三笠宮崇仁問題(その1)-2020年2月11日に語る皇族の生き様-

皇族と不敬的な問題,死亡の事実をどう表現しているのかなどの諸問題-三笠宮他界問題(1)-

                   (2016年10月28日)

 

  要点:1 『朝日新聞』2016年10月27日夕刊は保阪正康のほかに工藤美代子にコメントを求めるようでは「朝日も終わり」,対照的に『日本経済新聞』同日夕刊は保阪正康と原 武史にコメントを求めていた

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  要点:2 工藤美代子のコメントが一番「『実』がない」が,このおばさまは「関東大震災朝鮮人虐殺は1人もなかった」といいはる,つまり,その「歴史の事実(その虐殺事件)」を完全に否定する「デマ」を,わざわざ著作の公表をもって主張している(本ブログ内でもとりあげているが,後日再録したい)。これほどに悪質な「デマ」を飛ばす著作の執筆者が『朝日新聞』によって論評者として採用されている。『朝日新聞』はいつからこのように無節操になったのか? 極右に媚びを売るような新聞社になりさがった。

  要点:3 天皇家主催の秋「園遊会」は喪中にて中止

  要点:4 三笠宮は本当に,皇族のリベラルだったのか? 「籠の鳥」としての平和志向が一時期に主張されたに過ぎない

  要点:5 2016年10月27日午後で,各新聞社の報道ぶりなど

          ◇ 宮内庁三笠宮死亡広告」◇

 

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  出所)http://www.kunaicho.go.jp/


 三笠宮さま逝去,100歳 昭和天皇の末弟 軍隊知る最後の皇族」(午後の早い時間帯のWeb版報道から ⇒『東京新聞』2016年10月27日夕刊の記事をみつけ,これを以下に引用する)

 昭和天皇の末弟で天皇陛下の叔父に当たる三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)さまが27日午前8時34分,心不全のため東京都中央区聖路加国際病院で亡くなられた。百歳だった。宮内庁によると,信頼できる記録が残る皇族で百歳を迎えた例はほかになかった。軍部で戦争を体験した最後の皇族でもあった。戦時中,陸軍参謀として南京に派遣された経験などから戦争への深い反省を抱きつづけ,戦後は歴史学者として古代オリエント史の研究に情熱を注いだ。皇位継承順位は5位だった。

 三笠宮さまは心臓から大動脈に送られるべき血液が逆流する「僧帽(そうぼう)弁閉鎖不全」という持病があり,うっ血性心不全を繰り返し発症。2012年7月には,僧帽弁の機能を回復する手術を受けた。宮内庁によると,今年5月中旬からせきこむようになり,同月16日に同病院で急性肺炎の診断を受けて入院。肺炎は回復したが,心機能の低下で治療を続けていた。27日午前7時40分すぎから心臓の拍動が遅くなるなど容体が急変した。

   ※-1 三笠宮さまは1915年,大正天皇の四男として誕生。1935年に成年式を迎え,三笠宮家を創立した。陸軍大学校卒業後,中国派遣軍総司令部参謀として,1943年から南京に駐在。帰国後の1944年には大本営陸軍参謀として勤務した。

   ※-2 戦後は東大文学部の研究生になり,ヘブライ史を学んだ。1954年には日本オリエント学会の会長に就任。中近東文化センター,日本・トルコ協会の名誉総裁を務めた。1950年から日本レクリエーション協会総裁,1980年から日本アマチュアダンス協会(現日本ダンススポーツ連盟)総裁として,フォークダンスなどの普及にもとりくんだ。

   ※-3 三笠宮妃百合子さま(93歳)との間に三男二女が生まれたが,2002年11月に三男の高円宮が47歳で亡くなった。「ヒゲの殿下」としてしられた長男寛仁(ともひと)親王は2012年6月に66歳で,敗血症などで長く療養生活を続けていた次男の桂宮も2014年6月に66歳で,相次いで亡くなった。

 宮内庁は〔10月〕27日,11月1日に予定していた秋の園遊会を中止すると発表した。

   「正義の戦いでなかった」 南京の経験語り大戦批判 ◆

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ,真実を語る者が売国奴と罵(ののし)られた世の中を,私は経験してきた」。戦時中に日本軍参謀として中国・南京への駐在を経験された三笠宮さま。戦後,皇族の立場で「聖戦」の実情を批判的に回顧し,大きな反響を呼んだ。紀元節復活の動きにも反対し,復活に賛成する関係者の反発を招いたが,みずからの見解は曲げなかった。

