日本における「男女格差」の深刻さ,それでも教育勅語が恋しい「安倍晋三とその道連れ」たちの封建観念

女性をふつうにまともに活用できない日本の政治・経済・社会は,21世紀に存続していけるのかさえ危ぶまれているほどに「男女格差社会」がひどい,ましてやいまどき教育勅語をもちだすのは愚の骨頂

 

  要点:1 男女格差の悪化傾向がどうにも止まらない日本に「健全なる社会発展」は期待できるのか

  要点:2 2019年12月に発表された「男女格差報告書」(世界経済フォーラム)は,調査対象国153国中で「日本の順位を121位」の順位につけており,過去最低の評価となった

  要点:3 21世紀の現在でも『教育勅語』にはいいところがあり,教育に適用できると “大いなる時代錯誤” を冒していながら,その幻惑的な間違いに気づかない「安倍晋三政権:中心集団の脳細胞」にしたがえば,「男女格差」は当然,だから「女性・女系天皇」を認めないと飛躍できる


  前 論:1

 『教育勅語』というものは,どのような歴史上の本性を有してたのか,ひとまず要約的に説明を与えておき,事後につづく記述の前提に置いておきたい。

 要するに,「教育勅語は古代史的な天皇制の発想に “半近代的な封建遺制の衣” で包んで揚げた『まがいもの』の教育思想であり,民主主義・個人主義自由主義を完全に否定する」,いわば前々世紀の遺物である。

 また,「教育勅語明治維新後の教育思想として完全に破綻・失敗してきた事実が認められずに,いまだに『いい中身が含まれている』などと意図的に錯覚するのは,まさしく『時代錯誤もはなはだしい自己欺瞞的な認識』であり,また明治帝政の時代精神に対する意図的な歪曲をも意味する。

 さらに,いまの「21世紀のこの時代にふさわしい教育理念を創造・考案できないまま,わが『神州:日本』は天皇が治める国だなどといったごときはなはだしき『錯覚の発想・転倒の思念』は,ひとまず遠い過去への郷愁的な思慕だとみなせても,その近代政治的な基本認識としては問題があり過ぎる」。


 前論:2

 4日前(2019年12月18日)に「男女格差」に関するつぎの報道が出ていた。毎年,この12月になると出る報告書に関した記事である。本日の論旨にとって深い関連があるニュースである。

 

 ◆-1「男女格差,広がる日本 過去最低121位,主要7カ国最下位」朝日新聞』2019年12月18日朝刊3面「総合3」

 世界経済フォーラム(WEF)が12月17日発表した今〔2019〕年の「男女格差(ジェンダーギャップ)報告書」で,日本の順位は対象153カ国の121位で過去最低だった。主要7カ国(G7)では最下位。女性の政治参画の停滞が順位に影響した。

 WEFは,世界の政財界の指導者を集めた「ダボス会議」を主催する国際機関。報告書では経済,教育,健康,政治の4分野で男女格差を調べ,100%を「完全な平等」として指数化。教育は識字率と年齢層別の進学率,健康は健康寿命などを対象とする。世界全体で女性は国会議員(下院議員)の25%,閣僚の21%を占めるのみで,政治参画は依然遅れていると指摘している。

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 日本は調査対象の衆院議員で女性が10.1%。閣僚は9月の内閣改造前まで19人中1人の5.3%で,順位を下げる要因になった。

 11年連続1位のアイスランドなど上位の北欧諸国は議員数,閣僚数ともに少なくとも4割弱が女性だ。先進国ではスペインが女性議員,閣僚を増やし,全体の順位で前年の29位から8位に上がったのが目をひく。

 日本は今回,男女格差の指数が前年の66.2%から65.2%に後退。経済分野では,女性管理職の割合についての指数が上昇した一方,賃金格差が広がった。

 「女性進出,遅れきわ立つ政治」 政治への女性進出があまりに遅れている状況が,浮き彫りになった。指標のひとつとなる衆院の女性比率はわずか1割。だが,6割の議席をもちながら女性比率は7%という自民党に,危機感は薄い。

