日本の元号は世界に誇れる「天皇による時間の支配観念」か,本当は,封建遺制を引きずりながら「明治の時代が創った一世一号制」

日本の元号は世界に誇れる「天皇による時間の支配観念」か,本当は,封建遺制を引きずりながら「明治の時代が創った一世一号制」

                   (2017年6月12日)


 要点:1 日本は天皇が「時間を支配する国」か

 要点:2 天皇のための国か,それとも人びと(ピープル)のための国かと問えば,元号天皇のためであり,国民たちのものではない

 要点:3  「自分たちのものだ」と考えたい人びとの存在まで否定しない


 元号 今は日本だけ 西暦以外の暦は世界各国に」(『日本経済新聞』2017年6月111日朝刊3面「総合2」)

 元号は紀元前の古代中国で使い始めた。為政者の交代や政治の心機一転を図る時などにあらためる(改元)のが特徴で,日本のほか朝鮮半島ベトナムなど東アジアに広がった。近代化の影響などで,本家の中国でも1912年に滅んだ清朝を最後に使われなくなり,いまも維持しているのは日本だけだ。日本では明治以降,天皇一代につき元号1つの「一世一元」を採用している。
 補注)ここでの表現:「近代化の影響などで」「使われなくな」ったにもかかわらず,「いまも維持しているのは日本だけだ」というのであれば,けっして自慢できるような存在・制度ではない要素が,元号には含まれているはずである。このように考えるのが自然である。

 西暦以外の暦としては,イスラム教国の多くで,預言者ムハンマドがメッカからメディナに拠点を移した「聖遷(ヒジュラ)」の622年を元年とするヒジュラ暦イスラム暦)を使用。太陰暦ラマダンの期間はこの暦にもとづいているため西暦では毎年変わる。
 補注)暦の問題と元号の問題はただちにイコールではない。日本にも紀元という暦があり,2017年であれば,1940年が紀元2600年に当たっていたとされるので,その2017年は「2600年に77年を足して2677年だという計算になる。ところで,いまから2千7百年ほど昔のこの日本は,いったいどのような国家(?)があったのか。紀元前の1000年から200年が「縄文時代区分」でいうと「晩期」に分類されるそうであるが,日本神話の話法で十分に語れるような歴史の対象ではない。 

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 出所)https://romaneko.at.webry.info/201809/article_13.html

 イスラム教徒にとっての,622年を元年とするヒジュラ暦イスラム暦)は歴史の事実にもとづいているが,紀元は実在などしているはずもなかった「神武天皇の神話的物語の世界」から空想的に引き出された暦の出発点である。紀元節:2月11日もそうであったが,歴史学的に実証できる根拠はなにもなかった。 

 皇族の歴史学者であった三笠宮も認めていた。それでもともかく,この『日本経済新聞』の記事は,比較の困難な題材を元号の問題に牽強付会「気味」に,いかにも「そうであるか」のふうに語っている。つまり,論理の運び方にゴマカシ的な要素がまざりこんでいる。

〔記事に戻る→〕 台湾には中華民国成立(1912年)を元年とする「民国紀元」がある。故金 日成主席の生誕年と重なるため,北朝鮮の「主体暦」も同年が元年だ。国立民族学博物館の中牧弘允名誉教授は「日常生活で使われているものを含めれば,大半の国や地域では西暦以外も併用している」と指摘する。(引用終わり)

 なお,20世紀において東アジア諸国の独裁者が自分の生年や国家の誕生年を「元年」としたのは,それはそれで勝手であり,その国々の後進性(発展途上性?)を,はしなくも当然のように,傍証的にも露呈させている話題であるに過ぎない。    

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  出所)画像は中牧弘允,https://www.r.minpaku.ac.jp/nakahiro/japanese/

 前述における中牧弘允の発言(説明・解釈)がなにをいいたいのか,判りにくい。この文句:「大半の国や地域では西暦以外も併用している」とは,その事情に関する精査が必要であって,いまどきにおける日本の元号制を正当化するためのなにかに使いたいのであったとしたら,これは検討はずれの意見である。

 

  古代・中世の暦を現代民主主義国家体制のなかにもちこんだ後進国家的な「元号法-罰則なし-

  『元号法』(昭和54〔1979〕年6月12日法律第43号)

    1 元号は,政令で定める。
    2 元号は,皇位の継承があつた場合に限り改める。

      附 則

     1 この法律は,公布の日から施行する。
     2 昭和の元号は,本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