 三笠宮さまが南京に赴任したのは,陥落から約5年後の1943年。軍紀の乱れを知り,現地将校を前に「略奪暴行をおこないながらなんの皇軍か」などと激烈な講話をした。当時を回顧した1956年の著書『帝王と墓と民衆』では,「聖戦」とはかけ離れた現実に「信念が根底からゆりうごかされた」と明かしている。

 「罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは,いまさらここにあげるまでもない」「内実が正義の戦いでなかったからこそ,いっそう表面的には聖戦を強調せざるをえなかったのではないか」。反響は大きく,非難する文書が三笠宮さまの周辺に配られた。三笠宮さまは当時,「経験と視野はせまいかもしれないが,私は間違ったことは書いていない」と説明している。

 神武天皇が即位したとされる2月11日を祝う「紀元節復活の動きには,1957年に歴史学者の会合で「反対運動を展開してはどうか」と呼びかけた。1959年編著の『日本のあけぼの』では「こんな動きは,また戦争につながるのではないだろうか」と懸念も示した。歴史学者として,学問的根拠のあいまいな「歴史」に異を唱えたかたちだったが,これに反発した賛成派が三笠宮邸に押しかけるなどした。

 1984年の自伝では,南京駐在時に青年将校から「兵隊の胆力を養成するには生きた捕虜を銃剣で突きささせるにかぎる,と聞きました」と記述。「(中国人捕虜たちへの)毒ガスの生体実験をしている映画もみせられました」と明かした。1984年に来日した中国の江 沢民国家主席(当時)には,宮中晩さん会の場で「いまに至るまで深く気がとがめている。中国の人びとに謝罪したい」と話したという。2006年に出版された江氏の外遊記録で判明した。

 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)は,1915年12月2日,大正天皇貞明皇后の第四皇子として誕生された。学習院中等科陸軍士官学校,騎兵連隊を経て1941年に陸軍大学校を卒業。同年,子爵・高木正得氏の次女百合子さまと結婚し,長男寛仁親王,次男桂宮,三男高円宮ら三男二女をもうけた。幼少時の称号は「澄宮(すみのみや)」,身の回り品に付けるお印は「若杉」。

 註記)以上,http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016102790140215.html

 ここではとくに,三笠宮陸軍大学校を出ていたという経歴については,こういう説明も付けくわえておく。

 a) 陸軍大学校は,大日本帝国陸軍の参謀・高級将校養成教育機関軍学校)。略称は陸大。現在の陸上自衛隊では幹部学校に相当する。陸軍の諸学校が陸軍士官学校を筆頭に基本的には陸軍教育総監部管轄下であったのに対し(陸軍航空士官学校を筆頭に航空諸学校は陸軍航空総監部管轄下),陸大は陸軍中野学校とともに参謀本部の管轄であり,卒業生の人事も参謀本部がおこなった。在学生数は1期から12期ころまでが約10人,それ以降は約50人で,卒業者数は3,485名になる。

 b)「皇族枠」 一般軍人に対しては厳しい選抜試験が課せられたが,皇族王公族の場合は別枠で形式的な入学試験のみで入校することが可能であった。陸軍幼年学校においては皇族・王公族以外にも華族(一部士族)に対して優遇枠が設けられていたが,陸大においては皇族にのみ限定されている。入校後の成績や進級に手心はくわえてもらえなかったが,成績は公表されない。秩父宮雍仁親王については成績優秀であったため恩賜の軍刀を与えてはどうかとの議論が教官の間でもちあがった。皇族は卒業後に海外留学するのが一般的だった。

 註記)http://www.wikiwand.com/ja/陸軍大学校

 

 日本経済新聞』「戦争への悔恨,リベラルな姿勢 三笠宮さま逝去」 nikkei.com 2016/10/27 14:03

 三笠宮崇仁さまは終戦後,新聞や雑誌,ラジオで積極的にご自身の意見を発表されてきた。戦争,憲法,歴史問題に対するリベラルな姿勢に対し,右派勢力から皇族に対しては異例ともいえる攻撃を受けたこともあった。政治的に微妙な分野にも踏みこんで発言された背景には,陸軍参謀としての戦争体験があった。

