紀元節に反対した皇族三笠宮,近代日本政治史の光と闇,21世紀の皇室を吟味するための議論

        三笠宮崇仁紀元節批判(1957年)

                   (2014年11月26日)

 

   要点:1 明治に再・創話された神話の世界を信じる迷信的な皇室神道

   要点:2 皇室神道国家神道であり,私家・民間用の神道ではありえない


  紀元節は神話であり,学問的・現実的な根拠はない

 昭和天皇の末弟三笠宮崇仁(タカヒト)は,自身が編者になった著作『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』(光文社,昭和34年)5「歴史研究と学問の自由(座談会)で,こう発言していた。

 「紀元節の問題もかなり宗教的な問題が含まれている」「明治憲法紀元節の日に発布されてい」る。「紀元節とか神武天皇の神話」「と,明治における帝国主義的な政策との結びつき」「それをどう」「考え」るの「か」。

 これは,同書の巻末において執筆陣が対談したなかでの三笠宮の発言であったが,その執筆者の1人は,こう記述していた。

 「三笠宮さんの,つぎのような見解はけっして無視できない」。「もしも2月11日が紀元節と国で決めたなら,小学校の先生は生徒と何と説明するでしょう。せっかく考古学者や歴史学者のいのちがけでつみあげてきた日本古代の年代体系はどうなることでしょう。ほんとうに恐ろしいことだと思います……」。

 註記)三笠宮崇仁編『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』光文社,昭和34年,281-282頁,257頁。 

 三笠宮が『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』「はじめに」において,同書の編集方針を「次のようにきめた」と断わっていた。

 最近,紀元節問題が紛糾しているのは,つまり,日本古代史を正しく認識していないことが原因である。本書は日本古代史の最新の研究成果・論争点・将来に残された問題など平易簡明に紹介し,各分野の学者が,それぞれ専門の立場から紀元節問題を分析し,さらに学者が過去に受けた政治的圧迫の実態をつまびらかにし,読者に紀元節も問題を正確に判断するための基礎的材料を提供する。
 註記)同書,〔「はじめに」〕4頁。

 色川大吉の最近作,『近代の光と闇-色川大吉歴史論集-』(日本経済評論社,2013年)は,『朝日新聞』2013年3月3日朝刊「書評」欄に紹介されていた。この書評を書いた上丸洋一(朝日新聞本社編集委員)は,本書の中身をつぎのように紹介していた。

 「天皇制の是非について2人の歴史学者が対談した」。以下,☆は昭和天皇の弟で古代オリエント史学者の三笠宮崇仁,★は同書の著者色川大吉である。
 註記)色川大吉『近代の光と闇-色川大吉歴史論集-』日本経済評論社,2013年,242-243頁。〔 〕内補足は筆者。 

 ☆「これは憲法にあきらかなように,すべて国民に任せるという気持です」
  ★「国民が望むか望まないかの問題ですね,場合によっては天皇制は無くなってもよい」

 ☆「そういうことだと思います」
  ★「昭和という元号についてはどうですか」

 ☆「西暦にしたらよいですよ。(元号は)なにかにつけ,とても不便です。どうしても年号が必要なら,昭和をこのままA級につづければいいのでは……」とかれ〔宮〕は笑っていた。   

 戦後すぐ,三笠宮は東大文学部で西洋史を,色川は日本史を学んだ。上のやりとりは,もともと1974〔昭和49〕年に月刊誌に掲載された対談の一節であり,三笠宮との交友をつづる同書収録のエッセーで紹介されていた。

 三笠宮が「とくにオリエント史を志したのは,南京総司令部の陸軍参謀として従軍した体験がもと」になっていた。色川大吉いわく,「天皇制はやはり,人間の尊厳のためにも,国民の意識変革のためにも,廃棄しなくてはならないと思った」。
 註記)同書,242頁,245頁。

 

  紀元節建国記念日

 三笠宮崇仁は,1950年代後半に巻きおこった「建国記念日」に関する議論のなかで,自分の所属する『史学会』(明治22〔1889〕年11月創立)に対して,「建国記念日」制定に反対する決議をおこなうべきであると迫った。しかし,『史学会』理事長の坂本太郎は,「史学会は学術団体であり,政治的決議をするのは馴染まない」として応じなかった。

