天皇家のための東京駅

     天皇家のための東京駅,その歴史と意味を考えるために

                  (2014年12月22日)

 

  要点:1 開業100年が経った東京駅が日本近代史においてもつ意味

  要点:2 すべては天皇天皇制のために設計されてきた明治以来の大日本帝国「建造物」一例


 「赤い東京駅を守ったバレンタイン作戦 愛されて100年」THE ASAHI SIMBUN DIGITAL,2014年12月21日02時58分,【特集】東京駅100周年 参照

 JR東京駅(東京都千代田区)は,2014年12月20日に開業から100年を迎えた。丸の内駅舎は2年前(2012年10月),1914〔大正3〕年の開業時の姿に復元されていた。高層化の波に呑みこまれず,優美な姿を保った首都の玄関口は,その成熟した趣が人々を魅了する。

 2003年に国の重要文化財に指定された丸の内駅舎だが,再開発でとり壊される危機もあった。復元と保存を後押ししたのは「赤レンガの東京駅を愛する市民の会」であった。2014年10月,27年の活動に幕を閉じた。

 周辺の再開発に合わせ,東京駅の高層ビル化が浮上したのは1987年4月であった。市民の会の事務局役を長く務めた多児(たに)貞子さん(68歳)=東京都豊島区=は当時,丸の内駅舎の目の前のビルで働いていた。夕方,西日を浴びて駅舎がピンク色に輝く時間が好きだった。「ガラス張りの四角いビルは,どうしても嫌でした」。

 知りあいの主婦らと連絡をとりあい,JR東日本へ復元と保存の要望書を提出。「とり壊しの話は以前もあった。保存するには建設当初の姿に戻し,歴史的価値を高めることが必要と考えました」。同〔1987〕年12月に市民の会を設立。1988年5月までに,全国約10万人の署名を衆参両院に提出した。保存にはコストや技術の面から,JR東でも意見が割れていた。会員は幹部を何度も訪ねて訴えた。

 当時の設備課長で,現在はJR東の子会社であるビューカード会長の叶(かのう)篤彦(あつひこ)さん(68歳)は「ハードルの高さはしっていたので複雑な気分だった。でも,駅を愛してくれる思いがうれしかった」,当時の東京駅長・木下秀彰さん(81歳)も「どれだけ復元への支えになったか」と振り返る。

 動きは乏しく,1990年2月14日,会員らはバレンタインのチョコレートを木下さんや後に社長になる松田昌士常務(当時)らに贈った。訪問の口実づくりだったが,チョコは毎年恒例となった。1999年10月,都とJRが復元,保存に合意。総事業費約500億円に「すごいバレンタインのお返しだね」と会員らは喜んだ。

 多児さんはいま,駅舎にカメラを向ける観光客をみるたび,うれしくなる。「この姿を残せてよかった。肩の荷がおりました」。明治以降の鉄道の発展に伴い,郊外と都心を結ぶ各鉄道のターミナル駅を集約したのが東京駅である。場所はすでにあった新橋,上野の両停車場の間であった。

 駅舎は当初,お雇い外国人のドイツ人技師フランツ・バルツァー(1857~1927年)がデザインした。瓦を使った和風建築を,鉄道作業局は採用しなかった。鉄道博物館さいたま市)の奥原哲志・学芸員は「西洋文化に近づこうとしていた当時の日本人には,受け入れがたいデザイン辰野金吾だった」。後任は日本銀行本店も手がけた建築家の辰野金吾(1854~1919年)となり,赤れんがと白い花崗)岩で,西洋風に仕上げた。

 関東大震災(1923年)はもちこたえたが,米軍の空襲で1945年,丸の内駅舎は屋根や内装を焼失した(下掲写真)。東京大の松丸道雄・名誉教授(80歳)=中国古代史=は数少ない生き証人だ。戦争で東京から静岡へ疎開したが米軍機が飛来し始め,1945年6月に埼玉へ再疎開。乗り換えで,破壊された東京駅に降り立った。

