明治謹製であった「創られた天皇制」が民主主義とは絶対矛盾的に自己同一している基本問題(続)

平成天皇が生前に退位(譲位)した日本政治社会,明治以来の問題である「創られた天皇制」をめぐる虚実(その2)

                   (2016年12月5日) 

 

  要点:1 なにが問題なのか,日本の天皇天皇

  要点:2 民主主義国家体制のなかでの天皇制度の問題議論が混迷する事情など

  要点:3 平成天皇の皇室生き残り戦略を考えるための論及

 

  「本稿(1)」の目次 ※

 

 ① 高森明勅天皇生前退位」の真実』2016年11月

 ② 鎮西迪雄,元内閣法制局参事官「〈私の視点〉天皇の退位 特例法対応は憲法違反」(『朝日新聞』2016年12月3日朝刊「オピニオン」)

 ③ 「象徴天皇 見解に違い-専門家16人,退位への賛否に影響」(『日本経済新聞』2016年12月1日朝刊2面〔参照〕)

 ④ なぜ,日本の天皇論(問題)は迷走するのか
  1)「玉」に近きつもりの者たち

  本日の記述は,以上「本稿(1)」 の ④ の 1)までに続いて, 以下の ④ の 2)および 3)からなる構成内容である。

 

 2)  矛盾に気づかぬ人・気づく人

 a) 戦後日本は,新たな天皇制国家として再武装への途を歩んできた。戦前・戦中との最大のちがいは,アメリカとの全面合作でそれがおこなわれてきた点にある。戦後は,戦前・戦中と異なって「民主主義」の建前のもとに,より合理的な政治制度をもつにいたった。いうなれば,現状における「日本国」は,「共和制と君主制の中間形態ともいうべき独得の国家形態」(小林直樹)であり,「民主制的象徴君主制」(和田英夫註記)という規定を適用すべき「天皇を冠に戴く国家」なのである。

 註記)文/菅 孝行・イラスト/貝原 浩『FOR BEGINNERS シリーズ 天皇制』現代書館,1983年,82頁右段,146頁右段。

 村田良平『村田良平回想録 上・下巻』(ミネルヴァ書房,2008年)は,「皇室について正しい日本語でよりしばしば報道する義務ありと考える」元外交官である。すなわち「皇室の御行為等で,当然の敬語たる『御』をつけるべきところをしばしば省略している。これらは意図的と解さざるをえない」註記)と不満を表明したうえで,皇室関係者に対する敬語・尊称の〈使用〉を当然視する姿勢を示している。

 註記)村田良平『村田良平回想録 下巻』ミネルヴァ書房,2008年,393頁。

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 村田は,日本人・日本民族が「日本の皇室」を尊崇する態度を,理屈ぬきで無条件に採るべきのものと考えている。長年にわたる外交官生活の影響で彼は,それもヨーロッパ貴族とりわけ,旧ハプスブルク帝室の〈歴史的残影〉にいささか漬かる体験もし,これに魅惑された記憶が忘れられないのか 註記),日本の皇室に対する尊崇観念を強説する立場を堅持している。

 註記)村田良平『村田良平回想録 上巻』ミネルヴァ書房,2008年,第7章「オーストリア大使・外務審議官」参照。

 村田の19世紀的な感性による発言は,「不敬罪」をできれば復活したいかのように聞こえる。その時代がかった旧態依然の精神構造は,天木直人『さらば外務省!-私は小泉首相売国官僚を許さない-』(講談社,2003年)に対したとき,強烈な拒絶反応となって表現されてもいた。つぎの画像は同書の「前見返し部分」である。

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 いわく,天木の同書は「とり上げる価値のある書籍ではない」が,「その『前見返し』を見て一驚した」のは,「そこには天木が今上天皇陛下から賜った辞令の御璽の部分がそのまま用いられていたからである」。さらに村田は,頼まれたわけでもないのに宮内庁代理人にでもなったつもりか,天木直人のみならず出版元の講談社まで言及し,つぎのように非難していた。

 いかに表現が自由とは言え,天木と,同書を出版した講談社の編集者は,如何にしてこの失礼を陛下にお詫びするのか。正に「売らんかな」の商業欲で皇室を傷つける行為を行ったのだ。両者に猛省を求めると共に,外務省から,再びかかる人間が大使の職につくことがないことを切に祈る。 註記)村田『村田良平回想録 下巻』326頁。