 この処置に憤慨した三笠宮は,「理事長とまったく見解を異にするから,脱会する」といって総会を退席し,「理事長独裁を批判する」とのコメントを出した。このため坂本は,世論・マスコミから批判された。これに対して,一部国粋主義者は,三笠宮が反対決議をおこなおうとしていたことをしって憤慨し,1959〔昭和34〕年2月11日に開催された「紀元節奉祝建国祭大会」に参加した右翼構成員が宮邸に乱入する事件を起こしている。
 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/建国記念の日 2013年1月25日検索。「三笠宮の歴史感覚」『中央公論』昭和34年1月,217頁も参照。

 三笠宮は,『文藝春秋』昭和34年1月号に「紀元節についての私の信念」という寄稿もしていた 註記)。ここでは,歴史学研究者が集まったある席上で三笠宮が,「紀元節問題に発言が少ない」と語ったことをとりあげた新聞記事を紹介しておく。
 註記)文藝春秋編『「文藝春秋」にみる昭和史 第2巻』文芸春秋,1988年,433-444頁。文藝春秋編・半藤一利監修『「文藝春秋」にみる昭和史(三)』文芸春秋,1995年,59-77頁にも転載。

 それは,『毎日新聞昭和32年11月13日朝刊に報道された記事である。歴史学研究会の初代会長「三島 一氏の還暦を祝う会」(同年11月3日)で挨拶した三笠宮は,こう述べていた。「2月11日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが,カンジンの歴史学者の発言が少ないのどうしたわけか」。

 「先日松永〔東〕文相に会ったとき, “日本書紀紀元節は2月11日とは書いてない” といったら驚いていた」。「このさい,この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ,2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか」。「この問題は純粋科学に属することであり,右翼左翼のイデオロギーとは別である」。
 註記)『毎日新聞昭和32年11月13日朝刊。

 前掲「紀元節についての私の信念」で三笠宮は,「茅 誠司学術会議会長に,紀元節反対運動を起こすことを要請」した。こういっていた。

 「私の紀元節もしくは建国記念日に反対論であるという結論ばかりを扱っていて,何故反対なのか,何を恐れて反対しているのか,一度も説明されていない」。「私が紀元節に反対しているのは,それを国家が法的に決定するのに反対しているのであって。神社とか個人が宗教的にこれを祝福することにまで反対するものではない。民主主義社会においては信仰の事由は守られなければならない」。

 神武天皇即位が今年(昭和34年)から二千六百十九年前であったということも,即位の日が正月元旦であったということも,いずれも後代の人の作為--もちろん悪意によるものではないが--であったことは明らかになった。したがって,その架空の年月日を太陽暦にあてはめた2月11日もまた架空の日であることは当然であって……。

 歴史の研究は年代の枠を土台として進められる。もしこの土台に少しでもゆるぎがあったならば,いかにみごとな歴史を組み立てても,それは砂上の楼閣にすぎない。私は重ねて歴史研究者として,架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対するとともに,科学的根拠,いいかえれば今まで考古学者や文献学者が刻苦精励,心身をすりへらしてまでも積みあげてきた学術的成果の上に立って,改めて日本古代の神話継承の研究をさらに押し進めるような感情論から,学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある建国記念日の設置案に対して深い反省を求めてやまない。
 註記)三笠宮崇仁紀元節についての私の信念」『文藝春秋』昭和34年1月,79頁下段-80頁上段,81頁下段-82頁上段。

 「正しいと信じたことを何とかしてみんなになっとくしてもらおうと努力するのは民主主義社会に住む我々の責務ではあるまいか」。「紀元節の問題は,すなわち日本の古代史の問題でもある」。「日本紀元二千数百年といふ思想は決して古来から存在したものではないこと,むしろ西暦紀元の輸入に伴って明確化した考えかたであった」。

 「(紀元節復活に反対するのは)生き残った旧軍人としての私の,そしてまた今は学者としての責務だと考えている」。「新憲法において国家と宗教とが明確に分離された以上,クリスマスとか紀元節-歴史的事実でない以上それは宗教的行事とみなさるべきである-を国家の祝祭日として採用することは許されないはずである」。「もし2月11日が祝日に決まれば,われわれはその廃止運動を展開するであろう」。
 註記)三笠宮崇仁紀元節についての私の信念」『文藝春秋』昭和34年1月,および,オロモルフ「オロモルフ号の航宙日誌4216『紀元節復活と田中 卓博士の献身2』」2010年2月11日,http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kigen_tanaka.htm 2013年5月20日検索。〔 〕内補足は筆者。

