在日朝鮮人を北朝鮮へ送りこんだ立教大学経済学部のマルキスト教授などの話題,日本が敗戦後,国を挙げて在日を追放してきた歴史の記録

敗戦後(以降の一定時期)立教大学経済学部にマルキスト学者が多かった事情にふれた日経「私の履歴書」を読んで,対米服属型の御用学者もいれば,北朝鮮大好きだった思想的隷属型としての観念的マルキストが時代を風靡したかのような時代もあったものだという記憶


  要点:1 敗戦後しばらくのあいだは,真っ赤っかであった立教大学経済学部の「経済学と経営学の教授陣」

  要点:2 敗戦後において,旧大日本帝国時代の遺産:在日朝鮮人の追い出しに熱心に協力していた左翼教授の誠心が,結局は,日本国政府「体制側」と協賛していた古き善き時代の思い出を想起させる日経「私の履歴書」内の一句
  

  井上周八だとか寺尾五郎だという氏名の「元立教大学経済学部の教授たち」を,あなたはしっているか?

 『日本経済新聞』本日朝刊「私の履歴書」じたいの話題は,あとまわしになる順序で以下の記述が先になされることを,最初に断わっておきたい。

 1)「井上周八」いのうえ・しゅうはち,1925-2014年)は経済学者で,専攻は農業経済学,立教大学名誉教授,北朝鮮チュチェ思想国際研究所名誉理事長。マルクス経済学における地代論でしられるが,立教大学在職中より北朝鮮朝鮮労働党チュチェ思想の宣伝工作に熱意を燃やし,日本におけるチュチェ思想宣伝の旗振り役としてしられる。

 井上周八は戦争中,特攻隊に志願するも,終戦後は日本共産党に入党(のちに脱党)していた。立教大学東京商科大学(現一橋大学)卒業(高島善哉ゼミナール)後,立教大学大学院を経て,立教大学助手・講師・助教授・教授を務める。また,並行してチュチェ思想国際研究所理事長も歴任した。

 中華人民共和国における文化大革命を支持した。また,立教大学在職中に訪朝して,北朝鮮社会主義による理想郷のかたちを見出し,以後北朝鮮崇拝を一貫して続けている。このことについては当時,日本社会党公明党の機関紙にも訪朝記を寄稿している。

 1990年前後の社会主義国の崩壊については,「人間改造を怠ったため」であるとし,なおマルクス主義は意義を失っていないと主張する。1997年の黄 長燁(ファン・ジャンソプ)韓国亡命事件に関して,「世界に通用する主体思想を韓国人に理解させるため,高齢の黄書記は最後のかけに出た」と述べる。

 補注)ここの黄 長燁「韓国亡命」の意図に関する解説は,妄想ないしは独善でしかありえない。井上周八は,きわめて根拠の乏しい,狂信的な独自の解釈を披露していた。 

 また,北朝鮮による拉致事件を長年にわたり「まったくのデマ」と否定しつづけてきた。ゼミ生から後継の弟子は生まれなかった。のちに学者となったゼミ生も井上の力でなった者はいない(井上周八,田村信吾「久保田順先生の人と学問」『立教経済学研究』第51巻3号,1998年1月,140頁)。

 北朝鮮関係の著作があった。

  『現代朝鮮と金正日書記』雄山閣,1983年。
  『経済政策論序説』文眞堂,1985年。
  『チュチェ思想概説』雄山閣,1987年。
  『人間中心のチュチェ思想チュチェ思想国際研究所,1990年。
  『解説 チュチェ思想チュチェ思想国際研究所,1992年。

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  付記)左が寺尾五郎,右が井上周八。井上は http://juche.v.wol.ne.jp/oldpage/newsJ/j130101.htm から。

