崔 書勉(崔 重夏)という人物の死去が報道されていた

日韓関係になにか重要な役割をになってきたらしいこの人物:崔 書勉について,死亡記事を紹介しつつ,両国関係史の一端をうかがってみる

 

  「要  点」 韓日関係史に大きく貢献していた,それでいて,日本側にはあまりしられていないこの人物


 「崔 書勉さん死去」朝日新聞』2020年5月28日朝刊5面「国際」

 崔 書勉さん(チェ・ソミョン=国際韓国研究院長) 5月26日,がんで死去,92歳。葬儀は28日にソウルで営まれる。韓国・江原道出身。1957年に李 承晩政権の圧迫から逃れて日本に移り,1969年に東京韓国研究院を創立した。岸 信介元首相をはじめとする日本の政財界の要人と親交を深めた。(ソウル)

 

 「国際韓国研究院の崔書勉院長が死去」『産経ニュース』(政治政策)2020.5.26 22:59,https://www.sankei.com/politics/news/200526/plt2005260039-n1.html

【ソウル=名村隆寛】 国際韓国研究院長の崔 書勉(チェ・ソミョン)氏が〔5月〕26日,肺がんのためソウル市内の病院で死去した。92歳。張 勉(チャン・ミョン)元韓国首相の秘書を経て,国際韓国研究院を設立し,日韓関係に関する資料を発掘・収集。日本の政財界に人脈を築き,約60年にわたり日韓民間交流の懸け橋となった。

 

 「崔 書勉さん死去 日韓関係を憂慮,最後のフィクサー毎日新聞』2020年5月27日朝刊,https://mainichi.jp/articles/20200527/ddm/007/030/037000c 

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 日韓政界のパイプ役を果たし,〔5月〕26日に92歳で死去した崔 書勉(チェ・ソミョン)国際韓国研究院長は,亡くなる直前まで悪化する日韓関係を心配していた。日韓政府が徴用工問題などをめぐり原則論を戦わせるなか,日韓関係史における「最後のフィクサー」は,出る幕もなく去ってしまった。

 崔氏は1957年に来日。1969年に東京韓国研究院を設立し,植民地時代の独立運動家らの史料収集に没頭した。安倍晋三首相の祖父である岸 信介元首相や,福田赳夫元首相と親交が深く,1960~70年代には朴 正熙(パク・チョンヒ)大統領の対日アドバイザーの役割を果たした。

 1965年の日韓国交正常化後,日本の新日鉄(現・日本製鉄)が韓国の浦項製鉄に技術協力をする合意でも水面下で活躍。当時の金山政英駐韓日本大使と朴大統領が面会する場面をつくり,外交の舞台裏を支えた。

 

  Amazon カスタマー「トップレビュー」(5つ星のうち 5.0 tomin 2017年5月15日に日本でレビュー済み)

 『日韓水面下の怪物   崔  書勉』といわれた崔氏(WEB情報)。記載されているような 情熱の塊のような青春時代からいままでの生き方が まさに「怪物」,と感じた。教科書には載らないとても興味深い内容が多い。日本人からも,崔氏に劣らぬ自国を愛する心を待ち,知識と知恵と度胸で崔氏と対等に話し合える人物が,少しでも多く現れなければ,と強く感じる。

 

 書評,橋本 明『韓国研究の魁 崔 書勉-日韓関係史を生きた男』」(出版社:未知谷),『読書人』更新日:2017年9月4日;新聞掲載日 2017年9月1日(第3205号)

 人物伝を書くことはむずかしい。叙述の対象が存命なら批判的な内容を書くことははばかられるし,死後であるとしても関係者が健在なら,やはり客観的な像を描くことが遠慮されかねない。こうした人物伝の執筆にまつわる困難は,橋本 明の『韓国研究の魁 崔 書勉』を読むさいに不可欠な視点だ。

 本書が描く崔 書勉(1926年~)は,安 重根を中心とする朝鮮と韓国の歴史の研究を深化させるために邁進し,不撓不屈の精神で祖国韓国の発展を熱望し,日韓両国の友好親善の確立を期す,知情意の三つを兼ね備えた,いわば現代の傑物である。

