古代史における継体天皇,明治以降の皇室史における男系天皇「観」,皇后雅子が味わった「苦悩」

      日本古代史の謎-捏造の歴史を解明する意義-
             (2014年9月15日更新,2013年2月11日)

 

    要点:1紀元節」がいまの「建国記念の日

    要点:2 欠代の天皇・現代の皇族に関する問題など

 


 継体天皇」という名〈継体〉の意味は?

 本日〔2013年2月11日:建国記念の日〕の『朝日新聞』朝刊を開くと,17面(東京本社)に「(文化の扉  歴史編)王朝交代あった? 継体天皇 担がれた傍系の王族」という解説記事が出ている。ともかくその本文を紹介する。

 

 1) 天皇の系譜 / 継体天皇の生涯

 同じ皇統が続いてきたとされる日本の天皇家である。しかし,古代史研究者の間でその出自に疑問符がつけられる人物がいる。第26代の継体(けいたい)天皇だ。はたして,その真偽は・・・。

 継体天皇は450年ごろ,近江国高島郷三尾野(現在の滋賀県高島市)で,彦主人王(ひこうしおう)の息子として生まれたとされる。成長後,母親の出身地である越前国福井県)を治めていたともいわれるが,506年に武烈天皇が逝去すると,適当な後継者がいなかったため,畿内の有力豪族である大伴金村(おおとものかなむら)らに担ぎ出されて,第26代天皇となった。

 『古事記』や『日本書紀』はその血筋を,第15代応神天皇の5代後の子孫と伝える。526年には大和に都を定め,翌年,朝鮮半島に派兵。さらに,その翌年には九州で起きた筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の乱を平定した。531年ごろ,息子の安閑天皇に譲位し,82歳(43歳との説も)で亡くなったとされる。

 しかし,11代も前の天皇の子孫というきわめて遠い血筋であることや,大和王権の本拠地である大和に都を定めるまでに20年もかかったこと,即位に反対する勢力がいたと推定されることなどから,その出自をめぐって,複数の古代史学者から疑念が呈されてきた。

 補注)継体天皇については,水谷千秋による『継体天皇と古代の王権』(和泉書院,1999年)など,以降の研究業績がある。その間,水谷千秋は何冊もの関連する著書を公刊しており,最新作が『継体天皇朝鮮半島の謎』(文藝春秋,2013年)である。

 この最新作にはつぎの書評が参考になる。「『継体天皇朝鮮半島の謎』水谷千秋 文春新書」『遊心逍遙記』2013年11月3日,https://blog.goo.ne.jp/kachikachika/e/57cbc6b53a3feaf3276182201437c543

 

 2) 水野 祐「三王朝交代説」vs「多数派説で歴史を決める観方」

 代表格が1950年代に発表された,水野 祐(ゆう)早稲田大学名誉教授の「三王朝交代説」である。水野教授(写真)は,初代の神武天皇から推古天皇に至る33代の天皇のうち,18人が架空である可能性を指摘した。

 そのうえで,10代崇神天皇,16代仁徳天皇,26代継体天皇をそれぞれ初代とする3王朝が存在したと考えた。水野説に従うならば,現在の天皇家は,それまでの仁徳朝から実力で王位を奪いとった,近江国越前国の豪族の子孫ということになる。

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 註記)本ブログ筆者作成。

 水野 祐の解釈も興味深いが,佐々克明『「日本国」以前-倭韓連邦から日本国へ-』(学芸書林,1980年)による朝鮮半島との関連づけは,もっと興味深い。さて,実際のところは,どうだったのだろうか?

