昭和天皇の姿は,戦前・戦中は現人神の大元帥であり,戦後は平和を愛する生物学者であったのか


    昭和天皇戦責問題の浄化,戦後史における美化・聖化

                  (2014年1月26日)

 

  【要  点】  大日本帝国を統帥した大元帥が,いつから
              「平和を愛する生物学者」に大化けしたのか?

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  補注)第2次世界大戦(1939年9月~1945年9月)における死者数は,日本だけでも「兵士 230万人,臣民  80万人」で「計 310万人」。東條英機らだけの政治・戦争責任だったといって済ませられる歴史の問題であったか?

 しかし,そういってひとまず片付けておき,A級戦犯にだけ戦責問題を押し付け,敗戦後の処理が「GHQによる日本占領」体制のもとでなされていった。その現実的な姿容は,沖縄県が現在も引きずったかっこうで代表的に表現させられている。

 ともかくも,1940年における日本の人口は 7307万人であったものが,1945年は 7199万人に減少していた。その後において日本の人口が減少しだすのは,2015年からの出来事になっている。


  主題「〈昭和史再訪〉昭和天皇崩御〔昭和〕64年1月7日 戦後の平和,根を下ろす」朝日新聞』2014年1月25日夕刊に関する議論としての批評

 1) なにをどのように議論するか

 「1989年1月7日,昭和天皇が死んだ」 上記のごとき『朝日新聞』の特集解説記事は,昭和天皇が死んだとき,この出来事がどのように人びとに受けとめられたかを,くわしく報道していた。昭和天皇の死を報じたこうした特集解説記事は,もちろん「1989年1月7日の『朝日新聞』夕刊」だけでなく,各紙が一斉に大々的に報道するものとなっていた。下の画像は,関東地区における大手各紙のその夕刊を揃えて撮影した画像資料である。

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 そして,この特集解説記事そのものの見出しは,『朝日新聞』の場合,「天皇陛下 崩御,新元号『平成』,激動の昭和終わる,明仁親王ご即位,87歳歴代最高の在位……」などと書かれていた。一体に「昭和の時代」としてまとめ,歴史:時代を一括りに区切るのは,日本国・日本人・日本民族のだれしもが無条件に喜んで同意する時代感覚だとはいえない。だが,日本社会のなかでのそれは,ある種,ごく自然な時間感覚の表現になっている。この国のなかでは現実にそのように「時間が支配され」ており,時間の観念までが天皇の手中にあるかのように演じられている。

 だが,この元号に関するしごく感性的な認識は,けっして日本の歴史を通貫して間違いなく妥当する「大和民族の時間感覚」ではない。そもそも「1世1元」が決められたのは,明治時代からの決まりであった。つまり,この元号制は,まだたった4世代〔いまは5世代目〕しか経っていない〈短い伝統?〉である。それゆえ,「激動の昭和」という時期区分に包括されるかのような時間認識の仕方に関しては,それじたいに関してからして大きな疑問が湧いてきて自然である。

 裕仁天皇は,歴代天皇のなかでは一番長い期間,64年,天皇位に就いていた。もっとも,彼自身が長生きしてきた人間であったゆえ,この人生の全体を通して,時代の進展じたいにおいて激動することがなにもなかったと思いこむほうがおかしい。というよりは,彼自身,歴史の進行に大きく絡んできた人物であった。そう把握したほうが,まともな歴史の流れに関するつかみ方である。

 ここで,「昭和の時代」という時期区分に対応させて,世界史全体のなかにそのまま通用する西暦の期間である「1926年から1989年(=昭和1年から64年)」を当ててみる。「昭和の時代」という,「一個人:日本の天皇の生涯(在位の長さ)」にかかわる「時間の区切り」そのものが,はたしていかほどの「地球次元において普遍的な歴史の含意」がありうるのか,まったくおぼつかない。平成天皇の時代になると,「日本は戦争はしていない」が,天変地異だけでも大きな事件として,「阪神・淡路大震災」「東日本大震災(東電福島原発事故)」が発生していた。