 2) 「寺尾五郎」てらお ごろう,1921-1999年)は,元日本共産党党員で,歴史学者,元日本朝鮮研究所理事。筆名吉武要三。

 1958年に北朝鮮建国10周年記念式典に訪朝使節団として訪問し,同国の発展を大々的に描いた『38度線の北』を著わす。1960年代は平和運動,日中・日朝友好活動に奔走し,両国をたびたび訪問する。1961年に日本朝鮮研究所を設立してその理事に就任し,北朝鮮関連の書物を多く著わす(1967年に退任)。

 1966年に中国で文化大革命が起こるとこれを熱烈に支持し,1967年の善隣学生会館事件のさいにも中国共産党側に立ち,日本共産党に抗議して『日中不戦の思想』を著わしたため,1968年に「中国派」として日本共産党を除名された。

 その後は日本共産党(左派)の結成に関与する一方,吉田松陰親鸞・安藤昌益を研究し,とくに昌益の研究については,『安藤昌益全集』(農山漁村文化協会,1983年-1987年)の監修・執筆を務めるなど,これを後半生のライフワークとしている。

 以上,井上周八と寺尾五郎の経歴はウィキペディアから抜粋した記述である。いまどきこのような彼らの過去を指摘することは,日本の左翼教授たちの頭の中が当時においては “真っ赤な花々ばかりが咲き乱れるお花畑だった事実” を思い出させる。

 しかし,彼らは学問的かつ思想・イデオロギー的な見地に関しては,彼らなりに並々ならぬ確信=信仰心を抱いて,そのような学問の足跡を記録してきた。ともかくも,自分たちの学問と思想には確固とした自信と信念を抱いており,それなりに「真・善・美」の立場に確固と立脚している思いこんでいた。彼らは,その種の《理想のようなもの》に支援されていたからには,理論と実践の有機的でかつ全生活的な研究の立場格別を確立できていたつもりでもあった。

 しかし,時間が経過するにともない,自分たちがいかに「人民たち(ここで関連する話題としては主に在日朝鮮人)を苦しめ,不幸のドン底に追いこむ」役目を,思う存分に発揮してきた〈歴然たる事実〉は,いまとなってみればその結果によって,余すところなく明証されている。

 現在まで韓国には北朝鮮から脱出してきた,いわゆる脱北者が3万5千人もいるが,このなかには,北朝鮮帰還事業(韓国でいう北送)で,「自分の故郷(祖国?)ではない北朝鮮地域」に移住していった在日朝鮮人(戦前・戦中から日本に居住していた者たち)も含まれている。

 最近ではその脱北者がユーチューブで発信している者までいたが,その男性はなんと在日3世だということで,日本語を母語に使い流暢に語っていた。

 3) ここで再度,寺尾五郎の経歴に関連させて,若干の説明をしておきたい。

 1960年8月,朝鮮開放15周年慶祝訪朝・日朝協会使節団が訪朝し,これ参加した寺尾五郎は「帰国した多くの人びとは〔北朝鮮で〕快適に暮らせている」と『朝鮮・その北と南』(新日本出版社,1961年)に著わした。だが,それとは正反対に,その使節団に同行した〔後段にも言及される〕関 貴星は「祖国の真実の姿」に驚いていた。

 1965年6月,寺尾五郎『朝鮮問題入門』(新日本出版社)が出版。北朝鮮は「8万人からの在日朝鮮人が帰国し,いたれりつくせりの国家の手厚い保護のもとに,なにひとつ不自由ない生活にはいれる社会」と記述。

 いまどきこのような「北朝鮮事情」を書いて公表したりしたら,完全にバカあつかいされるのが定番のオチであるが,当時は大真面目でこの種の北朝鮮賛美論が横行していた。いまとなっては,そうした寺尾五郎たちの軽率かつ無謀な,いうなれば,在日朝鮮人を「無意識的でありながらも意識的に北朝鮮に追放していった」,いいかえれば,当時の日本における政治動向への加担行為は,まさしく国際政治的次元で観れば犯罪行為に等しかった。これがいいすぎのきらいがあるとしたら,非人道的な政治実践的な行為がなされていたと断罪されていい。

