明治の時代が意図的に創ってきた皇室・皇族,そして旧日本の軍隊

  明治の時代が意図的に創ってきた皇室・皇族,そして旧日本の軍隊

                     (2014年12月19日)

 

  要点:1 身分制度を解消できない日本社会

  要点:2 明治以来に設けてきた「古代的・封建的しがらみ」を払拭できない〈創られた天皇制〉のきしみ:根本的な政治の矛盾

  要点:3 靖国神社伊勢神宮も同じ国家・皇室神道だから,前社に参拝しないで後社に参拝にいくのは構わぬという理屈は通らない


  三笠宮寛仁「アル中」で5度めの入院
 
 筆者が2010年1月13日の早朝であったが,午前5時50分ころ,asahi.com(電子版) を検索したところではまだ出ていなかったつぎの報道が,同日に配達された『朝日新聞』朝刊には出ていた。

 宮内庁は1月12日,三笠宮寛仁さま(64歳,当時)がアルコール依存症の治療のため8日午後に宮内庁病院に入院したと発表した。アルコール依存による入院は昨年6月以降,5回目。

 アル中の病的症状を,いつまで経っても回復させえない,このように意志の弱い皇族が1人いた。「一般人」であったならばふつう,彼のような家族を抱えている世帯は非常に困ってしまう経済的・社会的状況に追いこまれかねない。だが,皇族の一員としての寛仁は,国家の予算で人並み以上に豊かな生活を維持できる生活費を支給されているゆえ,その点は心配する余地はない。 

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  出所)https://blog.goo.ne.jp/tennouheikano/e/3866925f955687ca09d430ca87f8ae4d 

  補注)生前のこの寛仁の画像は,喉頭がんに罹患したためノドの粘膜を2カ所切除する手術後のものである。寛仁は2010年12月段階まですでに関連の手術を11回受けていた。

 それゆえ,病気のひとつやふたつ,なんということはない。これは皮肉でいっているのではない。現在日本における社会経済全般が苦境の追いこまれているなかで,生活困窮者がとてもみじめな日常生活を余儀なくされている。この実態とは好対照である〈皇族一員の生活実態〉をしるとき,あえてでなくとも,そういわざるをえないのである。

追 記:2010 年1月15日午前5時40分ころ】


 ★ 「寛仁さま,心臓病センターに転院」(2010年1月14日21時45分)

 --宮内庁は1月14日,アルコール依存症の治療のため宮内庁病院に入院していた三笠宮寛仁さま(64歳)が同日夕,東京・三田の国際医療福祉大学三田病院心臓病センターに転院したと発表した。不整脈の症状が出たため,心臓機能の検査と治療をおこなうという。

  註記)http://www.asahi.com/national/update/0114/TKY201001140401.html,『朝日新聞』2010年1月15日朝刊。

 

 2014年12月19日 補注) なお,寛仁は2012年6月6日,入院先の杏雲堂病院で66歳で死亡した。死因は多臓器不全であると発表された。

 寛仁自身はだいぶ以前より,「皇族」である地位に発するところの何種かの悩みを,彼なりに鬱積させてきていた。また,それが「アル中」病状を重ねるばかりであって,これから脱却できないでいる原因とも観察されていた。だが,社会の底辺で生活苦にあえぐ庶民からみあげるに,まさに「アル中」で入退院を繰りかえていても「なんのその」である〔かのようにも映る〕彼の立場は,まったくうらやましいかぎりであった。その意味で彼は,優雅な入退院生活を反復しているといえなくもなかった。以上,どうしてもいいかたが,このように皮肉っぽくなってしまった。

  さて,現行憲法下「皇室典範」は,寛仁がかつて口にし,世間を騒がせたことのある「皇族の身分の離脱」の条項を,こう規定している。

  「皇室典範11条1項」 --満15歳以上の内親王・王・女王は,本人の意志に基づき,皇室会議の承認を経て,皇族の身分を離脱できる。

  「皇室典範11条2項」 -- 皇太子・皇太孫を除く親王内親王・王・女王は,やむを得ない特別の事由があるときは,本人の意思に関わらず,皇室会議の判断で,皇族の身分を離れる。

