関東大震災における朝鮮人虐殺は正当防衛なりと「架空の暴論」を捏造し,この虚説を書物に著わした工藤美代子のノン・ノンフィクション作家ぶり

 堂々たる虚説・砂上の楼閣としての完全なる空論,関東大震災直後における朝鮮人虐殺は正当防衛だったと叫ぶ工藤美代子の迷走する事実無根の極論

                  (2014年9月2日)

 

  要点:1 被害妄想と時代錯誤と空想創造などが,錯覚的に織りなす迷作品

  要点:2 真実の追究には千,万もの事実を挙げて証明しなくてはならないが,虚説を捏造するにはたったひとつの素材でも可能

 この記述の前論に相当するのが,つぎの昨日(7月27日)の記述である。


  工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』産經新聞出版,2009年12月というトンデモ本

 1)ノンフィクション作家の狂想的作品

 本書は,関東大震災時に発生した朝鮮人虐殺を正当防衛だと「逆唱する狂信的な著作」である。正当防衛であれば,いくらでも人を殺してもいいという「恐ろしい理屈」が正々堂々と述べられている。

 また,関東大震災における在日朝鮮人の歴史的な経緯・実情や生活状況などいっさいしらぬ現在の読者たちは,この工藤美代子の虚説・空論にすっかり魅せられている様子である。この理屈は,ヘイトスピーチを盛んに街頭などで展開してきた「在特会」集団の知的水準よりもさらに稚拙かつ悪質である。

 というのは,「◆◆◆賞」を受けた実績を有するこの工藤美代子が,思う存分に我田引水の強弁を駆使した著作を公表し,しかもこの本の題名に〈真実〉なる虚構のことばをかぶせての主張をおこなっている。

 補注)さすがに『産経新聞』は,工藤美代子の立場・思想は半ばほど認めるような論調で解説記事を書いていたが,その根拠はあいまいであり,工藤の推論だ(に過ぎない〔?〕)と寸止めするほかない記述に留めていた。もともと,工藤の書いた本の内容において「推論に値する,それと認められる論理の運びはなかった」。

 どこまでも,彼女自身の勝手な決めつけと独断が跳躍できていただけであって,大正時代後半における新聞紙面に課せられていた時代の制約や特性は,まったく判読できておらず,もちろん,そのまともな解明すらも全然できていなかった。すなわち,そこにおいて「推論に値しうるような論旨」が展開されているとは,とうていいえなかった。

 それでも,『産経新聞』は,つぎのように書いておかないとまずい新聞社,つまりネトウヨ的な論調を堅持すべき立場に固執していた。だがそれでも,この程度に抑えた程度においててしか,工藤美代子の作品を位置づけるほかなかった。工藤美代子の論旨は「推論」というものの以前に留まっており,それゆえ「妄想」か,はたまた「邪推」ならば,うまく構成していたといえるかもしれない。

 なお,「不逞鮮人」による放火などの不法行為が実際にあったかどうかについては,先の大戦後,議論することじたいがタブーとされてきたが,工藤美代子著「関東大震災朝鮮人虐殺』の真実」では,当時の新聞報道や証言などを検証した上で,複数の不法行為があったと推論している。

 註記) 「【昭和天皇の87年】「朝鮮人虐殺事件」の真相  何が群衆をあおったのか-」『産経ニュース』2018.11.18 07:00,https://www.sankei.com/premium/news/181118/prm1811180010-n4.html

 「先の大戦後,議論することじたいがタブーとされてきた」という指摘は,誇張ができ過ぎていて,ひどく信憑性を欠いたいいぶんであった。問題の性質上,工藤美代子の推論が成立する余地すらなかった。というよりは,そもそもノンフィクション作家が関東大震災時の新聞報道をまともに判読できていなかった。彼女のその「ノン・ノンフィクション作家」とでも呼称したらいい「デタラメ一辺倒」な主張を真に受けて,解説記事を書けるごとき「産経新聞社の記者たち」の「お里」(ジャーナリストとしての資質やその程度)がしれる。

 大東亜・太平洋戦争中の戦局展開において,たとえば,昭和16〔1941〕年12月か翌年3月ころまでの日本軍の大勝利を観て,日本はあの戦争に勝ったという推論ができなくはなかったが,その時かぎりでしか妥当性はありえなかった。また,昭和18年2月上旬,日本軍がガダルカナル島を撤退して以降の戦局推移をみて,同じく日本はあの戦争に勝っているという推論をできるはずもなかった。しかし,それでも「日本は勝てるのだ」と叫ぶ者たちがいなかったのではない。

 工藤美代子は,関東大震災時の朝鮮人虐殺事件を,それこそ「流言蜚語」(朝鮮人悪者説)的にしか報道していなかった新聞紙面を材料に使い,朝鮮人が暴動を起こしたのは事実であると誤認していた。だが,この程度でしかなかった浅薄な歴史理解は,関連する文献や資料(すでに豊富に与えられている)を少しでも勉強すれば,ただちにその大間違いの点には気づくはずであった。というよりは,自分の至らなさに赤面するほどにみっともない「推論」を下していることに気づけるはずであった。

 だが,「ノン・ノンフィクション作家」である工藤美代子にとってみれば,自分の恣意的な推論に使える材料として,当時の報道がいかほど重大な間違い=事実誤認をしていても,その程度のことはおかまいなし,完全に無視しておき,トコトン空想を膨らませた「関東大震災時・朝鮮人暴動説」を “推論的に確信し,説いていた” 。だから,より正確にいえば,それは推論にもなりえないデタラメ推理でしかありえなかった。

 関東大震災時における朝鮮人虐殺問題の歴史を,じかにその文献や資料に当たって勉強したことのない一般庶民の側では,すっかり工藤美代子のいいぶんに騙されてきた。ノンフィクションだいわれるこの作家が,朝鮮人虐殺問題を「正当防衛」論で正当化したのだから,その想像力のすばらしさ,というよりはその無識さに関しては,とても感心(寒心?)させられた。

 補注)〈関東大震災〉とは,1923〔大正12〕年9月1日午前11時58分に発生した相模湾一帯を震源とするマグニチュード 7. 9の巨大地震。死者・行方不明者は約10万5千人,建物の全半壊・焼失は約37万棟。

 日本海側にあった台風の影響で強風が吹き,東京や横浜で市街地が大火災となった。隅田川近くにあった旧陸軍被服廠跡(ひふくしょう)の広い空き地では,避難者の家財道具などが焼けて,集まった約4万人のうち約3万8千人が亡くなった。

 註記)この補注の記述は,『朝日新聞』2014年9月1日夕刊〈キー・ワード〉からさきに参照しておいた。

 工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』は出版社が産經新聞出版であり,この関係をみただけでも,基本的にどのような論調の中身なるかは事前に予測できるものであった。本書の「内容説明」は,こう語っていた。