 

  紀元節の歴史的な問題性

 この問題は,建国記念日という祝日を置くため「国民の祝日に関する法律」を一部改正しようとの動きをめぐって起きた。1948〔昭和23〕年7月,国民の祝日を決めるとき科学的根拠のないかぎり,新憲法の精神に反するとして保留になった『2月11日』が,紀元節台風の目となって再登場したのである。

 三笠宮は,「天皇の弟としての立場」「学者としての良心」「旧軍人としての責任」といった複雑な利害関係を背負っていたが,自身による紀元節復活反対の立場は,その3つは一致すると主張していた。
 註記)雨宮庸蔵『偲ぶ草-ジャーナリスト六十年-』中央公論社,1988年, 507頁。

 三笠宮は学問的立場から偽りを憎んだ。だから,紀元節復活論は歴史的真実への反逆として寸毫も仮借しなかった。事実,紀元節が神武即位の日として2月11日と日本史上初めて制定されたのは,明治6〔1873〕年10月14日であったが,そこには二重の作為があった。

   ☆-1 薩長連合の明治政権の基礎を急速に固めるの政治的意図であり,この制定により天皇の権威を拡大再生産し,この支柱に利用させようとした。

   ☆-2 科学としての歴史の知識でないところに,つまり古人の作為の歴史に皇紀の権威の源泉を求めていた。

 というのは,日本書紀で「推古天皇9年の辛酉(かのととり)の年」(601年)を基準にし,讖緯(しんい)説によってその1260年前を,神武即位 --神武創業の伝えは奈良朝にも平安時代にもなく壬申の乱(672年)から記紀編纂の時にかけて急に出てきた--の年としたのをそのまま踏襲し,即位の日は春正月庚辰朔となっているの対し,これを太陽暦で逆算して2月11日としたに過ぎない。

 そのように政治的意図と歴史的捏造の絡んだものを紀元節とするのは,学問的立場から三笠宮には堪えられなかった。紀元節の根拠は作為であった。だから,法律的に紀元節を決めないのがよいし,同時に由緒ある古い日本の平和と幸福とを祝うてロマンティックな気持で,「雲に聳ゆる高千穂の」を歌うぐらいのおおらかさは望ましい。

 長谷川如是閑徳川夢声中谷宇吉郎・辰野 隆など,心ある日本人の立場もそうしたものであった。しかし,三笠宮の純粋さが澄明な柔らかさと暖かさをもつためには,民衆の心理が特定の方向に転移する危険などない民主日本が確立してからのことかもしれない。
 註記)同書,508-509頁。

 ここで「民衆の心理が特定の方向に転移する危険などない民主日本」とは,いったいなにを意味するのか。このことが,天皇天皇制という政治制度とどのように関連しうる指摘であるのか分明ではない。誰が・なにを・どのように意味をもたせたつもりの「この種の定義的な語句」でありうるのか,ほとんど理解できない修辞が駆使されている。

 なぜならば,「民衆の心理」もさることながら「国家の心情」が奈辺に存在するかも,より重大な問題でありうるからである。こちらの論点の詮議を外した議論は,偏重に感じられるのである。

 

  神武創業批判

 渡辺信夫『戦争の罪責を担って-現代日本キリスト者の視点-』(新教出版社,1994年)は,キリスト者であるから立場は三笠宮と異なるものの,「神武創業」に関しては,つぎのように〈通底する批判〉を述べていた。

 「国の基礎を,神武天皇という実在しない人物の神話に置こうとした権力者の目論みは一応成功し」,「国民の大部分は神話に基づいてしか国家を考えることが出来ないように誘導された」。

 「良識で考えれば決してしてならないアジア侵略を起こしたのも,連合国に対する勝ち目のない戦争を始めることが出来たのも,残虐行為の行われている醜い戦争を美化することしか考えなかったのも,戦争を止めようと言い出さなかったのも,紀元節神話によって日本人の思考力が奪われていたからである」。

