靖国神社は戦争・勝利用の官軍神社ゆえ,敗戦後は用なしになっていた「元国営の賊軍神社」

        靖国神社問題小考-敗戦した賊軍神社の意味-

                   (2014年1月20日

 

  【要  点】 なにを・どのように・論じるのか,靖国論の自己閉塞性として時代錯誤性

 


 「〈歴史認識の根っこ〉対立生む『国家神道』,靖国問題 見過ごされる国内問題の側面」(『朝日新聞』2014年1月20日夕刊) 

 1) 靖国神社は「国内」では官軍神社であるとの錯覚,
        「国内および国際」の双方では賊軍神社であるという認識
    -「敗戦の将,兵を語らず」に反するこの神社の世俗的即物性
    -「誰がために靖国はあるのか?」

 昨日〔2014年1月20日〕,上智大学教授の島薗 進が『朝日新聞』夕刊に,この 1) の「『題名』の論説」を寄稿していた。インタービュー記事ではあるが,語りの記事が陥りがちな冗長さはなく,論説の体裁によく意見がまとめられている。

 最初に「配達された夕刊のこの現物」記事を読んでみてから,つぎに THE ASAHI SIMBUN DIGITAL のほうで,この記事の「現物(テキスト:文字文書)」を探すのには,少々手間どった。だが,この「夕刊記事のウェッブ版」をともかくみつけ,本日の記述に利用することになった。 

 現在(この記述をおこなっていた当時),朝日新聞の報道方式では,夕刊「紙面」そのものをウェッブ版の対象に入れていない。つまり「紙面版」についてはもともと朝刊しかないため,夕刊を,新聞紙を開くようにして読めるウェッブ上の画面は求められない。そこで,1月20日に配達された夕刊紙面のこの「現物」をみてから,以下ににとりあげ議論していく記事を,ウェッブ上で探す:検索することになった。

 本日〔2014年1月20日〕の記述においては,アルファベットを付した文章は新聞社側の質問設定であり,◎ の以下の文章が島薗 進の主張:議論である。それにつづいて「議論1・2・3 ~ 」という項目を立てて,本ブログ筆者の論及がいろいろと,長々となされている。なお「しまぞの・すすむ」は1948年生まれ,近代日本宗教史専攻,著書に『国家神道と日本人』(岩波新書,2010年)がある。

 2) 本論「〈歴史認識の根っこ:1〉靖国問題,対立生む『国家神道』」

 a) 宗教学の観点から,最近の靖国問題をどうみるか。

 ◎-1 首相らの靖国神社への参拝は,信教の自由や政教分離をめぐる国内の問題として長らく議論されてきた。それが中国や韓国からの反発という国際問題になった。このため日本にとって正当であるはずの参拝が外国の反対でできなくなっているという印象が作り出され,本来の国内問題の側面が見過ごされている。

 「議論:1」 ここで「日本にとって正当」だということに関しては「そうあるはずだ論」が問題になる。敗戦直後の日本では,将兵だけで約210万もの死者:犠牲者を出した戦争の,国家神道的な「後始末」(→合祀のこと)を,靖国神社が戦前・戦中とまったく同じ方式で,つまり国家神道の宗教精神でもって「英霊として合祀する」という行為を,当時,あらためて敗戦後的に問題になりはじめていた「政教分離の原則問題」の隙間をすり抜けるようにして,おこなってきた。昭和天皇は敗戦直後,駆けこみ的な靖国参拝を,そのときはGHQの顔色をうかがいながら,それこそ抜け駆け的に実行してもいた。

 しかし「戦争の敗北(大日本帝国側の完敗体験)」は,この靖国神社を完璧に〈不要の施設〉にしていた。というのは,これは筆者の持論であり分析であり主張であるが,明治になってから創建された「戦争神社=勝利神社」である〔=「勝たせなければ」ならない〕基本性格の靖国神社が,「敗戦後」も存続しているという点からして,まずもって「大矛盾を露顕」させていた。敗戦という歴史の事実は,この神社を根底から瓦解させたのである。

 大日本帝国日露戦争のとき,ロシア艦隊との〈日本海海戦〉に挑んでZ旗(写真)をかかげた。その意味は「皇国ノ興廃,コノ一戦ニ在リ,各員一層奮励努力セヨ」,つまり「この戦いに敗れれば後がないという意味」であった。

