天皇家の代替わり行事,大嘗祭はなんぞや

天皇家・私家の宗教行事を国家の公的祭事として執りおこなう「不思議の国:ジャポン」に関する省察


           (2019年11月14日)


 「〈いちからわかる!〉天皇代替わりの行事,大嘗祭
(だいじょうさい)って何?」朝日新聞』2019年11月13日朝刊2面「総合」

  ■ 特別な祭場
(さいじょう)で豊作・平安を祈る儀式。公費で24億円を賄う ■

 コブク郎  天皇陛下の代替わり行事で「大嘗祭」があると聞いたけど?

 A  新たに即位した天皇が,一世一代に限り執りおこなう皇室行事だ。関連行事を含めると20を超える行事があり,豊作や国の平安を祈る「大嘗宮
(だいじょうきゅう)の儀」がメインとなる。今回は11月14日夜から15日未明に行われる。

 
コ  どんな儀式なの?

 A  大嘗祭のために建てられた祭場
(さいじょう)「大嘗宮」で,天皇陛下がその年に収穫された米などを神々に供え,自分も食して豊作や国の平安を祈る。この米を作る地方は,亀の甲羅を焼く占いで栃木と京都に決まった。

 
コ  「大嘗宮」って?  

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 A  皇居の東御苑に建設された神殿だ。全国から約120人の宮大工が集められ,およそ90メートル四方の区画に大小30余りの建物が建てられた。東方の神殿は「悠紀殿
(ゆきでん)」,西方の神殿は「主基殿(すきでん)」と呼ばれる。

 
コ  大嘗祭はいつからおこなわれているんだろう。

 A  奈良時代以前からおこなわれていた収穫儀礼新嘗祭
(にいなめさい)」に由来するとされる。皇位継承に伴う一世一代の祭祀(さいし)となったのは7世紀の天武天皇からだ。戦乱などで室町時代以降約220年間中断され,復活したのは江戸時代前期の東山天皇の時。その2代後の桜町天皇から現在まで,皇位継承があるたちにおこなわれてきた。

 コ  大がかりだね。

 A  江戸時代はいまよりも大嘗宮の規模も小さかったが,天皇中心の国家体制となった明治以降,古代のように再び大きくなった。戦後,天皇が象徴となった後も,大嘗宮の規模は戦前をほぼ踏襲(とうしゅう)された。

 コ  お金がかかりそう!

 A  大嘗祭にかかる費用はいまのところ,約24億4千万円くらいになりそうだ。政府は行事に「公的性格がある」としてすべて公費で賄うことにしたけど,「神道色が強く,憲法が定めた政教分離に反するのでは」との批判も根強い。
  
補注)大嘗祭は皇室の行事そのものである。もっと正確にいえば,皇室神道内の「独自な天皇代替わり儀式」である。したがって,それは本来,憲法とは引き離したうえで,「天皇家の行事そのもの」として家内的に執りおこなえばいいはずの,“皇室神道関連でも目玉となる宗教儀式”である。ところが,その儀式が国家的舞台に乗せておこなわれているのだから,日本はいまだに,国家神道の国家体制に置かれている「アジア的封建遺制の一国だ」という評価が下される。

  古代史における某天皇は庶民の家々からかまどの煙がどのくらい上がっているか気にした者もいると,当時の歴史のなかで言及されていたそうである。秋篠宮が今回,この大嘗祭の儀式をできたらなるべく簡素な形式で,つまり,予算を多くかけないで執りおこないたいと希望を述べていたというけれども,この意見などは一顧だにされないで,国家による大々的な天皇代替わり儀式執行が,本日(11月14日)から明日にかけて実施される。

  明治の時代になっての話であったが,「神武創業」と称されたところの,いわば「皇室神道」の夢想的な「古代史的・再生作業」がなされていた。ところが,21世紀の現段階になっても,民主主義政治体制との均衡問題で重大な疑義を抱えこんだまま,「天皇代替わり儀式」などが依然として国家の次元で継続されている。米欧の現代国家になぞらえていうとしたら,「あまりにも後進的である日本国憲法的な実態」が,なんら恥ずかしげもなく維持されている。ある意味では奇観である。