 本ブログの筆者が,その「皇室典範」における「皇族の身分の離脱」の条項を読んで分かる範囲内でいっても,寛仁がアル中で以前より苦しんでいる状況をもたらしている「彼の皇族の一員としての悩み」の関係は,「離脱」の条項が適用されるべき性格のものではないらしい(関連文献として,園部逸夫『皇室法概論-皇室制度の法理と運用-』第一法規出版, 平成14年,この簡易版に相当する,同著『皇室法入門』筑摩書房,2019年を挙げておく)。

 はて,寛仁はアル中の治療にさらに専念しなさい,ということであったのか? それにしては,病院に入ったり出たりで「入院費」もバカになるまい。それもこれもすべて,われわれの血税であった事実は,申すまでもない。

 

  明治時代の日本改革-古代律令体制への先祖返り:その「近代的な物真似」-

 一般に明治維新はこの表現のとおりに,本当に全面的に「維新」されたのかといえば,そうではなかった。その文字どおりには肯定できない〈古代制度的な脊柱〉が,創造〔想像?〕的に最初からしこまれていた。牧原憲夫『全集日本の歴史 第13巻 文明国をめざして-幕末から明治時代前期-』(小学館,2008年)の第5章「近代天皇制への助走」,第8章「帝国憲法体制の成立」などが,その「明治の維新」の中途半端な性格を説明している。

 なお「維新」とは「すべてを新たに改める」という意味がある〔らしい〕。ところが,明治期の進行とともに自然に勃興してきた「自由民権運動」〔明治7(1874)年から明治 23(1890)年まで〕が要求した共和制の方途〔民主主義と自由の実現〕,およびこれに関連した政治的諸動向は,明治史の実際的な展開のなかでは,ひとまず完全に圧殺することに成功してきた。

 当時の日本を囲む世界情勢をふりかえってみれば,そうした方向にやむをえない政治事情が歴史的にはあったにせよ,自由民権運動の要求がようやくでも,なんとか,かなえられる時期を「日本帝国の敗北」まで待たねばならかったとすれば,「明治維新」じたいは,けっして維新なることばで表現されるような「時代の改革」ではありえなかった。それは,その後,近隣アジア諸国を侵略していく路線を採った帝国日本の進路を,ただ都合よく開拓するための意味をもつに至っていた。

 牧原『全集日本の歴史第13巻 文明国をめざして』に聞こう。日本は江戸時代を終えてから,いったい世界のなかでどのような国になっていたのか。明治「維新」とやらは,この国をどのように設計し,これを実現していったのかをしることにしたい。

 1) 天皇中心主義の明治体制の本質

 a) 威厳のなかった明治天皇

 明治一桁代の天皇睦仁は「6大巡幸」をおこない自己PRをおこなった。なかでも,旧鹿児島藩主の島津久光を懐柔するためにわざわざ鹿児島まで出むいてもいる。昨日の本(旧々)ブログ「2010.1.9」「明治天皇西郷隆盛の親密な関係」〔→本(旧)ブログでは「2014年12月17日」「同名」〕の記述とも関連する点であるが,明治政府は,生前の西郷隆盛に同調する勢力の動きも十分に制御できていなかった。

 明治天皇自身が若いために未熟であって,君主の自覚をもてるようになるのは,明治11〔1879〕年の大久保利通暗殺事件のあとであった(牧原『全集日本の歴史第13巻 文明国をめざし長谷川栄子表紙て』174-175頁)。

 2014年12月19日:補注)その後,長谷川栄子『明治六大巡幸-地方の布達と人々の対応-』熊本出版文化会館,2012年が公刊されている。単著として,まとまった関連業績・研究成果である。

 b) 皇居の聖域化

 江戸時代の将軍や天皇はみえない存在でありながら,その居所ではある程度の交流もあった。しかし,明治の天皇はしばしばその姿を計画的にみせながらも,皇居は庶民と隔絶した聖なる空間にされた。このような改革が「古代の制度の再現」を意味し「変化は復古であり核心ではない」という論法を正当化させた。「改革:革命が実は復古」だという論法が日本固有ではなかった〔たとえばフランス革命・イギリス議会改革論争〕とはいえ,経済的自由主義神道の〈カンナガラ〉をむすびつける発想は並大抵ではなかった(牧原,前掲書,175-178頁)。

 c) 東西の理屈を合成して利用

 「西洋近代=日本古代」「開化=復古」という図式は,攘夷・復古を錦の御旗にした明治新政権が復古派の論難を突破するための切り札になった。徴兵制は〈我朝上古の制〉と〈西洋諸国数百年来〉の研究実践が合致した「天然の理にして偶然作用の法にあらず」と力説した徴兵告論は,その典型であった。