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  出所) 「【東京駅周辺まち歩き独断偏見ガイド4】東京駅を近代日本戦争時代の開幕記念碑とするならばJPタワーは現代世界戦争時代の開幕記念碑かもしれない」『伊達の眼鏡』2017/06/29 。 

 滞在時間は30分だけ。母親と伯父が迎えてくれ,「ホームで地べたにすわり,白米のにぎりめしにかぶりついた」。終戦後,駅にいくと,丸の内駅舎の屋根は焼け落ち,日が差しこんでいた。雨の日は,駅の中を傘をさして歩いた。

 戦後は少なくとも2度,高層化計画がもち上がった。最初は1958年。当時の十河(そごう)信二・国鉄総裁の指示で描かれた,近代的なビルの図案が残る。そして1987年の計画も実現しなかった。丸の内駅舎は戦後の応急処置で,3階建てが2階建てに,南北のドーム屋根も八角形に変わっていたが,5年半の工事を経て,2012年10月に復元された。

 松丸教授は昔に戻った駅舎をみて,違和感を覚えた。「空襲で焼け落ちる前の屋根は,一部が鮮やかな緑色だったはずだが」。工事後の銅板は真新しく,「暗い赤」だった。時が経てば,酸化で緑色に変色する。「いつかこの赤も緑色になるのでしょうね。その時,懐かしむ人はいないでしょうけれど」。

 

 「東京駅100歳 駆け抜けた,JR初代駅長『お客様目線続けて』」日本経済新聞』2014年12月20日夕刊

 2014年10月下旬,東京駅構内で開かれた歴代駅長会。1987年の国鉄分割民営化を挟んで,駅長を6年間務めた木下秀彰さん(81歳)は約30人の出席者を前に「1世紀の間,東京駅を守ってきたみなさんに感謝したい」とあいさつした。

 国鉄最後の駅長として1986年に赴任。800人近い部下をJR各社などに振り分けるため,説得にあたった。「苦悩の日々が続いた」。毎晩のように駅長室に泊まりこみ,脅迫めいた電話を受けたこともある。

 民営化後は乗客サービスの向上をめざした。社内の反対を押し切って始めた駅構内のコンサート「とうきょうエキコン」では,みずからスポンサー企業を探し歩き,團伊玖磨氏の音楽監督就任もとりつけた。1988年に開館した「東京ステーションギャラリー」は文化の発信拠点となった。

 いつも念頭にあったのは「こんなとき,民間企業ならどうするか」。駅の魅力を高めるために,職員の意識を変えようと,あいさつの仕方から徹底的に指導した。「私も必死だったが,部下も懸命についてきてくれた」と木下さん。「お客様目線を忘れず努力を続けてほしい」と力をこめた。

  ◆ 乗降客9600→101万人 首都の玄関口今昔 ◆

 東京駅が開業したのは1914〔大正3〕年。新橋-横浜間で日本初の鉄路が開通した1872〔明治5〕年から42年後であった。当時のホームは4面8線 で,乗り入れていた路線は東海道線,京浜線(現在の京浜東北線),環状運転を始める前の山手線の3種類だけ。初年度の1日あたりの平均乗降客数は約 9600人だった。

 その後,中央線乗り入れ(1919:大正8年)や東海道新幹線開業(1964:昭和39年),総武地下駅開業(1972:昭和47年)などを経て徐々に巨大化した。現在のJR東京駅では14面28線から日々,17路線の計約4000本の列車が発着する。

 平日の乗降客は約101万人(東海道新幹線との合算)で,JR東日本管内で新宿,池袋に次いで3位。地下鉄を含めると,約120万人が乗り降りする。

 丸の内側の赤れんが駅舎は日銀本店や大阪市中央公会堂なども手掛けた建築家,辰野金吾が設計した。八重洲側は1929〔昭和4〕年に出入り口ができ,本格的な駅舎が建設されたのは戦後のことだった。

