三笠宮崇仁問題(その2)-2020年2月11日に語る皇族の生き様(続)-

皇族と不敬的な問題,死亡の事実をどう表現しているのかなどの諸問題-三笠宮他界問題(2)-
                          (2016年10月29日)

 

  要点:1 『朝日新聞』が保阪正康のほかに工藤美代子にコメントを求めるようでは「朝日も終わり」,対照的に『日本経済新聞』は保阪正康と原 武史にコメントを求めていた

  要点:2 天皇家主催の秋「園遊会」は喪中にて中止

  要点:3 三笠宮は本当に,皇族のリベラルだったのか? 「籠の鳥」としての平和志向は一時期主張されたに過ぎない

  要点:4 2016年10月27日午後で,各新聞社の報道ぶりなど   

    「本稿(1)」〔2020年2月11日更新,2016年10月28日〕目 次

 

 三笠宮さま逝去,100歳 昭和天皇の末弟 軍隊知る最後の皇族」(午後の早い時間の Web版から⇒『東京新聞』2016年10月27日夕刊)

 日本経済新聞』「戦争への悔恨,リベラルな姿勢 三笠宮さま逝去」(nikkei.com 2016/10/27 14:03)

 三笠宮さまご逝去 飾らぬ素顔 カラオケやドラマ楽しむ」(『毎日新聞』ウェブ版,2016年10月27日 12時09分(最終更新 10月27日 14時20分)

 三笠宮さまがご逝去…100歳,昭和天皇の末弟」(『読売新聞』ウェブ版,2016年10月27日 13時45分)

  皇族の一員としての三笠宮の問題特性

  三笠宮崇仁の軍部批判-過去における発言-

---------------------------

  ◆ 以下,本日における記述

--------------------------- 

 紀元節支持者の没論理性」

 a) 三笠宮の論稿を,昨日〔こここでは2016年10月28日のこと〕の記述中で紹介していた人物は,里見岸雄天皇三笠宮問題』(錦正社,1960〔昭和35〕年)「(7) 特別附録 三笠宮問題」の主張を,受け売りで紹介するかたちで,こう発言していた。

 「周辺の人たちの困惑が目に浮かびますが,宮様は,『国家の儀式としての紀元節論』と『歴史学における国家紀元論』とを混同しておられ,その混同は,いくら指摘されても直らなかったそうです」。

 このように批判したつもりなのであれば,ここではさきに,里見岸雄の思考方法に対して,批判的な分析をくわえておく必要がある。だが,まずもって,気をつけなければいけないことがある。

 一方においては,「国家の儀式としての紀元節論」のためを狙っていた,それももっぱら「神話に即して解釈された議論」があり,他方においては,「歴史学における国家紀元論」=「研究にもとづいて解釈される議論」がある。これらの議論が対話の場を設けられて,たがいに議論し,批判しあったからといって,この対論じたいからただちに,どちらかの側に不都合が生じるとか,ましてや,両説の混同を来したりとかするとは,とうてい考えられない。

 紀元節はもとより,その種の「歴史の議論」と「神話の議論」とを,相互に関連させ,有機的にも絡みあわせて討論しなければ,紀元節にかかわる〈問題の要因〉を,総合的に議論したことにならない。両説に共有されているはずの,「神話の時代における歴史の問題」および「歴史(神代史)のなかにおける神話の問題」は,神話の問題と歴史の問題との双方に関係を有する古代史の問題であるゆえ,もとより同じ次元に乗せなければ,それこそ議論すらなりえない。

 神話の問題であれ歴史の問題であれ,できるだけ科学的に解釈し,なるべく合理的に説明したいのであれば,「神話の歴史」から,あるいは「歴史のなかの神話」から出てきたような問題だからといって,わざわざ「神話」と「歴史」を引き離し,それぞれ別物だといいはる理屈は,議論の回避であり,拒否である。つまり,当該問題の性格からして本来,同一次元に載せられる問題同士であり,もともと密接不可分の関係をもつ両「問題」である。

 ところが,それらを恣意・任意に分離させえるかのように申したてる理屈じたい,実は,特定の価値判断に偏倚した態度を意味する。それも,学問以前の原始的な意識=「天皇信仰心」をもって誘導されたその理屈であるためか,最初から徹底的に「歴史学における国家紀元論」を排除しておかねばならず,この「国家の儀式としての紀元節論」は,〈古代的な信心だけが頼りの,議論には滅法弱い立場〉を余儀なくされている。これでは,まともな議論は展開できない。

 「紀元節を設けたい側」は,自分たちに都合のよい理屈だけを,ひたすらまくし立てている。こうした論戦(議論)を展開する人物たちにかぎって,専門家でも研究者でもないためか,まさしく里雄岸雄『天皇三笠宮問題』に陳述されているごとき,「国粋・保守・右翼思想に固化した国体学者」のいいぶんを,ただ鵜呑みにする論陣しか張れていなかった。

 当の里見岸雄は,こう主張していた。「紀元の学術的研究と紀元節問題とは必ずしも同一ではない」。「紀元節を設置することに賛成するかしないかについて,国民大衆が拠りどころにしてゐるのは,純粋科学といふよりも,むしろ左右のイデオロギーだといふ方が,どれだけ真実に近いか」,三笠「宮は,観察眼を正確にして直視されなければならない」。

 註記)里見岸雄天皇三笠宮問題』錦正社昭和35年,381頁。

 b) 里見岸雄が繰りだしたこの理屈は,三笠宮に対して「まづ歴史学の領域に於ける紀元論と,国民的情意の要求たる紀元節論との混同を整理なさる必要があり,そして,歴史科学の紀元研究に於ける限界についての認識を正確になさる必要があると思ふ」と要求していた 註記)。ここに明示された里見の見解は,「国民的情意の要求たる紀元節論」から観察すれば,「歴史科学の紀元研究に於ける限界」が透視できると豪語している。

 註記)里見,前掲書,361頁。

 このような見地に依拠すれば,前者の「紀元節論」は,後者の「歴史研究」など蹴散らかす威力を,国民的次元におけるその情意から発揮できている,という一点張りなのである。換言すれば,歴史科学の議論に対して,「国民の情意を最優位に置く」という絶対先験的な価値判断が提示されていた。里見流になるこの説法は,科学・学問の主張に対して,情意・感性の立場から反撃する議論であった。

