日本相撲協会や横綱審議委員会は外国人横綱がお気に召さないならば,日本人力士と外国人力士を別の土俵で取り組ませたら……

日本相撲協会は皇室との関係がある体育系国技だから,とくに神聖なる伝統があると思いこんでいるが,それでは剣道や柔道,弓道,空手道,合気道居合道は? 道々めぐりになりそうな話題
                   (2018年1月14日)

 

  要点:1 武道系のなんとか道 ……剣道・弓道・柔道・相撲道・空手道・合気道杖道居合道・長刀(なぎなた)道・銃剣道・殺陣(たて)道・跆拳道(テコンドー)などあり

  要点:2 文化系のなんとか道 ……茶道・書道・華道・香道などがあるが,歌舞伎や能,日舞は「何道」?

  要点:3 プロレス道?〔なんて〕ありうるかといえば,……ありうる人たちにはあるはず


 「〈日曜に想う〉角界に春風の吹く日を待つ」編集委員・福島申二稿『朝日新聞』2018年1月14日朝刊3面)

   イ) 力士の男ぶりはいろいろだが,そのたたずまいの魅力をひとことでいうなら「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」であろうと思う。辞書には,春風がのどかに吹くさま,性格や態度がゆったりとおおらかなさま,などとある。江戸期の俳人,高井几董(きとう)が〈やはらかに人分け行くや勝角力(かちずもう)〉と詠んだ句は雰囲気をよくとらえている。

 土俵の上の気迫みなぎる勝負は,むろん相撲の醍醐味(だいごみ)だ。しかし鬼の形相の土俵からひとたび下りれば,春風駘蕩を身にまとって悠々と振るまう。「おすもうさん」と肩に触れたくなる姿がいい。

 しかし,元横綱日馬富士の暴力事件に端を発した騒動は,相撲を春風駘蕩から遠いものにした。異様な醜状をさらしたうえ,余波も広がって,あろうことかモンゴル出身力士たちへの冷ややかな非難や雑言も目立っている。重く刺々(とげとげ)とした空気をひきずって,大相撲はきょうから初場所が始まる。

 ちょうど〔2018年から〕50年前,1968(昭和43)年の初場所は,外国人関取の草分け高見山の新入幕が話題をさらっていた。この場所,高見山は9勝6敗で敢闘賞を受ける。オールドファンの耳にはいまも「高見山,ハワイ・マウイ島出身」の場内放送が懐かしく残っていることだろう。

 当時の新聞は,健気(けなげ)に伝統社会に溶けこもうとする高見山を伝えている。最高位は関脇で幕内優勝が1回。十分強いが大関横綱には届かなかった。広く愛されたのは,人柄もさることながら,「出る杭」までには至らなかった微妙な塩梅(あんばい)もあってのことではなかったかと,少し皮肉な想像をめぐらせてみる。

   ロ) ここ一時期,相撲界は不祥事と道連れだった。またかの感もあるが今回は状況が違う。大看板の白鵬が当事者に含まれている。苦境の大相撲を一人横綱として支えた人がバッシングの渦中にいる。

 白鵬は15歳で来日した。何カ月もどの部屋からも声がかからず,あきらめて帰国する前日に宮城野部屋に「拾われた」のはよくしられた話だ。あとになって思えば,この奇跡のような紙一重に一番救われたのは,日本相撲協会だったろう。身から出た毒で徳俵に足のかかった大相撲を,双葉山に次ぐ63連勝を果たすなど無類の強さで引っ張ってきた。相撲人気は上げ潮となって盛り返した。

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  出所)https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13174501238

   優勝力士回数 第5位まで一覧 (2018年1月現在)※

 「1位 白鵬(40回)モンゴル出身」……2006年5月場所初優勝。ご存知,現在の角界の第1人者。ライバルなき土俵をひとりで支え,ついに史上最多の幕内優勝回数に。2017年11月には40回の大台に到達。連覇1回(2010年3月~2011年5月)。6連覇1回(2014年5月~2015年3月)。2017年5月場所,白鵬自身最長間隔となる1年ぶりの優勝。

 

 「2位 大鵬(32回)父親がロシア系」……1960年11月場所初優勝。「巨人 大鵬 卵焼き」の流行語にもなった大横綱。ライバル柏戸と柏鵬時代を築いた。6連覇2回達成(1962年7月~1963年5月,1966年3月~1967年1月)。