 原 武史『知の訓練-日本にとって政治とは何か-』(新潮社,2014年)は,明治以来に構築されてきた「時間の支配」を論じた好著である。こういっている。「明治中期に確立された日本の天皇制国家は」「天皇の意思とは無関係に,あらかじめ決められた時間こそ絶対であり,そのスケジュールに併せて天皇も動かなければならない。その意味で独裁とはいえない」と(36頁)。

 だが,明治以来におけるその「時間の支配」の頂上に天皇がましましていた事実まで,原 武史は否定しているわけではなく,むしろ,天皇が神聖だとされ「侵すべからず」とされたこの天皇「制度」を,「時間の支配」の次元・領域においてこそ同時化させ,臣民(国民:人民)を支配するための「時間性」として,意味論的に再構成したと受けとったほうが適切である。

 その原 武史『知の訓練-日本にとって政治とは何か-』2014年の売り文句は,こう宣伝されている。

  “知” を鍛えれば,「この国のかたち」がはっきりとみえてくる。西洋から輸入した国会中心の「政治(ポリティックス)」と,天皇中心の「政事(まつりごと)」。両者がせめぎあい,日本という国はかたちづくられてきた。「なぜ皇居前で暴動が起きないのか」「伊勢神宮 vs.出雲大社」「アメリカ化する地方」等,都市や宗教,時間,性といった私たちの日常に隠れた「政治」の重要性を説き明かす。長年の研究成果を惜しみなく盛りこんだ, “学び” の喜び溢れる白熱講義!

 明治「維新」以降,この国は近代化・産業化・軍事主義化の路線をひた走りに走ってきては,結局,1945年8月の最終的な破綻に逢着した。その悪影響はいまも「在日米軍基地に支配されるこの国」の現状となって継続されている。だが,この現実のなかにおいてもなお「時間を支配」するために存在しているかのような機構,つまり「天皇天皇制」をありがたがる人びとの「未熟な政治意識」が払拭できないままにある。

 

  米日両国間の従属関係を直視しない日本の政治

 最近,ケント・ギルバートというアメリカ人--この人はだいぶ以前から日本人にはおなじみの人物である--が,たいそう売れている本を執筆していた。その本の基本は嫌中・嫌韓であるが,そこまでいうのであればギルバートは,日本とアメリカの基本的な関係を,アメリカ人の立場から論じてほしいところである。だが,アメリカ人にとっての現状のごとき日米関係は,なるべくそっと放置していたほうが好ましい実体である。

 ギルバートが日本人・民族に大いに受ける本(すでにベストセラーになっていた)を書いたのであれば,つぎに言及する諸文献においても,端的に明快に語られている『日本国のアメリカ合衆国への従属性』を,もっと主体的な論調をもって語らねばなるまい。そうしたら,嫌中・嫌韓本をこのアメリカ人が書いてくれた快哉の声を挙げている日本人側は,ギルバートに対する支持の気分を瞬時に解消させてしまうはずである。 

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  出所)http://www.asagei.com/excerpt/56894

 上の画像を借りた記事のなかで,ギルバートはこういっていた。

 〔いまの日本の〕「本を正せばGHQの政策がもたらしたものですから。結局,アメリカが変な日本を作ってしまったんですよ」。この人物は日本人受けする書物を懸命に執筆してきた。いまではすっかり日本のネトウヨが大いに喜ぶ書物の書き手になっている。今回たいそう売れている本を,なぜ彼が執筆することになったかは,別の裏話もあるが,ここでは触れないでおく。要は,この人物は日本という国の洞穴に住んでいるコウモリのような存在になっている。 

 いまから13年前に,関岡英之『拒否できない日本-アメリカの日本改造がすすんでいる-』(文藝春秋,平成16:2004年)が公刊されていた。この本に巻かれている帯にはこう書いてある。「この驚嘆すべき恐怖の事実になぜ誰も気づかなかったのか?」

 そして,本書に対するアマゾンでのブックレビューは,いま〔ここでは2027年6月12日時点〕までで103件記入されていたが〔最新の本日:2019年12月1日では96件〕,その数が多いので,それらを適切に要約的に解説することは不可能である。いまここでは,任意につぎの論評1点のみを紹介しておく。評価の☆を5つ付けている人の言葉である。

