安倍晋三という首相も麻生太郎という副首相も漢字がよく読めないゾンビ・コンビであるが,「日本・人の高い民度」を誇る点は一致

低度口舌の徒:麻生太郎副首相が野放図に語る,非学問的かつ非常識の「日本の民度」概念,その「クオリティーは高い」という独断


  要点:1  「ヤマト魂」論から1歩も進歩していない麻生太郎「放言」の本質,その脳内知的素性の愚かさ

  要点:2 なんら具体的な根拠も積極的な実証もないまま,「オレがいえば真理だ」みたいに,それもしたり顔でいいたがる,本格的にミゾウユウである「世襲何代目かのお▼カ政治屋」の発言

  要点:3 どだい教養そのものからしてもちあわせているか疑わせるごとき,この副首相兼財務相(首相も体験済み政治屋)の「再々度の性懲りもないデタラメ放言」が鳴り響く「この国でありうる」ならば,海外でも「本当に(?)民度の高い国々」の人びとからは,これからもただバカにされつづけるのがオチ


 民度」トハ,ナンゾヤ -自分の主観に頼るほかない情意一辺倒の主張-

 さて,こうも説明されていることばが民度(みんど)である。つまり,地定の地域・国に住む人びとの平均的な知的水準,教育水準,文化水準,行動様式などの成熟度の程度を指すとされている。ただし,その明確な定義はなく,曖昧に使用されていることばである。

 ほかのごく簡単な説明では,民度とは「人民の生活程度」と書かれている。ということで,なんとなく「自国民の生活の様子」「その態様・境遇など」を総括的・抽象的に表現したつもりのことばが,この「民度」である,という理解もできる。

 いいかえれば,自国の生活全般についてその特徴・個性などを全体的・総括的に把握していい表わしたことばが,民度だということになる。ということで,ここ数日中に話題になっていた日本国副首相兼財務相麻生太郎による,例のしまりのないいい加減な「民度に関した発言」を,今日は少し考えてみたい。

 本日(6月10日),新聞の広告にも出ていた『文藝春秋』2020年7月号の目次は,「〈総力特集〉コロナ後の世界」となっていたが,そのなかでとくに目を惹いたのが,藤原正彦「『日本人の品格』だけが日本を守る」という寄稿であった。つづけては,ビル・ゲイツ「ワクチンなしに日常は戻らない」や磯田道史「[感染症の日本史 3]  世界一の『衛生観念』の源流」,エマニュエル・トッド「犠牲になるのは若者か,老人か」という寄稿も,すぐに目に入った。 

 前段の執筆者のうち,藤原正彦は2005年に『国家の品格』を新潮社新書として公刊していたが,この本の売り文句には興味がもてる。いわく,こういう本だと説明されていた。

 日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は,この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では,社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは,論理よりも情緒,英語よりも国語,民主主義よりも武士道精神であり,「国家の品格」を取り戻すことである。すべての日本人に誇りと自信を与える画期的提言。

 補注)この説明を読んだ瞬間,この逆ではないか(?)という疑問が飛び出してきた。「 × × よりもナントカ」といういい方がミソになっているらしいが,いまの日本において一番必要なのは,反対に「情緒よりも論理」であり,また「武士道はともかく,民主主義」ではなかったか?

 2006年9月から1年間,安倍晋三自民党総裁として日本国総理大臣になっていた。さらにその後,民主党政権の時期をはさんで2012年12月,安倍は再びその座に就いていた。現時点〔2020年6月〕から回顧してみると,この安倍は『美しい国』をめざすと口先だけではキレイゴトとして語っていたものの,いままで実際にやってきたことといえば,藤原正彦が訴えていた「前段の諸目標」から完全に脱輪・逆行してきた。

 藤原正彦の論法にしたがえば,この国:日本の「国柄」は情緒や武士道精神によってこそ,「国家の品格」というものが回復できる(?)と考えている。なんといっても 「取り戻す」といっているのであった。もっとも藤原は,自分の願望(希望・理想)を著書のなかで語っていたに過ぎない。

 藤原正彦が使う「情緒」ということばは,もしかすると,日本人・日本民族だけに備わっている《日本の精神》〔と呼称されるそれ〕に関した,それも “しごく抽象性の高い語彙” として使われていたと思われる。さらに「武士道精神」についていうと,江戸時代において武士階級が占めていた比率は,つぎのように解説されているゆえ,注意して聞く必要がある。