 この論理の発見によって,天皇みずからが率先して文明化の模範になることもできた。これはまた,天皇が攘夷のシンボルであった幕末とも,「日本固有の文化」の根拠とされた明治20年代以降とも異なる。文明開化期に特有の「天皇のありかた」であった(178-179頁)。

 2) 西洋の時間と天皇の時間-太陽暦定時法,西暦・元号皇紀

 a) 元号の設定

 明治の元号を定めたときに「一世一元」,つまり「一天皇・一元号」にした。しかし,これでも1代ごとに時間が途切れて,西暦のような悠久な時の流れを表わせない。そこで浮上したのが「皇紀(神武紀元)」であった。皇紀は本当は中国由来であるが,明治政府は神武元年元旦を西暦に換算し,紀元前660年2月11日を「神武天皇即位日」とした。

 それでもキリスト紀元に対する天皇紀元を定めたことで,明治政府は天孫降臨万世一系にもとづく「国家の起点」を設定することができた。こうして「明治政府は太陽暦・一世一元制・神武紀元の組合せを選びとったのである」(牧原『全集日本の歴史第13巻 文明国をめざして』184頁,185頁)。

 b) 挟みうちにされた「近世」

 明治政府は,改暦と同時に新たな国家祝祭日を定めた。新穀を神に供える新嘗祭神嘗祭は以前からあったが,新嘗祭は皇室だけの行事,神嘗祭伊勢神宮の行事であって,庶民とは関係なかった。

   ☆-1 天長節明治天皇誕生日を太陽暦に換算。
   ☆-2 紀元節神武天皇即位日。
   ☆-3 元始祭天皇が先祖に感謝する儀礼
   ☆-4 新年宴会は天皇が皇族・大臣らに酒を振るまう行事。

 また,孝明天皇祭・神武天皇祭は天皇の亡くなった〔とされる〕日である(太陽暦に換算)。つまり,すべてが天皇にかかわるものであって,春秋のお彼岸まで皇霊(歴代天皇) を祀る日にされてしまった。

 その一方で,人日(じんじつ,1月7日),上巳(じょうし,3月3日),端午たんご,5月5日),七夕(たなばた,7月7日),重陽ちょうよう,9月9日)の五節句は廃止され,雛祭りや七夕などの行事にまで禁令が出された。

 このように近世の庶民が慣れ親しんできた年中行事や生活の歩調は,西洋の正朔と天皇の祝祭日という,いわば「開化」と「復古」の両方向から挟みうちにされ,近代天皇制の「時間支配」は,ヨーロッパ標準への順応とむすびついて実現されたわけである。

 ただし,明治天皇の即位日である「宝祚節」の創設は,明治8〔1875〕年に一度決定されていながら撤回された。欧米に倣うのであれば王政復古か即位の日は当然「革命記念日」になったはずである。だが「皇国連綿」のこの国で『革命』を祝うわけにはいかなかったと推察される(185-186頁。以上,牧原『全集日本の歴史第13巻 文明国をめざして』第5章「近代天皇制への助走」)。

 

  立憲制と近代天皇

 1) 伊藤博文の活躍-内閣制度の創設-

 明治15〔1882〕年1月,陸軍内部における軍人訓戒の文書「軍人勅諭」に天皇自身が署名し,太政大臣を介さずに陸海軍卿に直接届けられ,「天皇の軍隊」が明確に宣言された(321頁。以下,牧原『全集日本の歴史第13巻 文明国をめざして』第8章「帝国憲法体制の成立」)。

 明治16〔1883〕年8月,ヨーロッパから帰国した伊藤博文は,ウィーン大学ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein)に学んだ成果を活かす国家制度改革を実行した。伊藤博文が悩んでいたのは,王政復古以来,政府の正統性を天皇に求めつつ天皇の介入を排除し,いかに〔当時なりの体裁でもって〕合理的で安定した国家運営をおこなうかという最大の難関であった。