 二階俊博幹事長は〔12月〕17日,記者会見で,日本の低迷ぶりを示す結果について「いまさら別に驚いているわけでもなんでもない」としたうえで,「徐々に理想的なかたちに直すというか,取り組むことが大事だ」と述べるにとどめた。
 補注)この二階幹事長の発言は開きなおりの域を出ていない。というか,いつものとおりに「いまさら驚くほどでもなんでもない」などと, “例のデタラメ三昧なセリフ” を吐いていた。安倍晋三の長期政権をキングメーカーのつもりで支持してきたこの幹事長は,いまとなってあらためて「国民たちの立場」から批難してみるまでもなく,どうしようもないほどに “ろくでなし” の自民党長老議員である。おまけに,国会のなかでは正真正銘の老害現象を象徴的にかつ具体的に代表する自民党議員の1人であった。

〔記事に戻る→〕 男女の候補者を均等にするよう政党に求める候補者男女均等法の施行後,初めての国政選挙となった〔2019年〕7月の参院選。自民の女性候補割合は15%で,安倍晋三首相も当時,「努力不足だといわれても仕方がない」と反省を口にしていた。衆院議員の任期満了まで2年足らず。女性候補を大幅に増やす具体策は,打ち出せていない。鈴木俊一総務会長は「議員は国民が投票によって選ぶ」と語り,有権者の意識にも要因があるとの見方を披露した。
 補注)この鈴木総務会長の発言も理解に苦しむ。問題があるのは,あくまで自民党内であった。にもかかわらず「有権者の意識にも要因がある」とは,見当違いの責任転嫁もはなはだしい。妄説であり,顧みて他をいうたぐいである。

 一方,参院選立憲民主党の候補者の女性比率は45%,国民民主党は36%だった。55%を女性にした共産党小池晃書記局長は,会見でこう踏みこんだ。「ジェンダー平等は国際的な潮流だ。男尊女卑という古い政治的な思想を克服する取り組みを強めたい」。
 補注)『皇室典範』第1章「皇位継承」の第1條「皇位」は「皇統に属する男系の男子が,これを継承する」と書いている。つまり,こちらでの女性の進出可能性はゼロ。

 具体的な取り組みで男女格差を縮めた国もある。韓国は115位から108位に上がり,日本を抜き去った。申 琪榮(シン・キヨン)お茶の水女子大院准教授(比較政治学)によると,「フェミニスト大統領」を名乗る文 在寅大統領は2017年の就任時,女性を一気に5人閣僚に起用した。任期終了までに男女半々にすると約束していて,注目を集めているという。

 また,韓国は2000年から,議員選挙で比例名簿の奇数順位を女性にするなどのクオータ制も導入。法改正を重ね,強制力を強めてきた。国会の女性議員の割合は16.7%で,日本の衆院の10.1%を上回る。

 日本は今回,全体の順位が大きく後退した。上智大の三浦まり教授(政治学)は「平成の30年間,日本は男女格差を放置してきた。他方,諸外国は多様性を尊重し,女性にチャンスを与えようと,しくみを整えてきた。このままでは,日本は国際社会から取り残される一方だ」と指摘する。


 ◆-2「日本の男女格差,過去最低121位 女性閣僚の少なさ響く」『朝日新聞』2019年12月17日夕刊10面「社会総合 」(◆-1と重複する段落のみは中略した)

 世界経済フォーラム(WEF)は〔12月〕17日,各国の男女格差(ジェンダーギャップ)を調べた「男女格差報告書」を発表した。日本の順位は過去最低となる121位だった。報告書は毎年発行され,今回の調査対象は153カ国。アイスランドが11年連続の1位になるなど,北欧諸国が上位を占めている。

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 報告書は,経済,教育,健康,政治の4分野14項目を調査し,100%を完全な平等として格差を指数化している。今回,世界の男女格差は平均で68.6%で,前年の68.0%よりわずかに改善した。(中略) 今回,日本に次いで順位が低いイタリアは76位だった。

