松本健一における昭和天皇理解,その限界と陥穽,片思いの天皇思慕は裏切られていた

日本知識人の陰影と天皇制度の闇-日本の民主主義現代化を阻む天皇天皇制,そして松本健一という知識人

                   (2014年12月2日)

 

  要点:1 追悼文の趣旨に逆らうつもりは毛頭ない。ただ,事実に即した「日本知識人」論を語らねば,より正確な説明にはならない

  要点:2 松本健一の日本知識人として特性,そして回避できなかった日本的な限界
 

 松本健一さん死去」朝日新聞』2014年11月29日夕刊

 最初に松本健一という知識人,近現代政治史の研究家が亡くなった。訃報や関連記事を最初に紹介する。この『朝日新聞』の記事を引用する。

 松本健一さん(評論家,麗沢大学教授)2014年11月27日死去,68歳。年明けにお別れの会を開く予定。喪主は妻久美子さん。群馬県出身。東大経済学部卒業後,会社勤めを経て,法政大大学院時代に書いた『若き北一輝』(1971年)で注目される。

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 出所)2007年ころの松本健一http://www.genron-npo.net/world/archives/390.html

 近代日本の精神史を考察し,多数の著作を残した。33年かけて完成させた『評伝北一輝』(全5巻)では司馬遼太郎賞,毎日出版文化賞を受けた。『日本の失敗』では,第2次大戦を中国への侵略の延長ととらえ,日本が敗戦へと至った経緯を追った。

 民主党政権時には内閣官房参与も務めた。主な著作に『大川周明』『近代アジア精神史の試み』」など。

 

 「自らの流儀を持つ知識人 松本健一さんを悼む ノンフィクション作家・保阪正康朝日新聞』2014年12月2日朝刊

 松本健一さんの訃報をしったのは,11月27日の夜だった。北海道の講演先のホテルで,「今朝,松本さんがお亡くなりになりました」と連絡を受けた。

 最初に口をついて出たのは,「なんでわれわれより先に逝くんだ」という苛立ちだった。われわれとは半藤一利氏,竹内修司氏,そして私である。松本さんを交えてこの4人は,『占領下日本』『戦後日本の「独立」』という大部の座談集を5年余かけて編んだ。座談は延べ25回,100時間近くに及ぶ。

 座談が終わるたびにいつも一献傾けて話しこんだ。2008年から2013年初めごろまでだ。もっとも若かった松本さんに,私たちはあれこれ語り,ときに後事を託すいい方になった。その松本さんが先に逝った。

 私自身は月刊誌などで対談を重ねたのだが,たしかに松本さんは博識だった。興が乗ると話題はつぎつぎに広がり,私もそれについていくのがやっとだった。近代日本の思想史を実証的に調べ,左翼とか右翼とかいった枠組を超えた思想家であり,著述家であった。全共闘世代になるのだろうが,政治運動には距離を置いていた。いわば柔軟な発想がその根底にあった。

 思想家として数多くの書を著し,大学で講じ,各賞の審査員も務め,さらに民主党政権では内閣官房参与の肩書ももった。中国,アメリカなどでも講演を続け,日本を代表する「行動の伴う知識人」と紹介された。実際に政治にかかわって,厭な役割をあえて引き受けた節もあった。

 私と松本さんの交流は,いわばデビュー仲間としての誼(よしみ)があった。20数年前に初めて会ったときに,「僕が世に出たのは『若き北一輝』を書いた25歳のころで,保阪さんが『死なう団事件』を書いたのは32,33歳でしょう。刊行が同じころでしたよね」といわれ,以来,デビュー仲間だとふたりは称することになった。

 松本さんはみずからの流儀をもつ知識人だった。誠実に真摯に向き合う人には率直に,しかしいわれのない批判や中傷は無視,ときに筋道を立てて反論した。そういう反論の光景を実際にみたことがあるが,心中の怒りがバネになっていると,私は直観した。短距離ランナーだった少年時代,故郷・群馬県太田市の戦後風景,ソ連の宇宙飛行士ガガーリンの宇宙飛行に感激して手紙を出したこと,そういう会話のときの表情は,少年期に戻り屈託がなかった。

 風景写真入りの年賀状,余白には毎年決まって「本年もよろしく。お体大切に」との添え書きがあった。もうそれも届かないのか。

 

  天皇制度は民主主義に反するといった松本健一〔だったが……〕

 松本健一『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社,2007年)は,「原理的にいえば,民主主義と皇室とはそもそも背反する性格のものである。民主主義の原義の1つに,特権階級を廃す,という意味があり,そうだとしたら国民の誰も天皇になることができない天皇制システムは,明らかに民主主義に反している」と,明確に指摘している(284頁)

 この指摘:天皇批判に対しては,最近では古典的も古典な右翼となった鈴木邦男のような人物でなくとも,天皇天皇制を無条件に,そして歴史心情的に認めたい右翼人士は,真正面から答えねばならない。

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 出所)画像は鈴木邦男salitote.jp/people/interview014-2.html

 松本はいままですでに,右翼人士から学問の展開について脅迫・恫喝めいた言辞を受けとってきている。この程度の議論に,まともに・素直に対面できない右翼には多分,まともなインテリが1人もいないと疑われて当然である。

 要は,この問い「天皇制度は民主主義に反する」から逃げる右翼思想・行動家は,負けの判定を下される。その思想的立場が存在する価値もない。また彼らが行動するための社会的意義もみいだせない。「民主主義の政治理念」を日本の右翼諸氏が否定しえないことは,少なくとも,前段の鈴木邦男がこのごろ盛んに発言してきた内容でも十二分に了解できる。

 