 天皇が国事行為として執るべき形式的な仕事のひとつに,たとえば,日本の外交官に対して日本国内閣が発令する「任免-任命と免官-」を認証する手順がある。免官された天木直人のばあい,その官記に記載された文言は,前掲の画像のとおり「特命全権大使 天木直人 願により本官を免ずる 平成15年8月29日 内閣」とあり,「天皇御璽」の大きな印鑑が押印されている。このような「天皇の異様に大きな〈形式:印鑑〉」と発令者〈実質:内閣〉の合体は,日本国憲法の第1~8条が憲法全体に対して有する基本矛盾を如実に反映させている。

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 いずれにせよ,日本国憲法下におけるその「任免」の発令者は,実質において天皇ではなく内閣である。それでも天木は,天皇の認証を要する高級官僚の「特命全権大使」であったから,「御璽の押された官記」を任命権者(内閣総理大臣等)から伝達されていた。

 村田は,天木が公刊した著書の前見返しに「天皇御璽」という印影が複写して利用されたと憤激するあまり,戦前の感覚でもあるまいに〈不敬罪〉だと騒がんばかりに激昂したあげく,その著者と書肆を非難していた。村田は,21世紀のいまごろにあってなにを錯覚したのか,まさしく時代錯誤も甚だしい言辞を吐いていた。

 b) なお,その『辞令』に押印されている「天皇御璽」については,以下のような字画上の特徴がみられる。天皇の「皇」の字画は「と王」ではなく「と王」に,また「御璽」の「璽」の字画は「爾と」ではなく「爾と」に,それぞれ彫られている。参考にまで触れれば,将棋の駒で使われる「王将」と「玉将」とは,実質的な違いはないとされている。  

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   出所)http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1059111310

 ただし「王将」は片方1枚にしてあり,慣例として後手・上手となる上位者が「王将」を使い,先手・下手の下位者は「玉将」を使っている。「皇」の字が,白でなく,内部の字画を1本増やした自を使っているが,これは「自らが王である」と語呂合わせをしたと解釈できなくもない。
 c) 2009年6月29日,鈴木宗男国会議員が内閣に提出した文書(質問第612号),「村田良平元外務省事務次官が1960年の日米安全保障条約改定時のいわゆる『核持ち込み密約』の存在を認めた件に関する質問主意書」がある。

 この文書は,2009年6月29日に毎日新聞が報道した「米核持ち込み 密約文書引き継ぐ 村田元次官『外相に説明』」に関して,「国家公務員法」(昭和22年法律第120号)第百条の規定,「職員は,職務上知ることのできた秘密を漏らしてはならない。その職を退いた後といえども同様とする」に村田が違反したのではないか,すなわち,「今次村田元次官が『密約』の存在を明らかにしたことは,国家公務員法第百条の規定に反するかし,適用されると理解してよいか」という質問の主意である。

 ここでは「核持ち込み密約」問題をどのようにとりあげるかはさておくとしても,退官後におけるこの村田の言説には,正木直人を非難するさいの村田の姿勢と比べて,なにか違和感を抱かせるものがある。

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   出所)http://www.teichiku.co.jp/artist/kimimaro/

 2002年ころより注目されはじめ大いに売れた「綾小路きみまろ」(1950年生まれ)という毒舌漫談家がいるが,得意文句が「あれから40年」である。敗戦から22年が経過した時点で公刊された渡辺洋三『日本における民主主義の状態』(岩波書店,1967年)があった。この本が述べていた日本の政治状況は,2020年の現段階になってみるに,前進したどころか後退している。

 渡辺洋三は,1967年においてこう主張していた。

 旧「安保条約のもとでの米軍の援助をうけた軍事力の増強が,力の均衡の法則によって平和と民主主義を維持しているという立場と,安保条約のもとでの対米従属下の日本軍国主義の復活こそが平和への最大の脅威であり,これをのぞくことが平和と民主主義を保障するという立場とが対立する。そしてこの評価の対立は,平和と民主主義をかかげる現行憲法の原理的理解についての,したがってまたその憲法の過去・現在・未来につながるあり方についての基本的対立を前提している」(同書,5-6頁)

