昭和天皇,ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下,戦争責任,日本国憲法

       昭和天皇ヒロシマナガサキへの原爆投下

                  (2010年10月27日)

 

   要点:1 天皇ヒロヒトの戦争責任

   要点:2 奥田博子『原爆の記憶-ヒロシマナガサキの思想-』2010年6月

 

  広島・長崎への原爆投下

 1) 原爆と天皇

 本日〔2010年10月27日〕とりあげる奥田博子『原爆の記憶-ヒロシマナガサキの思想-』(應義塾大学出版会,2010年6月)は,旧大日本帝国が起こした大東亜戦争期の終末部分に発生した重大局面=「ヒロシマナガサキへの原爆投下」を論究する著作である。本書の宣伝用に書かれた解説は,こうなっている。改行箇所は無視して引用する。

 敗戦 / 終戦,そして原爆投下から65年。戦後の日本社会において,ヒロシマナガサキは,一体何を象徴し,神話化してきたのか。本書では,日本の戦争被害者意識を正当化する「唯一の被爆国 / 被爆国民」という「集合的記憶」を構築し,自らの戦争責任や戦争犯罪に対して免罪符を与えようとしてきた日本政府やマスメディアが,被爆地をどのように表象してきたのかを詳細に分析する。原子爆弾の投下と被爆の人類史的意味を批判的に検証していくなかで,国境と世代を越えて,ヒロシマナガサキを私たち自身の問題として引き受け,考えていく意義を明らかにする。

 同書の目次はこうである。

 第1部 軍都「廣島」「長崎」からヒロシマナガサキ
  第1章 なぜ広島と長崎が原子爆弾の投下目標となったのか?
  第2章 広島と長崎では何が起こったのか?
  第3章 広島と長崎はどのように想起/忘却されてきたのか?


 第2部 日本のなかの「ヒロシマ」「ナガサキ
  第4章 爆心地を再生する-広島と長崎の戦後復興-
  第5章 歴史 / 物語を保存する-広島平和記念資料館長崎原爆資料館
  第6章 記憶を記念=顕彰化する-広島平和記念式典と長崎平和祈念式-
  第7章 過去と物語・記憶を表象する-全国紙 vs. 地方紙;原爆体験を思想化する-かつて,いま,そしてこれから-


 第3部 グローバル化のなかのヒロシマナガサキ
  第9章 検定歴史教科書のなかの原爆投下
  第10章 「記憶の場」のなかの原爆体験
 結 論

 あくまで学術書として執筆された『原爆の記憶-ヒロシマ / ナガサキの思想-』は,昭和天皇の戦争責任そのものを直接問うかたちではないけれども,当時における戦争事態の進展状況に即して,関連する重大な論点を考察している。本書に関してはまず,本ブログの筆者が注視する記述部分を抜き出して検討をくわえたい。それは「昭和天皇に関して使用されている修辞」である。〔甲〕と〔乙-1・2・3・・・・〕にその引用(箇所)を示し,本ブログ筆者の寸評も添えておく。

 〔甲〕昭和天皇,皇后両陛下が九州を巡礼された1949(昭和24)年5月26日,『浦上の原子公演」に六角型の原爆資料保存館が完成した」(133頁)

 --「両陛下」という表記は,はたして,奥田『原爆の記憶-ヒロシマナガサキの思想-』のような「学術書の体裁」で執筆された著作においてふさわしいものか。答えは明らかに〈否〉である。この箇所には同時に,奥田の本書のなかで〔本ブログの筆者が〕唯一,みいだしえた「天皇夫婦に対する〈敬称〉用法」=『巡礼された』という表現も現われている。

 この「された」は,けっして受動形ではなく「敬称表現」である。学術書である本書の性格に鑑みて,このような敬称表現を「天皇夫婦(昭和天皇,皇后両陛下)」だからといって使用するのは,研究者の採るべき基本的な作法として不適切である。その守るべき手順に照らして逸脱している。

 もっとも,たった1箇所にだけ出てきた「天皇が × × された」という記述に,それほど剥きになってこだわる必要ないのではないかと,そういぶかる向きがあるかもしれない。しかし,出版社の編集部も,原稿や校正段階においてなんどもこの敬称表現をみてきたはずである。その不統一に気づかないほうがおかしい。