  松本健一『畏るべき昭和天皇』論の決定的な陥穽-松本健一内なる天皇問題-

 1) 我欲私利に終始一貫して行動した敗戦後史における昭和天皇の軌跡

 2009年も初夏であった。本ブログ筆者は,松本健一『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社,2007年12月)を読む機会をもった。本書は,作家・評論家を称する大学教員の著者が,文学史的な観点から「裕仁天皇」を究明した著作である。松本の研究は,昭和の天皇を「裕仁〈個人の次元〉」に密着するかたちで分析をくわえ,興味深い論究を与えている。

 著作に付けられた題名からも分かるように松本は,1945〔昭和20〕年の敗戦をまたいで「日本帝国:明治憲法」から「日本国憲法」の時代を生き延びてきた昭和天皇の,どこまでも「その畏るべき決断・畏るべき人生」に注目し,その足跡をたどりながら,文学史的な雰囲気をかもす論調のなかで解明している。

 明治以来の天皇制のありかたをいちばん特長的に政治表現してきた昭和天皇は,政治学者などの研究にも明らかなごとく実は,日本国憲法「第1条」「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」との規定に,根底より反する行為をいくつも犯してきたのである。つまり,天皇裕仁は,憲法違反をものともせず「天皇の立場:個人的な利害」から手前勝手に,敗戦後における日本の政治過程に介入してきた。

 すなわち,昭和天皇は敗戦後においても,裏舞台で密かに立憲的ではない〈君主的な政治力〉を発揮し,堅固な意志を抱き,自身の人生目的を実現させてきた。この問題の核心はたとえば,とくに沖縄県などにいまだに居すわる「在日米軍」という存在において,端的に〈象徴〉されている。敗戦後の天皇制における昭和天皇の政治的な言動にかかわっては「内奏」という「君臣・上下関係」間に固有の用語が指摘されねばならない。

 アメリカ軍はオキナワに広大な基地を構えている。この「米・日間が主従関係において構成されている軍事的様相」は,第2次大戦終了直後に形成された東西対立の冷戦政治構造,社会主義諸国「共産主義思想・イデオロギー」に対して,それも強度の恐怖心を抱いた裕仁天皇の「始源的な国家思想」抜きには,推測すらかなわぬ「歴史的な成果(顛末)」だったといえる。

 こうした政治感覚を抱いてきた「昭和の天皇」は,1970年代前半に公害に反対し防止する姿勢を構え,市民福祉向上の政策,日本国憲法の擁護などを訴えながら続々と登場した地方自治体「革新系の首長」誕生をみて,「これによって〈政変が起きるのか?〉」と心配する「下問」を侍従に投じていた。これは,彼のおおまじめな反応ではあったものの,時代の状況を完全に誤認した不安・憂慮であった。

 なぜなら,昭和天皇は戦後の過程にうまく適応していったものの,「敗戦時までの歴史感覚:大日本帝国の君主」たる自己意識から一歩も脱却できていなかったのである。つまり,新憲法の位置づけにおいて根本的に変質した「みずからの地位」をあえて無視する彼の政治行動は直接,日本とアメリカとの外交・防衛関係に口出ししてきた。

 2) 政治思想史の観点を欠いた松本健一の昭和天皇

 松本『畏るべき昭和天皇』2007年の議論は,政治・法律史的ではない視座に立ち議論をするためとはいえ,昭和天皇のそうした逸脱の行動を社会思想史的な観点でもいいのだが,ほとんど批判的には究明していない。むしろ,日本の社会の頂点に位置するこの人物が,20世紀前半の時代をいかにたくましく生きぬいてきたかを究明している。いわば〈裕仁だけの個人的な葛藤史〉に対する称賛=ヨイショ論に終始している。

 松本『畏るべき昭和天皇』に巻かれた〈帯〉の謳い文句によれば本書は,裕仁天皇の「その知られざる側面を照射する画期的な論考」だという。しかし,こうした松本流の分析は,昭和天皇が「賢明で意志の堅固」な人物だったという側面に主要な関心を向けている。

 そのためたとえば,大田昌秀『沖縄差別と平和憲法日本国憲法が死ねば「戦後日本」も死ぬ-』(BOC出版,2004年)や,鄭 鎭星著,鄭 大成・岩方久彦訳『日本軍の性奴隷制-日本軍慰安婦問題の実像とその解決のための運動-』(論創社,2008年)という著作などが照射する「政治・社会思想史」的な問題領域まで,松本の方法は届いていなかった。

 筆者はここで,松本があえて意図しなかった研究対象・領域を,故意に想定・強調してあげつらおうとするのではない。しかし,天皇制そのものの全体主義的な国家意志を反映させていた「日本社会底辺での思想諸問題」を,完全に無視したような問題構成の方法意識がめだつのであれば,これをみのがすわけにはいかない。

 松本『畏るべき昭和天皇』の「あとがき」は,こう記述する。「昭和天皇の『畏るべき』ところは,あえていえば,2・26事件のとき北 一輝から軍隊を奪い返し,戦後GHQ=マッカーサーを押し返し,また自衛隊に突入した三島由紀夫を黙殺したたたかい振りにあった」。

 要するに,天皇というのは日本の文化的なシステムであって,そのシステムを個々の天皇がどう体現し,または逸脱していったか,という記録のしかたをすべきなのではないか(松本健一『畏るべき昭和天皇毎日新聞社,2007年,314頁,313頁。関連のある文献として,松本健一昭和天皇伝説-たった一人のたたかい-』河出書房新社,1992年もある)

 松本の研究内容は「政治・法律史ではなく文学・文化史の立場」に立っている。それゆえ,「社会・政治思想史」などの立場や観点は軽視される。「日本人は島国にあって,天皇とともに “米つくり” をする民でいい。そのように日本人の心を収斂させる,つまり民族的なアイデンティティを確認させる意味」を,「この天皇の問い」に求める松本は,「日本民族にとって政治とはついに何であるかを如実に示した」昭和天皇は「なんとおそろしき天皇であるか」「その大なる愛はテロリストさえも包容する」ものだと,感嘆するばかりである(松本『畏るべき昭和天皇』307頁,306頁,304頁)