 だから,この武士階級の集団だけをもって,いまどきにおける「日本における日本人」の理想像として代表させてみたいと願望した筆法(思想?)は,問題がないどころか,あり過ぎた。

 「江戸時代の身分別人口の構成をしるため,明治維新直後に版籍奉還を機にして諸改革の参考資料をうるため維新政府が各藩に命じた調査にもとづくデータ」によれば,「全国では,士農工商の士,すなわち華士族・卒を含めた支配階級が 6. 4%,神官と僧が 1. 2%,農工商の平民が90. 6%,エタ・非人が 1. 7%となっている」という構成が,その実態であった。

 それゆえ,「華族・武士」などの階級(支配階級)に立脚する国家観でのみ,はたして「国家の品格」が語り尽くせるかといったら,まだまだ問題を大きく残していた。たとえば,従来の日本史「観」を根本より見直してきた網野善彦の日本研究は,これを藤原正彦の作品に対比させ吟味してみるに,後者においては完全に欠落していた学問的な基本手順がなんであったかを,より明白に教示してくれる。

 結局,「人間の情緒」(いわゆる上部構造のひとつ)の要因を中心にして語るのか,それとも「歴史の事実」(上部構造も土台も含めた全体)を重視して探るのか,その違いは決定的に異なってくる。双方の間にあっては,まずモノを考えるための立場じたいに関して,もとより質的にという意味でも,いちじるしく含意が異なってくる。そして,学術的な「品位・品格」(=有効性:理論水準)の確保についてみれば,こちらは比較しようもないほど圧倒的な差がもたらされるほかない。

 さて,藤原正彦の著作を批判的に考究するさい,大いに参考なるのが網野善彦の著作である。網野の論著はたくさんあるので,ここでは『日本論の視座-列島の社会と国家-』小学館,1990年,『日本社会の歴史〈上・中・下〉』岩波書店,1997年の2点だけを挙げておく。

 以上のごとき “関連する参考文献” を挙げて論ずる余地など,最初からまったくなかったのが「麻生太郎の与太話」そのもの,つまりは「ビバ  Japan なんたって日本はスゴイのだ!」風の物語創りであった。それはあたかも,泥酔したアル中患者の戯言にも似ていた。

 麻生太郎は事後になって自分の民度発言を釈明して,ともかく「おとしめるという話とは違う」といってはいるものの,自分(日本国副首相である立場から)の発言を,「他者」=「世界中の人びと」がどのように客体的に受けとめているかという点にまでは,頭が全然回らないでいた。 

 麻生太郎財務相は〔6月〕5日の閣議後記者会見で,新型コロナウイルスによる死者が欧米諸国より少ないことに関し「民度が違う」と4日の参院財政金融委員会で発言したことについて「おとしめるという話とは違う」と述べた。強制力のない外出自粛で感染を抑制できていることを誇るべきだとの見解だったと釈明した。

 麻生氏は「他の国は強制力をもってしても(死亡率を抑制)できていない」とし,民度発言は「日本がお願いだけで(抑制)できたのは誇りをもっていいという話をしただけだ」と述べた。

 註記)『東京新聞』2020年6月5日 12時24分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/33571共同通信

 この「日本がお願いだけで(抑制)できた」のだというけれども,この点じたいについてはほかにも,新型コロナウイルス感染拡大「問題」にじかに対処してきた地方自治体による見逃せない関与もあった。こちらの論点は,麻生太郎の場合,完全に無視する「解説ならぬリクツ」になっていた。

 たとえば,ほかには「自粛警察」が登場していたが,これも「民度の問題」として誇りがもてるものだということになるのか? 休業補償をろくにしてない点にもかかわっている「この自粛警察の問題」(休業を強要する立場)は,彼がなしうる配慮の範囲内には現われていない。

 いずれにせよ,麻生太郎流にお得意である「与太郎話」が,はたしていかほどに事実や真相にもとづいているかなどと問う以前に,この副首相自身が,政治家としてみずかの品位・品格が根幹より問われるほかない発言を,またもや性懲りもなく放っていた。

 そうした理解を前提に置いたうえで,今回における「麻生太郎の与太話」をいま一度議論してみるのが適当である。

 

  民度の質(クォリティー)の問題にまで話題を高めた麻生太郎の「よろめき談」

 「『民度』発言の麻生財務相『国民,クオリティー高い』」asahi.com 2020年6月9日 19時03分,https://digital.asahi.com/articles/ASN6965GMN69UTFK01X.html は,こう報じていた。

