伊藤博文「韓国植民地外交」を論じた伊藤之雄の日本帝国主義「観」,官許学的見地の視野狭窄,旧帝大系学問の国家学的な特性

     伊藤博文歴史的評価-官製学問の限界と制約-

                  (2014年11月13日)

 

   要点:1 伊藤博文は韓国のためを思って日本の政治・外交をおこなった人物か?

   要点:2 中塚 明「韓国併合」100年を問う「講演」2010年8月7日の意味


  伊藤博文に関する「研究動向」-伊藤之雄の官許的学問-

 本ブログは昨日〔2010年8月7日〕の記述末尾で,8月7日と8日の2日間,東京大学弥生講堂一条ホール(農学部構内)で開催された『国際シンポジウム 「韓国併合」100年を問う』(主催:国立歴史民俗博物館,共催:「韓国併合」100年を問う会,後援:岩波書店朝日新聞社)を紹介した。

 補注)その2010年8月7日の本ブログ(旧々のそれにおいてだが)の記述は,近日中に再公開する予定。

 そのシンポジウムの「開催主旨」は,国立歴史民俗博物館が2010年3月に第6展示室(現代)をオープンし,そのなかの重要なテーマの一つが韓国併合と植民地の問題であることに触れて,こう述べている。

 「日本国内において近代以降の日本の歴史に関する社会的合意がなされていない」。なかでも「韓国併合が合法的なものであった否かを含めた,併合過程そのものについての歴史的評価」,あるいは「その前提にある日本と韓国の『近代』のありかたについての考え方をめぐって研究者の間で」「新たな議論が喚起されることを期待し」ている。

 

 「開館以来,長年の懸案であった第6展示室(現代)を開室したが,事実に基づいた真摯な学術的議論を組織することで,歴史認識を異にする人々の間での交流をより豊かなものにしたい」。

 この『国際シンポジウム 「韓国併合」100年を問う』の第1日め,その最初の講演者は,中塚 明であった。中塚は1929年生まれの日本史学者であり,京都大学文学部史学科卒業後,奈良女子大助教授・教授を務めてきた。専攻は近代史,日本と朝鮮との関係史,著作は以下のものがある。

  『日清戦争の研究』青木書店,1968年。
  『近代日本の朝鮮認識』研文出版,1993年。
  『現代日本歴史認識』高文研,2007年。

 中塚は最近作としてさらに,以下を公刊している。

  『現代日本歴史認識-その自覚せざる欠落を問う-』高文研,2007年5月。
  『司馬遼太郎歴史観-その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う-』高文研,2009年5月。
   安川寿之輔・醍醐 聰共著『NHKドラマ「坂の上の雲」の歴史認識を問う-日清戦争の虚構と真実-』高文研,2010年6月。

 中塚の『司馬遼太郎歴史観-その「朝鮮観」と「明治栄光論」を問う-』(高文研,2009年8月)は,司馬遼太郎の著作について,こう批判している。

 『坂の上の雲』の総発行部数は累計2千万部を超え,原作者の司馬は「国民的作家」と呼ばれた。その没後も多くの著作物,関連図書が刊行され,日本人の歴史観に大きな影響を及ぼしている。『坂の上の雲』のなかで,司馬は繰り返し,「明治の指導者・国民は良かった。戦前の昭和は本来の日本ではなかった」と主張してやまない。

 

 司馬だけではなく,大佛次郎大岡昇平といった作家たちも,「明治の先人たちの仕事を三代目が台無しにした」という認識を残している。その「明治栄光論」は多くの日本人の共有している歴史感覚でもある。しかし,中塚さんは明治という時代は,「明るく希望があった青春ニッポン」だっただろうか,と根本的な疑問を投げかけている。

 

 とりわけ本書では,明治日本が,朝鮮半島を踏み台にして帝国主義国への階段をかけあがっていった過程を,具体的な事例(日本軍による朝鮮王宮占領事件,朝鮮農民軍の虐殺,朝鮮王妃殺害事件)をカギとして解き明かし,明治日本が純粋無垢な「少年の国」(司馬の言葉)ではなかったことを証明している。

 注記)http://www1.korea-np.co.jp/sinboj/j-2009/06/0906j0928-00001.htm

 国際シンポジウムで,中塚 明が主にとりあげた明治政治史上の人物は,伊藤博文である。中塚は最近になって,政治学者のなかからこの伊藤博文を〈司馬遼太郎風の歴史観〉に近づけて描こうとする傾向〔偏向〕がある事実を問題にする。その代表的な人物は,京都大学政治学伊藤之雄である。
 

  伊藤之雄伊藤博文論」の問題性

 伊藤之雄は,李 盛煥との共著『伊藤博文と韓国統治-初代韓国統監をめぐる百年目の検証-』(ミネルヴァ書房,2009年6月)に続いて,『伊藤博文-近代日本を創った男-』(講談社,2009年11月)を公表していた。この伊藤之雄による〈伊藤博文研究の路線〉に追随するかのような著作,龍井一博『伊藤博文』(中央公論新社,2010年4月)も,つづいて執筆・公表されていた。