 「〈代替わり考 皇位継承のかたち〉(3)大規模大嘗祭 明治から」東京新聞』2019年1月10日朝刊

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  説明)30年前の大嘗祭の中心施設「大嘗宮」の模型写真(上)と今回の大嘗宮のイメージ写真(下)。建物の数は前例を踏襲している=いずれも宮内庁提供

 「大嘗祭の意義を損なわない範囲で見直しをおこなった」。宮内庁の西村泰彦次長は昨〔2018〕年12月19日,新天皇即位後に行う大嘗祭のため,皇居・東御苑に建設する大嘗宮の概要を発表した。

 大嘗宮は,中心祭場の悠紀殿
(ゆきでん),主基殿(すきでん)など大小四十近い建物から構成し,敷地は約90メートル四方で前回より二割ほど縮小する。悠紀,主基両殿の屋根を入手しにくい茅葺(かやぶ)きから板葺きに変え,他の建物の一部をプレハブにする。
  
補注)この「茅葺(かやぶ)きから板葺きに変え」た点は,きびしくいえば大嘗祭の伝統に反する。時代の流れのなかでそう材料を変更せざるをえないと説明するのであれば,古代史的な大嘗祭の意義をきわだてて強調するのはやめにしたよほうがよい。現代に存在する皇室側が「こうした古代の儀式」を,国家が「正式行事として執りおこなうこと」じたいに疑問がある。いずれにせよ,古代史への現代的な懐古趣味的な再現志向に潜む,それこそ大時代的な演技ぶりに感心しているようでは,問題の本質に迫るための議論はとうていできない。

 それでも人件費や資材費の上昇で,建設予算は前回より4億5千万円多い約19億円。終了後にほとんど焼却していた建設資材も,今回はできるだけ再利用する。

 大嘗祭の歴史は飛鳥時代に始まり,
現在のように大規模になるのは「神武創業」と祭政一致をスローガンにかかげた明治時代からだ。悠紀,主基両殿の延べ床面積は,江戸以前より倍増した。国学院大学教授の岡田荘司(70歳)は「奈良,平安時代は床もなく,藁(わら)や草などで造った簡素な建物だった」と指摘する。
  
補注)現在における天皇天皇制の仕組は,そのすべてといっていいくらいが,明治の時代から大正時時代にかけて用意されてきた「天皇の制度」に関する創造物である。

  
近代化への道を歩みはじめた明治政府が,このような古代史的行事,それも神道的な色彩に粉飾された宗教行事を「天皇の代替わり」のための不可欠の祭事として執行することじたい,まさしく,21世紀における日本の政治そのもの「後進性」=「的外れ性」を,真正直に表現している。

  問題の根源には,敗戦後の「日本国憲法」にも由来する,本質的な,いうなれば天皇制度をめぐる“二律背反的な矛盾:自家撞着”が控えている。その憲法の第1条から第8条までが「天皇関連条項」である。天皇制はもともと,「王制のアジア畸型的な日本版:珍・奇種」であった。

 大正,昭和の大嘗祭は,明治期の旧皇室令の一つで,代替わり儀式を定めた登極令
(とうきょくれい)にもとづき,国の一大イベントとしておこなわれた。戦後初の前回は,憲法政教分離原則を考慮し,政府は直接関与せず,皇室行事とした。だが大嘗宮の規模や式次第は,登極令による前例を踏襲したため,多額な費用が必要となり,政府が国費でサポートした。
  

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 旧皇室令は,大日本帝国憲法時代に皇室の事務を規定した天皇の命令の総称だ。1947年の日本国憲法の施行に伴って,すべての皇室令が廃止されたが,宮内府(現・宮内庁)は「従前の規定が廃止となり,新しい規定ができていないものは,従前の例に準じて事務を処理する」と通達した。

 国際基督教大学名誉教授で憲法学者の笹川紀勝(78歳)は「この通達によって
最高法規憲法と,皇室の伝統という憲法の入りきれない領域の二重基準がもちこまれた。皇室の伝統をコモン・ローだ,慣習法のようなものだという人もいるが,おかしなことだ」と話す。

 宮中祭祀は戦後,天皇家の私的行為とされ,直接雇用する掌典
(しょうてん)職などの人たちが携わってきた。1980年代に現憲法下での代替わり儀式が課題として浮上したが,元掌典職や同庁関係者らは「新たな規定がない以上,登極令を参考にする以外になかった」と振り返る。

