「皇室・天皇家」が日本の社会を本当に象徴できているのか,民主主義国家体制のなかに生きる封建遺制

   「皇室の今」が「今の日本」になるのか?-論旨不可解-

                   (2014年2月18日)

 

  【要  点】 最近にみる朝日新聞記者の皇室論や憲法論は,なにをいいたいのか?

 
 「〈記者有論〉皇室と今 メッセージに込めた思いは」朝日新聞』2014年2月14日朝刊16面「オピニオン」

 1) 朝日新聞特別編集委員  冨永 格

 最近,朝日新聞でも,変な・妙な皇室論を,解説記事というか,へたをすると単なる「天皇家ヨイショ記事」のような体裁で,それもずいぶん気味の悪くなるような〈文書〉を書く記者がいる。昨〔2013〕年8月18日「〈日曜に想う〉やんごとなき遺産が輝く時」(朝日新聞特別編集委員・冨永 格(ただし))の一文がその実例である。

 冨永が書いたその文章の最後部3分の1ばかり,引用しつつ,寸評をくわえていく。

 --人はみな平等と習った昔,皇室や王室の存在は不可解だった。いま50年前の自分を納得させるには,「ずっと前からあるんだよ」とでも説くのだろうか。権力欲をぎらつかせ,好きに振る舞う独裁王朝も残る。対して,民主国家における「例外」は楽ではない。

 補註)「民主国家における『例外』」とはなにを指しているのか? 天皇家一族のことか。ならば,日本国憲法はその体系内に,その〈例外〉をかかえこんでいることになる。例外なら臨時であり,とりあえずのものであり,その場かぎりのものでありそうである。「例外」でなくなれば,それでは「楽になれる」というわけか?

〔冨永に戻る→〕 天皇も,あまたの国事行為や国際親善,宮中の祭祀(さいし)でお忙しい。「特別な家系」の存在理由は国それぞれだが,いまの皇室が体現し,内外に発するメッセージは何よりも平和だろう。両陛下は世代的にも,かの憲法とともに,戦後日本のシンボルといえる。

 補註)いつ・どこで・どのように,日本の天皇は「内外に発するメッセージ」として〈平和〉を唱えてきたというのか。憲法の規定である,それも国事行為関係の規定(形式・内容)に照らしてみて,このように主張するのは,つまり「戦後日本のシンボル=平和,天皇(?!)」という歴史認識(!?)において,わざわざそのように議論するのは,どだい奇妙な・珍奇な話法である。

 「平和の国」の「日本の天皇」が,敗戦後からいままで「平和」を国内外に発信するという〈仕事〉は,はたして憲法や,これにもとづいてある宮内庁法の規定にそぐわしい行為たりうるのか。もっと,まともに突きつめて考えぬく余地がある。もっとしっかり現実的に考えようではないか。

 a)   いまのイラクの国内混乱状態に向かい「天皇が平和」を呼びかけたら,まだまだ止まない国内テロ行為が終わらせられるとでもいうのか?

 b)   隣国の世襲3代目のお坊っちゃま独裁者に対して,貴国の独裁政治は止めて,おたがい「平和にやろうよ」といったところで,いったいどうなる可能性がありえ,国交が回復できるみこみが出てきそうだといいうるのか? 逆に,日本帝国の「封建遺制:天皇制反対」というこだまが返ってくるのが,オチ?

 c)   シリアの内戦状態について,この国の大統領に「内戦は止めて,平和にやりましょう」といったら,すぐにでも,あの悲惨な殺し合いを止めますという返事が,わが「平和の国の天皇」に対する答えとしてもらえる,そう請け合えるのか?

〔冨永に戻る→〕 冷戦末期の1983年,英国はソ連との核戦争を想定して「女王の演説」を用意した。ナチスへの抗戦を呼びかけた父ジョージ6世のスピーチは映画にもなったが,このほど公開された草稿は,政府高官が机上演習の一環で作文したもの。エリザベス女王(87歳)はあずかりしらぬ内容らしい。 

 〈戦争の狂気がいま一度,世界に広がろうとしています。勇敢なわが国は再び生き残る準備をしなければなりません……〉。むろん,これを読ませないのが政治や外交の責務である。浮沈を重ね,時代の荒波を乗り越えた「やんごとなき遺産」に,もはや争いは似合わない。その真価は,平和という薄あかりの中で,たとえば朝の食卓で,静かに輝いてこそだと思う。

 補註)ここまでいうならば,昭和20〔1945〕年8月以前,この国の天皇であった人物が,あの狂気の大東亜戦争の過程において,それも大日本帝国陸海軍を統帥する大元帥として,どのような発言および行動をしてきたか。あらためて,思いだしてみる必要もあるのではないか? それもまた,「やんごとなき遺産」の歴史・履歴として,非常に重要な,欠かせない蓄積・記録ではなかったか?

