小島大徳『株式会社の崩壊-資本市場を幻惑する5つの魂-』2010年は,なにを意図していたのか

    経営学は要らないといったような経営学者の経営「学論」
                  (2014年11月11日)

 

   要点:1 役に立たない経営学と役に立つ経営学の区分は可能か?

   要点:2 経営学史研究に縁遠い経営学者の提言


  小島大徳『株式会社の崩壊-資本市場を幻惑する5つの魂-』2010年12月

 1) 実務界で活躍したり必要とされたりする経営学者は1人もいなかったか?  -その根拠がみつからない断言- 

 本日〔ここでは,2014年11月11日〕あらためて復活させてとりあげるこの記述は,小島大徳『株式会社の崩壊-資本市場を幻惑する5つの魂-』(創成社,2010年12月)という諸策を,筆者が上の「要点」に記した「2項目」にしたがい,批判的に議論していくつもりである。

 小島の同書は,最終頁でつぎのような,おもしろい発言をしている。最後の段落でいわく,「経営学を研究していると自負する研究者で,経営実務界で活躍し必要とされている人材はどれほどいるのか」。「私はどのような人を1人もしらない」(172頁)。小島はこのように,自信をもって断言していた。筆者はこの大胆な断定にびっくり仰天させられた。

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  出所)小島大徳,http://professor.kanagawa-u.ac.jp/mgmt/international/prof08.html

 小島に問いたい。学問的に自分の責任をもっていえるのであれば,もちろん,そう発言するのはまったく自由である。けれども,できれば「私のしるかぎりでは・・・」とかなんとか,限定を付けての話にしてほしかった。

 日本という国に経営学という学問が成立したとみなされる大正中期ころから,「経営実務界で活躍し必要とされている人材」が,経営学を研究する者のなかに,はたして全然存在しなかったのか。そうであったとまで断言してよいのか。そういってのけられるだけの歴史的な証明は完全に準備できているのか。すなわち,小島のその主張が「絶対に間違いないこと」を実証できるのか。

 日本の経営学者のなかには「経営実務界で活躍した人材」はいる。その氏名をとりあえず挙げるとすれば,大正期から活躍してきた上野陽一・平井泰太郎・野田信夫,戦時中から理論活動を開始し,戦後になって指導を始める山城 章・高宮 晋などがいる。いずれも高名な経営学者たちである。

 彼らは,日本経営史のなかで企業の発展・成長に対して,理論的にも思想的にもそして実践的にも,深く関与し,大きな貢献をおこなってきた。新進気鋭の経営学者である小島〔1975年生まれ〕が,この経営事実史ならびに経営理論史に無知であったならば,これから勉強してもらえばよい。

 ここではただ,つぎの事実を指摘しておくに留める。戦前は,工場管理の研究をする経営学者たちの多くは,直接「企業の実践」に関与してきた。戦後は,日本経営工学会の実践科学的な活動のなかに,その戦前の系譜が継承されている。日本経営工学会は日本経営学会と一字異なる名称であるが,その学問体質はかなり異質である。

 2) 経営学研究 

 筆者の手元にある『経営学史学会 会則・会員名簿(2008年11月現在)』には,小島大徳の氏名が掲載されているから,日本における各国経営学史の研究蓄積状況を,まったくしらないわけではないと思いたい。現在,その改定版が制作中である経営学史学会編『経営学史事典』(文眞堂,2002年。第2版,2012年)を一見してもらえれば判るように,前段に指摘したごとき小島「自身の見解」が,必ずしも自信をこめていうほどのものではなく,結局,正鵠を射ていない。

 しかし,経営学者の1人としての自分が全知全能であるかのように,いかにもこの専門領域では〈最高・最大の物知り〉といわんばかりに,それも突然,著作のなかで『特定の論点→「経営実務界で活躍した人材がいない」』を主張したところで,これが事実に反しているのであれば,まったく逆効果である。

 さて,小島は「経営学における重要な研究対話」を,以下のように説明している。

 過去との対話と将来の対話の2つである。具体的に,経営学研究の関連分野は,過去との対話が経営学史であり,将来との対話が経営制度(システム)論なのである。過去との対話と将来との対話がバランス良くおこなわれるところに,経営学の発展があるのだが,問題なのは両者の研究のバランスではない。実は,個々の研究領域の内容に問題があるのである(88頁)