 さらに,李 承晩と対立していた張 勉の秘書を務めていたことから,1957年に米軍の軍用機で東京を経由してバチカンに逃れようとした崔が,最高裁長官の田中耕太郎の説得によって日本に留まることを決意して法務省から特別滞在許可を与えられ,韓国研究院や国際関係共同研究所を設立するに至るという逸話は,以後60年にわたって日韓両国の民間交流の懸け橋となった崔の出発点となる出来事であり,本書の最大の読みどころだ。

 補注)崔 書勉が日本に留まるきっかけを提供した人物として,この田中耕太郎がいた。田中は「伊達判決」(1959年3月)を否定した当時の最高裁長官であり,いうなれば,在日米軍(広義にはアメリカ政府)による「実質的な日本占領状態」を「無」論理的に合理化した日本の国家官僚であった。この出来事を少し説明しておく。岸 信介の使命も前後して出ていたので,この点も留意しておきたい。

  ★ 伊達判決とは ★

 

 1955年に始まった米軍立川基地拡張反対闘争(砂川闘争)で,1957年7月8日,立川基地滑走路のなかにある農地を引きつづき強制使用するための測量がおこなわれたさいに,これに抗議して地元反対同盟を支援する労働者・学生が柵を押し倒して基地のなかに立ち入りました。

 

 この行動に対し警視庁は2ヵ月後に,日米安保条約にもとづく刑事特別法違反の容疑で23名を逮捕し,そのうち7名が起訴され東京地裁で裁判になりました。

 

 1959年3月30日,伊達秋雄裁判長は「米軍が日本に駐留するのは,わが国の要請と基地の提供,費用の分担などの協力があるもので,これは憲法第9条が禁止する陸海空軍その他の戦力に該当するものであり,憲法上その存在を許すべからざるものである」として,駐留米軍を特別に保護する刑事特別法は憲法違反であり,米軍基地に立入ったことは罪にならないとして被告全員に無罪判決をいい渡しました。

 

 これが伊達判決です。この判決に慌てた日本政府は,異例の跳躍上告(高裁を跳び越え)で最高栽に事件をもちこみました。最高裁では田中耕太郎長官みずからが裁判長を務め,同〔1959〕年12月16日,伊達判決を破棄し,東京地裁に差し戻しました。

 

 最高裁は,原審差し戻しの判決で,日米安保条約とそれにもとづく刑事特別法を「合憲」としたわけではなく,「違憲なりや否やの法的判断は,司法裁判所の審査には原則としてなじまない。明白に違憲無効と認められない限りは,裁判所の司法審査権の範囲外のものであって,右条約の締結権を有する内閣および国会の判断に従うべく,終局的には,主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべきものである」として,みずからの憲法判断を放棄し,司法の政治への従属を決定付けたのです。

 

 そして,この判決の1ヶ月後の1960年1月19日,日米安保条約の改定調印がおこなわれ,現在までつながっているのです。なお,砂川町(現在は立川市編入)にまで広がっていた米軍立川基地は,1968年には拡張計画を撤回,1969年に日本に返還され,現在は,一部を自衛隊航空隊が使用しているものの,大半は昭和記念公園や国の総合防災拠点となっています。

 

 「伊達判決を覆すための日米密議」

 伊達判決から49年もたった2008年4月,国際問題研究家の新原昭治さんが米国立公文書館で,駐日米国大使マッカーサーから米国務省宛報告電報など伊達判決に関係する十数通の極秘公文書を発見しました。これらの文書によると,伊達判決が出た翌朝閣議の前に藤山外相がマ大使に会い,大使が「この判決について日本政府が迅速に跳躍上告をおこなうよう」に示唆し,外相がそれを約束しました。

 

 さらに,大使は本国国務省へ十数回に及ぶ電報で,岸首相や藤山外相との会見や言動を本国に伝えており,またみずから跳躍上告審を担当した田中最高裁長官と会い「本件を優先的に取り扱うことや結論までには数ヶ月かかる」という見通しを報告させています。このように,伊達判決が及ぼす安保改定交渉への影響を最小限に留めるために伊達判決を最高裁で早期に破棄させる米国の圧力・日米密議・があったことが,米国公文書で明らかになりました。