 

 「3位 千代の富士(31回)」……1981年1月場所初優勝。53連勝するなど1980年代は千代の富士の時代。惜しくも大鵬の優勝回数には届かなかった。5連覇1回(1986年5月~1987年1月)。11月場所は1981年から1988年まで8連覇。

 

 「4位 朝青龍(25回)モンゴル出身」……2002年11月場所初優勝。21世紀はじめの土俵を支えたモンゴルの蒼き狼。やんちゃし過ぎで早い引退に追いこまれたのは残念。7連覇1回(2004年11月~2005年11月)。2005年は初の年間完全制覇。

 

 「5位 北の湖(24回)」……1974年1月場所初優勝。史上最年少で横綱になり約10年綱を張りつづけ。横綱時代の強さは憎らしいほど強いといわれた。5連覇1回(1978年1月~1978年9月)。年間完全制覇にあと一歩及ばず。優勝決定戦敗退が5回。もしすべての優勝決定戦に勝っていれば優勝回数29回になっていた。
 註記)http://maruhon38.net/archives/6238 参照。

〔記事に戻る→〕 あのころの白鵬には,ほれぼれするような春風駘蕩の風情があった。土俵での態度や取り口など本人にも省みる点はあろうが,これほどの力士が,協会内のあつれきや,一部の排外的な空気のなかで色あせてしまうとしたら惜しいことだ。伝統はむろん大切だが,「日本人以上に日本人」を外国人力士の褒め言葉にする時代では,もうあるまいと思う。

   ハ) 騒動が続いていた昨年暮れ,朝日川柳にこんな句が載った。

    〈品格が有っても無くても評論家〉

    〈品格をふんぞり返って語る人〉

 10年ほど前,小紙が各分野の100人に「品格のある人とは」とアンケートしたら「品格などといわない人」という答えが複数あったのを思い出す。「品格」とはどうやら,いった者勝ちで人を叱りつけられる便利な言葉であるらしい。

 抱きあわせるように聞くことの多かった言葉が「国技」である。明治末に「両国国技館」ができて広まった言葉というから,それほど苔生(こけむ)して古いわけではない。当時の新聞によれは「国技という新熟語も妙だが,角力(すもう)ばかりが国技でもあるまい」という冷評もあったそうだ。

 今〔2018〕年は「明治150年」だが,文明開化期の相撲は存亡の危機にあった。急速に西洋化する世のなかで,裸体のような力士の姿が「野蛮」という批判にさらされた。禁止論まで湧いて出た。そうした歴史の波をくぐっていまの姿がある。時は流れて,番付表には外国人力士のしこ名が並ぶ。国技という言葉が排外のニュアンスをまとうことのないよう,いまは細心の注意を払うときだろう。

 そして,私たちは「是々非々」をもってファンの「品格」としたい。「非」に対してはものもいうが,是は是として勝負を楽しませてもらう。やっぱり春風駘蕩がいい。誹謗(ひぼう)や中傷は禁じ手である。(引用終わり)

 江戸時代であればおそらく,敗戦後史において勃興してきたプロレス興行となんら変わりなかった日本古来・伝統スポーツ団体の相撲業界が,いつのまにか皇室のおめがねにかなう〈国技〉となっていった。それは明治末期,20世紀の初頭のころだった 註記)。さらには,大正時代の末期には天皇からの下賜金の使い道を「優勝杯(賜杯)」の製作に見出した日本相撲協会(現在名)であった事情から,つぎのような経緯が生まれていた。

 註記・補注)「相撲が国技といわれだしたのは意外に新しく,明治42〔1909〕年からのことである。雨でも相撲の興行ができる初めての常設会場が両国に完成したのが明治42年6月」であった(眞石博之『「うっちゃり」はなぜ消えたのか-データが語る大相撲-』(日本経済新聞社,2000年,167頁)。

 当時,摂政皇太子であった昭和天皇裕仁)の台覧のおり下賜された奨励金から「摂政宮賜杯」(現在の天皇賜杯)を作った。 “興行主に過ぎない団体” が菊花紋章の入った優勝杯を使用するわけにはいかず,財団法人設立の許可を受けた。この許可も,そもそも団体の存在に公益性がないことからどうやらむずかしそうだとみて,あえて年末に申請して強引に許可を受けたという裏話が残っている。1925年12月28日に財団法人大日本相撲協会設立が許可される。

