21世紀のいまもなお残存する天皇神格化をもって発足させた「近代国家明治帝政」の絶対矛盾的な根本の背理(続)

 明治維新は「脱亜入欧」路線に「天皇を神格化した近代国家の根本矛盾」を乗せた鈍行列車を出発させたゆえ,その後に問題をかかえたのは理の必然(続)

                   (2014年12月20日


  要点:1 鈴木正幸国民国家天皇制』校倉書房,2000年

  要点:2 近代国家体制に神権的権威をもちこんだ愚策の顛末(続)

 「本稿」の前編は,2014年12月19日に,以下の(前半部分)が既述であった。

 

   ①  明治天皇政治体制の確立に貢献した伊藤博文

   ②  鈴木正幸国民国家天皇制』校倉書房,2000年

 

  戦前と戦後の天皇天皇制の絶対矛盾的な基本性格

 前回の ① に参照した山折哲雄天皇の宗教的権威とは何か』,② に参照した鈴木正幸国民国家天皇制』2000年にくわしく聞いたのは,明治型から大正型を経て昭和型・平成型へと変遷してきた「日本の天皇天皇制」の政治的機構,その国家イデオロギー的な特性であった。

 ここでは別にたとえば,明治政治体制に関する説明は,井上寛司『日本の神社と「神道」』(校倉書房,2006年)がつぎのように記述していることを聞いてみたい。

 「国家神道」の理解をめぐっては,これを広義・狭義のいずれかに理解するかを初めとして,今日になお多くの議論の存するところであるが,……次のように理解するのが妥当といえる……。

 

 すなわち,国家(天皇)への国民の一元的な統合と天皇統治権を正当化する,国家的イデオロギーとしての本質を持つ「神道」教説(=国家イデオロギー)に基づく「復古神道」論を,日本固有の宗教施設である神社と結び合わせ,それを媒介とすることによって天皇ナショナリズムを「日本国民」の中に注入し,もってその思想的・精神的一元化を推進しようとした,近代日本に特有な神社と「神道」の理論的・制度的再編成としての国家的宗教システム,これである。 註記)井上寛司『日本の神社と「神道」』校倉書房,2006年,256頁。

 この指摘は,1945〔昭和20〕年8月〔9月〕敗戦までの話となるが,鈴木正幸国民国家天皇制』2000年もつぎのようにも表現した「天皇家=皇室」の「ありかたの対外姿勢」面,いいかえれば,その絶対的な至高性をアジア全体にまで誇示しようとしてきた姿勢を,的確に説明している。

 しかも,敗戦を契機に与えられた新憲法「日本国」における天皇天皇制の姿容が,そうした過去の性格とは縁を完全に切れないまま,21世紀の現段階にまで進展したところにこそ,これから論述する「問題の根源」が残されていたことになる。

 「帝国憲法体制と国体論は,植民地領有を前提とせず構築されたものであった」けれども,「日清戦争後」は「帝国主義が価値肯定的なものとして高らかに叫ばれ,日本主義が語られ」て,「アジアに対する優越感が『文明』における優位を基礎として成立した」。しかし,「三国干渉によって欧米物質文明の力の前に屈した」日本帝国は「別種の日本民族優秀性論が求められることとなった」。「その機能を果たしたのが」「家秩序的国体論であった」鈴木正幸国民国家天皇制』校倉書房,2000年,151頁,158頁)

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 出所) http://woodblockprintmuseum.blogspot.jp/2012/12/blog-post_19.html

 

 本論の記述から少しズレるが,上の画像を挙げておく。こう解説されている。この画題では周延は3種類の絵を描いている。分かりにくい説明になるが,文意の点で読みとってほしい。

 

 補注)文中に出てくることば「御簾(みす:すだれ)」の向こう側には,明治天皇が控えており,議論を聞いているわけである。「征韓論之圖」については,ネット上でも非常に多くの関係史料として〈類似の画像〉が閲覧できる。

 

 ここでは,つぎの画像(これは「征韓議論圖」と題されている)を借りて紹介しておく。これはクリックして,さらに拡大してみてもらえれば,登場人物の姓名(縦書きで「短冊状・赤地に黒書き」)のそれが,なんとか判読できる。