 松本の論及をさらに聞くに,つぎのような分析を提示していた。「原理的にいえば,民主主義と皇室とはそもそも背反する性格のものである。民主主義の原義の1つに,特権階級を廃す,という意味があり,そうだとしたら国民の誰も天皇になることができない天皇制システムは,明らかに民主主義に反している」。

 そもそも「世襲というのは,生物学的原理での継承を意味している」から,「『国民の総意に基く』も『基かぬ』もない」。「つまり,憲法第1条の民主主義的原理とはまったく別の生物学的原理で,皇位継承をはじめとする天皇制システムは成り立っているのだ」。

 「そうであるにもかかわらず,昭和天皇はいわゆる『人間宣言』をはじめとする占領軍の民主主義を受け入れ」,「アメリカからキリスト教徒(クエーカー)の女性の家庭教師を招き,皇太子が『ジミー』とよばれることも甘受した。皇居で聖書の講義がおこなわれることも黙認した。それは,皇室が占領軍のもとで生き残ってゆく窮余の策だったのである」(同書,284頁,285頁)

 1952年4月28日〔裕仁天皇誕生日の前日〕,アメリカの対日講和条約が発効し,日本国が連合軍の占領を解かれるや,皇太子の家庭教師エリザベス・グレイ・ヴァイニング夫人の役目は4年間で終わりを告げ,皇居内での聖書講義などの活動も中止される。「これは,天皇の断固たる意思にもとづいての決定,つまりキリスト教への押し返しであった」。

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 出所)明仁(平成天皇)とヴァイニング夫人,http://www.logsoku.com/r/occult/1311385482/

 息子:明仁の配偶者となった正田美智子があるとき,キリスト教に好意的な関心を抱いていた義弟=常陸宮義弟と楽しく会話した事実をしった昭和天皇は,この息子の嫁を呼びだし,「精神のバランスをくずし一時期,失語症」に追いこむほど,激越に叱責した。その理由は「天皇家神道を守っていかねばならぬ立場である」のに,「それが,キリスト教にかぶれるとは何事か」というものであった(同書,286-287頁)

 ここで,こういう事実も指摘しておく。1946年1月1日に「人間宣言」していた昭和天皇は,2月11日に皇太子の明仁を登場させる。この2月11日,宮中の行事は従前〔戦前からという意味〕であって「紀元節祭」を執りおこないながらも,この日の話題として各新聞紙面を大きく飾ったのは「新聞を読んでいる天皇の肩ごしにのぞきこんでいる皇太子」という〈父子の写真〉である。

 そこで天皇裕仁が読んでいる新聞は,アメリカ軍の準機関紙『星条旗紙 “STARS AND STRIPES” 』であった。つい半年まえまでは,鬼畜米英の標語のもとに英語を使うことさえ憚る雰囲気であったのに,いまや天皇みずから英字新聞を読み,その内容を息子に説明するやさしい父親となっていた。しかも,この事実を報じた当時の新聞は,そのように「天皇と皇太子が占領軍機関紙を読む図像」が与える「読者への衝撃を恐れ,故意に曖昧な説明をつけた」のである(有山輝雄『戦後史のなかの憲法とジャーナリズム』柏書房,1998年,100-101頁)

 3) 昭和天皇本意

 昭和天皇は,連合軍占領下の敗戦後約7年間ほど,日本国「象徴」に変質させられた〈自分の立場〉をより確固たらしめるための「政治心理的な意思転換」を,相当の困難に当面しつつも「皇室一族としての対応」として,生活戦略的に貫徹してきた。そのためには,すすんでキリスト教に大いなる関心を示し,積極的に学習する姿勢を示すこともいとわずに生きてきた。

 アメリカ軍を中心とする連合国占領軍(GHQ)の日本施政方針に順応し,能動的に迎合するかのごとき『皇室挙げての恭順ぶり〔=本当は擬態:みせかけ〕』は,いまから回顧してみるに,天皇一族が敗戦後を生き延びていくために仕立てた,東洋の「日の本」国における田舎芝居であったといえなくもない。しかしその田舎芝居も,講和条約発効後は弊履同然,まったく無用になり,さっさと打ちきった。

 裕仁天皇はだからこそ,その後においては〈日本国の象徴〉に変身させられ,「神道一家としての立場」についてもそれ相応に安定した皇室生活を保障され維持していくなかで,息子の嫁が義理の弟との会話で「キリスト教談義を楽しんだ」といわしめた事実をしり,激怒・叱責したのである。なにがそのように,裕仁天皇を怒らせたかは明白である。

 敗戦後の約7年間は,敗戦国となった日本の天皇家にとっては「雌伏の時期」あるいは「臥薪嘗胆」と形容してもよい期間であった。昭和「天皇マッカーサーGHQから神道を捨てキリスト教に改宗するように迫られていた」である(高橋五郎『天皇の金塊』学習研究社,2008年,310頁)。この時代は思いだしたくもない,できれば忘却の彼方に追いやりたい,かつての占領軍「キリスト教への屈従」,それも「偽りの態度」を作りながら「生活していた日々」だったからである。

 鬼塚英昭『天皇のロザリオ〔上・下〕-日本キリスト教国化の策謀-』(成甲書房,2006年)は,関連する重要な事情にこう論及する。

 昭和天皇は敗戦後,みずからの生命を守るためと,スイスの銀行に預けた秘密預金を維持しさらに殖やすための戦後工作に入る。「キリスト教入信」対策は,このふたつのだいじなものを守りぬくために実行された。

 

 臣民・国民は依然と雑草のような民草であった。日本人たちが「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶか。それとも,東京裁判で死刑宣告を受けた元首相広田弘毅のように「天皇マンザーイ」と叫ぶか(鬼塚『天皇のロザリオ 上』223-224頁)