 まさにそのとおりである。小島は,「過去との対話」と「将来との対話」とのあいだに「現在の対話」を受けもつ研究の領域である「実践経営学」を置いている(89頁)。その3部門の対話領域は,以下のように整理・説明されている。

  a)「過去との対話:経営学史」--経営者の足跡および社会システムの変化を総合的・体系的に研究。

  b)「現在との対話:実践経営学」--経営者の実践した足跡を理論化および普遍化した健全で効率的な企業経営研究。

  c)「将来との対話:経営システム論」--現代社会の制度のなかで企業を理解するための研究。

 小島はまたこう主張する。経営学が追究すべきことは,企業を通じて検討する「人の普遍性」を明らかにすることである。そして,その手段は「企業行動という対象物」か「企業システムという制度論」かに分類されるが,後者を中心に考えねばならない(90頁)

 このとき,概念的には「経営学>経営制度論」と関係づけられ,その隙間〔つまり「経営学」から「経営制度論」を除いた場所〕に「人間経営論」が存在することになる(91-92頁)

  イ)「経営制度論」--制度として当てはめることができ,普遍化あるいは規範化を求める諸分野。社会システム・倫理(規範)・責任・コーポレートガバナンス

  ロ)「人間経営論」--制度的に当てはまらない分野。--心理・倫理。

 こうした小島の経営学体系論〔それほどすっきりしない区分だが〕は,「経営学なのだから,哲学的根本論争(そもそも論)は,控えるべきなのである」(87頁)という断わりをともなっている。もっとも,小島の経営学「論」も「そもそも」論として提唱せざるをえないのだから,「そもそも論は禁止だ」という「論」をわざわざ聞かされると,思わず失笑をもらさずにはいられない。

 のちに論及するが,経営学史という研究領域を認めて〔そして経営学者としてこれに対してある程度は究めて〕いるならば,どのような経営学の研究領域であるにせよ,「そもそも」論は軽視も無視もできないはずである。

 

  経営学の無力感と孤立感

 1) 経営学会計学

 ① の 2) は実は,小島『株式会社の崩壊』第3章「経営学経営学者の無力感と孤立感」という箇所の記述を参照していた。同書の第2章「不完全な公認会計士制度と監査論の罪」ですでに小島は,「ドイツ流,アメリカ流などという経営学ではなく,日本流という経営学を形成した」が,「経営学会計学は密接に関係しているはずなの」に,「経営学会計学は,相互交流と相互理解ができているとはいいがたい状態である」(60-61頁)と記述していた。

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 第3章に戻る。「経営学の実践」における「一番の危惧は,日本において数字(財務諸表)の読めない経営学者が実に多いこと」,つまり「そもそも〔!〕,会計学者だとか経営学者というように,分けられていることが驚きである」。「利益計算が企業経営の礎になるのだから,それを理解できなければ,経営を語ることはできないはずである」(94頁。〔 〕補足は引用の筆者)

 小島は経営における会計数値を読めない経営学者は「経営学の実践」ができない。「数字が読めなければ,経営学者という名前が嘘になる」と論断している(95頁)

 戦前におけるドイツ経営学を骨にし,戦後におけるアメリ経営学を肉にして日本の経営学が歴史的に形成されたという「通説の学史的な認識」は,日本経営学史の概観を極度に単純化しすぎた視点であって,誤解を生むおそれが大きい。ただ,経営学会計学を包摂する学問であるのに,経営学から会計学を分離しすぎた学問の関係を整備してきた〈日本的なありかた〉が問題含みであることはたしかである。

 2) 経営-経済-政治

 筆者の思い出にこういうものがある。旧帝大系の経済学部で経営学を教えていたある教授,ここまでその氏名が出ていた平井泰太郎の弟子に当たるその彼は,ことあるたびに「ポリティカル・エコノミー」そのものを槍玉に上げ,非難するのが口癖であった。このポリティカル・エコノミーとは,いうまでもなく「政治経済学」のことである。

 政治経済学の視点では「経営学の学問はできない」というのが,その先生の一貫した持論であった。だが,この考えかたは,小島大徳『株式会社の崩壊』で裁断されることになる。すなわち,その持論は破綻を予定された主張になる。小島はこう述べている。

 経営学が研究対象にする大規模株式会社の改革をめざすさい,経営学を高度なシステム論として基礎づけ,経営システムを中心に検討して,効率的かつ健全な経営を求めてもすぐ限界に突きあたる。というのは,そこには「経済」と「政治」の2つの鍵概念が凝縮された壁が存在するからである(30頁)

 したがって,企業を扱う経営学が積極的に「経済」「政治」の分野をとり入れ,学問として進化させつつ,「総合統治政策」を実施させていくことが必要であ る。そこでは,「経済」「政治」そして「経営」の3つを企業の側面からとらえるとき「総合統治論」と呼ぶべき領域が浮上する(31-32頁)