 ところが,大東亜〔太平洋〕戦争の結果,広島・長崎に原爆を投下されてまでして「戦争に負けていた」ときには,この出来事=敗北を無視したかたちで,戦争勝利のための「靖国神社」を,敗戦後もそのまま残置させていた。この敗戦後的な現実問題の出発じたいに,そもそもの大きな過ちがあった。こうした歴史認識がなければ,靖国神社に関する議論はその出発点からして不全であり,議論のための土台が準備できていないといわざるをえない。 

 大日本帝国将兵が生前に靖国神社に参拝にいかされたとき,まさか「自分が動員された戦争に敗けるために」,この神社に参拝しにいったと思っていた者はいなかったはずである〔と考えて間違いはあるまい〕。「御国の戦争勝利のために〈鴻毛よりも軽い自分の生命〉を,天皇陛下のために捧げる覚悟で死を迎える」ことを,ともかく意識させられていたとしても,まさか自分の死が敗戦にしかつながっていなかったとすれば,これは靖国神社に英霊としてお前たちを合祀してあげるといわれていたところで,結局「国家の側は重大な,トンデモな約束違反」を犯していたことになる。

 負けた戦争で英霊として合祀されて「尊い生命を国に捧げた」といわれるよりも,つまり「生きて虜囚の辱めを受くるなかれ」の運命に追いこまれる破目になるよりも,戦後までうまく生きのびていったほうが,よほどましなその後の人生になっていたというほかない。

 妻や両親やその他の家族も,兵士となって戦場に駆り出された夫や子などが生きて還ってくれたほうが,「天皇陛下のために死ぬこと」よりも,どのくらいうれしいか。この手の話は五万〔という以上〕に山ほどある。敗戦後の日本がどのような「国敗れて山河あり」の状態になっていたとしても,そういえた〈はず〉である。とりわけ将兵の母親は本心ではそのように堅く思っていた〈はず〉である。

 自分の腹を痛めて生んで育てた子どもが死んで悲しまない母親などいない。昭和天皇の兄弟(実弟)は3名いて,皆,大日本帝国陸海軍の高級将校であった。貞明皇后(母親)は当時,日本の〈軍国の母〉の代表格といってよかったが,戦争で死んだ息子は1人もいない。戦時期の日本社会において,徴兵される〔軍隊にいくべき義務のあった〕年齢の息子が4人いて,戦争で1人も生命をとられなかったという家庭(世帯)は,稀有であるかもしくは絶無であるかであったはずである。

 大日本帝国の歴史を回顧すればよい。どうみたところで「勝ってナンボの戦争」であることは,戦争をやる国はどこでもそう思いこんで,戦争を「オッパジメテいる」。このことは,間違いのない「戦争と平和」に関する理解である。「自国の平和のために他国に戦争をしかける」こともよくある。

 日本の場合,日清戦争で日本は大勝し,清から莫大な賠償金をとりたて,国中が沸き立った。日露戦争も勝ったはずであったけれども,ロシアから分捕ることができたものは,樺太の南半分と満洲における利権ぐらいで,軍人の生命をたくさんこの戦争で殺された庶民の立場からは「不満がいっぱい残った」の戦争あった。そのためにこの戦争後,東京市内では〈日比谷焼き討ち事件〉をともなう暴動事件が起きたのであった。

 日露戦争は,はたして,本当に勝った戦争だったのか判らないくらい,ぱっとしない結果(戦果)であった。英米の仲裁が入ってなんとか,この戦争はいちおう日本の判定勝ちという決着をつけられていた。ところが,ロシア側は負けたとは思っていなかった。日本は1913年に起きた第1次大戦にはほんの少しだけ参戦し,中国の青島や太平洋地域にそれまでドイツが保有していた領土を,漁夫の利のごとく手に入れた。

 さて第2次大戦時を迎えると,日本の臣民それも男子の多くは『醜の御楯(しこのみたて)』となるために(もちろん天皇のための楯のことであって,国家のため・家族のためだとはいっていない,ひたすら「陛下のため」をいっていたことばであった)将兵たちは戦争の現場に送られ,自分の生命をこの天皇陛下大東亜戦争であれば昭和天皇)に捧げたのである。