 〔乙-1〕「原爆投下後初めて広島に足を踏み入れた天皇は『市民広場』,かつての護国神社前広場に設置された市民奉迎場で『本日は親しく広島市の復興の跡をみて満足に思う。広島市の受けた災禍に対しては同情に耐えない。われわれは,この犠牲を無駄にすることなく,平和日本を建設して,世界平和に貢献しなければならない』と『御言葉』を述べた」(158頁)

 --広島・長崎への原爆投下など,戦争責任を問われたときヒロヒト氏が答えた「御言葉」は,そのような「文学方面」の〈ことばのアヤ〉については「答えられない」という返事であった。しかし,敗戦後4年近くが経過した時点で広島市を訪問したときの彼は,「広島市の受けた災禍に対しては同情に耐えない」「この犠牲を無駄にすることなく・・・」と語っていた。まさしく「自身の利害」中心の発想にもとづいて,そのつどに発言をしていたことになる。

 つまり,昭和天皇は,広島「市民」個々人の受けた災禍ではなく,広島市全体の戦争被害に言及したに過ぎない。また〔おそらく日本有数の「軍都であったこの市」を念頭に置いて〕広島市「の犠牲を無駄にすることな」い方向において,敗戦後における日本の政治社会を要領よく生き延びていくことができた「自身の立場」を念頭に踏まえての,そのような〈語り口〉であったといえる。

 〔乙-2〕「1959年3月28日,無名戦士の墓として計画された千鳥ヶ淵戦没者墓苑の竣工式の折,政府主催の戦没者追悼式が昭和天皇皇后陛下の出席のもとでおこなわれた。この追悼式において,昭和天皇は『さきの大戦にさいし,身を国家の危急に投じ,戦陣にたおれた数多くの人々とその遺族を思い,つねに哀痛の念に堪えない』と『お言葉』を読み上げた」(注,433頁上段)

 --「お言葉」(「御言葉」)の「〈お:御〉という語」そのものには,もちろん「政治的な意味合い=特定の語感」がつきまとっているけれども,必ずしも過剰な敬称とはいえない。庶民のわれわれ自身も,日常生活のなかでは,あれこれそれ「お:御」を冠した〈ことば:単語〉を数多く使っている。ここでは,天皇の発する文句をそのように「お言葉」と捕捉する現象には,ひとまず過敏に反応しないでおく。とはいっても,あくまで「彼の発することばに付けられる敬称〈お:御〉」である事実は忘れないでおきたい。

 いずれにせよ,あいかわらず「昭和天皇皇后陛下」という絶対的な尊称が,格別に疑問を抱かれることもなく,自然にかつ無条件に使われてきている。それが日本社会に流儀でもあるのか。内閣総理大臣とか官房長官とかいった政府行政関係の職名・地位は,これじたいに〈尊敬〉の含意はない。しかし,天皇・皇后「両陛下」となると,これは〈封建遺制〉である呼称を,いまの時代にまでそのまま延長して使用している。「天皇・皇后」という表現じたいからして,「時代がかった,前世の政治」における〈特別の立場〉を表意する概念である。

 〔乙-3〕「1989年1月7日,大日本帝国の敗戦と連合国による占領を経てもなお退位することなく63年余にわたって在位にあった昭和天皇裕仁が87歳で逝去した」(注,436頁上段)

 --敗戦後の世の中に突如「神様から人間となって」,天下り的に,それも以前と同じように〈天皇の地位〉そのものに居すわりつづけたのが,ヒロヒト氏であった。彼自身が信じているつもり「万世一系」の皇統譜,および「三種の神器」は,敗戦後も護りとおしてきた。

 ちまたでは「民主主義と平和の憲法」だと理解されている「日本国憲法の第1条から第8条」までの規定は,天皇ヒロヒトをまだ「特別に最高の人間である」かのようにあつかう日本の社会を継続させている。 1946年元旦,占領軍との駆け引きのすえヒロヒト氏は,「自分は生き神様ではない」けれども,祖先(天照大神)をもつ「日本の天皇であることにかわりはない」という「人間宣言」をしていた。

 明治天皇の孫である彼が1989年1月7日に死んだ。日本の代表的な新聞紙は,この出来事をどのように報道=表現していたか。その日:1989年1月7日の『朝日新聞』号外は,見出しを「天皇陛下 崩御 87歳,未明ご容体急変」「皇太子明仁親王ご即位」「激動の昭和終わる」と付け,本文では「天皇陛下は,〔1989年1月〕7日午前6時33分,十二指腸部の腺がんのため,皇居内の吹上御所崩御された。お年は87歳だった。在位期間は62年に及んだ」と報じた。