 堺女子短期大学准教授の水谷千秋(日本古代史)は「水野説は皇国史観にもとづく天皇家万世一系思想を崩そうとした。でも現在では,継体天皇の出自は,古事記日本書紀の記述どおり,王族と考える研究者が多い」と語る。

 継体天皇=地方豪族説をとる学者のなかには,古事記などの編纂時に継体天皇の系譜が改変されたと考え,王族の出身かどうかも疑わしいとみる人や,当時は優れた政治・軍事能力こそ大王の条件であり,天皇の5代後の子孫といった父系の血統を重視した世襲は考えにくいとみる人などがいる。

 だが,水谷は「血統よりも能力重視であれば,有力豪族から大王が出ても不思議はないが,そうした事実は確認できない」とし,「王朝交代は考えられない」と結論づける。

 ただ,継承は順調ではなかった。継体天皇の支援者は和珥(わに),物部(もののべ),大伴などの畿内豪族だったが,一枚岩ではなく,前の王統と親密な関係にあった葛城(かつらぎ)氏が強く抵抗したとみられる。そこに筑紫君磐井の乱が発生した。「地方の反乱に危機感を抱いた中央の豪族たちは結束を強める。その結果,継体天皇は葛城氏を下して,大和に入ることができた」というのが,水谷の解釈である。

 傍系である継体天皇の即位はその後も皇位継承の混乱時に,しばしば引きあいに出されることになる。だが,それは逆に「血族以外は天皇になれない」との原則を確固たるものとした。奪取がおこなわれず,皇統が続いた遠因はこのあたりにあるのではなかろうか。

 --この解説記事は,もっぱら「継体天皇の生涯を記紀などから再検討した」という著作,前出,水谷千秋の『謎の大王 継体天皇』(文春新書)や,高槻市教育委員会編『継体天皇の時代』(吉川弘文館)に依拠してまとめられていた。

 

  古代史研究に〈絶対の説〉はない

 1) 歴代天皇の,いかにも・もっともらしい・たいそうな名

 水谷千秋の「継体天皇」論も,ひとつの歴史解釈である。この天皇の名前からして面白い。「体を継ぐ」というのだから,素人考えでもきっと後世の人間がこの名〈継体〉に決めたのだと考えることは,たやすくできる推理でもある。

 しかし,日本古代史における天皇家の皇統連綿性が文句なしに実証されているわけでもなく,大昔の時代におけるその血統性には疑問も多い。水野 祐などが前掲の3王朝説を日本の天皇天皇制に突きつけていた。その研究上の意義を完全に否定できる根拠が,あとにつづく研究者から十分に提供されているわけではない。

 神武天皇が〈架空の初代天皇〉として始まるところからして,相当にうさん臭いのが,天皇家の歴史である。おまけに,この神武天皇をはじめとして,第10代崇神天皇,第15代応神天皇まで,「神さま」の〈神〉という字を付けた天皇も3人いる。

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   出所)https://sites.google.com/site/auroralrays/hayamihyou/tennou

 

 ここで「付けている」というのは,後世になってわれわれが「△△天皇」という文字を,この天皇〔おおもとは大王(おおきみ)〕に付けていた事情を指している。明治以前は天皇のことを『▽▽院』と呼び,一世一元の天皇制になった明治以降は,元号がそのまま天皇のまえに付けられ呼ばれるようになっている。

 本ブログの筆者は,平成の天皇のことを「平成天皇」と記述している。このことに気づいて「間違えている」とかなんとか指摘してくれる親切な人もいる。おそらくこの筆者と同じに天皇研究では素人「さん」だと思われるが,平成の時代に生きている天皇が死後「平成天皇」と呼ばれるに決まっている。

 補注)2019年5月1日から,平成天皇が生前に退位したのを受けて,息子の徳仁天皇に即位していた。これを境に,父親の明仁は現在,上皇と呼ばれる「身分:地位」になっている。この上皇が死去したら平成天皇と呼ばれるはずである。いまの時点で「平成天皇」と呼んでもなにも間違いはないし,そう呼んだらいけないと否定できる事由もない。

 前段のごとき呼称の仕方は,誰にも否定できない。ましてや「いま(現役の時期)の天皇明仁を平成天皇」と呼んでいけないという約束事など,どこにもない。本ブログ筆者にそうした条件が課せられる筋合いはない。

 いずれにせよ「平成天皇と呼んでいけない」という絶対的な事情はない。「明治天皇大正天皇昭和天皇→平成天皇(そして令和天皇)である」というほかあるまい。今上天皇ということばもあるが,日本国憲法のなかで使いやすい指称ではない。

