昭和天皇も1人の人間であった,御身大事を最優先する敗戦体験をくぐり抜けてきたが,彼が自分のつぎに一番大事にしていたのは,けっして「赤子」ではなく「三種の神器」であった

玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁」という一文を紹介しよう,これを読んだあなたは,どう感じるか・思うか? 彼もただの人であって,けっして聖人君子ではなかった

                  (2019年8月17日)

                  (2020年8月12日)

 

  要 点:1 裕仁天皇陛下が敗戦時にいっていた戦争責任に関する弁解(いいわけ)の本質(本心)

  要点:2 戦争体験だとはいっても,天皇陛下と帝国臣民との間には「天地の差」があった 

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 玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁(読む・考える・書く)」(『阿修羅』2019年8月16日20:32:58,http://www.asyura2.com/19/senkyo264/msg/538.html, 原文は,ブログ:『読む・考える・書く』http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/08/15/223058)

 以下に引用するこの文章の題目は,1945年8月15日正午にラジオで放送された大日本帝国の敗戦決定を臣民にしらせる「玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁」とある。ここでは『阿修羅』から引用する。

 なおさきに,1点だけ申しそえておくことがある。それは,その日を境にして,それまでは「進め1億火の玉!」であった帝国臣民の人口数が,いきなり7千万に急減する現象が起きていたことである。その理由は贅言するまでもない。この点は,後段でもういちど再言する。

 天皇裕仁が敗戦に関して,つぎのように自己弁護をしながら臣民たちに向けてラジオで伝達した点を,いまさらではあっても,よく吟味しなおしておく余地がある。今年(2019年)5月1日,世襲制度にしたがっている天皇家は,彼の孫である徳仁天皇位に就いて(践祚して)いた。

 もちろん,民主主義政治体制をかまえる日本にとってみれば,アメリカが押しつけたという日本国憲法であっても,これを遵守してきた先代天皇明仁の退位(の希望)にともなった天皇の交代であった。

 

  2019-08-15の「玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁(ブログ『読む・考える・書く』)」を,とりあげ紹介してみる(あらためて本ブログ筆者流に解説的に記述する)

 今日〔2019年8月15日〕は,敗戦の日昭和天皇裕仁が,連合国に無条件降伏することをみずからラジオ放送で表明した日)だが,その内容の現代語訳をハフィントンポストが紹介してくれている。

 註記)玉音放送を現代語にすると...『耐え難いことにも耐え,我慢ならないことも我慢して...』【終戦の日】-宮内庁が復元して公開した当時の音声を,現代語訳とともに紹介する。」『HUFFPOST』2017年08月14日 22時20分,更新 2017年08月17日 15時54分,https://www.huffingtonpost.jp/2017/08/14/emperor-broadcasting-decleartion_n_17752858.html?ncid=tweetlnkjphpmg00000001

 付記)以下の引照では,適宜に補正や追筆もおこない,なるべく分かりやすい文章とその構成にしたつもりである。

〔記事に戻る→〕 それをみると,そのいわゆる「玉音放送」においても,裕仁の発言は嘘だらけだったことがよく分かる。すなわち「玉音放送を現代語にすると」「耐え難いことにも耐え,我慢ならないことも我慢して...」と【終戦の日】に,臣民たちに向かい,一方的に語っていた。

 その玉音放送天皇の肉声による放送)を当日聞かされた臣民たちのうち,いったいどのくらいの比率で,その主旨を理解できたかといえば,その天皇裕仁の発声が特有の音律であったことと,原文のむずかしい漢語的な表現とがあいまって,ほとんどの人びとがすぐには理解できなかった。

 いいかえると,一部の日本語力が秀でていた人たち,あるいはそれまでの戦況の推移(悪化)を事前に確かに認識できていた人たちしか,その放送の意味をただちには理解(正しく解釈?)できなかったのである。

大東亜戦争終結詔書」(いわゆる〈玉音放送〉原文1枚目画像)

 