 註記)以上,https://ja.wikipedia.org/wiki/日本相撲協会

 補注)「下賜金」は1千円であった。これにそれまで蓄えていた皇室からの報奨金などを合わせて,賜杯が制作されたという。費用は3千円になったという記録がある。

 註記)「大相撲,賜杯のウラにも歴史あり『大正十六年』刻印」,抜井規泰稿,THE ASAHI SIMBUN DIGITAL 2017年5月15日12時00分,https://digital.asahi.com/articles/ASK5D5V60K5DUTIL03M.html

 前段のごとき説明は,「財団法人大日本相撲協会」の設立を手がかりにして,当時の相撲興行団体が「団体の存在に公益性がなかった」点を克服しようとした事情を記述している。現在は「公益財団法人」になっているものの,プロレスを興行する諸団体を参考にして比較すれば理解できるように,日本相撲協会も採算(営利)の問題を堅実に維持・進展させえないことには,事業経営体としてはうまくなりたちえない。この指摘は,百も承知だといえそうな財団運営のための前提条件である。

 しかし,それでも「日本古来の伝統である相撲」は「国技」であるとみなされ,いわば「皇室御用達」ならぬ「天皇天皇制)のメガネになかった」「日本の体育競技である」とみたてられた。

 だが,明治も末期,天皇天皇制に利用されうる相撲という競技には「特定の価値」性が付与されるようになっていた。明治帝政下に高唱された「神国日本」において,相撲という競技も “神聖なるものを支えるためのひとつの道具” になりうる点が,格別に着目されたわけである。しかし,なぜまた「その点」がとくに相撲でなければならなかったのかと問われたさいは,まず「明治天皇」に気にかけてもらったからであるし,さらに「昭和天皇が相撲が好きだった」からであると答えることもできる。

 

  裕仁と相撲

 裕仁学習院初等科時代から大変相撲好きで,強かった。「押しが得意で,足腰が思いのほかしっかりしておられたので,まともに押されると,なかなか威力があった」と,当時の侍従が受けた印象に語っている。彼は,相撲を好きになった理由を「初等科の時代に相撲をたびたびとったことが相撲を好きになったのだと思う」(1982年記者会見)と述べていた。 

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 裕仁が初めて国技館に観戦にいたのは,明治42〔1909〕年の初等科2年生のときであった。それから毎年4月29日の誕生日には赤坂の東宮御所海軍記念日(5月27日)には芝の水交社などに,力士たちを呼んでとり組ませてはこの相撲を見物していた。

 大正14〔1925〕年の誕生日,東宮御所でおこなわれた大相撲のおり,相撲協会に下賜金を与えていた。そのお金が幕内優勝力士のために優勝カップ製作のために使われ,「東宮賜杯(摂政賜杯)」として優勝力士に授与されるようになった。この優勝カップ天皇に即位すると「天皇賜杯」となり,現在も続いている。

 相撲は戦後の混乱期で一時中断していたが,テレビで実況が始まった昭和28〔1953〕年夏場所からテレビで観戦を楽しむようになり,1955〔昭和30〕年夏場所にはじかに国技館で見物し,1960〔昭和35〕年からは妻の良子(ながこ)も一緒に観戦するようになった。

 以上の説明にしたがえば,とくに明治以降において,それも「日本の相撲界と天皇裕仁との関係」をもって,「国技」とみなされてきた相撲であった。こういう理解が自然である。だが明治以前であれば,江戸時代における天皇家などは「禁中並公家諸法度,きんちゅうならびにくげしょはっと)にかこまれた生活環境にあったゆえ,相撲とは無縁であり隔絶していた。

 それ()は『公家諸法度』ともいわれたが,元和1〔1615〕年7月17日,江戸幕府によって制定された法令で,17ヵ条からなっていた。起草者は金地院崇伝,幕府が「天子は御学問のこと第一」と定め,以下朝廷・公家の地位を確定していた。朝廷の権威に対して武家の権威を確立した基本法武家諸法度』の場合とは違って,幕末まで改訂されることはなかった。

 