 日本は経済分野の男女格差で,女性管理職の割合についての指数が上昇した。一方で,賃金格差が広がるなど,経済分野の順位はほぼ横ばいだった。

 過去最低の順位に影響したのは政治分野で,前年の125位から144位に後退。9月の内閣改造まで女性閣僚が1人だったことが響いた。女性閣僚の割合で格差を縮めて順位を上げた韓国に全体でも抜かれるかたちになった。(中略)

 WEFは世界的な傾向として,今〔2019〕年は経済分野で男女格差が広がったものの,政治への女性参画は108カ国で前年より改善されたとした。(中略) WEFは,世界の政財界の指導者が対話する「ダボス会議」の主催で知られる国際機関。(『朝日新聞』の引用終わり)

 ついでに『日本経済新聞』2019年12月17日夕刊(3面「総合」)からは,つぎの図表のみ借りておく。

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 20世紀においては,先進国のなかでも有力国になれていたつもりの日本(以前は大日本帝国)が,21世紀になってからはこのような体たらくといっていい「男女格差」を結果させつづけてきた。「男女共同参画社会」は,安倍晋三政権も推進する基本政策として採られているものの,実際においては「女性の地位と権利」を,本当に積極的に推進させる気があるのか疑わせてきた。

 最近大きな話題になった「伊藤詩織に対する山口敬之のレイプ事件」(以前は「準強姦」の行為といわれ,いまでは強制性交といわれる出来事)は,まともな先進国から返ってくる評判を聞くと,日本に対する見方はひどく軽蔑的であり,まるで後進国発展途上国)あつかいの報道をされている。

 一時が万事。伊藤詩織の事件そのものは,この世界経済フォーラム(WEF)「男女格差報告」に反映されることはない個別の案件であるけれども,すでに世界的な関心を集めており,日本における「このレイプ事件に対する国家権力側の対応姿勢」に対しては,とくに非常にきびしい視線が集中している。

 

  つぎは,本(旧)ブログにおける「2017年4月20日」の記述から,関連する一部の段落を要約的に紹介しておく。

 その期日〔2017年4月20日〕における当該の記述は,主題を「教育勅語にはいいところがあって,旧大日本帝国のアジア侵略はいいことも残したというのであれば,広島・長崎への原爆投下や日本全国空襲にもいい面があったというのか」と付していた。そのなかでとりあげたのは,『朝日新聞』2017年4月19日朝刊15面「オピニオン」の「〈耕論〉教育勅語の本質 三谷太一郎さん,先崎彰容さん」の主張であった。ここでは,再びその内容をくわしく反復するわけにはいかないので,ごく要点のみ再度参照しておき,あとにつづく議論と突きあわせる材料としたい。

 ※-1「三谷太一郎」 勅語に挙げられた個々の徳目の是非が論じられているが,本質的な問題ではない。教育勅語の本質は,天皇が国民に対して守るべき道徳上の命令を下したところにあった。そうした勅語のあり方全体が,日本国憲法第19条の「思想及び良心の自由」に反する。明治の指導者たちは,国民形成のためには,天皇の存在を国民の内心に根づかせることが必要だと考え,教育勅語にその役割を求めた。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」という部分があった。

 戦争のような国家の危機において,国民は憲法の兵役の義務などに従い,国家のために一身の犠牲をかえりみないということであった。現行憲法に兵役義務はないが,それ以上に思想及び良心の自由にもとづき,場合によっては国家の命令に従わない,市民的不服従の権利もありうる。ところが,教育勅語ではそのような自由は否定され,良心的兵役拒否などありえない。

 ※-2「先崎彰容」 教育勅語がもたらした最大の影響は,内容そのものより,暗唱を通じて国民を「画一化」した点にある。漢語調の言葉を暗唱できなければ,即問題であり,悪だという風潮になる。明治維新で従来の価値観を一気に壊してから20年たっても,社会は安定しなかった。その不安から,なんとかしなければというある種の正義感が地方から高まった。

 現代も似ていて,経済的な豊かさだけを根拠にしてきた状況が解体している。すると,イデオロギーや精神論に走って不安を糊塗しようとする。確実なものがないことへの不安と,その裏返しの過剰な正義感が,左右を問わずに出てきている。白か黒か,保守かリベラルかの二項対立だけで,地に足のついた議論がおこなわれなくなっている。