 明治17〔1884年〕7月,公・侯・伯・子・男の5爵位からなる華族令を公布し,士族・平民にも爵位を与えて,衆議院に対抗する貴族院の基盤を強化した。

 伊藤の帰国後から2年後のころには,明治天皇もほかに頼れる政治家がいないと悟った。明治18〔1885〕年12月,伊藤は念願の内閣制を発足させた。天皇は正朔決定には関与せず,責任も負わない。立憲制の前提が確立したのである(322-324頁)。

 2) 「伝統」を「新しく」創る

 a) 天皇陵のデッチ上げ的比定

 「皇室財産」が設定されると天皇は日本最大の財産所有者となり,さまざまな目的のために多額の「下賜金」を出すことが可能になった。文明国と認められるには,西欧諸国に認知される君主制を創らねばならなかった。そこでまずは「歴代天皇陵の確定」となった。「実在の疑わしい天皇をはじめ,陵墓が不明のもの,伝承の不確かなものが少なくなかった」けれども,「天皇統治権の根拠が『万世一系』にある以上,それを『事実』で示さねばならなかった」(326-327頁)。

 b) 庶民の宗教を強奪した明治政府

 江戸時代には庶民の進行と遊興の場であった「お伊勢さん」も,古市遊廓・料理屋・芝居小屋などが排除され,皇祖天照大神を祀る宏大な聖域に〈純化〉された。また,明治23〔1890〕年には神武天皇・皇后を祭神とする橿原神宮,明治28〔1895〕年には桓武天皇平安神宮などが創建された。これらは観光資源として地元の商工業者らが造営したものであるが,いつのまにか荘厳さを感じる人びとが出てきた(327頁)。

 3) 日本の文化を横どりした皇室における〈偽物の伝統〉

 法隆寺の48体仏や東大寺正倉院の宝物が宮内省の博物館に移管され,明治33〔1900〕年には帝国博物館から帝室博物館になった。その収蔵品は天皇家の私有物となり,正倉院の宝物などは「御物(ぎょぶつ)」として秘蔵された。この博物館がどのような性格をもつかはその国の「文化のありかた」を端的に示すものである。日本の文化は天皇のものであり,皇室が千数百年にわたって日本文化を保護してきた証拠とされたわけである(328頁)。

 --途中だがここで,本ブログ筆者の寸評となる。このように明治時代になると,日本文化の伝統や財産をすべて天皇家のものであったかのように偽り,そのうえで皇室政策が積極的に展開されていった。明治以降,東京の皇居(宮城)に住むことになった皇室一族は,貧乏暮らしを余儀なくされる生活を体験してきた京都の時代からは考えられないほど〈超リッチ・大富豪の身分〉に変身させられた。

 ②  の  2)  の  b)  でも言及したように,皇室の年中行事は,民間・庶民の祭事を否定・破壊しかねないところまで排除していた。それでいながら,いかにも「大昔=古(いにしえ)」からもともと皇族が独自の祭事をあれこれおこなってきたかのように偽装しつつも,そのうちいつのまにか,日本という国の文化・伝統の極致が皇室によって維持・存続させられてきたかのようにも,意図的に誤って〔=つまり偽って〕語ってきた。

 4) 靖国神社伊勢神宮の対比

 以上のように明治政府がほどこした歴史の隠蔽と改竄と偽装工作のための措置は,古風な儀礼や伝統によって権威を高めていたロシアやオーストリアの帝室から学んだものであり,宮中儀礼も西欧を手本に整備された。御真影への「拝礼」も,神式の柏手ではなく西洋風の最敬礼になった。ここでも開化(欧化)と復古(古代への回帰)は組みであった。

 なかでも興味深いのは,靖国神社伊勢神宮の対比である。20年ごとに建て替えられる白木造りの社殿と神聖性を強調する《伊勢神宮》。これに対して,天皇のために戦死した「英霊」を顕彰する《靖国神社》。こちらは,青銅製の大鳥居,イタリア人が設計した石造りの戦争博物館遊就館)といった半恒久的な建造物に囲まれ,競馬などの遊興の場ともなっていた。