 あれは本当に「虐殺」だったのか? 彼らの狙いは,皇太子だった! 震災に乗じて半島から襲来したテロ集団の実態をあばき,悲劇の真相を糾明する衝撃のノンフィクション。

 補注)当時,日本に移住していた朝鮮人すべてをひっくるめていわく,「震災に乗じて半島から襲来したテロ集団」と形容したところからして,まったくのデタラメであった。ここまでいいかげんな「歴史も論理もヘッタクレもない」,つまりアジ演説風の「異民族差別」の発想は,ほとんど犯罪的だと解釈されるほかない修辞になっていた。

 つまり,工藤美代子の手にかかると,いかにもお手軽に「在特会流の思考方式」に追随したかのような議論ができあがる。ありもしない〈在日の特権〉を夢想するのと同様に,ありもしなかった「半島から襲来したテロ集団の実態をあばき……」と指摘されることになっていた。

 植民地になった朝鮮人たちが日本帝国に対して,東アジア地域全体にまたがって抵抗運動をしてきたという現実はある。朝鮮人のテロリストもいた。とはいえ,この歴史における一部分の事実をただちに飛躍させて,それも,関東大震災のとき新聞が誤報していた記事にもとづきながら,当時に在日していた朝鮮人全員が「テロ集団」だといいたげな短絡をしている。いうことが狂信的に奔走し過ぎている。

 工藤美代子は,フィクションにもどづく断定しかできていないとしても,「実に奇抜な発想」を構想できていた。ノン・フィクション作家をきどる作家が,本当のところはフィクションのもとづく作品に,わざわざ “ノン” を付けて公表している。つまり,自身の立場を詐称している。だから,彼女はノン・ノンフィクション作家だと非難されていい。贅言するが,ノンフィクション作家ではないノン・ノンフィクション作家であるとすれば,この作家の「本当の立場」というものは,実は,フィクション作家とノンフィクション作家双方の,そのどちらの立場にもなりえない。

 戦前の日本帝国において,日本人のなかにはもテロ集団は存在しなかったのか? そのような史実はなく,いくらでもテロリストとなった日本人はいた。たくさんいたではないか。昭和戦前期,日本社会に多く登場していたのは,左翼よりも「右翼の殺人者たち」であった。

 また,左翼的な関係では「大逆事件」というものがあった。この事件は「幸徳事件」ともいわれるが,明治天皇暗殺を計画したとの容疑で,多数の社会主義者無政府主義者が逮捕・処刑された事件であった。この事件は,1910年5月宮下太吉ら4人が爆発物取締罰則違反で検挙されたのがきっかけで,その後,検挙者は全国各地で数百名にものぼった。うち26名が刑法73条の大逆罪にあたるものとして起訴された。同年12月10日から29日まで大審院特別刑事部は16回の公判を非公開でおこない,1911年1月18日判決(これのみ公開,裁判長鶴丈一郎)を宣告した。

 註記)http://kotobank.jp/word/大逆事件,世界大百科事典 第2版の解説。

 「大逆事件」が起こされた当時は,まだ明治時代(末期)であった。この時期,日本帝国政府が天皇天皇制と資本主義体制の維持にどれほど神経を使い,これに反対するあらゆる政治的思想やその具体的な行動を,それこそ蛇蝎のように邪視し,必死に取締まっていた。それはもう涙ぐましいほどであった。しかし,この大逆事件そのもののなかにも,大いにでっち上げられた「体制側のたくらみ」が存分に含まれていたことは,現在までの学術研究によってもくわしく解明されている。

 2) フィクションが基本のノン・フィクション作品

 関東大震災時における朝鮮人虐殺問題の歴史についていえば,特定のテロ集団がいたという事実はない。ただ工藤美代子のように,フィクション風にノン・フィクションばり(?)の架空話を積みあげる才能の持ち主があれば,それを妄想することならばけっして不可能ではない。

 工藤美代子の別の著作を読んだ感想をいえば,要は中身が薄い・淡泊なのであるが,その割には自分のいいたいことだけを,小説仕立てでもって創作するための筆力のような〈なにか〉が,それも衝動的に働いていることだけは,たしかに感じられる。

 工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』は,その目次編成をみただけでも,いきなりのけぞってしまうような,途方もない「歴史の事実」を無視・否定する編成内容であった。関東大震災の事実史に関しては,末尾にも挙げておくが(アマゾンの広告になっているが),以前より本格的な研究書が数多く公刊されている。だが,工藤美代子の場合は,そうした先行研究は完全に回避している。

  第1章 大正十二年九月一日-無間地獄の帝都-
  第2章 液状化する大正時代-朝鮮人激増
  第3章 「流言蜚語」というまやかし-自警団は「正当防衛」だった
  第4章 「襲来報道」を抑えた後藤新平の腹-戒厳令下の治安担当者たち
  第5章 揺るぎない前提として書かれた虚構-「戒厳令違法説」と「朝鮮人虐殺」
  第6章 トリック数字がまかり通る謀略-「虐殺」人数の嘘
  第7章 「Xデー」は摂政宮御成婚式-波状攻撃を画策したテロ集団の実態
  「あとがき」にかえて より精緻な実証へ-「日韓併合」百年に向けて

 

 ※人物紹介※ 工藤美代子〔くどう・ゆみこ〕はノンフィクション作家。1950年東京生まれ,旧チェコスロバキアのカレル大学に留学後,カナダのコロンビア・カレッジを卒業。1993年帰国。『工藤写真館の昭和』で講談社ノンフィクション賞受賞。

 要は,工藤美代子も「在特会流の理屈と同じ作風」なのである。「9999」もある真実・事実には目をつむたまま,「万に1つ」をみつけたという相手側の不具合・不都合に着眼して〔それも一方的な勘違いや誤解的な思いこみばかりであったが〕,その他の「9999」に関するすべてを全面否定しておき,視線を背ける発想であった。

 工藤美代子の執筆方法は,学術研究の立場からは離れている。それとは基本的に異なる方途を向いているゆえ,今風のネトウヨには歓迎されてきた。つまり,ニッポン人の「うしろめたい国粋意識」に向けて,それも潜在的な感情に対して没論理的に訴求(慰撫)する手法が採られていたる。そのうえでさらに,それを晴れ晴れとした気分に転換させうるための〈虚構話〉を,フレーム・アップ=披露していた。

 要は,工藤美代子の語り口にすっかり騙されてしまい,本気になって信じこんでしまったほかの記述も,ネット上には散見される。それは,偏見と差別に満ち満ちた記述を満載しているわけであるが,工藤が盛んに誤用している「当時の新聞記事」(←これを鵜呑みにすることがいかに大きな錯誤であるか)を,そのまま転用しているに過ぎない。

 工藤美代子の論旨に対する賛否は,読者それぞれの自由であってよい。しかし,その判断は工藤のこの本だけではなく,関連する基本図書にも十分に目を通してからでないとまずい。そのさい,なにも専門の研究者レベルである必要はない。

