甘粕正彦-満洲国-武藤富男(明治学院),戦時と戦後を生きた日本のキリスト教徒

甘粕正彦満洲国-武藤富男(明治学院)」の相関・間柄において,歴史のいかなる「生活空間的な現実」がありえたのか
                   (2014年3月31日)

 

    要点:1 宗教人の人生・軌跡

    要点:2 甘粕正彦に関する著作にみる武藤富男


  武藤富男〔戦時期〕

 佐野眞一甘粕正彦 乱心の曠野』(新潮社,2008年5月30日発売。本文 475頁)を読んだ。ノンフィクション作家佐野眞一の叙述は手堅く,甘粕正彦に関する新しい資料や情報を独自にいくつも発掘・活用・編集し,本書を執筆・上梓している。
 補注)その後,佐野眞一は作家として採っていた手法に関して,致命的な批判を受けていたが,これは指摘にのみとどめておく。

 もっとも,本ブログ筆者の興味を惹いたのは甘粕正彦自身ではなく,本書中になんども氏名が登場する武藤富男という人物である。つぎのような記述に出会ったのである。武藤の長女:那智子の回顧談となる。

 東京に戻ってから終戦までの間,父〔武藤富男〕がどのようなことをしていたかは,よく知りません。あれは確か,アメリカ大統領のルーズベルトが死んだときでした。父が家族みんなに『早く,庭に出ろ』と急がすのです。お庭に出ましたら,『よし,みんなで万歳三唱だ』と言って,家族全員で万歳を繰り返させられたことがあります。父は一貫してキリスト者で,戦後は明治学院の院長にもなった人ですが,あの頃はやっぱり,鬼畜米英だったんですね(282頁。〔 〕補足は筆者)

 フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』〔など〕によると,武藤富男(むとう・とみお,1904〔明治37〕年~1998〔平成10〕年,下の画像は壮年期と老年期の武藤)は,日本の官僚・教育者・キリスト教牧師(伝道師)であり,主な経歴はこう書かれている。

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 1927(昭和2)年 東京帝国大学卒業後,裁判官となり東京地方裁判所判事。
 〔1926(大正15)年 在学中に高等試験司法科合格,卒業後は司法官補〕
 1934(昭和9)年 渡満し,満州国司法部刑事科長,国務院総務庁弘報処長。
 1943(昭和18)年 帰国し,情報局第一部長に就任。終戦後,官を辞し,日米会話学院を創立。
 1946(昭和21)年 賀川豊彦を呼びかけ人として,キリスト新聞を創刊し,専務兼主筆となり,後に社長に就任。
 1947(昭和22)年 独学で神学を学び,日本基督教団補教師となる。
 1977(昭和52)年 日本キリスト党を結成して第11回参議院議員通常選挙の全国区に立候補するも落選。
 ※  第7代明治学院院長,恵泉女学園理事長,東京神学大学理事長などを歴任。なお,武藤一羊(次掲の画像)は息子である。 クリスチャンであれば,「一羊」という名前の意味は触れるまでもあるまい。 

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  明治学院〔1988年〕

 さて,明治学院は1988年10月19日〔1989年1月7日に死去する〕昭和「天皇の病状悪化に伴い,世間では行事の自粛等が行なわれているが,いわゆる『Xデイ』については,すでに学部長会議で,『当面特別なことはしない』ときめている。つまり現天皇が亡くなっても,休講にするとか,白金祭を中止するよう学生に刊行するとか,反旗を掲げるとか,そのようなことは一切しない,ということである」という《学長声明》を発表していた岩波書店編集部編『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』岩波書店,1989年4月,〔学長 森井 眞〕2頁)
 
 『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』の「解説文」を借りて,当時の明治学院をかこんでいた社会情勢を,ごく簡単に紹介する。

 「1988年秋の天皇の容体急変以降,日本を包んだ異様な雰囲気の中,明治学院大学での動きはきわめて異例なものとなった」。「自粛ムードに弔意の強制」。

 「天皇絶対化に反対する学長声明」。「天皇問題を考える特別講義群」。「そして人々からの激励,正体不明の脅迫」。「ルポ・対談・座談会を加え,学問の自由をめぐる貴重な事実を再現する」。

 「昭和天皇の容態急変以後,日本を包んだ異様な雰囲気の中,明治学院大学での動きは異例なものだった.天皇絶対化に反対する学長声明,天皇問題を考える60余の特別講義など,学問の自由を考える為の貴重な事例報告」。
 註記)http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ 参照。

 武藤富男が以前,明治学院院長を務めていた時期は,1962年から1977年の15年間であった。武藤はその間,大学組織において1965年に社会学部(社会学科・社会福祉学科)を独立させ,文学部にフランス文学科を設置し,1966年には法学部(法律学科)第1部・第2部を設置し,学校法人・大学経営者としての手腕を振るっている。