 伝統・文化を代表する「古都」と,文明・政治を代表する「帝都」という二つの都と東西ふたつの神社が,対照的でありながらそれゆえに相互に補完しあって,近代天皇制と大日本帝国を支えてきた(328頁)。

 

  靖国神社参拝問題に関連する議論-政治家の無知-

 1) 靖国神社伊勢神宮も同じ,天皇家のための国家的な宗教施設

 宗教法人神宮:伊勢神宮には,天皇個人が自分の祖先神だと信じてやまない「天照大神」が祭られている。この伊勢神宮は,宗教法人靖国神社靖国神社とはひとまず性格を違えており,日本の神社神道の総本山である。

 さて,2004年1月6日のことであった。当時,野党であった民主党代表〔やはり当時〕菅 直人は,与党(主に自民党)政治家の靖国神社参拝に反対し,2003年と2004年の正月,伊勢神宮に参拝していた。

 「菅 直人代表/定例記者会見要旨」は,「昨年に続いて,伊勢神宮にお参りをさせていただきました」理由を,こう説明していた。

 特にこの伊勢神宮というのは,ある意味では天皇家を祭っているわけでありますが,2000年くらい前にできたともいわれております。最近,憲法の議論も盛んになっておりますけれども,聖徳太子が17条憲法というものを発表されたのが7世紀と聞いておりますけれども,その第一項目には,「和をもって尊しとする」という有名な第一条があるわけであります。

 

 いろいろな意味に解釈されるところもありますが,イラクに対する自衛隊派遣を含めていろいろな議論が今年はあると思います。やはり日本という国が「和をもって尊しとする」という,そういった考え方を今から1600年くらい前にすでに一つの基本としてもっていたということを,私たちは大事にすることが必要ではないか,とこんなふうにも改めて思ったわけでもあります。

 註記)http://www.eda-jp.com/dpj/kan/040106.html 2006年9月5日検索。

 

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 出所)この画像は,2011年1月4日,首相のときの伊勢神宮参拝。http://www.asahi.com/special/hibi/TKY201101040317.html

 こうして,2003年と2004年の正月に伊勢神宮を参拝した当時民主党代表菅 直人は,2001年以降の小泉首相による靖国参拝に反対していた。しかしながら,伊勢神宮熱田神宮の「三種の神器」は,天皇家の存在理由を宗教的に意義づける象徴だと信じられ,とくに昭和天皇はそのように信心する者であった。

 しかも,前述のように伊勢神宮靖国神社の国家宗教的な基本性格は「東西ふたつの神社が,対照的でありながらそれゆえに相互に補完しあって,近代天皇制と大日本帝国を支えてきた」のであるから,菅は明治以来に創作された歴史政策的なその基本性格に無知なまま,いいかえれば靖国を補完する「伊勢のほうに参る」という「矛盾を犯している自分」にまったく気づいていなかった。

 --あるブロガーは,2010年正月の時であったが,民主党政権鳩山由紀夫首相が伊勢神宮を参拝した行為に関して,こう記述していた。

 それにしても,歴代首相はなぜ伊勢神宮に参拝に来るのであろうか。いろいろあって恒例化したのであろうが,明治神宮熱田神宮ではなくなぜ伊勢神宮なのか。格式が違うともいわれているが,靖国神社とは別あつかいということもあってか,こうした参拝行為は問題とならないようだ。ただ「政教分離」の原則との整合性は ? であろう。

 註記)http://tomo-gongura.cocolog-nifty.com/blog/2010/01/post-4dd4.html

 このブロガーはきちんと「『政教分離』の原則との整合性」に問題はないかと疑問を投じている。そのとおりである。外国,それも東アジアの日本事情通の識者であれば「靖国神社伊勢神宮」の問題性を感知しているはずである。筆者は以前からこの問題点を論著などでも触れてきている。

 なお,以上に論及した問題点については,つぎの議論も参照されたい。

www.jcp.or.jp

million.at.webry.info 

 2) A級戦犯の問題はひとまず,枝葉末節的な論点でもある

 政治家の誰それは,靖国神社A級戦犯を英霊として合祀していて,そのために近隣諸国からの批判を受けてもいる。だから参拝にいかない。だがその代わりに,伊勢神宮には堂々と参拝にいくという。しかし,この理屈はよく考えてみれば,根本のところからおかしい。