 安倍晋三がこの日本国憲法の未来をぶち壊す現実を作りだした。2016年3月に施行された「安保関連法」は,「安保条約のもとでの対米従属下の日本軍国主義の復活」を成就させていた。問題はその「対米に従属:服属する日本国防衛相自衛隊3軍」の現実的な様相,現代的なありさまである。

 結局,安倍は「日本の平和と民主主義」をアメリカに対して大安売りした『売国奴』だったという〈歴史的な評価〉を,もともとできもしないはずだった「戦後レジームからの脱却」の実現だと勘違いしたあげく,手に入れたわけである。ここでは,アベによって,日米同盟関係下の天皇天皇制問題の本質がより鮮明に投影された事実にも触れておくべきである。

 渡辺はさらにこういっていた。「民主主義社会というものは, “人間みな平等” の社会をいうのであり,合理的根拠のないいっさいの差別と不平等とは民主主義に反する」(まえがき,ⅱ頁)

 つまり,この国は実際に,「対米従属国家体制である国際政治次元の問題」にくわえて,「国内政治次元の問題」として「天皇天皇制」をかかえこんでいる。「人間がみな平等ではない社会」であるといった具合に,「差別が現実にある政治社会」を維持させている主要要因が,この天皇天皇制に不可避の社会問題である。そういっても,なんらおかしい点はない。天皇天皇制を「支持するとか・しないとかいった議論」を交わす間柄の人びとたちの双方においてさえ,最初よりその認識は共有されているはずである。 

 1868年から1945年までが77年,それから2016〔2020〕年までは71〔75〕年の時間が流れてきた。その間「歴史の歯車はうしろえはまわりえない」ものだけれども,前に進もうとする時代の趨勢に必死になって歯止めをかけようとする反動が,いままで数多く出没してきた。
 註記)羽仁五郎『日本人民の歴史』岩波書店,昭和25年,208頁参照。

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  出所)画像は羽仁五郎http://mixi.jp/list_bbs.pl?id=1054318&type=bbs

 d) 2009年も8月15日の「終戦記念日」を迎え,東京都千代田区日本武道館で「戦没者追悼式」がおこなわれていた。そこで平成天皇夫婦は,つぎのように「おことば」を述べた。その全文を紹介する。

 本日,「戦没者を追悼し平和を祈念する日」に当たり,全国戦没者追悼式に臨み,さきの大戦において,かけがえのない命をうしなった数多くの人々とその遺族を思い,深い悲しみを新たにいたします。

 

 終戦以来既に64年,国民のたゆみない努力により,今日のわが国の平和と繁栄が築きあげられましたが,苦難に満ちた往時をしのぶとき,感慨はいまなお尽きることがありません。

 

 ここに歴史を顧み,戦争の惨禍が再び繰りかえされないことを切に願い,全国民とともに,戦陣に散り戦禍に倒れた人々に対し,心から追悼の意を表し,世界の平和とわが国のいっそうの発展を祈ります。

 この「おことば」は,日本に住んでいるいろいろな立場の人たちにとって各種・各様に受けられうる内実があるがために,かえって無味乾燥とならざる一面(の背理)も有している。いってみれば,どこの誰であろうと「この程度の中身」は吐けるからである。仮に隣国の外交官が口上するとしたら,「わが国」「全国民」の箇所を,「貴国」「貴国民」といいかえれば済む文言である。

 要は,この「おことば」にあっては,平成天皇夫婦の主体=主語の意味が本来,不在なのである。日本の天皇が日本国・国民の象徴であるならこの関係においてこそ,その主体的な立場が表現されねばならないはずであるが,なぜか明確には語られていない。そうはいっても,しょせん「象徴というものは主体の立場をもちあわせない」ゆえ,そういう言辞をもってする「おことば」にならざるをえない。

 e) 2009年9月16日のマスコミ報道は,韓国の李 明博大統領が「韓国併合条約100年」となる「来年中の天皇訪韓を期待している」といっていた 註記1)。つづいて9月19日の報道は,「靖国神社参拝をしない」と明言し,「アジア重視の姿勢を明確にする」鳩山由紀夫首相が,10月中旬には韓国を訪問する方向で検討に入ったといい,鳩山首相訪韓が実現することになれば,北朝鮮の核問題などのほか,天皇訪韓も話題になる可能性もあると伝えていた 註記2)