 『ドキュメント明治学院大学1989 -学問の自由と天皇制-』が記録する「天皇制」の問題は,武藤が明治学院院長を辞してから10年ほど経過していたころ発生していたが,この出来事が進行している時期にも彼はまだ生きており,長寿だった。

 

  武藤富男〔戦後期〕

 武藤富男という人物は,満州国官僚の時代からキリスト教信者であった。しかし,戦争中に敵国アメリカの大統領死亡を喜び「万歳三唱」を家族に繰り返させたと,実の娘が語っていた。だが,敗戦後における武藤は,国家官僚の地位・立場をさっさと棄て,「キリスト教徒としての自分の生活空間」を上手に構築していき,相当の出世を成就させていくことになった。

 武藤は敗戦後,官僚を辞してキリスト教の牧会者になったけれども,明治学院の関係者には,戦争の時代,率先して神社参拝を「植民地のキリスト者」にまで強要した冨田 満(1883~1961年)という,当時の日本基督教団議長がいた。この冨田は日本キリスト教史にあって,痛恨の,消しがたい汚点を残した「聖職者」である。

 途中だが参考にまで,こういう「変身=転向」の実例を紹介しておきたい。柳田謙十郎という哲学者がいた(1893~1983年)。この柳田は戦争中まで,観念論に立脚する哲学者だったけれども,1950年ころからは観念論から唯物論に公然と移ると宣言した。

 より広範な歴史的実在の創造的関連の中にある動的発展的事実として把握するならば,物質から意識が出たということは何としても動かすことのできない科学的実証的事実なのである(柳田謙十郎『わが思想の遍歴』青木書店,1972年,183頁)

 実は,『ドキュメント明治学院大学1989―学問の自由と天皇制-』という書物の制作・公表は,戦争の時代の真っただなかにおいてこそ,明治学院関係者〔学院長体験者〕のその冨田牧師が,キリスト教精神の基本的立場を廃棄・放逐したうえで,「日本帝国の国家神道の宗教的な立場」=「意識」を「物質」的に支持しただけでなく,日本および植民地各国(各地域)の人びとに対しても「神国日本」の「国家神:昭和天皇」を礼拝するよう強要してきた史実を,反省する意味もこめられていた。

 しかし,2000年ころだったと思うが,明治学院大学学長を務めたことのある中山弘正経済学部教授(ソ連経済論専攻)に対して本ブログ筆者が,満洲国時代における以上のような「武藤富男の事績」を伝達・示唆したところ,これには相当に苦慮したような応答をもらったことを憶えている。

 補注)中山弘正(なかやま・ひろまさ,1938年- )は日本の経済学者,明治学院名誉教授,キリスト教研究所名誉所員で,1994年より1997年まで明治学院の第10代院長を務めた。長老派のクリスチャンでもある。明治学院院長時代の1995年1月に東京在住の父と母が死去し,中山が喪主を務める。この年の5月に戦争責任告白をする。

 なぜなら,1995年6月10日,敗戦50周年にあたり,当時の明治学院学院長中山弘正は学院の礼拝において,そのような『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』を表明していたからである。これは「過去の反省のうえに未来を築かなければならない」という決意から,キリスト者として,教育者としての自己検証をおこなったものである明治学院敗戦五十周年事業委員会編『未来への記憶-こくはく 戦後五十年・明治学院の自己検証-』ヨルダン社,1995年参照)

 ただし,明治学院のその「過去の反省」とはもっぱら,冨田 満牧師などが明治学院などを足場にして,戦争中に犯した「反キリスト者的な行動」を前提していた。ところが,戦後において第7代明治学院院長となった武藤富男に関していえば,『ドキュメント明治学院大学1989-学問の自由と天皇制-』1989年や『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』1995年は,以下に説明するような武藤の存在を念頭には置いていなかった。

 --こういうことであった。

   イ)  武藤は,戦争の時代においては「鬼畜米英」の日本精神=大和魂を素朴に抱いていた。

   ロ)  そして武藤は,敗戦後はいち早く「カムカム エブリボディ(Come, come, everybody・・・)」〔→1946年2月1日から1951年2月9日までNHKラジオで毎週月曜から金曜日の午後6時から15分間,平川唯一(ただいち)よって放送された『英語会話教室』〕の方向に転進・衣替えした。

   ハ)  しかも武藤は,これらの宗主替えは,満州国時代から基督教会にかよっており,当時その長老を務めていたという自身の経歴などを足場にしてのものであった。

 