    ◆ 日本の政治家は,アメリカのトロイの木馬
   = 投稿者西岡昌紀 VINEメンバー 2008年12月23日 =

 衝撃的な本である。阪神大震災後,あれだけの人命を失った日本が,耐震基準を強化するどころか,アメリカのために,耐震基準を緩和していたことなどを,私は,この本を読んで初めてしった。そうしてことをしって,私が,ただちに抱いた疑問は,いうまでもない。

 日本の新聞・テレビはなぜ,アメリカによるこうした不当な干渉を報道しないのか(?)という疑問である。答えは,明らかである。

 日本の新聞・テレビは,アメリカの道具なのである。そして,彼らがなにも報道しないなか,アメリカの要求通りに日本を「改造」しようとする日本の政治家は,アメリカのトロイの木馬にほかならない。彼ら(日本の政治家,マスコミ)が日本国民の敵であることを認識することが,日本を日本人の手にとり戻す第一歩である。

 アマゾン・レビューからそのひとつだけの紹介であるから,多少「偏りのある意見(評価)」のとりあげになっているかもしれない。だが,日米関係の本質に迫る「政治認識」を,この本を読むことによって,あらためてえられたという読者の意見は,拝聴に値するものである。ケント・ギルバートにいま一度返って指摘すると,このケントは関岡英之が真っ向から批判の切っ先を向けている人物であった。ケントは,いわばアメリカが日本に送りこんだ「トロイの木馬」に乗ってきた,きわめてエセ極右風の,それもかなりデタラメな執筆方法も指摘されている人物であった。

 以上の議論に着いていけない,判りにくいという人にはここで,つぎの文献を挙げておく。

  ※-1 春名幹男『仮面の日米同盟-米外交機密文書が明かす真実-』文藝春秋,2015年。

  ※-2 松竹伸幸『対米従属の謎-どうしたら自立できるのか-』平凡社,2017年。

  ※-3 猿田佐世『自発的対米従属-知られざる「ワシントン拡声器」-』KADOKAWA,2017年。

 この3冊のこの題名をみただけでも,日本という国家がアメリカの舎弟か三下か子分かしらぬが,徹底的に従属意識に沈潜・埋没している事実が,ひしひしと伝わってくる。そんな・こんな国:日本のなかで「この国はすばらしい天皇を戴く国柄に恵まれており,だから元号制も存在するのだ」という点を強調・讃美したところで,はたして,21世紀における現代国家体制のありようとして好ましい存在形態でありうるかどうかは,答えるまでもなく,判断する以前の自明に属する事項である。

 いま,安倍晋三政権の中心部を占めている政治家たちは明治の時代が,しかもそれよりも以前の〈どこかのヨリ古いその時代〉のことではけっしてないのだが,とても恋しいらしい人たちである。どの時代を,どのように恋しがるかは,それぞれの個人の気持の問題であるから,いちいち突っこみは入れない。

 けれども,1945年8月に出ていたはずである,明治維新以降の「大」日本帝国に下された総決算という「大」問題を棚上げしたまま,いまだに明治の「坂の上の雲」を恋しがる精神は,まともに日本の近現代史を勉強した者であれば,とうてい理解の域には収まりえない「幼稚かつ自慰的な自国の歴史に対する理解のあり方」だと批判されてよい。

 ましてや,この国は元号法を定めていたが,古代史においてはなかった「一世一号」として元号「規定」を,実際に法律にもとづいて施行させている。こうした敗戦後日本の時代精神は,モダーンという言葉:形容からははるかに遠いところに存在する,いわば,古色蒼然とした時代錯誤,大和魂だといっても先進国のあり方としては,まともな先進国からは何周回も遅れた『封建遺制的な国家精神』を,正直に物語っている。

 

  それでも「一世一号」の元号制を使いますか? 

 2017年6月10日の『日本経済新聞』朝刊には,つぎのごとき感想を述べた「社説」を掲載されていた。

 ◇-1「〈社説〉改元準備を急ぎ皇族数減少への対策を」は,こう論断していた。

 「今回の立法の過程で,多くの国民が象徴や皇室の意義をみつめなおした。『国民の総意』が成ったのを機に,70年続いた象徴天皇制の歴史を振りかえり,守りつづける思いを新たにしたい」。

 つまり,いまの天皇天皇制は,敗戦後にGHQが「押しつけてくれた」日本国憲法のなかに規定されている「天皇家のあり方」の問題であり,またいえば,まさしく20世紀後半に創造・構築されていた天皇制度の問題であったことを,いまさらにように確認させる論説である。 