 つまり,自分が “こう思いたい” という次元だけで読んでする〈歴史の事実〉の解釈ではなく,まずさきに「歴史そのもの」に「全体的に疎漏のないように均衡をとって接する」ための,虚心坦懐な〈読書の態度〉が要求されている。

 最近作で,関東大震災時における朝鮮人虐殺問題については,工藤路線を継承する本が公刊されている(★印の文献)。同時に他方で,この問題の事実を学術的に研究した成果をさらに公表している大学人もいる(印の文献)。

  加藤康男関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』ワック,2014年8月26日。この本は実質,工藤美代子が2009年に公刊した本の「単なる再版」である。出版倫理をわきまえていない事実を晒しつつ,「書名」を変えただけの,偽作的な出版物。加藤康男は工藤美代子の配偶者。

 

  山田昭次『関東大震災時の朝鮮人迫害-全国各地での流言と朝鮮人虐待-』創史社,2014年9月1日。→こちらは本当の最近作であった。

 のような意見に絶対賛成だという人は,そでであればあるほど,いくら嫌であっても,関係の本にも一度目を通すことが必要である。両方を読み比べ,いったいどちらがまともに歴史の事実に立ち入った研究と解明をしているかをしっておくべきである。

 好き・嫌いの感情で歴史を判断することができないわけではない。だが,真実・事実に肉薄したいというのであれば,単に好悪の感情を頼りに歴史に接近していたら,真実・事実にはとうてい到達できない。その姿勢・態度を根本から変えないかぎり,まともに歴史を認識することは不可能である。

 

  2014年9月1日の新聞報道朝日新聞』と『日本経済新聞

 1) 朝日新聞「〈天声人語二百十日と震災」

 さかのぼること91〔2020年からだと97年〕前の今日,関東大震災が起きた。地震に意識が向きがちな日だが,1960年に「防災の日」と定められたのは,前年の伊勢湾台風がきっかけになった。この日は暦の二百十日と重なることが多い。今年もそうだ。

  ▼ 立春から数えて二百十日目ごろは,稲の実りを狙うように台風が襲う時期とされてきた。「8月豪雨」の爪あとも生々しいまま,つぎは野分(のわき)の季節である。東京で読んだ先日の声欄に,大雨で特別警報が出た三重県の高校生の投書が載っていた。

  ▼ 避難指示を初めて体験して幾つか気づいたそうだ。まずなにをもって避難すべきか分かっていなかった。避難袋はあったが,災害イコール地震と思って用意していたので不安になったという。

  ▼ そして,「たぶん大丈夫」という思いがあって結局は自宅にとどまった。東日本大震災のとき,なかなか避難しなかった人の話に「なんで」と思ったのに,いまは「私なら逃げた」といいきる自信がありませんと,16歳は省みる。

  ▼ 〈地震さへまじりて二百十日(かな)〉と,明治29年に子規は詠んだ。この年の二百十日は8月31日で,古い新聞を調べると前日からの暴風雨で名古屋などに被害が出た。そこへ東北で陸羽(りくう)地震が発生し,約200人が亡くなった。

  ▼ 同じ年の6月には明治三陸津波も起きている。地異と天変。双方への警戒を欠かせない日本の自然の厳しさが,一つの句に潜む。備蓄食料,避難経路,家族の連絡方法--確かめ直したい,年に一度の防災の日である。

 この天声人語には関東大震災時に起こされた大事件,朝鮮人の虐殺問題には一言も触れていない。つぎの日経「春秋」はどうであったか。

 2) 日本経済新聞「春秋」

 関東大震災から50年の節目は昭和48年,第1次石油ショックの年だった。すでに大正時代は遠い昔である。それでも惨禍をしる人はたくさん生きていて,新聞やテレビには生々しい体験談があまた登場した。このころまでは,関東大震災はじかに語りつがれていたのだ。

  ▼ しかし歳月は流れ,記憶をもつ人は急速に減っていく。今年もその日がめぐってきたのだが体験者はいよいよ数少ない。大正12年9月1日は土曜日で仕事は半ドン,学校は始業式で子どもたちも早く帰ってくるからみんなで昼食を食べるはずだった。朝から風の強い日で……。そんな語りだしをもう聞くこともなくなった。

  ▼ 激しい揺れが襲った午前11時58分は,だから多くの家庭が火を使っている最中だった。しかも折あしく台風による強風が吹き,被害が一気に広がった事実を往年の体験談はよく教えている。命からがら避難した陸軍被服廠跡で4万人近くが亡くなった悲劇も,実際に接した人々の話はまさにこの世の地獄をしらしめていた。

  ▼ 体験の継承ほど大切なものはない。しかしそれを重ねていくのはとても難しい。東日本大震災だって,やがては社会の共通体験ではなくなるだろう。風化を防ぐのは記録である。91年前の災厄でさえ,いまも新たな証言や映像が現われて私たちに教訓をもたらすのだ。記憶のすごみと記録の力。継承のための武器である。

 --工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』2009年や,加藤康男『『関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』2014年(実質,前者の増刷)などが公刊されるようになった時代の推移に関連する事情について,この日本経済新聞「春秋」は若干触れている。いずれにせよ,歴史にどのように学ぶかが,いまに生きているわれわれにとって大切な心構えとなる。

 3)「関東大震災,記録に学ぶ」『朝日新聞』2014年9月1日夕刊1面

 この『朝日新聞』9月1日朝刊にはとくに,この日の「過去」に関連するめぼしい記事,それも関東大震災時における朝鮮人虐殺に関する問題を回顧する記事はなかった。だが,それとはだいぶ視点をずらした関係で,防災問題としての関東大震災をとりあげていたのが,この『朝日新聞』の同じ9月1日でも夕刊の冒頭に掲載された記事である。

 防災の日の1日,10万5千人が亡くなった関東大震災から91年が経った。未曽有の大震災の記録は,いまも研究者や高校生たちが映像の分析や石碑の現地調査などにとり組んでいる。これからの防災に生かそうという試みだ。

 補注)この関東大震災時における朝鮮人に対して起きた虐殺問題でいえば,6千人以上の朝鮮人が殺されたのであるから(この数字が多いのだという向きには2千人台だというまとめ:主張もあるので,参考にまで挙げておく),日本人など全体の被災死亡者数に比べてその異常な数値に驚くほかない。ウィキペディアは「正確な犠牲者数は不明であるが,論者の立場により,推定犠牲者数に数百名~約6000名と,非常に幅広い差がある」と記述している。大混乱した大震災の犠牲者数(虐殺された人びと)の統計であるから,国家側が協力的に調査することもなく,個別に調査がなされただけに終わっていた。

 当時(大正12:1923年),在日していた朝鮮人人口は,1922年の5万9865人から1923年の8万0617人になっていて,同年の9月1日に起きた事件であるから,単純に計算しておくと日本に来ていた朝鮮人10人にほぼ1人ほどが殺されたことになる。