  相撲粗略史

 1)相撲節会の時代から将軍上覧相撲の時代へ

 史実として記録されるのは,皇極天皇1〔642〕年百済(くだら)の王族の使者をもてなすため,健児(こんでい)に相撲をとらせたことが 『日本書紀』 に書かれている。これが史実における相撲記事の始めとされている。

 神亀3〔726〕年,聖武天皇が伊勢大廟をはじめとして21社に勅使を遣わし,この年の豊作の感謝の意味をこめて諸社神前にて相撲を奉納した。天平6〔734〕年7月7日,聖武天皇野見宿禰当麻蹴速の試合の故事に因み,七夕の日,全国の相撲人を集めて宮中紫宸殿の庭で相撲をとらせた(『続日本紀』;読み方は「しょくにほんぎ」)。これが天覧相撲の最初の記録となり,このころが相撲節会(すまいのせちえ)の儀式の始まりとされている。

 また,宮中でおこなわれた相撲節会のほか,一般の庶民の相撲も大いにおこなわれていた。天下泰平・五穀豊穣・子孫繁栄・豊漁を願うため,あるいは吉凶を占うためなど,地方によりさまざまな相撲が現在に至るまでおこなわれることになる。

 延暦12〔793〕年のころより,天覧相撲が毎年恒例の催しとなったが,治承4〔1180〕年4月~寛治1〔1185〕年3月,源氏・平家の合戦が起こり,約400年に及んだ節会相撲の儀式が途絶えた。これ以後は「武家の時代」における『将軍上覧相撲』になった。この時期がたどり着いた天皇・公家側と相撲界との関係は,前述のごとき「禁中並公家諸法度」によって断絶させられた。

 2)興行としての勧進相撲の時代

 江戸時代に入るととくに,京都・江戸・大阪において興行としての勧進相撲が盛んにおこなわれるようになった。本来,勧進相撲とは神社仏閣の再建や修繕費用が必要な時,相撲の興行をおこない,興行収益の一部をそれに充てることを目的にした。

 当時,各地に相撲を生業(なりわい)とするいわゆる職業的な力士集団が生まれており,寄進をする勧進相撲に参加した。また,興行目的の相撲も勧進相撲と呼ぶようになったのは,幕府寺社奉行の許可を必要としたためであり,いわば特殊な事情があったゆえである。
 註記)以上『相撲の歴史』,http://www.e-shiki.jp/page.sumo.rekishi.htm 参照。

 「明治維新」以降,相撲は再び「皇室・天皇」の威光との関係を意識したかたちで登場することになるが,前段の『相撲の歴史』では早速,慶応4年(明治1年・〔1868〕年4月17日,大阪・坐摩神社にて明治天皇が京都力士を天覧した,という説明が出てくる。

 そして「大正14〔1925〕年4月 東京赤坂・東宮御所において摂政宮殿下(昭和天皇)の誕生日祝賀のための台覧相撲がおこなわれ,そのさいの御下賜金をもとに摂政宮賜杯(優勝賜杯)が作成されました」というふうな「天皇・皇室」と相撲界との関係ができあがっていった。

 日本の伝統的な「国技」であるという位置づけ=定義は,より正確には,以上のごとき「相撲の歴史」の概観のなかにおいて理解すべきである。明治時代は江戸時代の否定・反転・復活を基本線としており,相撲もこの世相の変遷に合わせて意味を違えられてきた。すなわち,明治時代になると意図的に,相撲と「天皇・皇室との親近性」が演出されはじめた。

 もっとも,古代・中世にあっても,天皇(大王)みずからが相撲をとっていたとはいえず,あくまで「相撲をとらせる・観る立場」にあった。中世において,輿に乗せられて外出する天皇自身が相撲をとったわけではない。その点では,昭和天皇がみずから相撲をとった・とらないの問題は,別枠に入れて観察したい論点となる。

 

 「〈書評〉星野智幸著『のこった もう,相撲ファンを引退しない』」朝日新聞』原 武史 評(放送大学教授・政治思想史)2018年1月14日朝刊9面「書評」

 

   ※ 力士の見事な技にこそ拍手を ※

 かつて,琉王という沖縄出身の力士がいた。1972年の沖縄返還後もしこ名を改めず,琉球の王を自称しつづけた。幕内の下位にいながら,ハワイ出身の高見山とともに,「日本人」で占められた角界に敢然と挑もうとしているようにみえた。それでも非難はされなかったと記憶している。

