21世紀にまかる通る日本国「世襲政治体制」の下劣・汚穢性と民主政治の破壊問題

安倍晋三風に3流の日本政治は「忖度させる権力の発動」体であり,ナチスヒトラーに寄せて「話題にはできる」ものの,要は世襲政治の弊害そのものである

                  (2018年5月19日)

  要点:1 日本の政治を「戦後レジームからの脱却」的に,深刻な程度にまで崩壊・溶融させえた安倍晋三政治のくだらなさ:極悪さ

  要点:2 安倍晋三が背負う「甲羅の大きさ(小ささ)」に合わせるだけになってしまった「日本の政治」の現実,その惨憺たる窮状,その腐朽・淪落ぶりたるや最悪である


 「〈政治季評〉忖度を生むリーダー 辞めぬ限り混乱は続く」,豊永郁子稿『朝日新聞』2018年5月19日朝刊13面「オピニオン」

※ 人物紹介 ※ 「豊永郁子(とよなが・いくこ)」の専門は政治学早稲田大学教授。著書に『新版 サッチャリズムの世紀』『新保守主義の作用』」。

 

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  出所)https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/08/69/71588760c6e7032540d87605a6c7fda1.jpg

 a) アイヒマンというナチスの官僚をご存じだろうか。ユダヤ人を絶滅収容所に大量輸送する任に当たり,戦後十数年の南米などでの潜伏生活ののち,エルサレムで裁判にかけられ,死刑となった。この裁判を傍聴した哲学者のハンナ・アーレントは「エルサレムアイヒマン-悪の陳腐さについての報告」を執筆し,大量殺戮(さつりく)がいかに起こったかを分析した。

 補注)1933年のことであったが,この年の3月,アドルフ・ヒトラーが率いるナチス・ドイツのための,実質的には独裁になる政権・内閣が成立していた。

 最近における日本の話題となるが,森友学園問題に関して2018年3月27日,国会に呼ばれた前国税庁長官財務省理財局長佐川宣寿氏の証人喚問をみていて,そのアイヒマンを想起させられた。

 当時,佐川氏ら官僚たちの行動の説明として「忖度(そんたく)」という耳慣れない言葉が脚光を浴び,一気に有名になっていた。それは,他人の内心を推し量ること,その意図を酌んで行動することを意味する。具体的には「安倍1〔凶・狂〕」政権の主である晋三君のために急浮上したのが,そのソンタクという言葉であった。 

〔記事に戻る→〕 私はふと,アーレントがこの日本語をしっていたら,アイヒマンの行動を説明する苦労を少しは省けたのではないかと考えた。国会で首相の指示の有無を問いつめられる佐川氏の姿が,法廷でヒトラーの命令の有無を問われるアイヒマンに重なったのである。

 補注1)ハンナ・アーレント(Hannah Arendt〔以下ではアレントとも表記〕,1906年10月14日-1975年12月4日)は,ユダヤ人であった。ドイツでナチズムが台頭したのちは,アメリカ合衆国に亡命した。のちに教壇に立ち,主に政治哲学の分野で活躍した。とくに全体主義を生みだす大衆社会の分析で名をはせた。

 補注2)こういう有名な話もあった。ついでに紹介しておくべきところである。近現代のドイツを代表する哲学者の1人が,マルティン・ハイデガーMartin Heidegger,1889年9月26日-1976年5月26日)である。ハイデガーが大学教授になっていた30代のときの話題である。

ウィキペディアからアーレントハイデガーの画像を紹介しておく。それぞれの年齢はここでは不詳。

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 ハイデガーがその女学生を虜にしたいと切に感じたとき,その女学生は18歳だった。写真をみてもらえばわかるように絶世の美少女だった。ハンナ・アレントである。かくしてハイデガー1924年フライブルク大学からすでにマールブルク大学に移っていて,そこの哲学教授になったばかり,35歳である。その教室にアレントが来た。

