毎日新聞社エリート幹部記者,岩見隆夫の満洲国に対する認識の甘さ

岩見隆夫『敗戦-満州追想-』(原書房,2013年7月)の語る敗戦体験
                  (2015年02月25日)

 

 要点:1 「負けない戦争」であれば正当化・合理化できる「大東亜・太平洋戦争」だったのか?

 要点:2 明治の時代の「坂の上の雲」はどこからどこへ流れ去っていったのか?

 

 岩見隆夫「略歴」など

 岩見隆夫『敗戦-満州追想-』(原書房,2013年7月)が刊行された当時,この新本を書店でぱらぱらとめくってみたが,そのときは買わないでおき,いずれ読む機会をもつ本にしておくことにした。それから半年ほどが経過してから,アマゾンの古書販売でのぞくと,送料こみでも定価(消費税抜き)の約3割の値段で購入できた。

 本ブログはごく最近(この文章を最初に執筆した時の)「2015年2月21日」に,「落合信彦安倍晋三をボロクソに批判し,『幼稚と傲慢』の首相である核心(シンゾウ部)を痛撃」を書いていた。

 そのなかで,日本政治のなかでこのごろ,1人だけいい気になって,それもずいぶんと「鼻息ばかり荒く,乱暴狼藉」を働いている最中である首相,安倍晋三の,母方の祖父に当たる岸 信介について,〈昭和の妖怪〉と題した著作を執筆していたのがこの岩見隆夫であった,という事実に言及していた。 

 当初,筆名の田尻育三を使っていた当時であったが,岩見隆夫は『昭和の妖怪 岸 信介』(学陽書房,1979年)を公刊していた。本書はのちにおいても,岩見隆夫『昭和の妖怪 岸 信介』(朝日ソノラマ,1994年),同書(中公文庫,2012年)へと,長期間にわたり売れゆきを維持していた。この題名じたいからして,なかなか訴求力のある作品であった。

 ここで,ジャーナリスト・政治評論家だった岩見隆夫(いわみ・たかお;1935年10月6日~2014年1月18日)の略歴を紹介する。

 戦前の関東州大連市〔現・中華人民共和国大連市〕で生まれ,敗戦を機に日本に移住し,山口県防府市で育ち,京都大学法学部卒業後,1958年毎日新聞社に入社,毎日新聞論説委員までを務めて2007年3月退社。2012年10月1日付で特別顧問に就任。

 毎日新聞社退社後は,政治評論家としても活動してきた。毎日新聞サンデー毎日に連載をもった。政見は改憲容認など毎日新聞の社論よりは保守的なものが多い。1992年には連載企画「新編・戦後政治」やコラム「近聞遠見」の執筆で,政治報道に新生面を開いたことが評価されて,日本記者クラブ賞を受賞している。

 毎日新聞社退社後は,クルーズ客船「飛鳥Ⅱ」による約3ヶ月間の世界一周旅行(2007年4月初旬放送のTBS『みのもんたの朝ズバッ!』にてクルーズ客船を特集したさい,出発間近の同船に岩見が乗ることをみのもんたが口にした)を経て,2007年夏ころより毎日新聞客員編集委員として再始動。同年9月13日には春までレギュラー出演していたテレビ朝日やじうまプラス』で久々に出演した。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/岩見隆夫 参照。

 

  岩見隆夫『敗戦-満州追想-』(原書房,2013年7月)感想文の一例

 岩見隆夫の本書をアマゾンで購入したさい,参考にまでとさきに読んでいたのがつぎのレビュー(書評)であった。このレビュー以外にも2件のレビューが掲載されているが,そちらはあまり参考にならなかった。以下に引用するこのレビューは,筆者が本書を読んでいるときに岩見に対して違和感を抱いた点を,まえもって真正面より的確に指摘してくれていた。