 註記1)『朝日新聞』2009年9月16日朝刊。
 註記2)『毎日新聞』2009年9月19日朝刊。

 日本の天皇の外国訪問について宮内庁羽毛田信吾長官(当時)は,いつものように,まず政府において検討する事柄であり,宮内庁として答える段階ではないが,国際親善が目的になると述べていた。また,韓国訪問要請に関して明仁自身は,「政府が検討し決定することになっていますが招待には感謝します」と述べた。

 日本の象徴である天皇が,あくまで国事行為として国際親善の目的・使命で外国訪問をするにしても,実質的には国際外交の一役を果たすことにかわりはなく,その親善と外交とのあいだに明確な仕切り線を引くことはできない。日本の天皇を招待しようとする相手国の意図は,的確にみきわねばならない国際政治における作用要因である。

 結局,日本国憲法に規定された天皇関係の諸条項に潜む「危うさ=矛盾」は,招待する相手国が期待する「国際政治」目的と,これに対して日本の「皇室〔親善〕外交」がかかげる目標とのはざまにおいて,より明確に発生する。ましてや韓国のばあい,旧日本帝国の植民地統治を体験した国家であるゆえ,「両国間における皇室〔的〕外交」の進行はいつでも,その種の〈齟齬の問題〉を生む可能性が大である。

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  出所)「臣・茂」と敗戦後になっても自称していた帝国主義者的な政治家「吉田 茂」,http://dictionary.goo.ne.jp/jn/227568/picture/m0u/

 問題は,現在天皇の地位にいる明仁の気持,すなわち実際に訪韓が実現する段階にいたったとき,彼が自身の考えにおいて,いったいなにを企図するかにある。

 補注)現時点〔2020年1月〕でいうに,平成天皇(現在は上皇と称されている)が韓国を訪問する機会は,おそらくありえないと判断するほかない。

 f) さて,「日本国・国民の象徴として国事行為にたずさわる天皇」を戴く「日本における民主主義の状態」が基本的に変革されるためには,日本国民にいまだに残存する意識,すなわち天皇を頂点に戴ているという「旧臣民的意識」がなんら疑念を抱かれることもない現状を,完全に払拭させることが大前提の問題となる。

 前出,渡辺『日本における民主主義の状態』1967年は,「民主主義社会というのは, “人間みな平等” の社会をいうのであり,合理的根拠のない一切の差別と不平等とは民主主義に反する」と断言していた。
 註記)渡辺『日本における民主主義の状態』まえがき,ⅱ頁。

 なお「日暮れて道遠し」の感がある。とはいえ,可及的速やかに,天皇天皇制がこの国の舞台裏に隠居する時期を迎えねばならない。そのようにできたとき,いいかえれば,天皇天皇制が憲法から姿を消すときは,今年(ここでは2009年のこと)の「8月15日敗戦」を迎えてある新聞社の「社説」が言及していたように,「宗教法人としての靖国神社に解散してもらい,特殊法人化して国立の追悼施設とする案」に則した方途も,探りやすくなるはずである。
 註記)『朝日新聞』2009年8月19日朝刊「〈社説〉09総選挙・追悼施設-今度こそ実現させよ」。

 3) パンドラの箱天皇天皇

 a) したがってまずさきに,「靖国神社護国神社」と皇室との接点を断ち切る意思を,天皇家の安定と繁栄のために日夜精力を費やしている平成天皇(現在は上皇の立場にあるがここではひとまず考慮外とする)は,ただちに決心すべきである。

 前段に一部引用した社説は,「靖国神社には,東京裁判で日本の侵略戦争の責任を問われたA級戦犯が合祀されている。だからこそ,昭和天皇も現天皇も,その後は参拝していない。国民のなかにも,同じ点に疑問を抱く人は少なくないのではないか。外国からの賓客の多くが靖国を訪問できないのもそのためだろう」と,忖度している。

 けれども,靖国神社は,日本帝国の「侵略戦争推進のための宗教施設」であったという「歴史的な基本特性」を,これからも永遠に抹消できない。また,戦没者の「悲しみ」だけを純粋に慰霊するために存在した神社でもない。そもそも,A級戦犯靖国神社へ合祀したことに関する「可否」を議論する以前の問題があった。それは,靖国神社〔および各地の護国神社〕と皇室=天皇家との関係を解消する(なきものにする)ことができるか否かである。