 アレントはただちにハイデガーが「思考の王国を統べる隠れた王」であると見抜いた。またそこには,「中世騎士道物語から抜け出したような意志」があるとみえた。

 が,これだけでは,なにも起こらない。ハイデガーも突拍子もなく,ときめいた。ハイデガーは自制心の強い男ではあったけれど,アレントの魅力が飛び抜けすぎていた。ハイデガーアレントを,アレントハイデガーを求めあった。むろん不倫だった。

 アレントはこのときのことを,のちに「ただ1人の人への一途な献身」を募らせたと回顧している。不倫というのは,すでにハイデガーエルフリーデという,これもたいへん美しい女性と結婚していたからだ。

 それでも,ハイデガーアレントにぞっこんになった。その数年後,『存在と時間』の前半部が刊行された。時期からいえば,アレントを貪りながら草稿を書いていたといったほうがいい。

 註記)「マルティン・ハイデガー 存在と時間 中央公論新社 2003」『松岡正剛の千夜千冊』思構篇 0916夜,2004年01月15日,https://1000ya.isis.ne.jp/0916.html

 アンナはナチス・ドイツを去ったが,ハイデガーナチスのための献身する哲学者になっていた。途中で紆余曲折はあったにせよ,第2次大戦に命を落とすこともなく,戦後まで生き延びていった。享年85歳(満),長寿であった。ハイデガーの戦争責任問題が「学者・学問・哲学に関する重大な論点」を提供したことはいうまでもない。ハイデガーに関する研究書は,日本では非常に多くある。

 ドイツ・ナチスにおいて「ヒトラーを頂点とした虐殺者たち」にはさらに比較するほどにもない,それはたいそう矮小な「21世紀の日本における自民党〔プラス公明党〕の現政権下における超小物政治家たち」が,現に存在している。

 しかも,その超小物政治家の代表が安倍晋三である。この「世襲3代目の政治家」に国家権力を牛耳られているごとき実相が,いまごろの日本の政治には現われている。小選挙区制度(小選挙区比例代表並立制)には重大な欠陥があるとはいえ,あまりにも安倍流・風にどうしようもないほどに「幼稚で傲慢」の次元に沈淪させられたまま,その「暗愚と無知」および「欺瞞と粗暴」さだけが最大限に発揮してきた。その結果,現状の日本は,とても先進国とは呼べない国家体制にまで堕落・腐朽させられた。

 --いま前後に紹介・引用している「豊永郁子の寄稿」は,そうした「21世紀における日本の政治」が,ほとんど〈政治的に成熟する機会〉とは無縁であったかのような “現在のアベ的に貧相な様子” を問題にしている。

 安倍晋三政治の噴飯モノ的でしかない腐敗・堕落の状況が,ナチス・ドイツと比較対照されうるとしたら,それは「不名誉という評価基準」の尺度で共通に計ればいい問題であった。双方がともに「最高度に悪でしかありえない」問題でもあった。しかし,そこまでも悪しざまに形容したうえで,現状における日本の政治を批評をしなければ,この安倍晋三による日本国運営から乱発されつつある罪悪性は,まともに客体化・対象化できない。

〔ここで豊永郁子の寄稿・記事に戻る→〕 森友学園問題--国有地が森友学園に破格の安値で払い下げられた件,さらに財務省がこの払い下げに関する公文書を改ざんした件--については,官僚たちが首相の意向を忖度して行動したという見方が有力になっている。国会で最大の争点となった首相ないし首相夫人からの財務省への指示があったかどうかは,不明のままだ。

 b) アイヒマン裁判でも,アイヒマンヒトラーからの命令があったかどうかが大きな争点となった。アイヒマンヒトラーの意志を法とみなし,これを粛々と,ときに喜々として遂行していたことはたしかだ。しかし大量虐殺について,ヒトラーの直接または間接の命令を受けていたのか,それが抗(あらが)えない命令だったのかなどは,どうもはっきりしない。

