天皇徳仁(令和)と天皇裕仁(昭和)との「新聞記事写真」に感じる,時代を超えた「ある種の共通性」

「令和の天皇」の最新画像と祖父「昭和の天皇」の73年前の該当画像を比較すると,宮内庁が提供する天皇の写真からなにが読みとれるか,これまた「皇室の伝統」か

                  (2019年5月12日)

 

 【要点】 カメラの角度(アングル)から当人たちの姿勢(かっこう)まで同一であったという「記録」


 本ブログはだいぶ前だったが(というのは,その原文が初めて公表されていた日付は2010年5月24日であった),これをあらためて2017年1月17日に,つぎの題目で記述していた(本ブログでは未公開)。 

 その記述は,植木 等(1926~2007年)がまだいまに生きていたら,そう気安く「オレといっしょにするなよ」とでもいわれそうな,昭和天皇の話題に関する論題を付けていた。

 主題「こんな日本に誰がした:米軍基地と天皇裕仁

  副題1「昭和無責任男=『天皇裕仁の遺産』」としての沖縄問題」
  副題2「沖縄は捨て石であり要石である(鹿野政直)」

 さて,本ブログの筆者が古本で,それも本当に古い本だといえそうな,藤樫(とがし)準二『陛下の人間宣言-旋風裡の天皇を描く-』(同和書房,昭和21年9月10日発行)を入手したとき,この本のなかに偶然はさまれていたスクラップの現物を,画像資料としてつぎにかかげておく。

 これは『毎日新聞』1947年5月3日(この日に日本国憲法が施行された)の1面に掲載された,それも「新憲法に署名される天皇陛下」という説明(見出しではない “説明の文句” )が付されていた記事のスクラップであった。この記事の冒頭には「1日午後新緑の吹上御所苑近く……」と記述されているので,1947年5月3日の新聞記事である点は間違いないと思われる。 

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 筆者手持ちのこのスクラップ資料だけでは完全には確認できないが,『毎日新聞』1947年5月3日の「東京版」(1面)に使用された写真と同じである。ただし,この写真じたいが撮影されたのは,前年の1946年11月3日であった。

 そして,つぎの画像資料は,『毎日新聞』同日の「大阪版」(1面)の当該記事と画像である。こちらの画像は右側部分が数行分だけ落ちているが,みて分かるとおり同じ記事と画像である。しかし,見出しの文句は異なったものが付けられていた。

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 また,その「東京版」のほうの記事の末尾には「藤樫準二本社記者記」と付記されていた。
 出所・補注) 「大阪版」の 『毎日新聞』1947年5月3日は, https://kenpouq.exblog.jp/23682279/ から。このブログがかかげている原画像のあつかいでは右側が切れており,その分が写っていないが,同一の記事と画像である。

 本日〔2019年5月12日〕における記述は,元号「令和」の新天皇となった徳仁が執務する姿を,宮内庁が用意した写真をもって,新聞社が紹介していたことに注目する。これは『日本経済新聞』2019年5月8日朝刊34面に掲載されていた写真である。

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 この『日本経済新聞』2019年5月8日朝刊の当該記事「陛下の公務,本格スタート」を引用しておく。

 皇位継承後初の平日となった〔5月〕7日,天皇陛下は皇居・宮殿で公務に臨まれた。お住まいの赤坂御所(東京・港)から皇居(同・千代田)へ車で向かい,内閣から届いた閣議に関わる書類などに署名・押印された。陛下の天皇としての公務が本格的にスタートした。

 陛下は午後3時15分ごろ,皇居・半蔵門に車で到着し,窓を開けて沿道の人たちに手を振られた。宮殿「菊の間」で書類に目を通したあと,印章を押したり,「徳仁」と署名したりされた。

 このように,2019年5月8日朝刊の記事のなかで前日の5月7日に,天皇徳仁が「内閣から届いた書類の押印する天皇陛下」として紹介されていた。

 それこそ,観てごらんのとおりであるけれども,あとの「こちらの写真(徳仁)」とさきの「前掲の写真(裕仁)」とは,写真に撮られたそれぞれの構図(カメラのアングルなど)が「いかにもそっくり」であった。なんとはなしに「このように似ているのは当然である」と思えるかもしれない。しかしながら,「いかにも・いかにもだ」といった印象も抱かせる写真2葉であった。

 ともかくも,1947年5月3日(および1946年11月3日)に公表されていた「天皇裕仁」の写真のほうは,敗戦以前における大元帥「軍服像」の面影をいかにして払拭し,イメージ(天皇に関する全体的な印象)を根本から徹底的に変身させるかに重点が置かれていた。

 その点は,前掲の画像資料2点のなかからも判読できる本文の調子(筆致・論調)をうかがってみれば,おおよそは感知・理解できるはずである。

 「素朴さむき出し 気どらぬ天皇陛下」「炭礦にもゆきたい 陛下・記者らにお話し」といった,天皇裕仁の記事における見出しは,それまでの大元帥「像」を必死になって打ち消そうとする「藤樫準二記者(毎日新聞社)の懸命な努力」がにじみ出ていた。 

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 出所)「昭和天皇の戦後巡幸,記録映画を上映 〔3月〕22日に東大で」,asahi.com 2019年3月21日09時27分,https://digital.asahi.com/articles/ASM3B7X5XM3BUTIL01Z.html 

 藤樫(とがし)準二記者は,長年にわたり宮内庁(旧宮内省)の担当記者として皇室関係の報道,それも多分とくに「敗戦後政治史的な昭和天皇の脱皮過程」に関して誠心誠意,深くたずさわった努力・貢献を認められた結果,めでたくも叙勲されていた。

 「昭和49〔1974〕年春の叙勲にあたり,はからずも宮内記者55年という老生に対し,報道功労の理由で『日本国天皇藤樫準二を勲三等に叙し瑞宝章を授与する」の勲章を勲記が授けられた」。
 註記)藤樫準二天皇とともに五十年-宮内記者の目-』毎日新聞社,1977年,158頁。

 藤樫準二記者についてはさらに別稿を用意し,くわしく記述してみたいが,とりあえず,本日の話題はここでおしまいとする。

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