肉を食したことをも証言するのだった。やがて,2人の遺族は奥崎の,ときには暴力も辞さない態度からか,同行を辞退した。奥崎はやむをえず,妻と知人に遺族の役を演じてもらい,処刑の責任者である古清水元中隊長と対決すべく家を訪ね真相を質す。

 一方,奥崎は独工兵第36部隊の生き残り,山田吉太郎元軍曹に悲惨な体験をありのままに証言するように迫る。そして,1983年12月15日,奥崎は古清水宅を訪ね,たまたま居合わせた息子に銃を発射,2日後に逮捕された。3年後の1986年9月18日に妻・シズミが死亡。1987年1月28日,奥崎は殺人未遂などで徴役12年の実刑判決を受けた。
 
註記)http://eiga.com/movie/39908/

 なお,この映画『ゆきゆきて,神軍』は最近,再上映されていた。初上映から30年後経ってからこの作品を鑑賞した人たちの感想を2つ紹介してみたい。

 以下は,『ゆきゆきて,神軍』(https://eiga.com/movie/39908/review/)から引用する。

  
※-1「2018年5月25日」   30年前に観ましたたが未だに人生の最高傑作です。この映画の前ではどんな映画も吹き飛んでしまいます。手塚治虫マイケル・ムーアのフェイバリットでもあるそうです。万が一見ていないならお見逃しの無いように。

  ※-2「2017年10月6日」
   奥崎謙三は,大まじめです。
   奥崎謙三は,大まじめに「田中角栄を殺す」と宣伝します。
   奥崎謙三は,大まじめに天皇にパチンコ玉を打ちます。

   一般的に奇行と呼ばれる行動をとる奥崎謙三を,まともである私達は「狂人」と呼ぶのでしょう。しかし,彼の様な「狂人」を作りだしたのは誰なのでしょうか。彼の様な「狂人」が作り出された原因はなんだったのでしょうか。

   「戦争」という言葉を並べるのは簡単かもしれませんが,「戦争」という名のもとで行われる数え切れないおぞましい出来事全てを私は経験したことがありません。「戦争」という言葉から数ある想像しかできません。

   だからこそ,私は決して彼を笑うことはできないのです。

   私が,彼と同じく国家権力によって数え切れないおぞましい経験をさせられたとするならば,フィルムの中の「狂人」は,奥崎謙三ではなく,「私」であったかもしれません。そこには,数ある想像のなかで「戦争」を論じていたまともな「私」は存在していません。戦争の「責任」をひとり背負わされた「狂人」と呼ばれる「私」が存在しているだけです


  浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』2010年の説明

 1)皇族軍人
 本書(文藝春秋)から数カ所を引用するが,⑤ までの帝国臣民が戦争を体験させられてきた事実・経過と比較させてみる価値がある。
 
 戦時体制期においては皇族軍人(大日本帝国陸軍・海軍の軍人となった皇族)のうち,戦場において戦死したものはいなかった。もっとも,大日本帝国憲法下においては,天皇大日本帝国陸海軍の大元帥として統括する立場にあったので,皇太子およびその後継の血縁男子は成年に達する,ないしはそれに見合う年齢になったとされると,いきなり将官に任じられていた。

 しかし,そのめだった例外としていまの平成天皇がいた。少年時代の話題であった。敗戦の気配を強く意識していた昭和天皇が,自分の息子にかぎっては「戦後においてなんらかの災厄」が降りかかる可能性をまえもって憂慮し,軍部からはなんどもその要請があったものの,それを断わっていた。このような行為ができたのは,唯一,大元帥陛下の立場であった。例外中の例外であった事例である。

 浅見雅男『皇族と帝国陸海軍』(文藝春秋,2010年)は,こういう内容に論及していた。

 a)明治維新以来の近代日本の歩みをもっとも特徴づけるのは,求心力としての天皇の存在である。そして陸海軍は天皇大元帥と仰ぎ,統帥権独立を保証する憲法のもとで,天皇と直結する回路をもっていた」。「天皇との特別の関係を誇示することが,軍にとっての強力な『錦の御旗』であったことは間違いない。したがって,天皇のもっとも近い人びとである男性皇族の多くが軍人となったことの意味を考えるのは,近代日本の歴史を真摯にみていくうえで,たいへんに重要な作業であるはずだ」(5頁)。
 
 b)「皇族の最大の役割は,戦さよりも天皇の権威を代理することであった」(28頁)。ただし「天皇の『分身』として皇族はかつぎたいが,彼らを危険な目にあわせるわけにはいかないというジレンマは」「昭和にいたるまでずっと軍首脳たちを悩ませた」(30頁)。

 c)「米英などとの戦争が始まってからも,敵と直接対峙するような戦場で働いた皇族は,元貴族,朝鮮王公族を含めてもほとんでいない。やはり危険からは遠ざけられたのである」(240頁)。