 ナチスの高官や指揮官たちは,ニュルンベルク裁判でそうであったが,大量虐殺に関するヒトラーの命令の有無についてはそろって言葉を濁す。絶滅収容所での空前絶後の蛮行も,各地に展開した殺戮部隊による虐殺も,彼らのヒトラーの意志に対する忖度が起こしたということなのだろうか。命令ではなく忖度が残虐行為の起源だったのだろうか。

 さて,他人の考えを推察してこれを実行する「忖度」による行為は,一見,忠誠心などを背景にした無私の行為とみえる。しかしそうでないことは,ヒトラーへの絶対的忠誠の行動に,さまざまな個人的な思惑や欲望を潜ませたナチスの人びとの例をみればよくわかる。

 c) 冒頭で紹介したアーレントの著書は,副題が示唆するように,ユダヤ人虐殺が,関与した諸個人のいかにくだらない,ありふれた動機を推進力に展開したかを描き出す。出世欲・金銭欲・競争心・嫉妬・見栄・ちょっとした意地の悪さ・復讐心・各種の(ときに変質的な)欲望。「ヒトラーの意志」は,そうした人間的な諸動機の隠れ蓑となった。私欲のない謹厳な官吏を自任したアイヒマンも,昇進への強い執着をもち,役得を大いに楽しんだという。

 つまり,他人の意志を推察してこれを遂行する,そこに働くのは他人の意志だけではないということだ。忖度による行動には,忖度する側の利己的な思惑--小さな悪--がこっそり忍びこむ。

 ナチスの関係者たちは残虐行為への関与について「ヒトラーの意志」を理由にするが,それは彼らの動機のすべてではなかった。さまざまな小さなありふれた悪が「ヒトラーの意志」を隠れ蓑に働き,そうした小さな悪が積み上がり,巨大な悪のシステムが現実化した。それは忖度する側にも忖度される側にも全容のみえないシステムだったろう。

 d) このように森友学園問題に関して,ナチスに言及するのは大げさに聞こえるかもしれない。しかし,証人喚問をみていると,官僚たちの違法行為も辞さぬ「忖度」は,国家のためという建前をちらつかせながらも,個人的な昇進や経済的利得(将来の所得など)の計算に強く動機づけられているように感じられ,彼らはこの動機によってどんなリーダーのどんな意向をも忖度し,率先して行動するのだろうかと心配になった。

 また,今回の問題で,もしいわれているように,ひとりの人間が国家に違法行為を強いられたために自殺したとすれば,そこに顔を覗(のぞ)かせているのは,犯罪国家に個人が従わされる全体主義の悪そのものではないか,この事態の禍々(まがまが)しさを官僚たちはわかっているのだろうか,と思った。

 e) 以上からは,つぎの結論も導かれる。安倍首相は辞める必要がある。一連の問題における「関与」がなくともだ。忖度されるリーダーはそれだけで辞任に値するからだ。

 すなわち,あるリーダーの周辺に忖度が起こるとき,彼はもはや国家と社会,個人にとって危険な存在である。そうしたリーダーは一見強力にみえるが,忖度がもたらす混乱を収拾できない。さらにリーダーの意向を忖度する行動が,忖度する個人の小さな,しかし油断のならない悪を国家と社会に蔓延(はびこ)らせる。

 補注)この段落で警告されていた「ソンタク問題」の至悪性は,2020年に猖獗し始めた新型コロナウイルス感染拡大「問題」を機に,いよいよ肥大化しつつより前面に競り出てきた。それは,最後っ屁などと形容して済まされるのではない「デタラメ為政」を,日本国首相の安倍晋三はいま,意図的にぶちまけている。

 すでに安倍氏の意向を忖度することは,安倍政権の統治のもとでの基本ルールとなった観がある。したがって,忖度はやまず,不祥事も続くであろう。安倍氏が辞めないかぎりは。

 補注)この最後の段落は要するに,安倍晋三(&昭恵)による「政治の私物化」現象を指している。「アベの,アベによる,アベのための日本政治」であるから,国民1人ひとりの立場・利害など,以前から完全に無視されてきた。それでも,この首相を国民・有権者たちが支持しているかといえば,けっしてそうではなく,自民党は支持しても「アベは,どうもね」という人びとが過半である。