 だが,教育の本質とは「子どもが健やかに育つこと」であり,そのためになにが必要かを考えるということである。いま子どもたちが直面している最大の問題は「なにを道徳の教材にすべきか」ではなく,教育現場そのものの余裕のなさである。まず教師の業務過多を解消する具体的指針を提示すべきである。それを抜きにして,道徳教育をどうするか,教育勅語を教材にすべきかどうかを論じていても,なにも実を結ばない。

 

 教育勅語の表層的な古代性志向」が,現代の日本においても活かせると強弁する自民党極右議員たちの「不幸にもねじれた精神構造」

 1) 教育勅語のなにが問題か

 いまの天皇一家にとってみれば,あの教育勅語を宣布した先祖をいただく人びとの立場として,教育勅語封建制思想は,ぜひとも忘れてほしいと念願している。教育勅語はなによりも天皇尊崇,それも神として崇敬するような「封建遺制的な国民精神」を,その根本における,それも自家撞着を内包させた教育理念として存在していた。それを,21世紀の現代における「日本の教育」のなかに再導入させようとする企図は,けっして単なるピンボケなどではなくて,極論するならば「狂気のさた」であると形容するほかない。

 教育勅語などいった “くたくたのボロぞうきん” ではない,いまの時代に合ったきれいな教育の基本理念が必要であるにもかかわらず,戦前・戦中体制の教育理念がいいのだと思いこめるアナクロ度は,並みたいていではない。そのような理解は「なにかの狂信的な信念がなければ」出てきそうもない発想である。敗戦後において日本の国会がその教育勅語を廃棄した事由は明確であった。

 敗戦後の政治改革により1946年10月,教育勅語の奉読と神格的取扱いが禁止され,1948年6月19日には衆参両院で,憲法教育基本法などの法の精神にもとるとして,それぞれ排除,失効確認が決議されている。謄本は回収し処分されていた。ところが,いまでは安倍晋三極右政権が教育基本の改悪は,すでにその第1歩を安倍第1次内閣のときに実現させており,いまではに,教育勅語の封建思想を教育現場のなかに実質的にもちこませようとする画策が盛んにおこなわれている。

 安倍晋三政権は未来に向けて新しい教育理念を構想していくのではなく,過去にはけっしてさかのぼれもしないはずの古い天皇主義至上理念を,いまの時代のなかにとりもどそうとしている。だから時代錯誤であり,歴史へのあとずさりであり,進歩ではなく退歩を好む化石的な極右政治家たちの政治理念が問題になっている。

 2) 投書欄〈声〉に寄せられた庶民の意見

 a) 教育勅語は内容そのものも問題」(『朝日新聞』2017年4月21日朝刊。吉田良仁,福岡県,86歳・男性,無職)

 いわゆる森友問題で「教育勅語」が注目されている。論議のなかで,教育勅語を否定する人からも「徳目としてはいいものもある」などの発言があった。本当にそうだろうか。教育勅語に「父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ」という文言がある。これを私たちは戦前戦中時にどう教えられたか。

 「父母ニ孝ニ」は親に絶対服従。「兄弟ニ友ニ」は「長幼序あり」つまり弟は兄に従うこと。「夫婦相和シ」は「夫唱婦随」,夫に妻が従う姿こそ美しい。そうならった。まさに封建的な家族制度を厳しく教えこまれたのだ。

 教育勅語には「従う」ことしかなかった。女性はつねに誰かに付随する脇役であり,社長と社員は親子にみなされ,先輩後輩は兄弟に擬される。そのようなかたちで社会生活全般に反映されていったのだ。

 こうしたありようは,日本国憲法や戦後の民主主義と根本的に相いれない。だからこそ,1948年の国会で排除・失効の決議がされた。戦時中に教育勅語教育を受けた私たちは,「良い面もある」と単純に受けとめるわけにはいかない。(引用終わり)

 --ごくごく単純に「教育勅語にはいいところもあった」という考えを抱いている人たちは,この声の意見にどう応えられるか? 安倍晋三政権は〈家族の絆〉をしきりに強調するが,戦前・戦中の離婚の条件を,まさかしらなかったわけではあるまい。 