  明治学院と武藤富男 -満洲国から観かえすと…… -

 明治学院は要は,戦争中に国家から抑圧された過去を有する「キリスト教ミッションスクール系の被害者」であった。けれども,同時にその抑圧行為の手先ともなった人物,牧師の「冨田 満=加害者」を,戦中から引きつづき戦後も学院長の理事長に据えていた。

 しかし,冨田 満だけで留まっていなかった。戦争中「満州国」の高級官僚として日本帝国主義を無条件に支持していたのだが,敗戦を境に,キリスト教の伝道者になった武藤富男をのちの学院長に戴いてもいた。

 敗戦後における武藤は,GHQの敷いてくれた民主主義路線にすばやく乗りかえ,以後は「キリスト教信徒としての人生」に活路をみいだしていく人物であった。しかし,『ドキュメント明治学院大学 1989-学問の自由と天皇制-』1989年や『明治学院の戦争責任・戦後責任の告白』1995年は,この武藤の軌跡・事績を観察の圏外に置いたまま,その存在を直視できていなかった。

 すなわち,この武藤富男が戦中から戦後にかけて記録してきた〈注目すべき履歴〉は,明治学院の関係者たちの視野に入ることはなかったのである。いいかえてみると,武藤の過去:戦時期における履歴をなにもしらなかったということであったかもしれない。だが,そうであったとしても,はなはだ迂闊というほかない「ミッション系学校法人:明治学院内部における〈歴史認識〉」であった。

 武藤富男の著作である

  満洲讃歌』吐風書房(奉天),康徳8〔昭和16年〕,

  『満洲国の断面-甘粕正彦の生涯-』近代社, 昭和31年,

  『私と満州国文藝春秋,昭和53年

の3冊を枚挙すれば,彼の履歴における出立点が奈辺にあったかが理解できる。武藤はともかく,戦前からすでにクリスチャンであった。

 『満洲讃歌』はたとえば,こう記述していた。

 我が満洲国に於ては全体主義を標榜して,協和会運動に依って国民が一致団結して,国を造りあげて行かなければなりません。それには統制といふ事が必要である。各自が我が儘気儘で行動して居たのでは力は出て来ない。団体となって,言葉を換へて言へば,国家全体が一つの軍隊組織になって事をやって行かねばいけないのです(229頁)

 

 ナチス党のやってゐることを見ますと,難しい理屈を言はずに,物事は簡単明瞭に決めてこれを実行して行く。これが一番よい政治だと思ひます。この点に就て我々は反省しなければなりません。難しい理屈を言ってはいけない。主義綱領は簡明直截で誰にでも分る様にしなければいけない(256-257頁)

 

 満洲は東亜勃興の中心地である。ここで民族共和の理想を実践して,すばらしい国家を作ったなら東亜全体は起ち上る。ヨーロッパを見て来ると自分の国の位置がはっきり分かる。我々が満洲に職を奉じ東亜復興の大事業に参画してゐることに新なる喜びと責任と誇りとを感ずる。之がヨーロッパ訪問の結論であります。(康徳6,7,治安部にて講演)(271頁)
 補注)康徳とは満洲国の元号,康徳6年は1939:昭和14年満洲国が送りだした使節団(正式名:訪欧修好通商使節団)のヨーロッパ訪問は,昭和13年7月30日から昭和14年1月28日まで,甘粕正彦を「副団長」に26名の団員を組織して実施されていた。くわしくは,武藤富男『私と満洲国』文藝春秋,1988年,第3章「使節団訪欧」参照。

 「満洲国」そのものを讃歌・支持し,実際にこの国における高級官僚としてその運営・発展にたずさわってきた人物:武藤富男は,敗戦を契機に「キリスト教徒であった・である」というまさしく,当時における世過ぎには非常に好都合な自己の信条・立場を利用しつつ,しかも日本基督教会を足場に自分の人生を転回させえ,大いに活躍していくことにあいなった。

 武藤富男『私と満洲国』1988年の記述は,旧「満洲国」の歴史と存在について,どのような感情と理性をもって回顧しているのか,いまひとつ判りにくい。よき思い出と化した「満洲国」の幻影が,彼の脳中を全面的に占めていられるようになっていたのか?