〔※ 断わり〕  以下の③からの記述は,旧(々)ブログ 2011年2月14日に執筆されたものである(本ブログの記述じたいは2014年12月22日のもの)。東京駅100周年の記事が新聞紙上で話題になったのをきっかけに思い出し,ここにつなげるかたちで復活させた。なお,再掲に当たっては補正と加筆もなされている。

 

 天皇家のための駅舎」

   ★-1 『東京駅丸の内中央玄関は,天皇専用の出入り口』である

   ★-2 いつまでも・どこまでも天皇中心の帝国国家にしておきたい明治以降の日本帝国:日本国

 原 武史『「鉄学」概論-車窓から眺める日本近現代史-』(新潮社〔文庫〕,2011年1月)の書評が『朝日新聞』2011年2月6日に出ていた。値段は¥438〔プラス税〕である。早速,書店の書棚に並べられていた本書を買って読んでみた。なかなか面白い本である。『朝日新聞』2011年2月6日「書評」欄に寸評も掲載されていた。紹介しておこう。

 著者は自身は鉄道マニアではなく,鉄道を通してみえてくる近現代の日本の歴史や社会の変容に興味があるのだという。その意味では,鉄道紀行文学の紹介に始まり,「沿線」の特色や私鉄の東西比較,天皇との関係や,国鉄時代のストや暴動など幅広いテーマを扱う本書は,原「鉄学」入門の書だ。(新潮文庫・ 460円)

 補注)原 武史は最近も『朝日新聞』日曜版の別刷り(be 版)に『歴史のダイヤグラム』という連載をつづけて執筆している。一昨日(5月31日)の題名は「敗戦後の横須賀線では」であった。これにはつぎの写真(画像)が添えられていた。

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 本ブログは,著者原 武史の著作や言説については,以下の記述でもとりあげてきた。ただし,「旧々ブログの記述」なので,ここでは現在,リンクなどは示せない。後日,本ブログに再録・復活させたい。 

 「2010.12.25」「北朝鮮王朝と日本国天皇制の共通性」
 「2010. 2. 11」「天皇制を批判するための常識」
 「2009.12.21」「憲法における天皇条項の規定」
 「2009. 7. 19」「皇室神道政教一致
 「2009. 5. 14」「本の増刷」
 「2009. 5. 10」「皇室神道宮中祭祀の歴史」
 「2009. 5.   6」「朝日新聞天皇対談特集記事」

 原 武史『「鉄学」概論-車窓から眺める日本近現代史-』は,いわゆる鉄道マニアにやや近づく議論をする書物ではあっても,実際はだいぶ異質の中身であって,より広い経済・社会史の立場から鉄道史に絡めて生まれた興味ある論題を,原なりにとりあげて上手に料理した文章を書いている。同書の宣伝文句はこう謳っている。

 開業から140年,鉄道はもはや,日本人と切っても切れない存在になった。その発達は都市の形成に影響を与え,文学の一ジャンルを生み,沿線に特有の思想を育てた。また天皇制支配を視覚的に浸透させる目的で活用されたお召列車での行幸啓など,国家や政治とも密接なかかわりがあった―鉄道を媒介にして時代を俯瞰する,知的で刺激的な「鉄学」入門。

 同書の目次も紹介しておく。

  第1章 鉄道紀行文学の巨人たち  第2章 沿線が生んだ思想
  第3章 鉄道に乗る天皇      第4章 西の阪急,東の東急
  第5章 私鉄沿線に現れた住宅   第6章 都電が消えた日
  第7章 新宿駅一九六八・一九七四 第8章 乗客たちの反乱

 

  東京駅・原宿宮廷駅の由来

 原『「鉄学」概論-車窓から眺める日本近現代史-』2011年1月を読んだ筆者が,ひごろ抱いている問題意識に照らしていちばん興味をそそられたのが,第3章「鉄道に乗る天皇」であった。本文の 100頁に出てくる小見出し「表の東京駅,裏の原宿駅である。この項はこう記述している。 