 国際シンポジウムで中塚が伊藤之雄を批判した論旨を,当日〔2010年8月7日〕に配布されたレジメに沿って,本ブログ筆者なりに消化しつつ以下に紹介する。

 1) 日本の朝鮮侵略から日本敗戦まで

 1875〔明治8〕年,日本艦船によって起こされた江華島事件を出発点に,その35年後の1920〔大正9〕年,日本による「韓国併合」が強行された。そしてそのまた35年後の1945〔昭和20〕年,日本は第2次大戦大東亜戦争に敗戦する。その間,ちょうど70年が経過することになった(2020年のいまなら75年が経過した)。

 韓国併合は,日本の軍事力を背景とする強圧的な政治交渉をもって結果したが,その過程において伊藤博文ら日本の高官が果たした役割に関する「学問的な評価方法」が,当面の論題である。このごろは,司馬遼太郎「仕込み」の明治政治・外交史観がはやっており,この観方に即したかのような,当時の日朝〔韓日〕関係を塗り替えようとする〈学術書のよそおい〉をした著作まで登場している。それが,京都大学政治学伊藤之雄の『伊藤博文-近代日本を創った男-』2009年11月であり,龍井一博の『伊藤博文』2010年である。

 伊藤之雄や龍井一博は,「伊藤博文言説」を歴史学的な観点で分析してはいるけれども,「歴史の事実」に対する解釈として,とうてい耐性のない偏向した見解を披露している。中塚は,金 文子『朝鮮王妃殺害と日本人』(高文研,2009年2月)の研究成果,国立公文書館アジア歴史資料センターhttp://www.jacar.go.jp/)に所蔵されている史料の発掘・解明に依拠して反論をくわえ,伊藤之雄や龍井の歴史解釈が大きく偏倚し,関連する史料の探索・利用に決定的な手抜かり・渉猟不足があるとも指摘している。

 中塚は,日本帝国主義史のひとつの結末が〈日本敗戦〉であり,ここまでの歴史過程で活躍してきた伊藤博文のような大政治家のとりあつかいにおいては,よほど慎重な考察が必要であることを,あらためて要請している。たとえば龍井は,伊藤之雄の影響も受けて「『思想家』としての伊藤〔博文〕」に注目する問題意識を強調している(龍井『伊藤博文』351頁)。

 しかし,政治家を研究するさい〈思想史の観点〉からも吟味することは,ある意味でしごく当然の理論手順におけるひとつの要因・過程であるけれども,その観点でもってただちに,包括的分析・統合的解明が完遂できるのではない。

 だから,21世紀のいまごろ,伊藤博文の外交業績=「韓国併合を直接に先頭で指揮した事実」〔大韓帝国の閣僚たちに対して「同意しなければ殺してやる」と口にしたこともある〕に関連させては,思想家としての側面から観た伊藤博文「論」を重層化させたかたちを採って,すなわち,従来の伊藤博文「論」を再検討する手順を踏んだつもりの発言をしている。

 すなわち,朝鮮を植民地にしていった日帝という国家意思の枠組にあっては,当時におけるほかの日本の政治家とはひと味違っていたのが「伊藤博文の場合」であり,相互間に〈明確な一線〉を引くことができる,したがって「顕著な違い」をもちあわせていた政治家であったと。

 だがこの見地は,中塚にいわせれば「司馬遼太郎風」の「フィクション的な造作」であり,学問的には批判を受けるべき「明治史観」の立場でしかないと批判されている。

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  出所)写真は,週刊司馬遼太郎週刊朝日MOOK) 単行本– 2012/11/16

 2) 伊藤之雄伊藤博文』2009年の「狭隘な短見的歴史観

 伊藤之雄伊藤博文』は,伊藤博文が「直前まで韓国併合に反対だったという」点を,「伊藤〔博文〕の擁護をとおして,漸進的な民主化の道を進んだ明治国家を擁護しようとするものである」(『朝日新聞』2010年1月10日朝刊「読書」欄,評者は学習院大学井上寿一)。

 伊藤之雄伊藤博文』から引用する。--だから,「おそらく伊藤は,近代化された韓国や清国に対し,日本が主導する形で,連合していくのを理想としているのであろう。しかし,それは西欧諸国との貿易等を排除しない,ゆるやかな地域連合である」。

 「また,韓国が日本の提案に抵抗し,近代化する道を選ばないなら,滅亡するしかないと,伊藤〔博文〕は言外に述べている。このことから,帝国主義の厳しい時代を考慮し,近代化が進展しない場合は,併合もありうると考えていた」(伊藤之雄伊藤博文』489頁)というふうに,伊藤之雄は,伊藤博文に関する〈擁護〉論を相対的に強調する論説を誘出していた。

 伊藤之雄が駆使する修辞は「おそらく」「理想」〔である〕というものであって,どこまでも推定の話としてなされている。それでいながらも結局は,当時の大韓帝国が日本帝国の要求〔=いうこと〕を聞かないならば「滅亡するしかない」,したがって「日本の植民地になった」のも「歴史的に当然のなりゆきであった」といってのけている。