 皇室研究家の高森明勅
(あきのり)(61歳)は,三十年前の代替わり儀式にあたり,政府高官と意見を交わしたことを覚えている。政府の意向は「憲法に違反しないかぎり,皇室の伝統を最大限,尊重したいということ。皇室の伝統イコール登極令との認識だった」と高森は指摘する。
  
補注)ここでは「憲法に違反しないかぎり」といわれているものの,この「民主主義の憲法」そのもののなかに天皇制度が遺留された。この憲法に固有である「根源的な矛盾点」は,今回における大嘗祭の儀式遂行に当たっても,最大限にまで拡大されて現象している。

  敗戦した旧・大日本帝国を占領軍のアメリカは,事後においてこの日本を都合よく統治していくために,きわめて中途半端な操作をこの国にくわえてきた。その結果が,今回における天皇代替わりにおいても,ある種の「矛盾そのもの」を大々的に,しかも拡大再生産的に発現させる事態をもたらしている。

  いうまでもないが,アベ政権の政治体制にも明白に表現されている事実が「対米服属国家体制」であった。日米安保関連法体制に関連させていえば,その上部構造の一部を構成する国内の制度が,つまり「天皇天皇制」であった。アメリカはこの国に対して本当のところでは,まともな「近代国家になってほしくはない」という願望を具体化するための操作をしてきており,しかもそれなりに成功してきた。

  いわゆるジャパン・ハンドラーなるアメリカ人たちがいるが,このアメリカ政治的な特定集団の存在は「対日用」に「操作をするための操縦桿」を握っている。たとえば,自民党国会議員の小泉進次郎は,彼らの手先(舎弟:子分)として生きているような「世襲政治家」の1人である。首相のアベもそのたぐいというほかない「世襲3代目の大▽カ政治屋」であった。アベの外交手腕(?)のなかでも,トランプへの盲従ぶりやプーチンに対する負け犬っぷりは,みごとなまで徹底的に無様であった。


 
【解 説】大嘗祭  新天皇の即位後に初めておこなう新嘗祭(にいなめさい)。稲作農業を中心とした日本社会に古くから伝承された収穫儀礼に根差すもので飛鳥時代の7世紀後半,天武・持統天皇のころに皇位継承儀式として始められたとされる室町時代応仁の乱で朝廷の財政が窮乏して以降,江戸時代中期まで約200年間の中断がある。明治天皇は初めて東京の皇居でおこない,大正,昭和天皇京都御所でおこなった。
  
補注1) この国における“皇室の伝統”は連綿と継続してきたものだと,いつも念仏のように,それも大きな声で強調されていた。しかし,天皇の交代時に不可欠とされた大嘗祭は,中世(近世)に2百数十年間もの長期間,中断した記録を残している。とはいえ,明治維新を契機にしてその伝統が本格的(?)に,新たに(!)創造させられていた。いうなれば,「神武創業」ではなく「明治創業(謹製)」をもって,近代政治体制のなかに“皇室の『新しい伝統』”が創造されつつ混入されるという歴史が展開されてきた。

  1940年に帝国日本は紀元二千六百年の歴史を迎えたとされる。だが,その間における「皇統の連綿性」に関していえば,みのがせない手続の欠落や事実の混迷が記録されていた。つまり,天皇の代替わり儀式を経ていなかった期間の〈問題性〉は残しておいたまま,なおかつ,神話的な理解面では連続してきたとされる歴史観のみが,一方的・断定的に披露されてきた。いわば「封建遺制」に関するものというよりもその以前の「古代史的な神道祭祀の意識形態」は,「現代の政治体制」においてはまったきに不適合でしかありえない「政治の観念」であった。

  せいぜい,京都御所内で天皇一族のための歴史物語に限定しておけばよかった伝統・文化であったものを,この国は世界に冠たる皇室の歴史・伝統を有するとまで驕り出してしまい,大失敗を犯していた。旧・大日本帝国史の過去を「戦後レジームからの脱却」から郷愁するアベ君の感覚は,時代錯誤の典型思考であった。もっとも,昭和天皇はその帝国の時代を統べる大元帥の立場にあった。敗軍の将(国際政治の舞台では「賊軍」)の立場におちぼれていた「天皇一家」に対して「京都にお帰りやす」と語る(誘う)意見は,なにも京都人からだけの発想だけではなくて,天皇問題を研究する専門家からは現在でも提示されている。