 以上のような里見岸雄の論法は,どだい無理な反論・批判の展開でしかない。「論理学〔的な思考方法〕のイロハ」にまで立ち戻って,その思考方式を吟味しなければならない。里見の底意に感知できる意向は,紀元節の問題を,もっぱらイデオロギー次元であつかえばいい,それも国民大衆の情意を尊重する方途で決着させておけばいい,という口調に終始していた。

 紀元節というものが,ともかくも国家の祝日に指定されるべきだという1点のみ強調していた。それで十分に満足する論旨であった。しかし,これは,果てるところをしらない逸脱の議論であり,まさに没論理の横暴である。三笠宮による「紀元節反対論」を,ただ単に左翼イデオロギーだと非難するごとき,頑迷右翼イデオロギーに特有の,紋切型の感情的反撥を噴出させている。仲間内でならば,それで説得力もあるかもしれないが,誰でもに対して説得力ある発言ではない。

 c) 里見岸雄天皇三笠宮問題』は「序文」のなかで,こう断わっていた。「本書は一般に教養のある人を標準として書いたものであって,学術論文として執筆したものではないから,煩わしい考証や引用を避けたけれども,著者としては専ら学問的良心に従って書いたものであることを明かにし且つ学問的責任を負ふことを明記しておく」とわざわざ述べておき,学術と教養の境目をボカしつつ,両域をいったりきたりする観点を暗示させ,さらには教養(感性?)のほうに学術を引っぱりこみ,溶解させたいかのようないいわけ(ほとんど屁理屈だが)を披露していた。

 つまり,「教養のある人」であれば,三笠宮を批難したとき言及したように,「まづ歴史学の領域に於ける紀元論と,国民的情意の要求たる紀元節論との混同を整理なさる必要」が要求される以前に,「国民の情意を最優位に置く」里見の立場を支持・採用するに違いないと主張するのである。里見は,自説について絶対的な自信をもっているが,これは「歴史学の領域に於ける紀元論」の研究成果など顧慮しておらず,自分の都合に合わせて勝手に放逐したうえでの確信(妄信)である。

 要するところ,里見岸雄の論旨は,学術の基本的な作法を弁えた記述になっていない。それどころか,「2月11日」を紀元節(現在の「建国記念の日」)と決めるに当たって,「国家の儀式としての紀元節論」は,「歴史学における国家紀元論」に批判されると,いとも簡単に粉砕されてしまうからこそ,この〈自説の限界〉を非常に気にしている。

 しょせん,「国家の儀式としての紀元節論」は,歴史学的には実証的根拠ない,現世実利的な国家イデオロギーによる提唱である。したがって,「歴史学における国家紀元論」の排除に必死となる事由には,それなりに強固なものが控えている。

 f:id:socialsciencereview:20200211170321j:plain
 出所)http://ja.dosuko.wikia.com/wiki/マコオタ画像集(三笠宮家関係)01
 付記)1934年士官候補生として千葉県習志野の騎兵第15連隊に入隊,練兵場付近を行進する澄宮(御坂の宮,向かって右)(朝日新聞社)。全員がゲートルを巻かずに長靴を履いているところが特徴的である。

 d) 皇族,それも昭和天皇の末弟である三笠宮が,「2月11日」が紀元節建国記念の日)であるべき〈歴史学の根拠はない〉と強く主張した。これに反論するために里見岸雄は,前段で批判しておいたように,三笠宮が「国家の儀式としての紀元節論」と「歴史学における国家紀元論」とを混同していると非難し,排斥しておくほか方法がなかった。

 こうして,最初から無理筋の「破綻した論理」をもち出し,対抗せざるをえない国粋・保守・右翼のイデオロギー的な論陣は,まともな論理構築すら可能でなかった。それゆえ,里見岸雄陣営の人びとは1959〔昭和34〕年2月11日,皇族の三笠宮の私邸に乱入するという暴力性の発露揮をもって,みずからの「論理の破綻」を証明した。

 f:id:socialsciencereview:20200211171109j:plain

 出所)里見岸雄大正13〔1924〕年,http://www.kokutaigakkai.com/里見岸雄とは/

 ところで,日蓮宗僧侶出身の国粋主義者天皇絶対主義者の里見岸雄による三笠宮崇仁「批判」に対しては,三笠宮自身は「長い沈黙をもって答えている」事実をとらえ,「三笠宮は,自ら戦後の『新格子なき牢獄』入ったのであろうか」といぶかる指摘もあった。

 註記)牛島秀彦『ノンフィクション 天皇明仁河出書房新社,1990年,53頁。

 また,後述であらためて話題とするが,三笠宮の実子,寛仁が1982〔昭和57〕年に「皇族離脱発言」を放ち,日本社会を騒がせたことがあった。結局,寛仁は皇籍を離脱しなかったものの,父:三笠宮崇仁の影響が観取されてよい。

 

 靖国神社支持論の没論理性」

 以上 ⑦ の論述で批判したのは,戦前から活躍していた里見岸雄という国体学者の「三笠宮を批判する観点:価値判断」であった。同じような要領で,区分できない同士の論点を,自分たちの考え方によれば “勝手に分離できる” と想定したうえで,靖国神社擁護論に関する強引な理屈を開陳していた人物もいた。ここでは,神道学者葦津珍彦(あしづ・うずひこ)を紹介する。

 f:id:socialsciencereview:20200211173445j:plain

 出所)葦津珍彦,https://ironna.jp/article/1502

 a) いわく「生還を切望してゐたけれども,やむなく戦死した,その結果を悲しんで行はれる懇切な祭り」を執りおこなう靖国神社については,「その悲しみの結果として行はれた祭りの精神を逆立ちさせて解釈し,それを『戦死させる目的』をもって,靖国神社の祭りが行はれたかのやうに曲解して『反靖国』『反国家神道』の理論構成をしてゐるやうな新奇の主張が」あるといって,靖国神社批判勢力に対する非難・反論を繰り出している。

 註記)葦津珍彦『国家神道とは何だったのか』神社新報社,昭和62年,195頁。

 しかし,この見解も,歴史に展開してきた靖国神社の本性を完全に無視してこそ,やっと口に出せる短絡的な論旨に終始している。明治以来の歴史に対する一面観は鮮明であり,詭弁を弄するしぐさも露骨である。そのあまりにも視野狭窄の論法は,自己の閉塞的な完結性を正直に物語っている。

 大東亜・太平洋戦争において,旧日本帝国の陸軍の場合,「戦死(戦没)した兵士」の6割は餓死だという研究報告もある実態を踏まえるとき,はたして「やむなく戦死した」などという修辞の使い方を間違えてはいないか? 「無駄死に・犬死に」させられた兵士のほうが過半を占める軍隊とは,異常を通りこしていて,いかに表現したらよいのか困るほど「戦争・軍隊の論理(不合理なそれだが)」に反していた。

 おまけになんといっても,官軍の「錦の御旗」に逆らい,死んだ賊軍側の〈悲しみ〉などは,同じ日本民族であっても,その境内からは追放してきた靖国ではなかったか? 明治から大正も過ぎて,昭和の時代になってからの日本帝国は,陸海軍の将兵を「戦死させることが目的そのもの」でもあったかのように,戦場での死者をどんどん出す戦争を進展させていく全体主義国家体制であった。こういう決まりではなかったのか?