 最近では子どもたちのあいだで「安倍ちゃんごっこ」なる遊戯が流行っているとか。『週刊朝日』2018年5月25日号(15日発売)によれば,「全国小学校の子どもたちの間では『安倍ちゃんごっこ』(嘘つき・いいわけ・責任の逃れ・責任押し付け・証拠隠しゲーム)が大流行の勢いだという。安倍晋三の政治は末期的な時期をすでに通過している。

 註記)http://www.asyura2.com/18/senkyo244/msg/651.html 参照。

 

  ヘルムート・オルトナー(須藤正美訳)『ヒトラーの裁判官』2017年(原著 2014年)

 ① の記述を受けて,この本(原題は “Der Hinrichter : Roland Freisler, Mörder im Dienste Hitlers)に言及する。くわしい説明・解説よりも『朝日新聞』2017年5月21日朝刊に掲載された書評を,さきに引用しておく。

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 1)「〈書評〉ヘルムート・オルトナー『ヒトラーの裁判官フライスラー』

  ※ 政権に忠実な官吏の無責任体質 ※

 ナチス・ドイツの独裁下で国家反逆行為などを裁く人民法廷の長官を務めたローラント・フライスラー。ナチスに抵抗した学生グループ「白バラ」やヒトラー暗殺未遂事件の被告らに死刑判決を下した裁判官だ。

 ドイツ人ジャーナリストの著者は,フライスラーの評伝として,ナチスの恐怖政治と完全に一体化した法律家の狂信的な行動を描くだけにとどまらない。多くの裁判官が,人道的な刑法を廃絶して国家の権利を第一とするナチスの法支配に「嬉々(きき)として」従った経緯を克明にたどり,敗戦後になんの反省もない彼らの態度を徹底的に批判する。

 1934年創設の人民法廷による死刑判決は5243件。本書では,第2次大戦中の1943,1944年にフライスラーがかかわった判決文10件を代表例として紹介している。一般市民が職場の同僚らになにげなくもらした体制への不平不満が「死に値する大罪」とみなされた。判決文は不条理劇の脚本のようだが,悪夢のような世界は現実にあった出来事だ。

 しかし,著者は,これがフライスラーの「悪魔的性格」によるものではなく,「ナチスの法解釈をとりわけ几帳面(きちょうめん)に実践したひとりの執行人に過ぎなかった」ことを指摘する。フライスラーは1945年2月のベルリン空襲で死亡したが,人民法廷にかかわった他の法律家たちは戦後どうなったか。多くの者がナチス政権下の法に従っただけとして処罰を免れ,復職まで許された。

 法律家たちはナチスに協力した自分を時代の犠牲者とみなし,後悔の念もないという。どの国,どの時代にも現われそうな無責任体質の人びとで,ナチス時代が現代と地続きなのではないかと思わせる。

 「いまさらナチスの過去について書く意味があるのか?」。著者が執筆中になんど度も尋ねられたという言葉だが,自己正当化のあまり「歴史健忘症」に陥りがちなわが国の傾向にあらがうため,本書を読む意味があることは間違いない。(引用終わり)

 補注)通常,「健忘症」とは過去の記憶に関する症状を意味するけれども,安倍晋三という首相にあっては「現在・いま口から出たばかりのことば」すら,即時に健忘する(できる?)政治家である。国会におけるやりとりを観てきた多くの識者いわく,この首相は論理的にものごとを理解できる能力に欠落がある。「こんな人」が日本の最高指導者である。2012年12月26日から,いまも……。

 2)前野 茂

 「戦時⇒ 敗戦⇒ 戦後」の政治過程を回顧すると,ドイツ・ナチス時代のフライスラーと同じような役目を,大なり小なり果たしてきた日本の裁判官たちも実在していた。要はいくらでもみつかる。かつて,日本の支配地:属国であった「満洲国」に派遣され,裁判官になっていた日本人官僚たちの役割は,ちょうどナチス時代における裁判官の役割に相当していた。その代表者の1人に前野 茂という者がいた。