 おりしも,昭和から平成に代わるとき日本経済のバブル性が完全にはじけていた。それ以来ずっと,デフレ基調の時代を経てきた。この流れをなんとかえようと,いまジタバタしている現政権首相の経済政策はさておいての話となる。

 平成天皇の時代,しかも21世紀最初の10年代から20年代にまでも続いてきた,日本経済の「本格的なデフレ基調の時代」を意識したうえで,これを天皇明仁氏の在位期間そのものに一定の関連があるかのように歴史的に解釈したがる立場は,まったく理由も根拠もなにもない誤認ないしは錯覚であるか,あるいはただに,経済現実に対する理論不在のズブの素人的な時代理解でしかない。

 補注)ともかく,1990年代の「10年間」につづいて,21世紀になってからもその10年間が重ねて2回も繰り返された。しかも,くわえて2020年には,新型コロナウイルス感染拡大「問題」に世界中が襲われてしまい,日本も経済・社会も大混乱させられている。2020東京オリンピックはひとまず1年(以内で)延期された点はさておいても,社会全般が一時停頓に近い状態を余儀なくされた。

 すでに,日本における製造業の「全体像」は,負け組に仕分けしたほうが,よりまともな日本の経済・産業「観」といえる時代になっていた。新型コロナウイルス問題のために,2019年の訪日外国人数が前年比 2. 2%増の3188万人ま増加しており,旅行消費額も6. 5%増の 4. 8兆円にまで上昇していたものが,2020年は激減するほかない見通しになっている。関連する観光業などが壊滅に近い損害を発生させている。

〔本文に戻る→〕 つまり,平成天皇が即位した時期から,そしていままでの在位の期間に,日本国に起きてきたさまざまの出来事・事件を対応させる方法を採って,双方のあいだになにか「意図されたり・原因があったりして」深い関係があるかのように解釈する「歴史の観方」は,もとより成立しようもない〈恣意にもとづく時代の解釈〉である。いつの時代の出来事・事件であっても,天皇の存在:「在位の期間」となにか特別に深い関連性があるかのように解釈したがる気持は,心情優先的には分からないわけではない。だが,具体的に洞察してみるまでもなく,歴史の側においてそのように解釈させる時代区分が立ち入る余地はない。

 だが,天皇裕仁氏や明仁氏の側において,なんらかのかかわりを多少でももちそうな社会の事象であるといっては,これらをなんでもかんでも “天皇側の時間領域” にまで引っぱりこんでは結びつけたがる人がいないわけではない。しかし,無理やりにそうした操作をするところにかぎって,実際においてはその根拠も理由もないまま,天皇「存在問題」のほうにこじつけたり,天皇側に向けて極力幅寄せがされたりする。

 補注)徳仁天皇の地位に就いた時期の元号は令和と名づけられたが,新聞報道に出てくるこの新天皇関係の諸記事は,いかにも「日本という国のなかで起きている出来事のすべて」が,天皇天皇制(天皇制度)と密接不可分であるほかない事象であるかのように,つまり,その意図の方途に向けて “人びとの生活意識” を積極的に誘導するためであるかのように報じている。

 5月の記事のなかには,天皇が田植えをしたという「歴代天皇の皇室内行事」も,例年恒例の記事として報道されていたが,これは1927〔昭和2〕年に天皇の地位に就いた昭和天皇がみずから考案し,創りはじめた天皇家の行事のひとつであって,けっして「古(いにしえ)」からの天皇(家)の行事ではない。

 疑問をひとつ。ところで,なぜ,その「天皇による田植えは,この人しかやらないのか」? 農作業として耕運機が使えない,昔の時代に立ち返って考えてみればよい。一家が総出でやる作業が田植えである。ここでは「早乙女が田植えをするお祭りが全国各地に残っています」という文句も聞こえてくるが,なぜ,天皇家の人びとは全員が田植えをしないのか? またここでは,新嘗祭とか大嘗祭の関係性を,宗教史学的に問うことはあえてしない(もとよりまともな解答は期待できないが……)。