 靖国神社の本殿の祭祀はあくまで国事に殉じた功績を讃え,顕彰するものであって,戦争で悲しい犠牲を強いたことについて,命令した者が詫びをいって痛切な反省の念を表明するような場であってはならない。

 註記)三土修平靖国問題の深層』幻冬舎,2013年,144頁。

 b) 大元帥昭和天皇の臣下・赤子たちが,いったん死者になってしまえば,もちろん口はきけないし,「死んだことについての感想」も訊けない。あとは結局,残された生者:遺族の不満を封印しておき,万が一でも噴出する不平を抑制しておく手だてが不可欠である。遺族には不安などみじんも感じさせてはいけないし,このまま黙らせておくための理屈が必要である。

 国家の戦争ために「尊い命を捧げてくれて役立った」者たちは,「戦争神社=靖国神社の《英霊》」として祀ってやっている」ではないか。それに,「天皇陛下もわざわざ靖国に来て親拝・親祭してくれるという名誉」も与えられているのだから,ありがたい思し召しと思え。このように指示する「天皇支配国家の論理の倫理」は,民衆の側の誰にあっても,いっさい疑問なしに受容されてきたわけではない。

 葦津珍彦はだから,日本の伝統は天皇親政であると同時に祭政一致である考え,これを敗戦後における日本・日本人の考え方として受容させる工夫として,その強点(核心)を「祭り主」や「日本人の精神の統合者」に移しておき,温和な形式に変えてみたわけである。となれば当然のこと,皇祖神に民意を奉告する「祭り主」は市民社会に埋没したり,「共和制の羽根飾り」になったりしては,いけない。

 註記)栗原 彬・杉山光信・吉見俊哉編『記録・天皇の死』筑摩書房,1992年,365頁。

 

 靖国神社の歴史的な根本矛盾」

 a) 葦津珍彦が理論的な影響を受けたらしい石井良助『天皇天皇の生成および不親政の伝統-』(山川出版社,1982年,講談社,2011年。これらより以前に公表されていたのは,石井良助『天皇天皇統治の史的解明-』弘文堂,昭和25年)は,「天皇を凝視し,永きにわたるその存在を,一貫したゆるがぬ論理(=天皇は親政せず)により整合的に解釈した」著作である。

 註記) 石井良助『天皇天皇の生成および不親政の伝統-』講談社,2011年,本郷和人・解説「時代を貫いて結実する天皇論」397頁。この著作の発想はさきに,石井良助『天皇天皇統治の史的解明-』弘文堂,昭和25年に提示されていた。→石井『前著』本郷・解説,394頁も参照。

 しかし,靖国神社の位置づけについていえば,葦津珍彦は,石井良助から有用な理屈を,なにも調達できてはいない。靖国問題の「歴史的な本性:根源」は,石井良助が天皇天皇制について論及したごとき「歴史の永さ」のなかに収めて議論することを,許されていないのである。明治維新以来に形成された靖国神社の基本性格は,「天皇親政せず」という原則から大きく脱線していた。「天皇天皇制」を歴史通観的な視座で観れば,「靖国神社の登壇」「近現代の戦争責任」は,一過性的な現象問題であるとしか位置づけられない。

 ただし,その「現象問題に伴っていた危うさ」そのものが,日本帝国の敗北を区切りに,ともかく「一過のもの」とされ,終止符を打たれていたかといえば,けっしてそうではなかった。敗戦後に残された靖国神社は,戦争=「戦勝」神社である基本精神には手をつけられることもないまま,なまじ「敗戦」後も一宗教法人として生き延びることができていた。そのせいで,かえってこの神社の反時代的な性格(利害)がさらに,きわ立たせられる経緯をたどることになっていた。

 b) 1978年10月17日,靖国神社A級戦犯を合祀し,昭和天皇の深意に逆らう結果を誘引させていた。この出来事は,当時まだ生存していた昭和天皇靖国の神事を親祭(親拝)し,これによって「皇国日本および日本人の精神の統合者」たらんとする,靖国での「彼の役目」を剥奪した。これは昭和天皇にとってみれば,敗戦後の人生がそれなりに落ち着いてきた道程をたどって来たなかで,いまさらのように「自分の古傷に塩を擦りこまれるような決定的な大事件」であった。こういう前提があったのではなかったか?

 英霊は官軍側だからこそ英霊なのであった。/(西郷隆盛のごとく)たとえ明治維新の功労者であろうとも,晩年賊軍の首魁になってしまえば英霊にはなれない。それはまごうかたなき「勝てば官軍」の論理である。慶応4年の江戸城大広間招魂祭は,靖国がどういう心性で創られたかを如実に示している。/ だが,皇軍は昭和20年(1945)に負けてしまった。あってはならぬことが起こってしまった。さて,どうするか。

 

 われわれ(靖国の立場)が祭っている英霊は,単に犬死にしただけなのか。連合軍から「賊軍」呼ばわりされたままではそうなってしまう。靖国神社遊就館という付属施設を用いてさかんに鼓吹している「あれは正義の戦争だった」史観は,絶対にゆずれないものなのである。

 

 思うてもみよ。これまで正義のいくさだとされていたものが「侵略戦争」呼ばわりされ,これまでの英霊に代わって,朝鮮独立運動の志士だの日本の社会主義者だのを英霊として顕彰するなどということがあってたまるものだろうか。あくまでも従来の価値観を死守せねばならない。靖国神社やそれを支える人たちがそう考えたのはごく自然であり,私もそういう立場にあったらそうしたであろう。

 

 靖国の根本矛盾がここにある。/ そもそもの始まりからして,「英霊」とはゆがんだ言葉であった。/ 当初は革命のために散った烈士たちを鎮魂・顕彰するために,その同士の生き残り(=明治政府の要人)たちが創ったにもかかわらず,西南戦争日清戦争を経て皇軍兵士の霊魂収容所となったために,「国体」を護持する側を祀る施設に堕してしまったのである。

