増田茂樹著『経営財務本質論』2007年に対する書評としておこなっていた「疑問提起」

「経営財務問題の哲学的な研究」とは,経営学論として可能性がある方途であったのか,増田茂樹著『経営財務本質論』2007年に向けた根幹からの疑問
                   (2008年4月4日)

 

 昔,増田茂樹『経営財務本質論―もう1つの経営職能構造論-』(文眞堂,2007年3月)という著作が公刊されていた。当時までにおける経営学の研究動向を回顧すると,すでに,「本質論」だとか「方法論」だとかが,まったくはやらない時代になっていた。だが,そうした潮流のなかにあって,本書は珍しくも「本質論」を銘打った経営学の専門書として公表されていた。

 主な目次は,以下のとおりである。

 第1編 経営財務の概念と本質
   「資本調達」としての経営財務概念
   「資本運用」としての経営財務概念

 

 第2編 経営財務の企業における位置  
  企業における財務の位置―財務の存在証明-
  企業における財務の主体と目的
  企業における財務の領域

 

 第3編 経営財務の研究方法―経営の研究方法-
  経営学における研究方法について(1)―山本経営学における研究方法の確認- 
  経営学における研究方法について(2)―山城経営学における研究方法の確認-
  経営学における研究方法について(3)―山本・山城経営学における研究方法を基礎にして-
  経営をする「われ」と経営学をする「われ」―本格的経営学のかなめ-
  経営財務の研究方法 

 本書,増田茂樹『経営財務本質論―もう1つの経営職能構造論-』の特徴は,日本の経営学者でも個性ある学説を提唱してきた山本安次郎や山城 章の理論を高く評価し,これに依拠しながら自説「経営財務論」の基礎理論を展開しようとしたところに求めることができる。

 本書を宣伝する文句は,本書の核心部分をこう解説している。

 企業における財務という主体的な職能を「主体の論理」で観る時,財務とは「費用・収益適合」職能ではなくて,「収・支適合」職能である。単なる資本調達として購買・生産・販売・労務に「従属する財務」でもないし,financial managemment としてそれらに「君臨する財務」でもない。財務は,企業において主体性をもって存在する職能である。

 問題は,その「主体の論理」(=主体性)を支える哲学論的な立脚点を,増田が『経営財務本質論―もう1つの経営職能構造論-』のなかで,山本安次郎「経営行為的主体存在論」と,これと共通する考えかたであると判断した山城 章「主体の論理」とにみいだしていた点である。

 本ブログの筆者がしるかぎり,「山本学説=山城学説」であるとそっくりいえるだけの必要かつ十分な理論上の確証はみつかっていない。また,両学説が共通する経営学の構想の持ち主とみなせるような材料もみつかっていない(⇒「まだ解明できていない」という意味で)。

 その点ではかなり特異な解釈が示されていたというほかなかった。はたして,増田茂樹のその解釈が「経営学論に適した本質論・方法論」として,いかほどに説得力あるものとして立論・展開されていたか,なお関心がもたれて当然である。

 とりわけ,この増田『経営財務本質論―もう1つの経営職能構造論-』は,山本理論を介して西田幾多郎の哲学,すなわち西田哲学にも高い評価を与えている。けれども,増田自身がこの西田哲学に十分なじんだ思索を展開している点を確信させるような内容は,残念なことにほとんど伝わってこない。つまりは,増田なりに西田哲学に親しんでいたらしい記述内容は,どうしてもみつけられなかったのである。

 本ブログ筆者は,2008年に公表した論稿をもって,増田『経営財務本質論―もう1つの経営職能構造論-』をとりあげ,経営学基礎論としての問題性を吟味し,批判的な考察もくわえてみた。その論稿は当然,増田茂樹〔当時,愛知産業大学経営学部ビジネスマネジメント学科教授,明治学院大学名誉教授〕に,もちろん進呈してあった。

 けれども,事後においてとくにその論稿の中身に対する応答などはもらえないまま,今日〔2019年12月〕まで過ごしてきた。

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