 ところがである,この天皇陛下天皇裕仁〕さん,1945年8月に戦争の負けが決まったあと,どう行動していたか。ポツダム宣言を受け入れたのは,日本という「国体は護持され」「まず天皇家が,そして臣民たちも根絶やしにされることもなく生き延びること」ができると,事前になんとか保障される見通しがついていたからである。

 天皇裕仁だけは東京裁判に出廷しないで済まされ,その身代わりにA級戦犯となった東條英機らが死刑台に送られ,絞首刑に処されていた。「敗戦後の日本国」おける昭和天皇の足跡は,昭和20年代の中期まではかなり苦しい国内外の政治・経済環境のなかに置かれていたことを教えている。そうであったとはいえ彼は,当時においても大筋では,なんとか天皇家の存続を維持できていたなかで,一般庶民の日常生活に比べればはるかに幸せに,特別の不自由もなく暮らしていくことができていた。

 「敗戦後の昭和天皇による全国巡幸」は,そのなかでももっとも大きな「対国民慰撫対策」であり,明治天皇の六大巡幸に匹敵するようなビック・イベントであった。ただし,両天皇による全国巡幸のあいだには似た要素もあったとはいえ,基本においては決定的な意味の違いがあった。明治天皇は『戦争に負けたことのない天皇』であったのに対して,昭和天皇は『戦争に負けた天皇』になっていた。

 その歴史的な関係でいえばみごとに裏切られていたのが,1945年8月までは,とくに「大東亜戦争」に駆り出される若者たち(むろんもっぱら男が中心だったが)であった。当時,彼らは,自分たちの生命というものが20歳ころまでしか生きられないことを,覚悟させられていた。子どもころから学校教育のなかでは,天皇のために死ぬことを当然のように,徹底的に〈洗脳教育〉されてきた。戦前・戦中における日本の軍国主義・兵営社会的な枠組のなかで,そのような戦争用の教育を受けてきた。

 それゆえ,自分と同じ世代の仲間・友人・同級の者たちのなかには,戦争に往って還ってこなかった者が大勢いて,彼らは「醜の御盾」になっていたというか,それに「させられていた」。いったい『誰の楯』になったか? いうまでもなく,天皇裕仁昭和天皇という〈現人神〉のためであった。

 ところが,大日本帝国は戦争に完敗した。はてそこで,総大将:大元帥の彼が責任をとるかと思いきや,まったく正反対の事態になっていた。日本国憲法においてもそのまま,天皇の地位に就いていた。昭和21〔1946〕年の正月元旦には,もともと人間でしかないこの人が『人間宣言』とする(正確にはイヤイヤ「させられる」)という茶番劇をおこない,占領軍の庇護のもと,以後も天皇でいられるお墨付きをもらうことができていた。

 この敗戦後的な風景の激変を目の当たりにさせられた若者たち(とくに男性が多かったことはいうまでもない)は,どのような心境にさせられていたか? 彼らは大人を信じることができなくなった。当然「天皇も尊崇できなくなっていた」はずである。

 さて,天皇のための《醜の御盾》となり死んでいった約210万の旧日本軍将兵は,いまさらのように「いったい,自分たちはなんのために生命を落としたのか,まったく判らなくなってしまった」。大日本帝国が大勝利でもして,シベリアを領土に分捕るは,アメリカのカリフォルニア州も手に入れるなどといったような,12月8日前に妄想していた〈戦利品の獲得〉などは,はかない夢になっていた。

 それどころか,戦争に負けたから当然とはいえ,日本はアメリカ軍を主体とする占領軍に支配・統治された。日本が戦争に負けたら,男どもは「キ▼▽○ マ」を抜かれ,女はみなアメリカ兵のメカケにされると恐れおののいた。

 けれども,「自分たちの大元帥」みずからが敵の元帥のところへいっては,ゴマスリしていただけでなく(1946年9月27日に初めて Mac のもとにあいさつにいっていたし,その後も足しげく,みずから出向くかたちで通いつめていた),自国の将兵たちがいかにだらしなく,ダメな者たちであったか,自分は戦争をしたくなかったが軍人のためにこうなってしまったと,必死にいいわけしていた。しかし,この人,戦争中はたしか大日本帝国を統べる大元帥であったのだから,そのようないいわけをすることじたい,ずいぶん卑怯な理屈を申したてていたことになる。

