姜 尚中教授の履歴に,アイマイにしか紹介されない時期があるのはなぜか,という素朴な疑問

 姜 尚中が回想した「語る-人生の贈りもの-」(朝日新聞連載記事,2019年3月)のなかで語られた「恩師(大塚久雄?)」と「定職」(国際基督教大学専任教員職)を世話してくれた牧師・土門一雄

 在日韓国人学者が語る自分自身の履歴・教職などに関しでだが,故意になのか,いつまでも不明瞭のままである部分をめぐる話題

                  (2019年4月4日)

 

  要点:1 土門一雄という牧師

  要点:2 大塚久雄という有名な経済学者


  これまで本(旧)ブログが書いた「姜 尚中」に関する記述2点

 興味ある人は面倒でも,この2つの記述(※-1,※-2)を読んでもらえると好都合である。いきなり,本日〔2019年4月3日〕のこの記述を読むよりは,だいぶ理解の度合が異なってくるはずである。

 ただし現在の時点では,本ブログの前身「旧ブログ」に公表してあった記述なので,この2点は未公開の状態にある。近日中につづけて復活させるつもりである。本日〔2020年7月31日〕の記述はとくに,※-1と関連を有しているゆえ,こちらをさきに続編として復活させる予定である。

※-1 2014年06月25日

 主題「タレント教授か,教授タレントか?」 

  副題1「姜 尚中:花開く在日インテリのバカ受け」
  副題2「『大学の恩師』とは誰か?」

※-2 2015年04月13日

 主題「姜 尚中の聖学院大学学長辞職について,ちまたの声などに聞く話題」

  副題1「大学教職体験者が観察する辞職劇」
  副題2「姜 尚中の人なり学問なりの一端」

 

 「語る-人生の贈りもの-」という題名の『朝日新聞』朝刊連載記事に寄稿していた政治学者姜 尚中の発言から

 この『朝日新聞』の連載記事「語る-人生の贈りもの-」(2019年3月)は,姜 尚中が多く公刊している書物に書いてきた文章の分量に比較したら,ごくわずかである。とはいえ,この連載が始まったとき,

 ① の2つの記述〔※-1,※-2〕をおこなっていた本ブログ筆者は,そちらで言及していたつもりの「姜 尚中に関する疑念」が,少しでもいいから解ける材料が出てくることを期待していた。だが,完全に期待はずれであった。

 前掲の本ブログにおける2点の記述を,姜 尚中が読んでくれているかどうかは,なんともいえない。ここではひとまず,〔もちろん!〕読んでもらっていないという前提を置いて,以下につづく議論をあらためてしてみたい。

 補注)『朝日新聞』朝刊の「語る-人生の贈りもの-」欄に連載された姜 尚中の寄稿は,2019年3月11日の週にはじまり,それから3週間にわたり(月曜日から金曜日までそれぞれ5回執筆され),都合15回が執筆されていた。

 姜 尚中はその「語る-人生の贈りもの-」の連載中では,2019年3月20日「8回」と3月21日「9回」のなかで,それぞれこういっていた。

 博士課程まで進んだものの,なかなか思うような成果がえられません。みかねた恩師からこう勧められました。「君はジャーナリスティックな感性をもっているし,一度,海外に出てみたらどうだろう」。

 

 「ぼくは恩師の計らいで大学の非常勤講師になりました。家庭教師のアルバイトもしながら論文を書く。忙しく,そして展望のみえない30代を過ごしていました」。

 さらに姜 尚中は,2019年3月22日「10回」のなかでは,こう述べていた。

 1980年代半ばのことです。当時は外国人登録法で指紋押捺が義務づけられていました。でも,これを拒否した在日コリアンが逮捕されるなど,波紋がひろがっていったのです。

 

 ぼくにとって,押捺という行為じたいは比較的,どうでもいいとも思っていました。ただ,かつて日本人とした在日を時代かわって外国人とみなして管理の網にかける。通底するおかみ意識には,そもそも抵抗感がありました。

 

 押捺について母にたずねると「なんで泥棒のごつ扱われるとかね」とぽつりといい,父は押し黙ってしまう。日本社会について「おこがましいこと」は語らない両親の悲憤の表情に,ぼくは押捺拒否を表明したいと思いました。

 