 ところでこの国は,あの戦争をいったい誰のために,そして,いったいなんのためにおこなったのか,その結果,どうして敗北したのか? ⑤ で言及した奥崎謙三の話題は,その旧帝国臣民たちへの〈つけまわし:負の災厄〉を受けていた1兵士が,敗戦後になって引き起こすことになった一例であった。しかもそのほんの小さな1件であった。しかし,それもこれもみな,最終的には「天皇陛下大元帥陛下のために」生起させられていた出来事であった。そうではなかったと,おおっぴらにいえる者は1人もいない。

 事実,天皇自身に対しては周囲から戦争の責任を問う声がなんども上がっていた。だが,昭和天皇は結局,自身が背負っていた戦争責任をいっさい問われることがなかった。それにくわえて,この天皇の立場・利害にとってみれば,旧帝国臣民たち1人ひとりの命よりもさきに「なによりも気がかりだったのが,『国体』すなわち『天皇制』が存続できるかどうかだった」(浅見,前掲書,269頁)のである。

 皇族軍人にとって「武運長久」といった庶民(帝国臣民)用の文句は,ほぼ完全に「無用の長物」であった。さて,1945年8月15日,旧日帝は敗戦した(戦闘停止)。その後,敗戦処理の過程においてともかくも,無事に「国体は護持」されたのである。天皇立憲君主から象徴天皇に変身させられた〔その間,紆余曲折を体験してきた〕ものの,皇室じたいはひとまず安泰であった。

 昭和天皇一家の場合,その敗戦体験はよくいわれる「国破れて山河あり」ではなく,「無慮の臣民・死んで・皇室あり」というかたちをもってこそ,敗戦後における皇室生活を再出発させることできていた。それはもちろん,例の《押しつけ憲法》によって実現できていた経過であった。それゆえに,いまの平成天皇が「天皇の地位」に就くとき,つぎのように述べていた。

 2)平成天皇生前退位の希望を披露
 『天皇陛下ご即位に際し(平成元年)-天皇皇后両陛下の記者会見-』(1989年8月4日,宮内庁ホームページをのぞくと,天皇明仁は自身の「生前退位」の問題を提起し,こう確言していた。

 憲法は,国の最高法規ですので,国民とともに憲法を守ることに努めていきたいと思っています。終戦の翌年に,学習院初等科を卒業した私にとって,その年に憲法が公布されましたことから,私にとって憲法として意識されているものは日本国憲法ということになります。しかし,天皇憲法に従って務めを果たすという立場にあるので,憲法に関する論議については言を謹みたいと思っております。
  
註記)http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h01-gosokui.html

 だが,2016年8月8日にこの同じ天皇が「象徴としてのお務めについて」,自分自身の気持(意見:希望)を表明していた。ここでは,その内容の全体は引用しないけれども,すでにいろいろな議論が交わされてもきたように,つぎに引用する一句は,完全に自家撞着の主張になっていた。彼が「天皇憲法に従って務めを果たすという立場にある」にもかかわらず,現憲法には規定のない「生前退位」に関する発言を,しかもNHK(準国営放送)を道具に使い,国民たちに向けて堂々と宣明し。訴求していたのである。こういって話をはじめていた。

 本日は,社会の高齢化が進むなか,天皇もまた高齢となった場合,どのようなあり方が望ましいか,天皇という立場上,現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら,私が個人として,これまでに考えて来たことを話したいと思います。

 あまりにも明白であった天皇による「こうした憲法違反の発言行為」に対しては,どういうわけか「好意的に受けとめる」人びとが多くいたりした。そのせいで,いまもそのまま「天皇明仁による正式(公的)の意思表明」と解釈され,位置づけられているかの様子すらある。しかし,その事実についてからして,もともと「おかしいことはおかしい」と的確に断わっておく必要がある。

 要するに,いろいろな解釈がどのようになされていようとも,そのような否定的な判断が,まず第1に諒承されておかねばなるまい。いまの制度における「天皇を神格視するつもりがない」のであれば,このような指摘(批判)を受けて,これにまともに反証できる適切な立論を用意したうえで,たがいに議論をすべきである。

 現行憲法において「『主権在民』である基本精神」は説明するまでもない自明の大前提である。しかし,そこにこの「主権を有するという国民たち」の上には,この「国とその民を統合するための象徴である天皇」が厳在している。「主権君主」の大きな尻尾がみえかくれしている。というごとき事情のなかではたとえば,こういう問題が残されている。本日〔2017年8月21日〕の『朝日新聞』朝刊「天声人語」がたまたまであったが,このように論じていた。

  
 元号について ★

 先週,ある省庁の会議を傍聴していた。メモをとる手が止まってしまったのは,こんな言葉が耳に入ったときだ。「平成41年度までの10年間,こうした事業を……」。天皇陛下の退位により平成は,30年もしくは31年までとみられているのに,である。