 GHQが公開した天皇家の膨大な財産(当時の金額で15億9千万余円)に衝撃を受けた渡辺 清の著作『砕かれた神-ある復員兵の手記-』(朝日新聞社,1983年)は,こう記述している。渡辺が1946年2月22日に聞いた話である。

 全国を巡行していた昭和天皇が,サイパンの生き残り復員兵と「戦争が激しかったかね」「ハイ,激しくありました」,「本当にしっかりやってくれてご苦労だったね」「今後もしっかりやってくれよ。人間としてりっぱな道にすすむのだね」という会話をしたと聞かされた渡辺は,絶望に苛まれたというのである。 

 昭和天皇は,まともな人間なら誰でももっている責任感をもちあわせていない。少なくとも「私のためにご苦労をかけて済まなかった」といえなかったのかと,渡辺は批判している(渡辺 清『砕かれた神-ある復員兵の手記-』朝日新聞社,1983年,195頁。引用は,ジョン・ダワー,三浦陽一・高杉忠明・田代泰子訳『敗北を抱きしめて 下-第二次大戦後の日本人-』岩波書店,2001年,104-105頁)

  前述に触れたように,「松本〔健一〕は右翼思想や草莽の思想の掘り起こし作業を精力的におこなってきたこともあって,あるときは,右翼のレッテルを貼られ,あるときは,逆に一部右翼によって脅迫まがいの糾弾も受けた」という(竹内 洋『学問の下流化』中央公論新社,2008年,69頁。〔 〕内補足は筆者)。この研究者に対してそのように生じた反応は,戦後における日本の左右両陣営側それぞれの不勉強を如実に反映するものである。

 しかし,筆者にいわしめれば松本の研究志向は,文学史あるいは文化史的な観点からする「天皇および天皇制の研究」であるせいか,そこから出でてさらに関心を拡げ,関連させて考究すべき「政治経済思想史的な問題領域」まで到達していない。それゆえ,そうした「文学史あるいは文化史」的な研究の方途は,天皇の戦争責任を根本よりあらためて客体的に「問うとか問わないとか」いう次元まで至らないのである。

 4) 天皇天皇制の本質,その反民主制

 いまから四半世紀以上もまえ,和歌森太郎天皇制の歴史心理』(弘文堂,昭和46年)は,敗戦後GHQに付与された新しい日本国憲法を,こう評していた。

 果たして,その後憲法に民主主義をうたい,戦争放棄をうたいながら,天皇を象徴という限定つきではあってもこれを保留したことは,その是非は別として,とにかく矛盾をふくんでいるとみられる。非民主的な意識と,非科学的な判断力は,そこに温存されていくのではないかと疑われたのである(和歌森『天皇制の歴史心理』〔自序〕7頁)

 和歌森太郎は,日本国憲法が21世紀になっても,依然かかえている「天皇制」の根源的な矛盾を指摘していた。松本も同じにとらえたこの矛盾は,「民主主義と皇室とはそもそも背反する性格」を有し,「特権階級」の「天皇制システム」が「明らかに民主主義に反している」という,どう考えても,不可避の難問:絶対矛盾性にぶち当たるほかない。

 文部省が1947年8月2日に「飜訳発行」した冊子『あたらしい憲法のはなし』(実業教科書株式会社発行)は,敗戦後に新しく用意された「日本国憲法」の「国際平和主義・民主主義・主権在民主義」の基本理念を強調していた。と同時に,「日の丸の国旗」をその〈象徴の譬え〉に出して,「日本国の象徴」という位置づけをえた裕仁天皇陛下は,けっして神様ではありません。国民と同じような人間でいらっしゃいます」と解説した。

 しかし,この理解はヒトとモノ〔象徴物〕を同じ次元でとらえようとする〈実に奇妙な概念化〉を,ひとかけらの苦しみもなく手品のように披露していた。ともかくも,この『あたらしい憲法のはなし』は,基本的人権などの諸権利を保障した「新憲法の基本理念」を強調するのであった(文部省『あたらしい憲法のはなし』実業教科書株式会社発行,昭和22年8月〔筆者が引用・参照するのは,日本平和委員会が1972年11月3日に発行した複製版〕5頁,14--6頁,20-24頁)

 しかし,『あたらしい憲法のはなし』1972年複製版に追補された「あとがき」は,日本国憲法が「当時日本を占領していたアメリカは,憲法の内容をみずからの対日支配政策のワク内におしこめようと画策し」た。そのために「象徴天皇制など,平和的民主的条項と相反する内容を合わせてもつものとな」り,「国民主権と矛盾する象徴天皇制をそのまま肯定的に叙述する」点は,「批判すべき側面をもってい」ると,あらためて指摘していた(同書〔同上複製版〕,〔あとがき〕70頁)

 松本『畏るべき昭和天皇』2007年は,「新憲法下・天皇制」論のこれまでにおいても,けっして解消も解決もされてこなかった「民主主義の基本理念」と「〈人間天皇〉の存在理由」との折りあいの問題を,いま一度指摘しなおしたに過ぎない。その間,同種の議論が間欠的に復唱されるだけであって,それ以上に学術的な討究を進展させえなかった「日本の知識界」であれば,そこには「天皇天皇制」にまつわる「特定の知的限界」がある。

 

  松本健一『畏るべき昭和天皇』論の決定的な陥穽松本健一:外なる天皇問題-

 1) 松本健一昭和天皇」論の盲点

 筆者にとって,本書研究の出発点に据えられるべき昭和天皇の研究課題は,つぎのように松本が記述するところにもみいだせる(松本『畏るべき昭和天皇』289-290頁参照)

