大山倍達は韓国・朝鮮民族の一員であることを,その名をもってしらせている

日本アウトローの系譜にみる大山倍達の存在-日本帝国主義の産物-

                   (2014年3月28日)

 

   「要  点」 日本的アウトローの系譜-宮崎 学に学ぶ日本ヤクザ論

 

  猪野健治と宮崎 学

 本(旧々)ブログ「2008. 3. 22」において,戦後闇市の問題に言及したさい,猪野健治編『東京闇市興亡史』(双葉社,1999年)という文献に触れていた(そして,本日のこの記述は本(旧々)ブログ「2008. 3. 28」の再録であるが,だいぶ手なおしを入れてある)。

 その著者:猪野健治の別著(※  ↓  )を,あらためて紹介していた宮崎 学『ヤクザと日本-近代の無頼-』(筑摩書房,2008年)は,宮崎の前作『近代ヤクザ肯定論-山口組の90年-』(筑摩書房,2007年)の理論編に相当する著作である。

 宮崎『ヤクザと日本』は,(※)猪野健治『ヤクザと日本人-日本的アウトローの系譜-』(三笠書房,1973年)を高く評価する立場より,執筆されている。

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  出所)https://www.youtube.com/watch?v=XHmk0KfTNto 

 その猪野は,「ヤクザは,あくまで,現代資本主義社会が生み出す矛盾を深層において補完するところに成立している-という大前提を忘れてはなるまい」(312頁)と,日本におけるヤクザ問題をとらえる基本視点を指摘している。これは日本社会学に関する問題意識である。

 こうもいう。独占資本にとって暴力団の「価値」とは,「利潤を蓄積する過程での協力者」としてのみある。「協力者」が「非協力者」-「敵」へと変貌するとき,独占資本が警察力-国家権力を動かして,「鉄槌」をふりおろすのは理の当然である(291頁)。これは政治経済学や産業経営学のための前提知識となる。

 たしかに,宮崎『近代クザ肯定論-山口組の90年-』は,そうした猪野の観点に則して,いわゆる「病理集団」としてのヤクザ集団の構造と機能を,山口組の90年史として描写している。

 宮崎は自身が京都の伏見でヤクザ一家の息子に生まれただけあって,ヤクザに対する 「理解的=好意的な心情」をこめた筆致を披露している。この点に関する評価もふくめて,宮崎の著作に対する論評は,インターネット上にたくさん公表されて いる。

 

 猪飼健治と大山倍達

 猪野健治『ヤクザと日本人-日本的アウトローの系譜-』からとくに注目すべき箇所を引用しておきたい。

  ※-1 「ヤクザをやめようとする者に行きどころがなく,ヤクザでない者をヤクザに追いやる社会状況がある以上,ヤクザがなくならないのは,あたりまえである」(猪野『ヤクザと日本人』17頁)。

  ※-2  ヤクザ集団の構成層は,いつの時代においても,社会から疎外された被差別階層であった。ヤクザの反権力性は,じつはそこからきている。ヤクザのいう「任侠道」とは,階級意識の原始的顕現にほかならない。

 ヤクザ集団の構成層は,封建時代においては下級武士,浪人,人足,農民,職人等であり,明治以降は没落士族,中小鉱山港湾土建業関係者,土方,農漁民,職人層の一部であった。

 第2次大戦後は,これに未解放部落出身者,在日朝鮮人,在日中国人(旧台湾省民)の極貧層が加わる。日本帝国の手で,軍需工場・鉱山・炭鉱等で苦汁労働を強いられていた彼らは,解放されるまでは,ヤクザになることさえ許されなかったのである(13頁)。

  ※-3  ※-1を踏まえて☆-2を再考するとき,日本社会の底辺にうごめく階層・集団の様相というか真相が,より明快に認識できる。とりわけ,日本の敗戦まで「ヤクザになることさえ許されなかった」という極貧社会層のなかには,「在日外国人=朝鮮人・台湾人」が存在していた点に注目したい。      

  ※-4 昭和20年代における日本社会のどさくさのなかから,在日韓国・朝鮮人〔コリアン〕の有名人として登場するのがたとえば,大山倍達おおやま・ますたつ,1923~1994年),韓国名:崔 永宜(チェ・ヨンウィ,최  영의)であった。

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 出所)写真は,https://middle-edge.jp/articles/Fk4Lt?page=3

 この大山倍達は,日本の空手道を定式化した空手家である。彼の氏名のうち「ますたつ=倍達(ペダル)」とは,韓国・朝鮮の檀君神話に登場する伝説上の古代王朝「倍達」国からとったものである。

 韓国・朝鮮民族は「倍達の民」「倍達民族」を美称として使っている。大山が現役時代に大活躍していたとき,日本人でその名の由来をしるものは,ほとんどいなかったはずである。ところが,韓国・朝鮮人には周知のというか,あるいは簡単にわかる「暗号」もどきの名だったのである。

   大山倍達の半生 ☆

 

 1940年 16歳のとき来日,山梨少年航空学校に入学。

 1940年9月 松濤館流空手を船越義珍に師事,空手を始める。山梨少年航空学校卒業後に陸軍士官学校に受験するも不合格。そのころ拓殖大学の学生だった木村政彦が柔道界最高の栄誉だった「天覧試合」で優勝をなしとげたことに感動。

 1941年 拓殖大学司政科に入学,政治家を志す。同年末に大東亜戦争が勃発し,在学中に学徒出陣で徴兵される。終戦間際に海軍の特攻隊に志願したが出撃できず終戦を迎える。

 

 1945年9月 復員。東京都杉並区天沼町に永和空手道研究所を創設,空手の武者修行と称し,道場破りを繰り返した。このため身を隠す必要性に迫られ「山篭り」を敢行し,空手の修行に励む。

 1947年 京都で開催された戦後初の全日本空手道選手権に出場,優勝。

 1952 年 渡米。在米プロレスラーだったグレート東郷の兄弟という設定で「マス・東郷」を名乗り,全米各地でプロレスラーやボクサーと対決するかたわ,空手のデモンストレーションとして,ビール瓶の首から上の部分を手刀打ちで切り落とし,観客を驚嘆させた。

 

 「Hand of God」と形容され全米で名を轟かせた。帰国後は47頭の牛を素手で倒し(そのうち4頭は即死)。「猛牛と戦う空手」と題するドキュメント映画が公開され,その後は多くの武道家と交流し,世界各地をめぐりさまざまな格闘技を研究。国際空手道連盟・極真会館を設立した。

 註記)http://blog.livedoor.jp/whokilledxxxxx/tag/大山倍達

  ※-5 東京のJR「御徒町」駅から松阪屋方向(西側)を望むと「三千里」という薬品店の大きな看板がみえるが,これにも同じ符牒がこめられている。韓流ブームが定着してからだいぶ時間も経過しているけれども,日本人でその意味がすぐわかる人は,かなりのコリアン通である。さらに,朝鮮・韓国料理店の店名をみて,これが韓国や朝鮮〔北朝鮮〕の「どこの出身地〔等々〕の人の店か」までわかる人は,もっとくわしいコリアン通である(→ただし〈平壌〉とか〈釜山〉など著名な都市名のものはのぞく・・・)。

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