 

 靖国神社という装置もまた,王家のために設けられながら「日本」を表看板としている。天皇のために戦った軍人たち-正確にいえば,天皇の意向であると自称する勢力に殉じた人たち-が,日本国のために尊い犠牲であると論理的にすり替えられ,その行為を顕彰する目的で創建されたのが,この神社なのだ。

 註記)小島 毅『靖国史観-幕末維新という深淵-』筑摩書房,2007年,118-119頁,119頁,120頁,192頁。/ は原文改行箇所など。

 c) 敗戦後も靖国神社に「親拝」し「親祭」する天皇裕仁の行為は,1945年8月を境に,『敗戦の将(大元帥)の立場』におけるものに変化していた。それゆえ,敗戦の責任を自分の代わりにとらされ,絞首刑に処されたかつての「股肱」たちが,その祭壇に新しくくわえられて合祀されたとなれば,この靖国の境内は,彼にとって「立つ瀬もない」「いたたまれない」場所になってしまっていた。

 だからか,葦津珍彦や阪本是丸,百地 章,大原康男など国粋・保守・右翼の神道学者や憲法学者たちは,敗戦後になってから必死に捻りだした「国民宗教」とか「市民宗教」という新規の名称をもちだし,憲法原則の無原則的な逸脱を図り,国家神道復権させて「国家的宗教としての神社神道」を,あらためて採用するように提唱している。

 註記)直前の段落は,子安宣邦『国家と祭祀-国家神道の現在-』青土社,2004年,23頁。

 

 靖国参拝問題:2013年4月~5月に観る一事例」

 a) 2012年12月に発足した第2次安倍内閣に関するある動向ついて,2013年4月22日の新聞は,「麻生副総理ら靖国参拝,安倍首相は『真榊』奉納-公明,不快感示す」との見出しで,こう報じていた。

 4月21日,麻生太郎副総理と古屋圭司拉致問題相が東京九段北の靖国神社に参拝したが,この前日に新藤義孝総務相も参拝しており,第2次安倍内閣の3閣僚の参拝が明らかになった。靖国神社は4月21日から春季例大祭で,安倍晋三首相は同日,神前に捧げる供え物「真榊(まさかき)」を奉納した。

 

 古屋氏は参拝後,記者団に「国務大臣古屋圭司として参拝した。玉串料は私費から出した。国のために命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げるのは当然のことだ」と語った。麻生副総理の周辺は記帳などのない一般参拝と説明し,加藤勝信官房副長官も同日参拝した。新藤は「私人として参拝した」と述べていた。

 

 安倍政権は靖国参拝について「閣僚の自由意思に基づいておこなうことだ」(安倍首相)としており,閣僚の判断に任せる方針である。首相自身は「(前回の)首相在任中に靖国参拝できなかったのは痛恨の極みだ」と参拝に意欲を示しているが,外交問題になることを回避するため,今回の春季例大祭では参拝しない見通しである。公明党山口那津男代表は4月21日,さいたま市での記者会見で靖国参拝について「外交的な影響が出ることは避けられない。(中国,韓国両国との)関係改善を損なわないよう配慮が必要だ」と不快感を示した。

 

 靖国神社をめぐっては,小泉純一郎首相(当時)が参拝を繰り返し,中韓が反発を強めた。後継の安倍首相は第1次内閣では参拝を見送った。民主党政権は当初,参拝を自粛していたが,野田内閣の閣僚が相次いで参拝し,自粛方針は形骸化していた。

 註記)『朝日新聞』2013年4月22日朝刊。

 b) 以上の新聞報道は,日本の政治家,それも自民党民主党などは靖国神社に参拝することを,日本国民として当然の行為を踏まえているらしいが,日本国民全体が同じ宗教的な観念を抱いていない事実は,とりわけ,戦争の時代の記憶をもっている,高齢者たちからの反論によって提示できる。

 以下に引用・列記するのは,朝日新聞「投書:声」欄によせられていた庶民の意見である。「国家の戦争に捧げた尊い命」とか「靖国の英霊」とかいった国家神道側の宗教的倫理は,完全に拒絶されている。

   ※-1「どんな真心 閣僚は捧げたか」(岡山県浅口市 西山政志:無職,86歳)

 「閣僚がまた靖国神社を参拝した。麻生太郎副総理や古屋圭司拉致問題相ら3人。理由はいつものとおりである。古屋氏は国務大臣として参拝したといい,『国のために命を捧げた英霊に哀悼の誠を捧げるのは当然』と語った。わたしは不快になった」。

 「この場合の『国』とはいったいなにか。わたしの体験からいえば,国のためとは時の為政者(戦争指導者)のためではなかったのか。また,『哀悼の誠を捧げる』というが,具体的にどんな真心を(ことばとして)捧げるのか,と問い返したいと思う。哀悼の誠を捧げるのであれば,個人として静かに参拝してもいいはずであるが,なぜ閣僚としての肩書が必要なのかも聞きたい」。

 「わたしの長兄は昭和20(1945)年,若い妻と幼い娘と,年を重ねた両親を残したまま,沖縄で戦死した」。「兄の墓前に向かうたびに,わたしはいつも『ごめんなあ。つらかっただろうなあ。どうか,そちらでゆっくり休んでな』。こんなことばをかけてしまう」。「靖国神社参拝の閣僚は,戦争指導者も合祀した社の前でどんなことばをかけるのだろうか」。

 註記)『朝日新聞』2013年4月26日朝刊「声」。

   ※-2「『犬死に』美化してはならぬ」(佐賀県白石町 白武留康・無職,75歳)

 「戦死した私の次兄は靖国神社にまつられている。一方,復員後結核で亡くなった三兄は,我慢して軍の病院にかかっていなかったため,戦病死の認定を受けておらず,まつられていない。戦後の入院もできない貧しい医療環境のなか,自宅で19歳で声も出さず亡くなっていった」。

 「このさい,靖国にまつられるか,まつられないかは問題ではない。ただ,三兄も戦争のために死んだのであり,肉親としては三兄の方が苦悶のなかでの壮絶な死だったといまでも私は思っている。同時に2人とも『英霊』などといわれるような『お国のため』の死ではなかったとも思う」。