 ともかく,大日本帝国の総大将:大元帥だった人物が,敵国のマッカーサー元帥にひれ伏しては,なにやかや申しわけがましいことを開陳していた。結局,天皇家だけは「敗戦後の日本政治社会」を要領よく・上手に生き抜けることができていた。そういうしだいであいなっていたから,「戦争神社である靖国神社」に合祀された将兵は,大日本帝国がすっかり勝っていたものと,死んでしまったあとに「英霊」になったあとであっても,そう思いこんでいたはずである。 

 ところが,あにはからんや,戦争に敗戦するまで戦場に送られた将兵たちは,敗戦直後にこの神社に合祀され「英霊」になれたとしても,それこそ「あとの祀り」でしかありえず,まったく無意味な合祀になっていた。 

 「人間の世界」では,どこまでも「生命あってのモノダネ」である。戦場などで生命を落とした将兵は,靖国神社という「霊界の世界」に送られる手順となってた。それも,死んだからといっていきなり,靖国神社に魂だけが吸いとられたうえで,国家全体のために利用される〈英霊〉になるのである。それを将棋にたとえていえば,「歩」兵」が一気に「成り金」様のようにあつかわれはじめる。とはいっても「死者には口なし」であり,しかもこの死人にとっては「なにもえるもの:いいこと」は,「死の名誉」以外にはなにもありえないのだから,まさに「すべて空しいあとの〈祀り〉」である。

 敗戦後における日本の政治過程においては,象徴天皇になっていたはずだった天皇裕仁が,どのくらい現実の政治・行政に直接口出しをしてきたか。いまでは,その歴史的な事実に対してはすでに,政治学者たちが学問的に解明してくれている。「沖縄に米軍基地をどうぞ置いてお使いください。25年から50年くらい,いやもっと長期にでも自由にお使いくださってけっこうです」と,個人的にアメリカ側に伝えたのは,ほかならぬ昭和天皇その人であった(いわゆる『沖縄メッセージ』1947年9月20日)。

 すでに象徴になっていた天皇裕仁が,そのように憲法違反の行為を堂々と,国家の基本問題に関して犯していた。ここまで歴史の事実をしれば,靖国神社に「国家や天皇のために祀られている英霊たち」の存在や,これを祭っているのだという「国家神道的な宗教行為の意味」は,俄然色あせてしまう。靖国神社はそもそもの由来からして「賊軍を祀らない神社」であった。だが,第2次大戦が終わると「負けてしまった戦争神社」になっていた。これでは,靖国神社本来の歴史的使命がもはや果たしえない施設:『賊軍神社』になった,という意味しかなくなった。「勝てば官軍,負ければ賊軍」とは,よくいったものである。

 b)〔靖国神社〕本来の問題とは

 ◎-2 国家神道と呼ばれた,特定の宗教的な信仰や思想が背後に強く作用していることだ。もともと靖国神社は,尊皇,つまり天皇のために忠誠を尽くして戦った人をまつるために建てられた。兵士として死ぬことが崇高な価値を持ち,神としてまつるにふさわしいとなる。そうした思想に基づく宗教施設が,現在においても国家的な追悼・慰霊の場としてふさわしいのかということだ。

 「議論:2」 この論点については「補註:1」がすでに,だいぶ先走って話をしていた。ここでは「神」ということばに注意したい。天皇のことは「現人神」といわれていたが,天皇家皇室神道では,歴代の天皇はすでに神々に昇格しており(「皇祖皇宗」のこと:歴代の天皇だちの〈霊〉は,神として皇居の皇霊殿に祀られている),この「自家製の神道で祭る」対象(=祭神)になっている。

 日本の神道における《神》の概念は,西欧のキリスト教的な「神の概念:ゴッド」とは異なるとよく主張されるが,遠くに離れた地域の人びとのあいだにおける「このような違い」を強調したところで,「それぞれが神と思っている対象」そのものに即してみれば,それぞれの「神としての重み」に大きな相違はない。