 仮に百歩譲ってその朝鮮人のなかに「テロ集団」と目される者たちがいたとする。そして,これに対する日本人側の正当防衛行為でもってすれば,6千人〔以上〕を大震災時のドサクサに紛れて殺して〔虐殺して〕おいてもしかたがないとみなせるのであれば,まさしくジェノサイドを正当視する恐るべき「他民族・殺戮観」である。

 1世紀近くの時間が過ぎてきた。自分たちの記憶にとって嫌な過去は忘れたい。それよりもその虐殺事件の原因そのものを,相手側の非にこじつけておく理屈を考案したらよい。これが,関東大震災時に朝鮮人の虐殺はなかったとする書物を書く人びとに特有の深層心理である。

 それはともかく,この 3)の「朝日新聞の記事」じたいを,つぎに ③ として紹介しておかねばならない。

 

  関東大震災の資料検討-『朝日新聞』2014年9月1日夕刊1面-

 1) 映像の場所特定,避難を分析  東京理科大学教授ら

 関東大震災の記録映像について,東京理科大額の辻本誠教授(火災安全工学)らが,不明だった撮影場所や日時を特定した。火災の広がり方の検証や当時の避難行動の分析が進むという。

 特定した映像は東京国立近代美術館フィルムセンターなどから提供を受けた767シーン(約3時間18分)のうち,6割以上の490シーン(約2時間10分)。当時の撮影所を営んでいた撮影技師が撮影した映像などとされ,映像をデジタル化してみやすいように処理した。

 発生から数時間後に撮影されたシーンでは,煙で見え隠れする切り妻屋根の建物の窓枠がみえた。当時の絵はがきとの照合などから「サッポロビール東京工場」と特定。吾妻橋を渡って避難する人がいる一方で,火事を眺めている人たちもいた。

 当時の火災の広がりを記録した地図から午後2~3時ごろと推定した埼玉大学の西田幸夫特任准教授は「1時間後,ここにも火の手が及び,焼失するが緊迫感がない。火災が起きたら,すぐ逃げることが重要とあらためて分かる」と話す。

 分析された映像とは別にフィルムセンターは8月,当時の様子を記録した4本の記録映画が新たに発見されたと発表した。都内の千束八幡神社京都大学などが寄贈したもので,現存しない牛込駅の様子,少年団や東北帝国大救護班の活動などが映されていた。

 関東大震災に詳しい名古屋大の武村雅之教授によると,写真や映像は多く残されているが,日時や場所が不明の資料も多い。「多くの人が,地震直後はあれほどの被害になるとは思っていなかった。それが逃げ遅れにつながり被害が拡大した」と話す。

 武村さんは,神奈川県内の石碑などの調査をしている。神奈川県は,地震津波,土砂崩れなどが発生した。すでに研究がされていても,現地にいき,何度も自分の目で資料を調べる。誰かが調べていても二度目,三度目に新事実が見つかることもあるという。

 武村さんは「東日本大震災では車避難で渋滞した。人びとが大八車に家財道具を積んで逃げていた関東大震災と同じ。そこで火災が起きていたら被害は拡大しただろう。歴史の教訓が生かされていない。まだまだ学ぶことがある」と話す。

 映像の一部や延焼を再現した地図は,辻本研究室のサイトで公開されている。

 2) 被害刻んだ石碑調査  埼玉の高校生

 若い世代も関東大震災を学ぼうとしている。大学教授や学芸員が寄稿する研究誌「歴史地震」の7月の最新号に,さいたま市の栄東高校の9人が書いた18ページの論文が載った。

 「社殿はすべて潰れ,倒潰した家屋もまた三十数戸」。関東大震災の様子を刻んだ市内の石碑11基を調べ,震源相模湾から離れた内陸でも被害が広がったことを分析した。

 調査のきっかけは東日本大震災。「どうやったら被害を防げるか」。理科研究部の安倍聡志さん(16歳)らが2年前から調べはじめた。図書館で郷土資料をめくり,放課後や週末に実地調査。旧字交じりの碑文を辞書に当たりながら訳した。

 東大地震研究所で地震津波を研究した経歴をもつ同部顧問の荒井賢一教諭(43歳)は「石碑がこんなにあるとは予想外だった」と話す。部員たちは今後も石碑の調査を続け,11月にある埼玉県の私学文化祭でも成果を発表する予定だ。

 部長の石黒喬大さん(16歳)は「被害がここで起きたと実感した。当時の人たちは石に彫ってまで被害や復興の喜びを残そうとした。その思いをしることが防災をみつめなおすきっかけになる」という。

 3)「教訓から学び災害に強いまちづくり」『日本経済新聞』2014年9月1日「社説」

 きょうは防災の日。10万人強の死者を出した関東大震災から91〔97〕年経ち,東日本大震災の傷も残る。災害はあとを絶たず,広島市で起きた土砂災害ではまた多くの人命が失われた。教訓から学び,災害に強いまちづくりを考えたい。

 広島市北部で多発した土砂崩れは,平成の土砂災害としては最悪の死者数になった。2次災害や新たな土石流なども心配されている。人命を守ることを最優先に復旧作業に臨んでほしい。

 この災害で反省すべきは,1999年に死者・不明者32人を出す土砂崩れなどを経験しながら,さらに被害を広げて繰り返したことだ。2年後に土砂災害防止法が定められたが,自治体による警戒区域の指定が遅れ,土石流などの危険をしらない住民も多かった。

 被害拡大の背景として,宅地開発のあり方も見落とせない。高度成長期からバブル期にかけて,全国の都市近郊では山が削られ,海や池が埋め立てられた。現代の災害はこうした場所を狙い撃ちするかのように牙をむいている。

 地球温暖化が原因とみられる異常気象が頻発し,数十年に一度の集中豪雨や河川の氾濫は珍しくなくなった。浸水や家が傾くなどの被害にとどまらず,建物全体が流されたり倒壊したりし,住民の生命と財産を脅かしている。

 地震の被害も同様だ。3年半前の大震災では湾岸や内陸の埋め立て地で地盤の液状化が相次いだ。列島には2000カ所以上の活断層があり,その真上に建つ住宅も多い。直下型地震が起きれば,甚大な被害は免れない。

 災害の危険が高い場所は,まず自治体がハザードマップを配り,住民に危険を周知することが欠かせない。新規開発の規制や既存の住宅の移転も避けて通れない。人口が減少し,次の住み手が減っている地区もある。住民の合意をどううるか,移転費用を誰が負担するかなど課題は多いが,国や自治体は解決策を探るべきだ。

 津波被災地で高台移転の費用を国が助成する防災集団移転促進事業は,今後災害が予想される地域も対象になる。土砂災害防止法も危険地域で住民の転居を促す仕組はある。だが適用要件が厳しく,住民は移転に踏み切れない。