 以上のように,ひたすら上っ面をなでまわすような「冨永 格」の発言に関する疑問はつきない。ものごとの一側面・一部分しかみようとしない編集委員の発言には,一驚どころか,腰が抜けるかと思うほどの稚拙・未熟さを感じる。歴史・現実・経済・政治・軍事・世界,このどれをとってみても,そのかけらごとにしか触れえていないような,しかも,すぐさま「歯が浮いてきそうな」軽い論説である。ここには,最近における新聞社幹部の質的劣化現象をみいだすしかない。

 2)「(記者有論)皇室と今 メッセージに込めた思いは」『朝日新聞』2014年2月14日朝刊16面「オピニオン」(社会部 島 康彦)

 こちらの「皇室と今 メッセージに込めた思いは」は,こう語る。

 皇室・宮内庁を担当し,天皇,皇后両陛下のお出ましに同行取材をしても,直接,質問することはできない。だからこそ,ご本人が発したメッセージの意味をしっかりと受けとめなければ,と思う。

 補註)以心伝心,アウンの呼吸,一を聞いて十をしる。こういうことが,天皇夫婦の言動に接するさいには,必須の基本姿勢になるということなのか?

 天皇陛下は昨〔2013〕年12月,80歳の誕生日前の記者会見でこう述べた。「戦後,連合国軍の占領下にあった日本は,平和と民主主義を,守るべき大切なものとして,日本国憲法を作り,さまざまな改革をおこなって,今日の日本を築きました」。

 補註)その最たる改革(民主化〔ただし,もっとも肝心なところでは中途半端に終わっていた〕)が,旧大日本帝国憲法を改定し,新日本国憲法を制定したことである。天皇家はその存亡が根本から問われた時代であったが,たまたま占領軍がソ連軍ではなくアメリカ軍であったことが「不幸中の幸い」の結論になっていた。皇族(王朝)そのものがとり潰されることはなかったのである。

 過去における人間社会の歴史を回顧すれば分かるように,あれだけの大戦争に敗北していたのに,よくも天皇一族が生き残れたな,と判断するのが正解である。もっとも,連合国軍の主体であったアメリカ軍は,敗戦した日本を占領・統治する都合上,「天皇を国際政治的次元で大いに政治利用することに決めた」(アメリカ側では「この結論」に至るまで,いろいろな意見が交わされていたが)。

 「天皇を裁判にかけて……」という意見も,もちろんそのひとつとして,強力に提示されてもいた)。敗戦後におけるさまざまな改革は,日本から天皇天皇制をなくさなかったことに焦点を合わせて,21世紀のいまにまで関連させて再考すべき歴史上の出来事であった。

〔記事に戻る→〕 その2カ月前,皇后さまも自身の誕生日前に出した文書回答で「憲法」に触れ,明治憲法の公布前に民間有志が起草した「五日市憲法草案」を紹介。基本的人権の尊重,言論の自由など現憲法につながる内容が記された「世界でも珍しい文化遺産」と評した。

 補註)明治政府が採りいれる気などなかったどころか,これを目の仇のようにすべき対象でしかなかった「五日市憲法草案」を,いまごろになって古証文のようにもちだしては,これを盛んにヨリ現代的に〈ヨイショ〉するという『明治史から現在までの〈前後の関係〉』が,なお理解しにくい。

 天皇家の人びとの現在にとって,現憲法がどれほどすばらしい法律なのかに関していえば,実は,彼らの「皇族としての生き残り戦略」にとって,この憲法のあり方がまさしく,死活問題を意味してきた〈事実〉から,まず最初にしっかり理解しておく余地がある。この事実に議論の出立点を据えねばならない。