 ところが時代は変わり,いまや幕内上位はモンゴル人の力士が多くを占めている。それに伴い,「モンゴルに帰れ」という野次(やじ)が飛んだり,「日本人」力士に盛大な拍手を送ったりする光景が目立つようになる。つまり大相撲が,ナショナリズムを高揚させ,「日本人」の一体感をあおるような政治空間を作りだしているのである。

 本書で星野智幸は,相撲ファンの1人として,昨今のこうした傾向に警鐘を鳴らしている。相撲で重要なのは,国籍や民族ではなく技である。なまじ国技などという名称が定着してしまったために誤解されるが,相撲の技じたいは「日本人」でなければ体得できないものではない。観衆は,「日本人」力士が勝ったことに対してではなく,どの力士であろうが見事な技で勝ったことに対して拍手を送るべきなのだ。

 補注1)横綱白鵬がかち上げ「技」を頻繁に使うといって,最近は非難される材料になっている。それならば当然,「かち上げ」は相撲の技からなくせばいいという意見も出てきた。技として認めているけれども,横綱が多用するといけないのだという理屈になっていて,とくに白鵬を批判する理由になってもいる。大砂嵐というエジプト出身の力士もよくかち上げをかましていたが,とりたてて非難されることはなかった。

 補注2)かち上げ(かちあげ,搗ち上げ)とは,相撲の取組などにおいて用いられる技術であり,主に前腕をカギの手に曲げ,胸に構えた体勢から相手の胸にめがけてぶちかましをおこなうなどのかたちをとる。プロレスなど肘打ちが認められる他の格闘技やアメリカンフットボールなど格闘技以外のコンタクトスポーツなどでも,同様の技術がみられる。

〔記事に戻る→〕 きわめてまっとうな議論である。この議論は,大相撲のみに当てはまるわけではない。オリンピックにせよノーベル賞にせよ,「日本人」が活躍したり受賞したりすることばかりが注目される。代替わりを控え,日本のアイデンティティーの中核に位置づけられてきた天皇の存在感も増しつつある。より大きな時代の文脈のなかに置きかえてみることも必要だろう。

 本書の刊行後,モンゴル人力士の飲み会での暴行がきっかけとなり,日馬富士が引退に追いこまれた。おそらく著者は,これを機に大相撲が一気に瓦解へと向かうことをなによりも恐れているに違いない。琉王が堂々と琉王を名乗っていた時代は,もうとっくに忘却されているのだ。(引用終わり)

 この星野智幸著『のこった もう,相撲ファンを引退しない』は,原 武史が強調するように「琉王」の存在に言及するしかたに特徴がある。この指摘は「外国の人が枡席で楽しそうに相撲観戦,この光景にまだ『日本人』をもち出すのか」という疑問に通じてもいる。「日本の国技」という想念にこだわりすぎると,ろくなことにならないと警告している。

 日本の国技だった柔道は現在,どのような国際競技になっているか? 剣道の世界への普及具合は? 空手道もしかり。だが,内外の関係(方向性)を逆にして一度考えなおしてみるのもいい。外国から日本に入った野球(道?)やサッカー,テニスなどについて,とくに野球のことを「アメリカの国技」というか? アメフトのほうがよほどあの国の国技らしくもみえるし,バスケット・ボールも非常に盛んである。あえてわざわざ国技だということもあるまい。

 日本の場合, “国技” といわれた瞬間から,なんらかの「神聖の観念」が潜りこんでくる。その底にはまた「天皇だとか皇室だとかいった人間模様」が,それも神がかり的(惟神:かんながらに)に入りこんでくるから,話がややこしくなる。天皇家が日本の『「なんでも屋」の総本家』でなければならない決定づけ(因縁づけ)をしたいらしい御仁がわんさといる。いわゆる天皇賞天皇杯はけっこうな数がり,また「 × × の名誉総裁」などには数多くの皇族たちが就いてもいる。

 「伊之助,夏場所後に辞職 3場所出場停止の処分 セクハラ問題」朝日新聞』2018年1月14日朝刊 

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     出所)https://mainichi.jp/articles/20180106/ddm/041/040/135000c