 国や自治体はこれらを実効性の高い仕組につくりかえる必要がある。住民側も集落や地域ごとによく話し合い,共助の防災を強めるときだ。

 --91〔97〕年前の関東大震災の記憶をどこに・どのように活かすかが語られている。最近たまたま,広島市安佐北区・南区を襲った土砂崩れでは,多くの死亡者も出たということで,この事件にも触れたのが,前段に引用した日経の社説である。気候温暖化の影響による最近における日本における天候の変化により,あれこれの自然災害が発生している。関東大震災も自然災害であった。

 補注)2018年8月にも,豪雨による広島市の土砂災害が,再び発生していた。この「広島土砂災害」「平成26年 8. 20広島市豪雨土砂災害」「 8. 20土砂災害」などとも呼ばれる水害は,2014年8月に広島県広島市北部の安佐北区安佐南区の住宅地などで発生した大規模な土砂災害の繰り返しになっていた。

 また,東日本大震災によって誘発された東電福島第1原発事故は,世紀の記録に残る大事故であった。自然災害を契機に突発させられるこうした人工災害も重大な関心事であるはずである。原発事故のせいで,いまも避難生活を余儀なくされてきた人びとが5万・10万人単位でいる。これは,原発事故の被害のために避難生活を強いられている人びとの人数であって,人災の部分に相当する悪影響を表わしたひとつの数値である。

 現在の日本・日本人にとっては,1世紀も以前の関東大震災の記憶よりも,安倍政権下に頻発してきた自然災害や東日本大震災の人工的な災害のほうが,よほど切実な問題であった。

 ましてや,前者「関東大震災」は,他民族を大勢殺した事件も惹起させていた「大地震」に関した歴史の記憶である。思い出したくはないし,指摘もされたくない。できれば忘れ去りたいのである。

 また後者は,自民族の生命と財産に直接かかわる大災害の発生になっていたが,現地被災者以外の大部分の人びと(日本人であっても)にとってみれば,いまでは遠い記憶になりつつある。

 しかし,自分たちに都合の悪い〈真実・事実〉は忘れたいが,そうではなく自分たちに身辺に起きてきた「事件:被害の記憶」だけはしっかり保持し,後生に伝えていきたいという。だが,この種の歴史の出来事に関しては,みずから進んで「清濁併せて飲みこむ」覚悟がなければ,単に一方的な歴史観しか残せない。

 

  繰り返される流言蜚語-公刊物による今日的:2次的な加害の行為は,工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』の場合に明確に表現されている-

 1) 朝鮮人虐殺はなかったと想いたい工藤美代子など

 最近,札幌市議が「もう,アイヌ民族はいない」とツイッターに書きこみをおこない,物議を醸した(2014年8月18日報道)。この事例では,この市議の無知が笑われる事態になっていたが,工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』2009年や加藤康男関東大震災朝鮮人虐殺」はなかった!』2014年については,大まじめで真に受けとる庶民がたくさんいる。

 たとえば,加藤直樹『9月,東京の路上で-1923年関東大震災 ジェノサイドの残響-』(出版社:ころから)は,2014年3月11日に初版が出ていたが,5月1日には3刷を刷っていた。この本の末尾には「関東大震災時の朝鮮人・中国人虐殺をもっと知るためのブックガイド」が一覧されている。

 とはいっても,そこにはまだ5冊しか挙げていない。しかし,この5冊の1冊でも比較しながら読んでみればよい。工藤美代子や加藤泰男のいいぶんが,それこそ〈デマ〉か〈虚言〉でしかなく,意図的に歴史を曲解している事実は簡単に理解できるはずである。

 加藤直樹は工藤美代子について,こう批判している。「このばかげた本〔工藤美代子『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実-』〕をほとんど唯一のネタ元として,ネット上に朝鮮人虐殺否定論が広がっている」。関東大「震災直後の新聞のデマ記事を『証拠』としてかかげるこの本を,ほかならぬ産経新聞出版が出したことの罪深さも指摘しておきたい」。

 註記)加藤直樹『9月,東京の路上で-1923年関東大震災 ジェノサイドの残響-』ころから,2014年,158-159頁。

 補注)埼玉県本庄市は,関東大震災時に朝鮮人の虐殺が起きた市として,毎年9月1日,ある墓地において犠牲となった人々の慰霊追悼式をおこなっている。3〔9〕年前のことであったが,本庄市(「市長へメールを送る」註記1)には,この工藤の本の内容を真に受けたかのような記述を含む投書が,『朝鮮人虐殺慰霊碑の建立(平成23年9月12日回答)』に関する「意見・提言」として届けられていた 註記2)

 註記1)http://www.city.honjo.lg.jp/shisei/shicho/tegami/1375670182081.html
 註記2)http://www.city.honjo.lg.jp/shisei/shicho/tegami/iken_kaitou/sonota/h23nen/1375758054215.html 参照。

 その意見は,「知人に紹介されて『関東大震災朝鮮人の虐殺の真実 工藤美代子著・産経新聞出版発行を読み」というふうに書いていた。だが,このような,歴史的には根拠のない工藤の言説に影響を受けてしまい,踊らされている自分に気づきようもない投書主は,ある意味では気の毒であるというほかない。

 もっとも,工藤の本に固有である誤謬・底意を「公正・客観的に判定できない」市井の一庶民であれば,ただちにこの本の悪影響を受けてしまうことは必然的な結果かもしれない。

 もっとも,それ以前に潜在している問題があった。工藤美代子自身の「歴史問題に対する接近方法」は,ノンフィクション作家としては,完全に素人的な作法・水準に終始している。この事実が重要な問題として看過されてはいけない。

 すなわち,工藤美代子が学問・研究とはほど遠いところから,しかも煽動者として,いわばエセの「ノンフィクション作家」として自分の真骨頂を発揮してきた。そもそも事実を違えていることを承知のうえで,大正時代に報道されていたデマ記事だけを材料:根拠に使い,彼女は自著を書いていた。

 これは,物書きの風上にも置けない執筆姿勢であり,歴史的な研究・解明をする者の立場としては落第・失格であった。 彼女の当時の新聞記事--もとより,ありもしなかった「朝鮮人の行動」に関する誤報--に対する意図的な資料操作は,徹頭徹尾,恣意と独断を基本にしていた。

 そのやり方は喩えていえば,こうである。前段でも触れたように,大東亜・太平洋戦争史に結果について,昭和17〔1942〕年3月ころまでの新聞報道を観ただけで,敗戦までの全体史(結論「日本帝国は戦争に勝った」)を即断しようとする歴史判断と同じである。

 補注)敗戦後,南米においては日本の敗戦が信じられなかった移民日系人が大勢いて,敗戦を認知する人びととのあいだで悶着を起こしていた事実は有名である。両者が相争い,殺人行為まで起こしていた。