 2) 天皇の死:崩御という表現

 新聞協会の「皇室関係用語集」は「天皇,皇后,皇太子,太皇太后が死去した場合の用語例示」を,①崩御,②ご逝去,③ご永眠,④お亡くなり,⑤ご死亡」などと定めている。ところが,1989年1月7日の出来事について「崩御」を使わず「ご逝去」にしたのは,新聞協会加盟する新聞社114社のうち5紙のみ,沖縄タイムス琉球新報長崎新聞日本海新聞,苫小牧民報であった。はっきりいえばこの5つの新聞社以外は,どちらかいえば〈おっかなびっくり〉の体で,〈他社の出方も気にしつつ〉無難に,昭和天皇の死を「崩御」という文字をもって報道していた。

 崩御という表現は,封建時代の王家(皇室)における「天皇太皇太后,皇太后,皇后の死去をさす公式用語」である。「とくに使用が強制されているというわけでもない」「これらの語を」,「日本のマスコミ報道や公的な文書・説明は,ごく一般的に使用している」。人権だとか平等だとかいった政治・社会の問題に,つねひごろ対処している代表的な言論機関:新聞社であるが,ことが天皇・皇室関係の報道姿勢となると,自社の報道が封建時代の用語を疑問を抱くこともなく(?),それらの公式用語を使用している。

 天皇の死にさいして「崩御」というごとき〈古代国家的な弔意表現〉を過大に含ませる修辞は,人間を差別してはいけないという〈常識的な社会観〉をもちだすまでもなく,しごく容易に理解できる性格を有している。それはいわば〈過敏であり,無用な用法〉である。日本は民主主義の政治体制を採る国家である。だから,同じ人間である「天皇に特別の敬意を払いたくない」という思考回路を有する人たちもいる。

 彼らにとっては,天皇の死を「崩御」と形容する新聞社の報道姿勢は,とうてい納得のいかない〈人間逆差別〉である。そもそも天皇の問題になると突如,そのとりあつかいにおいては神経質になる。分かりやすくいえば,〈不敬罪〉などない現代であるにもかかわらず,天皇一族に対して〈不敬的な言動〉になるのではないかと絶えず恐怖しながら紙面作りをしている。

 

  NHKと天皇問題

 1) 永田浩三『NHK,鉄の沈黙はだれのために-番組改変事件10年目の告白-』2010年7月

 本書(柏書房・発行)は,こう解説されている。なお,永田浩三(1954年生まれ)は,NHKを退職したのち,2009年4月に武蔵大学社会学部教授に就任していたる。

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   出所)http://ghq.club/?p=1239

 事件から10年がたとうとしているいま,あらためて,NHKはだれのためにあるのかを問いたい。沈黙はなにも解決してくれない。毎日毎日人の道を説き,社会のありようを提言しつづける放送局が,ふだんの多弁とはうって変わって沈黙を守りつづけるのは,どう考えても不自然だ。いま,すべてが語られねばならない。番組はなぜあれほど無惨に書き変えられたのか。事件後になにがおこなわれ,なにがおこなわれなかったのか。

 事件の現場にいた人々  わたしたちはいまも過ちを続けている

 伊東律子さんの死,永遠の沈黙のはじまり  楽観主義と議論不足が火種を生んだ

 番組はこうして改ざんされた  やがて虚しき裁判の日々

 だれが真実を語り,だれが嘘をついているか  慰安婦問題と天皇の戦争責任について

 番組制作の現場を離れるとき  これからの放送,これからの言論のために

 永田浩三は,この『NHK,鉄の沈黙はだれのために-番組改変事件10年目の告白-』2010年を執筆・公表し,こういう疑問を世間に投じている。本書に関して,以下に参照するような〈読書感想〉に聞いておこう。実をいえば,「日本の天皇天皇制」の問題,それも「天皇の死」を〈崩御〉と報じる大新聞社の『社会の木鐸』性の真価が,あらためて問われているのである。