 日本の国家神道は「治教(政治と道徳)」のための宗教だから「宗教ではない」といいはり,理屈にもなりえない遁辞「神道非宗教論」を強弁してきた。明治憲法で「天皇は神聖にして犯すべからず」と宣言したのは,《神として天皇をあつかえ》といったことを否定するためにではなく,まさに『神のように崇めろ(尊崇しろ)と強制する』ためであった。この天皇を中心:頂点に戴いて,国民を精神的に統制する国家機構:「神聖=神国の日本帝国」を構築しようとしたのが,明治大帝下の国家体制であった。

 c) 統治の中心である天皇を国民全体で崇敬するのが,戦前の国家神道。そこに靖国神社が果たした役割とは。

 ◎-3 国家神道は,国家・社会の秩序についての教えではあるが,キリスト教や仏教のように,1人1人の人生の意味を深く問うような内容はない。

 ところが,兵士の死に崇高な意味を与える靖国信仰は,国民1人1人の心の奥深いところにかかわるものだった。日露戦争そして第2次世界大戦と,たくさんの戦死者が出た時代において,戦死した兵士を天皇や国家による尊崇に値するものとした慰霊施設はとても重い意味をもったであろう。

 「議論:3」 戦争のためだからといって,死ぬことを,心底から本当に喜ぶ人間などいないし,もとよりいるわけもない。ところが,この絶対に矛盾する関係である「人間の生と死の問題」を,表向きに解決させておくために,靖国神社が「死」を迎え,歓迎するための国家装置として提供されていた。

 靖国神社は,戦争のために死んだとしても「オマエたちの(ただし〈霊〉だけ)は」とりだしてやる,しかも大事にしておくための措置もしているのだ,という体裁をとっていた。つまり,戦死者を国家が手厚く遇し,いつまでも大事に思いつづけているよという具合に応えつづけているかのような『宗教的な〈虚構〉を立てていた国立の宗教施設』が,靖国神社であった。

 しかし,大日本帝国があの大戦争に敗北した瞬間から,この靖国神社のこの約束事は,否応なしに不成立「化」させられた。この神社のご利益は完全に消滅し,無効となった。突如,存在価値が消滅した。それはそうである。大日本帝国が戦争に勝っているかぎり,以上に説明した「靖国の戦勝神社」としての「理屈」は成立しうる。だが,1945年8月の敗戦(完敗)は,戦争で生命をなくした帝国臣民が発揮していたはずの「靖国神社における《霊的な存在価値》」を,完膚なきにまで雲散霧消させた。

 それでも敗戦後になってなお,戦死者の霊を収容する宗教施設として靖国神社は運営されていった。しかし,戦前・戦中に陸海軍の管轄下にあったこの国家神道神社は,GHQによってその国営の運営形態を廃止させられ,戦後は民間の一宗教法人に組織替えした。

 ここで断わっておくが,靖国神社には「戦死者(戦没者)の遺体・遺骸・遺骨など」はいっさい収納されていない。ありていにいってしまえば,どこまでも〈霊〉を神社信仰の宗教的な価値観から,都合よく選択して「再生し,利用」する,それも「戦争を鼓舞し,勝利にみちびく」ために「戦死者のその霊」を,国家が利用するための宗教施設,これが靖国神社である。この本質は現在になってもなにも変わっていない。この肝心な特質の把握を忘れたら,この神社に対するまともな認識はできず,適切な議論も成立しえない。

 d) 戦後は,政教分離憲法に定めたはずだが

 ◎-4 政教分離とは,戦前の反省に立ち,思想・信条の自由,信教の自由を守るための制度だ。靖国神社が国家的な施設となれば国家神道の復興につながり,そうした自由を妨げるという認識は,参拝をめぐる憲法訴訟の判決などを通じて積み上げられてきた。

 一方で,靖国参拝を宗教行為でなく,死者を尊崇する習俗としたい人たちもいる。自民党改憲草案では,政教分離規定の条項に,習俗の範囲内での例外規定を盛りこむ。靖国参拝を許容しようとする意図も推測できる。薄れゆく国民の結束を強めようとし,攻撃的な宗教やナショナリズムに向かう潮流が世界的にみられるが,日本では国家神道復興の動きとなっている。