 三笠宮さまは,1943年1月から1年間勤務した中国・南京総司令部で青年将校から,兵隊の度胸試しに捕虜を銃剣で刺殺した話を聞かされたこと,毒ガスの生体実験映画をみせられたことを著書で書かれている。「『聖戦』のかげに,じつはこんなことがあった」と日本軍の残虐行為を厳しく非難された。

 日本国憲法施行後,戦争放棄を明文化した9条支持を表明された。「国民の一人一人が徹底した平和主義者にならねばならぬが,とにかく之(これ)を憲法に明記することは確(か)にその第一歩である」(『改造』1949年8月号)と訴えられた。

 1958年11月には史学会で「紀元節復活反対」を要求するよう提案。これを無視されたことに抗議して同会を脱退された。「歴史研究者として,架空の年代を国の権威をもって国民に押しつけるような企てに対しあくまで反対する」と,学者としての意見を毅然と表明された。〔すると〕1959年2月,紀元節復活に反対する三笠宮さまに反発した右翼団体が当時,東京・品川区にあった宮邸に押しかけて騒ぎを起こした。また,「国体学」の思想家,里見岸雄皇籍離脱を「勧告」したこともあった。

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 出所)里見岸雄ウィキペディアから。

 古代オリエント研究を専門とされたが,日本の古代史についても造詣が深かった。仁徳天皇が,かまどから立ち上る煙で民の食糧事情を心配した故事を引き合いに出し,「この煙の研究もただ天皇のご仁慈だけでとどめることは許されない」「歴史研究のメスを常民の社会生活の奥深く突き刺さねばならない」と,被支配層からの視点を重視された。

 戦争への深い悔恨,そして戦後の皇室は民主主義のもと,国民に支持される存在でなければならないという思いゆえの発言だったのだろう。軍隊で鍛えたピンと背筋の伸びた美しい姿勢は90歳を超えるまで崩れることはなかった。それはご自身の信念を表わしているようでもあった。

 ただ,関与したとの説もささやかれていた東条英機元首相暗殺計画や中国の戦場のことなど,昭和史の暗部をもう少し語っていただきたかった。関係者への配慮から,語れないことが数多くあったのだろう。大正,昭和,平成と激動と平和の時代を皇族として生き抜いた歴史上希有な存在だった。

 註記)http://www.nikkei.com/article/DGXLZO08848700X21C16A0CC0000/?dg=1&nf=1

 以上で,最後に言及された点,すなわち「昭和史の暗部」にかかわったと推測される三笠宮の「過去の行跡」については,本ブログ内の記述,2014年12月25日「明治以降,天皇家万世一系のからくり」(現在は未公表)を参照されたい。

 

 三笠宮さまご逝去 飾らぬ素顔 カラオケやドラマ楽しむ」毎日新聞』ウェブ版,2016年10月27日 12時09分(最終更新 10月27日 14時20分

 三笠宮崇仁さまと40年以上の交流のある歴史学者小林登志子さん(67歳)は「迎合せず,ご自身で確かめ,判断する方だった」と声を震わせていた。つぎの◇の見出し・語句は,この引用している記事からリンクが張られていたほかの記事である(ただし,ここではそのリンク先は指示していない。こういう内容の報道があったということである)。

 ◇【写真特集】三笠宮さま 貴重な写真も…

 ◇【写真と動画】赤坂御用地を散策される三笠宮ご夫妻

 ◇【関連記事(以下のリンクが列記されている)】


  ※-1 昭和天皇三笠宮さま,寛仁さま…日本の皇室の方々を写真で

  ※-2 「ダンスがお好きだった」発展に尽力された三笠宮さま

  ※-3 皇族であることを隠して中国・南京の派遣軍総司令部に勤務

  ※-4 古代オリエント史の研究者でもあった

  ※-5 三笠宮さま逝去 安倍首相「悲しみの念に堪えません」

 三笠宮さまは戦後,歴史学を研究し,紀元節を「建国記念日」として復活させようとする動きに反対の立場をとった。「皇族らしくない」と批判を受けたこともあるが,小林さんは「客観的に歴史的事実ではないという立場で反対されていたのであって,批判は的外れ」と話す。小林さんは三笠宮さまが神社の前を通りかかるとき,鳥居の前で拝礼していた姿を思い出す。「皇室の祭祀(さいし)を大切にされていた」と話す。