 最近になると,さすがに在日朝鮮人の「北送問題史」が国際政治問題として,どのように総括されるべきという学術上の研究成果も登場している。たとえば,松浦正伸「歴史学と概念的アプローチの統合-北朝鮮帰国事業研究の系譜と規模変容問題の解明に向けた試論的考察-」『都市経営』第10号,2018年2月)は,つぎのごとき問題意識をもって,執筆意図を説明していた。

 歴史学政治学を架橋することは可能なのだろうか.本稿は冷戦期東アジア国際関係に重大な影響を及ぼした北朝鮮帰国事業(以下,帰国事業)問題を事例として取り上げ学際的研究の可能性を検証する試論的考察である。

 

 帰国事業とは,1959年から1984年にかけて在日朝鮮人及び日本人配偶者を含む約9万3千人の朝鮮民主主義人民共和国(以下,北朝鮮)への帰還事業である。帰国事業は冷戦体制下,資本主義国から社会主義国への民族大移動という歴史学的・社会科学的に稀有な事例である。

 

 興味深いことに,帰国者である在日朝鮮人は,戦後3度の引揚事業によって朝鮮半島に帰国することが制度的に許容されていたにもかかわらず,日本が高度経済成長の時代へと突入する時点で帰国を決意した。

 

 帰国者統計によれば,1959年12月から1961年12月にかけて帰国事業は短期的に大規模化の様相を呈しており,この現象解明に向けた分析枠組を確立することは,帰国事業問題全体を考えると学術的・政策的な意義を有する。

 

 帰国事業研究は「歴史事件」としての重要性と「歴史事例」としての特殊性から,国内外に豊富な先行研究が存在する。斯様に重要な研究テーマであるにもかかわらず同問題をめぐる研究の系譜と政治学的アプローチを模索する研究例は皆無に等しい。

 

 はたして帰国事業研究は,歴史事例として,どの範囲まで明らかにされているのだろうか。また,帰国事業問題を再照射するために新たなアプローチを確立する必要はないのだろうか。

 井上周八や寺尾五郎らは,いまとなって指摘されるまででもなく,このような研究課題の対象として俎上に載せられるべき研究者であったことは,あまりに当然である。だが,彼らが学術的に客体化されてまともに詮議されることはなかった。

 4)「『北朝鮮は地上の楽園』…  日本最大のタブー,在日朝鮮人の帰還事業の60年目の証言」『Business Journal』2019.02.26 06:30,https://biz-journal.jp/2019/02/post_26842_2.html から

(前略) ここで,父の話をいたします。1960年8月,日朝協会に入会していた父は八・一五朝鮮解放十五周年慶祝使節団の一員として北朝鮮に招待されます。当時,在日コリアンの事業としてはパチンコやレストランなどがありましたが,……(中略)

 

 使節団一行には,ベストセラーの『38度線の北』を執筆した歴史学者の寺尾五郎氏もいました。ある日,視察団が列車で移動していると,日本から帰国した青年たちが寺尾氏に詰め寄り,「あなたの本を読んで,素晴らしい地上の楽園を思い描いて北朝鮮に帰国した。真相はまったく逆ではないか。一生を棒に振ってしまった僕たちをどうしてくれるんだ」と抗議している場面を目撃したそうです。

 

 父はといえば,地元の岡山から帰国した友人たちとの面会も許されず,平壌の街も自由に散策できず,「北朝鮮はこんなにも閉鎖社会なのか」と嘆きました。そして,帰国協力会の幹事のひとりであったにもかかわらず,「真実を隠して帰国させてはならない」と北の施政を視察しながら悩み続けたそうです。

 註記)https://biz-journal.jp/2019/02/post_26842_2.html

 5)ここに登場した人物「父」が関 貴星であった。関は当時,日本国籍をえていた在日朝鮮人であったが,寺尾五郎などといっしょに北朝鮮を訪ねた体験を,『楽園の夢破れて-北朝鮮の真相-』全貌社,1962年 に著わした。事後,関は日本においてだが,猛烈な迫害を受けるハメになった。