 さきほど登場させた「旧帝大系大学経済学部のある経営学の教授」は,前段に触れたような「政治・経済」の問題要因が経営学に介入〔関連?〕する事態を嫌悪していた。他方で,小島のいう「総合的研究」とは,「ひとつの学問分野を研究するのと,実はたいして差がない」「学際的研究」に比べて,「すべての学問分野を統合したという意味」をもたせた志向である(33頁)

 以上の主張を聞いた範囲内では,② の 1) で触れた「経営学の無力感と孤立感」を克服するために要請される学問の志向が,小島の頭脳空間では明晰に示唆できたつもりでいる。

 3) 経営学の道

 小島は『株式会社の崩壊』第3章で,こう確言している。

  「経営学という枠組をとっぱらうか(科学への回帰),
   経営学としての役割を再認識するか(個別科学確立),
   経営学と他の学問との交流(学際研究統合),の3つしか残された道はない」(77頁)

 しかし,ここに提示された3つの道は「これかあれか」風に,選択の対象にすべきものなのか? そうではなく小島は,そこを「いままでの学問の流れを絶って,新しい分野を確立しなければならない」。それが「総合政策制度論」だという(78頁)

 小島はこう整理する。

 「科学への回帰」は「哲学として欲するために,経営学を誕生させたのであるから,容易に,こちらの方向に戻ることはできない」。

 「個別科学確立は,経営学が誕生してから」「科学としての独立」「意識するばかりに,その研究対象を霧のなかへと追いやってしまった」。

 さらに「学際研究統合は,ほのかにおこなわれている感がある」だけで,ほかの「学問に立脚して考慮している」から,「統廃合という意味において後れをとっている」(77-78頁)

 ここまで話を聞くと,① の 2) に出ていた a)「過去との対話:経営学史」,b)「現在との対話:実践経営学」,c)「将来との対話:経営システム論」という時間的に区切った「3つの学域」が,いま一度呼びもどされる必要が生じる。

 過去-現在-将来という時系列に沿って学問領域を区分する観点は,従来の経営学研究に引導を渡したつもりである小島流の「経営学」論であったとしても,本ブログの筆者は基本的な疑問を抱かざるをえない。

 社会科学としての経営学は,通常であれば3部門に区分されて,過去の問題は経営史が研究し,現在の問題は経営理論が解明し,将来の問題は経営政策「論」が分析する。この3区分にこだわっていえば,小島の上記3区分は,過去と現在と将来〔未来〕の問題を,前段の b)「現在の問題」に押しこめている。

 なかでも,a) の経営学史が現在と未来にかかわりをもたないわけではない。経営制度論が過去と現在にかかわりえないのではない。このたぐいの指摘はいわずもがなのことである。独自の断定にしたう立論がきわどすぎていて,説得力を欠く。

 

  幻想の新しい経営学

 1) 新しい経営学とはなにか

 小島『株式会社の崩壊』は,既存の日本「経営学の崩壊」を前提した立論を披露している。最近における日本の経営学の潮流である,いわゆるマルクス「主義」路線崩れのような〈市民経営学〉や〈社会経営学〉を,そして新潮流である〈NPO経営学〉を,この小島はどのように観察しているのか。

 この著作をひもとくかぎり,ほとんど直接には言及されていない。小島の研究における特徴は,いくら本書が小著だから(B6版 本文172頁)とはいえ,先行研究が確実に前提され,概観的に反映されているようにはみえない。

 もちろん,この著作の特性からしてそのような作法〔言及の制約がある点〕は,多少許される余地もありそうである。けれども,① の 1) でも指摘したように明らかに,経営学史研究の立場からすれば「完全な理解不足」を暴露している。しかしそれでも,小島はなお「株式会社を創造することと幻想資本主義から脱却するためには,新しい経営学による新たな会社システムを作ることが必要なのである」と主張する(158頁)

 そのさい,小島は「株式会社に代わる価値観の創設」を唱える。なぜならば「株式会社制度は,市場主義経済を発展させる役割と,人の経済的利益を最大化させるという,2つの役割をになっていた」からである。けれども,「この2つの究極的ともいえる人類の欲望を達成するために,多くの主体が嘘をつかなければならなかった」というような「制度の嘘と人の嘘」(160頁)の克服が,そのように実現されていく展望に向かい,理論的に提示されているのではない。
 