 大正時代の初めと終わりに,宮城,現在の皇居をはさむようにして,その東西に2つの天皇にかかわる駅〔専用駅〕が作られた。東京駅と原宿宮廷駅である。一般の乗客も利用できる東京駅が,人びとに天皇の権威をみせるための工夫が凝らされている。これに対して,一般の乗客が利用できない原宿宮廷駅は,逆に人びとの視線から天皇実像を遮断するために作られた駅であった(100頁)。 

 いずれにせよ,東京駅は一口でいえば天皇のための駅であった。その痕跡はいまでも残っている。中央玄関(現在の丸の内中央口)は皇室専用であり,一般客の立ち入りはできない。大理石を敷き詰めた廊下奥には,豪華な調度の便殿(休憩室)・広間がある。さらにはコンコースに直結する皇室専用がある(101頁)。  

 

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  出所)この写真は,現在の東京駅丸の内中央玄関,まだ工事中だったころの一風景,http://mawari.cocolog-nifty.com/mawariblog/2006/03/index.html

 かつて,この東京駅丸の内中央玄関をよく利用したのは裕仁皇太子(後の昭和天皇)である。東京駅は,若く健康な皇太子の権威を演出するための舞台となっていったのである。

 1921年(大正10)11月,裕仁皇太子が摂政になると,大正天皇は完全に引退し,静養に専念するため,田母沢御用邸(日光)・沼津御用邸葉山御用邸などにしばしば出かけるようになった。そのさい,東京駅ではめだつので,山手線の代々木-原宿間に,明治神宮の造営工事で使われた引きこみ線を利用して,ひそかに裏の天皇専用駅が作られた。いわゆる原宿宮廷駅である。

 原宿宮廷駅は1926〔大正15〕年に完成した。8月10日,天皇を乗せた自動車は原宿宮廷駅の構内に入り,天皇は椅子に座ったまま,自動車から御召列車に運ばれた。……しかし大正天皇が原宿宮廷駅を利用したのは,これが最初にして最後となる。同年12月25日,葉山御用邸で亡くなったからである。

 こののち昭和天皇は,大正天皇を斂葬した多摩陵(八王子市)の参拝にもっぱら原宿宮廷駅を使った。また,公式の行幸のばあいはもちろん東京駅を利用するが,御用邸にいくような私的なばあいは原宿を利用するという習慣がのちに確立する。表の東京駅,裏の原宿駅という位置づけは,当初のとおり保たれたわけである(102-103頁)。

 しかし「JRの在来線や私鉄,第3セクターで『お召し列車』が運転されたことは,平成〔天皇の時期〕になってから数えるほどしかない。原宿宮廷駅も,2001年(平成13)5月を最後に,今日まで利用されない状態が続いている」(111頁)。自動車の利用が増えている。

 以上に引用したページなど記述のまとめとして,原 武史はこう論及してもいる

 「天皇がダイヤ通り走る列車に乗って移動することにより,『視覚的支配』が全国レベルで再び確立された」。敗「戦後巡幸で現れた沿線の光景は,たとえ政治体制が大きくかわっても,お召し列車が走るかぎり,視覚的支配そのものは容易にかわらなかったことを示している」(110頁)。

 原は,明治以来における日本の天皇制支配体制にとって,鉄道が歴史的に有してきた「物的=政治史的な含意」を明確に指摘している。

 本ブログは,この 2011年2月上旬に騒ぎが起きていた「大相撲〔日本相撲協会〕の八百長問題」を連続してとりあげてきた。天皇家=皇室は,日本帝国支配を確固たらしめる〈政治文化の一環〉としてとりこむ意図をもって,日本古来からの「伝統競技として相撲には価値がある」と認めた。「天皇配下のスポーツである」かのようにこの相撲をも,それなりに理由を創りあげて位置づけ利用してきた。