 補注)小沢昭一『わた史発掘-戦争を知っている子供たち-』(岩波書店,2009年)のなかに,こういう1節がある。

 「戦後まもなく,私はさる出版会社にアルバイトの編集員として勤め,娯楽雑誌をつくっていたことがあって,ある日,私は小説の挿絵をかいてもらいに,某先生のお宅へ参上したら,奥さんが出て来てツッケンドンに留守だとスゲナク断わられた。とりつくしまもなく門を出て帰りかけたら,スウーッと人影が寄って来て,先生に仕事の御用ならば,根岸のこれこれの横町を入った何軒目に行ってもらいたいと言われた」。 

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 出所)https://www.youtube.com/watch?v=aLeN4KZCYow

 

 「教えられたとおりに行ってみた先の家は,絵にかいた様な妾宅で,絵にかいた様な艶っぽい女性が迎えてくれて,絵にかいたような部屋に通されて,やがて,絵にかいた様な女物の半纏をはおった絵かきの某先生が現われた次第なのであったが,その時,フスマの隙間からチラッと見えた,敷きっぱなしの紅い蒲団の,マア,色っぽかったこと!」(46-47頁)

 敗戦後に刑法が改正されるまで,日本には「姦通罪」があった。すなわち,妻が夫以外の男性と性的関係をもった場合,妻は姦通罪で処罰された。ところが,夫が妾をもっても処罰されなかった。非常に差別的な相違であり,戦前は男尊女卑の時代であった。そもそも女性には参政権・市民権がなかった。

 それでいて,教育勅語にいわれている「夫婦󠄁相和シ(ふうふ あいわし)」の要求なのだとしたら,戦後に登場した女性思想であるウーマンリブの見地にいわせれば,トンデモナイ旧時代式の観念であった。いわゆる噴飯モノ。また,自民党政権側においては,男女雇用機会均等法をこころよく思わず,またとくに男女共同参画に関する政策・活動等を邪視する固定観念が消せないでいるのは,いまだに教育勅語封建制思想に脳細胞を占拠されている分からず屋の議員たちが,この21世紀においてまだ生き残っている(のさばっている)からである。

 現在は,姦通罪は刑法から削除されており,姦通という言葉じたいも使われず,不倫とか不貞行為といわれている。現在の法律は,不倫を刑事的に処罰することはない。ただ,民法上の不法行為に当たるとして,不倫をした配偶者および配偶者の不倫相手に対して慰謝料請求が認められる。また,夫婦間では貞操義務に違反するとして離婚の原因になる。(引用終わり)

 「オンナ・こども」ということばを想起してみれば,そうした感性の根っこに控えている固定観念が理解できる。いまどき「女性・子ども」を大事にしない国は,徐々に国家次元でも活力をうしないつつある。日本はすでに高齢社会になってからもなお,その閉路のほうに向かい進みつつある。出生率が1.4台しかない現状において女性が1人前に生活できる賃金をえている者が少なく,非正規社員の立場にある比率は男性より高く,実数では男性の2倍の女性が非正規労働者である。

 つぎの図表をみてもらうと,こうした正規・非正規の立場の違い,さらにこれにさらに男女別の違いが重なると,同一労働同一賃金で議論されている「賃金正義論」など,まったくどこ吹く風という印象である。あえて極論でいうことになれば,こうした賃金の実態に関した男女差(正規・非正規の差別も含めて)が正当・妥当である,などと平気で判断できるのが「教育勅語流の感性的理解」になる。あげくが女性には参政権・市民権は要らない,などとなってしまう可能性すらある。(画面 クリックで 拡大・可) 

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  出所)総務省統計局『労働力調査(詳細集計)平成28年(2016年)平均(速報)』平成29〔2017〕年2月17日,http://www.stat.go.jp/data/roudou/sokuhou/nen/dt/pdf/index1.pdf