  補注2) 以上の議論・論旨については,最近と直近において公表されているネット記事から,つぎの2点をそれぞれ紹介しておく。住所にリンクを張っておくが,本ホームページ筆者の意図を支持してくれる内容である。

 ※-1「米国CIAとつながる日テレが,安倍おろしの決定打を放った:日本会議の傀儡・安倍氏はクビを洗って待つしかない」『新ベンチャー革命』2019年11月13日,No.2519, 『ライブドアニュース』2019年9月26日,
   ⇒ http://blog.livedoor.jp/hisa_yamamot/archives/4322401.html もしくは,http://www.asyura2.com/19/senkyo267/msg/330.html

 ※-2 「『大嘗祭』の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議」『リテラ』2019. 11. 14 10:55,

   ⇒ https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


 「〈耕論〉大嘗祭,改めて考える-岡田荘司さん,三木善明さん,御厨貴さん」朝日新聞』2019年11月13日朝刊15面「オピニオン」

 天皇の1代にただ一度,即位直後におこなわれる大嘗祭。儀式のもつ意味や,憲法政教分離規定との兼ねあいをめぐって議論も多い。平成の前例を踏襲するだけでいいのだろうか。

 1)「古代,素朴な儀に心込めた」岡田荘司さん(国学院大学名誉教授)

※「おかだ・しょうじ」は1948年生まれ,専門は神道史。著書に『大嘗祭と古代の祭祀』,編著に『日本神道史』など。

 大嘗祭の本質は,即位した天皇天照大神に食物を供え,みずからも食べるという,ある意味で素朴な儀礼です。古代日本では,農民が神に作物を捧げる収穫儀礼がおこなわれていました。それを天武天皇の時代に,国全体の儀式として整えた。天皇家のイエの祭りと,国家的儀礼の両方の性格をもつものといえます。

 天武天皇は,壬申の乱という朝廷を二分する大乱を経て即位しました。大嘗祭を始めたのは,人心を安定させ,分断した国をまとめる側面があったと思います。毎年おこなわれる新嘗祭
(にいなめさい)では,都近くの直営田で収穫された米が使われますが,大嘗祭では,占いで悠紀(ゆき),主基(すき)というふたつの「国」を畿内以外から選び,そこでとれた米を使います。全国の人びとの奉賛を受けて行うのが本義であったわけです。

 民俗学者折口信夫(おりくち・しのぶ)は,『大嘗祭の本義』(1930年)で,大嘗祭天皇が中央の神座
(しんざ)にこもり,「天皇霊」を受けて神になると説きました。しかし,文献をいくら調べても裏づけが出てこない。中央の神座はまったく使われません。神に食事を供したのち,天皇が食事をするさいに,神に対して頭を下げ,「おお」と発声します。これは,下位者が上位者におこなう所作です。神と天皇の間には明確に上下関係があり,天皇が神と一体化するということはないのです。

 そもそも折口説は,本人も仮説だと認めていたものです。それが過大評価されたのは,戦前ではなく戦後,1960年代からです。海外から文化人類学の王権論などがもちこまれ,「秘儀によって天皇の霊が受け継がれる」という解釈が広がってしまった。

 昨〔2018〕年の秋,秋篠宮さまが大嘗祭について「身の丈に合ったかたちで」と発言され,新嘗祭がおこなわれる皇居内の神嘉殿
(しんかでん)を使うのはどうかと,宮内庁に提言したと報じられました。質素が皇室の伝統ですから,大嘗祭が大がかりになることを懸念されるのはわかります。江戸時代までの大嘗宮は,悠紀と主基の国から人びと都に来て,5日間で建てるきわめて簡素な建物でした。明治以降は大規模になったので,もっと簡素なものに戻すのは考えられるかもしれません。

 とはいえ,既存の神嘉殿で大嘗祭もおこなうのは,本質を損ないかねません。2棟の新しい清浄な建物を建て,神をお迎えして食事を差し上げるのが本義で,そこは受け継ぐべきだと思います。