 前野 茂は『ソ連獄窓十一年〈1・2・3・4〉』(講談社学術文庫,1979年8月~10月を公刊し,ソ連に抑留された一昔ほどの物語を,個人的な回想・実録として披露していた。

 ところで,旧「満洲国」では匪賊の疑いを受けた者(もっぱら中国人たち)は,「臨陣格殺」の権限を与えられていた官憲(もっぱら日本人)たちが,その現場の判断によってはただちに撃ち殺して(処刑して)もいいとされていて,実際にもそのように実行されていた。

 旧「満洲国」で高官の地位に就いていて,敗戦後はクリスチャンとして活躍していった武藤富男の著作『私と満州国』(文藝春秋,1988年)は,実際に満洲で観たというその「臨陣格殺」の場面を記述していた。その該当箇所を画像資料で読んでもらう。(画面 クリックでいくらか,拡大・可 ↓ )

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 「満洲国」時代において「反満抗日」などの抵抗・独立運動にかかわった中国人や朝鮮人が,以上のような方法でごく簡単に裁判などなしに殺されていた時代が,日本の属国において正々堂々と “遵法的に” 実行されていた。こうした「歴史の事実」の関係にみれば,満洲国では「裁判にかけられて死刑判決を受け,処刑された者」は,まだマシだったという観方もできなくはない。

 もっとも,日本国内での「日本人(政治犯・思想犯)に対する善導」の仕方は「転向を迫る」方法を採り,反体制(国体の変革・私有財産制度の否定)を志した人びとを,天皇の御名のもとに改心させることにしていた。しかし,こうした天皇慈恵・温情的な改悛の方法は,あくまで日本人・民族に対して適用されていたに過ぎない。いずれにせよ,ドイツのナチス全体主義も日本の戦時期国家全体主義も,基本においておこなっていた国家次元の犯罪行為は同じで(同類・同質)あった。

 前野 茂は『満洲国司法建設回想記』(日本教育研究センター,1985年)も公表していた。この本の「序」は,つぎのごとく自慢げに述べていた。

 「欧米列強の中で,どの国が自己の侵略植民地の上にこんな素晴らしい理想を掲げた国を創ろうとしたものがあっただろうか。しかも,建国に身を挺した日本人は,在満者と招聘者の別なく,真剣になって国是の追究,理想の実現に努力したのである」と(「序」のなかでは頁数の指示はなし)。

 しかし中国・中国人からいわせるに,たとえていえば「盗っ人猛々しい」というか,まさに「ナチス:フライスラーばりのいいぶん」を,前野 茂は恥ずかしげもなく,それも自信をもって吐いていた。中国・中国人側がこうした前野の発言を聞かされたら激怒する。

 3)アマゾンにおけるレビュー(書評;5件)から1件だけ紹介する

 この評者「泥まみれ」氏は,ヘルムート・オルトナー(須藤正美訳)『ヒトラーの裁判官』2017年に「星5つ」を与えていたが,その題名は「ナチス期独司法の姿を描き出す」と付して,つぎのように論評していた(2017年5月27日)。なお,仮名遣いは旧式である。読み安くするために,読点と改行を適宜に挿入した。

 過日,岩波書店から刊行せられた訳書『ヒトラーと物理学者たち』を読んで,ナチス期ドイツの諸問題に改めて意識を喚起せられた思ひが自覚せられてをつたところに,本書を手にする機会があつた。ナチスへの関心はどちらかといふと政治的経済的な方面が中心であつたやうで司法面からの接近には麿自身これまであまり接する機会がなかつた。

 