 農本主義的な政治イデオロギーを背景に有しているはずの,天皇天皇家の年次恒例行事として「田植えという〈ひとつの農事〉」を,それじたいとしてのみとりこみたかったのであれば,ご都合主義になる〔つまり “いいとこどり” だけの〕ような関与の仕方ではなくして,農本の思想そのものにより密着した皇室内行事となしうる工夫をくわえたうえで創造したほうが,より好ましい適合性をも含意した「天皇家にとっての新しい伝統の構築」になるはずである。

〔本文に戻る→〕 昭和天皇の時代はたしかに激動の連続であった。だが,それでは,この「裕仁氏のおかげで・原因で,その激動のすべてが生じていた」ということになるのか? そうではなく単に,歴史的な必然あるいは偶然によって,時系列的に発生していた出来事・事件のほうが多かったのではなかったか。この時系列の連続性に「何々天皇」の在位した時期を被せて重ねていたから,ただそれゆえに「何々天皇」にかかわる時代区分が画されていたに過ぎない。

  ※「天皇の治世」※ 

 天皇が生きて在位していた時期に,時代の流れに関する一定の区分をあえて密着あるいは固着させねば済まない時代感覚が,はたしていかほど歴史に関しての有意性を発揚しうるのか。このことがらについては,「日本人でなければ分からないものだ」といってのけ,以上に披露したような疑問を問答無用的に排除したがる「国粋・独善の意味解釈」は,他者を納得させる説明ではない。

 「元号という暦」は,他国の人たちに対して,すんなりと自然に理解してもらえるような「暦」ではない。日本独自ものだという元号制度であるけれども,もとは中国の四書五経から抽出したものであって,そのような独創性の強調は我田引水の要らぬ誇張である。

 1945年8月14日に昭和天皇が聖断を下していたからこそ,日本は一気に敗戦を決めることができたというが(→「御前会議でポツダム宣言を受諾」するさい,天皇の発言で決定させえたこと),大日本帝国の最高責任者である大元帥の彼が,立憲君主の立場を逸脱してその聖断を下したからといって,つまり,日本敗戦という事実をもたらしたからといって,時代の激動すべてを彼がとりしきってきたわけではない。

 事実,あの大東亜戦争をとことんまでこじらせたのは,敗戦後に昭和天皇がいいわけしたように〔息子の明仁にも手紙を書いて同じように訴えていたが〕,軍部・軍人の側に基本の責任があったとすれば,天皇はいてもいなくてもあまりかわりなかった人物(大元帥)ということになる。ところが,そうではなく,あの戦争は「天皇の名のもと」におこなわれてきた「大義の聖戦」であった。

 したがって,それ相応に彼には非常に重い責任をもっていた。しかし,GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とこの背後に控えていたアメリカ政府は,敗戦後における日本の占領を円滑かつ効率におこなうために,日本の「天皇」を利用したのである。この天皇を活用すれば,ほかの表現でいうと,戦争中からすでにアメリカ側が関係者が提言していたように「パペット(puppet)」にして操れば,日本人・日本民族を,よりうまく統治することができると,事前に準備していたのである。

 もちろん,アメリカや連合国側では一枚岩の立場ではなかった。天皇を裁判にかけてなんとかしろという強硬な意見も,いくつもの国から意見として提示されていた。しかしともかく,昭和天皇は幸いにも,敗戦後の世界政治のなかで「生かされ・利用される経緯」になっていた。

 そうした敗戦後史における事実経過を思い出しながら,この記述「〈昭和史再訪〉昭和天皇崩御〔昭和〕64年1月7日 戦後の平和,根を下ろす」(『朝日新聞』2014年1月25日夕刊)を読んでみたい。これが本日の記述する内容の中心部分である。前置きが長くなったが,この記事をともかく,2)  から紹介していく。

