三笠宮崇仁の戦争体験(続)

皇族軍人として三笠宮崇仁が体験した戦争の意味あい・真価(続)

                   (2016年11月1日)

 

  要点:1 軍人勅諭三笠宮には適用されなかったのは,しごく当然の事情であった

  『皇族身位令』(明治43年皇室令第2号)

     第十七条 皇太子皇太孫ハ満十年ニ達シタル後陸軍及海軍ノ武官ニ任ス
      二   親王王ハ満十八年ニ達シタル後特別ノ事由アル場合ヲ除クノ外陸軍又ハ海軍

          ノ武官ニ任ス

  要点:2 三笠宮の語る戦争体験は括弧づきでしか聴けない

  要点:3 批判に沈黙させられた三笠宮,その「皇族の立場」の限界

  要点:4 敗戦した大日本帝国を措置するとき,「かけるべきボタン」を放置し,宗主国としての優位性を確保したGHQ・アメリ国務省

【付 記】 「本稿の前編」にあたるのは,つぎの記述である。


  東京裁判史観に与する三笠宮

 前編でとりあげた雑誌,『THIS IS 読売』1994年8月「戦後50年特大号」の編集担当は,三笠宮の文書「支那事変に対する日本人としての内省(幕僚用)」昭和19年1月に関連させて,三笠宮が別のインタービューのなかで語ってもいた点,すなわち「昭和天皇の意向」を意図的に忖度し,より過大に評価する三笠宮の立場を,そのまま伝えていた。

 たしかに昭和天皇は,三笠宮も指摘したように「軍部との行き違いに苦しんでいた」。また,三笠宮自身もいうように「私としても,皇族という地位にあったればこそ,これだけ思い切ったこと言え」たといえる。

 しかも,「私の文章の中などにも,昭和天皇の平和への強い熱意〔があったこと〕や,軍部が昭和天皇の意向に反して行動していることを暗に批判した部分があ」る。また,「私は直接,間接に昭和天皇にお目にかかったり,お話を伺って,お気持ちをわかっていた積もりで」あると断わってもいた 註記)。だが,そうはいいわけしたところで,三笠宮の発言はあくまで「事後談」として聞いておく性質のものである。

 註記)『THIS IS 読売』1994年8月「戦後50年特大号」42頁上段,43頁上段,47頁下段。〔 〕内補足は筆者。

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 昭和天皇が戦争中も平和を願っていたことが事実(本当)の気持であったにせよ,また,軍部が天皇の意向に反していたにせよ,あの戦争の責任が大元帥天皇裕仁側に,なにもなかったなどとはいえない。

 こうした指摘は,法律論でむずかしい議論をもちだす以前,かつまた道義的・倫理的に戦争責任を問う・問わない以前において,たやすくできる。天皇裕仁は戦争の時代,大日本帝国という国家組織の頂点に立って存在していて,どこまでも政治の制度の上に生きる人物であった。

 ここでは,戦時体制期(1937年7月7日~1945年8月15日〔正確には9月2日〕)中に,昭和天皇が軍服姿で登場していた写真を2葉かかげておきたい。

 

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 上にかかげた写真は,1901〔明治34〕4月29日に生まれた昭和天皇が40歳になった1941〔昭和16年〕4月29日,代々木練兵場でおこなわれた「天長節観兵式」における閲兵の風景であるが,馬上の大元帥としてどのような表情をしていたか。

   

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 こちらの写真は,昭和天皇が43歳のとき(1944〔昭和19〕年1月1日),大東亜戦争(太平洋戦争)の戦局がすでに峠を越えたころに撮影されていた。なにか不安げで,自信もなさそうにみえなくもない。そして多少の疲労感さえ感じさせる表情を浮かべているような画像である〔と書いたら,いいすぎ:読みすぎになるか?〕。

 

 なお着用の軍服は陸軍用で,大日本帝国の「最高位である自分用の勲章」を佩用している姿は,「上・下2葉の写真」ともに同じものにみえる。

 昭和天皇が敗戦の責任をまったくとらないで済んでいた事実は,GHQ当局とこの後部に控えていたアメリカ政府による日本占領政策の基本方針にもとづくものであった。そうだとしても,三笠宮自身は,昭和天皇を当初から免罪して開廷された「東京裁判史観」を,そのまま受け容れるような発言をしていた。これは興味深い彼の反応であり,皇族としての防衛・保存本能が,血縁関係の紐帯において発揮されていた,と観察しておけばよい。

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  出所)東京女子大学での三笠宮授業風景,
http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1289231542307.jpg