 「死者を冒涜するつもりはない。正直に兄たちを含め,その死に方と国との関係をみつめなおしたいのだ。南方のジャングルの中で飢え死にした兵たちを含め,靖国にまつられている戦死者の多くは,無謀な戦争のための哀れな犠牲者以外の何者でもなかったことを,当時をしる者は史実として実感しているはず。あえて『犬死に』といった方が,はるかに悲惨な事実に近いと思う。その認識こそ『死者』に対する真の追悼だと私は考える。美化してはならない」。

 註記)『朝日新聞』2013年5月2日朝刊「声」。

   ※-3「語りつぐ戦争 『英霊』は死を強いられた人」(和歌山市 田村善臣:無職,87歳)

 〔19〕「41年3月,中学を卒業した私は満洲電信電話会社に就職しましたが,東京出身の総務部長に『言葉が悪い』と転勤させられたのを機に辞職。少年飛行兵を志願しました。しかし近眼を理由に採用されず,軍属の飛行機整備工として終戦まで大阪・泉佐野の飛行場に勤めました」。

 「終戦間近になると特攻の出撃命令が増えました。離陸すると上空を旋回し,操縦席からわれわれに『最後の挙手』をして飛び立ちました。彼らの心情を思うと,いまでも『気の毒だ』と思います」。

 「靖国神社に参拝する国会議員らは,祭られている人を『お国のために戦って亡くなった英霊』と表現しますが,『英霊』の大半は意思に反して死を強いられた人たちです。『お国のために散った』とは彼らの心情をしらないのです。対立する国とよく話しあい戦争を避ける姿勢こそ『英霊』に対する恩返しだと思います」。

 註記)『朝日新聞』2013年5月21日朝刊「声」。

   ※-4「語りつぐ戦争 ニューギニアを敗走した義父」(京都府 四方暉之:機械部品製造業,70歳)

 「14年前に80歳で亡くなった妻の親父(おやじ)殿は酒を酌み交わすたび,ニューギニアで敗走した悲惨な体験を聞かせてくれた」。

 「連合軍の艦砲射撃,戦闘機の銃撃。上陸した敵が基地を整備し,飛行場までまたたく間に造り上げるのをみて,絶望のふちに沈んだ。弾薬も食料も尽き,病に侵され,気が付くとオーストラリアの捕虜収容所にいたそうだ。所属する連隊がほぼ全滅するなか,生き残ったことについて親父殿に問うたが,幸いとも無念とも口にしなかった」。

 「安倍晋三首相が靖国神社に参拝した。『積極的平和主義』というが,かつて大東亜共栄圏を唱え,国際社会で孤立した日本と重なるだけだ。誰も死なないのを平和という。私たちは岐路にある。二度と英霊を生んではならない」。

   ※-5「語りつぐ戦争 兄は靖国神社で安らかなのか」(愛知県 横山ツナエ:主婦,82歳)

 「私が尋常小学校1年の〔19〕37年,長兄は日中戦争に出征した。『3年お役目を務めたら帰ってくるよ』という言葉を信じて母は長兄の帰りを待った」。

 「ある夜,私は父母のひそひそ話で目が覚めた。長兄が帰ってくると聞こえ,再び眠りについた。翌朝,『兄さんはまた3年帰りが延びたよ』という母の言葉に,がっかりした。母は『一度会いに行きたい』と懇願したが,父は『お国のため辛抱しよう』と諭したのだった」。

 〔19〕43年9月,長兄戦死の公報が届いた。成績優秀で自慢の跡取りを失った母は,毎日毎日家の裏の墓にいって泣いた。15年後,亡くなるまで母の嘆きは続いた」。

 「長兄は靖国神社に祀られている。母と次兄は村が仕立てたバスで一度いったが,私はいったことがない。戦争はむごいもので,死んでいった兵士を思うと腹立たしく思う。長兄は靖国神社で安らかだろうか。本来なら穏やかに父母と仲良く同じ墓で眠っているであろうのに」。

 註記)※-4,※-5は『朝日新聞』2014年2月18日朝刊「声」。

 c) 日本の兵隊たちは「一銭五厘で召集され,鴻毛より軽い命である」と覚悟させられる軍国教育を受けた。天皇のために死ねば「英霊」,生きていても「一銭五厘」。どちらにより重い価値があると教えてきたのか? 「死」はより重く,「生」はより軽い。

 前出の,里見岸雄にしても葦津珍彦にしても,国家神道の宗教的な「死」に関する意味を,「結果論」でしか語ることができていない。はじめから「天皇のための死」だけを予定し,「1人ひとりの生」をないがしろにし,「皆民の死」ばかりを語りたがっていた。ここには「生還を切望してゐた」庶民の気持など,寸毫も配慮されていない。

 「国家神道による思念」は,宗教として,つまり神道としても完璧に邪道である。端的にいえば,宗教一般の基本精神から大きく逸脱している。これでは,靖国神社の祭神は,単なる「死神信仰」の対象でしかありえない。

 もともと戦争がなくて,死ぬこともなければ,その「悲しみ」は生まれない。靖国神社は,その「悲しみ」=戦争死を,荘厳な雰囲気を隠れ蓑に使いながら,収容(合祀)するための国家宗教用施設である。靖国神社は,帝国主義侵略戦争の国家路線を念頭・前提におき,合祀祭という特異な儀式を考案し,それまでの神道の伝統にはなかった「祭神をつぎつぎと増やしていく異様な神社」である。

 註記)三土『靖国問題の深層』75頁参照。

 里見岸雄も葦津珍彦も,前段のごとき靖国神社に固有であるその事実:特異性を当然視し,これをなんとか合理化しようとする観念を抱いてきた。しかも,自分たちだけは『生者の側に居るの現世の立場』に居ながらも,そのように「戦争死の事実」をあつかうとき,国家のためであれば必らず「崇高でありうる死がある」と,無理やり教説するばかりであった。

 d) だが,いわれることはすべてが結果論であり,死をもたらす「大元の原因」,その死に追いこむ国家主体側の問題性については,けっして触れようとはしていない。いうなれば,こちらについては「触らぬ神に祟りなし」である。もっと直截にいえば,そこには欺瞞が満ち満ちている。

 恩賜財団軍人後援会の機関誌『軍人援護』(第3巻第12号)は,「靖国神社祭神の妻或は子を意味する」『靖国の妻』『靖国の子』という称呼は「洵(まこと)に恐れ多い」ゆえ,これを『ほまれの妻』『ほまれの子』といいかえさせた,と伝えていた。靖国神社に祀られて神となったその妻子を「靖国の子・妻」と呼んでも,別に不思議はない。ただ,「自分たちは靖国の妻・子だ,もっと厚遇してくれ」て当然だと,靖国神社の権威を笠にきて要求してきたら,抵抗するのがむつかしいと考えたらしく,そのように称呼をかえさせたとみれば辻褄が合うのである。