 A級戦犯昭和天皇の身代わりになって祀られている靖国に参拝する行為と,そして,そのほか多くの国民〔かつての臣民〕が「昭和天皇が自分の祖先だ」と信じてうたがわない「天照大神」を内宮に祀る伊勢神宮に参拝する宗教的な行為とは,実は両者が表裏一体的に密接不可分の関連性を有するからである。

 「A級戦犯昭和天皇の身代わり!)⇔ 昭和天皇の祖先(?)」と「靖国神社(新設) ⇔ 伊勢神宮(旧来)」との対位関係は,実は,明治維新以来において意図的に創基してきた「旧日本帝国における国教:国家神道内の〈構造的・機能的な体制基盤〉そのもの」を前提にしてこそ,措定されていた。この靖国神社(近代に創建)と神宮(古代からの実在)との「究極・根源での深い関係」は,いいかえれば,明治になってからわざわざ意義づけられ,説明もされることになっていた「双方における関連性付け」であった事実をみのがしてはいけない。

 天皇はそもそも『靖国神社の祭主』である(もっとも,A級戦犯合祀以来,天皇一家だけ参拝にはいっていないが,昭和天皇の弟たち皇族などは参拝していないのではない)。問題はなにか(どこにあるか)というと,天皇自身「以外には務めることができない」のが靖国神社におけるその祭主の役目である,という点であった。

 そして,この天皇が自分の先祖が祭られているからといって,伊勢神宮に参拝にいく。「天皇を主軸」に置いて,靖国と伊勢は切っても切れない位置にあることが理解できる。しかも,近代以降において伊勢神宮の「祭主」は天皇の近親者が就いている。現在のその祭主は黒田清子(平成天皇の娘で民間人と結婚していた)である。

 われわれは,天皇の政治心理的な意識とその行為の内部においてこそ実は,そのように深く関連する「靖国神社」と「伊勢神宮」との密接不可分で,いうなれば国家・皇室神道的な「相対(あいたい)の関係」が控えている事実を,しっかり記憶しておく必要がある。いずれにせよ「靖国と伊勢」との宗教的対面の関係は,いかようにしても,絶対に切りはなせない「歴史的な由来と政治的な事情」をかかえている。

  ☆ 増原内奏問題 ☆

 1973年5月26日,増原惠吉防衛庁長官昭和天皇に「当面の防衛問題」について内奏したとき,昭和天皇は「近隣諸国に比べ自衛力がそんなに大きいとは思えない。国会でなぜ問題になっているのか」と述べた。

 増原は「おおせのとおりです。わが国は専守防衛で野党に批判されるようなものではありません」と述べると,昭和天皇は「防衛問題はむずかしいだろうが,国の守りは大事なので,旧軍の悪いことは真似せず,良いところはとり入れてしっかりやってほしい」と述べた。

 この有名な,そして典型的で,かつまたその氷山の一角であった内奏問題(事件)は,昭和天皇が戦後もあいかわらず,内閣閣僚たちに対して自分の意見を各種披露していた事実を,あらためて表面化させた。最近における政権による「天皇の政治的利用」などを問題にするまえに,過去の重大な戦争責任を逃れていた天皇自身が,秘密事項であったとはいえ,こうした「政治的な発言」を閣僚たちと交わしてきた『敗戦後史じたい』に重大な問題が生じていた。

 憲法違反を重ねてきたのが,敗戦後における昭和天皇=「日本の象徴」が記録してきた履歴の一端でもあった。いまの平成天皇は,形式は変えて問題にならない工夫をもって,「内奏」に相当する諸報告を大臣たちからえられる立場にある。昭和天皇の内奏問題は「戦争の時代(彼が大元帥であった時期)」を即座に想起させるほかなかった。また,平成天皇のそれに相当した話題は,限定的・禁欲的な抑制を効かせていた論旨だったとはいえ,彼自身と妻の美智子が憲法問題にかかわる議論を,ともかく日本の社会に向かて差し出し,それなりに影響を与えていた事実が記録されてきた。
 