 三笠宮は戦後,1947〔昭和22〕年4月から東京大学文学部のオリエント史を専攻する研究生となり,歴史学を学んだ。1955〔昭和30〕年東京女子大学で講師として教育に当たったほか,青山学院大学天理大学拓殖大学でも教壇に立ち,日本オリエント学会の会長も務めた。オリエント史が古代史の研究となれば,ここから日本古代史への関心へと進むのは必然であった。もっとも「宮内庁筋」は,皇族が「日本史を真摯に追求すれば,皇室に疑念を生じ,紀元節問題で “暴走” した三笠宮註記)の再来となることを,極度に恐れていた。

 註記)河原敏明『天皇裕仁の昭和史』文藝春秋,昭和58年,392頁。

 

  鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』2007年の指摘

 a) 三笠宮崇仁について,鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』(成甲書房,2007年)は,大日本帝国が敗戦したその日,皇居内で生起した「クーデタの現場主導者:犯人」が三笠宮であったと解明し,推理している。鬼塚の指摘が正当:図星だとすれば,裕仁を筆頭する皇室一族の魑魅魍魎ぶりは,面目躍如であったというほかない。また,皇族の1員:天皇の末弟であるがゆえに,戦争中であっても,三笠宮は自分なりに自由な行動ができる生活の基盤と背景を有していた。

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 鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』(成甲書房,2007年)の題名は,半藤一利『日本のいちばん長い日-運命の八月十五日-』をもじっている。ただし,半藤一利の『本書』が1965年に文藝春秋新社から発行された当初は,「筆者」名は大宅壮一になっていた。のちに,1995年版から本当の筆者である半藤一利に「戻されていた」。なお,英語版:講談社インタ-ナショナル,1980年もあり,決定版として文藝春秋,2006年もある。

 要は,鬼塚英昭『日本のいちばん醜い日-8・15宮城事件は偽装クーデターだった-』2007年は,半藤一利『日本のいちばん長い日-運命の八月十五日-』1965年を,パロディー的に真似をした書名を付けていた。

 さて,1945〔昭和20〕年8月14日の宮城(皇居)において起きた,近衛部隊を偽命令によって動かしたこの騒乱事件については,この部隊の一兵士であった当時者が書いた,絵内正久『さらば昭和の近衛兵-兵たちの見た皇居内敗戦絵巻-』(光人社,1992年)がある。その事件に時間的に対応する8月14日の御前会議の様子については,多くの文献が描いているが,ここでは加瀬英明天皇家の戦い』(新潮社,昭和58〔1983〕年)を挙げておく。

 ねず まさし『天皇と昭和史 上』(三一書房,1976年)は,昭和6〔1931〕年の「2・26事件」については「なぞを残す三笠宮」という1項を設けて言及していた 註記)三笠宮が戦前昭和史のなかで,天皇の弟宮の立場において「暗躍」しなかったという確証はなく,むしろ,怪しまれる足跡をうかがわせる行動ができる「自由を与えられていた」「数少ない人物の1名」であった。

 註記)ねず まさし『天皇と昭和史 上』三一書房,1976年,113-114頁。

 b)東條英機暗殺計画と三笠宮」 三笠宮は,別の事件「東條英機暗殺計画」について,自分の関与がとりざたされているが,「その暗殺事件に参加したように伝えられ」「その点たいへん残念なので,はっきり否定しておきたいと思います」と発言している。

 註記)安藤編著『昭和史への証言 第4巻』〔民主化の進展 43 “民主化” と皇室」三笠宮〕32頁。

 山本勝之助『日本を亡ぼしたもの』(復初文庫5,評論社,1969〔昭和44〕年)は,その東條英機暗殺計画の関連で,こう記述している。

 東亜連盟〔石原莞爾の唱えた日中提携の理論〕系の柔道家牛島辰熊が,東條の弾圧政策の槍玉に挙げられ憲兵隊に留置されたが,その嫌疑は,陸軍参謀本部の津野田知重少佐との共謀・企図であった。また,牛島に金を提供したという理由で,当時,上海にいた浅原健三が飛行機で東京憲兵隊に拘引された。しかし,この事件の背後には三笠宮が存在したという噂が高かったせいか,ついに問題にならず全員が釈放されていた。

 註記)山本勝之助『日本を亡ぼしたもの』復初文庫5,評論社,昭和44年,239頁。〔 〕内記述は筆者。

 工藤美知尋『東條英機暗殺計画-「高木惣吉資料」にみる日本海軍の終戦工作-』(PHP研究所,1986年)は,企画されてはいたものの,実行されなかった海軍中堅層の東條英機暗殺計画をとりあげている 註記)昭和天皇実弟たちが皇族軍人の立場にあったかぎり,戦争過程のなかで,歴史的に深い関与をしてきた事実は否定できない。問題は,直宮であった彼らにあっただけでなく,ほかの皇族軍人にも同様にあった。