 大嘗祭新嘗祭では,米とともに粟
(あわ)も供えられます。粟は飢饉のさいに食べられたものです。災害への備えが祭りのなかにも組みこまれていたと考えられます。今年(2019年)は,台風や水害で農作物が大きな被害を受けました。大嘗祭にこめられた古代人の思いは,現代に生きるわれわれにも共有できるはずです。(聞き手 シニアエディター・尾沢智史)(引用終わり)

 岡田荘司のこれだけの発言では真意が掴みにくいが,ちぐはぐな解釈を披露している。専門家の立場としては奇妙である。

 「江戸時代までの大嘗宮」は「きわめて質素な建物でした」といいながら,いまでは「2棟の新しい清浄な建物を建て,神をお迎えして食事を差し上げるのが本義で,そこは受け継ぐべきだと思います」などと,歴史的な解釈論としては,どう聞いても前後において一貫しえない,いわばご都合主義でしかありえない〈独自過ぎて,つじつまの合わない解釈〉を押し出している。

 「江戸時代まで」というのは,それ以前までの時代を含むのだから,今回に採りおこなわれた大嘗祭の建設関係費24億円を費やしてまで「天皇代替わり」儀式を執行した意義との相違点については,専門家としてもっと説得力(説明力)のあるインタビューの応え(答え?)を語ってほしいところであった。率直にいって,素人騙し程度にしかなりえない,いわばマヤカシ的な語り方になっていた。  

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    出所)https://www.fukuishimbun.co.jp/articles/gallery/973596?ph=1

 2)「平成では京都実施の声も」三木善明さん(元宮内庁掌典御香宮神社権禰宜〈ごんねぎ〉)

※「そうぎ・よしあき」は1948年,京都府生まれ,宮内庁京都事務所,掌典職正倉院事務所などを経て退職。2014年から現職。 

 昭和48(1973)年から平成13(2001)年まで,宮内庁で祭祀を担当する掌典職(しょうてんしょく)にお仕えし,昭和天皇の大喪と平成の即位の礼大嘗祭など一連の儀式にかかわりました。

 大喪や大嘗祭の研究を1人で始めたのは昭和57(1982)年ごろです。大正天皇貞明皇后の大喪や,大正や昭和の即位の礼大嘗祭の記録を読んだ。「陛下がお元気なうちに葬儀のことなどやるものではない」という先輩もいました。記録を自宅にもちち帰ったり,当直業務の合間に書き写したりした。宮内庁で公式に準備作業が始まったのは昭和62(1987)年です。

 平成の即位の礼などを京都でやるべきだという声は掌典職を中心に強かった。旧皇室典範に「即位礼と大嘗祭は京都においてこれをおこなう」と書かれており,大正と昭和は京都御苑でおこなわれたからです。旧典範は明治天皇が決めたのだから「綸言
(りんげん)汗のごとし」で,簡単に変えてはいけない。しかし検討の結果,断念せざるをえませんでした。
  
補注)旧皇室典範は新憲法日本国憲法)とどうしても折り合わない点をのぞき,明治帝政時代の内容がそのまま敗戦後における「皇室制度」を運用するための典拠に,これを正直にいってしまえば「流用もしくは転用あるいは悪用」されてきた。それなのに,京都でおこなうと決められているはずの「即位礼と大嘗祭」を京都では執りおこなわず,徳川幕府から明治政府が奪った皇居のなかでその儀式をおこなっている。

  要は,都合のよいところだけは採って利用するが,その悪いところは無視する『旧皇室典範』の“現代的な換骨奪胎の操作”が盛んになされてきた。いうなれば,それでいて「皇室風に常用される文句」で唱えるときは,いつも「古(いにしえ)からのゆかしき皇室:天皇家の伝統文化」だと誇示されているゆえ,よく考えてみるまでもなく,いささかならずコッケイの感を払拭できない。


 理由〔京都でやらないそれ〕は,(1) 京都御所には,皇居のような深く幅広い濠
(ほり)がない。京都府警も警視庁のような警備態勢を組めない,(2)  世界各国から来るVIPを泊められるホテルが京都では足りない,(3)  皇族の移動費用や皇居・宮殿に匹敵する機能をもつ施設の新設費用が余分にかかってしまう――ことなどです。