 2) 新しい価値観にもとづく新しい経営学

 小島は「経営学は,縦軸と横軸で説明することができる」というとき,その「縦軸は経営学の学(経営学史)であり,横軸は経営の学(経営実践)である」と説明する。問題は,現在的価値観によってか,それとも新たな価値観によって株式会社制度を論じるのかである,というのである(161頁)

 小島はこうもいっている。「市民社会は,営利性への欲求を重視して形作られた会社制度を変更し,より監視し牽制することができるように制度を設計し直した。それだけではなく,最近の流行としては,社会性を重視した会社制度の導入がなされている。このような2つの流れは,根本的な解決をもたらすことはないのである」(162頁)

 もしかしたら,「最近の流行」である「社会性を重視した」市民・社会経営学に関係する論及をしたと思われる小島は,「細かな役割をもたせる種々の会社制度を創設することよりも,自由な会社を作ることができる会社制度を作れば良いだけなのである」といい,つぎのように結論する(163頁)

 「第1に,市民を参加させるべきである」(165頁)

 「第2に,各地域で互選された地域委員の行政機関との協同」の制度が要求される。

 「第3に,経営者が反社会的行動をした場合に,市民社会が直接的にかつ強制的に辞任させることのできる制度を創設するべきである」。そして「このような制度こそが,唯一無二の市民社会による企業に対する直接行動であり,企業の事由を根本的に制限する制度立法であるべきなのである。これらの一連の制度は,市民社会による企業改革論というのである」(166頁)

 

  検討と批判
  
 1) 経営学法律学-経済学

 小島『株式会社の崩壊』は「あとがき」で,こう述べている。「経営学が経営の嘘を裏付けていて,経営学者の怠業が本質の追究の手を緩めてしまっていた」。そのせいで「経営学が軽くみられ,経営学を研究する者も経営実践に役に立っていないことには,実は学問的性格に根本的問題がある」(168頁)

 それに比べて,法律学の世界では,裁判・判決,法理論に関して同じ理解がえられ,経済学の世界では,市場という平等な世界が創造されており,これに関する経済学理論が同じ理解をもたらしている(169頁)

 もっとも,こうした社会科学における「他の諸学問」に対する小島の認識は,理想化された度合の強いものである。小島はさらにこう述べている。

 経営学は,企業に役立つ経営理論の構築も共有もできていないだけでなく,他の経営関連団体との交流もほとんどない。これでは,経営学者が無力感と孤立感に苛まれるのも当然である。だが,このような苦悩に苛まれているのは,経営学だけではなく,政治学の世界でも同じような苦悩に少なからず覆われている。政治理論あるいは政治学と実際の政治とでは,まったく異なる。結局,政治学者であっても政治家ではないという矛盾にぶち当たることになる。経営学であっても経営者ではないという矛盾と同じである(169-170頁)

 本ブログの筆者は,経営学者が経営者と同じであることを理想化する小島流の思考方式には十分な説得力を感じない。

 おまけに「経営学者が相手にされていないという理由は,学問的性質にあるのではない。経営学者が,努力をしていないだけなのである」(170頁)とまで断言するに至っては,はたしてこの研究者は,経営学関係の諸学会がこれまでどのような活動実績を挙げているのか,いいかえれば,最近は実業界との接点を求め,経営者の意見を聞きながら学問営為を遂行している事実を,いかほどしりえているのか重大な疑念を抱いた。

 あるいは,いまではすっかり消滅したかのような学風・学派であるマルクス主義経営学・批判的経営学が,かつては資本主義的企業「経営の嘘」を暴き,この経済体制の「本質の追究」すること関していえば,社会科学の実績としてけっしてみのがせない大きな貢献をしてきた。

 だが,この事実は小島の視野からは遠くに離れすぎてしまったのか,経営学史研究の重要性を強調する経営学者が,日本におけるマル経経営学,そして「経営学」批判の系譜をまったくしらないで議論する姿勢には一驚させられる。発言の大胆さが無知と同居してこそ発揮されているらしいから,この点に関しては失笑ではなく,苦笑せざるをえない。

 いわく「経営学者ほど,世の中に役立っていない仕事はない。これには,経営学者が実務界への接近を試みていないこと,また経営者が経営学者を必要としていないこと,の2つにあると感じている」(171頁)。このような〈感じ〉だけをもって,経営学の世界をみごとに斬ったつもりなのか? いうところの「世の中」とは,いったいどの圏域を示すのか。

 法律学や経済学〔これに医学もくわえていいが〕に対して,政治学行政学)や経営学の実践関与性のむずかしさを配慮もせずに,経営学が経営実践に完全に入りこめない現実を嘆くのは,筋が通らない。