  『楽園の夢破れて』が出版された後,父はあらゆる誹謗中傷に耐えながらも,真実を覆い隠している帰国事業は間違っていると,徒手空拳で孤独な闘いを続けていたのです。「もしこの事実に目を覆い,従来どおりの北朝鮮礼賛,帰国促進を続けていけば,恐るべき人道上の誤りを冒す恐れがある」と父は訴えつづけました。いまから半世紀以上も前のことです。

 

 なんど度も父の講演会が妨害され,騒然たる雰囲気となり中止せざるをえなかったことなど,身の危険と隣り合わせの闘いだったと,のちにしりました。もし拉致されたときには青酸カリを,銃は護身用にと,考えていたほどでしたから。

 註記)同上。

 こうした当時における「日本側からの北朝鮮への北送事業」に向けて批判的な見解を公にした「在日本朝鮮人総聯合会の同志」に対しては,生命の危機を感じさせるほどに猛烈な嫌がらせがおこなわれていた。関 貴星は,その相手側に位置していた人びとにから,死ぬか生きるかとまで覚悟させられる迫害を被っていた。

 つぎには,その迫害問題を惹起させるのに多大な貢献をしたと認定されてよい井上周八や寺尾五郎のごときマルキスト経済学者と並んで,彼らと同じとみなされうる立場から,北朝鮮ヨイショを語っていたノーベル文学賞受賞者がいた。これも引用はウィキペディアに書いてあるものからである。

 同年,大江健三郎『厳粛な綱渡り』(文藝春秋新社,1965年)が刊行。北朝鮮に帰国した青年が金 日成首相と握手している写真があった。この本で大江はこう語っていた。

 

 ぼくらは,いわゆる共産圏の青年対策の宣伝性にたいして小姑的な敏感さをもつが,それにしてもあの写真は感動的であり,ぼくはそこに希望にみちて自分および自分の民族の未来にかかわった生きかたを始めようとしている青年をはっきりみた。

 

 逆に,日本よりも徹底的に弱い条件で米軍駐留をよぎなくされている南朝鮮の青年が熱情をこめてこの北朝鮮送還阻止のデモをおこなっている写真もあった。ぼくはこの青年たちの内部における希望の屈折のしめっぽさについてまた深い感慨をいだかずにはいられない。

 

 北朝鮮の青年の未来と希望の純一さを,もっともうたがい,もっとも嘲笑するものらが,南朝鮮の希望にみちた青年たちだろう,ということはぼくに苦渋の味をあじあわせる。日本の青年にとって現実は,南朝鮮の青年のそれのようには,うしろ向きに閉ざされていない。しかし日本の青年にとって未来は,北朝鮮の青年のそれのようにまっすぐ前向きに方向づけられているのでない。

 ずいぶん手のこんだ文章表現が工夫されており,意味がとりにくいが,北朝鮮を讃えるような論旨であると読んで,間違いない。井上周八や寺尾五郎ほどヒドクはないものの,彼らの後方にそれもかなり近くにこの大江健三郎が位置していた点は,否定すべくもない。井上と寺尾は確信犯的な北朝鮮賛美者であり,大江は入りくんだ文学的修辞をもってだが,結局「北朝鮮に期待する感情」を,いまから観れば大きな見当違いを犯したうえで,しかも基本的には誤解まじりに表明していた。

 

  筆者,学生時代の記憶

 大学生の時であったが,専門課程の選択科目として経営学科目群のなかに財務管理論が配置されていた。この講義は専任教員ではなく非常勤講師が来校して担当していた。いまもその担当教員の氏名を鮮明に覚えている。前期の授業は高橋昭三,後期の授業は宮川宗弘といういずれも立教大学経済学部の教員(肩書きは教授)が,それぞれ担当していた。