 戦後になって武藤は「公職追放」(白色パージ)を受けた。A級戦犯には指定されなかったが・・・。しかし,ともかく,占領軍からの致命的なお咎めは免れえたのである。戦争中の「国家官僚の立場」,そして,敗戦以降は逆に,大いに歓迎・推奨されるようになった「キリスト教徒の立場」を強く意識しながら武藤は,宗教界における有為の人士として縦横無尽の活躍をしていくことになる。

 個人的な話題になるが,明治学院に教員として勤務するある知人がいる。この知人にして,以上に指摘したような「武藤富男〈問題〉」は,まったくしらなかった。明治学院はただ,「冨田 満」だけを「加害者である」という観点でとりあげ,論じ,批判していた。

 けれども,武藤富男は,いったいどのようにとりあげられてきたのかといえば,明治学院内部では皆無の事象であった。中山弘正は,筆者の問いにはだいぶ苦悶した様子と推測された。だが,この問いは結果的には無視された。明治学院にとっては「触らぬ神に祟りなし」という措置にした気持も理解できないわけではない。歴史への円満な妥協が図られたと思われる。

 補注)中山弘正は存命している人物であるが,もはや武藤富男についてなにか発言してもらうことは,期待薄かもしれない。

 しかし依然,大きな疑問が残ることに変わりはない。もう一度いっておく。武藤富男『満洲讃歌』(吐風書房(奉天),康徳8〔昭和16年〕)を読んでみればよい。この本の内容が武藤の本心でなかったとすれば,戦後において武藤が活躍するなかであれこれ発言してきたことば・表現してきた思想も,けっして本心とはいえない。こうした理解が間違いであると反論できる人は,ぜひとも批判を返して,議論もしてほしいものである。

 

  補  説-ウィキペディア「武藤富男」における誤導の解説-

 ④ までの記述で説明されてきたところと考えたいが,本日〔2019年12月20日〕,以上の記述をした関係上,ウィキペディアであらためて「武藤富男の項目」を読んでみたところが,ずいぶん理解の足りない,いわば短絡的な指摘(=実質的には限りなく間違いに近いもの)があって驚いた。文字を色分けしてあるのは,のちの説明用である。

 「戦争の時代,満洲国政府の高官の地位に就き,植民地的カイライ国家『満洲国』のお先棒担ぎをしてきた人物でもあったという事実に,いままで明治学院の関係者は気づいていなかった。」と批判している明治学院大学は1995年に戦争責任の告白と謝罪を行っている)

 あくまで ④ までの記述を踏まえていう論点である。このような「論理の運び」は,「ものごと(議論・考察の対象となった問題)の時系列的な因果や事情」に関する順逆をまともに踏まえていないか,あるいは「時空すら異ならせている論点同士」を無理やり引きこんだり前後させたりして並べているから,この強引さにはただ「驚く」と形容してみた。

 つまり,あたかも誤導になる記述をしていても,かまわないかのように「後追い」的に,錯綜的にならざるをえない筆致で書かれていると解釈できる。なによりも時間的にはもともと噛みあわない(整合性のない)説明であり,しかも内容的にはまったく関連性のない,いいかえれば,ここにはただちにもちこめない「戦争責任の告白と謝罪を行なっている」という特定の文句を,あたかも明治学院側に肩入れするごときに,それも「歴史の事実」を「ひどく混濁させる結果」になるほかない説明として,最後に「( )内」に囲む形式でわざわざ挿入している。不可解である。 

 もし必要ならば,本日の記述では,とくに言及はせずに禁欲している「中山弘正氏の語った関連事情」を開陳してもいいけれども,今日のところは,ひとまず “この断わり” だけに留めておく。

 ウィキペディアの「武藤富男」の該当記述部分に関しては,関連する記事を「2019年12月15日〔に〕閲覧」したのを受けて,それを記入したことになっている。誰が書いたがしらぬが,本日は12月20日である。いまごろになって,ずいぶん無理筋の “後追い的な加筆” をおこなったものである。

 具体的に指摘しておく。ウィキペディアは前段のように記述されている。しかし,そこでは文字を色分けしておいたので,これに即して説明する。要は,青字と赤字はまったく別の問題であった。

 「いままで明治学院の関係者は気づいていなかった」と書かれた部分は,武藤富男の満洲国時代に関する問題そのものだけを指している。これに対して「明治学院大学は1995年に戦争責任の告白と謝罪を行っている)」と書かれた部分は,武藤富男の問題とはひとまず,いっさい関連のない,まったく別の問題として起きていた明治学院側の歴史に対する姿勢の問題であった。

 この青字の部分赤字の部分に向けてじかに対置させるのは,だから誤導的であり,意図的に混濁をもたらすものだと批判しておかねばならない。 

 繰り返す。そのようにすぐにつなげて両部分を並べるのは,「だから誤導だった」と批判しておく必要がある。そこでは,直接には歴史的にも論理的にもなんら関連性のない説明内容同士を,しかも「・・本文・・」のあとに( ……挿入…… )を,入子状態の関係にさせて繰りこむといった話法(論理的に前後の組み入れとしての関連づけ)は,はっきりいってムリが過ぎる非論理的な操作であった。 

 もちろん,以上の批判的な指摘は,「歴史の事実」にヨリ正確に接近しつつ,これへの適切な処理・解釈に注意しながら述べた “反論のつもり” である。

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