 註記)工藤美知尋『東條英機暗殺計画-「高木惣吉資料」にみる日本海軍の終戦工作-』PHP研究所,1986年,66-69頁。

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 『東条英機暗殺計画と終戦工作』(別冊歴史読本17号,新人物往来社,2008年)は,

  雨倉孝之「東条英機暗殺計画 Part1 東条をやらねば日本は滅びる! -智将の海軍少将が企てたテロ計画-」,

  水島吉隆「同 Part2 三笠宮を巻きこむ参謀本部員の東条暗殺計画-毒ガス兵器で東条を襲撃せよ!」,

  横堀洋一「同 Part3 戦時下最大のドラマ 東条抹殺をはかった近衛公-秘密記録が語る暗殺計画と近衛文麿-」

という3稿を掲載している。

 c) 天皇実弟(直宮)の立場じたいに関してからして,その政治思想のもち具合は明快ならざる問題を浮上させる。それにしても,三笠宮はいったいどのようなつもりで,「東條英機暗殺計画」に関与するそぶりをみせていたのか。これは,皇族たちをめぐる歴史の問題としては,三笠宮に限定するわけにいかない,観過できない論点を提供している。

 前掲した論稿,水島吉隆「同 Part2 三笠宮を巻きこむ参謀本部員の東条暗殺計画-毒ガス兵器で東条を襲撃せよ!」はあくまで,三笠宮が巻きこまれたという基本視点でとりあげ,論じている。

 しかし,三笠宮自身が皇族,それも天皇の末弟としてどのように,大東亜〔太平洋〕戦争の推移に対峙してきたかについては,当人が生あるうちに関連する事実なり事情を明かさねばならない 。そうしないのであれば,前記の「別冊歴史読本」の諸稿文でとりあげられ,論じられた「東條英機暗殺計画に対する三笠宮の関与」の真相は,未解明の部分を残したままとなるほかない。

 補注)三笠宮は2016 年10月27日朝,入院中の聖路加国際病院で亡くなっていた。本ブログもそれ以降の日付では,この三笠宮の話題を集中的に記述している。この論点に関する記述(文章)は,近似中につづけて公開する予定である。

 三笠宮が,いかに戦時期日本政治体制史にかかわり,そして,彼自身がその事実(具体的な関与)を,いかなる回顧と反省をもって認識してきたかは,依然「藪のなか」である。水島吉隆が書いたその稿文で読みとれる範囲内で判断するほかないけれども,「東條英機暗殺事件」に対面した三笠宮の態度は,計画者であった津野田和重元陸軍少佐を,軽率な態度であつかっていたといわざるをえない。

 d) その当人,津野田忠重『わが東條英機暗殺計画-元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実-』(徳間書店,1985年)は,『読売新聞』1984年6月15日夕刊に掲載された,インタービュー記事「『東条暗殺黙認せず,三笠宮殿下 当時のご心境」に向けて,こう批判していた。「記者のインタービューに答える形式で紹介された三笠宮の『秘話』なるものは,歴史研究者らしからぬ事実の歪曲と,自己正当化以外の何ものでもなかった」。

 註記)津野田忠重『わが東條英機暗殺計画-元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実」-』徳間書店,1985年,243頁。

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 三笠宮は,「テロとか暗殺とかになれば一線を画さなければいけません。暗殺黙認などいうことはなく,テロ計画にまで結びつくとは考えなかった。もう少し早く,私が態度をはっきりさせれば,罪人をつくらないですんだかもしれない。そういう意味では反省してます」註記)とすなおに語っていた。しかしこれは,津野田少佐の事件とは別件に関していわれた〈反省の弁〉であった。

 註記)『東条英機暗殺計画と終戦工作』別冊歴史読本17号,新人物往来社,2008年,水島吉隆「東条英機暗殺計画,Part2 三笠宮を巻きこむ参謀本部員の東条暗殺計画-毒ガス兵器で東条を襲撃せよ!」36頁,41頁参照。

 e) 要は,皇族の1人であり,特権的な地位をもつ三笠宮が,格別な振るまいさえ許容されていた自身の立場の自己認識において,皇族や公家に特有である〈脇の甘さ〉をいつも漂わせていたことは否めない。

 里見岸雄天皇三笠宮問題』(錦正社,1960〔昭和35〕年)は,それまでの三笠宮の言動に対して右翼の立場なりに,きびしい批判を展開していた。この里見からきびしい論難を受けたあと,三笠宮は沈黙せざるをえない境地に陥った。里見の論旨が第三者においてどのように受けとられようが,三笠宮はそのときでもまだ,皇族の1人である自分がこのうえもない特権階級に所属している事実,この点じたいに関する自覚が足りなかった。

 補注)この段落の記述に関しては,本ブログ,2016年10月29日「皇族と不敬的な問題,死亡の事実をどう表現しているのかなどの諸問題-三笠宮他界問題(2)-」を参照されたい。この記述は未公開である。近日中に公開予定である。