 

https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/b/bd/Seikanron2.jpg

 

 前掲した「左側の征韓論之圖」では,御簾は左図に描かれておりその前を固めるのが三条大政大臣・二品有栖川宮・岩倉右大臣であるが,13名の人物が描かれており,名札は12枚である。

 

 「中央の征韓論之圖2」では,……御簾は中図にあり,前を固めるのは岩倉右大臣と二品有栖川宮である。また,人物は17名,名札は16枚である。

 

 右側の征韓論之圖3では左図に御簾が描かれ,前を固めるのは仁和寺宮・有栖川宮岩倉具視公である。人物は16名,名札は16枚,一見合っているのだが,実は右図の後ろの方の人物の数と名札があっていない。実際のところ名札は15枚とみなしていい。 

 --なにゆえ,明治天皇をこのようにわざと隠しながらも,同時に「もったいぶって」描いておいたのか? 明治中期以降,「神聖にして冒す「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(大日本帝国憲法第3条)とされた睦仁は,あえて別格中の別格である位置づけをされねばならなかった。

 明治体制下,このような日本の至高のシンボルとして天皇が位置づけられ意識され,天皇は日本国民の「国民的利益」を象徴するものへと変態・発展した。そして,この天皇を超える価値は存在しえなくなった(同書,158頁)。すなわち,19世紀後半期に全面改装させられ,政治的に再登場させられた天皇天皇制は,その基本性格においてはもとより「時代錯誤の妥協的産物」でしかなかった。つまり,その原型は「古代に求められていた天皇」制の近代的な創作であったのである。
 
 明治時代が準備・開拓していった政治・外交の舞台において天皇睦仁が演ずるべき任務・役割は,つぎつぎと新しく提供されていった。日本帝国は当初,一国体制を前提する国家イデオロギーのなかで明治天皇を利用していた。だが,アジア侵略路線へと政治・外交を軍事的に拡大させていく過程のなかで,明治天皇はさらに,日本帝国の膨張に対応できる立憲君主としての役目・機能も国家イデオロギー的に具有させられるほかなかった。

 そうした歴史過程のなかで,日本国民の「国民的利益」を象徴する天皇は,天皇を超える価値の存在を否定するほかなくなった。「こうなれば,議会勢力も国民も自らの利益の,天皇・皇室の利益との無矛盾性,あるいは積極的一致性を主張することによって自己の正当性を確保することが,正当性確保の最良の方法となる。そのための主要な手段の一つとして “開発” されたのが,“累を皇室に及ぼさず” の至高の政治道徳化であった」(同書,158頁)

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 「補 説」  --『徳富蘇峰 終戦後日記』(講談社,2006年)はおおよそ,つぎのようなわけの分かりにくい,屁理屈にもなりえない徳富蘇峰自身の「皇国史観」を吐いていた。

 皇室は日本国家と日本国民とを離れては存在しえない。国も民も皇室を頭首に戴く。皇室に対する臣民はこれを国民といい,皇室の統治される地域が国家である。

 それゆえ,首を戴くのは体であって,この体を切りはなして首のみが存在するはずない。しかるに,この国家とこの人民を別にして,皇室を考えるということは,まったく頭首を帽子同様に考える「英米思想の残滓」に過ぎない。

 徳富蘇峰は,明治以来に創作された天皇観にみごとなまで洗脳されており,19世紀的な知識人に特有である博識ぶりを披露していた。これが20世紀の半ば,彼の日記に書かれてことばであるのだから,「英米思想の残滓」という空中楼閣を夢想しているわりには,自分自身が「日本古代史の残像」に両眼の網膜をすっかり焼かれている病状に対して,まったく自覚症状がなかったことになる。

 