 註記)一ノ瀬俊也『故郷はなぜ兵士を殺したか』角川文芸出版,平成22年,106頁。

 結局,「そもそも日本社会は明治から現代に至るまで,生者同士の『政治』から離れ,戦死者の立場に立って『慰霊』なり『追悼』なりの論理を構想してきたことなど,実は1回もなかったのではないか」。

 註記)一ノ瀬,前掲書,280頁。

 

 「敗北した日本帝国に靖国神社は不要」

 a) 里見岸雄も葦津珍彦も,一方で,戦争・戦場で死んだ人間が怨みを抱き,その他方で,遺族には怒りを起こさせる因果があることを,きっと熟知していたはずである。もっとも,これはごく常識的な理解である。それゆえ,この因果が本当に包する意味は,帝国主義日本の表舞台から「戦死者」たちを中空に引き離しておくが,しかもその引き受け手を「国家神道=戦死用神社:靖国の役割」に定めている点にみいだせる。なにせ,1945年8月の敗戦を機に,250万近くもの《英霊》をかかえるに至ってしまった《九段下の祭壇》である。

 里見や葦津は,国家が臣民を「戦死させる直接の目的」を否定しておかないことには,大日本帝国の維持すらおぼつかなくなるという前提を,よく承知している。かといって,敗戦後の日本においても帝国主義時代の靖国が,はたしてそのまま必要なのかと問われると,この判断については必死に回避する。そして,この都合の悪い点は黙って棚上げしておきながら,いまだに「古い時代の日本帝国主義の価値観」を是認する「戦争神社」を,後生大事に維持・保守することに,異常なまでこだわっている。

 b) 靖国神社はいまもなお,その基本精神においては,国民の「戦死を予定」すべき「国家的な意味を有する宗教施設」でありつづけている。それにしても,実に馬鹿らしいことを尋ねるが,靖国神社にとって敗戦はなかったのか?

 この神社に固有の性格である明治帝政的に異様な国家神道性,つまり,根深い詭弁構造に依存した国家全体主義に寄り添ったその宗教精神は,臣民:国民によって絶えず支持されることを強請していなければ,まともに発揮することができない。

 「戦前の体制」は「伊勢神宮以下の国民道徳の宣揚の場としての神宮・神社,および国家のための戦死者を神として崇める靖国神社護国神社が,一般宗教とは別建てでひときわ高くそびえ立って国民の精神生活におおいかぶさり,それでいて憲法には『信教の自由』が銘記してあるという」「奇妙な体制」であった。

 註記)三土『靖国問題の深層』78頁。

 c) 里見岸雄天皇の科学的研究』(先進社,昭和7年)は,「自己の学べる處を公開して以て天皇に関する正確なる知識を養ひ,転じて以て正確なる信仰を樹立せんとするに過ぎない」と断わる著作であった。「天皇は日本社会及び国家の弁証法的統一者である」と宣言していた。

 註記)里見岸雄天皇の科学的研究』先進社,昭和7年,32頁,271頁。

 となればその後,つまり「敗戦後における天皇天皇制」が,いったい,どのような「日本社会及び国家の弁証法的統一者」に変貌したのかも聞いてみたいところである。とくに本記述(1)〔本日〕ですでに触れていたことであるが,1950年代後半における昭和天皇の末弟の「三笠宮の動きには」「右翼からの激しい攻撃が浴びせられた」。これは,敗戦を境に,天皇弁証法的統一者のありように生じたはずの〈抜本の変更〉に相当するものが,それも「その統一者の実弟」から主張された点に対する反撥・反動であり,非難・攻撃であった。

 ところが,近代日本帝国主義史を推進させてきた「天皇神話物語」をみなおせと主張した三笠宮の論理に対抗すべき「情念からの批判」は,あくまでも「歴史に対する神話の強制」を当然とする人びとの立場から発せられていた。したがって,その立場の人びとの精神構造のあり方は,他者・他説とまともに対話するための論理を,まったく備えていなかった。むろん,歴史を直視するための公平な立場も,あるいはそれを正視するための柔軟な思想も備えていなかった。それゆえ結局,暴力に訴えるやり方でしか,自分たちの意志を適切に表明できなかった。その程度の反論で三笠宮が「自分の立場を変えること」はありえなかった。

 d) ところで,三笠宮はこう反論していた。「政治は真理,真実を基礎とすべきである。その真理,真実は学問によって導き出されることが多い。したがって政治家は学者の研究の成果を十分に積極的に利用して頂きたい。と同時に政治家が学問の成果を無視したり,あるいはまったく相反することを言い出したときに,学者が黙っているのは決して学者の分を守っていることではなく,みずから学者の責務を放棄したことになろう。単に政治家ばかりではない。学者は日本の全国民のかたがたに対しても同様な責任をもっているのである」。

 註記)ここでの引用は,三笠宮崇仁紀元節についての私の信念」昭和34年1月,文藝春秋編『「文藝春秋」にみる昭和史 第2巻』文藝春秋,1988年,443頁下段-444頁上段。

 

 「〈菊のカーテン〉を作る者」

 a) 三笠宮はまた,明仁皇太子(当時)が正田美智子を結婚相手に選んだとき積極的に支援し,皇族会議の一員としても各皇族に協力を要請し,象徴天皇制が名実ともに定着するよう主導的な役割を果たしていた。

 三笠宮はさらに,天皇を旧体制に戻すような動きを「菊のカーテン」--このことばは三笠宮自身が「鉄のカーテン」をもじって創った 註記1)--いう語で批判していた。この指摘においても,彼のそのような役割が現われていた。昭和天皇の3人の実弟のなかでもっともリベラルな体質を顕わにし,天皇制のなかに国民の視点をもちこもうと努力していた 註記2)

 註記1)津野田忠重『わが東條英機暗殺計画-元・大本営参謀が明かす「四十年目の真実-』徳間書店,1985年,242頁。原資料は,『読売新聞』1984年6月15日夕刊,インタービュー記事「『東条暗殺黙認せず,三笠宮殿下 当時のご心境」。