 装束や十二単
(ひとえ)にも多額の費用がかかります。宮内庁幹部からは「大喪の儀は衛星中継で世界の人がみるのに,時代錯誤の装束姿は恥さらしだ」と異論が出ましたが,儀式は決められたかたちを守ることが大切。大喪も大嘗祭も装束のかたちが守られました。
  
補注)ここで吐かれた宮内庁側の話は,また特別に奇妙である。ともかくも「時代錯誤の装束姿は恥さらしだ」との異論を押し返すかっこうで,大嘗祭の「儀式は決められたかたちを守ることが大切」であるとみなされ,「大喪も大嘗祭も装束のかたちが守られました」という事情が説明されていた。

  前段の補注で岡田荘司の話に関して指摘した性質の問題とは,まるで逆(腸捻転の状態)になったかのような説明が,こちらでは登場していてた。いわば,その場かぎりで「現時点において予定されていた枠組と調和的に合わせられる理屈だけが述べられていた。だから,よく聴いていると「ご都合主義」にしか聞こえない。そういった印象が回避できない。


 令和の即位礼正殿の儀で,高御座
(たかみくら)の帳(とばり)が開いてはじめて天皇陛下が姿をみせる「宸儀初見(しんぎしょけん)」という伝統のかたちが復活したのはよかった。平成のときは外国からの賓客に姿をみせるという理由で,陛下が高御座の前を通るかたちでした。
  
補注)しかし,高御座のそばにいっしょに設置された皇后用の御帳台(みちょうだい)ともに,そもそも大正時代(の1913年)に,大正天皇が即位するさいに使用するためにあわせて新しく製作され,儀式に利用されはじめていた。

 大嘗祭を神嘉殿で催したらどうかと秋篠宮さまが提言されたが,一理あると思います。今回の大嘗祭にも数百人が参列する予定ですが,公費で催す以上,国民代表にみせる義務がある。ただ大嘗祭の本来の姿は,天皇が1人で神々と対座してお供えし,直会
(なおらい)をする儀式です。天皇家の私費にあたる内廷費を使い,参列者を思い切って減らせば,神嘉殿でもできるでしょう。

 上皇さまのビデオメッセージには,納得できるものがありました。祈りや祭祀は,天皇が全身全霊でお務めになるもの。いくら全霊で心をこめても,全身,つまり体力がついてこなくなったら,位から下がるしかない。「天皇は宮中でお祈りくだされば十分だ」といった学者がいましたが,祭祀の厳しさをご存じないのかと思いました。
(聞き手 編集委員・北野隆一)(引用終わり)
      

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 3)「多額の負担,次代へ議論を」御厨 貴さん(政治学者・東京大学名誉教授)

※「みくりや・たかし」は1951年生まれ,専門は日本政治史。政府の「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」で座長代理を務めた。

 大嘗祭に多額の公費がつぎこまれている現状はよいのか。そう尋ねられたら私の答えは「仕方ない」です。昭和の終わりから30年間,その議論をしてこなかったのだから仕方ない,という意味です。

 皇室をめぐる議論が政治の現場でまったくなされてこなかったとは思いません。問題は,議論が「皇位継承問題」に限定されてきたことでしょう。憲法第1条のいう「象徴」とはなにか。つまり国民が天皇や皇室の存在をどう位置づけるのか,という根本の議論がなされてこなかったのです。
  
補注)問題は御厨 貴がいうほどに簡単でも単純でもなかった。敗戦後に新しくできてGHQから押しつけられたという日本国憲法は,明治憲法(旧大日本帝国憲法)に比較したら,よほど民主主義的な法律であった。けれども,天皇天皇制を残置させておくというアメリカ側の占領政策(敗戦後における国際政治事情を反映させてもいた措置)によって,

  それを換言すると,「民主主義」が主権在民であるという基本要件のなかに,新憲法の第1条から第8条の「天皇条項」をアクロバット的に,それもあえて冒頭に置く操作によって,その民主制の程度に〈特定のクビキ〉を架しておいた。しかもそのまま,21世紀の今日まで来ている。