 三笠宮が戦争中,とくに敗戦まぎわに起こしたらしい隠密の行動については,前述で鬼塚英昭が論及していた。筆者は,庶民の目線にはいっさい届かないような魑魅魍魎・妖怪変化が徘徊するのが,皇室空間だとは考えていない。ただの人間たちが織りなす宮廷内の政治・駆け引きである,ただし特権的な地位を与えられるゆえに,行動原理のあり方に関していえば,世間の者たちには理解しがたい要素がまぎれこむ。これがまた,皇族たちの行動様式を不要に複雑化させ,くわえては,根拠に乏しい神秘化に導くような具材を提供している。

 

  皇室内魑魅魍魎女性群から外れた三笠宮百合子

 a) 平成天皇の妻となった正田美智子が,民間人(平民)出身の女性だということで,皇居内では姑をはじめに,周囲を遠近にとりかこむ旧皇族や旧華族の女性集団(同窓会組織『常磐会』がある)などが,彼女に対して,ひどいイジメの言動をしてきた。

 「東宮様の御縁談について平民からとは怪しからん〔といふやうなことで皇后さまが勢津君様 [秩父宮雍仁(やすひと)の妻] と喜久君様 [高松宮宣仁(のぶひと)の妻〕を招んでお訴へになった由。この夏御殿場でも勢津,喜久に松平信子 [勢津子(松平節子)の実母] といふ顔ぶれで田島 [道治] さんに同じ趣旨のことをいはれた由 註記)〕」(『入江相政日記』1958〔昭和33〕年10月11日)と,先頭に立って息巻いていたのが,ほかならぬ姑の昭和天皇の妻(香淳皇后)であった。しかし,そのなかで,美智子イジメに「必らずしも同一歩調をとってはいなかった」のが,三笠宮崇仁の配偶者,三笠宮百合子であった。

 註記)入江為年監修,朝日新聞社編『入江相政日記 第3巻』朝日新聞社,1990年,227頁から〔 〕内の補足のみ引用。[ ] 内補足はさらに筆者。

 「美智子妃への攻撃は,表面的には,『常磐会』勢力の派閥的な動きにみえる,しかし,深層には,旧貴族階級の没落への不安と危機感があった。本人も気づかない焦りの心理が,美智子妃を攻撃させた」。「美智子妃が一般庶民の人気の高さにもかかわらず,宮中内において絶えず孤立していたのは,そうした没落感を持つ旧皇族・旧華族勢力出身の女官たちが多数おり,宮中が焦りと羨望と嫉妬の空気に包まれていたからだ」。

 註記)入江監修,前掲書,138頁,139頁。

 b) 美智子は「平民出身として以外に,自分に何かお気に入らないことがあるか等」を,入江相政(すけまさ)侍従長(任期:1969~1985年)に訪ねたことがあったという。

 註記)高橋 紘『天皇家の仕事』共同通信社,1993年,76頁。

 この美智子の抗議に対する『常磐会』の女性たちの答えは,「平民であることがいけない」という以外にありえなかったい。この差別感情は,天皇家の家長が「日本国・民統合の象徴」だと定める憲法の条項からは現実離れしている。それとも,象徴(ここでは昭和天皇のこと)の妻である立場にいた皇族女性とその仲間の女性たちが,そのように「平民であった正田美智子」(=国民の1人?)を差別する感情は, “当然であった” と受けとめておけばよかったのか。

 天皇一族は,国民全員を平民(赤子? せいぜい股肱)とみくだしている〔と以外に受けとりようのない〕特殊な家族集団である。この国家社会的な皇室と国民(人民)大衆との相互関係は,なんとも奇妙奇天烈な様相を呈している。まことにもって,理解困難な〈日本国の基本骨格としての差別絵図〉というものは,実は美智子がその後「皇后」自身になり,さらに上皇后になったとしても,基本的はなんら変化がない。

 c) 皇室:天皇家の后(きさき)を探す場合,まず宮家や摂家(公爵)から候補者を選び,適当な候補者がいないときは,つぎの清華家まで候補者の枠を拡げ,それを順次繰り返しながら家格の枠を拡げていくという〈不文律〉があった。

 明治天皇の妃の昭憲皇后は一条家大正天皇の妃の貞明皇后九条家昭和天皇の良子皇后は久邇宮と,いずれも宮家と5摂家で常識どおりの選択であった。このような選択順位は,旧皇族の妃探しでも同様である。ところが,皇太子明仁の妃選びでは,本人の選択(希望)によって民間から正田美智子が妃となった。姑になった香淳皇后がイジメに走るのは,必然ともみなせる背景があった。