 最初のほうの話題に戻るというか,ここまでまだ出していなかった点だが,本日(2020年7月8日)の『日本経済新聞』朝刊「私の履歴書杉本博司 (8)  立教高校・大学 思考様式  ゼミで体得  家業継がず就職もせず写真の道へ」のなかに,つぎのような記述があった点に触れておきたい。この筆者杉本博司(現代美術作家)は,立教高校から立教大学経済学部に進学した人であった。こう述べていた。

 a) 立教高校に進学して2年目の授業に足立先生の倫理社会があった。人間の社会の成り立ちとその歴史を,人間の生産と労働の側面から考える。すると,商品という物の生産と交換の歴史としてとらえることができる。人間の歴史を商品という物の歴史としてとらえるので,厳密に科学として社会科学が成立する。

 そこに神は必要とされない,宗教はアヘンだといわれた。私はびっくりすると同時に感銘を受けた。キリスト教を教育の理念とする学校で無神論が語られるとは。高校の同学年には後に音楽家になる細野晴臣と,「三丁目の夕日」を描いた漫画家の西岸良平がいた。

 b) 大学への進路は迷った。私は物理学に興味をもって,理学部をめざそうと思った。立教大学理学部には高名な理論物理学者の武谷三男教授が在籍する。私は名著と呼ばれる「弁証法の諸問題」を買って読みはじめたが難解だった。それに私は数学が苦手だ。

 結局,経済学部へ進んでみると,教授陣はほとんどの先生がマルクス経済学者だったのだが,それには理由があった。戦後の赤狩りと呼ばれたレッドパージで,公立大学を追われたマルクス経済学者を,主に立教と法政大学が引きとったのだ。無神論マルクス経済学者たちをキリスト教の大学が引き受ける。私は神の愛とは広大無辺なのだと解釈したのだが,実際は教授会が学問の自由を保証されていたのだ。

 補注1)立教と法政大学がそのようにマル経学者を受け入れたのは,多分,敗戦後における事情として教員組織そのものの要員調達が困難な状況にあった自学のために,背に腹はかえられないという感覚〔もあって〕で,彼らを受け入れて収容する受け皿となっていた,という程度に理解しておいて大きな間違いにはなるまい。その代わり,老大学の経済学部は真っ赤っかの教授陣で充実していたという事情ができていた。

 補注2) 立教大学ホームページで「沿革」https://www.rikkyo.ac.jp/about/history/ のなかには,つぎの事項が記載されている。

 1949年〔昭和24年〕 新制大学として認可される。文学部(基督教学科,英米文学科,社会科,史学科,心理教育学科),経済学部(経済学科,経営学科),理学部(数学科,物理学科,化学科)を置いた。

 補注3)しんぶん赤旗』は,レッドパージを,こう解説している(2005年4月2日)

 レッド・パージとは1949年~50年,アメリカ占領軍の指示で政府や企業が強行した日本共産党員とその支持者にたいする無法・不当な解雇のことです。推定で4万人以上が職場を奪われました。

 戦後,日本を占領したアメリカは,労働運動や民主的運動の発展,1949年総選挙での日本共産党の躍進(35人当選),中華人民共和国の成立(同年10月)などに直面して対日政策を180度転換させました。

 1948年12月のA級戦犯容疑者釈放につづき,戦争協力者約20万人の公職追放を解除する一方,1949年4月には,「団体等規正令」を公布して,共産党員を登録制にし,戦前の特高警察の流れをくむ公安警察を復活させるなど,民主的な勢力に対する凶暴な弾圧にのりだしました。

 とくに,職場や労働組合への共産党の影響力をいっきょに壊滅させるため,松川事件(1949年8月)など一連の謀略事件をでっちあげ,国民に共産党への恐怖心をあおりたてました。

 レッド・パージは,こうした情勢のもとで3つの段階を経て強行されました。1949年の定員法による官公庁の「行政整理」のなかで1万人以上,民間の企業整備のなかで2万人以上の活動家が追放され,つづいて一方的な「不適格者リスト」によって,民主的な教員1100人が教壇から追われました。