  明治体制の天皇機構を21世紀においても,まだ使いまわしている国家的な愚策,その顛末

 1)「中国要人との天皇会見」問題,2009年12月

 明治憲法下におけるような明治型の,そして大正型=昭和戦前型とでもいうべき天皇天皇制のありかたは,現行憲法下における「昭和戦後型」とでもいうべき「象徴天皇制」〔典型的には平成天皇型のそれ〕にまで変遷・移行してきた。明治以来,「日本帝国」時代の「皇室の血筋」を引きつぐ人物が依然,「日本国」新憲法のなかに生き残り,「象徴」といういかにも〈不可思議な政治的存在〉に化けかわって活躍している。

 「日本国の国家イデオロギー」の問題としていえば,彼とその一族が「象徴天皇の立場」からではあっても,敗戦後においてもまた,直接と間接とを問わず依然〈なんらかの存在意義〉を発揮してきていることは歴史的な事実である。

 --昨〔2009〕年12月中旬に,中国要人との「天皇特例会見」をめぐる事件を介してあらためて問題化したのが,「天皇天皇制の基本的な問題性」に潜む「戦後政治体制的な困難=無理」であった。

 日本国憲法においては明確な規定のない,天皇の「政治的な利用」のありかたが問題となっていた。天皇天皇制という制度的存在をめぐって現実に発生している「日本国にとってのその利害得失」は,まさしく政治的にどのように利用されているのか,もっと冷静な視線を向けて議論しなければならない。

 本(旧々)ブログが「2009.12.28」「『象徴天皇制に関する基礎的資料』2003年」「国会における象徴天皇に関する討議」「象徴などとはとうてい,いいえない天皇の諸行為」(この記述は明日以降に再掲予定)で記述したように,日本国やこの国民を統合的に「象徴するとされた天皇」が,あたかも国家主体・代表者であるかのように「振る舞わせている現状」においてこそ,天皇天皇制の問題に淵源する矛盾が集約的に表現されている。

 現憲法は「生きている人間:天皇」が「日本国や国民を統合的に〈象徴する〉」と規定している。この現憲法の,いわば「法律以前」ともいっていいような馬鹿げた概念規定,そしてそのアクロバット的な取扱・解釈による「象徴概念の〈運営・操作の危うさ〉」をもろに露呈させた事件が,昨〔2009〕年12月中旬に起きた「天皇会見」問題であった。

 中国要人〔副主席;当時の習 近平(現在は主席)〕が天皇に会見するにさいして,「特例」などという用語を付けて説明したり議論したりするこの日本社会の政治事情をみて,この〈ありかた=現象〉そのものにあえて疑問を抱く者はいなかったのか?

 「天皇特例会見」の問題は当時,突如浮上したかのように世間を騒がせるに至っていた。しかし,この事情はけっして偶然の現象ではなく,出るべくして出てきたともいえる。先日〔2009年1月24日〕の日本経済新聞は,「中外時評」欄で「侃々諤々を繰り返せ 緊張と危うさの中の天皇制」と題名を付して,論説委員の小林省太がこれまでの経過を踏まえた議論を披露している。

 さらに,2009年12月29日の『朝日新聞』朝刊は「象徴天皇制 越えた一線,中立担保こそ内閣の責任,特例会見問題」「外交への『利用』自制必要,皇室,公平に不審」などの見出しを出した〈解説記事〉が組んでいた。そこには「2008年度における天皇夫妻の活動一覧」表が添えられていた。

 2010年1月21日衆議院予算委員会で,自民党谷垣禎一総裁が「天皇の公的行為」などをめぐる憲法解釈についてとりあげたところ,「従来の政府見解が存在する」ことすら理解していなかった平野博文官房長官が「答弁に窮する一幕」もあった。

 2009年9月に発足した民主党〔など連立〕政権は,国会の審議においては官僚に答弁をさせない方針としたために,内閣法制局長官であれば難なく答弁できる「天皇の公的行為」などに関する質問が出ても,ろくすっぽ答弁できないというみっともない姿をさらけだしていた。

 2) 天皇の国事行為と公的行為など

 筆者が「2008年度における天皇夫妻の活動一覧」と呼んだ「天皇・皇后両陛下の活動(2008年度)」は,天皇夫妻の行事・仕事をつぎのように区分している。これらの区分に含まれている行事や仕事は,憲法に規定されている「国事行為」をはるかに超えでた「公的行為」までを一覧している。