 註記)『歴史読本』編集部編『日本の華族新人物往来社,2010年, 240頁。

 d) 敗戦後,皇太子明仁と結婚した美智子が平民出身だとして旧華族階層に拒否された背景には,「妾」差別--上流階級では平民の女子は正妻になれず妾として存在していた--の意識構造を引きずってきた事実があった。つまり,平民はあくまで妾であって,生母になっても正妻にしなかったという悪しき慣習が,旧華族社会の不文律として暗流のごとく存在しつづけてきたのである。

 註記)小田部雄次『四代の天皇の女性たち』文藝春秋,平成14年,90頁。

 補注)もっとも,平民の女性から産まれた天皇家の子孫であっても,当然のように天皇位には就いてもいるのだから,みごとなまで奇怪な「平民の扱い」になっていた。大正天皇も,明治天皇の「正室」が産んだ男子ではなかった。というのは,明治天皇の皇后(正室)であった一条美子(いちじょう・はるこ)は病弱だったために,実子を儲けられなかった(いろいろ事情があって睦仁とは夫婦の関係がなかったという説もあるが)。

 だが,明治天皇のまわりには正式に何人かの嫡妻が配置されていた。そののちの1人,いわば「側室」であった柳原愛子が,明治天皇の息子として嘉仁親王(のちに大正天皇)を産んでいて,これを「養子とした」というわけである。庶民的に分かりやすく捉えるならば,あえて古い表現を使っていえば「妾の子」。皇室の皇統連綿性はそうして維持されていた。ここでは明治以降の話題であったが。

 華族階層における蓄妻問題については,森岡清美『華族社会の「家」戦略』(吉川弘文館,2002年)第3部「華族社会と娶妻習俗-娶妻習俗を支えたもの-」が,真正面より考察している。森岡の同書は,『明治天皇紀』の記述中に「天皇の意思によって補充新任が行われなかったという形で,明治天皇の側室を更新しない方針が表明され」ており,「遠からず天皇側室制度一般に終止符をうつ意義深い一歩が印されたことが」「示唆されている」ことをみつけていた。

 註記)森岡清美『華族社会の「家」戦略』吉川弘文館,2002年,375頁。

 e) 以上の言及に関連させていえば,美智子に向けられた良子皇后らの「差別する視点とその根っこに控えている感覚」は,19世紀までの華族階層が堅く保持していた旧社会意識から一歩も出ていなかった。要は,皇族による「平民・民間差別」でしかないけれども,この皇族側の特権意識は,敗戦後も長期間にわたり残存し,いまも完全にはなくせない〈階級的な差別観〉にもとづくものであった。

 なかんずく,「天皇,皇族の場合,爪や歯,頭髪まで神聖なものとして埋葬され,現在でも宮内庁が『髪歯爪塔』として管理しているくらいだから,ましてや『胞衣〔後産のときの胎盤,卵膜,羊膜のこと〕をや』というところだ」註記)。人間差別は甚だしい次元の話にまで浸透させられている。

 註記)高橋 紘『平成の天皇と皇室』文藝春秋,平成15年,155頁。

 f) 田島恭三監修,加藤恭子『昭和天皇と美智子妃 その危機に-「田島道治日記」を読む-』(文藝春秋,2010年)は,当時,妃を選ぶさい,明仁「皇太子は,『平民』デモヨシ』とおっしゃった」が,「学習院か聖心の出身に限られるということ」であったと推測している。皇室の内部事情もある。だが,妃を選ぶに当たって,「平民でもいい」「ただし,学習院が聖心に限る」と条件を付けざるをえない彼の立場にして,なお皇族に固有の差別観ありと断言しておく。加藤恭子のこの著作は,天皇・皇太子に対して敬語を使っていた。

 註記)田島恭三監修,加藤恭子『昭和天皇と美智子妃 その危機に-「田島道治日記」を読む-』文藝春秋,2010年,196頁。

 皇室内における民間人イジメの問題に関連しては,「爵位をもたずに宮中に入った民間人の長官としての〔田島〕道治は,旧華族でない家からの “最初の民間人皇太子妃” の前途に一抹の不安をいだいたのであろう」と言及する著作もあった。

 註記)加藤恭子『田島道治-昭和に「奉公」した生涯-』ティービーエス・ブリタニカ,2002年,393頁。

 g) ここで,2014年2月8日に『日本経済新聞』が報道した記事も話題に上げておく。その見出しは「悠仁さまの産着,仏展覧会に出品 19日から」とあり,こう伝えていた。

 「宮内庁は8日までに,フランスのパリ日本文化会館で19日から開かれる皇后さまの養蚕などを紹介する展覧会で,秋篠宮家の長男,悠仁さま(7歳)が宮中祭祀で着用された白絹の産着「お初召(うぶめし)」などを初出品すると発表した。産着は皇后さまが皇居内で育てている日本原産の蚕『小石丸』の糸で織られており,天皇,皇后両陛下が贈られた」。