 日本相撲協会は〔2018年1月〕13日,東京・国技館で臨時理事会を開き,若手行司にセクハラ行為をした立行司の第40代式守伊之助(58歳,画像)=本名野内五雄,大阪府出身,宮城野部屋=に対し,3場所出場停止の懲戒処分をいい渡した。行司の最高位が不祥事で処分されるのはきわめて異例。すでに伊之助からは辞職願が出ており,協会は5月の夏場所後に受理する。

 出場停止は7段階ある協会の賞罰規定で5番目に重い。夏場所後まで伊之助は無報酬で,自宅謹慎になる。巡業も参加できず,再び土俵で裁くことはない。八角理事長(元横綱北勝海)は辞職願の受理を遅らせる理由を「反省する時間を与えるため」と説明。理事会に出席した伊之助は「ファン,協会,一番には(被害者の)行司に申しわかない」と謝罪したという。

 協会によると,伊之助は先月,冬巡業があった沖縄県内で泥酔。10代の行司の唇を数回なめ,胸部を1回触った。すでに謝罪し,行司とその親に処罰を求める意向はないという。14日初日の初場所立行司が不在となるため,三役格の式守勘太夫が結びを裁く。15日間を通じて立行司が不在となるのは1994年春場所以来。

  ♥ 参考記事-こちらはお咎めなし,だった?- ♥

 

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  出所)https://twitter.com/okada014/status/502085507610722304

〔記事に戻る  ↓  〕

  ファン離れの危惧も ※

 重苦しい空気を帯びたまま,初場所は〔2018年1月〕14日,東京・国技館で初日を迎える。傷害事件で引退した元横綱日馬富士につづき,行司のトップもスキャンダルで不在に。両陛下の相撲観戦を辞退するなど,不祥事の余波も出ている。

 「ファンの皆様,関係者の皆様には大変申しわけなく思っています。申しわけありませんでした」。13日,セクハラ行為で立行司式守伊之助に処分を下したあとの記者会見で,八角理事長は頭を下げつづけた。

 昨〔2017〕年11月に発覚した日馬富士の傷害事件で関係者への処分を終えたのが今年1月4日。その翌日,伊之助のセクハラ行為が明るみに。これが決定打となり,天皇皇后両陛下を初場所中日(21日)に招く計画を断念した。

 若手力士の台頭もあり,初場所の前売り券は,昨〔2017〕年12月初旬に完売。懸賞の申込数にも陰りはみえていないものの,相次ぐスキャンダルに「こんどこそファンが離れるのではないか」と危惧する親方もいる。八角理事長は「なんども繰り返して指導をしていく」と厳しい表情を崩さなかった。(引用終わり)

 「天皇皇后両陛下を初場所中日(21日)に招く計画を断念」させた,この立行司の第40代式守伊之助(58歳)による若手行司に対するセクハラ行為「事件」は,天皇家・皇族方にとっては『好ましくない出来事(事件)であった』という “理屈(関係づけ)” が,あえてなされたかのようにも感じられる。しかし,そうした ”理屈(関係)” が仮にみいだせたとしても,その出来事(事件)じたいが「この出来事(事件)なりのそれ」なのであり,換言すれば「最近の世の中ではよくあるそれ」の「ひとつであった」としかいいようがない。

 いずれにせよ,たとえそういった出来事(事件)があったとしても,天皇や皇族との関連が “少しでもありそうな(?)ことがら” になると,ともかくも,そのいちいちについて「好ましくない・なにか」が微細にでも含まれているのではないかと,神経質にとりざたされねばならなくなっている。しかし,深く考えるまでもなく,そこにはとても不思議な,初めから因果の把握すら困難な思考回路ができあがっている。

 「土俵の上は神聖」であるから女は昇らせないという理屈と,女系・女性天皇を認めない「現在の皇室典範」とが,同質同類である「男女差別の,それも合理的に説明できないなにか」を抱えこんでいる事実は,誰も否定できない。外国人力士への差別に相当する意識や行為が日本相撲協会のなかにないといったら,大間違いになる。外国人力士の問題は,実は在日問題のひとつとして,ずっと昔から実在してきた。力道山が有名であるが,この日本のプロレス業界を創業した在日韓国・朝鮮人力士以外にも,多くの在日力士がいて,活躍もしてきている。

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