 「昭和天皇キリスト教を押し返したように,長い時間をかけて,連合軍最高司令官のマッカーサーも押し返したのである」。1975年10月31日,訪米から日本に帰った昭和天皇は,宮中で公式記者会見をしたさい「戦争責任についてどのようにお考えておられるか」と問われて,こう答えた。松本は,裕仁天皇のこの答えを的確に「木で鼻を括るたぐい」と形容した。

 そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから,そういう問題についてはお答えができかねます。

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  出所)毎日新聞ニュース』「陛下の50年 初の記者会見」,http://gyao.yahoo.co.jp/player/01061/v00001/v0000000000000000345/ より。

 昭和天皇は,過去にマッカーサーから発せられたものなら別として,しかもこの占領軍司令官とのあいだで「敗戦直後に済ませていたつもりのその問題」(つまり,マッカーサーと交わしたという『男と男の約束』の内容など)は,いっさいのちに伝えないことにしたのである。

 それゆえ,いまさら「政治責任をもたない新聞記者」に質問されたからといって,これには答える余地もないと反発していたわけである。

 ところが,松本による文学史・文化史的な昭和天皇論は,ここまでで終論する。もっぱら文学史・文化的な修辞を繰りだす松本は,裕仁天皇に関してつぎのように記述し,心底より驚嘆する気持に逢着している。

 「なんとおそろしき天皇であるか」,という思いだった。その大いなる愛はテロリストさえも包容する。

 

 日本の政治が究極のところで誰の手にあるのかを,あざやかに開示してくれたのだった。もちろん天皇は,戦後になって権力から切れていた。ただ,そのことによって昭和天皇は,日本民族にとって政治とはついに何であるのかを如実に示したのである。

 

 政治家でも経済人でも思想家でも医者でもなく,ただ1人,昭和天皇のみが権力もないままに国民のすべてのことを考え,いつくしむ役(パフォーマンス)を果たそうとしたのである(同書,304頁,306頁)

 2) 日本知識人の閉塞的な認識方法,その限界

 ここまで,松本による文学史・文化史的な発想・議論による独創的かつ心情的な昭和天皇「論」を聞き,ただちに筆者が感得した素朴な疑問を,つぎに論及しておきたい。

 松本の立論はいかんせん,日本国内の視野に閉塞している。そして,松本という知識人の営為も内向しており,狭窄化をきたしている。前段で触れたところの「テロリスト」の定義とは,〈日本人〉関連に限定された意味しかもたない(厳密に批判するのであれば,この限定さえ通用しないとわざるをえないが……)。

 天皇裕仁はそもそも,日本帝国に対する日本人・大和民族以外のテロリストをも「包容する」「大いなる愛」をもちあわせていたのか? 

 こうした疑問の提起が的を射ているとすれば,アジア諸国出身のテロリストたちの気持においては,「なんとおそろしき天皇であるか」という思いが入りこめる,わずかな隙間さえみいだせない。

 日本帝国の視線からみてまちがいなく「テロリスト」であった,たとえば朝鮮人がいた。

  ◆-1 1909年10月ハルビン駅で伊藤博文を射殺〔暗殺〕した安 重根(アン・ジュングン)

 

  ◆-2 1932年1月,桜田門外で陸軍観兵式から帰途につく天皇の馬車行列に向かい,手榴弾2個を投げつけ,近衛兵1名を負傷させた李  奉昌(イ・ボンチヤン)

 

  ◆-3 1932年4月,上海事変の勝利と天長節を祝う集会が開かれた日本人街の虹口公園で爆弾を投じた尹 奉吉(ユン・ボンギル) 。この事件では,重光 葵(駐華公使)が片足を,海軍大将の野村吉三郎が片目を失い,陸軍大将の白川義則がこのときの負傷のため,のちに死亡した。

  解説)尹 奉吉の遺体は死刑に処してから,こう処置されていた。「義士の遺骨は14年間,金沢の地下に放置されていたが,光復の翌日の1945年8月16日には義士の遺骸奉安委員会が結成され,翌1946年3月9日,在日同胞青年の賢明な努力で発掘され,同年5月に祖国に奉還され,国葬の後,ソウルの孝昌公園に安葬された。

 註記)http://www.mindan.org/front/newsDetail.php?category=2&newsid=514

  以上の「朝鮮人テロリスト」3名は事後,裁判を受け,処刑されている。死後,遺体を埋葬された場所をわからなくされた者もいる。尹 奉吉の遺体は,ゴミを捨てるかのようにして放置されていた。なにゆえそこまでして,なかでは遺体を隠すかたちで,日本帝国に対する朝鮮人〈テロリスト〉の存在に関する記憶を抹殺しようとしたのか。

 松本健一の表現:「なんとおそろしき天皇であるか」という意味あいは,受ける立場によって,どのようにでも解釈できる。

 昭和天皇は,1931〔昭和6〕年に起きた2・26事件のとき,「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ,真綿ニテ,朕ガ首ヲ絞ムルニ等シキ行為ナリ」「朕ガ股肱ノ老臣ヲ殺戮ス,此ノ如キ凶暴ノ将校等,其精神ニ於テモ何ノ恕スベキモノアリヤ」と憤激した。

 ところが,上記の朝鮮人テロリストたちは,その「朕の股肱の老臣」に重傷を負わせ,死亡させるだけでなく,裕仁天皇自身を狙ったテロ事件も起こしていたのである。というのも,その目的は最終的に天皇という標的に絞られていたからである。

 松本健一はそれでも,自分自身がテロの標的にされた「日本帝国の大元帥昭和天皇」は,「被植民地元国家・地域出身」のこの「テロリストたちさえも」,「その大いなる愛」をもって「包容する」ことができていたというのか?