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 付記)参院財政金融委で質問を聞く麻生太郎財務相兼金融相=2020年6月4午後1時1分。このマスクの仕方はふざけているようにも映るが……。

 麻生太郎財務相は〔6月〕9日の衆院財務金融委員会で,新型コロナウイルス感染症による各国の死者数の差をめぐり「民度のレベルが違う」と言及したみずからの発言について,「(行政が)要請しただけで国民が賛同して,みんなで頑張った。これは国民としてきわめてクオリティーとしては高いんじゃないか」と説明した。

 補注)「クォリティーが高い」,要は「日本・日本人の民度は高い」という麻生太郎流の理解は,とくになにか学問的・理論的・実証的な裏付けがあっての発言ではない。

 麻生氏は「誇りはすごく大事。そう思って申し上げた。いろんな表現があったが,まとめて『民度』と申し上げた」と強調しながら,この日も他国との比較を展開。「アメリカ(の屋内)で靴,脱いだ記憶あります?」「(日本は自粛要請で)強制力はありませんからね,うちの方は。韓国と一緒にせんでくださいよ」などと語った。

 補注)家に入るとき「靴を脱ぐ・脱がない」という点は,国々によってだいぶ事情が異なる。日本にアメリカだけ比較しても,たいして確定的な発言をするための根拠とはなりえない。本ブログ筆者も多少調べてみたが,麻生の話はあやしい。「韓国と一緒にせんでくださいよ」とは,なお意味不明の言辞である。日本に似ている国だからであるせいか,そのように彼は断わりを入れたのか。

 もっとも,今回における新型コロナウイルス感染拡大「問題」では,日本よりも韓国のほうが死亡者数・率は低かった。だから “比べるな” といったのか? アジア諸国はフィリピンをのぞいて〔データの判っている〕国々は,この死亡者数・率の問題では,日本よりもはるかにハイ・クォリティぶりを記録していた。こうした現実の状況がすでに判明しているなかで,麻生のように好き勝手に,しかも自分の主観だけにたよった,偏見にも近い発言は問題ありであった。

 立憲民主党の桜井 周氏が「感染症拡大防止のためにも,科学的・医学的に分析しなければいけない。それをせずに『民度』というような非合理的な片付け方をするのは大変問題だ」と指摘したのに対し,答えた。

 補注)つまり,麻生太郎のその後における〈いいわけ:弁解〉の開陳は,まったく筋が通っていないどころか,ただの駄弁,ないしはヘリクツでしかありえなかった。

 麻生氏は4日の参院財政金融委員会で,他国の人から「なんかお前らだけ薬をもってるのか」と電話がかかってきたエピソードを披露し,「そういった人たちには『お宅とうちの国とは国民の民度のレベルが違うんだ』といって,いつも,みんな,絶句して黙る」と発言。「その種の電話もなくなったので,(その認識が)定着しつつあるんだと思う」とも語った。麻生氏の「定着」発言についても,桜井氏は9日の衆院財金委で「日本の財務大臣は見識に欠けるということが定着したのではないか」と批判した。(引用終わり)

 この自分だけが得意になって語る麻生太郎のいいぶんは,ある意味では「▼カ丸出し」であった。太郎のこういうリクツの披露の仕方そのものが,実は「この人の民度のレベル」を表現していても,日本人全体の民度だとは,けっして取り違えてほしくないものである。だいたい,選挙の演説の冒頭で「下々のみなさん」などと一般大衆に向かい発声できるこの世襲政治屋自身の「民度のレベル」じたいが問われている。それなのに,まるで「顧みて他をいう」稚拙な発言をしていても,まったく恥というものをしらない。

 関連して触れておくと,原田隆之「麻生大臣が致命的な『問題発言』を繰り返す理由が分かった 圧倒的に欠如している2つの力」『現代ビジネス』2018年5月16日は,その「2つの力」という概念に関連させて,つぎのように麻生太郎を批判していた。

 すなわち,問題となる発言を「受け取った人がどう感じるかという視点がまったく抜け落ちている」のが,麻生太郎のいつもの語り方だとして,しかも「当たりまえのことだが,事実であればなにをいってもいいわけではない。そこには,共感性欠如にくわえて,未熟な幼児性ともいえる問題が指摘できる」とも断わったうえで,その「2つの力」というものを,つぎのように解説していた。