 ▼ 官僚たちがしらないわけはない。しかし役所の仕事は西暦でなく,元号を使うのが原則なのだ。あるはずもない「平成40年代」を語るのは,決まりに従うなら,きわめて正しい。そしてややこしい。

 ▼ このさい元号をやめたらどうかという気もしてくる。戦後の論壇を振り返れば,そんな議論はあった。仏文学者の桑原武夫は1975年の論考「元号について」で,世界に通用する西暦を使い,元号は廃止すべしと主張している。

 ▼ 「人間としての天皇の御一生に私たち国民の……あらゆる生活の基準を置くというのは,象徴ということにふさわしいとは申せません」とも書いている。御一生を在位期間とすればいまも通じる意見だろう。そこまでいかなくともせめて公文書は,西暦を主,元号を従としてはどうか。

 ▼ いやいや元号は,味わいのある時代区分だから大事だとの声もあろう。当方も「昭和の文化を……」などと表現してしまうことがある。しかし考えてみれば同じ昭和でも戦前と戦後は違う。高度経済成長の後も,社会はがらりと変わった。

 ▼ 中国から周辺の国々に伝わった元号だが,いまや日本だけが使っている。まだまだご活躍願うか,少しずつ荷を下ろしてもらうか。議論の好機であろう。


 3)元号の問題-歴史・由来-
 この意見は元号廃止「論」の提唱である。本ブログ筆者は元号と西暦の混用する暦年の不都合さ・不便さを,たとえば下2桁の数字で表わす点に着目し説明したことがあるが,明治・昭和・大正・昭和・平成といった一世一代
(いっせいちだい)の奇妙さ,いいかえれば,明治「維新的なその意味あい」は,日本における元号制の本当の伝統からずれた点に露出している。
 
 明治維新にさいしては,1868年10月23日(当時は旧暦を使用していたので,元号を用いれば明治1年9月8日)の「今後年号ハ御一代一号ニ定メ慶応四年ヲ改テ明治元年ト為ス及詔書」という政令があり,そこで一世一元制が定められていた。

 日本の敗戦により旧皇室典範は廃され,新憲法制度のもとで1947年に新皇室典範が定められたが,そこには元号に関する規定は設けられていなかった。戦後初期には,天皇制それじたいへの疑義や昭和天皇退位論があったが,元号についても廃止論が提起されていた。

 1950年,日本学術会議内閣総理大臣,衆参両院議長に対して「元号廃止,西暦採用について」という申し入れをしている。そこでは,「元号は不合理」で,「なんらの科学的な意味がな」いとされ,また法的根拠もなく,そして元号天皇主権と表裏一体であったので,民主主義にはそぐわないとしていた。この年には,参議院文部委員会で元号廃止法案が審議されており,社会で一定の議論があったことがうかがえる。

 1977年1月,日本社会党元号廃止法案を提出する準備を始める。自民党のなかにも,それに対応する動きが出始め,元号に法的根拠を与えることになり,1979年に「元号法」(1979年6月),「元号選定手続要項」(1979年10月)が定められた。元号法の内容は,「一,元号政令で定める。二,元号皇位の継承があった場合に限り改める」となっている。これは現在でも,もっとも短い法律としてしられている。
 
註記)川島 真「日本の元号制度:その歴史的背景」『nipponn.com』2017.04.27,http://www.nippon.com/ja/in-depth/a05403/

 元号といったひとつの問題を仲介にして,日本の天皇天皇制問題がかかえている,あるもっとも基本である論点がいったいどこにあるかが,およそ見当がつく。むずかしい問題ではないが,ただむずかしいのは「この問題を本気で議論できる」かどうか,である。前述の元号法は,なぜ元号が置かれねばならないのかなにも書いていない。その意味ではまことに奇怪な法律である。

 4)「〈政治簡断〉あなたが黙ると,窒息するのは…」(編集委員・松下秀雄稿『朝日新聞』2017年8月21日朝刊4面) この論説からは最後部分(全体の約5分の1ほど)を引用しておく。

 戦後の日本では,戦争の悲惨さを伝え,平和憲法を守る運動が展開された。けれどこの先も平和が続くのか,あやしげな気配が漂う。かつての日本はなにを間違えたのか,あらためて考える時ではないか。

 そのひとつは,異議や疑問の封殺だと思う。旧軍では上官の命令は天皇の命令とされ,命令の理由を聞くことも認められていなかった。そして,人命を限りなく軽んじる作戦や行為が繰り返された。考える「個人」を,窒息させた結果だった。

 既出の人物「奥崎謙三」の行動は,対社会的に観て間違いなく問題だらけの軌跡を残していた。だが,その問題提起のなかに含まれるものには,天皇天皇制の本質を衝く点がなかったわけではない。

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