 「いまだに日本人の多くは,国家というものを,真理に基づいて理性的に考えることをせず,神話的思考によって把握する」。

 「1966年,この日が建国記念の日として制定された時,昔を知る者は紀元節の復活を感じ取った。一つの国にとってその出発を祝うことには意義があるかも知れない。しかし,何故2月11日なのか? 敗戦の日ではいけないのか? 平和憲法の記念日ではいけないのか? しかし,建国記念の日を制定しようとする思想にとっては,2月11日でなければならない」。

 「すなわち,確かな歴史でなく,建国神話への復帰でなければならない。彼らはこの日に固執した。そこで,昔に逆行して行く流れに抵抗して,我々はこの日を『信教の自由を守る』として位置づけ,それ以来戦って来た。根拠なき神話に建国の基礎を置こうとするのは,日本国民を今なお神話に縛り付けて思想的奴隷に留めておくことなのである」。
 註記)渡辺信夫『戦争の罪責を担って-現代日本キリスト者の視点-』新教出版社,1994年,96-97頁,98-99頁。

 いうなれば「神武創業」が発出したと決められたところの,つまり,歴史においては非実在・架空の天皇のための「建国記念の日:以前の紀元節」は,こういうものであった。

 「明治国家像の」「構成原理」を,そして「天皇親政の古代王政への復古として,《天賦国権説》的なア・プリオリズムを」「選択」し,「確認するという方向で行われた」ところから導出された日付けであった。それゆえ,それをいかに近代合理的な政治原理に則して説明せよといわれても,もとより十分に答えられる術はどこにも求められない。「神武創業」の基本精神は,「国家構成の手続きとして人為的な《契約》の契機を,原理上,排除する点に」よってこそ,存立できていたからである。
 註記)宮川 透『現代日本思想史 第1巻 明治維新と日本の啓蒙主義』青木書店,1971年,89頁,88頁。

 --大井 正『日本の思想』(青木書店,1954年)は,すでにこう分析・批判していた。

 明治以来,万邦無比といわれた国体の内容は,まさに神話であった。この神話が進歩的な思想家の頭脳に亀裂をあたえ,また,帝国主義的貪欲の先鋒となった。この神話は,進歩的な思想家たちに残存している観念論的な要素とむすびついて,ついにはこれを凶悪な,反動的な,反人民的な思想にまで転化させた。日本の進歩的な思想家のなかには,天皇の問題にまでくると,くるりと反動化する人々がしばしばあった。

 万邦無比といわれる国体の神話には,2つの主要な部分がある。1つは,天皇万世一系であるということ,1つは,天皇と人民は同一の祖先からでた一家であるということである。ところが,この種類の神話は,太平洋の島々にはごろころ転がっているものなのである。

 いわゆる万邦無比ということは,ヨーロッパや中国の先進文明にはみられないということだけを意味する。かつての有能な民族学者松岡静雄は,多少の遠慮とゴマ化しをともないながらもすでにつぎのようにいっている。

 20世紀の文明社会には,日本の支配階級は,ミクロネシアポリネシアにはざらにある神話的な,非科学的な信仰をもってきて,人民の思想を教育するために道具にしたわけであるが,それはかえって,その意図の凶悪さをあますところなく物語っている。

 しかし,これと似たイデオロギー制作は,日本だけでなく資本主義末期の諸国にもしばしば見受けられる事柄で,その点でも,日本は,万邦無比ではなく,世界的な思想史の法則にもしたがっている。ただ,天皇信仰の神話が利用された点が日本の特色である。
 註記)大井 正『日本の思想』青木書店,1954年,151-152頁,153頁。

 紀元節をもって「神武創業」の出立日に定めてみた明治期の政治家および思想家たちの観念構造は,「国家の成立にかんして歴史的にも,そして同時に理論的にも合理的な見解をもちあわせていなかった」註記)。この1点だけは,明治政治思想史において確実に展開していた一コマであった。
 註記)大井 正『日本近代思想の論理』合同出版,1958年,11頁。

 

  紀元節支持者の没論理性

 1) 里見岸雄天皇三笠宮問題』錦正社,1960年

 三笠宮の論稿を前述で紹介していた人物は,里見岸雄天皇三笠宮問題』(錦正社,1960〔昭和35〕年)「(7)特別附録 三笠宮問題」の主張を受け売りで紹介するかたちで,こう発言していた。

