坂本藤良『経営学入門』1958年だけでなく,山城章『経営』1959年も,当時の経営学ブームに応えて売れゆきのよい本であった

戦後日本経済の発展過程のなかで公刊された「経営学の啓蒙書」-坂本藤良『経営学入門』1958年と山城 章『経営』1959年の比較対照
                  (2018年9月16日)

 

  要点:1 戦後日本における経済・産業・経営史と経営学書の対応関係

  要点:2 山城 章『経営』も「経営学ブーム」の一端を担っていた?

 


  本ブログ内で既述の記事 

 本ブログは2019年11月22日に,主題を「坂本藤良『経営学入門』1958年の経営学史的な含意」を書いていた。
 註記)リンク ⇒ https://socialsciencereview.hatenablog.com/entry/2019/11/22/082623

 その記述の目次は,以下の3項目であった。

  ・坂本藤良という経営学者が〈昔〉いた。
  ・植田康夫による坂本藤良像の描写,その吟味
  ・坂本藤良『経営学入門』1958年の意図

 

  本日の話題

 1.坂本藤良『経営学入門』昭和33〔1958〕年4月

 現在から60年も前の時期,日本がこれから高度経済成長をなしとげていこうとする過程の〈とば口〉にさしかかっていたころであった。当時,日本における経営学ブームに火を点けた1冊の本が登場していた。それは,光文社の「カッパブックスという出版企画」のもとに刊行された坂本藤良『経営学入門』昭和33〔1958〕年4月であった。

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 とはいえ,当時まで営利企業に関する経営・管理・運営の問題を教科書的に適切に概説する本がなかったわけでなく,たとえば,つぎのような本があった。

 a) まず,戦前・戦中からの能率技師系(科学的管理の導入・推進者)の識者が公刊した本,加藤威夫『経営の話-経営改善の急所』丸善,昭和25〔1950〕年5月があった。ただし,この本はその副題からも分かるようにあくまで,能率研究の伝統分野に立ってまとめられていた。

 加藤威夫は,野田信夫(野田一夫の父)との「共訳註」書として『時間研究による作業標準決定法』マネジメント社調査部,昭和7〔1932〕年1月を公刊していた。この本の関連で加藤威夫の経営解説書を位置づけておく必要があった。

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 b) つぎに,やはり戦前から経営学者として教員生活を出発させてい一橋商学系の古川栄一が『経営学入門』実教出版,昭和24〔1949〕年9月を刊行していた。驚くべきことに古川は,同書のなかで「経営の目的」を「経済性の実現」にみいだし,営利追求から1歩退いた「学問としての経営学の定義」を下していた。これは現実の企業に対する認識としては,完全に間違いであった。

 もっとも,古川栄一が提示した経営学の認識基準に関するその定義は,恩師に当たる増地庸治郎の基本主張を継承していた。「社会科学である経営学」の基本的な視座のなかに,それこそ「お話にもならない」過誤の認識を,それも信念をもってもちこんでいた。もとはいえば,ドイツ経営経済学者のハインリッヒ・ニックリッシュの学説の理念・理論の枠組を鵜呑みにした立場であったから,いまさら「大昔の学者の間違い」を指摘・批判したところで,空しい感じがしないわけでもない。

 c) さらに,マルクス主義の思想的な立場に執着した経営学者で,神戸高等商業学校(現在の神戸大学経営学部の前身)の教員であった古林喜楽『経営経済学』三笠書房,昭和25〔1950〕年10月もあった。敗戦以前における旧日本帝国の時代にあっては,「奴隷のことば」で学問の表現をせざるをえなかった古林の立場であったが,本書の公表によって初めて「問題の本質的な関連を明らかにする」「経営経済学をば1歩でも科学に接近せしめようとする」努力を,公刊する著書のなかで披露できていた。

 以上に挙げてみた本のうち,加藤威夫『経営の話』や古林喜楽『経営経済学』は,それほど広く販路がみいだせていたとは思えないが,古川栄一『経営学入門』は4年半後(昭和29〔1954〕年3月)までには9刷を重ねていた。この話はどこまでも,本ブログ筆者の手元にある現物をさぐっての判断になっているので,絶対的な評価になっていない。ただし,おおよその見当としては当たっていると考える。

 ところが,坂本藤良『経営学入門』は経営学ブームを創ったといわれる本だけに,筆者の分かる範囲内でも,昭和33〔1958〕年4月1日に初版を出してから同年4月15日,つまり,ほぼ2週間後には5刷を重ねていたのだから,これは発売直後からものすごい売れゆきになっていた。

 さらに坂本の同書は,昭和44〔1969〕年5月1日になると,65版(刷)を発行していた。ただし,これは筆者がもっている特定・任意の版の「現物に印字されている刷数」である。

 ところで,当時(昭和33〔1958〕年4月)の発売以後における,この坂本藤良『経営学入門』の売れゆきのすごさをみせつけられて,これをそのまま傍観していてはいけないと強く感じた,それも経営・会計系の書物を中心に制作・発行していた出版社があった。社会科学系の白桃書房である。

 

 2.山城 章『経営』白桃書房,昭和34〔1959〕年11月の存在

 長年,本ブログ筆者の書棚に差してはあったのだが,最近になってふとこの本を手にとり,あらためて奥付をみてみたところ,気づいた点があった。それは,この山城 章『経営』という本は,坂本藤良『経営学入門』の「〈柳の下のドジョウ〉にはあらず」と形容したらよいような〈企画の結果〉,いいかえれば,坂本のその本には及ばなかったものの,山城のこの本もけっこうよい売れゆきを記録していたのではなかったかという点(推測)であった。

