75年前に敗戦した敗戦の記憶,戦争は人間を汚くする,いまの日本の首相は戦争をしたくてウズウズしているのか,だから靖國神社が必要なのか

            戦争の構造:生と死

                  (2009年12月8日)

                  (2020年8月11日)

 

 要点:1  「一将功成りて万骨死す」のが,戦争の共通的な原則,兵隊は斃死させられても将軍は生き延びる戦争の理不尽

 要点:2 梯久美子『昭和20年夏,僕は兵隊だった』2009年の語るもの,靖国神社は生ける者が死んだ者を悪用する宗教施設 

 

  戦争体験者の証言

 梯久美子『昭和20年夏,僕は兵隊だった』(角川書店,平成21年7月)を読了した。この本は,21世紀のいまも生を長らえているあの戦争の体験者が,「大東亜戦争=太平洋戦争」にかかわった自分を語っている。

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 いつものように http://bookweb.kinokuniya.co.jp/ からこの本の解説を聞いておこう。

 この本の「まえがき」に続いて,5人の男が戦争体験を,それも64年もの昔を思いだして語るのである。

 「南方の前線,トラック島で句会を開催しつづけた」金子兜太は,「賭博,男色,殺人―。南の島でわたしの部下は,なんでもありの荒くれ男たち。でもわたしは彼らが好きだった」と回想する。

 

 「輸送船が撃沈され,足にしがみついてきた兵隊を蹴り落とした」という大塚初重は,「脚にすがってくる兵隊を燃えさかる船底に蹴り落としました。私は人を殺したんです。18歳でした」と悔やむ。

 

 「徴兵忌避の大罪を犯し,中国の最前線に送られた」三國連太郎は,「逃げるなら大陸だ。私は海峡に小舟でこぎ出そうと決めました。徴兵忌避です。女の人が一緒でした」と告白する。

 

 「ニューブリテン島で敵機の爆撃を受けて左腕を失った」水木しげるは,「もうねえ,死体慣れしてくるんです。紙くずみたいなもんだな。川を新聞紙が流れてきたのと同じです」と平然と語る。

 

 「マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦,沖縄海上特攻を生き延びた」池田武邦は,「マリアナ沖海戦,レイテ沖海戦,そして沖縄特攻。20歳の頃に経験したことにくらべれば,戦後にやったことなんかたいしたことない」と回顧する。

 戦争の記憶は,彼らのなかに,どのようなかたちで存在し,その後の人生にどう影響を与えたのか。

 彼らはいずれも,「九死に一生」以上の確率で生命を落とすほかなかった当時の戦場を駆けぬけてきた旧日本軍人である。いわば,靖国神社に英霊として祀られることにならなかった男たちの話なのである。彼らが梯に向かってなにを語ったかについての詳細は,実際にこの本をひもといてもらうことにし,ここでは数カ所を参照しておく。

 1) 三國連太郎から:戦争は惨めで悲しい

 戦争での人間の死にざまというのは,美しくもないし勇敢でもない。それがのちに,どんなに大きな功績としてたたえらえれたとしても,惨めで悲しいものです。私はそう思います(127頁)。

 2) 池田武邦から:戦争はひたすら無惨

 戦争の現実とはこういうものなのか-初めて戦闘を体験した僕は,自分がいままで,戦争というものをイメージだけでとらえていたということを痛感させられました。壮烈な戦死,というのは言葉だけのもので,戦場の死はひたすら無惨なものだと知ったんです(207頁)。

 3) 池田武邦から:国家指導者と国民追従者

 軍部が勝手に戦争を始めたという人たちがいます。戦争指導者たちがすべて悪いんだと。本当にそうでしょうか。戦前といえども,国民の支持がなければ戦争はできません。開戦前の雰囲気を,僕は覚えています。世を挙げて,戦争をやるべきだと盛り上がっていた。ごく普通の人たちが,アメリカをやっつけろと言っていたんです。真珠湾のときは,まさに拍手喝采でした。

 なぜ無謀な戦争を避けられなかったのか。その理由は,日本人1人1人の中にあるはです。辛くてもそれと向き合わないと,また同じことを繰り返すに違いありません。
戦死者たちは,もはや何も語りません。彼らの死はいったいなんであったのか。それは戦後ずっと,僕の心にわだかまり続けている問いです。