 皇室側からそうして歴史的に仕組まれた対応そのものが,実は,まさに『日本政治史の八百長的な基本性格』を如実に物語ってもいる。

 本年も5月中には皇室関連の報道として,天皇徳仁)が皇居内で田植えをしたというニュースが,毎年定番の報道としてなされていたが,これは,昭和2〔1927〕年に天皇に就いた(即位した)裕仁が,自分なりに創作していた皇室史の始動一コマであった。天皇自身が田植えをしたという「歴史の事実」が,連綿としたかたちであったかどうかについては,不詳である。もっとも,天皇天皇家の歴史・文化・伝統に鑑みていえば,「ありえないそれ」であったというほかない。

 

  東京駅丸の内駅舎保存・復原工事-歴史的建造物と最先端建築技術の融合-

 この ⑤ の題名は『東京駅丸の内駅舎保存・復原工事』http://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/index-j.html から借りたものである。このホームページに何点かを聞いてみる。

 --1914年(大正3年)に創建された東京駅丸の内駅舎は,辰野金吾により設計され,その堂々たる姿で,多くの人々に愛されてきました。しかし,1945年(昭和20年),戦災により南北のドームと屋根・内装を焼失。戦後,3階建ての駅舎を2階建て駅舎に復興し,現在の姿になりました。

 この度の「保存・復原工事」では,外観を創建時の姿に忠実に再現するのはもちろんのこと,さらに,未来へ継承するため,鉄骨煉瓦造の下に地下躯体を新設し,機能拡大の工事をおこないます。そして,巨大地震にも耐えうる建築とするため,「免震工法」で施工します。

 その「東京駅丸の内駅舎 復原イメージ」が写真的な図解(CG:Computer Graphics 風)に表現されているので,つぎに参照しておく。(画面クリックで拡大・可)

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 出所)http://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/data/index-j.html

 

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   出所)http://www.kajima.co.jp/tech/tokyo_station/righting/index-j.html

 東京駅「丸の内駅舎」は,もともと「天皇のために存在する建築物の意味」をもたせられ,設計・竣工されていた。遅ればせながら21世紀になってから,つまり敗戦後65年以上も経った時点であったが,東京駅を当初の構造に建てもどす復元(復原)工事が進行していた。そして先述のように「5年半の工事を経て,2012年10月に復元(復原)された」のであった。

 現行の日本国憲法は「天皇は日本国・民の象徴である」と規定する。しかし,東京駅のこの「丸の内駅舎」は,明治憲法における「君主天皇と帝国臣民との上下関係」を,典型的・代表的に,かつ政治理念的・社会思想的にも如実に表現する『モニュメント〔歴史的記念建築物〕』である。

 すなわち,当初に設計され・竣工した姿容が復元(復原)されることは,当時の設計思想を支えていた時代背景がそのまま反映されることも意味する。ここに皇居と東京駅が描かれている地図(衛星写真)などをかかげておくが,ここでは,この地理的関係における特殊な様相をうんぬんする必要もあるまい。

 なお,2枚目真ん中の写真では,東京駅丸ノ内中央口から皇居に向けて西に走る道路の風景である。1枚目の写真のほぼ中央あたりには,この道路面が写っている(画面 クリックで 拡大すれば確認しやすいはず)。

 a)「皇居から東京駅衛星写真」は,グーグル・マップで,https://www.google.co.jp/maps/@35.6847451,139.760789,16z を観てほしい。

 b)「東京駅丸ノ内中央玄関から皇居(西方向)へと通じる道路」 

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      出所)「東京駅から皇居方向」https://www.flickr.com/photos/118060413@N02/39561830685

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      出所)「皇居側から東京駅」http://design-prize.sakura.ne.jp/archives/result/208 