 補註)冒頭に出ていた「崩御」ということばは,天皇や皇帝,国王,太皇太后,皇太后,皇后,その他君主など の死去を表す敬語だとされている。皇族関係者の死亡のさいは,そのほかにも,「薨御(こうぎょ)」,親王や三位以上の死を意味する「薨去(こうきょ)」, 王や女王,四位・五位以上の死を意味する「卒去(しゅっきょ,そっきょ)」などの尊敬語が用いられるという。

 死に関する敬語としては他にも「殂落」(そらく)や「逝去」などがある。「殂落」は崩御と同義の語だが,今日ほとんど使われない。「逝去」も本来は崩御薨去に近い表現だが,戦後これが人を敬ってその 死をいう語として,広く一般に普及し定着したことから,今日の報道では皇族の死に対しても便宜上,この逝去を使用している。単に死の概念のみを表す「死去」は使われないというのである。

 註記)http://ja.wikipedia.org/wiki/崩御 参照。

 この補註の説明を受けた記述となる。本ブログのように,単に「天皇が死んだ」といったりしたら,尊皇の観点・立場からは「不敬」的な,尊敬の度合が足りない表現だといわれる違いないが,天皇の死であっても,もっと客体的にとりあげる姿勢が必要である。

 2)「昭和天皇崩御〔昭和〕64年1月7日  戦後の平和,根を下ろす」の記事本文

 1989〔昭和64〕年1月7日午前6時33分,昭和天皇は十二指腸部の腺がんのため,皇居・吹上御所で亡くなられた。87歳だった。全国の多くの新聞社は同日夕刊で,天皇,皇后らの死去を表す敬語「崩御」を使った。だが沖縄の主要2紙は「ご逝去」だった。

 沖縄タイムスの大山哲編集局長(当時)は「県民感情に配慮した」と語った。沖縄は太平洋戦争で日本で唯一,地上戦を経験している。

 補註)沖縄の県民感情とは,こういう歴史的な感情のことである。「天皇のおかげ」で,4人のうち1人があの戦争〔1945年月~6月〕で生命を奪われた事実を指している。あるいはまた,敗戦後アメリカ軍に占領されたまま,昭和天皇アメリカ側に秘密裡に伝達した個人的な意思,すなわち『天皇メッセージ』 (1947年9月20日)によって,沖縄をアメリカに手渡していた〈事実〉の意味,それも象徴天皇なっていた昭和天皇の「憲法違反の政治的行為」を,沖縄の人 びとはけっして許せないでいるからである。 

 沖縄県公文書館』に掲示されている,その『天皇メッセージ』(英文)をかかげ,日本語訳なども紹介しておく。なお,一部年代の表記については,分かりやすくするために数字を補足した。 

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    出所)http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

 

 米国国立公文書館から収集した “天皇メッセージ” を公開しました(平成20〔2008〕年3月25日)。同文書は,1947年9月,米国による沖縄の軍事占領に関して,宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合 国最高司令官政治顧問に伝えられた天皇の見解をまとめたメモです。【資料コード:0000017550】

 

 “天皇メッセージ”の内容は概ね以下の通りです。

 

  (1)米国による琉球諸島の軍事占領の継続を望む。

  (2)上記(1)の占領は,日本の主権を残したままで長期租借によるべき。

  (3)上記(1)の手続は,米国と日本の二国間条約によるべき。

 

 メモによると,天皇は米国による沖縄占領は日米双方に利し,共産主義勢力の影響を懸念する日本国民の賛同も得られるなどとしています。

 

  1979年にこの文書が発見されると,象徴天皇制の下での昭和天皇と政治の関わりを示す文書として注目を集めました。天皇メッセージをめぐっては,日本本土の国体護持のために沖縄を切り捨てたとする議論や,長期租借の形式をとることで潜在的主権を確保する意図だったという議論などがあり,その意図や政治的・外交的影響についてはなお論争があります。