 問題は「そうした問題だらけの教育勅語」が,しかも天皇一家ですらいまでは “排斥するほかない立場にあるそれ” を,自民党政権極右の政治家たちは,いまの時代にも使えるなどといった具合に,それもたいそうなご執心ぶりである。おまけにこの誤解=勘違いである立場が,彼らの考え方じたいにおいては,けっして錯誤・誤謬などとは思われていない。本気でそう信じられているのである。この時代精神は冗談の域をすでに飛びでており,だから本物の時代錯誤だと批判されていいのである。

 b)教育勅語による悲劇こそ授業で」(『朝日新聞』2017年4月18日朝刊。大鹿 進,三重県,67歳・男性,元小中学校教師)

 安倍内閣は,戦前・戦中に教育の根本理念とされた教育勅語について「憲法教育基本法等に反しないかたち」なら,教材に用いることじたいは問題ないと閣議決定した。

 第2次大戦後,日本の多くの教師は「教え子たちを戦場に送る教育」をしたみずからを責め,二度と繰り返すまいと誓った。その先輩たちの思いを私も引きついだ。そして,この閣議決定を,逆に教育のよい機会として利用してはどうかと,いまの教育界に提案したい。

 明治以降,度重なる日本の対外戦争で,日本人も諸外国の人々も,多くの人命が奪われた。日本では,夫を,息子を,兄弟を,恋人や婚約者を,悲痛な思いを隠して戦場へ送り出さねばならなかった。そうせざるをえなかった大きな要因に,教育勅語があった。

 「万一危急の大事が起(おこ)ったならば,大儀に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為(ため)につくせ」(教育勅語「全文通釈」)。この姿勢をたたきこむ教育から多くの悲しみが生まれたことを,歴史教育で児童生徒にしっかりと教えよう。こうした授業こそ,憲法教育基本法にかなうものだろう。(引用終わり)

 --この教育勅語に対する批判は「歴史の事実」にもとづいた主張である。教育勅語は現代にあっては,それこそ「完璧なる〈反面教師〉」としてとりあつかうべき「歴史の遺産(違算)」であった。この点=事実は否定しようにも否定できない。

 この〈声〉のなか出ていた「憲法教育基本法等に反しないかたち」なら,教材に用いることじたいは問題ないと閣議決定した」という安倍晋三政権の考え方は,底意があっての主張であって,そのうち「改憲がなされ,教育基本法もさらに改悪されていけば」,そのときはきっと「教育勅語はすばらしい」などと,いまどき地動説みたいな〈瘋癲的な誤狂信〉が出てこないとはかぎらない。

 

 「〈政治断簡〉汝,内心に立ち入るべからず」(『朝日新聞』2017年4月17日朝刊,編集委員・国分高史稿)

 一連の「森友学園」の問題ではっきりしたのは,安倍政権は教育勅語をけっして全否定はしないということだ。国有地売却にからむ疑惑発覚当初,夫人から伝え聞いたという安倍晋三首相は,幼稚園の朝礼で教育勅語を暗唱させる籠池泰典前理事長を「教育に対する熱意は素晴らしい」と評価していた。
 補注)本心でいえば,幼い園児が暗唱をしていることが素晴らしいといっているのではなく,ともかく教育勅語そのものを園児に暗唱させているから素晴らしいと,安倍晋三はいったのである。それゆえ,教育勅語を園児に教えこもうとしていた籠池泰典理事長(当時)が褒められていた。だから,このあたりの出来事が,森友学園の小学校新設申請「国有地払い下げ問題」(特別あつかい)を発生させる先行条件になっていた。そう推理されても大きな間違いはあるまい。

〔記事引用に戻る→〕 そして,教育勅語を教材に使うことを否定しない政府答弁書と,朝礼での暗唱を「教育基本法に反しないかぎりは問題のない行為」という義家弘介・文部科学副大臣の国会答弁が,勅語に対する政権の姿勢を鮮明にした。明治憲法下の教育勅語の本質は,「父母に孝に」「兄弟に友に」「夫婦相和し」といった徳目を「汝(なんじ)臣民」に守らせたうえで,いざとなれば「一身を捧げて皇室国家のために尽くせ」と滅私奉公を求めている点だ。
 補注)すでになんども述べてきたが繰り返す。明治天皇は何人もの側室(妾)を蓄えていながら,そして当時は夫が妻以外の女性と,そしてその蓄妻(第2夫人など)との関係があっても問題にしない時代のなかで,このように「夫婦相和し」といわれていたのだから,まともに考えれば,けっして納得できる論法にはなりえない。