 3) 閉塞した知識人の闇は天皇天皇の陰に存した

 昭和天皇は,2・26事件を起こした将兵たちでさえ,自身に対する「テロリスト」の配下集団とみなし,事後においてはきびしく措置した。それゆえ,彼らに対して裕仁が「大いなる愛」で「包容する」場面は生まれようもなかった。これに敷衍させていえば,日本帝国の植民地出身者が「天皇の股肱」,ましてや「裕仁自身」の生命を狙った行動を,昭和天皇の立場が許すわけなど寸毫の余地もなかった。

 結局,その愛を差し向けられる〈テロリスト〉とは恐らく,せいぜい「日本人・大和民族」内部に限定されていたのである。敗戦後における米日政治関係史のなかで昭和天皇が発信した「沖縄メッセージ」は,彼の「その大いなる愛」を送られるべき対象から外された「明治以来における日本固有の領土〔=オキナワ〕」もあったことを実証している。

 松本健一の議論は,どこまでも日本国内向けであって(もっともこれにはさらに制約もあるが),国外〔植民地・支配地域〕まで妥当しえない。ところが,実際におけるその天皇「論」の対象範囲は,日本の国内だけでなく外国にも向かわざるをえない。

 本ブログ筆者は,天皇を「畏るべき人物」だと観察・形容する〈学問の基本姿勢:嗜好〉を明示し,この方途に即するかたちで,松本のように議論することを,いちがいに否定しない。しかし,その姿勢は,まだよく説明のできない「感性=〈日本人的心情のぬくもり〉」にどっぷり漬かっており,そこから一歩も抜けだせない限界を露わにしていた。

 筆者にいわせれば,昭和天皇に関する松本の文学史・文化史「論」は「始まりのところで終わっている」。それゆえ,この始まりの「終わりからもう一度討究をしなおす」必要がある。

 なぜか無条件的に,大枠に嵌められている「日本人・大和民族としての集団心理」に圧倒されているのか,これに抗うことを諦めたがごとき議論が,それも,政治を文学史・文化史「論」的に展開するかぎりでは,政治思想史的な天皇制の考究にまでは高まらない。まさにこれからという段階で,松本の議論は終着する。

 --こういうことである。

 日本帝国時代において頂点にそびえ立つ支配者=天皇に立ちむかい,あえて「テロリスト」になった被圧迫諸民族の人びとは,昭和天皇〔など明治と大正の天皇も含めて〕が「果たそうとした」「愛」=「いつくしむ役(パフォーマンス)を」拒絶しただけでなく,そうした「関係」性じたいを当初から峻拒していた。

 この歴史の実相をまさか松本健一ほどの知識人がしらないわけがない。松本は,明治以来の3代天皇は,アジア諸国にとってどのような役まわりを果たしてきたのか,研究者として十二分に承知・理解していた。

 日本帝国臣民を,歴代天皇が「いつくしむ役(パフォーマンス)」を演じるという「上下の間柄:忠義の関係」というものは,日本民族以外のアジアの人びとの立場に対して成立していなかった。「日本帝国に対するテロリスト」を登場させるほかなかった時代の大きな枠組,宗主国日本帝国とその植民地諸国・諸地域との支配‐従属関係が,そうした背逆関係を必至化させていたのである。

 4) 菅 孝行の松本健一『畏るべき昭和天皇』批判

 菅 孝行『変革のアソシエ講座』2010年度: “菅 孝行「近代天皇制とナショナリズム」第4回レジュメ,2010年9月松本健一『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社)批判” という資料がある。

 菅 孝行は,松本健一を,以下のように批判していた。本ブログ筆者が2009年12月に披露していた見解とまったく同旨を繰りだしていた。

 天皇は,「すべてをしろしめす」存在として,「国民の心を抱きしめ,慈しみ,祈る」「振る舞いの人」たらんとした,「政治を超えた虹」たらんとしたその「大いなる愛」はテロリストをも包含する,それこそが「天皇の政治」だ。

 

 「神格否定」をすりぬけたから,裕仁にはなんでもできてしまうというわけだろう。そしてそれが素晴らしいというのだから,ここまで来るともう,歴史事実の解釈という域をはるかに逸脱した放言である。

 

 著者〔松本健一〕は最後の章で,天皇が,「すべてをしろしめす」存在として,「国民の心を抱きしめ,慈しみ,祈る」「振る舞いの人」たらんとした,とか「政治を超えた虹」たらんとした,とか,その「大いなる愛」はテロリストをも包含する,とか,そしてそれこそが「天皇の政治」だとか,いいつのっている。「神格否定」をすりぬけたから,裕仁にはなんでもできてしまうというわけだろう。そしてそれが素晴らしいというのだから,ここまで来るともう,歴史事実の解釈という域をはるかに逸脱した放言である。

 註記)http://homepage3.nifty.com/associe-for-change/study-rejume/kanrj104.pd

 菅 孝行は,松本健一の論述に対して「歴史事実の解釈という域をはるかに逸脱した放言である」というくだりを,このレジメのなかで強調していた。

 

  昭和天皇の戦争責任からの逃亡

 1) 大日本帝国の総帥天皇ヒロヒト

 さきに,日本帝国の植民地となった国家・地域出身の「テロリスト」を3名挙げておいた。森川哲郎『朝鮮独立運動暗殺史』(三一書房,1976年)は,「朝鮮における日本の犯罪を見直そう」という項目で,こう語っている。

 日本帝国主義がおこなった凶悪な犯罪の爪痕に,支配層も庶民もふくめて,現代の日本人が目を背けることは許されない。しらぬ顔をして頬かむりするのは,なおさら許してはならない。日本帝国が朝鮮を植民地した時代における「苦痛と悲劇の深い傷あとは,まだ,朝鮮民族の魂のなかに,骨がらみとなって残されている。いまやその五肢に,民族の苦痛となって,いまだに深く刻みこまれているのだ」。

 

 もちろん,朝鮮でおこなってきた犯罪と同質のものは,当時の日本の支配権力がアジア各国でおこなってきたものである。アジアも世界も,その日本の凶悪犯罪と悪質な支配ぶり・搾取・弾圧・迫害を忘れてはいない。