 筆者は,そのレビューが指摘していたが,「冒頭を含め3度出てくる」というその〈問題点〉のうち,2度(の個所・記述)分しか記憶に残っていなかった。だが,この指摘を受けてあらためて,本書においては3度も出ていたというその問題点,つまり,戦争に「負けてはならない」ことを強調していた「岩見隆夫のいいぶん」に,あらためて注目してみることになった。

 ともかく,参照したそのレビューを全文引用しておく。これは「評点の5つ星(★)」を1個しか付けていない辛い評点での感想文になっていた。投稿者筆名は「星月夜」氏。

 病床での本書原稿の最終手入れ,さぞかしご苦労されたことだろう。その労に対しなんとか賛辞を綴りたいと思ったのだが,残念ながら総じて違和感が拭えなかった。それは冒頭を含め3度出てくる,

 「二度と戦争は避けるべきは当然だし,もっと避けるべきは敗戦なのだ」(1頁),
 「戦争は何として避けなければならない。だが,もっとも避けなければならないのは敗北の悲惨である」(195頁),
 「私たちの満洲体験から得た貴重な教訓は,いかなる形であろうと二度と戦争をしてはならないこと,しかしもし戦乱に巻きこまれたら絶対に負けてはならないこと,の二つに尽きる」(216頁)

という部分である。上げ足をとると誤解されたら残念だが,では「負けなければよいのか」ということだ。日本が今度の戦争で負けていなければという乱暴な考えが保守層の一部に根強く残っているのは作者も十分ご承知だろうに,いまこれを繰りかえして述べる意味が理解できない。

 作者は,戦後64年ぶりに大連を訪れた時のことを,「中国側は,日本からの観光客に,日本統治時代の象徴的な建物のうらぶれた醜い姿をみせつけたかったのか,と思ったりしたが,邪推かもしれなかった」と書いているが,被害を与えた側のついての視点が欠けているといわざるをえない。

 これがまた2006年に開かれた満州がテーマのシンポジュームで作者が語ったという「塗炭の苦しみを味われた方々には大変恐縮なのですが,私にとっての敗戦体験は痛快の一語に尽きるのです。・・・」(56頁)に繋がっているのではないだろうか。

 岩見隆夫の略歴を紹介する文章のなかには,岩見の「政見は改憲容認など毎日新聞の社論よりは保守的なものが多い」という指摘があった。しかしそれでもなお,政治的立場として保守的であるか革新的であるかという以前の問題が,岩見にはありそうである。

 評者の「星月夜」氏が岩見『敗戦-満州追想-』に抱いた印象は,本書が非常に数多くある満州モノの著書作品のうちそのひとつであるという事実以上に,毎日新聞社の最高幹部にまでなった人士の発言として観るとき,歴史認識の次元において結局,ごく素朴な被害者意識しかもちあわせていなかったのか? この種の疑問が湧いてきた。

 

  岩見隆夫は旧満州〔国〕のなにを,そのどこを,いかに観てきたのか?

 本ブログは,2014年03月26日に「大日本帝国満洲帝国の思い出-赤塚不二夫の場合-」「帝国の欲望のなれのはて」という題名で,「① 昔「満洲国」という国があった」という項目から始まる記述をおこなっていた。
 補注)本ブログは,昨日〔2019年12月2日〕に,赤塚不二夫に関する記述を復活させてあった。

 岩見隆夫と同じく旧満洲国からの引き揚げ〔移住〕組のなかには,中国引揚げ漫画家の会編,上田トシコ / 赤塚不二夫 / 古谷三敏 / ちば てつや / 森田拳次 / 北見けんいち / 山内ジョージ / 横山孝雄 / 高井研一郎 /石子 順が共著で『ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験-』(亜紀書房,1995年)という本を公表している。

  

 こちらの内容も「生まれ故郷満洲の思い出」や「引き揚げ(日本移住)時の苦労話」になってはいるものの,さらにつぎのごとき〈歴史の記憶〉を表現することを忘れていなかった。