 註記)『伊達判決を生かす会』2012年,http://datehanketsu.com/toha.html

  ところで,崔 書勉が当初はバチカンへの「亡命」をもくろんでいたはずだが,どういう事情があったか日本に留まることになった。それも,田中耕太郎の強い引きがあっての経過:決着になっていた。田中がなぜそのような働きかけをしたのか,動機とかさらに国際政治にまつわる背景はよくわかりえない。田中耕太郎のうしろには岸 信介が控えていて,この指示あるいは相談や協議があったと推察することは,けっして無理な推察ではない。

 岸 信介が首相を務めていた時期は,1957年2月25日から1960年7月19日であったから,多分,この1957年の月日の以降に,それも「米軍の軍用機で東京を経由してバチカンに逃れようとした崔」のことに関して,日本側では田中耕太郎が窓口となって,崔を入国・在留させていた。

 ところで,田中耕太郎はカトリック教徒であった。経歴はこう解説されている。

 法学者。大正4〔1915〕年東京帝大法科大学卒業後,内務省に入るが,翌年辞職。大正8〔1919〕年欧米に留学し,帰国して大正12〔1923〕年東京帝大教授となる。商法を担当し,カトリック自然法論の立場から世界法を論じた論文「世界法の理論」で,法学博士の学位を取得。

 昭和12〔1937〕年東京帝大法学部長,昭和20〔1945〕年文部省学校教育局長,昭和21〔1946〕年第1次吉田内閣の文相を歴任する。昭和22〔1947〕年参議院議員に当選,昭和25〔1950〕年第2代最高裁判所長官に就任し,10年間在任。昭和35〔1960〕年文化勲章受章,同年国際司法裁判所判事に就任。

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〔記事:書評に戻る→〕 だが,千古の美談ともいうべき崔と田中のやりとりと,崔のその後の歩みが著者の描くような美しい物語でなかったことは,1978年3月に開かれた参議院内閣委員会での質疑からも明らかだ。

 すなわち,席上,社会党の野田 哲が崔の在留資格の正当性や,1967年8月1日に崔が韓国当局に外為法違反で検挙されたいわゆる金浦空港事件の経緯,あるいは韓国研究院の資金の流れなどを挙げ,崔がKCIAの諜報員ではないかと質問しているのだ。

 確かに橋本は,本書のなかで,崔のもとで国際関係共同研究所所長を務めた元駐韓大使・金山政英の言葉を借りるかたちで,崔が韓国政府と関係をもっているという噂を否定する。だが,そうした噂が根拠のない流言ではなく,国会でもとりあげられたということを考えるなら,関係者の言葉で疑惑を払拭することはけっして容易ではないだろう。

 また,崔の重要な功績の韓国研究の促進も,安 重根に関する研究以外は具体的な説明に乏しいため,われわれは橋本の記述を相対化できないもどかしさを覚えざるをえない。なにより,崔 書勉という素材の興味深さにだけ頼らず,著者自身の味付けに工夫がほしい。

 たとえば,崔がロバート・ケネディフィデル・カストロ,そしてさまざま場面で崔自身とかかわる金 鍾泌と同じ1926年の生まれという点に注目するだけで,本書の奥行きは広がるのだ。

 それでも,しる人ぞしる崔 書勉の人となりや業績を一般書のかたちで世に問うたことは本書の大きな功績だ。そして,『韓国研究の魁  崔  書勉』を契機として,崔 書勉に関するより体系的で立体的な研究がなされるなら,本書の意義はけっして小さくないのである。

 

 「崔 書勉理事長『韓日の葛藤は外交でなく歴史認識問題』」『HANKYOREH ハンギョレ』2014-10-08 08:05 修正:2014-10-08 08:10,http://japan.hani.co.kr/arti/politics/18461.html

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 日本研究の第1人者,崔 書勉国際韓国研究院理事長(写真)いわく,首脳会談より過去の歴史清算が先決。「現在の韓日間の問題は外交問題ではなく歴史認識の問題だ。誤った過去の歴史を反省,謝罪して新しい未来を構築する歴史認識が,外交に課されるものであるためだ」。