 つまるところ,政治学者=歴史の研究者の見解としてはきわめて粗雑であって,日本・日本国・日本人側の主観面にとってのみ好ましい方角で〈歴史の過程〉を現象的に観察し,そのまま鵜呑みにした〈一方的な歴史観〉,いいかえれば旧日帝史観をすなおに提示している。

 それはいいかえれば,司馬遼太郎風の明治史観にすり寄り,すっかり乗っかってしまったかのような,すなわち「非学問的な歴史観」である。いまさらのように「〈学術書〉の体裁」をまとった著作伊藤之雄の『伊藤博文』が,大衆歴史小説まがいの見地を鮮明にしたのである。同書は,まともな歴史研究を志したい学究にとっては,非常に堪えがたい,頽廃的な研究書である。その論旨は,歴史の事実に先走る〈推論〉ばかりが目立っている。

 

  旧帝大系列における国家主義的学問の〈伝統の重み〉か -帝大系歴史学者の特性-

 1) 戦後の京大歴史学者

 なかんずく,中塚の「講演」で強調されたのは,伊藤之雄伊藤博文を研究するさい “国立公文書館アジア歴史資料センター” に所蔵されている史料を,探索も活用もせずに自説をまとめ,立論したという問題性であった。同じ京都大学で歴史〔学〕を習ってきた学者同士でも,学外に出ていき学究となった中塚と,学内に残って学究となった伊藤之雄のあいだには,測りしれないほど大きな溝が存在していた。

 伊藤之雄はさきに『明治天皇-むら雲を吹く秋風にはれそめて-』(ミネルヴァ書房,2006年9月)を公刊している。本書は,明治天皇の在位様式に対して〈突出した影響関係〉を有した伊藤博文に論及がある。

 「まさしく伊藤〔博文〕が求めた明君の姿」(伊藤之雄明治天皇』270頁)が実際に顕現していたとすれば,これに整合的な伊藤博文「像」を仕上げて「明治史の全体像」に合致させるために,伊藤之雄の次作『伊藤博文』2009年11月が上梓されていたともいえる。 

 伊藤之雄は要するに,日本帝国主義史観に都合よく嵌めこまれうる「〈明治天皇〉と〈伊藤博文〉との相互整合的な位置関係」を,新たに意図的に点描しようとしてきた国家御用達的な歴史学者である。

 伊藤『明治天皇』は,歴史研究にあっては「誤った『史実』を除外すること」(同書,43頁)が大事であると強調していた。けれども,彼自身の著作における主唱が当初から「誤った結論」を志向していた。そのかぎりでは,これが到達するほかない的外れの異境学域に片足をとられたまま,これを抜くことができていなかった。そこには決定的な難点が残されていた。官製:御用学者的な学問展開,その明治史研究が残した無様な研究成果だけが表面に浮上する始末とあいなった。

 2) 戦前の京大歴史学者

 京都帝国大学教授の朝鮮史家として今西 龍(いまにし・りゅう:1875-1932年;東京帝国大学卒,京城帝国大学京都帝国大学兼任教授)がいた。今西は『新羅史研究』(近沢書店,昭和8年),『百済史研究』(近沢書店,昭和9年),『朝鮮史の栞』(近沢書店,昭和10年),『朝鮮古史の研究』(近沢書店,昭和12年)などの著書を公表していた。

 この今西が披露していた「対朝鮮」観の一端を紹介しておく。こういうふうに「歴史の事実経過」を平然と語ることができていたとすれば,まさしく「盗人猛々しい」の好例である。戦前における日本帝国主義は,朝鮮半島においてこのような行為を,国家的規模でかつ民間人の手でも堂々と敢行していた。

  ☆ 盗掘を助長した日本の学術調査 ☆

 日本人盗掘者は,韓国での経済的基盤が固まるまで,統監府とそれにつづく総督府の手厚い保護を受けたのである。しかし,盗掘者は,民族的義憤にかられた住民からたびたび手痛い目に遭っている。たとえば,1916年に江華島の高麗古墳を踏査した今西 龍は,つぎのように記録している。

 「この陵は大正5年より8年前,約20人の日本人来りて盗掘し,多数の遺物を獲得したが帰途,その当時横行せし暴徒(住民をこのように表現した)に襲われ,銃を捨て,一行ことごとく殺致されたという」(「高麗諸陵墓調査報告書」『朝鮮古蹟調査報告書』朝鮮総督府編,1916年)
 注記)http://soutokufu.s145.xrea.com/index.php?・・・ より。

 要するに,京都帝国大学関係の歴史学研究者による「朝鮮史研究の立場」は,東アジア侵略史を正当視した価値観を,当然の背景に踏まえるべき〈学問の展開〉としてもちつづけてきたのか? 

 さらに 21世紀のいまになってもなお,京大「東洋史研究者」の立場に固有であった制約・限界として,もしもその価値観が現出しているとすれば,そして,その片鱗が伊藤之雄の立場に影を落としているとすれば,これはみのがすわけにはいかない,歴史学的な見地に関する〈ゆゆしき基礎的な問題性〉である。

 すなわちそれは,伊藤之雄の展示する〈学問の真価〉を根底より揺さぶるほかない〈不可避の論点〉を意味する。

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