 麿にとつて本書は,かうした隙間を埋めてくれる書物だ。具体的に本書は,独ナチス期の人民法廷で長官を務めたローラント・フライスラーの評伝である。帯には総統に仕へた血の裁判官などといふおどろおどろしい文言が並んでゐるが,さういつても過言でない実態であつたかもしれない。フライスラーは,学生による反ナチス抵抗運動やヒトラー暗殺未遂事件といつた歴史に残るよく知られた反ナチス事件を裁き被告らに,極刑を下した裁判官である。

 

 かういふ立場の人間がゐたであらうといふことは予測できるにしても,フライスラーの名前はそれほど広くし知られてゐないやうだ(実際麿もさう詳しくは知らなかつた)。だが,フライスラーの名前そのものは知らなくても,白薔薇運動や希特勒暗殺未遂事件は知つてゐやうし,それらに関はつた者の末路も普通なら世界史の常識になつてゐやう。

 

 本書がまづ明らかにするのは,このフライスラーの半ば狂信的な言動と行動に他ならないが,本書が鋭く辿るのはそれだけではない。独裁政治下で独立性を完全に失ひ,政治の補強装置として機能する結果となつた司法の実情とナチスの法支配に自ら積極的に従属した多くの裁判官の姿である。

 

 彼らには戦後にも何ら反省がない。本書はさういふ裁判官の生き様を容赦なく抉出し批判する。だが本書が着目するのは,フライスラー長官の悪魔性ではない。彼がナチスの法支配を忠実に執行した,一人の法務家に過ぎなかつたといふ事実である。

 

 ノーベル賞学者マックス・プランクナチス期独科学界における生き様を想起するではないか。先に言及した『ヒトラーと物理学者たち』の麿のレビューでも言及したが,マックス・プランクの生き様は良心の発現であつた。法とルールを遵守することを重んじ秩序に従つただけである。

 

 だが結局,彼はヒトラー政権に関与し,その政略を科学研究の面で下支へする有力な担ひ手となるに至り,少なくとも結果においてはナチスの民族政策を間接的にであれ,助長する役割を持つた。

 

 フライスラーは大戦末期の1945年に被爆死したが,人民法廷に関与したミニ版フライスラーともいふべき他の多くの法務家は,戦後に免責せられ復職してゐる。ナチス期の法に従つただけであつたとせられたからだ。本書によれば,彼らには反省はおろか後悔すらないとのことである。

 

 かうした戦後の態度も,プランクハイゼンベルクと同じではないか(もちろん遥かに小物に過ぎないが)。かう読んでくると,科学界も司法界も同じ構造ではないかと思へる。といふより,ナチス期の独社会の意識が全体に同じ構造を持つてゐたのではないであらうか。科学者や法務家の生き様は,さういふ構造の個別的な発現であるに過ぎない。かういふ意識の構造にもつと接近したいものだ。かういふ構造は,独ナチス期に固有なものではないかもしれないのだ。

 註記)https://www.amazon.co.jp/product-reviews/4560095396/ref=acr_offerlistingpage_text?ie=UTF8&showViewpoints=1

 4)戦時期の鹿児島2区選挙無効事件-吉田 久という例外中の例外の判事-

 3)の前段で最後の文句,「かういふ構造は,独ナチス期に固有なものではないかもしれない」といわれた点は,少なくとも戦時日本にはそのとおりに敷衍されてよく,文句なしに妥当するものであった。断わっておくが,前野 茂の実例(悪例?)はその典型的な代表例であって,けっしてめずらしい事例ではなかった。

 さて,戦争中の大政翼賛会体制のなかでの選挙に対して起こされた訴訟「鹿児島2区選挙無効事件」に対しては,当時の日本の大審院(現在の最高裁判所に相当)が1945年3月1日に下した判例があった。それはつぎのような結果をもたらしていた。

 鹿児島県第2区で推薦候補者を当選させようとする不法な選挙運動が,全般かつ組織的におこなわれた事実を認定し,「自由で公正な選挙ではなく,規定違反の選挙は無効となる旨を定めた衆議院議員選挙法第八十二条に該当する」として選挙の無効とやり直しを命じるとともに,「翼賛選挙は憲法および選挙法の精神に照らし大いに疑問がある」と指摘して,国を厳しく批判する判決を下した。この判決を受けて,同年3月20日に鹿児島2区のやり直し選挙がおこ吉田久画像なわれた。