 ここで,話を政治家の菅 直人のほうに戻す。天皇家〔=昭和天皇と平成天皇と令和天皇の家族たちだけ〕にあっては 1975年以降,靖国神社参拝をとりやめてきた事情があるものの,日本古代成立に関する「神話的始原を宗教的に形成する伊勢神宮」に参拝にいった菅(とりわけ首相の立場における)の行為は,靖国神社に参拝にいき,戦争参加を督励してきた「天皇による〈国家的祭礼の行為〉」そのものに対して,間接的にもかつ直接的にも支持するという国家神道的な立場を意味するほかない。

 すなわち,自民党の総理大臣小泉純一郎もそうであったが,「靖国への参拝」はダメだが(まずいと思うが),民主党の代表時の,あるいはその後首相になった菅 直人の「伊勢への参拝」はかまわないといった理屈には,もとより根本から大矛盾がある。伊勢参拝は,靖国参拝に直接通じる宗教的行為を意味する。だから,伊勢神宮を参拝した小泉純一郎靖国参拝のことを批判した菅 直人の発想じたいが,どうやら,明治体制下に創られた「日本の神社体制」に固有の矛盾に気づいていない。要は無知があった。

 筆者は以上のように「言挙げしない」わけにはいかない。菅 直人の場合,つぎのような解釈にどのように反論できるのか聞いてみたい。

 3) その後における菅 直人

 その後,民主党政権で首相になった菅 直人はたまたま,2011年3月11日の東日本大震災に遭遇する政治家になっていた。靖国神社に参拝せず伊勢神宮に参拝したところで,「3・11」の自然災害が防げたわけでも,この大震災と原発大事故に遭ったとき,一国の最高指導者として適切・果敢な対応ができるように「神の加護」が期待できたわけでもなかった。

 人や組織,制度をいかに鍛え・整え・備えるかの問題である国家政策的な課題が,神頼みによってうまくさばけるかという可能性は,それこそ運任せにするほかない事象に属している。

 その意味でいえば,日本社会全体が神頼みの対象(信心の?)にしているかのようにも映る《天皇天皇制》の問題が,明治以来における民主主義の真ん中に居座りつづける日本の政治体制に対して,いまだに,まともな “ジャパニーズ・モダナイゼ-ション” を達成させえないでいる。

 一国の首相が,戦争神社である,それも敗戦神社になっていた〈勝利神社〉に,とくに8月15日「敗戦の日」に,「国のために尊い命を捧げた英霊」に向かい頭を垂れるために靖国神社に参拝するという構図は,1945年まで,戦争に送りだして英霊にさせてきた大日本帝国兵士たちをこの国がどのように処遇してきたかを思えば,とうてい喜劇などにはなりえず,ただただどうしようもなく完全な悲劇でしかありえない。

 戦争に駆り出されて死んだら〈英霊〉になれるといっても,当初において戦争に動員するさいは「1銭5厘」の価値しか認められない兵士たちであった。武器である1丁の小銃(菊の紋章付き)や軍馬・軍犬1匹に比べても,人間である兵隊さんたちが「鴻毛」の軽さしか与えられなかった。ところが,生きて故郷に帰れなかった兵士に限っては,靖国神社側によって実に都合よく,その怨霊「性」だけが勝手に回収され,しかも〈英霊〉だと祀りあげられていた。

 なんといっても,「死んで花実が咲くものか」だとか「命あっての物種」というではないか。ところが,戦地に送りこまれた日本の将兵たちは「生きて還れる」ことを意欲してはいけないとされた軍隊のなかで「暮らしてきた」すえ,結局は240万人もの帝国日本軍の将兵が死んでいった。その死のうち6割は餓死したという研究報告もあった。

 だから,戦争中は大元帥の立場にあって,敗戦後に生き延びることのできたあの天皇陛下に関して,なにも戦争の責任がなかったなどといいうるわけがない。そう思われるのは当然であった。だが,彼は敗戦後において,なにも責任を問われずに済んだ。そうであったからには,「彼の帝国臣民で赤子たち」であった「汝ら人民:国民」も,彼を大いに見習って,終戦後を無責任で生きてこられたのである。