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 出所)左側画像は,https://thepage.jp/detail/20140110-00000003-wordleaf

 明治の時代に誕生した靖国神社はその建立の由来からして,どこまでも戦勝を祈念するための神社であった。大東亜戦争「開戦の2カ月後,シンガポールの陥落を祝い,日本全国の戦捷第1次祝賀会(戦捷は戦勝の意)がおこなわれた。靖国神社護国神社への参拝者はひきもきらず,首相官邸や陸海軍省には,日の丸の小旗をもった人々がおしよせた」。その日の「正午,東條英機首相はラジオをつうじて全国民によびかけた」。「大東亜建設の基礎はまさに成らんとしております。天地もゆるげとばかりご唱和を願います。天皇陛下万歳,万歳,万歳!」。

  「だがそれは幻想による酔いであり,戦勝は本物ではなかった」。「天皇陛下のため,国のためと念じて出征した」帝国臣民=朕の股肱は,「当時,死ぬのがこわいとはすこしも思わなかった。生きているのは,戦友におくれをとった感じさえしていた。『靖国であおう!』〔戦死してともに靖国神社に祭られる〕が合言葉だった」。しかし,この文句は「まさに『棄民の戦争』がもたらした非常な変化」註記)に無自覚なまま,洗脳されていた臣民の錯覚に過ぎなかった。
 註記)仙田 実・仙田典子『昭和の遺言 十五年戦争-兵士が語った戦争の真実-』文芸社,2008年,166頁,167頁,295頁,284頁。

 敗色が濃くなるにつれ,日本軍は国内の予備役や後備兵役の古兵・老兵をおおぜい召集し,戦地へ送った。いとしい妻子を家郷に残し,兵士たちは死地におもむいていった。戦況全般からみて生還はむずかしく,護国の英霊となるおのれの定めを,悲壮な決意と名状しがたい諦念にたくして,多くの者が遺書を書き残した。
 註記)仙田・仙田,同書,310頁。

 それでもなお,「日本は永遠の昔から永遠の未来まで万世一系天皇の統治する神国であり,これこそ世界に冠たる国体である」註記1)と信じられつづけてきた。この天皇が神聖である以上,日本帝国の戦いは侵略戦争といえどもすべて聖戦であり,その勝利を保証するのは天皇であるという不思議な国体観が作られていた。いいかえれば,戦いに勝つことによってもろもろの矛盾を隠し,天皇神聖の証明がなされてきたわけである 註記2)

 註記1)太田 龍『長州の天皇征伐』成甲書房,2008年,96頁。
 註記2)鹿島 曻『日本侵略興亡史』新国民社,平成2年,631頁。

 b)「8・15の敗戦」はだから,天皇を祭主とする国営=「陸海軍管轄下の靖国神社」に固有の任務を完全に否定した。ところが,天皇裕仁にかかわる「戦争:敗北責任の問題」を,A級戦犯として全面的に肩代わりしてくれていた東條英機らの,つまり「英霊」とはみなすわけにいかない「死霊:怨霊」が,この靖国神社に合祀され舞いもどってきたのでは,彼の立つ瀬がなくなった。

 昭和天皇は,敗戦直後の数年間における紆余曲折のなかで,戦争責任からひとまず免責され排斥できてもいた自身の「敗戦の事実(その責任)」を,いまさらのように想起させられ,苦悶した。A級戦犯靖国合祀は事後,彼が九段に出むけなくなるほどに堪えた出来事であった。これによって昭和天皇は,それまでは靖国神社において順調に果たしえてきた,それも彼以外には誰もなしえない「祭主の役目」を阻止された。

 いいかえれば,昭和天皇は,明治以来の戦争の過程で日本帝国が度重ねて吐き出してきた死者の大群(246万余名)に対しては,これらの犠牲者たちを「英霊」として意味づけるための “異端の神道的な儀式” を通過させたうえで,靖国神社という「戦没者用の新たな精神次元世界」に収容しておくかたちと意味を工夫し,提供してきた。