 「周辺の人たちの困惑が目に浮かびますが,宮様は,『国家の儀式としての紀元節論』と『歴史学における国家紀元論』とを混同しておられ,その混同は,いくら指摘されても直らなかったそうです」。そうであればここでさきに,里見岸雄の思考方法に対して,批判的な分析をくわえてみたい。

 一方においては,「国家の儀式としての紀元節論」のためを狙っていた,それももっぱら「神話に即して解釈された議論」があり,他方においては,「歴史学における国家紀元論」=「研究にもとづいて解釈される議論」がある。これらの議論が対話の場を設けられて,たがいに議論し,批判しあったからといって,この対論じたいからただちに,どちらかの側に不都合が生じるとか,ましてや,両説の混同を来したりとかするとは,とうてい考えられない。

 紀元節はもとより,その種の「歴史の議論」と「神話の議論」とを,相互に関連させ,有機的にも絡みあわせて討論しなければ,紀元節にかかわる〈問題の要因〉を,総合的に議論したことにならない。両説に共有されているはずの,「神話の時代における歴史の問題」および「歴史(神代史)のなかにおける神話の問題」は,神話の問題と歴史の問題との双方に関係を有する古代史の問題であるゆえ,もとより同じ次元に乗せなければ,それこそ議論すらなりえない。

 神話の問題であれ歴史の問題であれ,できるだけ科学的に解釈し,なるべく合理的に説明したいのであれば,「神話の歴史」から,あるいは「歴史のなかの神話」から出てきたような問題だからといって,わざわざ「神話」と「歴史」を引き離し,それぞれ別物だといいはる理屈は,議論の回避であり,拒否である。

 つまり,当該問題の性格からして本来,同一次元に載せられる問題同士であり,もともと密接不可分の関係をもつ両「問題」である。ところが,これらを恣意・任意に分離させえるかのように申したてる理屈じたい,実は,特定の価値判断に偏倚した態度を意味する。

 それも,学問以前の原始的な意識=「天皇信仰心」をもって誘導されたその理屈であるためか,最初から徹底的に「歴史学における国家紀元論」を排除しておかねばならず,この「国家の儀式としての紀元節論」は,〈古代的な信心だけが頼りの,議論には滅法弱い立場〉を余儀なくされている。これでは,まともな議論は展開できない。

 「紀元節を設けたい側」は,自分たちに都合のよい理屈だけを,ひたすらまくし立てている。こうした論戦(議論)を展開する人物たちにかぎって,専門家でも研究者でもないためか,まさしく里雄岸雄『天皇三笠宮問題』に陳述されているごとき,「国粋・保守・右翼思想に固化した国体学者」のいいぶんを,ただ鵜呑みにする論陣しか張れていなかった。

 当の里見岸雄は,こう主張していた。「紀元の学術的研究と紀元節問題とは必ずしも同一ではない」。「紀元節を設置することに賛成するかしないかについて,国民大衆が拠りどころにしてゐるのは,純粋科学といふよりも,むしろ左右のイデオロギーだといふ方が,どれだけ真実に近いか」,三笠「宮は,観察眼を正確にして直視されなければならない」。
 註記)里見岸雄天皇三笠宮問題』錦正社昭和35年,381頁。

 里見岸雄が繰りだしたこの理屈は,三笠宮に対して「まづ歴史学の領域に於ける紀元論と,国民的情意の要求たる紀元節論との混同を整理なさる必要があり,そして,歴史科学の紀元研究に於ける限界についての認識を正確になさる必要があると思ふ」註記)と要求していた。ここに明示された里見の見解は,「国民的情意の要求たる紀元節論」から観察すれば,「歴史科学の紀元研究に於ける限界」が透視できるとまで豪語していた。
 註記)同書,361頁。

 ともかく,このような見地に依拠すれば,前者の「紀元節論」は,後者の「歴史研究」など蹴散らかす威力を,国民的次元におけるその情意から発揮できている,という一点張りなのである。換言すれば,歴史科学の議論に対して,「国民の情意を最優位に置く」という絶対先験的な価値判断を,提示していた。里見流になるこの説法は,科学・学問の主張に対して,情意・感性の立場から反撃する議論であった。