 この「翼賛選挙無効判決」を下したのは,大審院第三民事部の部長判事(裁判長)吉田 久(画像)であった。

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  出所)ウィキペディア 

 1942〔昭和17〕年4月30日に実施された第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)をめぐって提起されていた選挙無効訴訟(鹿児島2区選挙無効事件)は,1945〔昭和20〕年3月1日,大審院第三民事部の部長判事(裁判長)だった吉田が「鹿児島2区の選挙は無効」とする判決を下した。

 同事件の審理にさいして吉田は,4人の陪席裁判官とともに鹿児島へ出張し,187人もの証人を尋問した。この出張尋問は大審院内部でも「壮挙」と評された。

 なお,同判決の判決原本は東京大空襲の際に焼失したとされており,大審院民事判例集にも登載されておらず「幻の判決文」とされていたが,2006〔平成18〕年8月,最高裁判所の倉庫で61年ぶりに発見された。

 翼賛選挙無効判決宣告の4日後,吉田は司法大臣松阪広政に辞表を提出し,裁判官を辞職した。その後は大審院判事在職中より出講していた(当時は裁判官が大学や専門学校で教鞭をとることが認められていた)中央大学の講師を続けていたが,敗戦時まで「危険人物」として特高警察の監視下に置かれていた。

 註記)以上,さらに吉田 久については,ウィキペディアなど参照。

 吉田 久は結局,辞職を余儀なくされていた。以上は戦争中の話題であったが,日米安保問題に関連して発生した砂川事件に対して国側に不利な判決(「伊達判決」1959年3月30日)を下した伊達秋雄も,事後に辞職していた。

 最近では,原発関連の裁判をみると,電力会社側〔および国策民営である事情〕に不利な判決を出した裁判官たちが左遷されてきた。三権分立が民主主義の基本理念だといわれたところで,裁判所もしょせんは「国家のための司法機関」である。

 新藤宗幸『司法よ!  おまえにも罪がある-原発訴訟と官僚裁判官-』(講談社,2012年)は,そうした日本の裁判所の〈罪状〉を糾弾している。こう批判している。「とりわけ “国策” とされる原子力発電所の “安全性” 審査は,国家権力に担保された行政庁の判断をアプリオリ(先験的)に証人することが,もっそも “無難” な裁判官としての処世術となる」(137頁)。

 安倍晴彦『犬になれなかった裁判官-司法官僚統制に抗して36年-』(NHK出版,2001年)や,最近作でみれば,瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社,2014年)なども,そうした裁判所内部を事情をよく解説している。安倍晴彦の本の「内容説明」は,こう記述されていた。

 著者は,司法修習をトップクラスの成績で終えて1962年4月,裁判官に任官した。在任中は優れた「庶民派」裁判官としてしられていたが,裁判官人生のほとんどを家裁・地裁で過ごし,いわば「日の当たらない道」を歩んできた。それはなぜだったのか。

 

 最高裁判例を覆した無罪判決のこと,青法協活動のことなど,36年間の裁判官人生を振りかえりつつ,裁判官・裁判所のしられざる実態を描く。裁判官のあるべき姿とはなにか。司法の「独立」を問いつづけた苦渋の経験から導き出される,改革への提言。

 5)む す

 現状のごとき国家・行政のあり方,安倍晋三による「政治と経済」のデタラメ三昧な運営実態は,当然のこととして,裁判所(司法)にも非常によからぬ影響を与えてきた。現状ではとくに,原発訴訟の現場において大いにその悪さが発揮されている。

 この国における司法の独立(?)など,いまでもまだ「冗談の部類」に属する話題である。また,原発問題における “司法の判断” にうかがえる素人ぶりもよく目立つ。ともかく,法律の文言はよくしってはいても,本当のところでは,世の中の実際問題にはうといのが,いまどき裁判官の本性・限界でもある。