 《姜さんの拒否表明は当時住んでいた埼玉県で「第1号」だったという。地元紙に大きく載り,やがて支援の輪がひろがる》

 

 そのころは定職をもたない非常勤講師の身でしたから,実は不安もありましたね。でも県内初の拒否ということもあり,いろんな人が力を貸してくれました。なかでも支えてくれたのは,地元教会の牧師である土門一雄さんです。洞察が鋭く,行動力があって人望が厚い。地域のリーダー的存在でした。

 

 けっして捺(お)さない選択はありました。でも,たぶん逮捕されたでしょう。ぼくが初志貫徹することで持続する運動にも限界がみえてきました。心残りではありましたが,1年後,押捺せざるをえない,と判断したのです。

 

 ぼくが悩まなければならない状態をつくっている日本人にこそ問題がある。土門さんはそんな風に心に染みることをいってくれました。やがて土門さんとのご縁から始まって国際基督教大学に迎えられ,ようやく定職に就くことができたのです。

 在日外国人たちに押し寄せていた「当時の政治的な問題」,指紋押捺拒否運動に関する説明は,あまりにもこみいった事情・背景もあるゆえ,ここではできない。最近は当然のように,個人識別・認証の用途に使用される「個人情報」のひとつとなっているのが〈指紋という人間の紋様〉である。

 だが,日本国においては当時,まだ『外国〔籍〕人』のうち大多数が在日韓国・朝鮮人であった状況のなかで,日本政府が彼らの存在を処遇する基本姿勢は,それこそ無条件に老若男女を問わず全員が犯罪予備軍の可能性大だと決めつけたごとき,それも先験的な予断でのみ接してきたそれであった。

 「在日韓国・朝鮮人に対する国家による監視体制」に「必要だとされた制度のひとつ」が指紋押捺制度であって,つまり,彼らのうちでも少年・少女の年齢が16歳(以前は14歳)を迎えたさい,つぎのような処遇が強制されていた。

 「彼ら少年・少女」は市役所などに出向き,曇りガラスの嵌められたついたてが設けられた「ある一角」で,つまり他人からはみえないように市役所内のある空間にしつらえられた狭い場所のなかで,市職員の指図にしたがい,左人差し指の指紋に黒インクを塗られ,まるで犯罪者が取り調べるときのように,外国人登録原票などにその指を回転させて押させられる,いいかえると「強制される制度」があった(旧外国人登録法14条)。

 姜 尚中が言及していたその出来事が,当時まで在日韓国・朝鮮人の子どもたちに与える衝撃(精神的な打撃)は,非常に大きなものであった。いわゆる指紋押捺拒否運動については,すでに多くの関連文献や研究資料が蓄積されているので,ここではいちいち紹介しない。

 

  姜 尚中の発言に関する興味

 1)「姜 尚中-土門一雄牧師-国際基督教大学

 本ブログ内では,前掲した記述2点をもってさらに説明したつもりであるが,今回における『朝日新聞』連載記事「語る-人生の贈りもの-」(2019年3月)のなかで姜 尚中は,大学(国際基督教大学)の専任教員になれるように渡りをつけて(あっせんをして)くれた土門一雄牧師の姓名を出して語っていた。しかし,早稲田大学大学院ときの恩師の姓名は「恩師」とだけ書くに留め,その姓名は出していなかった。

 その書き分け方が,はたして意図されたものかどうかは,当人に尋ねなければよく分かりえない事情である。だが,姜 尚中が土門一雄牧師とどのような交流があったかはいったん置いてみても,大学院時代における自分の「恩師」の姓名:藤原保信を,まずさきに具体的に挙げていなかった点は,本ブログ筆者が前掲の2点の記述をおこなっていた「関連の観点」などにしたがって考えてみるに,すっきりしない,他者にはとうてい理解しきれない〈なにか〉を残したままであった。

 2)『日本経済新聞』には有名なコラム私の履歴書」が連載されている

 この「私の履歴書」のなかでたとえば,寄稿者(学究)が言及する話題となるが,「恩師」と表現してこれに相当する人物の存在をもちだすとき,その姓名を挙げないで記述するということはまずありえない。姜 尚中の「語る-人生の贈りもの-」における文章の内容に関していえば,大学院時代の「恩師」の姓名は具体的に出さないほうが適切であったと判断していたのか,それとも,そのようにも受けとれる “特別(特定)の事情” でもあったのかと,いぶかしがるしだいになった。