〔記事に戻る→〕 元沖縄県知事大田昌秀さん(88歳,当時)は,皇民化教育を受け「天皇のために死ぬのは当然だと思っていた」。師範学校生徒のまま兵隊となり,同窓生の6割は戦死,「皇軍」が平気で民間人を殺すのをみた。だから大田さんは「ご逝去」の文言を当然と受け止めた。「沖縄の人々にとって,天皇制は非常に難しい問題だ」。

 1947年に天皇が側近を通じ,連合国軍総司令部に「米国が沖縄を長期占領するよう望む。米国の利益になり日本を守ることになる」と伝えたとされる「天皇メッセージ問題」が1979年に発覚。これも県民にしこりを残したと話す。地上戦で本土の捨て石にされ,敗戦直後にも沖縄は米国への貢ぎ物にされたと感じる。「天皇が沖縄を訪問できなかったのは,この問題が心に引っかかっていたからではないか」。

 晩年の昭和天皇は沖縄訪問にこだわりつづけた。戦後,47都道府県のなかでただひとつ訪れることがなかったのが沖縄県だ。国体開催に合わせ1987年秋に訪問の予定だったが,手術で断念。故・卜部(うらべ)亮吾侍従の日記によれば,訪沖断念は侍医らの執拗な説得の結果だ。この前後,侍従らに何度も「メッセージ問題」を話している。1988年の誕生日会見で「健康が回復したらなるべく早い時期に」と訪沖に固執する姿勢をみせた。

 「1989年は戦後天皇制が完全に根付いた年」と捉えるのは思想家 内田 樹(たつる)さん(63歳)。内田さんが幼いころ「天皇制廃止を公然と唱える大人がたくさんいて,家で陛下という敬称を使うのははばかられた」。

 内田さんの父親は旧満州で軍部の横暴を体験した。一部の戦犯を除き戦前戦中の指導層がほとんど居抜きで戦後も残り,「父親たちは,すぐにも戦前の体制に戻るのではという恐怖感をリアルにもっていた」。その「戦前的なるもの」の象徴が天皇だった。「陛下と口に出した瞬間に,父には戦前戦中の忌まわしい記憶がよみがえる。だからけっして口に出さなかった」

 戦前戦中の指導層が引退する1970年代から「天皇制を核にした大日本帝国的なもの」へ回帰する不安感は国民のなかから消えていく。昭和天皇は,会見の言葉やその行動で,戦争への反省と平和を愛する心という「日本国憲法に規定された天皇としてのロールモデルを懸命に果たした」。

 たとえば,A級戦犯が合祀された後の靖国神社にはけっして参拝しないという行動そのものがきわめて明確な政治的メッセージとなり,天皇への不信感や恐怖感を取りのぞいたという。「1960年代に再軍備反対・天皇制廃止とワンセットで唱えた左翼陣営も崩御のころには天皇制廃止に触れなくなった」。

 補註)ここでは,昭和天皇A級戦犯合祀後の靖国神社に参拝しなかった事実を,「きわめて明確な政治的メッセージとなり,天皇への不信感や恐怖感を取り除いたという」ふうな評価を与えている。だが,これは「きわめて表見的な理解」である。

 大前提の論点はまず,靖国神社が「戦争神社」であり「勝利のための神社」であって,けっして「敗北した賊軍のために神社」ではなかったことである。つぎに「本論」として,「にもかかわらず,A級戦犯が合祀され」,換言すれば「昭和天皇自身が東京裁判を免責されていた事実」が否定される結果が生来していた。これが原因となって,それ以降は靖国に参拝にいかなくなった〔いけなくなった〕 という「昭和天皇自身・精神内部における姿勢の変化」には,二重の意味で問題があった。