 それはともかく,話がずれたのでもとに戻す。まず,天照大神という「皇祖」が神話において存在したと想像されている。つぎにこの「皇祖」に等しい扱いをされている「皇宗の代表格」である初代神武天皇も,大昔にいたのだと想定されている。この神武天皇につづく各代の天皇の名についていえば,前段で触れたように,〈神〉という字が充てられているものが3名もいて,興味深い(あとの2天皇は,第10代崇神・第15代応神)。

 さらに,古代天皇史に関して興味のもたれる事実は,こういう天皇の名前である。〈安〉という字が第3代安寧・第6代考安・第20代安康・第27代安閑〔以上第30代までで〕において使用され,〈孝〉という字が第5代孝昭・第6代孝安・第7代孝霊・第8代孝元〔同前〕において使用され,さらに〈仁〉という字が第11代垂仁・第16代仁徳・第24代仁賢において使用されている。

 ところが,以上の天皇は実は「欠代の天皇」が多い。つまり,その存在じたいが疑われる天皇(大王)たちだからこそなのか,いい名を付けておきたいという気持が,強く伝わってくるものばかりである。日本の天皇は,いま生きている者もある意味では〈現人神〉であるし,死後はどんどんと「神らしく」とりあつかわれていくことになる。

 ましては,2千年以上もの昔話のなかでも天皇の世代に関する説明となれば,その大昔に存在したとされる天皇たちは「もう完全に神様」となりきっている。そうであるらしい事実は,その名称に〈神〉という字を混入させていることからしても理解できる。

 こんな・そんな天皇天皇制に関する歴史なのであるから,そのどのような内容・中身であっても「眉唾ものではないか?」という問題意識をたずさえ,観察しておく余地がある。こうした注意事項は,古代史の専門家であれば認めてくれると思う。

 

 2) 明治期に創造(想像)された皇室の歴史

 明治維新以降の皇室史は,非常に厚いファンデーションを塗りたくった〈天皇人物史〉をさらに光輝たるものとして潤色しておき,さらにもっと上手に化粧もしておくために,壮大なる歴史物語を創造してきた。かといって,その肝心の要所久米邦武4を,久米邦武のように「神道ハ祭天ノ古俗」(1892〔明治25〕年)であると喝破してしまうと,たちまち体制側から思想的・イデオロギーな非難・攻撃が寄せられ,ひどい目に遭わされる。 

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  出所)写真は晩年の久米邦武,http://blog.canpan.info/fukiura/archive/2948 より。

 この久米邦武は,当時の帝国大学(いまの東京大学教授職)を辞めざるをえなくなっていた。なにせ,当時の教育社会は,神話の世界=おとぎ話をもとに「明治の為政」を創作・説明しており,しかもこれを強固に維持しておく必要があった。帝国臣民たちに向けては,この日本帝国がいかに立派な国家であるか,帝室(皇室)の悠久の連綿たる歴史性(虚構こみだから歴史そのものだとはいいきれないが)を,根本に据えて教化していた時代である。

 ところが,帝大〔当時大学はこの東京の大学しかまだ存在しなかった〕の教授が,これに真っ向から疑問を投じるといった,とんでもない反国家的な論稿を公表した。この事情が生起してしまったために,明治維新の国家体制を固守しなければならない陣営側からは,猛烈な批判が久米に浴びせられた。       

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 久米邦武のこの論稿「神道ハ祭天ノ古俗」はもともと,1891〔明治24〕年1月に『史学雑誌』に発表され,さらに1892〔明治25〕年には『史海』に転載された。このとき,主宰者の田口卯吉は以下の文を掲載し,神道家を挑発していた。

 余ハ此篇ヲ読ミ,私ニ我邦現今ノアル神道熱心家ハ決シテ緘黙スベキ場合ニアラザルヲ思フ,若シ彼等ニシテ尚ホ緘黙セバ余ハ彼等ハ全ク閉口シタルモノト見做サザルベカラズ。

 これに対して,1892〔明治25〕年2月28日,神道家の倉持治休・本郷貞雄・藤野達二,羽生田守雄は,久米邦武に詰め寄り,翌日も論文撤回を要求する。同年3月3日久米は,新聞広告を出し,論文をとり下げる。しかし,彼は,主張は曲げていない。だが事後,以下のような経緯をたどることになっていた。