 国事行為・関連--宮中の儀式・行事,→ 国事行為に関するもの
 公的行為・関連--宮中の儀式・行事,→ 恒例的な儀式・拝謁など

          外国交際,→外国賓客・ 駐日大使

          行幸啓(旅行・外出)

          内奏・進講・説明など

 園部逸夫『皇室法概論-皇室制度の法理と運用-』(第一法規出版, 平成14年)は,天皇およびその一家がどのような「象徴としての政治的活動」をおこなっているか,詳細に考察している。園部のばあい「天皇の各種行為」を以下のように整理している。

 「天皇の行為に関する従来の政府見解は,天皇の行為を国事行為,公的行為,その他の行為に3分類し,さらに小分類としてその他の行為の中に公的性格ないし公的色彩のある行為と純然たる私的行為とがあるとしている」。  

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 「一方,学界の通説は,国事行為,私的行為の外に公的行為を認める3分説となっている」。しかし,園部は「こうした従来の行為分類を前提に,天皇の地位と国家との関係を軸に天皇の行為を

   (1)国事行為,

   (2)公人行為,

   (3)社会的行為,

   (4)皇室行為,

   (5)私的単独行為

の5つに分類し,併せて価値概念としての「象徴」から導かれる価値との関係において生ずる行為の規範を解説する」(同書,108頁)

 敗戦後,1946年元旦に「人間宣言」をした天皇裕仁の息子明仁(現在は退位し上皇)が,1989年に天皇の地位を継承した。日本国憲法第1条から第8条までの規定全体を踏まえたうえでの諸行為であるのかきわめてあやしいのであるが,平成天皇は「国事行為」以外の「公的行為・私的行為」などを,みずからも努めて拡延・増大させてきた事実史が記録されている。

 憲法「第1章」「天皇の関係」条文は,第3条で「天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認」のもとに「天皇の国事に関するすべての行為には,内閣の助言と承認を必要とし,内閣が,その責任を負ふ」ことになっている。

 だが,敗戦後における父の裕仁天皇は終生,戦前・戦中体制の君主意識ままであって,〈天皇聖帝の意識〉を捨て去ることができなかった。彼は「立憲君主」時代における自分自身の天皇像に拘泥しつづけてきた。前掲の「2008年度における天皇夫妻の活動一覧」のうちで「公的行為・関連」のなかにある「内奏」という項目に注意したい。

 敗戦後においても事実として実際に,その「内奏」がなされてきた。ときどき問題にもなるこの内奏という天皇の行為が〈臣下たちからの報告〉にとどまらず,実質において〈陛下の意見を臣下が聞く性格〉すら含まれている点を,完全に否定する憲法学者はいない。

 戦後,新憲法の精神を厳格に遵守するならば “「張りぼて」にでもならないと,昭和天皇自身がぼやいた話” は有名である。彼は結局,日本国憲法の基本理念を理解できておらず,晩年は渋々その法精神を遵守していた。

 要は,憲法第1条「天皇の地位・国民主権」が「天皇は,日本国の象徴であり国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と規定しているにもかかわらず,人間であるこの天皇がロボットでないかぎり,ここに規定されているように「日本国民の総意に基く」行為だけに「純粋に制限させうる」「実際的な制約」はないにひとしいのである。

 3) 明治以来の国家的な矛盾天皇天皇

 平成天皇夫婦はとうの昔から,第4条 [天皇の機能の限界,天皇の国事行為の委任」で規定された「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ,国政に関する権能を有しない」という限界を,はるかに超えて各種の行為を実行してきている。

 前出の園部『皇室法概論』が分類した範疇をもちだしていえば,「公人行為」「社会的行為」「皇室行為」の形式に乗せることによって,「国事行為」ではない「公的行為」や「私的行為」を,いくらでもおこないえている。

 第7条「天皇の国事行為」は「天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左〔下〕の国事に関する行為を行ふ」と規定されている。