 仮に小島が「経営学者として経営実践の場」で活躍したとしよう。この場合,彼自身が著作のなかで指摘した諸困難にぶち当たり,そこでまさしく「実践に拒否される自説・理論」の制約・限界を痛くしらされるはずである。法律学や経済学〔医学〕などに対する政治学行政学)や経営学の「学的性格の基本的相違性」を,すなおに認知しない議論は要注意である。

 小島は,21世紀になっていくつも創設されている日本の経営専門職大学院をどのように解釈・評価しているのか,これについての言及はない。解しにくい,不思議な論点の欠落である。

 2) 経営学史研究の視点

 小島『株式会社の崩壊』の要求する「経営学の視点」は,筆者のばあい「経営思想史」という視点を用意することで,そのすべてとはいわないまでも,小島が要求する「企業活動と市民社会」の枠組での考察は,かなり広範囲にまで可能である。

 ここでは細かく説明できないが,日本の経営学者のなかで「経営学史」を専攻・研究する学者は,その数においてけっして多くはないけれども,小島が要求するような議論はすでに実行されている。

 冒頭で,小島においては先行研究の渉猟・読みこみが不足していると指摘したのは,その方面に関することがらも指している。関連の文献については事後,小島自身が探索・検索してもらえるものと期待する。

 --小島は,以下のような前世紀における「既存の諸見解」を読んで,どう「感じ」るか。


 a)  岡本清一『企業革命論』(小学館,昭和49:1974年)

 「企業共同体を作るということ,正確には企業社会のもっている共同体を高めていくということは,その利益社会性をなくしてしまうことではないということがわかる。そしてその企業の利益社会性は,高められた共同社会(体)性に見合ったものになるのである」。

 「つまり,ともに高められるのである。利益社会性が高められるということは,事業体としての企業の活動が,共同体性の拡大に比例して,生き生きとしたものになるということである。また,これを企業権力ということからいえば,企業の権力は存在しつつ,それが無権力同然のものになるのである」(216-217頁)。

 b)  坂本藤良『株式会社の死滅する日』(中央経済社,昭和50:1975年)

 「権力が集中することなく,“分権化” されて自由な人間の個性が生き生きと息吹いているような,比較的小さな組織,そしてその意思が,つねに社会的な立場から決定されるような,そうした組織への展望を,・・・一連のレジスタンスは,視底におさめている」。

 「ビジネス・アセスメントの時代といってもよい。いまもっとも必要なことは,社会的に目標が決められ,社会的に管理され,社会的にその活動が評価される。そうした新しい企業形態を探究することである」(326頁)。 

 --この岡本や坂本の見解は,いまから35年から36年(39から40〔45〕年)も以前のものである。いずれも「総合政策制度論」の思想:見地を示唆している。小島大徳『株式会社の崩壊』は,そこから何歩くらい前進しえていたか? あるいはまた,今世紀に登場したつぎのような会社理解は,どのように受けとめられうるのか?

 c)  平川克美『株式会社という病』(NTT出版,2007年)

 「正しい会社というものは,理論的には描くことができようが,現実には幻想の共同体としての会社から,収益マシンとしての会社まで様々な形態,運営方法,理念というもがありうるわけであり,そのうちのどれが正しくて,どれが間違っているなどということはいえないはずである。うまくいっている会社のやり方が,さしあたり正しいと事後的に判断することができるだけである」(223頁)

 以上 a)  b)  c)  などに書かれた「経営学の課題」は,経営学という学問にとって,永遠の課題である。資本主義企業体制というものが大きな変容をともないながらも,その基本的な性格:本質=私的営利追求を止めないかぎり,小島も指摘していた「経営学者ほど,世の中に役立っていない仕事」ではあっても,これからも「いまを前提」に日夜研鑽を重ねていくほかない。センセーショナルに,大言壮語するかように「既存の経営学」否定論を高揚させたところで,いったいいかほど,実質的に新味ある提唱をなしえたのか?

 実は,小島に一番欠けているのは,自身も経営学の研究分野のひとつに挙げていた「過去との対話:経営学史」である。独創的で大胆な発想をよりよく活かすためには,そちらの方面での研鑽をさらに積んでいってほしいものである。

 奥井智之『社会学の歴史』(東京大学出版会,2010年9月)は「社会学史に無知でも,社会理論はできる」かもしれないが,「社会学史に無知な社会学者が,まともな社会理論を構築した例(ためし)はない」と断言する(279頁)

 これは「経営学史と経営理論」についても同断の話である。

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