 1892年3月4日 帝国大学教授職非職。
 1892年3月5日 『史学雑誌』第2編第23,24,25号及び『史海』第8号に発禁処分となり,一応の決着となる。
 1893年3月29日 修史編纂事業の是非の議論起こる。そして,翌日,史誌編纂掛を廃止を決定し,4月7日に帝国大学総長浜尾 新に通達する。
 1893年4月10日 重野安繹,星野 恒ら編集委員を解任。
  註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/久米邦武筆禍事件 参照。

 当時まですでに,大日本帝国憲法明治憲法)が1889〔明治〕22年2月11日に発布され,1890〔明治23〕年11月29日に施行されていた。この明治憲法は,国家神道の見地より政教一致の宗教思想をかかげ,天皇天皇制を敷いた国家体制を採択・推進していた。

 それゆえ,久米邦武に「神道ハ祭天ノ古俗」などと指摘されては,それこそ『身も蓋もない』。これでは,神道の「神」が単に〈過去の旧式の思惟〉に過ぎないとと糾弾され,その素性がばらされてしまったも同然であったからである。

 明治に改元する1868年〔の9月8日「明治」となる〕の3月28日に「神仏判然令」が出されていた。日本の宗教界には「廃仏毀釈運動」の嵐が巻き起こっていた。この政令によるその運動は,国家神道への道を切り開くための前準備であった。

 明治政府や神道界にいわせれば,自由民権運動も収まったころ,わざわざ真正面より「神道の基本問題」を突っつくかのように,久米邦武「神道ハ祭天ノ古俗」が公表された。これに対して猛反発が起きたのは当然であった。時はすでに,明治帝政期なりに「古代神話を不可欠に要求とする」時代になっていたのである。

 

 3) 明治期の言論弾圧

 たとえば1880〔明治13〕年4月5日には,「集会条例」が制定されていた。この条例の内容は,こういうものであった。

   (1) 政治に関する演説会などを開く場合は,事前に警察に届け出て認可をもらうこと。
   (2) 警察官は集会に臨席し,内容次第では中止・解散を命じることができる。
   (3) 軍人・警察官・学校の教員及び生徒の政治活動は禁止。
   (4) 政治結社同士の連絡は禁止。
   (5) 屋外集会を禁止。

 明治時代はこのように,民主主義の基本精神などそっちのけにした法律(条例)が置かれる時代であった。さきの久米邦武は,日本の近代史の画期となった『岩倉使節団』(1871〔明治4〕年11月~1873〔明治6〕年9月)の見聞録を,『米欧回覧実記』(明治11年)に残した逸材であった。だからこそ,国家神道の古代史を近代に再生させたかのような〈明治憲法体制の根幹〉を,真っ向から批判する論説「神道ハ祭天ノ古俗」を公表していた。

 つぎは,ひとまず「もしかしたらの話」になる。久米邦武が論説「神道ハ祭天ノ古俗」を『史学雑誌』1891〔明治24〕年1月での公表に留めておき,さらに『史海』1892〔明治25〕年に転載することをしなければ,くわえて主宰者の田口卯吉に「神道家を挑発」する言説がなければ,久米は帝大を辞めなくとも済んだかもしれない。

 事態は,いわゆる「密教の世界における語り」を飛び出し,「顕教の世界にほうにまでもちこまれてしまった」のである。明治維新以降における神道界は,神道国家の道を歩みはじめていた日本帝国と利害の一致もあって大いに「意気も上がっていた」のであるから,こちら側から久米邦武に跳ね返ってきた反発は非常に強かった。

 逆方向からみれば,神道家たちの宗教的立脚点の弱みを真正面からえぐったのが,久米邦武の論説「神道ハ祭天ノ古俗」であった。ましてや明治維新政府は,国家神道体制によってその「国家精神の基柱」を樹立していたゆえ,これに疑問を抱いたり突きつけたりする識者の言論は蛇蝎視され,そのうえ猛然と排斥されねばならなかった。これは逆説的にいえば,明治期における神道国家体制の最大の弱点がどこにあったかを明示していた。
 