  1  憲法改正,法律,政令及び条約を公布する。
  2  国会を召集すること。
  3  衆議院を解散すること。
  4  国会議員の総選挙の施行を公示すること。
  5  国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。
  6  大赦,特赦,減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。
  7  栄典を授与すること。
  8  批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
  9  外国の大使及び公使を接受すること。
  10  儀式を行ふこと。

  園部が前段において,(1)国事行為,(2)公人行為,(3)社会的行為,(4)皇室行為,(5)私的単独行為と分類・整理したこの5つの「天皇の行為」のうち,(1)国事行為はさておき,これ以外はすべて,文字どおりにごく単純かつ厳密にいえば「国事行為」とはいえない。

 戦前・戦中体制であれば,皇室の公的と私的との区分など,もともと問われないかたちで執りおこなってきた「天皇の国家政治的な諸行為」であった。ところが,敗戦後もなまじ天皇家が残存させられたために,しかも占領軍による日本統治の都合という最大の理由もあったために,憲法第9条との作為的な〈矛盾の均衡〉がとられるなかで存続させられてきた天皇天皇制=皇室のありかたは,日本国憲法において一番説明しにくい暗点を提示しつづけてきた。

 その意味でも「明治期の近代天皇制国家建設は大きな歪みをはらんでいた」(石部正志・西田孝司・藤田友治『続・天皇陵を発掘せよ』三一書房,1995年,66頁)わけである。

 そうはいっても,古代史を近代において無理やり復活させて成立・発足させた明治国家体制,これが発足以来ずっと溜めこんできた「積年の汚汁」を洗浄すらできていない「21世紀日本の政治体制」は,今後もなお「天皇体制を冠に戴く民主主義」を継続・維持していくつもりである。

 渡邊幾治郎『皇室と社会問題』(文泉社,大正14〔1925〕年)は,「我が国民が平和国民である如く,我が皇室も亦平和皇室である」と主張し,「外国が我が国を以て侵略的軍国主義といふは武勇を貴ぶ,国俗の一端を見て平和を愛好する皇室,国民の本体を見ないからである」(同書,142頁)と,ロシア革命以後,世界中を風靡した社会主義思想に影響が醸しだしていた「当時のきびしい内外情勢」を意識する反論を陳述していた。

 そのまさに20年後において,明治体制の顛末は,いったいどのようになっていたか。「明治以来戦争を連続させてきた」日本帝国が「平和皇室」であると強弁した渡邊幾治郎は,いつものとおり「皇室御用の歴史」観を披露していたに過ぎない。

 しかし,その平和皇室は,日本大帝国が大敗北する第2次大戦の集結まで戦いを止めなえかった責任者:大元帥を家長にしていた。この「平和」皇室の代表者である「戦争」天皇,とくに明治天皇昭和天皇に,なにも責任はなかったといえるのか? 彼は,A級戦犯たちにはとうてい背負いきれないほどに大きな,あの戦争をめぐる責任を有していたはずである。

 結局,戦争の責任をとらなかった天皇裕仁であった。彼が担うべきであったその〈戦責〉問題までが,絞首刑に処されたA級戦犯東條英機などのほうへ,全面的ともいっていいほど転嫁されていた。この肝心の当人がそのまま「象徴天皇」になりかわっていたのでは,それまでの責任のとらせようもなかった。その意味ではなんといっても,彼を免訴・免罪してくれていた「アメリカ様々」であったし,まったくもって「マッカーサー閣下のおかげ」(広義ではアメリカそのもの)でもあった。

 敗戦後に公布された新憲法下では,天皇の国事行為はすべて内閣の監督下にあるから,天皇個人が責任を問われない形式でこの「国事行為」などを担当しているのかといえば,けっしてそうではない。彼ら一族は「公的行為」「私的行為」などとも称される「天皇〔夫婦〕家の私的な活動」までも,「象徴」の名目のもとに最大限に包摂させるかたちで,「国事行為」的におこなってきている。すなわち逆にいえば,日本政府は天皇天皇家を政治的に利用した為政をおこなっている。

 この国はもしかすると,「民主主義のありかた」を根底から考えなおす気持がないのかもしれない。

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