 天皇家にとっての憲法をどのように位置づけるか,それが,自族にとって最良・最善のものたりうるように日本社会を誘導するためであれば,明治時代,現在の天皇の祖先が排斥・弾圧し,抹殺し・無化する対象であった「▽△▽憲法案」の良さを賞揚することもいとわない。正直な理解として,そういわざるをえない。悪意だとか善意だとかいった次元の問題ではなく,どのように現実的な利害があるかないかの方途で,そういわれているに過ぎない。

 彼らの政治的な現実利害の観点にせよ,われわれ庶民の平々凡々たる生活的な価値観からにせよ,歴史を観る視座がどこに・どのように設営されるかによって,その「▽△▽憲法案」を評価する方法も,おのずと異なるほかない。この歴史認識はあまりにも当然であり,理の必然でもある。その意味で「同じモノ」を観ても,感じるところの生活感覚的な受けとめ方に関していえば,「両者間」においては非常に大きな間隔(隔絶?)が生じている。

〔記事に戻る→〕 陛下は「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と定めた明治憲法下で生まれ,物心つくころ,「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とした現行憲法への「改憲」を目の当たりにした。

 補註)現在の天皇は,少年時代から自分は「天皇になる人間なのだ」という意識(いわゆる帝王になる気持・覚悟)を,強くもたされてきた人間である。つまり「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」という旧憲法時代精神にもどっぷりと,それもごく自然に漬かってきた人物である。

 だからこそ,つぎのように強調しておく必要もあった。これはけっして意地悪く指摘することではなく,なるべく,彼の抱く自分精神史の真意(本当の思い)に近づき,これを理解するための努力が,われわれの側においても,意識的に傾注されねばならないことを強調している。

 1989年,即位後初の記者会見で「終戦の翌年に学習院初等科を卒業した私にとって,その年に憲法が公布されましたことから,私にとって憲法として意識されているものは日本国憲法ということになります」と語った。

 お2人が会見や文書にこめた思いを周囲に語ることはないが,いま,ともに憲法に言及されたのは偶然だろうか。戦後70年を控え,十分な議論が尽くされぬまま現行憲法からの「改憲」の動きが加速しそうな状況と無関係とは言えないだろう。

 補註)天皇は「自分の意思」を語ることができるのか? 語ってもいいのか? 個人的な意見・見解であっても,ふうつの人びとと同じように気軽に,政治的な発言をすることは許されていない。それが天皇の立場である。

 日本国・民統合の象徴である「人間の天皇」が,この国民の側を代弁して「おのれを語る」という事態は,日本国憲法について法哲学論的に考えても絶対的に自家撞着になる「天皇の姿」である。

 なまじ「日本国・民統合の象徴」になったがために,かえって自由にモノをいう権利は,天皇には与えられていないはずである。しかし,彼に語れることがひとつだけある。それは「日本国憲法を守ります」という一事である。それはそうである。自分たち一族の存在理由であり,かけがいのない法律的な根拠を,まさしくこの日本国憲法は提供してくれている。

〔記事に戻る→〕 もうひと方,最近,メッセージを発していると感じるのが,皇太子妃雅子さまだ。

 〈悲しみも包みこむごと釜石の海は静かに水たたへたり〉。

 今年の「歌会始」で雅子さまは,昨〔2013〕年11月に岩手県釜石市を訪れた際の心境を詠んだ。津波となって人々を襲った海が,いまはその悲しみを癒やすような穏やかさで目の前に広がる。自然への畏怖(いふ)と復興への願いを込めた歌だ。

 補註)雅子がこのように和歌を詠めば,これが歌う内容がどこかでか,実現し,登場することを期待してよい,ということなのか? このような期待はあくまで,ひとつの象徴的な意味あいしか発揮できまい。他者がそれをどのように受けとるか,受けとれるかなどといったところで,現実面においては「具体的になにも因果の生じえないそれ」ではないのか。

 このように考えこんでいくと,よけいに雅子という皇族の1人が,いったいなんのために・どういうわけで,皇太子の配偶者として生きているのか,その「日本国憲法的な意義」が,ますます分からなくなるばかりである。