 補注)この指摘「客観的に歴史的事実ではないという立場」が,もしも,もっと徹底されて,三笠宮自身の立場にまで貫通されることになれば,さらにもう一歩も二歩も皇室問題そのものにも立ち入る意見が披露されたものと考えられる。だが,これは期待のしすぎになるほかない。皇族の1人として彼にも大きな制約・重い限界があった事実は否定できない。このあたりの問題点は後段でさらに具体的に触れる。

 小林さんは三笠宮さまが会長を務めた日本オリエント学会の事務局に勤め,三笠宮さまの著書の校正を担当した。たびたび宮邸を訪れるなど「素顔」をしる1人だ。小林さんによると,三笠宮さまは演歌が好きで,石川さゆりさんのファンだったという。親しい仲間が集まった時のカラオケで,村田英雄さんの「王将」を歌ったこともあったという。

 百合子さまとの仲むつまじい姿もよくみかけた。2015年春に宮邸を訪ねたさい,好きなテレビ番組を尋ねると,ご夫妻が刑事ドラマの『相棒』と答えたという。小林さんは,今〔2016〕年3月にも宮邸を訪れた。兄である昭和天皇から戦時中に贈られた馬のことが話題になると,三笠宮さまは「陛下からいただいた馬だから大切に乗っていた」と話していたという。

 註記)http://mainichi.jp/articles/20161027/k00/00e/040/216000c

 

 三笠宮さまがご逝去…100歳,昭和天皇の末弟」『読売新聞』ウェブ版,2016年10月27日 13時45分(前段までと重複があるが,比較する意味もあって,引用する)

 三笠宮崇仁(みかさのみや・たかひと)親王殿下は,27日午前8時34分,心不全のため,東京都中央区聖路加国際病院で逝去された。100歳だった。昭和天皇の末の弟宮で,天皇陛下の叔父にあたり,明治以降の皇族では最高齢だった。皇位継承順位5位で,三笠宮さまの逝去により,皇位継承権をもつ男性皇族は4人になった。

 宮内庁では,加地隆治・宮務主管が27日午前10時半から記者会見し,三笠宮さまの逝去を発表した。同席した宮内庁の名川弘一・皇室医務主管によると,最近の三笠宮さまの容体は安定した状態が続いていたが,この日の午前7時40分ころから徐々に心臓の拍動が遅くなり,意識不明となった。同8時頃に心停止状態となり,同34分,妃殿下の百合子さま(93歳)にみとられ,逝去が確認されたという。

 三笠宮さまは2006年ころ,心臓の僧帽弁閉鎖不全症と診断された。長男の寛仁さまが亡くなられた翌月の2012年7月,急激に心機能が低下,弁の機能回復のため心臓を止めて人工心肺を使った手術を受けられた。当時96歳の高齢者には異例の手術だったが順調に回復し,今〔2016〕年5月までは宮邸で静かに過ごされていた。

 2015年12月2日に100歳の誕生日を迎えられた。今年1月2日の皇居一般参賀に臨まれたが,急性肺炎で5月16日,同病院に入院。心臓機能の低下が判明し,経過観察を続けられていた。名川医務主管は「懸命の治療を続けてきたが,年齢からくる心機能の低下はいかんともしがたかった」と説明した。

 三笠宮さまは1915年(大正4年)12月2日,昭和天皇秩父宮高松宮に続き,大正天皇貞明皇后の第4皇子として誕生された。幼時の称号は澄宮(すみのみや)。1932年(昭和7年),学習院中等科4年を修了して陸軍士官学校予科に進まれた。卒業後,騎兵連隊勤務を経て陸軍大学校で学び,先の大戦中は支那派遣軍の参謀や大本営陸軍参謀などを務められた。終戦時は少佐で,陸軍の方針には反対の立場をとられていた。