 日本国民は本当に「天皇によって自分たちが〈象徴されている〉」と信じているのか? これは,愚問であるかのように聞こえながら,非常に意味深長な設問である。明治時代が日本政治の核心部分に与えてきた「反民主主義的な欠落・損傷」は非常に甚大であったためか,ちょっとやそこらでは,なかなか「民主主義本来の方向:理想」に向かって舵をとりなおすことができない「帝国臣民」用の,いうなれば「反封建的で未熟な政治意識」が形成されてきた。

 ところで,平成天皇が原宿宮廷駅を利用しないでいる現状は,はたして彼ら一族にとっていかなる含意があるのか? われわれにとってはあらためて考えてみる価値のある問題である。「原宿宮廷駅」というわりには,近現代の建築物としてみるときこの駅は質素であり平面的な作りでもある。しかし,皇族のための裏口的な専用駅もあるという現実は,けっして軽い含意ではない。この駅はしかも,明治神宮のふもとに配置されたかのように設置されている。

 

  原宿宮廷駅が使用されなくなって約15年〔2020年では20年近く〕が経つ

 1) 原宿「宮廷ホーム」

 asahi.com の記事に「原宿駅の北,宮廷ホームひっそり 皇室専用,9年不使用」という報道があった。かなり面白い内容なので,全文を紹介する。

 注記)http://www.asahi.com/national/update/0830/TKY201008300426.html および http://www.asahi.com/national/update/0830/TKY201008300426_01.html

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  出所)この画像は,原宿駅近くにある「宮廷ホーム」(通称),http://www2.odn.ne.jp/~cdn93170/yamate-kousitu.html

 東京都渋谷区のJR山手線原宿駅の北側に,黄緑色の屋根の小さな駅がある。「宮廷ホーム」。皇室専用の特別の駅だ。天皇陛下の静養のさいなどに「お召し列車」が発着していたが,9年以上〔2011(2014)年2月まで 11(15)年近く〕使われていない。

 周囲を白い壁で囲まれた入り口の門扉は閉ざされたままだ。原宿駅の竹下口から代々木方面に約200メートルほど歩くと,宮廷ホームの入り口がある。周囲を囲まれていて,すぐにそれとは気づかない。

 JR東日本によると,完成は1925(大正14)年10月。体調が悪化した大正天皇が移動するさい,人目につかずに乗降できるように造られたとされる。翌1926〔大正15〕年,大正天皇が神奈川県の葉山御用邸への移動のため初めて使った。施設の概要は「非公表」。

 だが,星山一男著『お召列車百年』(鉄道図書刊行会)によれば,車寄せからホームに停車した列車までの距離は10メートルほど。ホームの長さは百数十メートルという。原宿駅などのホームより短い。

 昭和天皇の時代には,那須御用邸(栃木県那須町)や須崎御用邸静岡県下田市)への移動や,地方訪問のさいに頻繁に使われた。JR東によると,JR発足後の1987年以降では計30回の発着があり,そのうち香淳皇后だけでの発着が12回あったという。

 補注)参考になる事情を説明しておく。昭和天皇の配偶者(香淳皇后)は,晩年,認知症を発症しており,1986年の新年祝賀行事への出席を最後に「公務」出席を止めていた。

 だが,現在の天皇陛下〔平成天皇〕になって利用機会が減り,2001年5月を最後に,利用されていない。現在,那須御用邸への移動には東京駅から新幹線を利用し,葉山御用邸へは皇居から車で向かう。宮内庁幹部は「静養のためにわざわざ宮廷ホームを使って迷惑をかけるより,一般と同じようにとのお気持ちがあると思う」と話す。

 背景には,複数の路線が走る過密な列車ダイヤとの兼ねあいがある。ホームは山手線と平行に走る貨物線から分岐するかたちになっている。JR東によると,貨物線を走る埼京線にくわえ,2001年12月には湘南新宿ラインも運行を始めて列車本数が増えるなどしたため,「使用がむずかしくなっている」という。