 日本という共同体は,その共同体のために死んだ人びとに対して,心から向き合い,弔うということをないがしろにしてきました。死者を置き去りにして繁栄を求めた日本人は,同時に,この戦争によってアジア各国に対して途方もない戦禍を及ぼし,それらの人びとの心を傷つけてきた事実からも目を逸らしつづけてきたんじゃないか。僕はそんなふうに思うんです(259頁)。

 

  日本とアジア-戦前・戦中と戦後-

 1) 戦争は破壊行為

 以上 ① に参照した文章は,戦争というものに実際に戦場で出くわすと,けっして勇ましくも壮観でもなく,ただただ悲惨・不幸の連続の舞台でしかならない現実を,正直に語っている。

  2001年9月11日にしくまれた「世界同時多発テロ事件」を経てから,「2003年3月以来,イラクに戦争をしかけて,いまだにこの国への侵略行為を継続してきている」アメリカは,当初は「正義の味方」を騙っていた。ところが,いまではその化けの皮は完全に剥げている。いつぞやどこかの国でも叫んだいたような標語「聖戦」を口にした,同国の〈お馬鹿キャラ〉の大統領がその戦争開始の号令をかけていた。

 だが,今年まで足かけ7年間にもわたっているイラクへの侵略行動は,実質,アメリカの主導・中心になるこの国の利害のための戦争行為でしかなかった。一方で,イラク国民の生命・財産に多くの損害をもたらしただけでなく,他方で,イラクに派遣されたアメリカなどの将兵たちにも精神的な後遺症を刻みこんでいる。劣化ウラン弾の使用は,イラク人はもちろんのこと,とくにアメリカ軍兵士たちにも肉体的な危害をくわえている。

 補注)天木直人あまき・なおと,1947年7月19日- )は現在,外交評論家・作家・政治運動家。インターネット政党「新党憲法9条」の発起人,元駐レバノン日本国特命全権大使。とくにイラク戦争当時,対イラク政策をめぐる駐レバノン日本国大使として意見を具申した2通の公電により,外務省から外交官を「解雇」されたと主張(外務省は人事の問題であって「勇退をお願いした」と説明)し,外務省を告発する著書が話題となった。

 2003年当時天木直人はまだ56歳であった。くわしい事情は天木が残した自著のなかに詳細に記述されている。日本もイラク戦争の片棒を担いだといってよく,いわば「対米服属路線」のこの国家の方針に異見を申し立てて外交官が,実質「圧力をかけられて馘首された」わけである。当時の日本政府の立場と天木直人の意見とどちらが正義にかなっていたかは申すまでもない。イラクが「大量殺戮兵器」を保有しているからといった “戦争を起こすための理由づけ” は,完全にウソのデッチ上げであったのである。

 戦前日本の場合,当初から自国の土地では戦争はおこなわれず,東アジア諸国へ侵略のための戦争を拡大させていった。戦争という事実に関する国民〔臣民〕の側の実感でえば,太平洋戦争末期に始まる本土空襲やその総仕上げともいうべき〔鬼畜米英による〕広島・長崎への原爆投下を被るまでは,日中戦争(1937:昭和12年7月7日開始)以降の総動員体制に移っていた時期になっていても,戦争の悲惨・不幸を本当に感じとることが少なかった。

 それに比べれば,植民地になった台湾・朝鮮ではとうの昔の出来事になっていたけれども,中国では実際に日本軍が田畑を荒らし,人びとを殺し,財産を略奪し,家屋を焼き,女性を犯すなどというぐあいに,他国の軍隊に喰いちぎられ引き裂かれる戦争行為の嵐にみまわれていた。中国人の日本軍に対する憎しみは並みたいていではなかった。

 中国には「リーベンクイズ(日本鬼子)」ということばがあった。この由来はいうまでもない。朝鮮・韓国にはついこのあいだまで「カトウ・キヨマサが来る」といっては,子どもが泣き止まないとき黙らせる〈脅し文句〉に使っていた。

 2) 戦争にまつわる

 戦時中における旧日本陸軍の作り話がある。「ラッパ手:木口小平は戦場で弾に当たって死んでもラッパを口から離しませんでした」という話。「敵陣を突破するために無謀にも導火線が短い破壊筒をもって突入・爆死した工兵3勇士」の話。「戦場を渡り歩きながら中国人兵士を標的に百人斬り競争した将校」の語。いずれも,作り話の性格が強い,勇ましい戦争での話であった。それもすべて日中戦争における話である。

 いったいなんのために,基本的には作り話である,以上のような「戦場の美談あるいは勇壮」が強調されたのか? 