 4) 宮武外骨の硬骨精神

 宮武外骨(生死年:1867-1955年)という反骨のジャーナリストがいた。1889〔明治22〕年,宮武外骨は自身が関係する雑誌『頓智協会雑誌』のなかで,大日本帝国憲法発布をパロディ化したところ(右側の写真「骸骨が憲法を下賜する図」を参照),これが皇室:天皇に対する不敬罪とみなされた。

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   出所)写真は宮武外骨http://www.asahi.com/jinmyakuki/TKY201007130327.html

 しかも,裁判では未決勾留日数の刑期算入も認められずに「禁錮3年の実刑判決」が下され,その投獄期間は3年8ヶ月にも及んだ。宮武はそれ以後,官僚を宿敵と位置づけ,権力批判を活発に継続していった。

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   註記)右側は,吉野孝雄宮武外骨(改訂版)』 河出文庫,1992年。

 「過激にして愛嬌あり」と形容された宮武外骨が,このような風刺絵を書いて雑誌に掲出したのは,こういう反発からであった。「明治政府が,徳川の時代と違って平民も政治に参加できる政府だと思わせたのは,薩摩と徴集の策略だったことが今度の憲法発布によって明白となった」からである。「その策略におどらされているわれわれ平民こそいい面の皮だ。そう思うと底知れぬ怒りが胸の底にこみあげてくる」。「明治維新の理念に反した帝国憲法発布を思いきり皮肉ってやる。筆禍は覚悟のうえだ」。
 註記)吉野孝雄宮武外骨(改訂版)』河出書房新社,1992年,32頁,34頁。

 

  天皇家王朝交代説

 1) 古代史を模倣したつもりであった明治維新  

 先述のように,久米邦武の論説「神道ハ祭天ノ古俗」が公表された経路は,『史学雑誌』1891〔明治24〕年1月→〔転載されて〕『史海』1892〔明治25〕年という順序であった。当時の神道界側は久米に対して,それこそ,ムキになって猛反撃をくわえていた。今日に生きているわれわれとしては,その時代感覚に即して理解してみる必要がある。

 それだけ,維新以後における明治政府:国家体制の核心部分は,理論的にも実際的にもとても〈弱い脇腹〉を抱えていたのである。明治時代における帝国政府は,天皇天皇制を中心に創られた「主権在君」の政治体制である。

 しかも,近代政治の形態と機能は,前近代どころか,おぼろげな記憶しか残されていない「古代の王朝制度を真似して創られていた」。となれば,これが「政治の想像力」と「権力の強引さ」を併用する方途でもってしか,当初の目的が理念的に実現されえなかったことは,その後における歴史の展開が正直に物語っていた。

 いまでも,その種類の苦労を一番身に沁みて実感してきたのが「平成の天皇夫婦」であった。このことは,過去=古代史からつづいてきたとされる「天皇天皇家の伝統や格式」に沿った生きかたの問題でもある。

 そして,皇室の天皇一族はとくに,21世紀において自分たちがどのように生き長らえていけるのかについて,非常に強い関心をもっている。彼らは,天皇家に「あれこれ絡みつくほかない〈日本の政治理念と利害〉の状況」のなかで,未来にかける「生き残り戦略」を独自に考えつつ,具体的に模索してきている。

 

 2) 皇統継承の困難に苦しんだ皇太子時代の徳仁一家

 そのなかでも,平成天皇夫婦にとって一番頭の痛い問題だったのが,息子(令和の天皇になった徳仁)夫婦の存在であった。思いどおりにはなかなか行動してくれない「嫁の雅子」がいた。だが,雅子にとっては「皇室をめぐる古代史の想い出」を伝承する仕事よりも,それまで彼女自身に長い期間降りかかっていた別の問題のほうが,よほど深刻で重要な関心事であった。