 つまり,『日本帝国は戦争に勝っていた』ことになる。日本全国各地になされた空襲や広島・長崎に投下された原子爆弾のことは,完全に度外視してでも,そう信じられることになっていた。しかし,その戦争中の新聞報道は,ウソにまみれた戦果を発表しつづけてきた「大本営のいいぶん」をそのまま帝国臣民に向けて伝達し,これを信じさせる役目を果たしていた。

 要は,第2次大戦のとき新聞は,日本が「勝っていたはずの戦争」が本当は「負けていた」事実を,臣民に対してすなおには全然しらせていなかった。関東大震災のとき新聞は,「朝鮮人に殺された日本人がいた」というウソの記事を書いても,その反対に「朝鮮人がいとも簡単にころされた」事実はまともに報道しなかった。

 加藤直樹の著作が公刊されるよりも大昔であったが,たとえば萩原朔太郎いとうせいこうがいっていたように「繰り返してはならない,この歴史を」であるにもかかわらず,工藤美代子の場合だと,いまなお懲りずに繰り返していても「当然であるかのように聞こえる虚説」を盛んに吹聴してきた。

 ここで途中で長くなるが,a)  萩原朔太郎の文章関係と,くわえて b)  の記述としては新しい材料をとりあげて,つぎのような引用・参照をしておきたい。

 

 a)「われ怒りて視る,何の惨虐ぞ」『牧子嘉丸のショートワールド』第12回,2014年9月1日,http://www.labornetjp.org/news/2014/0901makiko

  朝鮮人あまた殺されたり
  その血百里の間に連らなれり
  われ怒りて視る,何の惨虐ぞ

 

 これは「近日所感」と題された萩原朔太郎の三行詩で,関東大震災のあった翌年1924年の1月に雑誌『現代』に発表された。朔太郎は郷里前橋から震災の被害に遭った親戚を見舞うために汽車と荷車を乗りついで東京にむかったが,大宮からは歩いたという。おそらくはそのときに目撃した惨状を詠んだのであろう。

 

 文芸評論家の卞 宰洙(ピョン・ジェス)さんによると,「朔太郎の怒りは,無抵抗の朝鮮人をふつうの民間人と軍警が一緒になって虐殺したことに,日本人の自分が許せなかったことに起因している」という。また「惨虐」という語にも注目し,これは「残虐」の当て字でもなく誤字でもなく,その惨状をあらわすにふさわしい造語であったと説明されている。

 

  関東大震災朝鮮人虐殺にいち早く反応し,その怒りを噴出させて詩に読んだ詩人は,朔太郎のみであり,「月に吠える」で口語自由詩を完成させた近代詩の巨匠の一面は長く記憶にとどめておいてよい,という卞(ピョン)さんの指摘は重い。

 

  君たちを殺したのは野次馬だというのか?
  野次馬に竹槍を持たせ,鳶口を握らせ,日本刀をふるわせたのは誰であったか?
  僕はそれを知っている
  「ザブトン」という日本語を「サフトン」としか発音できなかったがために
  勅語を読まされて
  それを読めなかったがために
  ただそれだけのために
  無惨に殺された朝鮮の仲間たちよ


 この詩は戦後に書かれたプロレタリア詩人壺井繁治の「十五円五十銭」の終章の一節である。震災時に日本兵が道行く人々誰彼なしに言わせて,「チュウコエン  コチッセン  と発音したならば 彼はその場からすぐ引きたてられた」という恐るべき光景を目撃して書いた詩である。

 

 大震災から90年を経た日本の大都市では,竹槍のように鋭い狂音を発するハンドマイクを持ち,鳶口のように危険なプラカードを握りしめ,日本刀のように血なまぐさい言葉の暴力をふりまわしている。「殺せ!殺せ!」と。121世紀の今日,世界中のどんな国でも許されていない人種差別と殺人教唆が渦まく文明国(!?)で,各国の友情と協栄の祭典オリンピックが開かれるとは。何というブラック大国ジャパンだろうか。

 

 しかし,信じよう。今はデモの興奮と熱狂のなかで無自覚に行動している若者から,必らず反レイシズムの先頭に立つ人間が出てくることを。いや実際,そういう青年はもう出てきているのだ。彼ら自身も貧困や格差・差別に囲まれていることを忘れず,彼らに届く言葉を詩人のように磨かねばならない。

 

 青年たちに凶暴な言葉の暴力を吐かせ,憎しみを募らせるように唆し,操り,使嗾(しそう)するものの正体こそ暴きだし,糾弾していくことが大事だ。

 

 朝鮮問題は日本人のアキレス腱であり,リトマス紙である。神功皇后伝説以来の朝鮮蔑視と侵略思想は深く日本人の血として脈々としてうけつがれ,いまや排外主義者のヘイトスピーチとしてどす黒く吐き出されている。自身の中にもある差別意識を決して忘れず,それを克服するためにこそ,ヘイトスピーチと闘わねばならない。冒頭の朔太郎の三行詩を改めて心に刻みつけたい。

 

 b)関東大震災の真実に涙が止まらない! ~90年間 “抹殺” されていた『奇跡の物語』-全壊の横浜刑務所で何が起きたのか」『現代ビジネスBUSINESS』2016年3月5日,https://gendai.ismedia.jp/articles/-/48025?page=5 が,つぎのように書いているが,これをどのように受けとめるべきか? あえてくわしく説明しなくとも分かるはずである。坂本敏夫という人物が発言した段落を引用する。

 

 命懸けで人生を戦い抜いて報われずに亡くなった人が大勢います。彼らの思いを活字にして真実を掘り起こしていきたいなと思います。刑務所関係だけでも明治以降,戦中戦後,現在に至るまで,真実がまったく伝わっていないことが多いんです。

 

 しかも戦後,世情が落ち着いてきて管理統制がすすむにつれて,刑務所の中は,世間の視線から遮断され,ますますみえなくなっています。

 

 たとえば,本書で椎名さんが断行した「解放措置」は,大失敗だったとされていたんです。解放囚が略奪行為を働き,さらに朝鮮人の虐殺を招いた引き金になった,つまり,帝都一帯を大混乱に陥れた張本人が椎名さんだと,刑務官当時の私も,そう教えられていました。

 註記)articles/-/48025?page=5。


 横浜刑務所典獄(てんごく・刑務所長のこと)は,弱冠36歳の椎名通蔵(みちぞう)。典獄としては初の東京帝国大卒だった。未曾有の激震によって,外塀はなくなり,舎房などが全半壊,38名の死者,多くの重軽傷者を出した。さらに猛火が迫る状況下で椎名は,囚人全員の「解放」,つまり身体の拘束をすべて解いて放免する緊急避難を断行する。

 

 ただし解放囚は,24時間以内に,戻らなければならない。いったい何人戻ってくるのか--解放に反対した幹部職員たちの危惧をよそに,囚人たちは,一人また一人と帰還を果たすのだが,なぜこの機に逃走することなく,そして帰還後,彼らは,なぜ,過酷な救援活動にみずから従事したのか。さらにこうした記録がなぜ歴史から消されなければならなかったのか。