 しかも,生き延びられた日本の兵士(兵卒)であってもなくても,兵営や戦地での彼らはとにかく,なにかにつけては「さんざん殴られに殴られていた」。池部 良『オレとボク-戦地にて-』(小山書店,1958年。中央公論社,1995年)は,とにかくよく殴る日本軍の体験をつぎのように描いている。

 「貴様,そんなまごまごしたかっこうで戦場に出られると思うか」。36まで数えていたが,後はしらない。ハンマーみたいな手で景気よくなぐられた。

 

 このくらいのゲンコツでへこたれるか,と妙なところで軍人精神を発揮したが,遂に,ハンマーの圧力に耐えかねて,37手目にダウンしてしまった。腰が抜けるとはこのことかいなと,高い高い天にものぼる心地がして地面に座りこんだ(池部『オレとボク-戦地にて-』中央公論社,1995年,82頁)。

 戦地で「尊い命」を落としたらきっと,靖国神社に魂だけは送られ,英霊として祀られる兵士に対してあってでも,このように無茶苦茶な暴力を満遍なくくわえられる行為は,旧大日本帝国軍においては日常茶飯事であった。また思えば,兵士の家族たちが自分の息子や自分の夫が英霊になる運命をたどるよりは,生きて還ってくることを切望していたのも,当然といえば「当然以上に当然の期待」であった。

 旧日本軍の将兵たちは,戦場にまで携帯する「日章旗」に寄せ書きをもらうとき,「武運長久」という4文字を書いてもらう者が多かった。

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  出所)http://d.hatena.ne.jp/daikokuya2/20120815/1345047782

  補注)これは,昭和19年9月1日,三島の野戦重砲十部隊に現役で入隊した人が寄せ書きをしてもらった「武運長久」の文字入り日章旗。「武運長久」の意味は「けっして戦争・戦場で死ぬな!」「醜の御楯」(しこのみたて)にはなるまい,という願望がこめられていたのである。

 武運長久!!! 池部 良は聡和18年8月に中国戦線において,陸軍大尉の参謀「若杉」として当時,南京の支那派遣軍総司令部に勤務していた三笠宮崇仁(冒頭に登場した寛仁のオヤジ)に邂逅していた(池部,前掲書,84頁)。この三笠宮については,「若杉参謀が三笠宮であることをしらない者も多かった」といわれているが,池部はしっていたことになる。もっとも,戦後になって池部がえた情報である可能性もある。

 補注)俳優の池部 良は2010年10月11日,92歳で死去した。池部は昭和16〔1941〕年,立教大学文学部を卒業し,東宝シナリオライター研究所研究生になったが,すぐに俳優へ転向,同年7月に「闘魚」で映画に出演した。そのあと現役入営し,中国やニューギニアを転戦したのち,陸軍中尉で復員する。敗戦後,その軍隊生活のブランクを経て,昭和24年池部 良〔1949〕年『青い山脈』,昭和25〔1950〕年『暁の脱走』で主役を務め,スターとしての地位を確立した。

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  出所)写真は池部 良,http://www.webdice.jp/diary/detail/4827/

 昭和27〔1952〕年の『現代人』,昭和31〔1951〕年の『早春』,昭和32〔1957〕年の『雪国』などで演技派としても認められ,東映のやくざ路線へと幅を広げた。昭和40〔1965〕年昭和47〔1972〕年にかけて9本続いた『昭和残侠伝』シリーズでは,高倉 健の演じる主人公の兄弟分・風間重吉役が当たり役になった。

 日本映画俳優協会理事長を務めたほか,エッセイストの才能も示し,『そよ風ときにはつむじ風』が1991年の日本文芸大賞受賞。他に『池部 良の男の手料理』『心残りは…』など。月刊誌『正論』」で「つきましては,女を」を連載した。父は洋画家の池部 釣(ひとし)氏。

【参考記述】 三笠宮については,本(旧)ブログ,2014年11月26日「三笠宮崇仁紀元節批判(1957年)」が記述していた。これは,本ブログ内にもさらに転載してあるので,つぎに住所(記述)である点を指示しておく。関連する記述がいくつかあるが,この記述のなかにくわえて註記されている。

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