 日中戦争が始まった1937年の12月に起こされた「南京大虐殺」事件は,その犠牲者数の推算に関していえば,日中間で大きな差を生んでいた。日本側でも,右翼陣営の反動保守に属する人士たちの主張は極端であって,そんな事件などは存在せず単なる幻であると主張した。しかし,これは極論ともいえないほど程度の悪いハチャメチャな暴論であった。

 もっとも,初めは20万人いたといわれた犠牲者の数が,中国側の話では30万人に膨れあがった。これに対する日本側の反論では,せいぜい5~6万人くらいではないかと計算された。

 自然災害である関東大震災の犠牲者は14万2800人というふうに,百人単位で丸めた数字が挙げられている。どうしても概算にならざるをえないのである。東京下町大空襲の犠牲者は,およそ10万人として「殺された一般市民」を数えている。だが,はたして千人あるいは万人単位での計算違いがありうる。というよりも,まだ発見もされずに計算できていない死者が,どこかにたくさん埋もれているかもしれない。

 ましてや「南京〔大〕虐殺」事件のように,他国を戦場にした旧日本軍による虐殺行為の犠牲者数を推算するとなれば,1万人ないしは10万人単位で計算に差が出てくても,少しもおかしくはない。そこでは,侵略国と被侵略国との間における「政治的な利害」と「歴史上の感情問題」も絡んでくるから,そうした〈見解の相違〉にまつわる根っこの問題を踏まえて考えるかぎり,犠牲者数の理解において大きな食いちがいを生むことは必定である。

 たとえば,デモ参加者について主催者側の発表数と警察当局のそれとが2~3倍も異なることは通常である。とはいえ,デモへの参加者と侵略戦争の犠牲者数とをいっしょにはできないが・・・。

 3) 戦場で死んだ兵士が遺したことば

 よくいわれるのは,「旧日本軍の兵士」は戦場で生命を落とすまぎわに「天皇陛下万歳!」と叫んだということである。しかし,これは「嘘八百」でなければ,ほぼ「ウソ七九九」だと断言できる。

 即死状態で生命を奪われた兵士でなければ,死ぬまでいくらか時間がある兵士のときは,周囲を気にして「天皇陛下万歳!」と叫んだ者もいる。しかし,戦争体験者の話は一様に,死を迎えた兵士たちのほとんどが「お母さん!」と叫ぶか,ほかの家族,そして恋人などの名を叫んだと報告している。

 さて,旧日本軍兵士たちが天皇陛下ではなく,お母さんと叫んで死んだとしても,旧日本軍将兵は「靖国神社」に英霊として祀られている。英霊の〈英〉という字は,説明するまでもないが「英雄」の英である。ところが,御国のために,つまり「醜の御楯(天皇のために生命を捧げる楯になること)」の国家的意義は,いまでは敗戦によってまったく虚構になってしまった。

 あの戦争で本当は「無駄死に」あるいは「犬死に」させられたが,名目上は国家のために殉難したとされる兵士たちの霊246万6千余柱が,靖國神社には祀られているという。それらの日本人〔これにはさらに,植民地出身の日本帝国軍人・軍属であった人びとなどもくわえねばならないが〕は,どこまでも「天皇陛下のために生命を捧げた」と意味づけられてきた。

 だが,当該の昭和天皇は敗戦後も靖国神社にいって,すなわち「戦争のためにこそ存在している」神社神道式の,もとは国営であった神社を参拝していた。戦争の時代に国家最高指導者=大元帥として犯してきた責任問題を,彼はいっさい負わされることもなく,戦後も「日本国・国民の象徴」として生き延びてきた。これが,彼=天皇ヒロヒト氏の真相である。いい面の皮に・コケにされてきたのは,あの戦争によって生命を落とした「日本国の庶民たち,かつての帝国臣民たち」であった。

 明治以来の間違った天皇崇拝教育にすっかり洗脳状態にされた日本国民〔臣民〕は,戦争に負けて「国破れて山河あり」となったこの国土をみて,とりわけ昭和天皇が「天子であるならば敏感に意識して率先,とるべき責任を負わなかった」事実を,いままで根源的に問うこともないまま過ごしてきた。

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  付記)1945年9月27日,アメリカ大使館「大使公邸」にて撮影されたうちの1葉。これは新聞に掲載された写真ではない。