    『ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験-』

         の目次・内容説明

 祖国はなれて   「メーファーズ」-これでいいのだ!!
 中国原体験の光と影   ぼくの満州放浪記
 ぼくの満引き(満州引き揚げ)物語   記憶の糸をたぐり寄せて
 わが故郷,大連   豆チョロさんの戦争体験記   上海に生きて
 座談会 ボクの満州・中国

 赤塚不二夫ちばてつや森田拳次古谷三敏北見けんいち達旧満州育ちの漫画家9人による画文集。戦争の悲惨さと,時代に翻弄されながらも逞しくしたたかに生きた人々の姿を,少年の眼を通して描いた。

 補注)なお,各著者の姓名の下には,満州国で暮らしていた都市名がそれぞれ書いてある。

 政治家や運動家がなにをどういおうと,戦争はダメなんです。戦争をして真っ先に迷惑を被るのは兵卒さんとそして一般人なのです。政治家は一番最後。

 この本は,子どもの目からみた敗戦と,抑留,そして引揚を綴っています。ユーモラスに書いてはいますが,その後ろには抜きがたい戦争の刃が刺さっているのです。必読! です。

 なお途中になるが,ここでいったん,つぎの話題を入れておきたい。4日前(2019年11月29日)に大往生していた中曽根康弘に関する話題となる。

    美輪明宏・対中曽根康弘

 女子高生のケイケイタイの待ち受け画面に美輪が大人気らしいが,美輪の直言が若い人にもてはやされるのはいい。その日も美輪のなめらかな舌によどみはなかった。 

 私が美輪に,右筋からの圧力はないのかと尋ねると,顔色も変えず,「なににもないですね。中曽根(康弘)の悪口なんかいってると,ひどい目に遭うかもしれないから,注意した方がいいですよ,と忠告されたことはありますけどね」と答える。

 中曽根には実際に会ってケンカ別れしたという。さきごろ亡くなったシャンソン歌手の石井好子の紹介で会い,いきなり,「キミらみたいなのは海軍魂をしらんだろうな」といわれた。 

 それで美輪は,「ええ,年齢が年齢ですから(敗戦の年が10歳)海軍魂はしりませんけど,原爆にやられました。竹槍の練習もさせられましたし,銃後の守りでいろいろやらされました」と返し,さらにこう反論した。

 「でも,おかしいですね。そんなに海軍魂とやらがたいそうなものだったら,なんで負けたんですか。向こうが原爆つくってる時になんで私たちは竹槍をつくらされてたんですか」。中曽根の無礼に対する美輪の怒りは,これでとどまらない。

 「自分の同僚を見殺しにして,おめおめと帰って来て,腹も切らないでのうのうとしている。そういう面汚しの厚かましいのが海軍魂なら,私はしらなくて結構です。しりたくもありません」。トドメを刺されて中曽根は憮然とした面持ちで席を立っていった。

 その後,新幹線に乗ったら,中曽根が先に座っていた。美輪の席はその真うしろである。それでも仕方がないからしらん顔をして座っていると,秘書がつぎの車輌にいき,老夫婦を連れて来て交替した。逃げたわけである。

 この逸話を紹介した後の美輪のタンカがまたすごい。「男の風上にも置けない。てめぇ,キンタマついてんのかですよ。たかが芸能人風情に対してね」。

 だいたい,中曽根は前線に出なくてすむ主計にいたのだから,勇ましいことをいう資格はないのである。それにしても美輪の爽快な毒舌に圧倒されて,私は,なぜ怪しげな江原啓之(えはら・ひろゆきをかわいがるのかと尋ねるのを忘れてしまった。
 原注)『週刊金曜日』2010年9月17日,815号,23頁「抵抗人名録-美輪明宏」。

 相手が芸能人だからと思っての発言だったのかどうかはしらないが,戦争が終わって65年もたってから,しかも負けた戦争だったのに,自分が軍人だったことを自慢げに語った中曽根氏の心境が理解できない。結局,なにも反省していないということなのではないか。