 註記)articles/-/48025?page。

 

 以上の文書を引用したのは,関東大震災直後に「朝鮮人たちが日本人に対して危害をくわえる行為をしていなかった」事実を,裏返し的にだが,部分的にであっても説明している,と解釈できるからであった。というのも,まるで脱獄犯たちが一般市民に対して悪業を働くかのように,震災後において朝鮮人暴動説が流布されていた当時の状況をめぐっては,以上のごとき刑務所関係の美談風の物語もあったのである。

 

 囚人たちが関東大震災直後に一時釈放されていたら,それでなくとも大混乱していた当時の社会のなかに,さらに混迷をもたらす悪の集団を放ったことになるという結果は,幸いにも生まれていなかった。けれども,当時,日本に居た朝鮮人は囚人ではなかったものの,一般市民の側においては不安の種となっていた。しかも,どこまでも市民の側から巻き起こった,あるいはその前に官権側からニセ情報が流されていたという要素が基本の原因となって,結局,朝鮮人虐殺が発生していた。

 工藤美代子はたしかに,その種の歴史を繰り返したいかのようにモノを書いてきた「偽物のノンフィクション作家」であった。しかし,フィクションもノンフィクションも分からない作家に,ノンフィクションの歴史物語を執筆する資格はなかった。

 彼女のやっていることは譬えていえば,在日朝鮮人〔韓国人〕に対する差別問題に対して,さらに「セカンド・レイプ」的な民族差別に相当する行為にほかならない。関東大震災のさい朝鮮人は命を奪われていたが,21世紀の現在にあっては,彼女の出版物によって,彼らは「セカンド・レイプ」を受けている心境にさせられている。

 2) 清水幾太郎『流言蜚語』日本評論社, 1937年,改訂版:ちくま学芸文庫,2011年

 この本は社会心理学に分類できるが,関東大震災の体験を通して語った,しかも昭和12〔1937〕年の時点で初版は公表されていた。清水幾太郎のこの書物については,こういう解説がなされている。

 「流言蜚語の擁護には朝鮮人虐殺に憤った彼の体験からすれば意外ではあるが,震災直後ではなく軍部の権力が異様な高まりをみせつつあったころに綴られた文章であ」った点を断わったうえで,東日本「大震災も記憶も醒めぬいま,清水の分析を読み返すと,現在書かれた文章であるかのような錯覚に陥ってしまう」というように解釈されている。

 註記)清水幾太郎『流言蜚語』筑摩書房,2011年,松原隆一郎「解説 言葉の力」314-315頁,312頁。

 この清水幾太郎関東大震災について記述した段落を,つぎに引用しておく。

 黒田礼二は言う。「……朝鮮人の × × 〔死体?〕は到る処に × × 〔放置?〕。まだ,ごまかしてない跡形付をしない生一本の処を早速実見して来たのだ。酷くむごたらしい × × × 〔殺し方?〕をしたものだ。枯尾花におびえた腰抜武士が西瓜を滅多斬りにした様だ。お互ひ日本人は口先程もない卑怯な臆病な民族だなと痛感……大和魂と武士道の正体を大悟した……」。

 また,柳沢 健(1889-1953)はいう。「……この惨虐なる行為に出づべきことを直接間接に誘導し煽動し且つ加担したものとして警察官及び軍隊の一部の責任は到底免れるを得ない……」。

 事実,多数の朝鮮人が殺戮されたのも,9月16日,東京憲兵隊本部で無政府主義者大杉 栄(1885-1923),妻  伊藤野枝(1895-1923),甥  橘 宗一(6歳)が憲兵大尉甘粕正彦(1891-1945)によって殺されたのも,9月5日ころ,社会主義社平沢計七など11名がが東京府亀戸警察署で殺されたのも,その他の大小の事件も,9月2日施行の戒厳令の下に生じたものであった。

 あの薄暗い空白は,究極的には,自警団と流言蜚語という2つの退行現象を正当化する戒厳令によって埋められていたのであった。秋田雨雀(1883-1962)はつぎのように歌った。「自然人をころし  人人をころす  ぬばたまの  この短夜の夢さむる日よ」。

 註記)清水幾太郎『流言蜚語』筑摩書房,2011年,182-183頁。

 3)流言蜚語の実例-『東京新聞に掲載された当時の実話-

 現在の川崎区内で自警団の襲撃で朝鮮人3人が殺され,1人が瀕死の重傷を負った,との新聞記事があった。

 川崎では震災直後から「横浜の大火は朝鮮人の放火が原因」「朝鮮人が大挙して押し寄せ,爆弾毒薬で殺りくを図る」などの流言が広がった。警察から朝鮮人暴動に備え出動せよという通達があり,青年団消防団が武器をもって集まった,という記録があった。

 一方で,新田神社に一帯を管轄した当時の田島町助役の指示で多数の朝鮮人を保護。土木請負業の親方が,住みこみで働いていた朝鮮半島出身の作業員をかくまい,食糧を分けた事例もあった。「仕事や近所付き合いで,日ごろから朝鮮の人と交流があった人たちは『そんなことをするはずがない』とデマを疑ったのだろう」。

 註記)http://www.tokyo-np.co.jp/article/kanagawa/20130906/CK2013090602000124.html

 工藤美代子などの歴史解釈によれば,当時のこうした朝鮮人たちも「テロ集団」に祭りあげられるしだいとあいなるのだから,まことに「恐れ入る」。というよりも,91〔97〕年前に朝鮮人たちを殺した日本帝国臣民と同一の精神構造を,工藤は間違いなく備えている人物だということにもなる。

 4) 関連の資料(ネット上の記述)

 「『屁理屈型』歴史修正主義の脅威--工藤美代子『関東大震災朝鮮人虐殺」の真実』批判」(2014-06-17,https://kscykscy.exblog.jp/22761370/ )という批判論稿をみつけた。参照を勧めたいが,この記述の執筆者は明らかに,朝鮮総連系の人士である。そのつもりで接してみたらよいと思う。

 5) 2014年9月5日補述-「真実」がみえないノンフィクション作家の悲喜劇-

 ここでは,北沢文武『大正の朝鮮人虐殺事件』(鳩の森書房,1980年)から,以下のように引照しておく。同書は,工藤美代子が「みごとに騙されるかのようにして必死に信じていた」,それも,関東大震災直後において「朝鮮人が起こしたとする〈虚構の犯罪行為〉」,いいかえれば,当時の朝鮮人「テロ集団」(?)の犯行だというものを,以下のように解説して,その間違いを批判している。