 註記)『日本経済新聞』2014年2月8日夕刊。

 この話題を,イメルダ夫人(フィリピン大統領マルコスの妻)がもっていたという千足以上の靴や,エルヴィス・プレスリーの舞台衣裳(高い値段で売買されている)に比較しても,まさか「不敬罪(?)にはなるまい」。海外に向けても「皇室の万事」を神聖視させたいかごとくに,独自の行政・外交を展開する「王族(皇族)用の国際関係的な政治の意味」は,いまさらのように,あらためて考えておく余地がある。

 皇位継承順位で第3位にある悠仁ひさひと;2006年9月6日生まれ,「天皇の次男」の孫)をも,そのように特別視する立場を正面に押し出しつつ,皇室関係における物産(疑似庶民的な再生産行為の成果)を海外に展示・紹介することによって,日本の皇室そのものを格別な存在であるかのように訴求・宣伝するための “皇室の政治” とは,いったい,どのような日本国の諸法制に根拠づけられてのものなのか。あらためて大いに議論が惹起されてよい問題点である。

 昭和天皇のある側近が「歴史を学ぶと,どうしても天皇という立ち場に疑問を抱き,将来ご自分で悩まれることになろう」註記1)と語っていた。三笠宮裕仁の末弟であったがゆえ,このような制約を直接かけられない「相対的に自由な立場」で,皇族の血筋を生きてきた。高橋 紘『天皇家の仕事』(共同通信社,1993年)は,「歴史研究は天皇として矛盾を覚えるようになる」と指摘していた 註記2)

 註記1)高橋 紘『現代天皇家の研究』講談社,昭和53年,137頁。
 註記2)高橋『天皇家の仕事』96頁。

 この種の発言をそのままにすなおに受けとれば,天皇天皇制の「予定調和的な解釈」は,ただちに反転させられるほかない「矛盾」を明示する。この解釈は,日本国憲法内における天皇条項に「民主主義国家体制」のあり方をめぐって単に矛盾があるという以上に,天皇天皇制そのものが「歴史的に矛盾の存在」である事実を問題にしている。

 

  天皇制に関する三笠宮の発言

 1)三笠宮の自己矛盾

 敗戦後の三笠宮は,民主主義を謳歌し,理想化する世代・人物となった。戦前の天皇制への回帰には,秩父宮以上に批判的で,その「逆コース」批判はかなり厳しかった。秩父宮のその批判は,哲学的な要素をもっていたが,三笠宮それは社会科学的的観点からなされていた。

 1949〔昭和24〕年,三笠宮は,『改造』の8月号に寄稿した文章では,1946〔昭和21〕年6月8日の枢密院本会議における日本国憲法草案「審議中の自身の発言」を文字化していた。その内容は,第9条の「戦争の放棄」について賛意を示していた(「『こっとう』の書」,三笠宮崇仁古代オリエント史と私』学生社1984〔昭和59〕に収録)。

 三笠宮はなぜ,その時期〔1949年〕に,数年前の自身の発言を引っぱりだしてきて発表したのか。それは,当時しだいに広がっていた「逆コース」の風潮に対する,三笠宮なりの牽制とみることができる。この政権批判とも受けとられてしまう危険性を孕んだ発言を皇族がすることは,象徴天皇制における皇族の政治性を考えるうえで,重要な意味があった。

 天皇や皇太子がそうした発言を公式的にすることはなかった。弟宮である三笠宮は,学者として位置づけられていたがゆえに,その発言に自由度が増したといえる。皇族の発言による「逆コース」批判は,戦前への天皇制への回帰を求めていないし,これがありえないといっていた。つまり,皇族自身が〈象徴天皇制天皇像〉を支持する姿勢を人びとに訴えたことになる。

 敗戦後,昭和20年代において日本国内の時代動向として生じた変化,つまり「逆コース」への批判展開は,「占領初期の象徴天皇制天皇像」を重視して,これからの「逆コース」や逸脱を指摘していた。だが,そこで三笠宮は,その変化は皇族ではなく「国民の認識の問題」であると論じていた。

 彼によれば,戦前から天皇を含めて皇族は,自分たちのことを「人間」として認識しており,敗戦後もその認識が変化はなかったと論じた。すなわち,戦前・戦中のような天皇制にしてしまったのは,そのように皇族を祭りあげた周囲,そしてこれを受容した国民の態度に原因があると主張した。

 三笠宮はだから,敗戦後に再び逆行しないためにも,国民と皇族は「人間」同士の付きあいをすべきだと強調し,「逆コース」への批判とともに,今後の意識のもち方を提唱した。これは,天皇制への国民の心理に対する警告ともいえた。