 朴 槿恵(パク・クネ)大統領と安倍晋三首相がそれぞれ執権2年目になろうというのに韓日首脳会談ができない状況に対する,元老日本研究者の崔 書勉(チェ・ソミョン)国際韓国研究員理事長(86歳・写真)の返事だった。

 歴史認識を土台としない外交は “原則なき外交” とも語った。 換言すれば,日本軍慰安婦など過去の問題の整理なしに韓日首脳会談を急ぐ必要はないというのが, “韓日現代史の舞台裏の人物” としてしられる彼の助言である。

 崔理事長は「世界の大国の歴史をみると,悪いことをせずに大国になれた国はない」として,「米国の奴隷制やドイツのナチなど,大国は多くの過ちを犯しても勇敢に過去の誤りを認めてみずからを是正していった」と語る。

 これに比べて日本はどうだろうか。崔理事長は「日本は戦後の賠償金も払ったし,韓国とは経済協力を通じて義務も尽くしたと考えている。いまは自分自身を振り返り,過去の先達の誤りを教科書にまで載せてなんの役に立つと考える人が生まれた」と分析した。

 だが,彼は韓日関係はもともと,これほど悪いものではなかったと指摘した。崔理事長は「1965年の韓日協定から最近に至るまで,韓日は模範的な両国関係だったと思う」として,「それが可能だったのは協定文や昭和天皇の発言で日本が過去の誤りを認め,再び同じようなことが起きないようにする約束があったため」と話した。関係悪化は誰のせいなのであろうか。

 彼は「日本ではよく三度も謝ったという話がされる。天皇が,首相が謝っておきながら,文部大臣がその発言をひっくり返して『落ち度はなかった』といった話をする。謝った話と謝りを取り消した話のどちらが記憶に残るだろうか」と批判した。

 崔理事長は「韓日関係の数千年の歴史のなかで,どちらか一方が他の主権を奪いとったのは20世紀初めの日帝40年だけ」としながら,「長い目でみれば不幸な歴史は短かった。この短い期間のために両国関係が誤ったとすれば,なぜ誤ったのか両国が深く考えなければならない問題」と付けくわえた。

 

 「旧韓末の外交文書目録を集大成  崔 書勉氏が発刊」東亜日報』2004年1月25日 23:28,https://www.donga.com/jp/Search/article/all/20040125/278764/1/

 江華島(カンファド)条約(1876年),朝米条約(1882年),朝独条約(1884年),朝仏条約(1886年)など旧韓末の外交文書の原本が1910年6月,朝鮮統監府によって日本の外務省にもち出された事実を示す文書など,1900年前後のわが国の外交と独立運動の状況を確認できる文献が大量に発見された。

 この文献のなかにはこの他にも明成(ミョンソン)皇后の殺人犯らが日本に帰ったあと,朝鮮の刺客を避けるため,名前を変えて隠匿生活をしていたことや,安 重根(アン・ジュングン)義士が処刑されたあと,沿海州の韓国人らが彼の切られた指をたずさえて参拝したという記録など,新しい事実が含まれている。

この文書は,韓日近世史の研究者である崔 書勉(チェ・ソミョン,76歳)国際韓国研究院長が1994年から,日本外務省外交史料館に所蔵されている史料5万本を読み漁って捜し出した。崔院長は最近この資料を集めて,『日本外務省外交史料館所蔵韓国関係史料リスト・1875~1945』を発刊した。

 1910年6月,寺内正毅朝鮮統監が当時日本外務大臣小村寿太郎に送った公文書とこれに添付されている文書のリストによると,高 宗(コ・ジョン)は1905年乙巳保護条約で外交権が剥奪されたのちも,それ以前の外交条約文を「1904年の徳寿宮(トクスグン)火事のさい,焼けてしまった」として,日本側に渡さずに隠していたが,1910年5月,統監府に奪われて,統監府はこれを日本外務省に送っていたことが分かった。