 2) 没論理の批判

 以上のような里見岸雄の論法は,どだい無理な反論・批判の展開でしかない。「論理学のイロハ」にまで立ち戻って,その思考方式を吟味しなければならない。里見の底意に感知できる意向は,紀元節の問題を,もっぱらイデオロギー次元であつかえばいい,それも国民大衆の情意を尊重する方途で決着させておけばいい,という口調に終始していた。紀元節というものが,ともかくも国家の祝日に指定されるべきだという1点のみ強調していた。それで十分に満足する論旨であった。

 しかし,それは果てるところをしらない逸脱の議論であり,まさに没論理の横暴である。三笠宮による「紀元節反対論」を,ただ単に左翼イデオロギーだと非難するごとき,頑迷右翼イデオロギーに特有の,紋切型の感情的反撥を噴出させている。仲間内でならば,それで説得力もあるかもしれないが,誰でもに対して説得力ある発言ではない。

 ところで,里見岸雄天皇三笠宮問題』は「序文」のなかで,こう断わってもいた。

 「本書は一般に教養のある人を標準として書いたものであって,学術論文として執筆したものではないから,煩わしい考証や引用を避けたけれども,著者としては専ら学問的良心に従って書いたものであることを明かにし且つ学問的責任を負ふことを明記しておく」と断わって,学術と教養の境目をボカしながら,両域をいったりきたりする観点を暗示させ,さらには教養(感性?)のほうに学術を引っぱりこみ,溶解させたいかのようないいわけを披露していた。

 つまり,「教養のある人」であれば,三笠宮を批難したとき言及したように,「まづ歴史学の領域に於ける紀元論と,国民的情意の要求たる紀元節論との混同を整理なさる必要」が要求される以前に,「国民の情意を最優位に置く」里見の立場を支持・採用するに違いないと主張するのである。里見は,自説について絶対的な自信をもっているが,これは「歴史学の領域に於ける紀元論」の研究成果など放逐したうえでの確信である。

 要するところ,里見岸雄の論旨は,学術の基本的な作法を弁えた記述になっていない。それどころか,「2月11日」を紀元節(現在の「建国記念の日」)と決めるに当たって,「国家の儀式としての紀元節論」は,「歴史学における国家紀元論」に批判されると,いとも簡単に粉砕されてしまうからこそ,この〈自説の限界〉を非常に気にしている。

 しょせん,「国家の儀式としての紀元節論」は,歴史学的には実証的根拠ない,現世実利的な国家イデオロギーによる提唱である。したがって,「歴史学における国家紀元論」の排除に必死となる事由には,それなりに強固なものが控えている。

 皇族,それも昭和天皇の末弟である三笠宮が,「2月11日」が紀元節建国記念の日)であるべき〈歴史学の根拠はない〉と強く主張した。これに反論するために里見岸雄は,前段で批判しておいたように,三笠宮が「国家の儀式としての紀元節論」と「歴史学における国家紀元論」とを混同していると非難し,あくまで便法的に排斥しておくほか方法がなかった。

 3) 暴力のイデオロギー

 こうして,最初から無理筋の「破綻した論理」をもち出し,対抗せざるをえない国粋・保守・右翼のイデオロギー的な論陣は,まともな論理構築すら可能でなかった。それゆえ,里見岸雄陣営の人びとは1959〔昭和34〕年2月11日,皇族の三笠宮の私邸に乱入するという暴力性の発露揮をもって,みずからの「論理の破綻」を証明した。

 日蓮宗僧侶出身の国粋主義者天皇絶対主義者の里見岸雄による三笠宮崇仁「批判」に対しては,三笠宮自身は「長い沈黙をもって答えている」事実をとらえ,「三笠宮は,自ら戦後の『新格子なき牢獄』入ったのであろうか」といぶかる指摘もあった。

 付論的に指摘しておく。--三笠宮の実子,寛仁が1982〔昭和57〕年に「皇族離脱発言」を放ち,日本社会を騒がせたことがあった。結局,寛仁は皇籍を離脱しなかったものの,父:三笠宮崇仁の影響が観取されてよい。

 