  御厨 貴が「国民が天皇や皇室の存在をどう位置づけるのか,という根本の議論」をしてこなかったと指摘する内政問題は,現状のごとき「米日安保関連法体制」のもとで,実態としては対米服属国家体制を余儀なくされつづけているこの日本国の無様を,しごく遠回しに,それも天皇天皇制の問題を借りた体裁でもって示唆していたと受けとめることができる。

  「主権在民」の政治体制の上部構造に「象徴としての天皇」が推戴されている日本国憲法がある。しかもそのなかには,天皇天皇制に関する「憲法の第1条から第8条」までが,まず最初に規定されている。いくら天皇が象徴なのだとはいったところで,「主権在君」の憲法形式「観」の残滓そのものがは抹消できていない。この国の政治構造においては,いまだに「冠」的な存在である「天皇制度」の基本特性が,実に大きな役目を果たしている。


 今回の代替わりのプロセスは約3年前,退位の意向を示す「おことば」で始まりました。私は当時,おことばについて「憲法の土俵から足が一歩出てしまっている疑いが強い」とコメントしています。日本国憲法は第4条で,天皇は政治的な権能をもたないと規定しているからです。
 
 補注)御厨 貴がここまで批判的な見解を披露するのであったら,憲法上に決められているという天皇の国事行為のみならず,その公的行為,そして私的行為までも,つまりは「天皇家の一族」たちがいまではしごく当たりまえのように実行している「国事行為的≒公務的な諸活動」の全体を,それも非常に広範囲にわたり多種多様に展開している具体的な実相までもとりあげて,きちんと批判的に「憲法の土俵から足が一歩出てしまっている疑いが強い」と語るべきであった。

  すなわち,平成の天皇が「自分は退位したいと希望を述べた問題」だけが問題であったわけではなく,敗戦後の政治過程のなかで皇室関係者が憲法の国事行為に関する規定などないものに等しいかのように,幅広く活動してきた「行為」の全体までが問題になっていいはずである。


 象徴天皇制をどう考えるか,議論が起きてほしいとの願いが私のなかにありました。けれど実際には,世論は早々に「どうぞお休みください」との方向に傾き,退位に反対することは許されないとの空気が急速に醸成されました。天皇という存在のもつ影響力の強さは私の予想以上でした。
  
補注)つまり,日本の政治社会における「天皇という存在のもつ影響力の強さ」は,すでに昔から憲法の関連する規定:制約を完全に骨抜き状態にしてきていた。いいかえれば,実質的にそれはないものだとみなしていいくらい,公的行為・私的行為までも含めて幅広く繰りひろげてきた。これはある意味では,日本国憲法に不可避・特有の痼疾=困難を指示していた。

 宮中祭祀をおこなう天皇は,宗教性を帯びた存在です。戦後社会で象徴天皇制は,政教分離の原則との間に緊張関係をはらみながらも,おおむね安定的に機能してきたと思います。祭祀を「皇室の私的行為」という枠のなかに押しこめたことが安定のカギになってきた,と私はみます。皇室の宗教行事を「公的」行事にしたいと考える勢力は戦後も存在しますが,ゆきすぎれば安定性を傷つけるでしょう。
  
補注)天皇家の“自家製になる皇室神道”という宗教的な立場から,天皇が「国民のために日夜祈りを捧げている」という関係性は,民主主義国家体制とは相反する「私家の宗教と公共の政治との対面」である。いうまでもなく,そこでは「政教分離の原則」の配慮が皆無である。もっとも,そのおおもとに控える難題は,日本国憲法に本来的な基本矛盾であった。

  政治学者の御厨 貴は,そのあたりの問題点は百も承知のうえで,相当遠まわしに「天皇代替わり儀式:大嘗祭」をめぐる発言をしていた。その意図じたいは理解できなくはないものの,しょせんは隔靴掻痒であった。したがって,御厨の考えているらしいそれも政治学者としての本意が,他者に対して円滑に伝達できるかどうかは,保証のかぎりではない。


 大嘗祭はどうあるべきか。その解は,時代の変化にも影響を受けるはずです。

 大日本帝国の時代,政府は大嘗祭に多額の費用をつぎこむようになりました。「天皇主権」の時代でもあり,皇室の権威を強く演出する狙いがあったのでしょう。ただ,政府が公式かつ大々的におこなう大嘗祭が現在でも皇室の権威維持に有効かといえば,疑問もあると私は思います。