 「議論:4」 ここで紹介されている意見については,ポツダム宣言を受諾した大日本帝国の立場に沿って考えてみなければならない。すなわち,昭和天皇の見地でもあるその立場なのであるが,敗戦神社になってしまったこの靖国神社は,もともと日本固有・本来の神社信仰とは完全に「異質の国家神道」に立脚した信仰体系を包していた。敗戦はこの神社に特有の信仰内容を完全に否定した。日本側の立場からしても,またとりわけ戦勝国側の連合軍に対する日本側の関係からしても,靖国神社は間違いなく「賊軍用の敗戦神社」になった。

 この靖国神社が21世紀に居残る資格など,1945年8月からもとより,全然ありえなかったのである。昭和天皇ポツダム宣言を受諾して自分の天皇の地位を護ることができていた。靖国神社のことはもちろん非常に気になっていた。敗戦後においても彼はそれまでの経緯があって,あの大戦争で大勢殺してしまった「臣民将兵(赤子?)の〈霊〉」を,〈敗戦処理〉的に英霊として靖国神社に合祀させ,慰霊するための「仕事」をこなしてきた。

 ところが,靖国神社が1978〔昭和〕年10月17日,A級戦犯の14名の〈霊〉を秘密裡に合祀した。この出来事は,昭和天皇が敗戦後に生きていくための約束事であった「必要最低限の基本条件」を,この「戦争:敗戦神社」が粉砕したことを意味した。A級戦犯昭和天皇の身代わりであった。この点は,戦犯を裁いた連合国軍側があらかじめしくんで承知していたことがらであっただけでなく,昭和天皇もこの含みを十分に了解させられたうえでの「敗戦後史の展開」になっていた。

 A級戦犯の合祀という出来事は,昭和天皇にいわせれば「これ以上超えてはならない」臨界点から飛び出ていた。敗戦後史的になんとか形成されてきた「天皇家側の宗教的秩序」に関する前提条件が,目茶苦茶に破壊された。もっとも,A級戦犯を合祀した靖国神社側の理屈にいわせれば,日本は戦争に負けたけれども,東京裁判とその結果はけっして認めないぞ,だからA級戦犯を合祀して,みかえしてやるのだと気張って,そうしていたことになる。まるであの戦争には大勝利したのだ,といいたいかのように受けとれる措置であった。

 しかしながら,非常に困惑・混乱されてしまい,そして怒り心頭に発したのが,ほかならぬ昭和天皇自身であった。自分の戦争責任を代わりに背負って絞首刑台に昇ってくれた東條英機らは,お人好しにも死ぬまで,とことん「天皇に忠義を尽くして」くれた。それなのに,靖国神社側ときたら,わざわざ「寝た子を起こすような愚かなこと:A級戦犯合祀」をやってくれた。

 だが,靖国神社側は,この関係者というか当事者の気持,さらには敗戦後的な特殊な事情などおかまいなしに,A級戦犯を合祀してしまうことで,自分たち側の溜飲を下げていたつもりになっていた。この事態の発生に「頭をかかえこんだ」のが昭和天皇であった。以後,昭和天皇靖国神社に参拝できなくなったまま,1989年に死んだ。平成天皇もこの父の遺志を継承し,靖国神社には参拝していない。

 ちなみに,昭和天皇の墓(陵)は,八王子市に造営された武蔵野陵にある。しかし,明治神宮に相当するような〈昭和神宮〉と名づけられるかもしれない神道神社は「まだ存在しない」。そしてまた,これからも造られるみこみはないと思われる。『戦敗した天皇の名』をつけた神社を造るわけにはいかないというわけである。この天皇のために戦場で死んでいった兵士たちの「怨霊」を静めるための神社であるならば,ぜひとも必要になるかもしれない。だが,それではふつうに街中にある一般神社となにも変わるところはない。「国家性と皇室性を併せた宗教的な狙い」がなければ,靖国神社のような国営的神社においては,本来狙っている存在価値がみいだせない。

 e) ただ,戦争で亡くなった兵士を悼むことは必要では

 ◎-5 戦没者への敬意を忘れてはならないし,悼む気持は多くの人が共有している。その点から安倍首相の靖国参拝を支持する人びとの気持は理解できる。ただ,国家神道という歴史的な背景がある靖国神社には,深い価値をみいだす人と,逆にそれによって非常に傷つけられる人がいて,強い対立を招く構造を含んでいる。「誰もがわだかまりなく追悼できる施設」ということで,近年は千鳥ケ淵戦没者墓苑を公的な追悼の場だと考える内外要人も目立ってきた。