 雅子さまが長期療養に入って10年。愛子さまの誕生以降は,家族など身近なテーマの歌が続き,内向きだと評されることもあった。

 補註)10年というとこれは「一昔もの期間」である。ふつうの家庭・所帯でこのような長期療養を要する家族が出れば,これはたいそうな負担となる。皇太子の妻の精神状態が「内向きだ外向きだといった次元」に収まりうるような「現実の話」は,庶民にとっては譬えがいいかどうか分からないけれども,なにか〈高嶺の花〉的な話題であるかのように聞こえてくる。

 --ここから以下は,引用された記事からは離れていく記述となる。以上のような引用および言及の次元とは異なるかのような話題となっていくが,それでいて,とても悠長であると思えるような「皇太子の妻」(ここでは雅子のこと)が「内向き」だというたぐいのこの話題が,日本社会に向けてこれぞとばかりやかましてく提供されてきた。

 補注)前後する記述は2014年2月時点のものであったので,念のため。

 雅子は皇族の一員としては以前より「アウト・ロー」たる覚悟をもっているようにうかがえる。その人に「内向き」に映るものがあると外部の観察がみたところで,とりたててなにか重大な問題が潜在しているとも思えない。どうぞお好きに,という印象である。

 ただし,皇族たちは国家予算によって全面的に生計を支えられて,自分たちの十分に余裕のある生活をしている。象徴天皇をかこんで,この一族たちがどのような生活を「していなければいけない」のか,その「規則も決まりもない」なかで,『宮中祭祀』や『皇室行政』という〈お仕事〉にもかかわっているというのであるから,はたでは,とうてい理解できない苦労もあるものと推測する。

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 だが,週刊誌的な関心の的にしかならない程度の彼らの生活実情であるならば,山折哲雄の発言ではないが,「皇太子殿下,ご退位なさいませ」(『新潮45』2013年3月号)という言上とあいなる。

 隣国のあの3代目独裁者を悪しきざまに罵るのもいいが,自国の「このなんというべきか,相当にもちゃもちゃした皇室内諸問題」,いったい,これをどのようにとりあげ議論を深めていけばよいのか? 皇室関係に関して,まさか言論の自由が完全にないわけであるまい。

 ここで,引用枠から出て,つぎの引用となる。--『今年の歌には「被災者に心を寄せていくという強い意思を感じる」と歌の専門家はいう。体調の波を少しずつ乗り越え,雅子さまの視点もまたご自身や家族といった身近な所から,被災地,国民へと広がっているのを感じる。その思いも受け止めていきたい』。

 補註)「国民へと広がっているのを感じる」「その思い」とは,いったいどういうものなのか? 分かったようで,実際は全然分かりにくい表現(独自の解釈)が語られている。この文句を単純に解釈すると,雅子はもっとご公務に励めとでも,いいたいらしいと感じられる。しかし,そういう方向が実現していったら,この国のどこかにおいて,なにかが,どうにか「なっていく特定の可能性」が期待・展望できるというのか。たとえば,アベノミクスとは関係がありうるのか? まさか。ないはずである。

 日本の哲学者になかには「ある」と「なる」ということばの違いにこだわり,なんともむずかしい議論を披露してくれる者もいる。少し真似をして,こういってみたい。

 いま「ある」皇室の人びとがどう「なる」かによって,この国のありようが,さらにどのように変化しうる期待がもてるというのか?

 どう「なる」にせよ,いま「ある」私たちにとって,「彼ら」の「ある」生きざまが,具体的にいかように,われわれの生活空間にまで重なる存在に「なる」未来が「ある」のか? 

 このように,ことがらを考えれば考えるほど,頭のなかはよりいっそう錯綜・混乱してくる。

             

 宮内庁長官羽毛田信吾の呑気なエッセイ

 『日本経済新聞』2014年2月12日夕刊1面のコラム〈あすへの話題〉に,元宮内庁長官で現在「昭和館」館長の羽毛田信吾が「昭和館」が,つぎのように語っていた。

 ビルマ戦線の夫から妻への手紙。妻が送った我が子の写真に「回らない口で何か俺にいっている気がする」と喜び,残した家族のことをあれこれと気遣っている。展示ケースの中の茶色に変色した紙面から時を超えて濃(こま)やかな愛情が伝わってくる。

 