 維持管理を担当するJR東によると,現在は定期的に草刈りをする程度。線路のポイントは使用停止で,信号のランプにもふたがしてある。レールもさびついており,即座には使えない状態だという。今後,ホームの出番はあるのか。宮内庁幹部は語る。「国賓の地方へのご案内など,利用するのに十分な理由がある行事のばあいにはお使いになることもあると思います」。

 お召し列車の運行じたいも減っている。昭和天皇の時代には年に数回あった運行は,平成に入ってからの21年間で合計7回。新幹線や定期列車の編成を利用することが増えたためだ。

 2)お召し列車「E655系」

 日章旗と菊の紋章をつけたお召し列車が最後に運行されたのは,天皇,皇后両陛下がスペイン国王を茨城県つくば市に案内した2008年11月であった。2007年にJR東が造った新型お召し列車「E655系」のデビューとして,しかもお召し列車の運行自体約6年半ぶりで,沿線では多くの鉄道ファンがカメラを構えた。

 新型列車は「御料車」とも呼ばれる皇室専用の特別車両1両と,ハイグレード車の5両からなる。この5両は「なごみ」との愛称で一般向けの高級列車としても使われる。だが,特別車両は2008年のつくば訪問の1度きりしか使われていない。今〔2010〕年4月の須崎御用邸への移動のさいにはひさびさに伊東駅までこの5両が使われたが,静養が目的だからと特別車両は連結されず,菊の紋章もつけられなかった。

 そうしたなか,約2年ぶりに特別車両を連結したお召し列車が〔2010年〕9月下旬に使われる予定になった。両陛下が国民体育大会出席のために千葉県を訪れるためで,公務で房総半島を移動するさいに乗車する。宮内庁によると,移動距離が長いため,自動車ではなくお召し列車を利用するという。
 

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  出所)これは本文の記述に関連した画像ではなく,令和天皇になってからの運用されたときの画像である,https://railf.jp/news/2019/09/28/202500.html

 解説)このお召列車E655系電車は,2007年(平成19年)に登場した東日本旅客鉄道JR東日本)の交直流特急形電車で,6両編成1本のみ在籍する。「なごみ(和)」の愛称を付けられている。

 先頭車前部にはお召列車運用時に国旗および菊花紋章と,手摺をとりつける取付座(ボルト締結座)が設けられている。手摺は通常運用時にはとりつけることはなく,天皇が利用するときのみとりつけられる。

 つまりこのE655系電車は,皇室専用に製造されているが,現在は天皇陛下国賓のために利用特別ハイグレード車両であって,一般の定期運用には運用されない。

 しかし,このE655系電車1号編成は天皇・皇族と随伴員のみ乗車可能であったけれども,天皇や要人(国賓など)が利用する「特別車両」を外し,「ハイグレード車両」と呼ばれる5両編成とすることで一般客の利用にも対応している。

 お召し列車だけでなく団体専用列車(いわゆるジョイフルトレイン)としての役割も兼ね備えている。この列車に一般の人が乗れる機会は年に数回しなく,乗車希望者は多い。

 --「お召し列車」とか「御料車」(車輌:自動車の場合)とか,たいそう時代がかった鉄道車両の名称が使われている。どこの国の王様か貴族が乗る鉄道車両と思いきや,主にこの日本国の皇族=特権階級の人びと〔などや国賓も乗せてあげる〕が,ごくたまに利用されるに過ぎない特別車両だという。

 この皇室専用の特別車両の製造費は,いったいどこの誰が支出しているのか? 国民が直接にでなければJR東であると思われるが,このばあい,利用者の収益からその製造費が出ていることになる。皇族用であれば,そんな贅沢をしていてよいのか?