 その間の1935年12月,三笠宮家を創立。1941年10月,高木正得子爵の次女,百合子さまと結婚された。戦後は東大文学部の研究生として西洋史や宗教史を修め,オリエント学者の道を歩まれた。1955年から東京女子大学青山学院大学の講師を務められ,1975年にロンドン大学客員教授,1985年には東京芸術大学美術学部客員教授にも就任。一方で,大戦中の軍部批判や,建国記念の日の制定に絡む「紀元節」復活反対の発言なども話題となった。

 百合子さまとの間に寛仁さま,桂宮さま,高円宮さま,近衛寧子さん,千容子さんの3男2女をもうけられた。2002年11月に高円宮さまが,2012年6月に寛仁さまが,2014年6月には桂宮さまが亡くなり,3人の男子ともに先立たれた。三笠宮さまの逝去により,皇室の方々は19人,うち皇位継承権をもつ男性皇族は4人になり,昭和天皇の弟は3人とも亡くなられたことになる。

 註記)http://www.yomiuri.co.jp/national/20161027-OYT1T50033.html?from=ytop_top

 以上各紙の報道を紹介したが,内容の重複にかまわず,比較する意味もあって全文をそれぞれ引用してみた。三笠宮死去に関する報道は,昨日(2016年10月27日)午後あたりから,以上のような大手各紙の報道がなされていたわけであるが,つぎにかかげるのは,同日の『産経新聞』号外である。以上に紹介した各紙とは異なり,「薨去(こうきょ)という文字を使っている点がめだつ特徴である。

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  皇族の一員としての三笠宮の問題特性

 以上のごとき報道は10月28日にも大々的に続いていた。はたして,明仁天皇が死去するときは,どのような報道になっていくのか,この点について関心がもたれて当然である。

 日本国憲法が「平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界」を定めた第14条は「すべて国民は,法の下に平等であつて,人種,信条,性別,社会的身分又は門地により,政治的,経済的又は社会的関係において,差別されない」と規定している。

 皇族は基本的人権がないといわれているとおりだとすれば,この「国民の範疇」には属さない存在とみなせる。憲法の第14条が「平等原則,貴族制度の否認及び栄典の限界」を定めていながら,門地の関係では「法の下に平等」に例外事項を置いたところが,マッカーサーに押しつけられたこの憲法における,いまもなお「最大の矛盾点」でありつづけている。

 三笠宮の死去に関する各紙の報道のなかにすでに解説があるが,大東亜戦争中の参謀将校としての彼の言動,そして,敗戦後において自身が所属する皇室に関した基本的な疑問点・問題性の指摘(歴史学からの根本批判)は,実は三笠宮自身が立っている足場・基盤に対する批判(非難)を意味してもいた。三笠宮が記録してきた言動,それも学究の精神に裏づけられたはずの主張は,生存中を通して変わらずに維持されていったのではない。結局,竜頭蛇尾になっていき,事後は消滅状態になっていた。

 《菊のカーテン》ということばがあるが,これは三笠宮祟仁が敗戦後にみずから,皇室に関して「命名」したものであった。三笠宮の前段のごとき言行録は,歴史に明確に記録されていたものの,雲散霧消していく過程をたどっていった。つまるところ,彼もまたその《菊のカーテン》のなかに身を引き,隠遁したのである。

 

  三笠宮崇仁の軍部批判-過去における発言-

 1)「紀元節は神話,学問的な根拠なし」

 昭和天皇の末弟三笠宮崇仁(たかひと)は,自身が編者になった著作『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』(光文社,昭和34年)5「歴史研究と学問の自由(座談会)で,こう発言していた。

 「紀元節の問題もかなり宗教的な問題が含まれている」「明治憲法紀元節の日に発布されてい」る。

 

 「紀元節とか神武天皇の神話」「と,明治における帝国主義的な政策との結びつき」「それをどう」「考え」るの「か」。

 これらは巻末において執筆陣が対談したなかでの三笠宮の発言であるが,その執筆者の1人は,こう記述していた。

 「三笠宮さんの,つぎのような見解はけっして無視できない」。

 

 「もしも2月11日が紀元節と国で決めたなら,小学校の先生は生徒と何と説明するでしょう。せっかく考古学者や歴史学者のいのちがけでつみあげてきた日本古代の年代体系はどうなることでしょう。ほんとうに恐ろしいことだと思います……」。

 註記)三笠宮崇仁編『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』光文社,昭和34年,281-282頁,257頁。