 今,九段下の昭和館に勤務している。先の大戦中そして戦後,戦地に赴いた人達はもとより,銃後の国民も,戦争で肉親を失った人達をはじめ言い知れぬ悲しみと苦しみを味わった。昭和館は,戦中,戦後に国民が経験した様々な労苦を後世に伝えることを目的とした施設である。展示資料などを通して多くの人に戦争の悲惨さと平和の尊さを実感してもらえればと願っている。

 

 戦後の復興を象徴する先の東京オリンピックでさえ,今や,実体験は五十代以上の世代に限られる。敗戦直後の耐乏生活を知る人も少数派になりつつある。戦争の悲惨さや国民生活の苦しみの記憶が風化していくことが懸念される。かく言う私自身も戦争の記憶はなく,辛うじて戦後の配給や代用食の貧しい生活を知るに過ぎない。

 

 昭和館には多数の小学生や中学生が見学に訪れる。子供達が防空壕の模型をただ不思議な仕掛として眺め,手押しポンプによる水汲み体験にも体力テスト感覚で挑戦しているのではないかと心配になる。彼ら「戦後を知らない子供達」に当時の労苦を実感として伝えることは容易でない。

 

 しかし,子供達は,アンケートに対し,「展示を見て戦争は絶対してはいけないと思った」,「自分達の平和な暮らしが父母や祖父母の苦労の上に築かれたのだということが分かった」などと答えている。これらの回答を励みに,館の一層の充実を期している。

 のっけから疑問……。昭和館というからには,昭和天皇に関する展示物もたくさんあるものと思って,当然である。しかし,以前,この館に見学にいったが,あまりにもあっさりした展示の内容でがっかりした。天皇がきちんと出てこない昭和戦前期の展示方針--たしかに戦前・戦中が中心の館であるのに,これ--には,大きな疑問を抱いた。

 なかんずく,画竜点睛を欠いた「昭和の展示館」なのである。ここに展示されている「昭和の苦労話」と昭和天皇は切っても切れない関係にある。しかし,この歴史的な問題にはかかわりをもちたくない,昭和戦前期の一面歴史にだけ注目していればいい〈昭和館〉ということなのか。

 昭和の生活一面史に関するだけのための,この程度である昭和館の存在意義は,はたしてどのように評価されるべきか? 「皇室の今」といわれていたが,「今の皇室」さえ,よく認識できていない現状のなかで,どうしたら「皇室の昔・今・未来」を通観するための回顧や眺望できるのか,ますます不明瞭になるほかない。

 昭和館が展示の対象にしているこの戦前日本においては,大日本帝国天皇裕仁の存在」は絶大であった。ところが,この存在の影が薄い資料館が,昭和館である。東京都江戸東京博物館があるゆえ,こちらがあれば,昭和館は不要・無用の館に映る。まさか,高級官僚の天下り先のひとつではあるまいや。

 「皇室の今」ということばに接していると,「永遠の今」という西田幾多郎の哲学用語を思いだした。「今の生活に汲々としている庶民」の立場・日常にとって,「皇室の今」が関心事たりうるのか,大いに疑問である。あらためて,「今」こそよく再考してみたい現実的な問題が,ここに示唆されている。

 最後に一言。平成天皇夫婦は,つぎのような《戦争の記憶》を有する国民たちに対してとなるが,いつも彼らが繰りかえすように『強調しているせりふ』に密着して解釈するとすれば,いったい「どのように寄り添う」ことができるのか?

 以下に紹介するのは,本日〔2014年2月18日〕朝日新聞朝刊「声」欄に掲載された投書のひとつである。いま82歳にもなる女性が,戦争で死んだ自分の兄の,71年〔2020年になれば77年〕前の思い出である。

  ☆(声)語りつぐ戦争  兄は靖国神社で安らかなのか
     - 横山ツナエ(主婦,愛知県 82歳)-

 

 私が尋常小学校1年の〔19〕37年,長兄は日中戦争に出征した。「3年お役目を務めたら帰ってくるよ」という言葉を信じて母は長兄の帰りを待った。

 

 ある夜,私は父母のひそひそ話で目が覚めた。長兄が帰ってくると聞こえ,再び眠りについた。翌朝,「兄さんはまた3年帰りが延びたよ」という母の言葉に,がっかりした。母は「一度会いに行きたい」と懇願したが,父は「お国のため辛抱しよう」と諭したのだった。
 補註)1937年+「3年+3年」は,「1940年(昭和15年)と1943年(昭和18年)」。 