 政治家たちの圧力によって,従軍慰安婦問題を正面からとりあげた特集番組の内容が改ざんされた「NHK番組改変事件」。発生から10年の月日が流れたいま,事件の核心をしるプロデューサーが事件の真相を告白。・・・本書の主題は 2001年に起きた「NHK番組改編事件」の当事者による告白ということらしい。その番組は,日本の戦時下における慰安婦問題を裁く民間法廷の判決と,そこに至る過程を描くドキュメンタリー,というもの。

 

 しかしそれは,ドキュメンタリーの企画としてみれば,そもそも企画じたいが,真実や真相にたどり着けそうにないことは容易に想像できるだろう。本書も,伝えたい事実にたどり着くまでに,かなりの紙幅を費やしているが,それが効果的とは思えなかった。

 

 とはいえ,この番組の製作過程で政治家の圧力があったこと,それを報じた朝日新聞の記事が誤報であったというNHKの主張は虚偽であること,朝日新聞から流出した取材テープは朝日側が正しいことを裏付けていること,といった点が筆者の主張として提示される。これは,おおむね正しいのだろうとは思うし,当時,一般の読者や視聴者は,そうしたことは感じとっていたと思う。
 注記)http://thelightoflondon.txt-nifty.com/book/2010/08/post-b923.html

 本ブログ筆者の記憶にもまだかすかにあるが,当時,この問題をめぐっては,NHKと朝日新聞とのあいだで言論機関としての争闘があった。とりわけ,NHK側の見苦しくかつ聞き苦しい自己防衛本能的な発言がめだっていた。前段の読書感想は,10年ほど以前に起きた「NHK番組改編事件」の核心をうまく指摘できていない。そこで,政治思想史を専攻する大学教員が記したもうひとつの読書感想を聞いてみたい。

 2) 問題の核心(中島岳志北海道大学准教授・南アジア地域研究,政治思想史,2010年10月3日記述。中島の肩書きは当時)

 永田浩三『NHK,鉄の沈黙はだれのために-番組改変事件10年めの告白-』2010年は,「意思決定の真相に当事者が迫る」という題名で,こう論じている。

 NHKの番組改変事件から10年がたとうとしている。ETV2001特集「戦争をどう裁くか」の2回目「問われる戦時性暴力」が,直前に改変されたこの事件は,大物政治家からの圧力問題にまで発展した。番組が扱った内容は,慰安婦制度の責任を議論する「女性国際戦犯法廷」。2000年12月に都内で開催された民間法廷で,一部の右派が強く反発した。著者はこの番組の担当プロデューサー。現在は,すでにNHKを離れている。

 

 本書は,事件の当事者が「改変」の真相に迫るドキュメンタリーだ。彼は,当事者でもしることができなかったNHK幹部の意思決定にメスを入れる。自分が直面した問題と向きあい,事件の暗部を掘りさげる。問題の焦点は,政治家からの圧力の有無と幹部の意思。

 

 公共放送であるNHKは,事業計画や予算が国会で審議され,承認を必要とする。そのため,権力との距離がつねに問題になる。この番組に対しては,一部の政治家が「偏向している」との懸念を示した。右翼によるNHKへの抗議が激化するなか,幹部は与党政治家と会談をおこない,番組改変の流れが加速する。

 

 事件後の高裁判決と局内有志の検証では,幹部のいきすぎた忖度が問題視された。政治への過剰反応が具体的な改変へとつながり,重要な場面のカットが断行されたというのである。

 

 著者はさらに深く真相に切りこむ。改変の意思決定の中心人物の1人に伊東律子番組制作局長がいた。著者は伊東氏に真相を聴き出すべく迫った。伊東氏は沈黙のあと,いった。「じゃあいうわよ・・・。会長よ」「えっ,海老沢会長ですか」「そう,会長。それ以上はいえない」。伊東氏は昨年,鬼籍に入った。

 

 当時の放送総局長は一切を語らず,海老沢氏も沈黙を続けている。著者がこじ開けようとしても揺るがない「鉄の沈黙」。問題の核心がみえないまま,事件は忘却されようとしている。メディアと権力,そして表現の自由の揺らぎ。我々は,この事件を放置してはならない。
 注記)http://book.asahi.com/review/TKY201010050118.html