 いいかえれば,これまでの日本人の天皇制に対するとらえ方じたいを問題視し,これからの脱却を企図したのであった。一方で,三笠宮の見方は,皇族はつねに客体であり,戦前・戦中の天皇制や「逆コース」を招く責任はすべて国民にある可能性を有してもいた。

 註記)河西秀哉編『戦後史のなかの象徴天皇制』吉田書店,2013年,162頁,163頁。

 昭和20年代の時期における三笠宮の発言に限らないが,すでに里見岸雄天皇三笠宮問題』(錦正社,1960〔昭和35〕年)「(7) 特別附録 三笠宮問題」が,ある程度「的を射た」批判を放っていた(この内容はここでは直接にとりあげていないが,要は「特権的な地位」をめぐっての三笠宮の弱点を里見岸雄は批判していた)。いずれにしても,皇族それも天皇の弟宮としての三笠宮の頭上に漂う「人生観の甘さ」は,いかんとも否定しがたい。

 2)母が娘を「殿下」と呼ぶ「半熟」民主主義の国家体制

 最後に,「美智子:皇后」に対する母親:正田富美子の発言(口調)を紹介しておく。これを聴いて違和感をもたないでいられる人は,いるか?  美智子の衣裳デザイナーが語った「皇族内の階層(階級?)秩序」を説明している。

 「世界に大きく羽ばたいてくださいね」。皇室デザイナーをやめた〔19〕76年,美智子さまはこうおっしゃった。そして正田〔富美子〕夫人からは「10年間,妃殿下がお世話になりました。これからは私が全面的に応援します」と激励された。お二人から温かい支援をいただけた私は,本当に幸せ者である。
 註記)『日本経済新聞』2009年8月22日朝刊「〈私の履歴書〉芦田 淳 ㉑  高島屋離れ銀座に出店 正田夫人の支援,社交界に人脈」。

 日本人は家族内の対人呼称として,「自分の両親」を他人に向かい指すときは「父」や「母」と呼ぶ。これが通常の話法であるはずのところが,前段の話法で正田富美子は,母親の立場から娘の美智子を「妃殿下」と呼んでいた。

 つまり,最高敬語ないしは絶対敬語でもって,自分が産んだ娘美智子と父母画像をそのようにまるで,階級・地位を異ならせている,より上層に位置する人物であるとみなす呼称(敬称)を使っていた。

 ここにみえかくれする皇居関連の観念像は,《菊のカーテン》などではなくて,《菊の紋章に飾られた皇居の門塀》ではないかと想像したくなる。正田美智子が皇太子妃の候補にあがりそうだとという情勢を察知した「両親の正田英三郎と富美子」は,美智子の皇室への嫁入りの話が具体化させまいとし,「必死になって回避しようとしていた」記録がある。

 いずれは皇太子徳仁天皇の地位に就く日が来る。そのときこんどは,母親の小和田優美子は,徳仁の配偶者である自分の娘:雅子を「殿下」と呼ぶことになるのか?

 補注)2019年5月1日から徳仁が「令和の元号」を背負って,明仁が退位したあとを襲って新しい天皇になっていた。

 現在,皇太子の妻である雅子に対して,憲法をもって定める『正式な公務』(ここでは『国事行為』のこととしておく)は,本当は原則としてなにもないはずである。だが,ウィキペディアには,21世紀に入ってからの雅子の「『公務』(宮内庁が勝手に定義するそれ)と体調」について,つぎのように解説している。 

 3)皇太子配偶者の「公務と体調」

 2000〔平成12〕年7月の香淳皇后斂葬の儀の欠席や同年8月の佐賀県行啓中止を皮切りに,徐々に体調不良による公務の欠席が目立つようになる。

 2003〔平成15〕年には帯状疱疹のため静養し,翌2004〔平成16〕年7月30日に適応障害で長期間静養している事実が公表された。以後,東宮御所における接見を除けば出席する公務はほとんどなくなり,宮中祭祀も参加できない状態になる。

 唯一,2009〔平成21〕年1月2日,「昭和天皇二十年式年祭の儀」中の「皇霊殿の儀」に皇后の名代として,夫の徳仁親王とともに拝礼した。これは2003〔平成15〕年9月23日以来,5年3か月ぶりに,潔斎を経て平安装束を着用しての祭祀出席とった。

 なお,公務の出欠の判断は病気の性質上宮内庁東宮職医師団がおこない,皇太子妃雅子の当日の体調により最終決定される。

 産経ニュースの報道によれば,2014年以降は体調が回復傾向にあり,皇太子とともに伊勢神宮参拝やオランダ国王夫妻を迎えての宮中晩餐会などの重要な行事に出席,2015年には天皇・皇后から引きついだ「こどもの日」関連の児童施設訪問などをこなしており,同年7月にはトンガの国王・トゥポウ6世の戴冠式への皇太子夫妻公式招待に応え,2年ぶりに国外訪問公務を果たした。