 

 【 補  遺 】

  ◆ 野党に聞かせたい「安倍首相の
    存在自体が悪」という名セリフ ◆
      =『天木直人のブログ』2018-05-19 =

 ここまで国民の信頼を失っているというのに,どうやら安倍首相は開きなおって,6月末の国会閉会まで外交に逃げこみそうだ。それもこれも,野党の追及が弱すぎるからだ。野党は,せめてこれぐらいの啖呵を,国民がみている予算委員会で,安倍首相に向かって切ったらどうか。

 安倍首相は怒り心頭で狼狽するに違いない。あるいは自信喪失して仮病に逃げこむかもしれない。今日,5月19日の朝日新聞「政治季評」で,早稲田大学政治学教授の豊永郁子(とよなが・いくこ)さんが書いていた。

 安倍首相は辞める必要がある。一連の問題における「関与」がなくともだと。忖度されるリーダーはそれだけで辞任に値するからだと。すなわち,あるリーダーの周辺に忖度が起こるとき,彼はもはや国家と社会,個人にとって危険な存在なのであると,豊永さんはいい切っている。

 安倍首相の意向を忖度することが安倍政権の統治のもとでのルールとなってしまった以上,忖度は止まず,不祥事も続くだろう。だから安倍首相が辞めるしか問題は解決しない。そう豊永さんはいっているのだ。

 そのとおりではないか。もはやそれ以上の言葉は不要だ。安倍首相の存在じたいが国と社会と個人にとって悪なのである。

 補注)2020年6月も末日になっているが,まったく「そのとおりではないか?」 このブログの記述は,2018年5月19日のものであった。それからもう,タップリ2年間が過ぎてきた。まさしく「忖度は止まず,不祥事も続く(どこまでも!)」というその間の経過は,この「安倍首相が辞めるしか問題は解決しない」ことは,2年前から判りきっていた「事実」であったが,今日まで実現せずに来てしまった。

 「安倍1強〔凶・狂〕」の実態でそうなのであれば,国会での政権党が圧倒的な多数はであっても,国民・市民・庶民たちの怒りでもってこの圧政独裁的な「安倍党内閣」を排除しなければならないところが,なぜか「彼ら」はおとなしい。だが,『天木直人のブログ』はつぎのように主張していた。

 野党は残された国会審議のなかで,そう啖呵を切って内閣不信任案を提出し,安倍首相が解散・総選挙をいい出す前に,野党の方から安倍首相を解散・総選挙に追いこむのだ。

 世論を信じ,世論に安倍首相をボイコットさせるのだ。野党のその気迫があれば,国民もまた,豊永郁子教授のいうとおり,まともな判断を下すだろう。安倍首相の存在そのものが悪だと。さっさと目の前から消えてもらいたいと声を上げるに違いない。

 註記)http://kenpo9.com/archives/3742

 

 【 補  遺(続)】

 『肥だめ』にドップリ漬かっている世襲政治家たちだが,自分たちの気分では最高級の檜風呂に入っているつもり……。どうしようもない3流政治家(世襲3代目)にしかなれなかった「僕ちんたちの悪相」。国民たちを完全に舐めきった為政がまかり通る「この国の救いがたい凶相」。ここまでいわれても,トコトン「カエルの面に ● ● ●  … … …」でいられる無神経・無感覚。

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 「わが国の政治が混乱して当事者能力を欠くのは指導者にビジョンがないから」だ(2016/5/30 12:36)と,『やまもといちろう オフィシャルブログ』が嘆いてから,いまでは〔2020年6月だと〕4年が経過している。末期的症状はその末期の時だけにしてもらいたいものだが,いまの日本はズルズルとこの末期そのものばかりがつづいてきた。

 註記)https://lineblog.me/yamamotoichiro/archives/6849164.html

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 出所)『iRONNNA』2016年6月1日の,この画像を名付けるならば,「日本の黒悪政治を象徴的にも代表できる政治家の3人」。

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