 赤坂御用地東宮御所内において生活していたころの彼女は,一見したところ皇室政治的には優雅に,そしてその社会・経済的にはなにひとつ不自由なく暮らしているようにみえていた。皇室の1員としての職務は,ほとんど怠業状態になっていた時期が長かったけれども,その家族の1人としてはその暮らしぶりの立場を享受しえなかったわけがない。

 以上がひとまず,令和天皇の妻になる前の段階でみた,『「皇族の一員」として置かれた「彼女:雅子の立場」』であったといえる。だが,その後景に潜んでいた「霧闇のような実際の空気」は,国民に向けて伝えようとすることじたい,彼女はけっして試みることはしなかった。皇太子徳仁があるとき,そのような家庭内の事情に関連する発言を,日本社会に向けて返したこともあった。けれども,皇室制度の基盤に食いこむ問題を,彼ら夫婦2人の個人的な次元で解決させることは,もともとできない相談であった。

 という状況のなかで,2004年5月10日に皇太子徳仁が口にした『人格否定発言』が巻き起こっていた。徳仁は欧州歴訪前の記者会見の場を借り,雅子に関して「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあったことも事実です」と述べた。そのころ,外務省出身で国際派と目されていた雅子と保守的な宮内庁のあいだには軋轢があったことを示唆する発言が,徳仁自身の口からなされたのである。この出来事は,日本政府や国民に対して大きな衝撃を与え,内外のメディアでもセンセーショナルにとりあげられた。

 いまからちょうど10〔15〕年前だった2004年当時は,皇室全体として皇族男子が40年近く誕生していないことや皇族男子が誕生していなかったために,皇太子夫婦に対しては格別に「皇位継承者の誕生」を期待する周囲の精神的な負担がのしかかっていた。雅子の海外訪問が制限されていたことなども注目された。この発言を機に皇室のあり方について国民的議論が巻き起こってもいた。

 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/人格否定発言 参照。

 補注)その後に判明した事実は,当時の宮内庁長官がいきなり雅子を訪ねて,皇太子夫婦が「男子を産むように」圧力をかけたという話であった。こういう経緯があったというのである。

 1997年2月,当時の宮内庁長官・鎌倉 節が直接,雅子妃を説得に来たこともあったという。通常,長官といえど,皇太子夫妻から「お召し」がなければ勝手に会いに来ることなどできないのだが,鎌倉長官はその禁を破り,強引に乗りこんできた。そして部屋に入るなり,世継ぎの話を切り出したという。

 「前置きもなく,いきなりお身体のことを話しはじめたといいます。雅子妃殿下は羞恥心と驚きで複雑なお気持になったそうです。ひとりの女性が夫婦間のことなどを他人に軽々しくいえるはずがありません。雅子妃はしばらく黙ったままだったそうですが,あまりに理解がないためプライバシーについていわれたところ,結局,聞き入れてもらえないまま話は平行線に終わったといわれていました」(元東宮職)。

 註記)「  “雅子妃の代弁者”  といわれる皇室ジャーナリストが明かした『皇太子妃を辞める』発言と不妊治療の真実」『リテラ』2015年12月9日 08:30,https://lite-ra.com/2015/12/post-1764.html

 明治期以来の「女系・女性天皇絶対排除」の新しき伝統は,敗戦後になった皇室のなかにおいても,以上のような皇室内の出来事を発生させていた。当時,皇太子だった徳仁の妻:雅子の立場にとって,「男子」を産むことが「公務になりうるか」どうかは,にわかには判断しかねる論点である。

 しかし,ともかく男子を産め,そのためにオマエたち夫婦はもっとがんばって子作りしろとまでじかに督励されたら,宮内庁長官であれほかの誰であれ,いわれたほうの女性は最低の気分を抱くに決まっている。しかも,男女平等の時代のなかでのそうしたやりとりが,天皇家における内部事情として,実際に起こっていた。

※ 参考記事 ※  「【2019年読まれた記事】 即位パレードで「雅子さまの足跡」を振り返るマスコミが触れなかった男子を産まない皇后への過酷な圧力と深刻な事件!」『リテラ』2020.01.01 11:20,https://lite-ra.com/2020/01/post-5175.html