 

 昭和天皇がヨーロッパ訪問〔1971年9月27日から10月14日〕で歓迎されなかったり,戦犯として白眼視されたりするのも,彼がその最高命令者であり,開戦決定者であって,つねに天皇の名で虐殺と迫害,弾圧がおこなわれてきたのだから,当然のことである。

 

 「広島市民の大量虐殺は,ああいう戦争だからやむえなかったことと思います」と彼が発言したことは,思想的にも心情的にも,異民族および日本民族の大虐殺を正当化しており,真の意味で戦争責任者であることを裏書きしている森川哲郎『朝鮮独立運動暗殺史』三一書房,1976年,304-305頁)

 「個人としての天皇は」「一方で立憲君主としての立場を超えて軍部に対して自己主張を試みた」。「個人としての天皇に軍部の政策の責任を帰属させることは困難であ」る。「しかし」「軍部の政策がすべて国軍の大元帥たる天皇の名において決定され,実行された」。

 「もし軍部の政策に責任があるとすれば,それは個人としての天皇ではなく,制度としての天皇(ないし機関としての天皇)であ」る。「しかも制度の責任を担いうるものは,結局,個人以外にはない」。「それが敗戦後の人間天皇に問われた最も深刻な道義的問題であった」(三谷太一郎『近代日本の戦争と政治』岩波書店,1997年,223頁)

 旧大日本帝国大元帥だった昭和天皇は,アジア・太平洋戦争15年戦争〕をとおしてアジア諸国を戦地と化し,2千万人以上もの人間を死に至らしめた名実ともに,最高の責任者である。

 日本帝国内だけでも〈一般臣民,忠良なる熱誠の赤子〉に3百万人以上もの死者を出した。侵略戦争をそのように推進させ,大失敗をした軍国主義:日本帝国の最高責任者が,敗戦後30年経過した段階で新聞記者に問われた戦争責任を,ヒロシマ・長崎への原爆投下という問題もあわせて,単に「言葉のアヤ」といいかえし,退けた。

 というよりも,彼は正直なところ,自身の戦責問題に対する問いかけに対してはそのように「問答無用の態度」しか採りえなかった。みかたによっては,これほど「朕の国家への責任の果たしかた」において無責任だった人物もいない。ところが,彼は「自分=天皇家の存続」という我利私欲次元の未来戦略だけは,確実に完遂したのである。

 2) A級戦犯と超A級戦犯

 原 彬久『吉田 茂-尊皇の政治家-』(岩波書店,2005年)に聞こう。

 天皇が退位し,戦争への道義的責任をしめしたなら,軍部暴走と戦争にかかわった政治家・軍人・言論人などは,指導者としての出処進退をきびしく問われたはずである。アジア諸国への賠償・補償もすべてはこの地点から始まっていた。

 

 日本が国家として,占領軍による受身の懲罰ではなく,自身の意思にもとづいて戦争責任に明確かつ早期の決着を付ける必要ができたなら,「天皇退位」は,ひとつの重大な選択肢であったに違いない。

 

 天皇股肱の臣「吉田 茂」(当時の首相)が,敗戦日本をとらえて離さなかったこの「天皇退位」という戦後史最大の難問を抱えて,歴史の岐路にあったことは事実である。しかも,この吉田が天皇の「退位」のみならず「謝罪」をも否定するという,このうえなく深大な決断を下していた(原 彬久『吉田 茂-尊皇の政治家-』岩波書店,2005年,154-155頁)

 このために裕仁は以後,それでなくともうかつに発言できる性質の問題ではない「自身の戦争責任」に関しては,厳重に鍵をかけてしまい,密封状態にするほかなくなった。

 そもそも,敗戦直後にマッカーサーとはじめて会見した昭和天皇は,「戦争中の国家的決定と国民の犯した行為について全責任を負う者」である告白したといわれてきたものの 註記)東京裁判が進行するころには「東條英機に戦争責任を押しつけ」「国体の護持」を図り,その責任を回避できていた(木下道雄『側近日誌』文藝春秋,1990年,〔高橋 紘「解説・昭和天皇と『側近日誌』の時代」〕385頁,387頁)

 補注)昭和天皇のその告白が事実であったというための確証はなく,周辺が意図的に流したいわゆる「ガセネタ」であるとみなすのが,歴史研究家が出した判定である。敗戦後,この天皇を再利用するための情宣活動の一斑であったに過ぎず,これに騙されてはいけない。

 3) 人民のなかに天皇も含まれるのか,それとも天皇のなかに人民も含まれるのか

 ともかくも,昭和天皇にとって不幸中の幸いだったのは,東京裁判の法廷に引き出されず,無罪放免になったことである。当時,日本国民のあいだに裕仁天皇がその裁判に登場しない事情に不審の念を抱く者がいなかったのではない。

 しかし,昭和天皇の旧日帝大元帥として最高の戦争責任が不問されるともに,一般庶民のあいだにも広く深く滲透していたはずの,もろもろのこまごました戦争責任も,同じく免罪あつかいされた。日中戦争において前線に駆り出された日本軍将兵のうち,「三光作戦」の遂行に関与しなかったと自信をもっていえる者は,ごく例外的な存在でしかない。

 GHQ支配統治に置かれた敗戦後日本においては,東條英機A級戦犯に戦争責任すべてを転嫁しえたかのような政治状況・社会的雰囲気が醸成されるなかで,東京裁判が展開されていった。そして,1946~1954年にわたる昭和天皇の全国津々浦々へ「行幸」行事は,日本国民にも重く課せられていたはずの「戦争責任」,その歴史的な意味あいを忘却させるためにも活用された。