  付 論-三笠宮の妹(双子)の存在-

 1) 畜生

 河原利明『昭和天皇の妹君-謎につつまれた悲劇の皇女-』(ダイナミック・セラーズ,1991年,文藝春秋,2002年)という本がある。アマゾンのレビューで「☆2つ」(5つが満点)を与えていた批評が,本書に対する一番分かりやすい解説になっていた。これを参照する。題名は『鵺と下衆』であり,日付としては比較的最近の, 2014/9/12 であった。

 非常にデリケートなテーマであり,どのようなかたちでなにを解き明かそうとしているのか,著者の意図するところを推測しつつ読みすすめました。 旧皇族・貴族とそれにかかわった人びと特有の閉鎖性と『鵺』のような異様さを描き,昭和天皇までの天皇家が旧態依然とした体質をもちつづけていたことを批判したかったのか。

 不易占卜のことに異常に傾倒(140頁),気位が高く,伝統やしきたり執着ともいえるほど愛着(141頁),「畜生腹」と陰口を叩かれることを嫌い双子の女の子を隠匿するため尼寺に “捨てた” (=あくまでも著者〔河原〕の想像)貞明皇后の悲哀を語りたかったのか。〔それとも〕 “捨てられた皇女” とされる円照時門跡に魅了され,その人物像を深く掘り下げていきたかったのか。

 残念ではありますが,本書からは上記のような意図を読みとることができない。ただひたすらに人の秘密を暴くことに終始しています。著者はその行為(覗きみること)にひたすら快感を覚えるタイプなのか。文章が非常に稚拙で扇動的,またときどき挟まれる著者自身の感情の描写が〈ワイドショー的〉かつ自己満足が色濃く,読んでいて不快な思いをさせられました。(「畜生腹」という言葉を何度も目にしたくはありません)

 結論ありきの姿勢で,さまざまな矛盾した証言をえても無理にでも自分の描いた画のなかにその言葉を当て嵌め,あるいは解釈しているケースが多々。〈物証はないが心証的には間違いないだろう〉との確信」(283頁)をもち,濃密な取材をしたと自画自賛していますが,物証にたどりつけない以上,結局は想像の範囲を超えることはありません。

 この本を出版することで,いったい誰が幸せになったのでしょう。著者は2002年当時(そしてそれ以降)の社会になにをもたらしたかったのか。まったくわかりません。

 かなりきびしい批評が放たれている。しかしながら,河原敏明が追究・解明をした「皇室内部の魑魅魍魎,奇々怪々」が「そこ」に秘められてきた伝統的な実体として,まったくなかったとはいえまい。

 そもそも,天皇一家が大まじめに宮中祭祀でおこなっているのは,宗教的な信心行為であり,呪術のための祈祷である。しかも,私家である皇室のための宗教が「国民のためなにか」でもあるかのように,国民の目前に喧伝されつづけてきている。それは,明治から引きずっている「負的遺産」,その具体的な姿容(実は虚像)である。

 最近では,皇太子明仁の妻になった美智子に対して,香淳皇后昭和天皇の妻)がボケ症状が悪化してできなくなるまで,いかほどひどい〈嫁いびり〉をしてきたか。この事実は「当人たち以外には」「想像すらできない記憶」であったはずである。

 香淳皇后が民間出身の〈妃〉に対しておこないつづけてきた精神的な虐待といってもよい「イジメの行為」は,皇族の一員が平民出身の女性に向けておこなった徹底的な差別の行動であって,想像を絶していたものと推測されてよいのである。

 一事が万事である。古代史にさかのぼれば皇族同士の殺人事件は珍しくはなかった。権力争いであり,政治闘争の修羅場面でのそれであったからには,人間としてもっとも醜悪な場面が現象していたはずである。自分に生まれた双子を畜生腹だとして卑下する立場を受けいれた貞明皇后大正天皇の妻)の〈旧来風の偏見〉もさることながら,これを隠蔽する皇室側の全体的な基本姿勢がもっと問題であった。

 河原利明『昭和天皇の妹君-謎につつまれた悲劇の皇女-』は推理小説まがいの筋書きで,三笠宮「双子説」を追跡していた。しかし,読む側の者におけるひとつの判断=受けとめ方としては,信じる・信じないの次元においではなく,河原が解明を迫ってきた皇室的な話題:問題の対象は,皇室史を丹念に観察していけば「いくらでもあったもの」とみなしてよい。

 2) 庶民にはみえない皇室事情

 現在の皇太子徳仁〔2019年5月1日から令和天皇〕の「妻:雅子の第2子」「懐妊問題」に関して生起していた,社会の側における週刊誌的な関心にかかわっては,こういう指摘をしておく。明仁が皇太子だったとき,たとえばその徳仁(いまの皇太子)を妊娠してお腹が大きくなったとき,この美智子の容姿を,庶民は観たことがあるか?