 また,いまの時代,離婚率でいえば3組が結婚すれば1組が離婚している社会事情のなかで,「夫婦和し」と勧奨されたところで,「ハイ,そうですね」などという具合でもって,そう簡単には応じられない。理念や価値観の違いの問題だといって済まされるような議論の内容でもない。

 補注中の 補注)離婚率については「1955~1959年に生まれた日本人女性の50歳時点での離婚経験者割合は約18%でした。どの世代をみても現時点では20%を超えていないため,3組に1組が離婚という言葉が現時点では誤りなのが分かります」という指摘がある。ただし,以下のような今後における予想も添えた話題のとりあげであった。

 「世代間で離婚経験者割合の差が今後一定と仮定した場合の値」,つまり「日本人女性の50歳時点の予想離婚経験者割合」は,以下の数値とされている。

 

  ※-1 1965年~1969年生まれ: 約25%
  ※-2 1975年~1979年生まれ: 約30%
  ※-3 1985年~1989年生まれ: 約34%
 
 註記)http://kamiishi.hatenablog.com/entry/2014/05/08/021806

〔記事引用に戻る→〕 国民主権に反することは明らかなのに,政権中枢の政治家たちは,この徳目を切りとって「日本が道義国家をめざすというその精神は,とり戻すべきだ」(稲田朋美防衛相)という。だが,その部分だけをとりあげて評価するのでは,まともな意味がつかめないばかりか,問題の本質を覆い隠すことにもなる。

 教育勅語の時代は,家制度のもと家族のなかにも戸主を筆頭に厳然たる序列があった。現代の私たちが当然だと思っている男女間の平等も,個人の尊重もなかった。この背景を抜きに,内心に働きかける徳目の当否は語れない。

 西原博史・早稲田大教授(憲法)は「教育勅語がいうのは,天皇を頂点とする国家とそれを構成する家族内の秩序維持のため,つまり天皇のために親孝行せよということだ。そこを切り離して『いいところもある』と評価するのは,まずは無知であるというしかない」と話す。

 天皇を元首とする。国民はそれぞれ異なる個性をもつ「個人」としてではなく,単に「人」として尊重される。そして家族はたがいいに助けあえ。自民党が2012年にまとめた憲法改正草案が描く国の姿は,教育勅語がめざした国家像と重なりあう。政権中枢が勅語を否定しないどころか,心情的には擁護する理由がよくわかる。

 その政権がいま,テロ対策を理由に「共謀罪」の趣旨を盛りこんだ新たな法の制定に向けひた走っている。共謀罪は,犯罪を実行に移した段階から処罰する日本の刑事法の原則を覆す。野党が危惧するように,犯罪を話しあい,合意をしたことが罪に問われるとなれば,戦前の思想弾圧の反省から現憲法で絶対的に保障されている内心の自由が侵されかねない。

 「教育勅語にはいいことも書いてある」「テロ対策がなければオリンピックが開けない」。うっかりしていると「そうだね」と答えてしまいそうな言葉とともに,権力は私たちの内心にずかずかと踏みこんでこようとする。ここははっきりと,「汝,立ち入るべからず」の意思表示をしておかなければ。

 

  専門家・研究者の教育勅語批判

 1)阿満利麿『日本精神史-自然宗教の逆襲-』筑摩書房,2017年2月)の批判は,こう述べている。

 「国体」論をはじめて展開した相沢正志斎は,「国体」を「建国」のはじめから「万世一系天皇」に統治されていまに至る国家のこととした。そして,その統治は権力支配によるものはなく,人民による自発的な服属によって成立するとした。その装置が,天皇の祭祀である。

 天皇天祖を祀るという宗教儀礼をおこない,それに人民を参加せしめることにより,人民は「忠・孝」とはなにかを感じとり,その「忠・孝」の感覚にもとづいてみずから天皇統治に服するというのだ。この考え方は,のちの明治国家の宗教・道徳政策,とりわけ「教育勅語」に収斂する(238-239頁)