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 山城 章『経営』は昭和34〔1959〕年11月6日に初版を発売したあと,昭和39〔1964〕年3月26日には,35刷まで重刷していた。これを単純に割り算すると,4年半で35刷を発行しており,ほぼ1月につき1刷を刷るだけの需要があった計算になる。

 その間のこまかい販売模様についていまとなっては,具体的な関連していた事情は分かる手立てはない。けれども,ともかく,けっこうな売れゆきであったことはたしかだとみなしていい。当時における “経営学(こちら山城の本の書名は『経営』だったが)のブーム” が,けっしてハンパな社会的普及ぶりではなかった事実をうかがわせる。

 さて,坂本藤良『経営学入門』と山城 章『経営』の定価は,どうなっていたかというと,坂本の95刷(昭和44〔1969〕年5月)が350円,山城の35刷(昭和39〔1964〕年3月) が300円とついていた。その間,5年が経過しているゆえ,そう簡単に比較ができない。

 また,両書の頁数は坂本の「本文 261頁」に対して,山城の「本文 271頁」であり,かなり近い。装訂はいずれも新書判で,坂本がカバーが付いている並製,山城のほうは上製(ただし表紙の造りは薄めの簡素版)の箱入りであった。前掲の画像(左側が山城『経営』)をもう一度みてほしい。

 以上を総体的に観て判断するに,坂本藤良『経営学入門』に山城 章『経営』が追いつけるほど,猛烈に売れていたという事情はなかったと推察できる。だが,山城が『経営学』ではなく『経営』といった書名で,「坂本の入門」書に対抗しうる製品として「山城の経営」の解説書が制作・販売されたものと考えてみたい。

 

 3.山城 章『経営』昭和34〔1959〕年11月の位置づけ

 白桃書房という出版社にとって,山城 章という経営学者はいわゆる〈ドル箱〉の書き手であった。山城はこの白桃書房から数多くの著書を公刊してきた。ところで,この山城は類書として『経営学の学び方』と名づけた本を,昭和32〔1957〕年5月であったから,さきに公刊してもいた。坂本藤良の『経営学入門』の発刊は昭和33〔1958〕年4月であり,類書としては山城のほうが先駆けて執筆し,公表していたことになる。

 だが,坂本藤良のほうの『経営学入門』が,光文社のカッパブックスという企画内の1冊として発売された事情が,その売れゆきに大きく影響する要因となっていた 補注)。しかも山城 章『経営学の学び方』は昭和33〔1958〕年1月に「改訂新版」を制作して発売していた。こちらの装訂は上製(表紙はやはり薄いもの)で,ただしB6判で新書判ではなかった。
 補注)現在もそうであるが,会社の規模として光文社と白桃書房書房を比較するには,あまりにも経営基盤の差が大きい。当時もいまも同様である。

 山城 章『経営』昭和34〔1959〕年11月の発売が,坂本藤良『経営学入門』昭和33〔1958〕年4月の発売に多大な刺激を受けたと解釈しても,前後関係として大きな過誤はないと思う。

 さらに思うには,山城 章『経営学の学び方』昭和32〔1957〕年5月初版の場合,この本の命名法が時代の流れから多少ずれていたかもしれず,「学び方」という文句でややお堅い印象を与えたのかもしれない。この点を補正し,軌道修正しようと試みた白桃書房は,山城 章に別途,新書判サイズになる『経営』昭和34〔1959〕年の制作を依頼し執筆してもらい,発行したのではなかったか。

 要は,当時における日本の経済社会・産業経営のなかでは,「学び方」といた書名ではなくて「入門」という書名のほうが,てっとり早く,すぐに手にとって読む気を起こさせるような,それでいて「経営学の勉強に役立つような入門=案内書」だとみなされ,サラリーマン層を中心に潜在していた「経営学書」への需要を,盛大に喚起する一因になっていたと観察しておく。時代はまさに高度成長時代に入りつつあった。

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  出所)http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/Economy/J_Economic_History/High_E_Growth.htm

 

 この図表を借りた本文から,つぎの引用をしておく。 

 神武景気の1956年度の『経済白書』では,「もはや『戦後』ではない」という言葉が使われた(下掲画像はその該当,42頁)。国民1人あたりの消費高が1953年に,戦前の水準を突破したことを受けている。岩戸景気(1958年~1961年)のころは,繊維・機械の輸出好調を背景に,工場建設など企業の設備投資が盛んにおこなわれた。神武景気からの好景気を支えたのが民間の設備投資だった。とくに,鉄鋼・化学・電力などの素材産業で活発な設備投資がおこなわれた。

 

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 こうした当時の状況を『投資が投資を呼ぶ』と,1960年の『経済白書』で表現した。これらの産業では,「規模の利益」(=生産設備の規模拡大で単位あたりの生産費用が低下し,企業にとって利益が生じること)が追求された。また,石油化学産業では,外国から新しい技術を取り入れ,技術革新をおこない,太平洋沿岸の各地に鉄鋼・石油化学などの臨海工業地帯をつくった。そこにコンビナートが作られ,関連産業を集めた 「集積の利益」 が追求された。

 以上,けっこう推測話に傾斜・集中していたが,なかんずく山城 章『経営』昭和34〔1959〕年11月が坂本藤良『経営学入門』昭和33〔1958〕年4月を追うようにして公刊されていた事実は,なにを意味していたか。

 山城 章と坂本藤良の両著は,以上のごとき戦後日本における経済産業の発達史状況に即して,つまりその過程のなかから必然的にも生まれてきた「経営学の啓蒙書」の需要に応えるかっこうで,ほぼ同時期に逐次的に制作・発行されていた。

 両著の存在は,「日本経営学史の研究領域」においてしかと記録されておくべき「価値のある文献」である,と銘記されてよいのである。

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