 この中曽根康弘は2019年11月29日,東京都内の病院で死去していた。1918年生まれで 101歳だった。中曽根は「戦後政治の総決算」をかかげ,5年間にわたる長期政権で国鉄分割民営化などに取り組み,原発政策や憲法改正論議にも大きな影響を与えた首相だという名声(?)を残した。

 政治家としての中曽根泰弘は,まさしく〈悪い奴ほどよく眠て,生きる〉が「生きて・死んだ」好例・見本であった。中曽根はさらに,バブル経済を破綻させる素因を提供しており,また,JAL123便御巣鷹山墜落事件にかかわっては “黒幕だ” と推理されてもいる「風見鶏の政治家」であった。

【参考記事】 篠原修司稿「中曽根元首相『真実は墓場まで持っていく』発言は本当にあったのか?」『YAHOO!JAPAN ニュース』2019/11/30 15:23,https://news.yahoo.co.jp/byline/shinoharashuji/1130-00153082/

 本論に戻ろう。つぎに,この『ボクの満州』からではなく,赤塚不二夫自身が描いた満州から日本へ移動中の家族の絵姿を,つぎに紹介しておく。この子どもたちのうち一番ちいさい妹は,日本に帰国できたとき,落ち着き先ですぐに「息を引きとって死んだ」という不二夫の思い出話は,あまりにも悲しい。 

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 『ボクの満州-漫画家たちの敗戦体験-』の最後に,石子 順によるこういう発言がある。

 「私たちの満州,中国体験というのは即戦争体験なんですね。親たちが向こうへいったということで出会った戦争体験であるわけですけれど,それを子ども時代に経験した。植民地を支配する日本人の子どもとして経験したわけです」。

 「8月15で支配する立場から石をもって打たれるように状況が変わって逆転したときどう生きたから,引き揚げはどうだったか。いつも死と背中合わせだったわけですが,それを振り切って生きてきた」。

 「中国に対する思いは懐かしいといったことではなく,日本はいったいなにをしたかということをみつめることです。この本がそのあらわれとして少しでも世の中の役に立てば幸いだと思います」(235頁)

 これに対して岩見隆夫『敗戦-満州追想-』は,「極寒の地とエキゾチックな街が終世忘れがたい。だが,もっと強烈なのは〈敗戦〉を挟んだ1年半の以上体験の数々であった」(194-195頁)というところに,旧満州〔国〕における自分の体験を集約的にとらえた対象があった。 

 赤塚不二夫たちとは明確に1線を画する「改憲論者」岩見隆夫の口調が特徴的である。岩見は「〈平和主義〉」「で平和が守れるはずもなく,それは憲法第9条改正論につながる」(205頁)という持論の持ち主であった。

 その論旨は『敗戦-満州追想-』にも貫かれている。内容はけっして硬い本ではないが,その点ははっきりと前面に出した議論になっていた。 

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 出所)画像は赤塚不二夫http://www.koredeiinoda.net/category/profile

 しかし,岩見隆夫の口つきからは,旧大日本帝国が東アジア諸国を侵略,支配し,植民地にしてきた「歴史の蓄積」を,「過去の記憶」からひとまず論外に追放したがっている気分:様子が,通奏低音的に伝わってくる。

 実は,1945年8月を境にしてこの国が「軍事上の対米従属という新たな日米関係の出発」した「歴史の記録」は,第9条に関してだけでなく,これとは表裏の関係であった国際政治的な取引をもって,憲法内に規定されていた「第1条から第8条まで」とも,あからさまにまで相対させてみなおす余地がある。

 ところが,毎日新聞社の最高幹部まで記者としての地位をきわめた人物が「戦争被害者意識」に終始したかような,いいかえれば,市井の一般人並みの歴史認識に膠着しての発言をしていた。つまり「やはり戦争は勝たなきゃね」といった意識水準にこだわった〈政治思想〉しか披露できたていなかった。