 註記2)原 武史・吉田 裕編『岩波 天皇・皇室辞典』岩波書店,2005年,227頁。

 なお,三笠宮はつぎのような発言をしていた。

  ※-1天皇は国家最高の公僕なのだから,(天皇陛下万歳だけでなく),むしろ陛下に御発声願って,『国民万歳』を唱えるようなことがあってもいい」(『東京大学新聞』)。

  ※-2「(新憲法,新皇室典範が)天皇の譲位を認めないのは,基本的人権を否定するものだ」。

  ※-3「皇族男子の婚姻を皇室会議で決めるというのは,人間として遇していないからで,人権無視の疑いがある」。

  ※-4天皇への敬礼は強制さるべきではなく,各人の判断のままでよい。頭を下げる人,手を振る人,あるいは知らん顔したり,最悪の場合には『赤んべえ』をしても,ちっとも構いません」(以上『文藝春秋』昭和26年12月号「対談記事」)

 註記)河原敏明『天皇裕仁の昭和史』文藝春秋,昭和58年,290頁。

 b) なお,以上の見解についていうと,一般論で「人権の見地」をもちだし,敗戦後の天皇天皇制について話を進める方法,いいかえれば,皇室・皇族の構成員たちに関しては,日本国憲法で保障されていない「国民並み」の人権を前提に発言するのは,当事者であると否とを問わず不適切である。このような昭和天皇実弟三笠宮による「進歩的な皇室観」であれば,里見岸雄がつぎのように提唱する「確信的国体論」とは「水と油の関係」というほかない。

 生命体系が一種の例外として,今日迄民族的に確立されてゐる日本国体は,単に世界で最も古い君主制などといふ事以上に,世界的に研究の対象とさるべき価値を有するものであって,これを徒らに迷信的国体論に委ねておいたり,或は深き学的研究を試みもせずに,反民主主義的存在として一蹴し去らうとしたりするのは,日本再建の一大矛盾といはねばならぬ。

 註記)里見岸雄『日本国体学(国体科学大系)第1巻 国体学総論』日本国体学会,平成17年,717頁。

 

 「国体は至尊」

 a) 雑誌『中央公論』昭和17〔1942〕年1月号は,大日本帝国が太平洋〔大東亜〕戦争に突入する寸前であったが,西田幾多郎門下のいわゆる「京都学派」の哲学者,高坂正顕西谷啓治高山岩男鈴木成高が開催した座談記事「世界史的立場と日本」を掲載していた。この座談会において高坂正顕らが昂揚する気分のなかで語ったのが「日本の世界史的使命」であって,「近代の超克」論も強調された。

 f:id:socialsciencereview:20200109175854j:plain
 出所)画像は単行本となった『世界史的立場と日本』昭和18年http://bangobooks.com/?pid=93552659 

 ちなみに『中央公論』は続けて,「京都学派四天王」と呼ばれた彼らの座談会を,「東亜共栄圏の倫理性と歴史性」昭和17年4月号,「総力戦の哲学」昭和18年1月号にそれぞれ掲載していた。この「世界史的立場と日本」が提唱した世界観・政治観は,日本の敗戦を迎える以前においてすでに実質,成立不能の思想・立場になっていた。

 前段,里見岸雄の「国体科学」にもとづく「日本国体学」も,実は,この「世界史的立場」などとはさらに縁遠い場所に位置した「日本国体=日本皇室」の「最高規範的な価値」を,それも,唯我独尊かつ夜郎自大に,そして,盲目的・没論理的に強説してきた。里見自身の表現を借りていえば,この「国体科学」こそが,まさに本当の「迷信的国体論」といえる。

 b) 天皇天皇制が「反民主主義的存在」ではないと説明したいのであれば,これをみずから具体的に反証する努力が必要であるにもかかわらず,この手順とは完全に無縁の立場に立って,日本国体の絶対的至尊「性」・万国無比「性」を,頭ごなしに断定している。しかもこの立場が,「国民は,天皇に対して正当な敬語を用ゐなければならぬ」,そうでなければ「野蛮な暴力主義」だと決めつけたり,「天皇に対しまったく敬語を用ゐないといふやうな態度は,日本語の性質上不当である」といったりしている。

 註記)里見,前掲書,92頁。

 これでは,言語学・修辞学の研究領域にもちこんで議論するまでもなく,基本的な発想からして常識的に考えても,「意味不明」ないし「理解不能」である。特殊な用法による〈ことばの強制:暴力〉に等しい言辞が,ふんだんに盛りつけされている。

 c) 水野 祐『日本神話教育論』(帝国地方行政学会,1971〔昭和46〕年)は,1932〔昭和7〕年,中学生のときに体験したこと,つぎのように紹介していた。

 明治天皇についての文章が読まれていたおり,一生徒が質問をして,「天皇にはなぜ敬語を使わなければならないのですか。」と教師にきいた。その時その国語の教師は,急に顔面を紅潮させていきなり「ばかーっ」とどなり,次の瞬間教壇を降りてつかつかとその生徒の前に歩いてきて,『お前は赤だ! 共産党』といいはなちざまに手にしたえんま帳でしたたかその生徒の頭をなぐりつけたものである。

 

 その教師はついに一言も天皇に敬語を使わねばならぬ正当な国語学上の理由は説明しなかった。その真赤なって怒ってみせただけで,その質問を無視されてしまったのである。その生徒はけっして当時の非合法政党として弾圧下にあった,共産党員でもなければ,不敬を気持をいだいていたがゆえに質問をしたわけでもない。

 

 率直な疑問に対して,疑うべからず主義で,ただ威圧して黙らせてしまうだけの教育。「共産党!」という一語でかたづけてしまう非学問的な教育が,どれほどその生徒に致命的な精神的苦痛を与えたことか。

 註記)水野 祐『日本神話教育論』帝国地方行政学会,昭和46年,9-10頁。

 

【参考画像】 2015年2月19日,国会で,野党議員に対して「日教組! 日教組!」と,なんの意味関連もなく,首相みずからが「口をとがらせて」ヤジを飛ばしていた「安倍晋三の姿」。

 

  f:id:socialsciencereview:20200211184859p:plain

  出所)https://matome.naver.jp/odai/2142433091207714201

 

  関連知識-天皇が玉扱いされる日の再来か-

 a) 21世紀の現在,日本の政治が自民党安倍晋三的な独裁風政権になってから,天皇の「生前退位(譲位?)」の問題が,明仁天皇みずからの意向・希望が表明さるや否や(2016年8月8日公共放送を使い,その気持を国民たちに伝えていた),これを受けた安倍晋三政権は,有識者会議の構成員を選抜したが,その陣容が振るっていた。極右の憲法学者たちがめだっている。天皇が再び「玉扱い」される危険性大である。