 そうやって国家側が戦場で死んでしまった「臣民たちの不満・不平」を鎮静させ,円満にとりこんでおく仕組は,まさしく彼らを「死なせておきながらに生かしておくカラクリ」を成立させていた。旧大日本帝国の立場からみれば,兵士たちを生きているときも死んだあとも使役できるという,いわば「2倍お得な臣民の男子」に対する動員法が利用できていた。

 ところが,A級戦犯の合祀は,そうした靖国神社のカラクリ(本来,戦争督励をするための「戦争・勝利神社である」という宗教的な機能:教理)を根幹から否定し,破壊する結果(相乗効果?)を生んでいた。この指摘はもちろん裕仁1人にだけ適用できる性質の「靖国問題」といえるわけで,この理解こそが靖国神社の存在意義をよりよく認識するための「要」になっていた。

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 さらにいいかえると,A級戦犯の合祀は,とりわけ昭和天皇個人の立場にとってみれば,「国家目的を事由に超克させるための靖国神道的な宗教行為」註記)が全面的に否定されたことを意味したゆえ,英霊とされていた「戦死=戦闘死・戦病死・餓死者だちの不幸・悲惨」は,そのいっさいを無に帰させられるような目に遭ったことも意味した。
 註記)ジョージ・L・モッセ,宮武実知子訳『英霊-創られた世界大戦の記憶-』柏書房,2002年,10頁。

 1945年8月9日深夜にもたれた「最高戦争指導会議」で昭和天皇は,ポツダム宣言受諾に賛成する理由として,一方でこのままでは,日本民族=赤子が滅びてしまい保護できない虞れ,他方で国体護持:伊勢神宮の神器がうしなわれる危険を挙げていた。しかし,昭和天皇が実際に採った結果は,だいじな赤子の1人ひとりでもある東條英機らを犠牲にしてでも,自分だけはその地位を保障され,生き延びる方途を選択した。
 註記)鹿島 曻『昭和天皇の謎-神として,人として-』新国民社,1994年,208-209頁参照。

 したがって,前段における説明のように,昭和天皇A級戦犯合祀後の靖国神社には足を運ぶことができなくなった。わかりやすくいえば,個人的に「朕はもはや靖国にいく理由をなくした,それに,その効果も期待できなくなった」のである。しかし,ごく単純に考えてみよう。かつての下々の臣民,いまの一般の庶民の気持からすれば,天皇戦没者遺族のために靖国に参拝することは,ふつうには歓迎すべき行為とされるはずである。

 c) ところが,裕仁天皇および明仁天皇は「そんなこと」よりも,「自分たち一族の意地」を,仕返し的・みせしめ的に靖国神社に投げつけている。「聖家族である彼ら」のしぐさではあっても,俗物根性まるだしの正直な人間的反応には,一種のほほえましさを感じてもよい。もしも,靖国神社A級戦犯の合祀を解いたとしたら再び,明仁天皇一家は九段に出むくことになるのか? 靖国側は合祀した英霊はこれを絶対に合祀以前の関係にもどすことはできない,と主張している。

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  出所)西田幾多郎http://blog.goo.ne.jp/teinengoseikatukyoto/e/60ca9671d8c8960161043b2407bdab21

 西田幾多郎は,第2次大戦が勃発して半年後に公刊した著作『日本文化の問題』(岩波書店昭和15年3月)のなかで,「皇道の発揮といふこと」「八紘一宇の真の意義」は「歴史的発展の底に,矛盾的自己同一的世界そのものの自己形成の原理を見出すことによって,世界に貢献せなければならない」ととなえた。
 註記)西田幾多郎『日本文化の問題』岩波書店昭和15年,82頁。

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 しかし,西田哲学によってそうして認識された日本帝国は,悟性的・論理的にみずからを解明する方途を受けつけず,この帝国に固有の矛盾が万邦無比の〈国体という玉手箱〉のなかに密閉されていた。 

 結局,敗戦という結末が,明治維新のさい用意されていたけれども,それまでは開ける必要のなかったその玉手(パンドラの)箱をひっくり返してしまった。われわれがいま眺めている「より開かれた日本皇室の現在」,そして「未来に向けて展望」されるべきその姿容は,〈その箱〉のなかに残されていたはずの “たったひとつの中身” として,どのようなものであらねばならないのか。

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