 第9条を問題にするならば,第1条から第8条はどう考えるのか問われて当然である。だが,この論点は,岩見隆夫の場合にあっても全然浮上してこない。

 

 坂の上の雲」などなかった旧大日本帝国の過去

 本ブログはまたすでに,司馬遼太郎坂の上の雲』に関する記述も,「2015年1月3日」「司馬遼太郎坂の上の雲』の映像化問題-政府によるNHK支配-」においておこなっていた。
 補注)この記述もいずれに近日中に復活させる予定にしている。

 ここではあらためて,以下の指摘をしておく。司馬遼太郎は生前,『坂の上の雲』だけは絶対にテレビドラマ化したくないと堅く決めていた。にもかかわらず,NHK側が遺族を説得して,「NHKの大河ドラマ」にこの司馬遼太郎坂の上の雲』を脚本として利用し映像化していた。

 原作者自身がともかくも,この作品を「ミリタリズム鼓吹」との誤解を恐れ,映像化を拒否しつづけながら逝ったことを重く受けとめなければならない。
 註記)牧俊太郎『司馬遼太郎の『坂の上の雲』 なぜ映像化を拒んだか』近代文藝社,2009年,162頁。

 司馬はこの作品の問題性=歴史的に孕む難点をよく自覚していたのである。NHKは,「司馬の仕上げた歴史小説そのもの」であって「歴史実録じたいではないもの」を,「歴史の事実」に関するドラマであるかのように脚本化=変装・改造したうえで,その「動く紙芝居」として大河ドラマを制作していた。

 『坂の上の雲』に登場するところの「彼らは明治という時代人の体質で,前をのみをみつめながら歩く」と形容されている。ところが,その行程は東アジアの諸国を侵略していく道程そのものであった。

 「上って行く坂の上の青い天に,もし一朶(ひとえだ)の白い雲が輝いているとすれば,それのみをみつめて,坂を上っていくであろう」などと,21世紀のいまもなお夢想できているのであれば,1945年8月を境界にして起きていた,この国における歴史の根源からの変質からは,故意に目線をそらしたむなしい美辞麗句(?)の修辞にしかなりえない。
 註記)http://dic.nicovideo.jp/a/坂の上の雲 以上,直前の2段落では「 」内をここから引用。

 それでは,日本が戦争に勝利していたら,その後における東アジアからアジア全体の地域はどのように変化していく可能性があったのか? 歴史にイフはないというから,詮ない想像ではあるが,一度は議論してみる価値はありそうである。 

 岩見隆夫は「二度と戦争をしてはならないこと,しかしもし戦乱に巻きこまれたら絶対に負けてはならないこと」を重ねて強調していた。しかもこの発言は,自分の実体験を踏まえうえでらしく,そういっていた割りには,なお現実味がない。ましてや「過去における歴史」に対する回顧・反省・克服をめざそうとするための根本的な問題意識が希薄である。 

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 出所)「岩見隆夫さん死去,78歳=毎日新聞特別顧問」https://blog.goo.ne.jp/goo221947/e/ff96323e0098b6ae07da7b43bf33c41e

 戦争をしないほうがいい,というのは一般論として文句なしに妥当する主張である。また,戦争をしたら勝たねばならぬことも,たしかにそうであるといっていい。しかし,旧日帝は侵略のための戦争をつづけてきて,それも敗戦するまで止めなかった。

 日本はともかく敗戦した。相手は英米を中心とする連合軍であったが,中国戦線や満州地域に多くの兵力を割かねばならなかった日本は,そもそも「大東亜・太平洋」戦争などできない国力(経済力・軍事力)しかもっていなかった。日本は「持たざる国」だという用語もあった。

 戦前の日本において各地方でめだったのは,師団(陸軍)と軍艦(海軍)の存在であった。戦艦大和・武蔵にエアコンは装備されていても,一般の民家にはエアコンなどない軍国主義の時代を過ごしてきた。時代遅れの大鑑巨砲であった大和や武蔵は竣工・就役させられても,重爆撃機や重戦車は作れなかった,いうなれば1点豪華主義狙いの国力・技術力の発揮・発揚でもあった。