 中島岳志が「鉄の沈黙」との表現を充てて示唆した「日本の権力構造の深淵」に目を向ける必要がある。問題は,あの戦争の時代にさかのぼる。朝鮮人女性を軍隊における性的奴隷に使役した旧日本帝国に集約されるのである。その日本帝国を,立憲君主という最高・頂点の立場から,形式的にも実質的にも支配していたのが,天皇裕仁であった。彼女ら=「従軍慰安婦」の数はまだ不詳の状態である。旧日本兵の遺骨収集に割く時間と労力の千分の1でもいい,従軍慰安婦の実態調査に振りむけるべきであるが,もともと日本国側にはその気など皆無であった。

 1965年11月20日,選挙区の集会(秩父郡軍恩連盟招待会)で荒船清十郎は,「朝鮮の慰安婦が14万2000人死んでいる。日本の軍人がやり殺してしまったのだ」と発言した。「従軍慰安婦」として強制動員された「彼女らの歴史の一部の事実」をとりあげたNHKの特集番組が,ETV2001特集「戦争をどう裁くか」の2回目「問われる戦時性暴力」であった。

 --旧日本軍が従軍慰安婦をどのくらいの人数調達していたか。これについては,つぎの議論が参考になるので紹介しておく。さきまわりして断っておくが,これら女性の約25%のみが生きのびることができたといわれるゆえ,荒船清十郎が口に出していった従軍慰安婦は「14万2000人が死んで」おり,これにプラスするに「5万人前後が生還」という結果があったとすれば,以下の引用最後に出てくるその合計「20万人という数字」に近い数字が読めることになる。

 従軍慰安婦が20万人いたという明確な根拠はなく,文字どおり「いわれている」だけである。誰がいったかというと,荒船清十郎という放言癖のある自民党代議士。右翼の権化みたいな人だから,ネット右翼の皆さんからも文句は出ないだろうということで示した数字である。朝鮮総督府にもつながりがあった人物であるから,なにか根拠でもあったのかもしれない。

 それとは別にいちおうの裏付けがある。関特演の補給を担当する関東軍司令部第3課の課長だった原善四郎中佐が,85万人の将兵へどれくらいの従軍慰安婦を動員すればよいかを算出し,2万人という数を報告したことがしられている。慰安所が日本軍全体にゆきわたっていたことは明らかであるから,兵隊40人に1人の慰安婦というとき,その算定基準を15年戦争の期間中に動員した将兵数300万にあてはめると,連行された全従軍慰安婦はほぼ9万人という数字が出てくる。

 ここでまた,慰安婦が勤続15年とは考えられないので,途中で交替があったとすればだいたい20万人くらいが慰安婦になった女性の総数ということになる。奇しくも荒船発言と一致した数値である。

 慰安婦数の推計は秦 邦彦も試みている。日本国内の職業統計を根拠に2万人という1桁少ない数値を出している。だが,「実人数」と「延べ人数」とを混同する誤りを犯している。秦が仮定する「月1回の利用」で,秦方式の計算をやりなおすと19.2万人という数値が出てくる。これまた,荒船発言と一致する。つまるところ,20万人という数値に信憑性があるわけではないが,いずれにしても相当な人数だったことは間違いない。
 注記)http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/arafune.html 参照。    

 NHKの特集番組「問われる戦時性暴力」が制作・報道される過程のなかで発生した〈問題の構図〉は,『昭和天皇と「従軍慰安婦」とのあいだ』に介在する右翼や自民党政治家の闖入を明示させていた。「従軍慰安婦」は旧日本帝国の恥部である。この恥部をさらすことは,天皇天皇制をいまも維持しているこの国:日本にとって,たいへん好ましくない。

 この「問われる戦時性暴力」は,日本の恥をわざわざ世間にしらしめる企画ゆえ,放送することは好ましくないとみなされた。そこで,中川昭一安倍晋三のような自民党の有力政治家が〔安倍は首相まで勤めた〕,NHK関係者を呼び出して直接干渉し,その番組を改変させる事件が起こされたのである。もっとも,この2人は自分たちの関与を認めようとはしなかった。

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  出所)写真は中川昭一http://www.google.co.jp/images?q=中川昭一 より。

 NHKのいいぶんは,みずからが政治家のほうへ出向いて「番組改編」につながる対応をおこなったといっていた。つまり,事件が生起した当初にいわれたような「政治家(中川昭一安倍晋三)からの容喙があって」番組を改変させられたという筋書きとは,正反対の説明がなされた。それはともかく,問題の核心がいったいどこにあるのかをよく考えたうえで,2001年の「問われる戦時性暴力」というNHKの特集番組が「改変」されたかを吟味してみればよいのである。