 もっとも,こういう比較の仕方ができなくはない。

 ◆ 「早大の大学院指導教授」は,「僕は〔この〕恩師の計らいで大学の非常勤講師になりました」。

 ★  牧師である「土門〔一雄〕さんとのご縁から始まって国際基督教大学に迎えられ,ようやく定職に就くことができた」。

 以上の2点をよく比較して考えてみたい。21世紀になってからより深刻になってきた社会問題であり,姜 尚中が生きてきた時代とは多少遅れ(ズレ)があるゆえ,ただちに双方の事情を直接・単純に比較することには不都合があるかもしれないが,つぎのようにいってみることも可能である。

 いわゆる「高学歴プアー」が日本の社会問題になってから久しい。昨今は,大学教職という「地位・職種の慢性的な不足」が常態化しており,「博士課程修了者」たちの就活・求職事情を考慮していうとなれば,当時の状況なりにでも国際基督教大学にもぐりこめていた姜は,とても幸運にも大学の教職に就いていたといえる。

 土門一雄牧師が国際基督教大学の教員に対して影響力を発揮できた(ツテをもっていた)ゆえ,そのように姜 尚中のための求職が成立したという経緯があった。姜にとってはとても幸運な人生への入場券をえていたことになる。

 3)「姜 尚中-藤原保信国際基督教大学

 ところで,大塚久雄おおつか・ひさお,1907-1996年)という有名な経済学者(経済史専攻)がいたが,この大塚に対して「学恩」を抱いているといった姜 尚中は,大塚が東京大学を退職後,1970年度から国際基督教大学の専任教員になっていた関係で判断すると,これに前後する年代記(姜 尚中自身に関した履歴そのもの)が,どう検索してみても(ネット上などで探索してきたかぎりでは)不詳であった(というよりは関連する記述がみつからない)。

 以上の指摘は,実は,もともとなにも関連がありえないことがらに関して詮索したのだかれ,そのように結果したるのだという話題であったかもしれない。このあたりの詮索については本ブログの場合,前掲した※-1の「2014年06月25日,タレント教授か,教授タレントか?」が,さきに探りを入れていた。

 補注)その「※-1」の記述の内容は,こちらでの記述の文脈に深い関連があるゆえ,続編として復活させることにしたい。その再掲・公表の準備ができしだい,末尾に付記しておく。

 姜 尚中が早大大学院に在籍していたときの指導教授は,藤原保信であった。姜が公表している「自身の履歴」には,「1979年 早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了,1996年 ドイツ エアランゲン大学に留学の後,国際基督教大学準教授などを経て」「1998年 東京大学社会情報研究所助教授」としか書かれていない。

 補注)姜 尚中の公式ホームページは,以下のように経歴を紹介している。自分の「生年」以外の事項になると,この経歴のなかでは,いっさい明記しない体裁にしている。

 補記https://www.kangsangjung.net/ は,こう書いてある。

   『姜   尚中 (カン・サンジュン,Kang Sang-jung)』

 

  1950年,熊本県熊本市に生まれる。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。国際基督教大学助教授・準教授,東京大学大学院情報学環・学際情報学府教授,聖学院大学学長などを経て,現在東京大学名誉教授・熊本県立劇場館長兼理事長。専攻は政治学,政治思想史。テレビ・新聞・雑誌などで幅広く活躍。​

 

  主な著書に『マックス・ウェーバーと近代』『オリエンタリズムの彼方へ』『ナショナリズム』『東北アジア共同の家をめざして』 『増補版 日朝関係の克服』『在日』『姜尚中政治学入門』『ニッポン・サバイバル』『愛国の作法』『悩む力』 『リーダーは半歩前を歩け』『あなたは誰?私はここにいる』『心の力』『悪の力』『逆境からの仕事学』『維新の影 ─近代日本一五〇年,思索の旅』『母の教え: 10年後の『悩む力』』など。

 

  共著に『グローバル化の遠近法』『ナショナリズムの克服』『デモクラシーの冒険』『戦争の世紀を超えて』『大日本・満州帝国の遺産』など。編著に 『在日一世の記憶』『漱石のことば』など。小説『母〜オモニ—』『心』を刊行。最新刊『朝鮮半島と日本の未来』 。