 「生前退位有識者会議 意見聴取の16人選定」(『東京新聞』2016年10月28日朝刊)は,こう報じていた。

 天皇陛下生前退位を巡る「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」(座長・今井 敬経団連名誉会長)は27日,第2回会合を開いた。11月に3回にわたり意見聴取する憲法,歴史,皇室制度の専門家として作家の保阪正康氏,ジャーナリストの桜井よしこ氏ら計16人を選んだ。 

  f:id:socialsciencereview:20200211185325j:plain

 問題意識を共有するため,天皇陛下の重い公務負担の現状にくわえ,国事行為を代行する「摂政」の過去の例や,かつてあった退位の事例についても事務局から説明を受けた。今井氏は会合後の記者会見で「予断をもつことなく議論を進めるため,意見を幅広く聴取できるよう選定した」と述べた。

 

 政府が来〔2017年〕の通常国会生前退位を認める関連法案提出をめざしていることを念頭に「(検討に)何年もかけることはあり得ない。ある程度,論点がまとまれば,一つの方向性を出すというスケジュールは考えている」と明言した。

 

 専門家からの意見聴取は11月7,14,30の三日間に分けておこない,1人につき30分程度。初会合で議題として決めた天皇の公務の在り方,負担軽減のための摂政設置の是非,生前退位に対する見解など,8項目に沿って意見を述べてもらったあと,有識者会議のメンバーと意見交換する。

 註記)http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201610/CK2016102802000134.html?ref=rank

 このメンバーの半分ほどの人数はほぼ,ゴリゴリの極右思想の持ち主である。安倍晋三政権が指定するだから,当然といえば当然の傾向(偏り)である。明仁天皇にとっては迷惑というか懸念を抱くほかない人たちが多いという「有識者」(?)の構成である。

 b) 今井 敬の甥,今井尚弥は安倍晋三のお気に入り。「首相政策秘書官 今井尚哉-安倍政権を裏で支える『官界の超サラブレッド』」『 PRESIDENT』2014年9月29日号,政治・社会 2014.10.6 から。

 首相政策秘書官今井尚哉(いまい・たかや)は,1982年,通産省(現経済産業省)入省。今井 敬元経団連会長と今井善衛元通産事務次官の2人を叔父にもつ。もともと経済産業省の一役人がいまでは,安倍首相の側近中の側近(2020年2月現在,首相秘書官兼補佐官)。官僚ブレーンとして政治を動かす。政局対応・官邸広報・国会運営,あらゆる分野の戦略を総理の耳元で囁く。決断するのは総理だが,その影響力は計りしれない。

 f:id:socialsciencereview:20200211200503j:plain    f:id:socialsciencereview:20200211200605j:plain

 出所)左側は今井 敬,http://www.sankei.com/politics/news/160923/plt1609230007-n1.html右側は今井尚弥,本文記事より。

 まず,安倍前政権で事務秘書官として官邸に派遣された。元経団連会長と元通産事務次官を叔父にもつ血筋の良さが,世襲政治家である安倍氏を引きつけたのか,すっかり意気投合するが,政権は1年で崩壊。理由のひとつは稚拙なメディア戦略。安倍氏は「お友達記者」だけに情報を流す。これを快く思わない多くのメディアが反安倍となって支持率を急落させた。

 深く反省した今井尚哉氏だが,「再起のチャンスはある」とみた。失脚後も足繁く情報を運び,食事をし,ともに登山して体調の回復を見守った。政権復帰後,今井氏は政務秘書官に抜擢された。影の大番頭だ。

 かつて反安倍だった古手の記者を無視する陰険さもみせるが,いまの担当記者たちには,満遍なく小ネタを与える。マスコミの幹部には総理との食事をセッティングし,プライドをくすぐる。効果あってか,反安倍だった社もすっかりおとなしい。一方,首相は休息も十分とり,ゴルフもする。広島土砂災害では一時帰京し,危機管理をアピールする。これらはほとんど今井氏の筋書きどおり。

 今井主導を安倍主導にみせる腕前は天下一品だ。失敗から学ぶ知恵も素晴らしい。とくに民主党議員たちよ,お手本とするがよい。

 註記)http://president.jp/articles/-/13541

 この『プレジデント』の記事,安倍晋三〔政権への〕ゴマすりの文句(おまじない?)で締めくくっている。ともかく,今井 敬の甥が今井尚弥だという血縁関係の事実については,しっかり記憶に留めておく価値がある。

--------------------

※ 追 記:その1】

 「野党は核兵器禁止国連決議に反対した安倍内閣に総辞職を迫れ!」『天木直人のブログ』2016年10月29日

 f:id:socialsciencereview:20200211201002j:plain

 出所)http://blog.goo.ne.jp/kimito39/e/f2a69b462f3bafc213a0dd6b9c48874b


    原爆に小型も大型もない。どちらかといえば,
   小型のほうが難しい技術も要する。ミサイルや
   原潜などに搭載することを考えてみればいい。

 小泉純一郎は「ブッシュのポチ」といわれたが,安倍晋三は「トランプの単なる子分」か? 若い者にも分かりやすくいえば,シンゾウは「アメリカに飼われているチワワ」程度の政治家。

※ 追 記:その2】

 「今井家に動かされる安倍政権は朴 槿恵大統領とどこが違うのか」『天木直人のブログ』2016年11月7日

 この天木直人のいいぶんから,その一部分を以下に参照する。

 --安倍首相が,経済産業省官僚出身の今井尚哉総理秘書官を重用していることは周知の事実だが,ここまで酷いとは思わなかった。しかし,ここまでとは思わなかった。そして,その今井秘書官の叔父が,新日鉄会長から経団連会長を歴任した今井 敬氏だ。その今井 敬氏はつい最近,天皇生前退位問題を決める有識者会議の座長に任命された。

 その『週刊ポスト』〔2016年11月18日号〕の記事は,日本政治の重要事項はすべて「イマイ」がいなければ進まない,とまで書いている。いくら縁戚関係にあるとはいえ,ここまで一私人に国政を任せることは,朴 槿恵大統領と同じではないのか。それでも安倍政権がまったく批判されないとすれば,あれほど韓国国民が怒り狂う韓国と,なにも起きない日本と,どっちがおかしいのか。(引用終わり)

 この答えは簡単過ぎるゆえ書かないでおく。

--------------------

※ 以下の画像には Amazon 広告へのリンクあり ※