 三笠宮が『日本のあけぼの-建国と紀元をめぐって-』「はじめに」において,同書の編集方針を「次のようにきめた」と断わっていた。

 最近,紀元節問題が紛糾しているのは,つまり,日本古代史を正しく認識していないことが原因である。本書は日本古代史の最新の研究成果・論争点・将来に残された問題など平易簡明に紹介し,各分野の学者が,それぞれ専門の立場から紀元節問題を分析し,さらに学者が過去に受けた政治的圧迫の実態をつまびらかにし,読者に紀元節も問題を正確に判断するための基礎的材料を提供する。

 註記)同書,〔「はじめに」〕4頁。

 色川大吉『近代の光と闇-色川大吉歴史論集-』(日本経済評論社,2013年)は,『朝日新聞』2013年3月3日朝刊「書評」欄に紹介されていた。この書評を書いた上丸洋一(朝日新聞本社編集委員)は,本書の中身をつぎのように紹介していた。

 「天皇制の是非について2人の歴史学者が対談した」。--以下で,昭和天皇の弟で古代オリエント史学者の三笠宮崇仁,★は同書の著者色川大吉である。 

 「これは憲法にあきらかなように,すべて国民に任せるという気持です」

   ★「国民が望むか望まないかの問題ですね,場合によっては天皇制は無くなってもよい」

 

  「そういうことだと思います」

   ★「昭和という元号についてはどうですか」

 

  「西暦にしたらよいですよ。(元号は)なにかにつけ,とても不便です。どうしても年号が必要なら,昭和をこのまま永久につづければいいのでは……」とかれ〔宮〕は笑っていた。 

 註記)色川大吉『近代の光と闇-色川大吉歴史論集-』日本経済評論社,2013年,242-243頁。〔 〕内補足は筆者。

 戦後すぐ,三笠宮は東大文学部で西洋史を,色川は日本史を学んだ。上のやりとりは,もともと1974〔昭和49〕年に,月刊誌に掲載された対談の一節であり,三笠宮との交友をつづる同書収録のエッセーで紹介されていた。

 のちに詳述する内容に関係する話であるが,三笠宮が「とくにオリエント史を志したのは,南京総司令部の陸軍参謀として従軍した体験がもと」になっていた。色川大吉いわく「天皇制はやはり,人間の尊厳のためにも,国民の意識変革のためにも,廃棄しなくてはならないと思った」。

 註記)色川,前掲書,242頁,245頁。

 2)「紀元節(建国記念の日)」

 三笠宮崇仁は,1950年代後半に巻きおこった「建国記念日」に関する議論のなかで,自分の所属する『史学会』(明治22〔1889〕年11月創立)に対して,「建国記念日」制定に反対する決議をおこなうべきであると迫った。しかし,『史学会』理事長の坂本太郎は,「史学会は学術団体であり,政治的決議をするのは馴染まない」として応じなかった。

 この処置に憤慨した三笠宮は,「理事長とまったく見解を異にするから,脱会する」といって総会を退席し,「理事長独裁を批判する」とのコメントを出した。このため坂本は,世論・マスコミから批判された。これに対して,一部国粋主義者は,三笠宮が反対決議をおこなおうとしていたことをしって憤慨し,1959〔昭和34〕年2月11日に開催された「紀元節奉祝建国祭大会」に参加した右翼構成員が宮邸に乱入する事件を起こしている。

 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/建国記念の日 2013年1月25日検索。「三笠宮の歴史感覚」『中央公論』昭和34年1月,217頁も参照。

 三笠宮は,『文藝春秋』昭和34年1月号に「紀元節についての私の信念」という寄稿もしていた。ここでは,歴史学研究者が集まったある席上で三笠宮が,「紀元節問題に発言が少ない」と語ったことをとりあげた新聞記事を紹介しておく。

 註記)文藝春秋編『「文藝春秋」にみる昭和史 第2巻』文芸春秋,1988年,433-444頁。文藝春秋編・半藤一利監修『「文藝春秋」にみる昭和史(三)』文芸春秋,1995年,59-77頁にも転載。