 

 〔19〕43年9月,長兄戦死の公報が届いた。成績優秀で自慢の跡取りを失った母は,毎日毎日家の裏の墓に行って泣いた。15年後,亡くなるまで母の嘆きは続いた。

 補註)1943年9月に日本帝国は「絶対国防圏」を決めていた。つまり,第2次世界大戦(太平洋の戦線)において守勢に立たされた大日本帝国が,本土防衛上最低限を確保するために,戦争継続にとって必要不可欠である領土・地点を定め,国土防衛を命じた地点・地域を設定していた。

 いいかえれば,この「絶対国防圏」の設定は,守勢にまわった日本の負け戦が定まった展望を裏づける出来事であった。この時期に戦争を止めていれば,この戦争のせいで死んでいった日本兵の数は,3分の1以下に減らせた。

 

 長兄は靖国神社に祀られている。母と次兄は村が仕立てたバスで一度行ったが,私は行ったことがない。戦争はむごいもので,死んでいった兵士を思うと腹立たしく思う。長兄は靖国神社で安らかだろうか。本来なら穏やかに父母と仲良く同じ墓で眠っているであろうのに。

 補註)国家は,戦争による死者を弔う庶民の気持を,靖国神社によって,いまも奪いつづけている。戦争は69〔75〕年も前に終わっていたが,この国家神道の皇室的な基本精神はいまも,靖国神社神道的な宗旨を裏づける最重要の儀式として,「戦争に備えよ!」と〈英霊〉を祀りつづけている。しかも死者の霊にかこつけて,生者に向かいそのように,いまもなお要求している。

 戦争で自分の息子を奪われた母の気持が,いかほどにまで深く悲しいか,このことを靖国神社が理解することはできない。というよりは,靖国神社はその息子の母親たちの気持を「理解すること」などは,けっしてありえず,無縁の地点に立っている。

 小泉信三『海軍主計大尉小泉信吉』文藝春秋,1966年から,やはり自分の息子を戦争のために失った母親の慨嘆を描写した個所を,画像資料にして紹介したい。

 

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 よくいうではないか。「死んで花実が咲くものか」,「命あっての物種」と。靖国神社はその死んだ者であっても,無理やりに花を咲かせ,なにかの物種に再利用しようとする,明治以来の国家神道的な宗教装置ある。

 靖国神社は,その死霊を利用することには長けていても,戦場などで死んでしまった息子の母親の気持を理解することなどありえない。敗戦するまでは国営であった靖国神社は,「兵士の死」を前提・予定していた。日本の神道に固有である宗教精神に則していえば,神道上ありえなかった〈死霊のあつかい〉をする,つまりは異様な神社である。

 したがって,靖国神社はいまもなお,戦争による死者を弔う庶民の気持を,戦争目的のために全面的に横奪しつづけてきている。あの戦争は69(75)年も前に終わっていたが,国家神道である「皇室宗教的な基本精神」はいまも,靖国神社神道的な宗旨を裏づける最重要の儀式を要求している。すなわち,靖国神社は〈英霊〉を祀りつづけていく祭祀をつづけていくほかないのである。そもそも,帝国日本時代の大元帥は誰であったか?

 いまの靖国神社は,民間の一宗教法人になったとはいっても,戦前・戦中の存在形式に関していえば,基本の性格においてなにひとつ変化はない。冒頭にとりあげた朝日新聞社編集委員たちは,この靖国神社のなにの,どこを,どのように観て論じていたつもりであったのか?

 極言してしまえば,その論調はきわめて生ぬるく,不徹底であったというほかない。天皇天皇制に関する論説になると,とたんに脳天気風な解釈論を前面にかかげていた。

 本日の,この記述を始めた冒頭に登場していた平成天皇夫婦にしても,A級戦犯の合祀さえとっぱらってくれれば,ただちに,靖国神社の「死霊を変じて英霊にされた者たち」の魂が祀られていると信じる「靖国神社」に参拝にいく。

 なかでも天皇自身は,この靖国神社に「参拝にいく」というよりは,自分が親裁するために出むくのである。天皇はかつて『靖国神社では本当の祭主』であった。天皇家にとって靖国神社が有する国家神道的な真意が的確に認識されないと,この神社の本質は理解できない。

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