 それによると,高宗はこの外交文書を近い親戚のチョ・ナムスンに任せて,チョ・ナムスンはこれを再び,フランス人のカトリックソウル教区のムィテル司教にひそかに任せたが,日本の警察が他のことでチョ・ナムスンを取り調べる過程でこの事実を確認して,ムィテル司教から書類を押収したという。

 崔院長は,「当時日本に送られた旧韓末の外交文書の原本は現在行方がはっきりしていない。日本内で流出したか,他の場所に移されたものと推定される」と述べた。

 崔院長が今回公開した文献のなかで,当時日本外務省が国内機関から受け付けた報告書には1895年10月,明成皇后殺害事件以後,多くの朝鮮人刺客が,「1897年11月に予定された明成皇后の国葬までに犯人を処断するのが国民の義務だ」として,日本に渡ったことや,このため殺人犯らが隠匿生活をしたという内容が記されている。朝鮮人亡命者を含めた殺害関連者の本名と仮名,彼らに対する日本政府の支援内容なども一目瞭然に書かれてある。

 ウラジオストック駐在日本総領事から送られた報告書には安 重根義士の弟,定根(ジョングン)さんが実兄が処刑されたあと,沿海州に亡命して切指同盟員の1人である白奎三(ペク・ギュサム)を訪ねて安義士の指をもらったという記録もある。

 このほか,今回に確認された文献には,

   △  李ジュン烈士の死亡診断書,
   △  満洲(マンジュ)等地での日本密偵らの独立運動家帰順転向作業,
   △  モンゴル革命当時の朝鮮人の活躍ぶり,
   △  純宗(スンジョン)の遺言,
   △  旧韓末の水道,電気など利権

に関する記録も含まれている。

 李 泰鎭(イ・テジン国史学)ソウル大教授は,「いままで日本の外交関係史料リストでは日本が発刊した『日本の外交文書』などがあるが,韓国関連史料は抜け落ちていた場合が多かった。今回の文献は外交史料館の膨大な資料のないで,タイトルに韓国関係という表示がないものまで,すべて読み漁って選び出したもので,研究者にとって充実かつ意味深いガイドブックになるはず」と評価した。

 

 「安 重根・独島の史料発掘60年…韓日外交の『陰の仲裁者』 崔 書勉・国際韓国研究院長が死去』」朝鮮日報』2020年5月27日 15時,http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2020/05/27/2020052780080.html

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 韓日外交の「陰の重鎮」だった崔 書勉(チェ・ソミョン)=本名:崔 重夏(チェ・ジュンハ),92歳=国際韓国研究院長(写真)が〔5月〕26日午前11時3分,京畿道竜仁市のホスピス病院で持病のため亡くなった。60年間にわたり韓日近現代史の資料を発掘・研究した崔氏は,安 重根(アン・ジュングン)の獄中手記,明成皇后(閔妃)の遺体関連の資料を探し出すなど,歴史考証において大きな役割を果たした。

 1928年に江原道原州で生まれた崔院長は,9歳年上のいとこ,故・崔 圭夏(チェ・ギュハ)大統領の家で暮らしつつ原州普通学校を卒業した。その後,延禧専門学校(現在の延世大学)に通うなかで,1945年の光復を迎え,金 九(キム・グ)路線に従い,臨時政府出身者が作った韓国独立党傘下の大韓学生連盟の委員長として活動した。1947年には張 徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件に関与し,獄中でおよそ2年を過ごした。

 獄中でカトリックに帰依した崔氏は釈放後,大東新聞記者,天主教総務院事務局長などとして活動。1950年代には,当時の李 承晩(イ・スンマン)大統領と張 晩(チャン・ミョン)副大統領の政治対立に巻きこまれ,1957年に日本へ亡命した。

 1960年に日本で亜細亜大学の教授になり(崔は1926年生まれだから34歳のときとなる),1969年に安 重根肉筆の伝記である『安応七歴史』を初めて入手したことなどを契機として東京韓国研究院を設立した。崔氏は「日本人よりも韓国のことをしらないのが恥ずかしかった」として,歴史的な現場を靴がすり減るほど訪れ,資料に埋もれて暮らしたという。