 

  以上,姜 尚中が紹介する以外の単著では最新作として,『朝鮮半島と日本の未来』集英社(新書),2020年5月がある。

 

 ところで,姜 尚中は1950年8月の生まれだから,1996年の46歳のときであればまだ,国際基督教大学の准教授として,多分,勤務していた(なお,姜は同大には1997年度〔47歳〕まで勤務していた)。また,大塚久雄(1907年5月生まれ)は後段に説明しているが,東京大学経済学部を60歳になった1967年度で退職しており,3年後の1970年度から国際基督教大学に専任教員(教授)として赴任し,1984年までであれば客員教授としてさらに在籍していた。 

 補注)大塚久雄が勤務していた当時,東大の定年は当時60歳であった。現在分かる国際基督教大学の定年に関する規定では65歳である。その後,さらに調べてみたところ,つぎのように大塚久雄の経歴については分かった。

 国際基督教大学の規程(現行)によれば,教員の定年65歳であるが,70歳まで引続き「特任教授」として,大塚久雄を任用している。大塚は,東大を退職したあと,3年ほど間をはさんでから1970年(4月),国際基督教大学教授に就任しており,1978年(3月)まで,専任教員として勤務していた。

 大塚久雄東京大学経済学退職後の履歴では,1970年4月から1978年3月までが専任教員として国際基督教大学教授であった。前後して,文化功労者および文化勲章受章者となっていた。。

  1970年度 国際基督教大学教授
  1975年  文化功労者
  1978年度 国際基督教大学客員教授。 
  1985年  国際基督教大学退職し,非常勤の客員教授となる。 
  1992年  文化勲章受章
。 

   註記)これは, 『コイノーニア ΚΟΙΝΩΝΙΑ』https://29kunio04.web.fc2.com/index.html の「大塚久雄https://29kunio04.web.fc2.com/ootuka.htm 参照。特任教授ではなく客員教授と書かれているが,「特任=客員」と解釈できるので,このままに参照しておく。 

 その1970年度〔から大塚久雄が満70歳でICUの専任教員を退職する1977年度まで〕について,ここまでの記述で理解できる範囲内で判断を下すとなれば,国際基督教大学のキャンパスにおいて大塚久雄に姜 尚中がすれ違うという光景は,おそらくほとんどありえなかった,と判断するほかない。この点は時系列的な関係からみても当然である。なお,姜が教員職に就ける以前においてであったが,ドイツに最初に留学したのは,1979年から1981年にかけてであった 註記)

 註記)姜 尚中・内田雅敏『在日からの手紙』太田出版,2003年,158頁,著者紹介参照。

 以上の話題に関していえば姜 尚中は,大塚久雄国際基督教大学の選任教員同士(同僚)として在籍した期間は,もちろんありうるはずもなかった。姜は「1996年 ドイツ エアランゲン大学に留学の後,国際基督教大学準教授」になったとか,それ以前に同大学においては助教授であった期間もあったと自己紹介していたが,後者の時期などに関した「経歴の年・年度」はなぜか,一貫して明記していない。

 大学教員の場合,このような話題(何年にどの大学に勤務していたことなど)は,当人がどこかにでも,またいくらでも書いてくれていて,なにも不思議ではない「経歴紹介に関することがらのひとつ」でしかない。しかし,妙に引っかかる話し方(そこを完全にボカしたかのような紹介の仕方)がなされていただけである。

 しかし,本ブログの筆者がどう探してみてもみつからない事情からは,いうなれば,どうしてそのように分かりにくいというか,結局分からないようにしか,自分の経歴(職歴の部分)を公表していないのかという疑念が湧いてくるのであった。

 本日の--これは旧ブログの日付での〈本日〉ということであったが,今日の2020年7月31日におけるこの記述でおいても同じようにして--この記述を推敲的に書きなおしつつも,新たに気づいた不備や間違いを充足したり訂正したりするための書きかえを余儀なくされている。

 以上の文章を読んでくれた人には,いったいなにがなにやらよく理解できないことを,この記述はグダグダ述べている印象を抱かせるかもしれない。だが要は,姜 尚中が国際基督教大学に赴任した年度などを,世間に対して,はっきり提示していない。そう推しはかってみるほかないアイマイな余地が確かに残されている。いまも,そのままに,である。