   ※-1 ひとつは,「認知的共感性」である。これは,相手の気持を頭で理解することのできる能力をいう。よく国語の問題などで,「この主人公はどのように感じていたでしょうか」などと問われることがあるが,これは認知的共感性を育むための教育である。

 

 つまりこれは,言葉,表情,しぐさなどから,相手の気持ちを推論する能力である。心理学では「こころの理論」とも呼ばれており,自閉症児などではこの能力に問題があるケースがあるが,教育や治療によって育てることが可能である。いわゆる「忖度」もこのタイプの共感性である。

 

  ※-2 もうひとつは,「情緒的共感性」である。これは,相手の心情を頭で理解するだけではなく,それを追体験し,同じように感じとる能力のことである。ドラマを観て,登場人物に自分を重ねて感動したり,事件事故の被害者に思いを馳せて涙を流したりするのも,情緒的共感性ゆえのことである。

 

 情緒的共感性の働きは,社会生活や対人関係においてきわめて重要である。この能力があるからこそ,いたずらに他人を傷つけることなく,円滑な関係を発展,維持することができる。また,誰かが困っているときには心の支えになったり,話を聞いてともに悩んだり,喜んだりすることもできる。

 麻生大臣のこれまでの発言や,批判に対する対応などをみるとき,これらの双方が欠如しているといわざるをえない。

 註記)https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55668?page=2
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55668?page=4

〔引用中の元の記事に戻る→〕 麻生大臣であるが,〔ここでは2018年の〕5月14日には国会でセクハラ問題に関して,初めて被害女性に陳謝した。続いて,15日には閣議後の記者会見で「大臣としてセクハラを認定した」旨,発言した。

 これが世論の反発を受けての,しぶしぶの発言なのか,それとも情緒的共感性や感情的正義感にもとづく真摯な発言なのか,今後の言動に注目していきたいものである。(引用終わり)

 以上の「麻生太郎の与太話」は国内向けの話題であったが,こんどの新型コロナウイルス感染拡大「問題」をめぐるその話題は海外向けの話題であって,しかもなぜか「韓国と一緒にせんでくださいよ」という断わりまで,彼は口にしていた。

 ともかく,コロナの問題にかぎっていうと,感染者数・死亡者率では「日本の民度(特定のそれ?)」は,完全にアジア諸国(フィリピンは除外)に「負けていた」。それでいて,その比較の対象からは「韓国と一緒にせんでくださいよ」(?)。それでも日本の民度はクォリティーが高い?

 

  札付きともいっていい麻生太郎の低品位・悪品格,総じてその個性に関する「民度の欠落ぶり」

 「麻生氏の『民度違う』発言 度重なる失言『またか,で済ませてはダメ』」『東京新聞』2020年6月6日 06時51分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/33720 が,つぎのように的確な「麻生太郎の与太話」論への批判を提示していた。

 過去に物議を醸す発言を繰り返してきた麻生太郎財務相が,日本の新型コロナウイルスによる死者数が欧米諸国より少ない理由を「国民の民度のレベルが違う」と述べた。外出自粛が効果を上げたと誇りたかったらしいが,アジアのなかでは日本の死者数は多い。「欧米諸国の民度が低い」とも取られかねず,「軽率すぎる。『また麻生氏か』で済ませてはいけない」との声が上がる。

 発言が出たのは,〔6月〕4日の参院財政金融委員会。自民党中西健治氏が,都市封鎖したフランスなどと比べて日本は緩やかな統制で感染を抑えたとし「自由を守りつづけてきたのは価値が高い」ともち上げた。答弁を求められた麻生氏は,外国から電話で問い合わせがあったとしたうえで「『おたくとうちの国とは国民の民度のレベルが違うんだ』っていってやると,みんな絶句して黙る」と応じた。

 補注)この「絶句というもの」がただちに軽蔑を意味するほかない「事実」に,麻生太郎自身は気づいていない。しかも逆に受けとってはさらに,このように得意になって語っていた。こうなると,なんとかに付ける薬(特効薬)があればほしいところ……。「真の馬鹿は彼を嗤う〔笑える〕国民(のほうの立場)なのである(から),嗚呼」ということらしいので,用心,用心。

 5日の記者会見で発言の趣旨を問われ,「(他国を)おとしめるというのは違う」などと釈明した。

 札幌医科大の調査によると,4日時点の人口百万人当たりの死者数は,日本は7. 1人。英国(585. 2人),フランス(444. 6人),米国(323. 8人)より圧倒的に少ない。一方,アジアで比べると事情が異なり,韓国 5. 3人,中国 3. 2人,台湾とタイは1人未満にとどまっている。