 ここで崔氏は,明成皇后の遺体関連の資料,独島領有権を立証する古地図などをみつけ出した。2005年には,靖国神社に放置されていた北関大捷(たいしょう)碑(壬辰〈じんしん〉倭乱〈文禄・慶長の役〉時の咸鏡道義兵の勝利を記録した戦功碑)を韓国へ取り戻すことにも寄与した。

 韓日外交の陰で活躍したこともあった。反日デモが激しかった1967年,当時の佐藤栄作首相の訪韓を引き出した。1988年に韓国へ戻ったあとも岸 信介,大平正芳福田赳夫首相など日本政界の実力者と交流し,韓国政・財界の人物に橋渡しをした。韓日関係で山場が訪れるたび,コミュニケーションを強調して問題解決を仲裁した。金山正英・元駐韓日本大使は「崔院長を通さなくては韓国との仕事は実現しない」と話していたという。

 崔氏は昨〔2019〕年,韓日対立があおられたときも両国間のメッセンジャー役を務めた。また,複数のメディアのインタビューを通して「批判はするが相手方の視角も考慮する度量を備えるべき」と,感情的対応の自制を訴えた。

 

 「日本で30年安 重根と独島研究…韓日に難題起きるたびに解決者に」中央日報』日本語版 2020.05.27 10:56,https://japanese.joins.com/JArticle/266381
 
 独島領有権問題が起きた2005年4月,崔 書勉国際韓国研究院長(右から2人目)が日本の国会議員の要請により自身の研究成果を説明し,「竹島は日本の領土」とする主張の問題点を指摘している。

 〔5月〕26日に92歳で死去した崔 書勉(チェ・ソミョン)氏は百科事典的知識人で,実践的愛国者だった。個人の栄達よりも歴史的天命と国の将来を優先した志士であり,韓日関係の水面下の民間外交チャンネルであると同時に,眠っていた近現代史史料を発掘した歴史研究者だった。

 1928年に江原道原州(カンウォンド・ウォンジュ)で生まれた故人の一生は,激動の韓国現代史とともにあった。延禧(ヨンヒ)専門学校時代に学生団体を組織して信託統治反対運動を先導し解放政局の荒波に飛びこんだ。李 承晩(イ・スンマン)と金 九(キム・グ)に二分化されたなかで金 九の路線についた故人は,金 九の密書を携えてチョ(曺)晩植(チョ・マンシク)と反信託統治共同戦線を広げようと,密かに38度線を越えたりもした。晩年の故人は「若い時代に金 九の教えを受けたことが私の一生の羅針盤になった」と述懐した。

 1949年に張 徳秀(チャン・ドクス)暗殺事件に関与して実刑判決を受けた時に李 始栄(イ・シヨン)元副首相が書いた揮毫をもとに,本名の重夏(ジュンハ)の代わりに書勉という名前で生きた。のちに史料と外交文書,古地図研究発掘がライフワークになることを予言した名前だった。

 獄中でカトリックに帰依した故人は,韓国戦争(朝鮮戦争)当時に釜山プサンで孤児院運営に献身し,盧 基南(ノ・ギナム)大主教によりカトリック総務院事務局長に抜擢された。このとき事務総長だった張 勉(チャン・ミョン)元首相の秘書を兼職したことで自由党政権により張 勉の側近に分類された。

 運命は1957年に急転する。自由党政権が張 徳秀事件を再論して逮捕の危機に置かれた故人は亡命した。東京に滞在しながら国会図書館などで日帝強占期の史料に触れたのち,人生の方向を韓国近現代史研究に転じた。「史料の海におぼれてみたら,韓国の歴史をしらないことを悟り,かぎりなく恥ずかしかった」と話した。

 その後史料研究に没頭した。安 重根(アン・ジュングン)の自叙伝『安応七歴史』を古書店で探し,靖国神社裏に放置された壬辰倭乱当時の北関大捷碑をみつけ出し,韓国返還を実現させた。独島(ドクト,日本名・竹島)は日本の固有領土という主張に反論する日本の史料を大量に発掘し,学界に伝播したのも故人だ。