 それは,『毎日新聞昭和32年11月13日朝刊に報道された記事である。歴史学研究会の初代会長「三島 一氏の還暦を祝う会」で挨拶した三笠宮は,こう述べていた。 

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 「2月11日を紀元節とすることの是非についてはいろいろ論じられているが,カンジンの歴史学者の発言が少ないのどうしたわけか」。「先日松永〔東〕文相に会ったとき, “日本書紀紀元節は2月11日とは書いてない” といったら驚いていた」。

 「このさい,この会をきっかけに世話人が中心となって全国の学者に呼びかけ,2月11日・紀元節反対運動を展開してはどうか」。「この問題は純粋科学に属することであり,右翼左翼のイデオロギーとは別である」(拍手)。

 註記)『毎日新聞昭和32年11月13日朝刊。前段にこの記事現物をかかげた。

 前掲「紀元節についての私の信念」で三笠宮は,「茅 誠司学術会議会長に,紀元節反対運動を起こすことを要請」した。「私の紀元節もしくは建国記念日に反対論であるという結論ばかりを扱っていて,何故反対なのか,何を恐れて反対しているのか,一度も説明されていない」。「私が紀元節に反対しているのは,それを国家が法的に決定するのに反対しているのであって。神社とか個人が宗教的にこれを祝福することにまで反対するものではない。民主主義社会においては信仰の事由は守られなければならない」。

 「神武天皇即位が今年(昭和34年)から二千六百十九年前であったということも,即位の日が正月元旦であったということも,いずれも後代の人の作為--もちろん悪意によるものではないが--であったことは明らかになった。したがって,その架空の年月日を太陽暦にあてはめた2月11日もまた架空の日であることは当然であって……」。

 

 「歴史の研究は年代の枠を土台として進められる。もしこの土台に少しでもゆるぎがあったならば,いかにみごとな歴史を組み立てても,それは砂上の楼閣にすぎない。私は重ねて歴史研究者として,架空の年代を国の権威をもって国民におしつけるような企てに対しあくまで反対するとともに,科学的根拠,いいかえれば今まで考古学者や文献学者が刻苦精励,心身をすりへらしてまでも積みあげてきた学術的成果の上に立って,あらためて日本古代の神話継承の研究をさらに押し進めるような感情論から,学問研究の百年の計を一瞬にして誤るおそれのある建国記念日の設置案に対して深い反省を求めてやまない」。

 註記)三笠宮崇仁紀元節についての私の信念」『文藝春秋』昭和34年1月,79頁下段-80頁上段,81頁下段-82頁上段。

 

 「正しいと信じたことを何とかしてみんなになっとくしてもらおうと努力するのは民主主義社会に住む我々の責務ではあるまいか」。「紀元節の問題は,すなわち日本の古代史の問題でもある」。「日本紀元二千数百年といふ思想は決して古来から存在したものではないこと,むしろ西暦紀元の輸入に伴って明確化した考えかたであった」。

 

 「(紀元節復活に反対するのは)生き残った旧軍人としての私の,そしてまた今は学者としての責務だと考えている」。「新憲法において国家と宗教とが明確に分離された以上,クリスマスとか紀元節-歴史的事実でない以上それは宗教的行事とみなさるべきである-を国家の祝祭日として採用することは許されないはずである」。「もし2月11日が祝日に決まれば,われわれはその廃止運動を展開するであろう」。

 註記)三笠宮崇仁紀元節についての私の信念」『文藝春秋』昭和34年1月,および,オロモルフ「オロモルフ号の航宙日誌 4216『紀元節復活と田中 卓博士の献身2』」2010年2月11日,http://www.asahi-net.or.jp/~xx8f-ishr/kigen_tanaka.htm 2013年5月20日検索。〔 〕内補足は筆者。

 3)「神武武創業批判」

 渡辺信夫『戦争の罪責を担って-現代日本キリスト者の視点-』(新教出版社,1994年)は,キリスト者であるから立場は三笠宮と異なるものの,「神武創業」に関しては,つぎのように〈通底する批判〉を述べていた。

 「国の基礎を,神武天皇という実在しない人物の神話に置こうとした権力者の目論みは一応成功し」,「国民の大部分は神話に基づいてしか国家を考えることが出来ないように誘導された」。

 

 「良識で考えれば決してしてならないアジア侵略を起こしたのも,連合国に対する勝ち目のない戦争を始めることが出来たのも,残虐行為の行われている醜い戦争を美化することしか考えなかったのも,戦争を止めようと言い出さなかったのも,紀元節神話によって日本人の思考力が奪われていたからである」。