 秋篠宮さまは昨〔2018〕年,大嘗祭を「身の丈にあったかたち」にすべきだと訴えました。右肩上がりの経済成長が望みえないなかで,これからも天皇の物語をつむぎつづけていく日本国民にとって重要な問題を含む発言だった,と思います。
  
補注)御厨 貴に対しては,あえてからんだようなものいいで表現すると,それでは日本の経済が景気がよければ,その「身の丈」がより大きくなってもいいのかなどと,やや混ぜっ返すかのような口調で訊ねたくもなる。この当たりの論点は「天皇一家は京都へお帰りやす」といったらよいような方向性を,あらためて想起させる。

 近代が始まって以降,代替わりは「崩御」を機におこなわれてきましたが,今回はそこに生前退位という新しいパターンがくわわりました。代替わりの頻度が高まっていく可能性が想定されます。大規模な施設を新造しては壊すスタイルのいまの大嘗祭をこの先も続けていくのか。それは,こうした未来の可能性も踏まえつつ検討されるべきでしょう。
(聞き手 編集委員塩倉裕)(以上で,3名からの引用終わり)

 以上のインタビュー記事で識者が触れた問題に関連しては,『朝日新聞』2019年11月15日朝刊2面「時時刻刻」が,つぎのような「見出し」や「中見出し」をかかげて報道していた。

大嘗祭  議論なく踏襲」

「強い宗教色  政教分離に懸念,『公的性格』秘事に24億円」

皇室典範から削除  根拠無し,よりどころは皇位世襲制

「論争起きない『祝賀ムード』」

 要言すれば,日本国憲法内における天皇制度に淵源する重大な問題,なかでもとくに「政教分離」の問題が,民主主義国家体制であるはずのこの国の核心を溶融させている現状は,観過できない「はず」である。

 前段の記事のなかで小和田雄次(静岡福祉大学名誉教授)は,「昭和天皇の逝去の影響が残った平成と違い,祝賀ムードが強く,
『伝統』という言葉に惑わされ,政教分離問題を議論するような雰囲気になっていない」と発言していた。

 明治以来,新しく創成された「国家規模の次元」における皇室神道は,敗戦前まで国家神道の中核を形成する段階にまで肥大化した。その結果が旧大日本帝国の崩壊になってもいた。「神格天皇という虚像」は,本日におけるここまでの記述のなかでも,確実に否定されていた。この事実に照らせば,明治帝政時代から提供されてきた「創られた天皇制」の具体像は,21世紀の時代に合わせてなんらかの措置が必要不可欠である。

 『朝日新聞』2019年11月14日朝刊「天声人語」は末尾で,「謎めいた部分があってこそ象徴としての存在感は増すということなだろうか」と,今回における天皇代替わり儀式:大嘗祭に対してならば,不可避である「疑問符」を投じていた。これは,あまりにも当然の問題提起である。

 政教分離に関する原則的な問題がまとも議論がなされなかった今回における大嘗祭の儀式は,なおも「21世紀に古
(いにしえ)天皇(大王)」をもちこむといった,それも無限大の時代錯誤を許容されていた。

 明治維新を成功させるため,つまり米欧帝国主義に対抗するために虚構された神国意識が,いまもなお「日本国民のための民主政治」に必要とは思われない。この指摘は,天皇天皇制そのものに関する是非の問題とは,ひとまず別次元で吟味されていい。

 最後に参考にまで,『日本経済新聞』2019年10月12日朝刊33面は「台風19号 1ヵ月  記録的水害,影響など深刻」との見出しを付けた「特集」紙面を組んでいた点を指摘しておく。また『朝日新聞』も,日経とやはり同じ日の朝刊32面に「中小河川 思わぬ脅威」といった見出しを付けた「特集の紙面」も組んでいた。日経,朝日ともにその紙面には広告を載せる段落を設けず,その全面を充てて「水害に関する特集記事」を掲載していた。

 秋篠宮大嘗祭の儀式執行について「身の丈に合ったかたちで」と発言し,新嘗祭がおこなわれる皇居内の神嘉殿(しんかでん)を使うのはどうかと,宮内庁に提言したと報道されていた。皇族たちがいったいなにを考慮したつもりでそういってたのかも,われわれ庶民の側からは想像してみる余地もある。

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