 そもそも,死亡率だけで対策の優劣を判断するのはむずかしい。同大講師の井戸川雅史医師(ゲノム医科学)は「国ごとに衛生環境が異なる。日本の死者数が欧米より少ない理由は科学的に明らかになっていない」と説明する。

 麻生氏の失言は枚挙にいとまがない。

   ◆-1 昨〔2019〕年2月に福岡県で開いた国政報告会で,少子高齢化について「年寄りが悪いみたいなことをいう変なのがいっぱいいるが,間違ってる。子どもを産まなかった方が問題だ」と発言。

 

   ◆-2 2013年7月には改憲の手法をめぐり「(ナチスの)手口を学んだらどうか」との暴言が出た。

 

   ◆-3 2007年7月には日本と中国とのコメの価格差を「アルツハイマーの人でも,これくらいは分かる」と語っている。

 今回の発言を政治アナリストの伊藤惇夫氏は,外相も経験した麻生氏が人びとの生活や文化の程度を示す「民度」という言葉を安易に使った点を問題視する。「国会でいったのが驚きで,閣僚辞任ものだ。海外で国際社会への挑戦と取られ,日本に厳しい目が向けられる可能性もある」。

 伊藤氏は,度重なる失言からみえる麻生氏の資質を「居酒屋での雑談のようなべらんめえ調子で話し,内輪話なら楽しく,座談の名手ともいえる。だが,公私の区別をつけられない」と切り捨てる。吉田 茂元首相を祖父にもち,福岡の実家が財閥という出自も影響しているとする。「恵まれた環境で育ち,発言を注意されたことがなかったのだろう。弱い立場にある人びとへの想像力が働いていない」。

 補注)前段においては「認知的共感性」と「情緒的共感性」という専門用語が登場していたが,麻生太郎の与太話は,一国の副首相の立場からしたものとしてもとくに,この2つの概念がいずれもいちじるしく欠落する事実が教えられていた。

 駒沢大学の山崎 望教授(政治理論)は「国内で飲食店の閉店や倒産が相次ぎ,失業者も増えている。麻生氏はそうした苦しんでいる人びとに意識が向いていない。だからあんな発言が出てくる」と批判し,こう主張する。

 「麻生氏が舌禍を繰り返しても安倍首相は責任を問わず,国民の間には『麻生氏だから』とあきらめのような雰囲気が生まれる。このことじたいが長期政権の弊害だ。発言を不問にすれば日本の民度こそ問われる」。


  日本の民度に関するひとつの歴史的事情

 明治維新によって1868年に開国した日本は,海外の医学に照らし合わせて初めて,日本に存在する多くの寄生虫の害に気づいたといえよう。「おこり」,「寸白虫」,「大嚢(葛飾北斎の戯画)」,「くさふるい」,片山の「奇病」や山梨の「水腫脹満」であるとかの断片的な臨床的な徴候は散在していたが,それらは寄生性生物による疾病の徴候であることが理解され始めた。

 

 寄生虫病がわが国近代化の大きな障壁であることも判明し,その防圧は国策となった。20世紀のほぼ半ば過ぎまでの時間,膨大な予算,人力を費やしておこなわれた寄生虫防圧という地道な作業がおこなわれた。こうして日本は史上初めて寄生虫防圧に成功した国としての位置づけを達成したのであろう(Takeuchi et al,2007)。

 補注)団塊の世代付近(この以前の世代も含めて)の人たちであれば,小学校のとき,生徒たちのほとんどといていいくらい寄生虫を宿していたので,学校・学級単位で生徒たちが駆除剤を服用させられた体験をもつはずである。回虫の現物を実際にみたことのある人も多くいる。

 

 その後日本が1960年代から始まった海外での医療協力,あるいはWHO,PAHO〔The Pan American Health Organization〕など国際機関への協力,さらには1990年代の橋本イニシアチブへと進んだ軌跡は,国内問題解決の延長上にあるといってよい。

 

 日本における寄生虫問題に最初に現代的手法で取組んだのは明治維新直後に招聘され,日本で多くの医師達に影響を与えた E. Baelz や H. B. Scheube ら欧州の学者である。その後日本から多くの医師達が欧州に留学生として微生物学,動物学の勉強に出かけ,学んだ成果を日本で広めた。

 