 

 「いまだに日本人の多くは,国家というものを,真理に基づいて理性的に考えることをせず,神話的思考によって把握する」。

 

 「1966年,この日が建国記念の日として制定された時,昔を知る者は紀元節の復活を感じ取った。一つの国にとってその出発を祝うことには意義があるかも知れない。しかし,何故2月11日なのか?敗戦の日ではいけないのか? 平和憲法の記念日ではいけないのか? しかし,建国記念の日を制定しようとする思想にとっては,2月11日でなければならない」。

 

 「すなわち,確かな歴史でなく,建国神話への復帰でなければならない。彼らはこの日に固執した。そこで,昔に逆行して行く流れに抵抗して,我々はこの日を『信教の自由を守る』として位置づけ,それ以来戦って来た。根拠なき神話に建国の基礎を置こうとするのは,日本国民を今なお神話に縛り付けて思想的奴隷に留めておくことなのである」。

 註記)渡辺信夫『戦争の罪責を担って-現代日本キリスト者の視点-』新教出版社,1994年,96-97頁,98-99頁。
 

 いうなれば,「神武創業」が発出したと決められた,いいかえれば,歴史においては非実在・架空の天皇のための「建国記念の日:以前の紀元節」は,「明治国家像の」「構成原理」を,「天皇親政の古代王政への復古として,《天賦国権説》的なア・プリオリズムを」「選択」し,「確認するという方向で行われた」ところから導出された日付けであった。 

 それゆえ,これをいかに近代合理的な政治原理に則して説明せよといわれても,もとより答えられる術はなにもない。このようにその「神武創業」の基本精神は,「国家構成の手続きとして人為的な《契約》の契機を,原理上,排除する点に」よってこそ,存立できていたからである。

 註記)宮川 透『現代日本思想史 第1巻 明治維新と日本の啓蒙主義』青木書店,1971年,89頁,88頁。

 さらに,大井 正『日本の思想』(青木書店,1954年)は,すでにこう分析・批判していた。

 明治以来,万邦無比といわれた国体の内容は,まさに神話であった。この神話が進歩的な思想家の頭脳に亀裂をあたえ,また,帝国主義的貪欲の先鋒となった。この神話は,進歩的な思想家たちに残存している観念論的な要素とむすびついて,ついにはこれを凶悪な,反動的な,反人民的な思想にまで転化させた。日本の進歩的な思想家のなかには,天皇の問題にまでくると,くるりと反動化する人々がしばしばあった。

 

 万邦無比といわれる国体の神話には,2つの主要な部分がある。1つは,天皇万世一系であるということ,1つは,天皇と人民は同一の祖先からでた一家であるということである。ところが,この種類の神話は,太平洋の島々にはごろころ転がっているものなのである。いわゆる万邦無比ということは,ヨーロッパや中国の先進文明にはみられないということだけを意味する。かつての有能な民族学者松岡静雄は,多少の遠慮とゴマ化しをともないながらもすでにつぎのようにいっている。 -中略-

 

 20世紀の文明社会には,日本の支配階級は,ミクロネシアポリネシアにはざらにある神話的な,非科学的な信仰をもってきて,人民の思想を教育するために道具にしたわけであるが,それはかえって,その意図の凶悪さをあますところなく物語っている。しかし,これと似たイデオロギー制作は,日本だけでなく資本主義末期の諸国にもしばしば見受けられる事柄で,その点でも,日本は,万邦無比ではなく,世界的な思想史の法則にもしたがっている。ただ,天皇信仰の神話が利用された点が日本の特色である。

 註記)大井 正『日本の思想』青木書店,1954年,151-152頁,153頁。

 紀元節をもって「神武創業」の出立日に定めてみた明治期の政治家および思想家たちの観念構造は,「国家の成立にかんして歴史的にも,そして同時に理論的にも合理的な見解をもちあわせていなかった」。この事実は,明治政治思想史において確実に記録されていた一コマであったが,21世紀も20年も経った現在でも無残な光景となって,同じ見解を「後生大事」にしたがる倒錯が生き残っている。

 註記)大井 正『日本近代思想の論理』合同出版,1958年,11頁。

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