 また,原宿宮廷〔ホーム〕駅について宮内庁幹部は,「国賓の地方へのご案内など,利用するのに十分な理由がある行事のばあいにはお使いになることもあると思います」と口はばったくも気どっていうものの,なにかコッケイな感じを受ける。この駅は多分もう使われないことになりそうである。なお,この事情に関しては,平成天皇〔夫婦〕の意向が影響しているものと推察する。

 通勤に湘南新宿ラインを利用する人間の1人として,そう予想しておきたい。仮に皇族が原宿宮廷駅を利用するとしたさい,湘南新宿ラインの電車の運行に影響を与えてよいとする事由はない。もしそうするときは,深夜ダイヤがすいているときに,そっと出発するがよい(使わなくなっている「宮廷ホーム」に対してそうはいってみたところで,たいした意味はないが)。

 

  昭和天皇の配偶者が認知症になった以後における原宿宮廷駅の利用

 前項 ⑥ の引用中には,「昭和天皇の時代」などにおいて皇族たちに利用された原宿宮廷駅は「JR東によると,JR発足後の1987年以降では計30回の発着があり,そのうち香淳皇后昭和天皇の配偶者〕だけでの発着が12回あった」と書かれていた。

 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/香淳皇后 によると,そのへんの事情〔裏口=勝手口である原宿宮廷駅を利用したそれ〕は,つぎのように説明されている。前段の事例では,皇居から原宿宮廷駅までは自動車を利用し,ここから目的地の那須御用邸に向かうために特別専用列車に乗りかえていた。

 1976〔昭和51〕年,昭和天皇の配偶者良子(ながこ)は,昭和天皇在位50年記念式典の前後から心身に老いの兆候が目立つようになった。1977〔昭和52〕年夏,那須御用邸内で転倒し腰椎を骨折したが,側近がこのことを伏せたため適切な治療が遅れ,完全な回復が不可能な状態となった。良子はこの骨折事故に大変なショックを受け,老いの兆候を顕著にした。

 可能なかぎり式典などの公務に出席をつづけていたところ,1986〔昭和61年〕の新年祝賀・天皇誕生日祝賀を最後に出席できなくなった。同年9月30日以降は日課にしていた散歩もとり止めた。やがて車椅子を頻繁に利用するようになる。また,1987〔昭和62〕年12月11日,新年用の写真撮影後に軽い心臓発作を起こし,翌年以降は一般参賀にも欠席するようになった。

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 1989〔昭和64〕年1月7日,昭和天皇が死去,皇太子明仁親王の即位に伴い皇太后となった。この年には昭和天皇のほかに,第三皇女・鷹司和子,実妹の大谷智子が死去,肉親との別れが続いた。これ以降,その動静が伝えられることがまれになり,メディア等への露出も少なくなった。

 1994〔平成6〕年,後冷泉天皇の皇后・藤原寛子の数え年92歳を抜いて,歴代最長寿となった。晩年には認知症の症状があったとされ,マスメディアでは「老人特有の症状」と報道されていた。

 ウィキペディアのパロディー版のインターネット百科事典であるアンサイクロペディア http://ja.uncyclopedia.info/wiki/香淳皇后 は,前段の記述をつぎのように書いている。若干脚色が過ぎる部分もあるが,たいがいが事実に即して書いているので,よく比較しながらとくに「年」に注視して読むといい。

 1957 年,皇太子となった今上〔=平成〕天皇が平民出身の正田美智子(現皇后)を皇太子妃に推したとき,香淳皇后は義妹の秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子や側近たちとともに反対し,大規模な親子喧嘩を勃発させた。

 

 今上〔平成〕天皇の熱意に押され,婚約を認めるも,部下の松平信子とともに右翼を動かしたり,アメリカから帰ってきた美智子妃を無視したりしたため,日本中から批判を受けた。

 

 1961年に長女成子を失った悲しみから老いの兆候が目立つようになり,1977年に近臣たちの権力争いに巻きこまれ,腰椎を回復不能なまでに破壊され,杖をつかなければ歩行もままならない状態となる。さらに認知症の症状がみられ,1986年の新年祝賀を最後に公務出席を禁じられた。

 以上,東京駅100周年の話題から昭和天皇の配偶者に関する話題に移ったところで,本日の記述を終える。

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