 3) 天皇のための軍性的奴隷従軍慰安婦

 永田浩三『NHK,鉄の沈黙はだれのために-番組改変事件10年目の告白-』に戻って聞こう。永田は,日本の右翼でも有名であった赤尾 敏(1899-1990年,日本の右翼政治家・衆議院議員大日本愛国党総裁)を挙げて,「右翼としては珍しく,天皇の戦争責任を明言したひとりである」と記述している(242頁)

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  出所)http://akaobin.tripod.com/ より。

 永田は,元長崎市長の本島 等(1922-2014年 )という政治家にも言及している(238-239頁)ウィキペディアを参考に,本ブログの記述に関連する事情を聞くことにしたい。

 a) 教員生活を経てから本島は,長崎県議会議員を5期20年務め,長崎市長になった。その間,自民党長崎県連合会幹事長なども務めた。

  b) 昭和天皇が重病で余命が長くないとしらされ,国中に自粛ムードが漂っていた1988年12月7日,市長3期目の在任中だった本島は,市議会で共産党議員の昭和天皇の戦争責任に関する意見を求める質問に対し,海外の記事や自分の従軍経験から考えて,こう答えた。「戦後43年経って,あの戦争がなんであったかという反省は十分にできたと思います・・・。私が実際に軍隊生活をおこない,軍隊教育に関係した面から天皇の戦争責任はあると私は思います」 。

   本島等長崎市長天皇の戦争責任」発言 ★

 

 1988年12月7日「長崎市定例市議会における柴田朴議員(共産党)の一般質問」

 

 「敗戦半年前天皇に出された “近衛上奏文” が聞き入れられておれば沖縄戦、広島、長崎原爆もなかったはず。天皇の戦争責任について被爆市長としてどう思うか」

 

 『本島等市長の答弁』 ⇒「戦後43年立ち、この戦争がなんであったか反省が十分できてきた。外国人の記述、日本の歴史家の記述、私自身が軍隊生活で教育関係に携わってきた経験からも天皇に戦争責任はあると思う」。
 註記)『長崎新聞』1988年12月8日。

  c) 本島市長は,同日の記者会見でも,「天皇重臣らの上奏に応じて終戦をもっと早く決断していれば,沖縄戦も広島・長崎の原爆投下もなかったのは歴史の記述からみても明らかです」と重ねて発言した。その直後に,自民党県連などが発言の撤回を要求したが,本島は自分の良心を裏切ることはできないとして,これを拒否した。

 d) 自民党県連は,本島市長を県連顧問から解任し,多数の保守系組織も市長を非難した。また,多数の右翼団体長崎市に押しかけ,80台以上の街宣車を使用して市長への「天誅」を叫んだ(菊のタブー)。

 1990年1月18日,警備費用がかかりすぎるとの自民党市議の批判を受けて警察が警備を緩和したときに,右翼団体『正気塾』の田尻和美が本島を背後から銃撃した。奇跡的に命をとりとめた本島であったが,その後,瀕死の重体になっていたにもかかわらず,「犯人を赦す」と述べていた。

 以上,右翼の赤尾 敏,自民党の元長崎市長の本島 等というような,当該陣営のなかではごくまれにしかいない,それも「天皇の戦争責任」を端的に認定する〈政治思想〉を紹介した。とくに,本島はカトリック信者として〈菊のタブー〉にとらわれない言説を披露したがために,警察が警備の手をゆるめたときに狙撃されるという,あたかも仕組まれていたのでないかと勘繰りたくなる凶悪事件の被害者になっていた。

 ここまで話を進めれば理解できると思うが,2001年のNHK特集番組「戦争をどう裁くか」2回目「問われる戦時性暴力」は,旧日本帝国軍隊の「性的奴隷」の問題と介して,いまも現存する「日本の天皇天皇制」を直撃した批判を放つものであった。それがゆえに,右翼や自民党政治家(幹部)たちがやっきになって,それこそ束になってかかり,その番組内容のなかから「天皇の戦責問題」の核心に迫まる「従軍慰安婦」に関した報道部分の削除・改変を迫り,これを実現したのである。この出来事によって逆に,天皇の戦争責任のありかが,かえってより明確になったのは皮肉ではなく,ことの必然的ななりゆきであった。