 地方公務においても回復傾向で,2014年11月の愛知県行啓,2015年10月の鹿児島県行啓のように,1泊の日程で皇太子徳仁親王に同行している。

 2016年〔平成28〕年4月3日,皇居での「神武天皇二千六百年式年祭」の「皇霊殿の儀」において,皇后の名代として,夫の徳仁親王とともに宮中祭祀を務めた。

 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/皇太子徳仁親王妃雅子

 前段で出てきた神武天皇のことについて三笠宮は,「紀元節」(古事記日本書紀を典拠に考えて日本の初代天皇とされる神武天皇の即位日をもって定めた祝日「2月11日)の日付を根拠がないと批判していた。それはそうである。神武天皇じたいがそもそも神話の世界において登場させられた人物(初代天皇)である。この架空の,実在するかどうかは誰にも実証できない初代天皇の生誕祭を祝う行事に,皇太子の妻が参加したというのである。

 4)中山正暉が以前に指摘していた「神話と実話」

 自民党衆議院議員であった中山正暉(なかやま・まさあき)は「建国の日と神武天皇は無関係」と喝破したことがあるが(1984年),その理由はたとえば,参議院会議録情報,第147回「国会 国土・環境委員会」第17号(平成12〔2000〕年5月18日)に記録された,つぎの中山正輝(当時,建設大臣国土庁長官)の発言に表明されている。

 また余計なことを申し上げて恐縮でございますが,明治維新に,余り一般の民衆は天皇のことを知らなかったようでございます。歴代天皇,今まで125代の天皇がおられます。私は,昔,建国記念日をやるときに神社本庁35団体に呼ばれまして,何としても2月11日に建国記念日をやるのならば,ここで神武天皇を言え,それから天皇陛下万歳をやれと言われましたので,私はそのとき言いました。神武天皇にはお父さんもおられたでしょうし,おじいさんもおられたから,神武天皇で切るわけにはいきませんと。

 註記)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/147/0013/14705180013017c.html

 これはごくふつうに,しごく大まじめな指摘である。だが,聞きようによっては,仮に「〈笑〉!」 絵文字で譬えるならば,「 (o^-^o)  ウフッ」あたりがいいか。天皇家の歴史・伝統は結局,大昔まで遡及すると,非現実的な神話の世界に迷いこむものだということである。

 ところで,その子孫だといわれている者たちのなかから,主に男子が「日本の天皇位」を継承してきている。ところが明治以来,天皇になれるのは「おとこ」( ♂:Y染色体の持主である皇族)だけであると決めておいた(旧・皇室典範,いまのそれも同じ)。すなわち,明治以来においてこそ『〈創られた天皇制〉の〈伝統〉』であるのが,その厳密な意味における「男系の天皇制」である。そして,敗戦後になってからは,日本国・民を統合する象徴がこの国の天皇なのだと,いきなり「日本国憲法」が定めていた。

 GHQ(総司令部;General Headquarters)の最高責任者,連合国軍最高司令官(Supreme Commander for the Allied Powers; SCAP)のダグラス・マッカーサー元帥は,日本国憲法を作成させるとき,アメリカ側の利害を考慮した「つぎの3条件」を付けていた。21世紀にもかまびすしく議論がゆきかう「天皇天皇制にかかわる現代的な問題」の「ことの起こり」は,このあたりに求められてもよいのである。

 --ここでは,「マッカーサー・メモ」(「マッカーサー三原則」)を,あらためて読みなおしてみたい。この,なぜか変にナゾナゾみたいな矛盾〔以下の1と3は相容れない関係にある点〕は,もともと,理解するのに特別むずかしい事情はなく,しごく簡単に感知(判断)できる,いわば「大いなる矛盾」でしかなかった。なお,⇒〔 〕内に付加した文句は筆者の記入。

 1天皇は,国家の元首の地位にある」
     (Emperor is at the head of the state)
    ⇒〔民主主義とは無関係にMacがそう決めた〕

 2 「国家の主権的権利としての戦争を放棄する」
     (War as a sovereign right of the nation is abolished)
    ⇒〔だから在日米軍基地がいまだに全国にある〕

 3 「日本の封建制度は,廃止される」
     (The feudal system of Japan will cease)
    ⇒〔天皇天皇制は占領統治のため必要だから残した〕
     〔だが,なぜか,いまもそのままに残っている〕

 本日〔2020年2月11日〕は,三笠宮に関する記述はここでいったん終える。途中でも断わっていたが,三笠宮の問題については,まだ未公開になっている記述が数編あることを付記しておく。それらの記述は公開されしだい,リンクをここに指示するつもりである。

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