 補注中の 補注)この1100人のなかに,立教大学が経済学部を創設するにあたり,教員として採用した教員たちが含まれていたと推察する。

 朝鮮戦争の勃発(1950年6月25日)を前後し,連合国軍最高司令官マッカーサー共産党中央委員の公職追放を指令するとともに公然とレッド・パージを指示し,政府は「共産主義者等の公職からの排除に関する件」を閣議決定しました。こうして,新聞,放送を皮切りにした文字通りのレッド・パージはやがて電力,石炭,化学,鉄鋼,造船,国鉄電通など全産業に広がり,「企業の破壊者」「暴力分子」の烙印を押され職場から追われた犠牲者は1万3000人を超えました。

 レッド・パージは国民の基本的人権を明確にうたった憲法をふみにじった無法な弾圧でした。いま各地で犠牲者が名誉回復と国家賠償を求めて立ち上がっているのは当然です。多くの労働組合などがこれに協力しているのは,再びこんな無法を許さない保障をつくる上で重要な意味をもつからです。

 註記)https://www.jcp.or.jp/akahata/aik4/2005-04-02/ftp12_01.html

〔記事「私の履歴書」に戻る→〕 大学3年になるとゼミで逆井孝仁教授に師事した。先生は東京大学レッドパージで追われた1人だ。1時間半の講義はめくるめく進んだ。まず問題が提起され,関連する話題は世界史,日本史,科学史のあらゆる局面に及び,最後にまた提起された問題に戻るころには答えが用意されている。私の思考様式は逆井教授に負うところが多い。私は理路整然とはどのようなことなのかを学習した。(引用終わり)(後略)

 マルクス経済学にかぎらず,マルクスレーニン(?)イデオロギー的な学問の体系にあっては,このように「まず問題が提起され」,この「提起された問題に戻るころには答えが用意されている」という「決定論的な思考方式」が,図式的に用意され,かつ教条的に徹底されていた。それゆえ,それじたいは痛快な学問・理論が力強く内蔵されているようにも感じられる。けれども同時に,なんでもかんでもが経済決定論の陥穽にとらわれているという自覚じたいは,決定的に欠落させていた。マルクス主義が唯一真理だという教理主義なのであれば,そうした落とし穴をみずから用意したも同然であった。

 その顛末は,主要な社会主義国家体制が1990年前後に崩壊した歴史の事実をもって証明された。本ブログ筆者は大学教員の時代になってから,立教大学経済学部の教員たち(もちろん特定の人たちのことだが)とも,学会活動のなかでたびたび接する機会をもっていた。しかし,彼らの私に対する態度は,もともとマル経でも近経でもなく,またそのどちらでなければならないなどといった「教条主義」とは無縁のつもりであるこちらの立場に対してだったと思うのだが,顔を合わせるたびに「犬が牙をみせて私を威嚇するような表情を作っていた」。

 ところが,その社会主義国家体制の破綻後は,彼らの態度からはそうした威嚇の表情がきれいに消えた。なかには,以前とは実に対照的になって,会うたびに,あいそ笑いをしてくれるようになった人もいた。不思議なことであった。本ブログ筆者の学生時代,立教大学から非常勤講師として来て,講義を担当した高橋昭三や宮川宗弘らの態度に関してだが,豹変した確かな変化をみせつけられた筆者は,呆れると同時に哀れみさえも抱くほかなかった。

 以上の話題は必ずしも,本ブログ筆者1人に限定される話題ではなかった。類似する話題として,マル経学者たち(それも親分格の人のこと)が,同類(マルキスト)とみなした後輩の経営学者たちに対して「踏絵を迫る」(自分たちの配下になれ,逆らうような理論・思想を抱くなといった)ような圧力をくわえてきた過去も,記録されていた。

 30年以上も以前の話題であった。その内容が内容だけに,この「踏絵」という武器を振り回していた「当時のボス的なマルキスト経営学者」が,誰彼となく「自分が親分である立場」から圧力をかけまくっていたという話は,実際に当事者(もちろん「踏め,踏むか」と詰問された人)から直接に聞いたものである。

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