 マッカーサーのおかげ天皇裕仁氏は,もっとくわしくいえばアメリ国務省の戦後処理=基本方針にしたがい,東條英機を代表とするA級戦犯を絞首刑にしておき,自身の戦争責任を彼らにおっかぶせて済ませることで,戦後の世界をうまく世渡りできてきた。彼は死ぬまで「戦責問題」には頬かむりを決めこんできた。

 旧日帝の頂点に立っていた国家最高の形式的な責任者がそのような体たらくであったから,一般国民のほうでも,戦争中に日本帝国の将兵たち,いいかえれば自分の夫やオジや兄・弟たちが「東アジア諸国:他国の戦場」でどれほど残虐な行為をしてきたか,ほとんどといっていいくらいしろうとはしなかった。戦場で生命を落とさず帰国できたリーベンクイズも,復員後の家庭ではそれぞれなりに1人ひとりが,良き夫・父らであった。

 4) 戦争責任-いまだに果たされない問題-

 しかし,本日 ① に紹介したごとき旧日本軍の将兵たちは,旧日本帝国が明治以来の侵略路線をどのように突きすすんできたかについて,また,東アジア諸国に量りしれないほどの損害・被害・危害を与えてきた事実などについての背景事情を正直に語っていた。それも戦後64年目にもなっての話であった。

 イラク戦争にいったアメリカ軍の将兵たち,そして,かつてベトナム戦争にいった彼らも同じに現象させてきているのは,戦争がもたらす精神的な後遺症に悩む者を数多く出している事実である。しかし,そうした状況にあっても,悩むことがない少数の一群もたしかにいる。それは,戦争を企画し組織し指導する立場,自国の将兵たちに戦闘をやらせるほう=安全圏にいられる,つまり国家次元の指導者たちである。

 いいか,先の戦争では,陛下の名においてさえ人殺しが美徳だった。ところが陛下の名においてアメリソ連にぶち殺されたのはそんなモノじゃない。1人殺せば殺人者,2人殺せば……無期で獄死に怯えるが,何十万人と殺せば英雄だ。

 

 〔昭和〕20年3月10日は一夜で10万人が死んだ。沖縄の住民は10万人が死んで焼かれ,エノラ・ゲイは一瞬にして7万8千人を焼き5年で24万人を殺した。8月9日は一瞬で2万3千人だ。しかし,FDR(ルーズベルト)やトルーマンスターリンエノラ・ゲイの乗員は鉄格子の中でこうして苦しみもがいたか?

 

 もし近々アメリカが世界のどこかに兵を送り,そこを無差別空爆し何十万人を虐殺しても,そのアメリカ軍人は勲章をもらいTVで得意げに会見し,大統領の支持率は上がるだけだ……人殺しのどこが悪い!

 (中略)

 殺してなにが悪い。みんな人殺しだ。それがどうした。……教えてやろう。いいか,陛下の御巡幸はみそぎだった。あれで全国の殺し殺された国民の傷はいやされたんだ。過去のどんな罪ケガレも清めてしまう,それが天皇制なんだ。日本の歴史の連続性なんだ。その象徴が恩赦制度だ。それがてめえら管理するだけの獄吏に分かるか!

 註記)見沢知廉天皇ごっこ』新潮社,平成11〔1999〕年,95-96頁。

 イラク戦争の例では,ブッシュ(息子)大統領をはじめ枢要な地位を占めた閣僚たちは,彼らにつながりのある「戦争商売」にむすびつけて大儲けさせていた。自分たちは指1本にもかすり傷さえ負っていない。このような「戦争の構図」は,いつの時代における〈戦争〉にあっても,国家と国民のあいだに存在する「普遍的な姿」である。

 日本の例でいえば結局,昭和天皇は「戦争の時代」と「敗戦後の占領時代」をつつがなく過ごすことができたし,いままでも,その息子から孫へと連続して「天皇の役目が受けつがれ・演じられてきた」。いわゆる「皇統の連綿性」。

 戦後日本における「民主主義は〈虚妄の民主政治〉」でもあった。その最大の原因は,アメリカ占領軍〔むろんその基本方針はアメリカ政府が決めてきたが〕が創ってくれた「天皇天皇制を冠に戴いた日本国憲法」の内部に「遺されたまま潜む」「半封建的な性格:天皇条項」に求められる。

 敗戦後64〔75〕年もの時間が経過した。いまから仮りに5百年~千年あとにおいて,日本の歴史書のなかに「この時代」=「アメリカ属国時代」がどのように記述されるのか。できれば,未来にタイムスリップできるものなら,さきにしっておきたいものである。

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