 靖国神社自身は,敗戦した大日本帝国じたいが「賊軍になってしまった事実」を認めようとしない神社として,1945年8月以降もそのまま存在しつづけてきた。昭和天皇は「大日本帝国が完敗し,賊軍になってしまった歴史的な事実」を認定させられる代わりに,自分が東京裁判に出廷しないで済み,天皇の地位を保障されてきた。だから,A級戦犯靖国神社に合祀された時点でもはや, この神社にはけっして参拝にいけなくなった,参拝にいけば以上に示された「敗戦後に自分が嵌めこまれていた占領下に形成された〈日本国の構図〉」を,みずから否定し破壊することを悟っていたのである。

 ポツダム宣言を受諾した〈歴史の意味〉」を,昭和天皇は自分自身に課せられた歴史的な荷物としてよくよく認識していた。だから,靖国神社にはいきたくともいけなくなった。敗戦後に構築された国際秩序,ポツダム宣言受諾にもとづく国際政治的な約束ごとが,日本国にはあった。裕仁氏は,自分の天皇の地位が維持できていた「敗戦後の世の中」を生きていくなかで,守らねばならなかったのが,そのポツダム宣言の基本:約束事であった。

 しかも,戦後の世界において彼は,「平和を愛する生物学者裕仁天皇」といったふうに,1945年8月までとはまるで正反対の「庶民派天皇のイメージ」像をまとう生活を過ごすことになっていた。ところが,このイメージを実際に演じていた彼が,敗戦直後の政治過程のなかで「象徴天皇」と決められた彼が,絶対にやってはいけない政治行為にかかわっていた。それも秘密裡に非公式の経路を使い,アメリカに対して「沖縄をどうぞ,いつまででも長期間,ご自由に基地にお使いください」という具合に,「天皇メッセージ」として伝達していたのである。

 21世紀に時代が移っている現在における話としても,実際,そのとおりになっている。普天間基地の代替用の基地を辺野古沿岸地域に提供するという計画は,すでに埋め立て工事から開始されている。だが,この計画が竣工するまであと何年かかるのかさえ,いまのところ,はっきりしていない。仮に辺野古に基地への移転が実現したとして,いったいあと何十何年,米軍はさらに沖縄県に軍事基地などを配置しつづけていくのか。2045年(敗戦後から1世紀経った時)までまだ25年間があるけれども,それまでに米軍が撤退すると保証できると発言する人は(専門家であっても)いない。安倍晋三君にも答えられない。

〔記事に戻る→〕 さらに「昭和天皇もいまの天皇も,心の底から日本国民の生活を心配する慈父のごときイメージを,その言葉や行動で示してきた」という。内田さんは1988年秋,昭和天皇のお見舞いの記帳に訪れた女子高生が,その理由を「天皇ってかわいいじゃない」と答えたことをいまも忘れない。「日本人の大衆の無意識は女子高生の言葉に露骨に現れる。天皇制を愛すべきものと捉える女子高生の言葉に戦後天皇制の定着を感じた」。

 3)「(記事本文続き)『祭りやCM,自粛ムード一色に』」

 1988年9月19日,昭和天皇は大量の吐血から一時重体となり,連日の集中豪雨的な報道に批判も出た。NHKは毎夜のニュースで下血量などをそのまま伝えた。下血報道を担い,のちに高知県知事になった橋本大二郎さんは「独自取材で病状の深刻さは分かっていたが,ミスリードしないよう公式発表を伝えると割り切った」と話す。巷(ちまた)車はCMの「みなさんお元気ですか」(井上揚水:在日出身のミュージシャン)が失礼にあたるとして差し替えた。〔翌,1989年〕1月8日から「平成」が始まった。11日までの全国の記帳者は約378万人。テレビが特別編成で天皇報道一色となり,レンタルビデオ店は客であふれた。

 4)「(同上)『痛い』一度もおっしゃらず  昭和天皇の元侍医・伊東貞三さん(84歳)(証言)」

 昭和61〔1986〕年末から毎月,体重が数百グラム単位で減っていました。〔昭和〕62年の天皇誕生日の祝宴で嘔吐され,夏の那須御用邸では食事は進まず召し上がると戻される。拝診すると腹部に膨満感がある。日記に「胃の幽門狭窄ではないか,ガンでなければよいが」と書きました。9月にバリウムを入れ胃の透視をすると,意外にも胃はきれい。十二指腸は中部数センチが縫い針のように細く,よくこれで食べ物が通ったものだと思いました。