 

  結 論

 NHKのチーフ・プロデューサーであった永田浩三〔たち〕への圧力は,もちろん平成天皇みずから意図したわけでも発したものでもない。けれども,この天皇に「あるとも・ないとも」いうべき意向を,以心伝心で実現させようとしたのが「右翼や自民党政治家たち」であった。

 彼らは,いまどきの世の中にあってあたかも「天皇への不敬罪」を自主的に認知しえたかのように,しかも頼まれもしないのに,番組を改変させるという妨害行動を勝手に実行した。そのさい「天皇問題をめぐって右翼・自民党政治家」が起こした政治行動に対応する方向で,その番組改編のために力を貸す存在となった人士が,ほかでもない,NHKの最高幹部たちであった。当時のNHK〔日本放送協会〕第17代会長は,海老沢勝二(1934年- )であった。

 2001年当時における「日本のエスタブリッシュメント」〔→社会的に確立した制度や体制,またはそれを代表する支配階級・組織〕は,戦前・戦中の政治体制と具体的には大きく異なっていた。だが,天皇を頂点に戴いている〈つもりの日本の政治の理念的な全体像〉の基本特性に,変わりはない。

 天皇という頂上の存在から国民などをみおろすための〈叙勲制度〉を想起するまでもなく,日本という国はいまだに「天皇天皇制が大きく幅を効かす国家体質」を保存している。その意味でいえば,日本国憲法は,第1条から第8条のために「民主主義の根本精神」が,実質的に骨抜き状態にされている。

 この事実は,現在の天皇である明仁〔2019年5月からは「上皇」〕もよく承知する点であって,本ブログの筆者の観察によれば,彼は,現状を維持する以上の理想を一環して抱きつつ,さらなる「皇室の安泰と発展」を念願するために,できうるかぎり能動的に言動してきた。

 だが,NHKの特集番組「戦争をどう裁くか」の2回目「問われる戦時性暴力」(2001年)は,そうした平成天皇の抱く「現状における意向」や「将来への希望」を挫くような〈問題性のある放送番組〉であった。右翼はもちろんのこと自民党の政治家が,血相をかえてまでその番組に圧力をくわえ,自分たちが想定するところの「天皇およびこの国:天皇制国家体制」の損傷につながるような事態の発生を,なんとか事前に予防しようとした。これがこの「番組事件の真相」である。

 --さて,このブログの記述を復活・再掲してみた今日の日付は,2020年1月8日である。その後,10年近くもの時が経過した。

 安倍晋三が2012年12月に再び首相になってから1年半ほど過ぎてから(2014年の夏以降),朝日新聞社従軍慰安婦問題に関した一部の誤報問題--しかしけっして虚報などではなく,関連する歴史の事実そのものがあっての「報道の仕方の問題」に過ぎなかったが--を起こした点を奇貨として,安倍は “権柄尽く一辺倒の圧政” を同社に対して執拗にくわえるという悪業を犯していた。

 だが,その出来事をもって安倍晋三が,従軍慰安婦問題を,せめては日本の国内においてだけでも,存在しえない「歴史問題」として処理しえたつもりになっていたとしたら,これこそ,「ホンモノの虚偽のイデオロギー」にしがみつきたいだけであった彼自身の「歴史意識の不在」を,馬鹿正直に逆証していた。それにしても,2020年1月に至った時点における日本のこの首相の悪評は,すでに海外にまで轟いている。そちらではすでに,小馬鹿にまでされる始末にあいなっている。

 安倍晋三は2007年4月下旬において,アメリカ大統領に対して面と向かい「従軍慰安婦問題」について「謝罪する旨」を告白したことがあった 註記)。ところが,それよりも以前の時期であったが,NHKの特集番組「戦争をどう裁くか」の2回目「問われる戦時性暴力」(2001年)に対して,中川昭一安倍晋三が圧力をくわえ,番組を改編させていた。結局,そのように判断せざるをえない経過が記録されていた。

 いずれにせよ,この日本の首相に対しては,記憶力の問題にかかわる事実関係を尋ねようにも,「木によりて魚を求む」に同然なのか。

 註記)「慰安婦問題で首相『謝罪の意』,米大統領は受け入れを表明」『AFP』2007年4月28日 1:13,https://www.afpbb.com/articles/-/2217454 

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