 既述の論点であるが,いまの天皇家はこの教育勅語は止めてくれという基本姿勢である。ところが,安倍晋三政権極右の国家思想はこうした過去の遺物の再築を,いいかえれば,その古代史的な亡霊の復活を念願している。この事実がいかほどアナクロであるといえば,まさしくその無限大を意味する。

 別の論者が作成した,2015年における「天皇家宮中祭祀の年間予定行事」を,つぎの紹介しておきたい。なお,文章としては,つぎの個所にも紹介されている。

 ★-1「完全保存版 皇室が行う宮中祭祀の年間スケジュール【上半期】」『NEWS ポストセブン』 2019.02.27 07:00  SAPIOhttps://www.news-postseven.com/archives/20190227_872098.html
 ★-2「完全保存版 皇室が行う宮中祭祀の年間スケジュール【下半期】」『NEWS ポストセブン』2019.02.28 07:00  SAPIOhttps://www.news-postseven.com/archives/20190228_872101.html

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 2)高橋正衛『二・二六事件-「昭和維新」の思想と行動-増補改版』(中央公論新社,1994年)の批判は,こう述べている。

 天皇は,戦後「人間宣言」をするまでは,現人神(あらひとがみ)であった。国民は政治的には天皇の臣民であり,精神的には天皇の信者とされた。国民すべての精神内容・価値意識と公的元首としての政治権力とは,神聖不可侵である神の子天皇において,一元的にカリスマ的権威のうちに集約された。

 戦前の日本におけるこの天皇の存在が,国政の運用に,国民の生活に,そして国民1人1人の精神のうえにどれほど深く強い寄生を与えたかは,このこと事態の探究がすなわち日本現代史であることからも明瞭である。

 明治憲法教育勅語軍人勅諭は,この現人神を創るうえに大きな役割を演じた。天皇が公的元首として所有していた政治権力は,天皇機関説という解釈で運営される政治機構によって,現実の政治に具体化されていった(135-136頁)

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 この図解は,高橋正衛が作図した「教育勅語」に関した「戦前・戦中体制」の模式図である。教育勅語が配置されている場所に注意した。教育勅語にはいいところもあるなどいった意見は,この勅語に対する理解としては「一知半解」以下であり,より正確にいえば「無知・無理解」を意味する。


 3)森嶋道夫『なぜ日本は没落するか』岩波書店,2010年)の批判は,こう述べている。

 明治天皇が1890年に発布した「教育勅語」は,戦前の日本に甚大な影響をおよぼしたが,これは明らかに洪武帝の「六論」を基礎としたものである。いうまでもなく,プラトンの哲学と比べると儒教倫理は非常に曖昧であり,普遍的な倫理とみなされないような項目も含んでいる。

 洪武帝の「六論」や明治天皇の「教育勅語」にみるかぎり,個人の業績は重視されておらず,また個人の業績を評価する普遍的な原理も明確にされていない。自立的な子供を育てようという欧米流の教育とも正反対の立場である。儒教社会では,個人はそれぞれの業績によって評論されるのではない。そこには厳格な平等主義的評価の原則は存在しない。

 日本の戦後教育は,このような授業倫理への郷愁をもちつづける教師たちによって,普遍主義・平等主義の教義が未熟のままに教えられたのである。文部省もこのような基本的問題については問題提起すらせず,放置したままである(40-41頁)

 ところが,安倍晋三政権はこの「自立的な子供を育てようという欧米流の教育とも正反対の立場」に立って,あの「教育勅語にはいいところもある」とみなし,これを徐々に教育現場に浸透させる手はずのととのえようとしている。再三繰りかえして断わるが,その本家本元の天皇家の家長が21世紀のいまでは,教育勅語については好まない旨を表白している。

 だが同時に,この天皇家そのものがいまだに存続する事実が,安倍晋三政権のように教育勅語というアナクロ教育思想を復活・再生させるようとする蠢動を,完全には阻止できないでいる日本国じたいの枠組,その政治風土としての価値前提を提供しつづけている。

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