 ◇-2「〈同上,1面の記事〉天皇退位時期,2018年12月末と2019年4月1日の2案軸 来年通常国会後に判断」。

 「政府は天皇陛下の退位時期について,2018年12月末と19年4月1日の2案を軸に調整する方針だ。陛下の退位と皇太子さまの即位に伴う新元号は,即位の数カ月前に公表する検討に入った。元号を扱う業者など国民生活への影響を最小限に抑えるため,新元号の発表から切り替えまで数カ月の周知期間を置く。来年の通常国会閉会後に一連の日程を最終判断する」。

 ここで指摘されている「国民生活への影響」とは,昭和天皇から平成天皇への代替わりのとき日本社会に与えた悪影響,つまり「天皇問題を中心に社会全体も動かそうとする」この国の封建思想的な意向の発動によって,社会混乱にも似た現象を発生させていた事態を指している。

 ◇-3「1面の〈論説主幹:芹沢洋一〉『新しい時代』拓くものへ,天皇退位特別法 成立」。この記事についてはこの「見出し」しか参照せず,本文は引用しない体裁でもって,つぎのように批評する。

 天皇が代替わりすればたしかに「新しい時代」のひとつの指標になる。だが,日本の暮らす人びとの全員がそのように新しい時代になったと意識させられる必然的な事情に,たとえば元号があらためられたからといって,移行することになっていたのか?

 1901年4月29日に生まれ,1989年1月7日に87歳で死んだ天皇裕仁が日本社会にもたらしたいろいろな影響は,けっしてあなどれない数多くの・種々の中身があったはずである。

 「天皇が死ねば,つぎにともかく,新しい時代が来るのだ」というのは,天皇家にとってはたしかにそのとおりである。だが,全国民たちにとっても同じ意味が同時代的に発揚されたり,強要されたりしなければならない必然的な理由は,ない。 

 確か,日本の主権は国民の側にあったはずだが,この国・民を統合するための象徴である天皇の存在が,いつの間にか,「在民を優越する在君」の意味あいばかりを前面に出すだけの国家体制になっていないか。

 

  原 武史『可視化された帝国-近代日本の行幸啓-』みすず書房,2001年 の含意

 本書,原 武史の『可視化された帝国-近代日本の行幸啓-』2001年については,『朝日新聞』と『日本経済新聞』の書評が出ていたが,ここでは別の「〈書評〉原 武史『可視化された帝国[増補版]-近代日本の行幸啓(始まりの本)-』みすず書房,2011年。『ujikenorio’s blog』https://ujikenorio.hatenablog.com/entry/20120505/p2  を紹介しておきたい。

   ◇ 鉄道が形成する「可視化された帝国」◇


 ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』(NTT出版)は,近代史や近代文化史を研究する者にとっては,いわば基本中の基本ともいうべき現代の古典の一冊であろう。本書は,アンダーソンの「想像の共同体」論を,明治以降の近代日本の実状とすりあわせながらがら,国民国家の成立にメディアがどのような役割を果たしたのかを分析する。

 国民国家の制度化に先行する「想像の共同体」は出版メディアによって可能となるという筋書きだが,筆者は日本社会においては,それに相当するものがなかったという。では,日本の近代国家の成立に貢献したメディアはなになのか。筆者は鉄道に注目する。

 メディアといえば,情報を伝達する手段をイメージするから,「鉄道がメディア?」と聞けば違和感があるかもしれないし,鉄道ファンを自認する筆者ならではの牽強付会(?)と思うかもしれないが,それは早計だ。鉄道も情報を伝達するひとつの手段であるし,情報だけでなく人間そのものを「結びつける技術的な手段」という点においては,具体的なメディアであろう。

 さて鉄道に注目する筆者は,明治期の国民国家形成に果たした最大の役割を,鉄道を用いた天皇行幸啓であると指摘する。天皇の「お召し列車」が全国各地を通過することで,各地域のひとびとは動員される。決められた時間どおりに走る列車に向かって,いっせいに敬礼する。この振る舞いが拡大することで「帝国」が「可視化」されながら成立していくとみるのである。

 本書は天皇制論,政治学,文化史としての価値が高い一冊であることはいうまでもないが,「鉄道文化史」としても面白い一冊である。

 

  たとえばこの書評を読んでもらえば,④ まで本ブログ筆者が記述した意味の関連において,理解してもらえるなにものかが確実にあるはずである。

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