 司馬遼太郎のいう「配電盤」の役割をした人びとである。時代が下がると日清,日露両大戦に伴う領土拡張に伴って,植民地における寄生虫の問題が大きくなっていった。台湾,朝鮮,満洲などに建設された医学校の日本人研究者は現地の風土病としての寄生虫の防圧問題に取組んだ。それは日本人と現地住民双方に必要な国策であった。1945年に第2次大戦に敗れて,日本はすべてを失った。しかしどん底からの自助努力と米国の援助を部分的には受けながら,多方面の寄生虫防圧が続けられた。

 註記)多田 功「日本における寄生虫防圧とその特質」『日本熱帯医学会』第36巻第3号,2008年・Supplement,49-68頁。

 新型コロナウイルス感染拡大「問題」は,世界の地域・各国なりにそれぞれ特性をもった罹患の状況を発症しつつある。

 したがって,国際医療協力をする観点・立場からも各国がともにこのパンデミック現象の対策・治療に当たらねばならない現在の状況にあって,「麻生太郎の与太話」は深く考えてみるまでもなく,日本の国益のためにならない。

 バカいうのもいい加減にしようね,太郎ちゃん。2月以降における日本国内に起きていた医療関係機関における混乱状況を,まさか忘れたわけではあるまい。こちらで,関連する日本側の民度をデンデンするとしたら,かえってやぶ蛇。

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 最近,安倍晋三チャンは「Go to」(ゴウ・ツー)を,国会での質問者の口調に釣られたのか,強盗(goutou)と間違えて読んだとか。この首相も太郎の副首相も,日本語の運用力(上の表を参照)に関して顕著に問題ありの状態で,「総理大臣」とか「財務大臣も兼ねた副首相」(そして以前は「首相」)などに就いてきた。新型コロナウイルス感染拡大「問題」に対応してきた,とくに安倍晋三の首相としての立ち位置は,専門家会議の医療家たちとの相対関係ではっきりする構図になっていたが,ほとんど無能・無策になるほかなかった内幕を教えていた。

 

 【蛇足的にある記事を紹介】

   ◆「10万円給付」支給済み世帯はわずか 2.7% 関東の主要34市区を本紙が集計 ◆
    =『東京新聞』2020年6月7日 08時10分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/33951

 国民に一律10万円を配る「特別定額給付金」について,東京23区や関東の政令市,県庁所在地など34市区で,給付金が支給された世帯数は総世帯の2%強(5月末時点)にとどまることが,本紙の調査で分かった。政府は「5月中」の支給を目標とし,緊急事態宣言で厳しい状況に置かれた家計を支える狙いだったが,宣言解除後も多くの国民に給付金が届いていない実態が浮き彫りとなった。

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 政府が一律の現金給付を実施したのは,緊急事態宣言の対象地域を全国に広げたなかで「ウイルスとの闘いを乗り切るため」(安倍晋三首相)だった。これまで首相は「5月中のできるだけ早い時期」の支給開始を強調してきた。しかし,本紙調査に応じた自治体からは「申請内容の確認に時間がかかる」「金融機関への手続などで申請から振りこみまでに数週間を要する」など,5月支給のむずかしさを指摘する声が相次いだ。

 補注)そういえば,わが家に「10万円給付」の支給を手続するための書類が配達されたのは,5月下旬(の後半)であった。当方からの申請書は6月1日に郵便ポストに投函しておいたが,まだ振りこみがあったかどうか確認できていない。本当にこのお金が必要な人たちにとってみれば,ずいぶん悠長な日程の運びになっている。

 都内のある区の担当者は「住民からいつ振りこまれるかや『支給が遅い』などの問い合わせを1日千件は受けている」と明かした。

 家計支援策などの経済政策に詳しい中部圏社会経済研究所の島沢 諭(まなぶ)氏は,給付金の趣旨が家計支援なのに,宣言がすでに解除された現状に触れ「支給は遅いといわざるをえない」と指摘。「国民の不満が高まれば自治体が矢面に立たされてしまう。国の事業なので,支給遅れの理由は自治体でなく国が説明責任を果たすべきだ」と訴える。(引用終わり)

 安倍晋三君,そしてとくに麻生太郎君は,自分がお得意とするつもりである自慢・与太話,それも客観的な理由さえろくに示せないホラー的な話は,いいかげん,ほどほどにしておこうではないか。なんといっても,「日本のクォリティー」に関した “アベ的な赤恥&アソウ的な青恥” を,ただ世界中に向けて発信することだけは,止めにしてほしい。

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