 -- “真相発表” の原本ともいうべき警視庁調べの「鮮人の犯罪」一覧表は,殺人2件・放火3件・強盗4件を始めとする合計49件の「犯罪事実」をかかげていた。しかし,新聞記事(鮮人の犯罪行為を伝える記事)は,殺人犯人などはたいてい「氏名不詳」のまま「逃走」してしまったと書いてあり,いまとなってみれば,事件そのものが存在したかどうかさえ疑わしいほどである。

 もっとも「窃盗の17件」中には,つぎのような「犯罪事実」までが含まれていたから,そのすべてがデッチ上げだったとはいえなかったかもしれない。

 ★ 犯人氏名;李 郷宰,罪名「窃盗
     犯罪事実 9月2日,横浜市内の焼跡において,焼銭1円78銭を窃取す。

 ★ 犯人氏名;李 龍雨,罪名「窃盗
     犯罪事実 9月2日,同じく横浜市内の焼跡において,焼銭3円14銭を窃取す。

 ★ 犯人氏名;韓 龍普,罪名 「窃盗・横領
     犯罪事実 9月1日,東京府神田区錦町3丁目の電車通りにおいて,鳥打帽子
              1個を拾得して横領。同神保町の焼跡において,金17円
              70銭を窃取す。

 ★犯人氏名;盧 鉉斗,罪名「窃盗
    犯罪事実 9月2日,府下金町村地内常磐線の線路付近において,氏名不詳の
              遺失物(あいくち一振)を窃取す。

 朝鮮人の行為とあれば,たとえ火事場で折れくぎ1本拾っても,たちまち窃盗犯人に仕立てられそうな話である。とにかく「あのうわさは,やはり事実だったのだ」と思いこませるような “不逞鮮人キャンペーン” は,この後もつづいた。「はたして井戸へ毒薬を投入」とか「鮮人盗賊団と大格闘」などという記事が,連日のように掲載された。

 このような大がかりな世論操作はすべて,当局の差し金によるものであった。当時の「極秘」資料によれば,「関係各方面主任者」は早くも大震災の数日後に会合をもって,「鮮人問題につき,内外に対して官権のとるべき態度」を話しあったが,その協定事項のなかには,つぎのような項目が含まれていた。

 a) 朝鮮人の暴行または暴行せんとしたる事実を極力捜査し,肯定に努むること。とくに左記〔下記〕事情に努むること。

   イ) 風説を徹底的にとり調べ,これを事実として,できうるかぎり肯定すること。
   ロ) 風説宣伝の根拠を,十分にとり調べること。

 海外宣伝はとくに,赤化日本人および赤化朝鮮人が,背後で暴行を扇動したる事実ありたることを宣伝すること。

 すなわち,「朝鮮人にして,混乱のさい危害を受けたる者は少数あるべきも,内地人も同様の危害を蒙りたる者また多し。これらは混乱のさいに生じたるものにして,鮮人に対し,いたずらに大なる迫害にくわえたる事実なし」という要領でもって,関係する当局は対応せよと指示していた。。

 b) 記録によれば,9月16日,「関係各方面主任者」は再び会合して,「鮮人問題に関する今後の措置」について検討しあった。すでに,各地の朝鮮人虐殺事件が明るみに出されていたころである。しかし,真実をおおいかくそうとする当局側の方針はあくまで不変だったらしく,そのさいの協議事項中にも,つぎのような項目が含まれていた。

 朝鮮人の不逞行為が日本人の激昂を招来させたが,善良な鮮人は保護されている。外国向け宣伝では,朝鮮人の犯罪行為のために市民の激昂を買い,検挙または殴殺された者があっても,大部分の鮮人は安全に保護されていると報告していたのである。

 鮮人の不逞行為の真相,主義者の扇動を受けた具体的事実を調査するけれども,在鮮官憲および新聞をして,盛んに鮮人問題の真相を宣伝し,また努めて内地新聞の報道をして,朝鮮統治に有利ならしむるよう指導するという方針であった。

 結局は,このような「指導」のもとで,デマが〈真実〉となったのである。

 註記)以上,北沢『大正の朝鮮人虐殺事件』147-151頁参照。

 どうということはない。工藤美代子の観点:執筆姿勢は,そのような『大正年代の地平』から1歩も離れてはおらず,まさに当時のままで凍結状態にあった。作家としての彼女は,「旧帝国主義の時代意識に囚われた精神」に対して共鳴する心情をもっていた。

 「物書きとして」の彼女は,ノンフィクション作家を自称していても,実際のところでは「反・ノンフィクション作家の立場」にいる。さらには,21世紀のいまに生きる自身の「差別の感情」を,なんら恥じることもなく正直に誇示している。

 ノンフィクション作家にとって必要な執筆姿勢の「イロハのイ」じたい,その最低限の約束事さえ判ってないような彼女に対しては,なにをいっても「馬の耳に念仏」「馬耳東風」である。

 6)「参考ホームページ」

 『「朝鮮人虐殺はなかった」はなぜデタラメか-関東大震災時の朝鮮人虐殺を否定するネット上の流言を検証する-』( http://01sep1923.tokyo/ )は,以下の項目に分けて解説している。

  20分でわかる「虐殺否定論」のウソ
  工藤美代子/加藤康男「虐殺否定」本を検証する
  知られざる「中国人虐殺事件」
  虐殺問題関連資料庫-黒澤 明と清川虹子が見た「流言と虐殺」ほか-

 7)「参考書評からの引用」

 『日本経済新聞』2014年8月31日朝刊の書評欄に,ジェニファー・ワイゼンフェルド『関東大震災の想像力』(青土社,2014年8月)に関して,こういう記述があった。

 たとえば焼死体の写真は新聞に載り絵はがきとなり,当局が禁じても出回ったが,「ずたずたにされた遺体」の写真だけは隠され,目にふれることがなかった。すなわち朝鮮人虐殺という出来事が視覚化されなかったのであり,いまなお関東大震災の語りのなかではなおざりのままだ。

 この文章の意味するところがなにかについては,あえて触れないでおく。おのずと判るはずである。『日本経済新聞』2014年9月1日朝刊「春秋」欄は,最後の段落でこういっていた。

 91〔97〕年前の災厄でさえ,いまも新たな証言や映像が現われてわたしたちに教訓をもたらすのだ。記憶のすごみと記録の力。継承のための武器である。

 関東大震災のとき「流言蜚梧」のために,それも国家的意思が介在していたその意図のために,虐殺された朝鮮人〔など〕の「ずたずたにされた遺体」像が,いわば『絵はがきになりえなかった事情』をいいことにもして,工藤美代子のような反・ノンフィクション作家は,歴史の歪曲と隠蔽の作業に懸命に注力してきた。

 すでに触れてあったとおり,工藤美代子はノン・ノンフィクション作家であったというよりも,自国の歴史を極度に歪曲したうえで,民衆を異民族差別に向けて扇動させる仕事を生業とするかのような,それもかなり粗雑な立場に立ちながら,同時にまた,歴史修正主義にも抱きつかれて(とり憑かれて)きた作家(?)であった。

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