 

 3) 天皇家にとっての古代史の意味-その重みの軽さ-

 本日のこの記述で最初の課題は「継体天皇」を論じることに始まっていた。けれども,最近の皇族たちの頭脳中に収められている重大関心事は,古代史の世界などよりもむしろ,いまの「21世紀の現実における生きかた」じたいにある。このことだけは確実である。

 ましてや,神武天皇(架空の想像された第1代天皇)から現在の天皇までが,『継体天皇の在位』によって「〈体〉よく〈継〉承しえてきたか」といった神話的な歴史問題は,どうでもよい「大昔の話」になるほかないかもしれない。

 昭和天皇裕仁)の生物学研究は,趣味の域を超えて世界的な研究レベルに到達していたと評価されている。だが,皇室関係者が歴史を勉強するには危険が多すぎるので,極力,忌避されてきた。

 ところで,裕仁の末弟・三笠宮歴史学を研究する道を選んでいたが,日本古代史ではなく,それも東洋から西洋のほうに研究の対象をずらして,オリエント史〔現在の中東地域に興った古代文明史〕にとりくんでいた。

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   出所)写真は三笠宮(2012年7月ころ:96歳)http://www.47news.jp/CN/201207/CN2012071101001498.html

 この三笠宮神武天皇の存在じたいに猛烈に反対・批判したことについては,本ブログは2019年12月26日の記述のなかで,つぎのように言及した。

 1950年代後半に「建国記念日」に関する議論が巻きおこったとき,昭和天皇の末弟・三笠宮崇 仁(みかさのみや・たかひと)は,自分の所属する「史学会」(1889:明治22年11月創立)に対して「建国記念日」制定に反対する決議を迫った。

 三笠宮は,神武天皇の末裔を信じてやまない裕仁天皇とは〈天と地〉ほど,日本の歴史に関する認識においては大きな懸隔をもっていた。三笠宮は「科学の立場」から,皇室にかかわる「日本神話の理解」が兄とは完全に異なることを,当時宣言していた。これはいうなれば,日本古代史の認識に生じていた「皇族同士の内輪モメ:対立点」であった。

 だが,「史学会」側は学術団体に政治的決議は馴染まないと応せず,皇族関係者との折衝を回避した。この非政治的=政治的(!)な態度に憤慨した三笠宮は「理事長独裁を批判する」とのコメントを出し,世間を騒がせた出来事となった。 

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   出所)1955年,東京女子大学で講義する三笠宮http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1289231542307.jpg

 ただし,その後の三笠宮はすっかりおとなしくなっていた。だが,このように指摘された皇室関係の特定問題は,日本国憲法が冒頭の条項のなかにそもそも「天皇関係の位置づけ」などを記述しているかぎり,これからも絶えることなく発生しつづけていく潜在的な要因でありつづける。

 ところで,国粋・右翼・保守・反動の立場から「三笠宮の当時における言動」を批判した著作として,里見岸雄天皇三笠宮問題』錦正社,昭和35〔1960〕年がある。以上に触れた三笠宮の言動は1960年以前でのものであった。天皇家の人間が「歴史をまともに学ぶ」とどうなるかを,三笠宮は真正直に披瀝していた。

 いまの令和天皇徳仁は皇太子のときイギリスに留学したさい,テムズ川の水運史を研究テーマに選んでいた。皇族の1人として無難な研究論題を設定したということである。しかし,日本の某河川の問題を研究テーマに選んでもよかったはずである。だが,自国の問題となれば,いつか・どこかで・なにかが「国内政治に関連する論点」として突然登壇するかもしれない。

 そのあたりは,皇室の人びとが特定の論題を学ぶ立場や事情をめぐり,状況論理的に惹起せざるをえない「あれこれの困難な課題」の伏在を意味する。天皇家の立場・利害にとって「都合の悪い事実」や「みたくない真実」にぶち当たる可能性を秘めるほかない「彼らの勉強の進路」は,かといっても,なにもかも完全に除去しておくことはできない相談である。

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