 ただし,どうしてそのようになっていたかに関していえば,ともかくその理由:関連事情そのものがさっぱり把握できないでいる。なぜ,本ブログの筆者にそう受けとられるかのように「自分の学歴・職歴」の一部分を,姜 尚中があえてアイマイ化させているのかが,この理由・事情じたいが分かりにくいのである。それほどにまで “アイマイ化の程度” の度合が深められている,といえなくもない。

 4) 大学教員の経歴(学歴・職歴)を自己紹介する仕方(一般的な仕様)

 この 4) の話題となれば,いつ・どこの大学学部の専任教員に就いたかといった部類の「当人の経歴・職歴」は,そのすべてであるともいっていいくらい,精粗の程度に差はあれ,その中身に関しては明確に指示されている。個人情報ウンヌンの問題以前のことがらである。それが大学教員の立場からするふつうの紹介の仕方である。 

 ところが,姜 尚中の場合,どういうわけがあるのかしらぬが,その経歴関係に不明瞭な部分を残したまま,霧の中に隠れてしまっているごとき状態になっている。

 ここでは,あえて “結局は” と表現しておくほかないが,国際基督教大学に姜 尚中が勤務していた時期(本ブログ筆者がつかめた範囲内では,その期間を姜自身は明記していない,なぜか?)において,大塚久雄がこの大学においてどのように姿を現わしていたのかについても,もちろん,姜はなにも具体的には語らないまま「自分は大塚に学恩がある」という表現をしていた。

 補注)この段落の記述は分かりにくい一句となっているが,冒頭で指示しておいた本(旧)ブログの「※-1」をつづけて復活させるなかで,さらに説明を補充するつもりなので,ここではひとまずこうした指摘だけに留めておきたい。

 どういうことか? 姜 尚中にとって(国際基督教大学に赴任したのは1980年代後半のことであったと推察されるが),大塚久雄と実際に「国際基督教大学の同僚であった時期」があったとすれば(しかし大塚は,同大を1977年度で「特任(ないしは客員)による任用」を終えて定年退職していて,その非常勤での雇用・勤務形態になっていたから,かなり無理な想定か?),話を交わす機会もあったし,さらにこの大先生の教えを拝聴する好機をもとうと努力すれば,きっとありえたはずである(もっとも,以上のこの解説はすべて,相当に無理な作り話での記述になっている)

 ともかく,この国際基督教大学の教員だった時期に関してと思われる発言であったが,姜 尚中は,大塚久雄に対して「学恩がある」という表現をとるに留めていたけれども,それ以上になんらかの含意がありそうにも聞こえる口調にも感じられた。だから「姜が大塚を語る」話については,どうしても「奇妙だと感じる点」が澱のごとくに貯まっていた。

 「学恩」というものであったならば,大塚久雄が所属していた大学学部の同僚でなくとも,どこの誰であってもいえる。そう「いっていい」ことは,はじめかから,誰であっても「自由に属することがら」であって,好き勝手に語れるはずである。このことは,自分の部屋の書棚に何冊かでもいい,大塚の本を備えている人であれば,誰であっても自由・勝手に発言できそうな話題である。

 だが,姜 尚中の立場から放たれる “その付近に漂う含意”は,同じ国際基督教大学に同僚として大塚といっしょに,それももしかしたら,近しい関係のなかで在籍していた期間があったふうに受けとれそうでもあった。いずれにせよ,「だから私は大塚への〈学恩〉がある」といったふうな,なにか,わけが “ありそで・なさそな” 心証しかもてない程度でもって(本当のところはありえない光景だったと思うのだが),「履歴関係に関する自己紹介」をおこなっていた節があった。そう観察してみる。

 要するに,その付近に関連した確たる「姜 尚中の経歴・職歴」のより正確な資料や最低限の情報が,どうしてもみつけられなかった。大学教員であるならば,ごく簡単にでもひととおりは「自分の基本的な履歴・教歴」を,必要最低限でもってしても他者に伝えるのが,通常の作法である。

 本日のこの記述でとりあげてきた姜 尚中に関した疑問が,今後においてもこのまま持続していくようでは,彼に関する基本的な〈情報公開〉がまともになされていないままに経過してきたと解釈しておく。この指摘は一定の疑問として発言するものである。

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