 結局,岩見隆夫のいった点であるが,「戦争はしないほうがいい」という文句に対置させた「戦争に絶対に負けてはならない」という文句とのあいだには,改憲論者として舌足らずであり説明不足があった。「戦争に絶対に負けない軍事力を有する国家」になれば,戦争をしかけてくる国はないといいたいのかもしれない。しかし,戦前の日本はそうなりたかったからこそ,戦争をしかける国家でもありつづけてきた。

 戦争に実際に敗けてしまうまで,その不条理というか基本的な矛盾が理解できていない。それでは大手新聞社のエリート幹部である自身の立場からする立論としては,いささなからず貧弱な姿勢:論陣だと批判されるほかない。

 帝国主義の歴史展開として英米は,過去からいままで中東地域にさんざん介入してきている。これが,昨今世界を騒がせてきたイスラム国(IS)をも生んでいた。世界の警察官であり,突出した軍事力をもつアメリカであっても,軍事・戦争力では解決できない国際問題がいくらでもある。

 アメリカは戦争に負けない国か? ベトナム戦争アメリカは勝てないで敗けた。アメリカはイラク戦争に勝ってはおらず,いい加減に途中で撤退しただけである。実質は敗けた。 

 ただし,旧日本帝国が敗北した直後の,「Macと裕仁」の占領問題に関する闇取引な対話に即していうならば,かつてのアメリカ「帝国」は,日本にかぎってはほぼ完全にその取引には勝っていた。戦勝国として当然の顛末であったとはいえ,アメリカはこの成功体験が忘れられないでいた。

 ともかく,旧日本帝国の敗北と同時に発症していたその重大な後遺症は,在日米軍基地の在日特権的な存在実態となって,いまだにみごとに残されている。敗戦した旧日帝国は,日本国憲法という新しい衣服を着せられるかっこうになっていた。 

 そして,その後におけるアメリカによる日本支配のために,天皇裕仁の個人的な立場や利害が大いに活用・提供されてきた。むろん,その逆方向では彼もアメリカをきちんと利用した。しかし,アメリカは国家として日本と取引したのに対して,彼は自家・一族(天皇と皇室)のために個人として取引した。 

 日本国憲法はその取引と前後して,いわばご褒美として彼と一族のために「第1条から第8条」を設けてやり,そのまま「日本国の〈封建遺制〉」として残してあげたのである。 

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 日本に勝ったアメリカからの一番大きなプレゼントが,この国を軍事面において実質的に支配する在日米軍基地の設置であった。これは,天皇裕仁が旧大日本帝国軍の代替物として熱意をこめて所望したものでもあった。彼はとくにオキナワに関しては念入りに,その要望を,それも秘密裏にアメリカ側に伝えていた。現状のオキナワ敗戦後における日本のサバイバルにとってみれば,まさしく犠牲者である立場を強いられつづけている。

 なかんずく,岩見隆夫憲法「第1条から第8条まで」の天皇天皇制問題に触れないまま,戦争に「勝利する・しない」「敗ける・負けない」の論点に拘泥しつつ,改憲論者としての立場を堅持したかったのであれば,議論そのものにおける出立点,その視座において大きな歪みを生じさせていたというほかない。

 最後にこういう意見を聞いておこう。柳家さん八『実録噺「東京対空襲夜話」』(新日本出版社,2009年)は,戦争のことを,つぎのように述べていた。 

 「戦争なんて,どっちにしろかっこいいもんじゃねえんだな」(17頁)

 「戦争なんてものは勝っても負けてもみじめなもんだ」(14頁)

 この程度の「歴史認識」さえ,実は,岩見隆夫は忘れていたかったのか? それとも無縁であったのか? 「ボーっと生きてんじゃねーよ」といわれかねない,岩見隆夫の歴史回顧・認識ではなかったか? 

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