   ◇-1 インターネット上には 「皆さん雅子様の妊婦の時の映像はみたことがありますか?」註記)という指摘が記されているが,これは国民・庶民全員が感じてもよい,もっとも疑問らしい疑問でありうる。
 註記)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q101793225

   ◇-2 「1999年12月3日-7日 【ベルギー訪問】」「妊娠の兆候を示しながらも,ベルギー王太子結婚式出席のため外遊。在ベルギー大使にさえ知らせず,遠出・飲酒などを平気で行った」。「その他,ロイヤルブルーの衣装で周囲から浮いたり(目立とうという雅子の意図もあり),ベルギー王家の方々に皇室の愚痴をこぼしたりとやりたい放題。画像・詳細・こぼれ話は……」。
 註記)『ドス子の事件簿(皇太子妃雅子殿下の事件簿)Wiki』参照。

   ◇-3 三笠宮は純粋無垢か? 鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15 宮城事件は偽装クーデターだった-』(成甲書房,2007年)という著作がある。本書に対する「アマゾンのレビュー」はこれまで14件出ている。そのレビューの内容は,☆1つから☆5つまで拡散しているが,つぎの「納得がいかない」が「星5つにする」という寸評が参考になる。こういう評言である。

 1945年8月15日の「偽クーデター」に関する部分は首をかしげざるをえない。筆者(鬼塚英昭)は,皇室維持のためにクーデターをたくらむ必要があったというが,その部分がどう考えても納得いかない。三笠宮がクーデター側にいたというにも,それだけで皇室の陰謀とするのも無理がある。やはり文献だけで取材をしていない弱さだろう。

 しかしそれでも星5つにするのは,主に本書の後半部分が素晴らしいからだ。後半の皇室の秘密財産や,昭和天皇の出生の秘密,秩父宮との確執などこれまで菊のベールでほとんど語られることがなかった秘話が噂段階のものもあるとはいえ,きちんと書かれているためだ。多くの日本人にぜひ読んで欲しいから。みなさんそろそろ,皇室幻想から目を覚ましてもいいんじゃないですか。

 この批評では,皇室幻想という表現がおもしろい。三笠宮の名前も出ている。関連して挙げておくべきが,当時の元近衛兵だった人物が書いた,絵内正久『さらば昭和の近衛兵-兵たちの見た皇居内敗戦絵巻-』(光人社,1992年)である。

 この本には三笠宮も登場するが,自身が元近衛兵であった著者は,敗戦を迎える日にかけて宮城内でどのような出来事が起きていたかしる由もない一兵卒であった。

 しかし,当時29歳(1915〔大正4〕年12月2日生まれ)のいわば若輩者であった三笠宮が皇族,しかも天皇の末弟であるせいか,そのとき宮城にあわただしく出入りした事実がある。「大日本帝国敗北:敗戦工作」に関して,この皇族の一員が政治(軍事)になんらかの関係をもった事実は否定できない。

 絵内正久『さらば昭和の近衛兵-兵たちの見た皇居内敗戦絵巻-』は,8月12日の午後2時半を過ぎる時間帯に,「天皇御料車と同型同色のベンツ」で宮城に入ってきた三笠宮に対して,うっかりにも「欠礼」したという重大事を回顧していた。

 註記)絵内正久『さらば昭和の近衛兵-兵たちの見た皇居内敗戦絵巻-』光人社,1992年,192-195頁参照。

 当時,陸軍佐官の地位しかもたなかった三笠宮であったけれども,天皇実弟である身分をもって敗戦処理問題の工作に対して関与していた。敗戦後になって,研究者の立場から反「紀元節」の立場を,明確な思想をもって行動したときとは〈明暗の対照〉があったのである。

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