 昭和天皇は《ご聖断》でもって,A級戦犯の生首と引き換えに国体護持と一身の安全を勝ちえた。昭和天皇自身にはそれがよく分かっており,A級戦犯の記憶は,昭和天皇にとってはいまさら触れられたくない苦いものであった(岩井忠熊『「靖国」と日本の戦争』新日本出版社,2008年,155頁)

 そればかりか,敗戦後における日本の政治過程において貫徹・成就させてきた「天皇という個人の利害」問題は,かつての臣民たち,そしていまの国民たちにはけっしてしられたくない秘話であった。

 昭和20年代における裕仁天皇をめぐる歴史は,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と明治憲法において神話裁定的に規定された〈昭和天皇〉の罪科を裁くことなく済ませてきた,日本人・大和民族の致命的な過誤を記録している。

 「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(明治憲法大日本帝国憲法)と「天皇は日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴である」(日本国憲法)との字義の違いは,一見大きいようにみえても,実はたいした径庭がない。

 4) 松本健一の日本知識人的な制約

 松本健一は,昭和天皇自身の想定する国家論は「天皇の国家」に尽きる,戦後もこれはかわっていないと論断する。裕仁天皇は,北 一輝と同じに天皇機関説に立ちながら,北が「国民の国家」であると考える立場を許さなかった。「国民の国家」であるとすれば,天皇もその「国民国家の機関」に過ぎなくなる。そうであれば,天皇統帥権があるにせよこの国軍は「国民の軍隊」であるべきである。

 ところがこの考えは,「天皇=国家の軍隊」すなわち皇軍という考えとするどく対峙する。北 一輝が強い影響を与えて起きた軍事クーデタ:「2・26事件」は,「天皇の軍隊」を奪い,「国民の軍隊」にしてしまおうとした事件であった。天皇は,一時は「国民の軍隊(公民国家)」へと動くかもしれなかった情勢を「天皇の軍隊」へと,とりもどした(松本『畏るべき昭和天皇』214-217頁)

 筆者は,「生物学的原理」で皇位が継承されると規定した現行の日本国憲法は,天皇家の血筋を「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」ものと観念した立場と大同小異であると解釈する。松本健一も,民主主義の原義には特権階級を廃すという意味があり,日本の天皇制は民主主義に反すると断定していた。

 だがそれでも,「畏るべきもの」として存在しつづける「日本における天皇天皇制」に対するとき,松本はただひたすら感嘆するばかりであった。

 松本の,昭和天皇に関する「個人史的な文学史・文化史」論は,さらに政治・経済・法律・社会・心理史的な諸視座を有機的に束ねての考察にまで仕上げる余地がある。本ブログ筆者が論究する立場は,その双方の論点を兼ねそなえて,これを有機的に統合した議論を意図している。

 

  弔辞的な批判-松本健一に再度送る-

 知識人である松本健一であるならば,以下の批判に耐えうる理性をもつと信じて,あえて重ねて申しあげる。以上に論じてきた文章を実は,松本健一は手にとって実際に読んでいる。しかし,無視した。どうしてか?

 なかでも,「⑤ 松本健一『畏るべき昭和天皇』論の決定的な陥穽-松本健一:外なる天皇問題-」の議論をもって,本ブログ筆者が松本健一に振り向けた〈根本からの批判〉に,彼はなにも答えられる術をもたなかったからである。

 本ブログ筆者は,「日本帝国の大元帥昭和天皇」は,「被植民地元国家・地域出身」のその「テロリストさえも」,「その大いなる愛」をもって「包容する」ことができていたといってのけられる松本健一の口吻に絶句するほど驚愕した。

 松本健一は,そうした自分の発言を,書物のなかでの記述をもって披露した。これは間違いなく「《松本自身の意見》=昭和天皇理解」であった。だが,自著のなかで,完全に事実に反した,それも滅相もない「天皇誤認」を犯した謬見を指摘された。しかしながら,これに対してなんら答えることができず,無視しておくほかなかった。

 以上に説明した出来事は,2009年12月上旬ころにおける話題であった。当時はまだ,松本健一が元気に活躍していた時期であった。本日に言及した「松本健一批判」を著述する該当の書物は,全国の大学図書館や公立(都道府県)図書館に数多く所蔵されている。まだ市販されているし,古書でも入手できる。

 

  補遺:「松本健一」の批判論

  “哲学者=山崎行太郎の政治ブログ『毒蛇山荘日記』” は,松本健一をとらえて,つぎのようにきびしい評言を与えていた。

 むろん,右にも左にも顔が広いのは必ずしも悪いことではない。思想や思想家を論じるのに,左か右か的次元を超えて,深い存在論的次元を問うという思想的態度も悪いことではない。しかし,松本健一の生き方からは,僕は,権力者や流行に弱い思想的な「いかがわしさ」しか感じることはできなかった。

 

 だから,いつのまにか,政権交代後の混乱に乗じて誕生することになった左翼政権の内部に潜りこんでいたとしても少しも不思議ではないと思う。今回,松本健一は,菅 直人が,原発事故周辺は「20年は住めない」と発言したとリークしているわけだが,このリーク事件は,実は,菅 直人一派と仙谷由人官房副長官一派との主導権争いが絡んだ「内ゲバ」だったらしい。

 

 松本健一は,仙谷由人と東大同期ということで,仙谷由人の引立てで,内閣参与に就任したということだ。

 註記)http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20110416/1303013885

 解説)上文で「原発事故周辺は『20年は住めない』」どころか,永久的に住めない地域が残ったことは,素人の筆者にでも理解できる。ただし,ここでの評言のうち「20年間は住めない」ことを「リークしている」と指摘された含意,いいかえれば,その前後関係での意味あいが分かりにくい。

 

 当たりまえのことがいわれていたのではないか? つまり,リークうんぬんの話題たりうるのかということである。もっともこの観方は,現時点(2014年12月)における「後知恵」的な地点からのものであるが……。

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