 1987年まで30年間にわたり日本に滞在した故人は日本の政界と学界,言論界に厚い人脈を築き,一度縁を結んだ日本の指導層を親韓派にした。そのなかでも福田赳夫元首相,岸 信介元首相との親交は格別で,これを通じて朴 正熙(パク・チョンヒ)元大統領に多くの諮問と助けを与えた。彼の家は,韓日関係に難題が起きるたびに解決してくれる第2の大使館の役割をした。

 故人の博学多識はもって生まれた記憶力と執念,努力の結果だった。ユーモアと余裕あふれる人柄,原則を失わない姿勢,事物の本質を貫く鋭い洞察力を学ぼうと彼の周囲にはいつも人があふれていた。日本政府と日本人の歴史認識は厳しく批判したが,日本各界の人びとは「崔 書勉先生を囲む会」を作り,故人に教えを求めた。

 彼が残した遺産は膨大な研究史料がすべてだ。ほとんどは生前に母校である延世(ヨンセ)大学図書館外交通商部などに寄贈された。故人は韓国と日本の研究機関に口述回顧録を残した。そのなかで日本の研究者に残した一部が『崔 書勉に聞く』というタイトルで先月刊行された。

 故人の葬儀は崔 書勉博士葬儀委員会の主管により家族・社会葬で進められる。遺族は夫人の金 恵静(キム・ヘジョン)元・慶熙キョンヒ)大学恵静博物館長と米国に居住する長男アンディ氏ら。葬儀場はソウル・江南(カンナム)聖母病院葬儀場。出棺は〔5月〕28日午前8時。

 --本ブログ筆者は,1971年4月ころだったと記憶するが,この崔 書勉に会ったことがある。1926年生まれの崔は当時45歳になる時期であって,当方はまだ若かった。彼の態度はいかにも鷹揚であった。ソファーに座っていて話しをしていたが,腰とお尻を少し横にずらし(片尻をあげ)たと思ったら,小さいおならを放った。失礼なやつだと感じた。若造と観て人を舐めていた。

 当時まですでに,この崔 書勉という人物をしるある通信社の関係者からは,最低限だが,この崔に関した情報は教えてもらっていた。だが,田中耕太郎とのつながりがカトリック信仰の関係で生まれていたらしく,この点がその後において,崔が日本に長逗留していく事情・背景になった。この事情は初めてしった。崔 書勉の本名が崔 重夏であることは,韓国紙の日本語版が書いていたが,日本紙はそこまで触れる余地もなかった。

 崔 書勉は,近現代韓日関係史に対する研究業績を挙げ,韓国と日本の関連学界と研究者に対して,大きく寄与・貢献する業績を挙げたと説明されている。それはそれとして評価されてよいと思われる。さて,それならばそれで,日本の関連する諸学会からこの崔 書勉の研究成果がそれなりに認定されてよいはずだが,本ブログ筆者はそのあたりの実態まではよくしらない。

 最後に,田中耕太郎が歴史(1959年3月の伊達判決関係のこと)について記録してきたカマトトぶりは, “反面教師的に” 端的に表現した独白として,日本経済新聞社編『私の履歴書 13』日本経済新聞社昭和36年のなかにも記述されている。もちろん本人の弁である。

 私がやり甲斐のある重要な仕事だと思ったのは,民主政治の下でとくに司法権の独立を強化する必要があると感じたからである。裁判観は正義を実現し,基本的人権を擁護することを使命とするが,この使命の遂行に関しては,裁判観は政府や国会に対してのみでなく,ジャーナリズム,労働組合,その他あらゆる社会的勢力に対しても独立でなければならない(380頁)。

 この文章については,おそらく,「その他あらゆる社会的勢力」のなかにアメリカは入っていなかったものと推察する。

 

 【 2020年7月12日; 付   記 】

 『日本経済新聞』が2020年7月10日夕刊であったが,「『日韓関係は人間関係』体現」〔である〕という見出しかかげて,崔 書勉が5月26日に「死去していた事実」を紹介していた。韓国紙から日経が借りていた崔の画像を,ここにもかかげておく。前掲してあった老年期の画像よりもより若い時,壮年期の写真ある。

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