 「議論:5」 この段落の説明に関しては,すでに十分関説したつもりである。要するに,靖国神社は昭和20年8月15日をもって「御用済み」の烙印が押されていた。日本の国民などがみな,問題なく共通した気持で,どの宗教の立場であれ,ともに戦没者を慰霊できる場所として観るとき,靖国神社将兵たちが流してきた血で汚れ過ぎていたとでも形容したらよい〈霊域〉になっている。それもこれも「戦争神社の御利益」(ただし,負の・・・)。

 そもそもが「戦争向きの〈特定の霊〉」しか合祀に受けつけず,遺体・遺骸・遺骨などひとかけらも相手にしようとしないで, “霊のいいとこどり” だけする宗教施設が,この靖国神社であった。けれども,いまでは実質的には完全に「用なしの敗戦・賊軍神社」である。

 この事実を認めたくない人びとはA級戦犯を合祀した人物のなかには,賀屋興宣(かや・おきのり)のような元A級戦犯自身も「靖国神社側の総代」の1人としてくわわっていたが〕靖国神社はせいぜい,敗戦後に始めた「みたままつり」に精を出していたほうが,よほど英霊のためになるかもしれない,というようなことさえ認めたくないらしい。

 2014年1月15日と1月12日の『朝日新聞』朝刊「声」欄に,つぎのような2つの意見が投書されていた。1月12日の意見は,A級戦犯のかかわりのみを理由・根拠とする「偏った」議論の問題性を的確に指摘している。年齢は当時である。

 ◉-1 1月15日(古谷 博 無職,東京都  77歳)
 〔安倍晋三〕首相は「戦争で倒れた英霊の魂を安んじる場」としての靖国神社にこだわ るが,そもそも戦死者は本当に靖国に祀られることを願ったのだろうか。ニューギニア戦線に送られた私の叔父は,九死に一生をえて帰還した戦友によると,弾丸一発撃つこともなく,密林をさまよい蛇やトカゲを捕食する日々の後,結局は餓死したという。「靖国で会おう」などの甘言のもとで理不尽な死を強いられたのだ。叔父の遺族は靖国神社には一度も参拝していない。

 

 ◉-2 1月12日(守谷通文 無職,埼玉県 62歳)
  ポツダム宣言に「日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は永久に除去せられざるべからず」と記されていること,日本国が「極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾」という条項も含むサンフランシスコ講和条約を締結したことなどを知る者は少数派であろう。

 靖国神社はこれらの事実や原則に反して他民族に仕掛けた戦争を肯定し,戦争指導者も祀る宗教法人だ。 信教の自由は当然でも政府要人が平和を祈る対象にはなりえない。国際社会で生き抜くには自国にかかわる正しい歴史認識は不可欠だ。調査結果はその重要性を 日本社会に教えている。

 さらにつぎの引用は,フランク・ギブニイ『日本の五人の紳士』(石川欣一訳,毎日新聞社,1953〔昭和28年)からである。この靖国神社「理解」は間違いではない。現在的においてもまっとうな歴史認識である。平和という言葉を,いまさらのようにこの靖国神社に対して,無理やりにあるいはご都合主義的に差し向ける弁護論は,歴史のあやしい解釈,まやかし的な宗教の説明である。

 靖国は……宗教的な記念堂であり,字義どおりの「戦死者の殿堂」であったのだ。これは軍国主義神道の地上の天国であった。

 ……天皇の戦いは聖戦であり, 勝利のために身をささげたもの--神道の定義によれば日本の戦いは敗戦に終ることはあり得ないのだが--は殺された聖人となるわけである。
 註記)フランク・ギブニイ,石川欣一訳『日本の五人の紳士』毎日新聞社,昭和28年,115頁。 

 そのありえないことが起きていた。1945年8月15日の敗戦。ただし,その後においてもありえないことがつぎつぎと起きていく,そういった「敗戦後史」の展開となっていった。

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