 崩御まで,陛下が痛いとか苦しいとかおっしゃったことは一度もありません。「お痛みはありますか」とお尋ねすると「痛いとはどういうことか」と返されたこともあります。病状や治療方針のお尋ねも皆無でした。まるで首から下は別の物体で侍医に一任してある,とでもいうように。侍医長の方針でがんの告知はしませんでしたが,個人的にはしたかったです。侍医を信頼して治療を任せているのになぜ悪くなるのかと思ってらっしゃるだろう,本当のことをお伝えしたいと何度思ったことか。

 昭和63年の大みそかの夜,陛下の呼吸が一度は止まりました。看護婦が胸をトントンとたたくと回復したのです。昭和64年があるなと思ったことを覚えています。1月7日午前6時33分,心電図の波形がツーッと平坦になって崩御されました。ああ,昭和が終わったんだと思いました。

 5)「参考;武蔵野陵」(以上の記事から少し離れて関連する「事実の指摘」)

 2013年5月31日の報道であったが,平成「 天皇皇后両陛下が3年ぶりに『武蔵陵墓地』を参拝」という記事が出ていた。天皇と皇后が,昭和天皇香淳皇后が眠る東京・八王子市の武蔵陵墓地を3年ぶりに参拝したというこの報道にかかわっては,つぎの画像資料をみておきたい。平成天皇夫婦は健在であるが,すでにこのような古墳のような陵基の建造がすでに設計・準備されている。

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 平成天皇夫婦のための陵は,昭和天皇夫婦の陵より小ぶりであり,また土葬ではなく火葬とする方針が,宮内庁から発表されていた。

 以上の記述を読んでもらい,はたして昭和天皇が戦後における「天皇像の〈変化〉」のなかで,本当に「民主主義と平和を愛する象徴天皇に意識変革ができていたか」といえば,この答えはおのずと明確に出てくる。否である。

 天皇が日本国の立憲君主であるかどうか,これを定めた法律はない。そのせいで,解釈しだいでいろいろと勝手な主張がなされている。しかし,当の昭和天皇は敗戦直後から,立憲制度いかんや自身の君主意識もさることながら,首相顔負けにみずから元首的な政治行為をしてきた。これは歴史の事実であって,想像であれこれいわれるようなものではない。

【参考画像】 グーグルマップでみた「武蔵野陵(など)」の衛星写真とその地図を比較すると,こうなっている。通常における地図上の表記を念頭に置いてみてもらえれば分かるはずだが,なにがどのように異なるかは説明不要である。いずれにせよ,なにゆえに,「地図」のほうでは「消されておかねばならない “なにか” 」があるのか?

 

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 昭和20年代史における昭和天皇の政治行為は,もっぱら自家(天皇家)の安寧確保のためになされていた。けっして国民のためを第1に思い,行動していたわけではなかった。昭和天皇を「美化する」なかれ,ましてや「聖(人)化する」ことも完全に間違えている。

 歴史に記録された昭和天皇の行跡は,みずからが語りおこなってきた実体そのものとして,厳然と残されている。この事実を「浄化ロンダリングし,粉飾して,美化する」かのようにして,なにかの他物にとりかえることはできない。われわれはすでに,彼に関する「歴史の事実」をありのままに観察できる時代にいる。

 それゆえ,宮内庁編集になる『昭和天皇実録』全19冊が東京書籍から2015年3月~2019年3月に刊行されていたけれども。歴史研究の基本的な姿勢に関するありようについていえば,これらの本に対して単純に絶対的な信頼を置いて読むとしたら,天皇裕仁に関する事実のまっとうな解明はできない。

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