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 以上の「詔書」の全文については,さらに以下の画像資料をみてほしい。この詔書を報道した1945年8月15日の『朝日新聞』1面である。

 まず,さきにかかげた新聞画面は,いまから四半世紀前の『朝日新聞』1995年「8月15日」朝刊として配達された “現物の紙面” である。裏2面になるそれぞれ紙面の左上枠外にはA,Bと印刷されているので(通常だと連続して「何面」と記入されているが),別版(別刷り)として制作され,附録として配達されたものと記憶する。

 ともかくも,朝日新聞』はこのようなかたちをもって,敗戦から半世紀が経った「1995年8月15日」という日に「1945年8月15日」の朝刊を複製していた。

 また,つぎにかかげた新聞画面は,この画像資料では「その現物」を複写するさい制約があって,左右の部分と下の部分が切り落としている体裁になっていた点を補うために出してみた。大見出しの文句:「戦争終結の大詔渙發さる」のうち「る」が,この画像には映っていなかった。 

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 前掲した「大東亜戦争終結詔書」(〈玉音放送〉)の原文(原稿の1頁目)について,少し考えてみよう。書き出し(冒頭)の部分からして “疑問のある内容” になっていた点は,以下の記述--玉音放送の中身を分かりやすい日本語になおしているが--をもって,くわしく説明していくところとなる。

 私は,世界の情勢と日本の現状を深く考え,緊急の方法でこの事態を収拾しようとし,忠実なるあなた方臣民に告げる。

 私は政府に対し,「アメリカ,イギリス,中国,ソ連の4カ国に,共同宣言(ポツダム宣言)を受け入れる旨を伝えよ」と指示した。

 そもそも日本臣民が平穏に暮らし,世界が栄え,その喜びを共有することは,歴代天皇の遺した教えで,私もつねにその考えをもちつづけてきた。

 

 アメリカとイギリスに宣戦布告した理由も,日本の自立と東アジアの安定平和を願うからであり,他国の主権を排して,領土を侵すようなことは,もとより私の意志ではない。

 だが,戦争はすでに4年も続き,我が陸海軍の将兵は勇敢に戦い,多くの役人たちも職務に励み,一億臣民も努力し,それぞれが最善を尽くしたが,戦局は必らずしも好転せず,世界情勢もまた日本に不利である。

 

 それだけでなく,敵は新たに残虐な爆弾を使用して,罪のない人びとを殺傷し,その惨害が及ぶ範囲は測りしれない。なおも戦争を続ければ,我が民族の滅亡を招くだけでなく,ひいては人類の文明をも破壊してしまうだろう。

 そのようなことになれば,私はどうして我が子のような臣民を守り,歴代天皇の霊に謝罪できようか。これが,共同宣言に応じるよう政府に指示した理由だ。

 私は,アジアの解放のため日本に協力した友好諸国に対し,遺憾の意を表明せざるをえない。(引用終わり,後略)

 ごくごく率直な感想を述べれば,まったく「よくいうよ」である。なぜ,そういうかについて説明するのが,この記述の意図であった。

 1943年5月31日に御前会議で決定された機密文書『大東亜政略指導大綱』には,つぎのように書かれていた。

 補注)その全文についてはたとえば,「資料:大東亜政略指導大綱 http://www.wayto1945.sakura.ne.jp/APW/APW19430531.html 」を参照されたい。以下につづく記述は,これから一部分が抽出・紹介されている。この紹介・引用の前に,その全文を画像資料で紹介しておく。(クリックで拡大・可)

 

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第二 要綱

   (中略)

 四,対緬(ビルマミャンマー)方策
    昭和18年3月10日大本営政府連絡会議決定 緬甸独立指導要領に基づき施策す

 五,対比(フィリピン)方策
    成るべく速に独立せしむ
    独立の時機は概ね本年10月頃と予定し,極力諸準備を促進す

 六,其他の占領地域に対する方策を左の通定む
    但し  (ロ)   (ニ)  以外は当分発表せず

  (イ) 「マライ」「スマトラ」「ジャワ」「ボルネオ」「セレベス」は帝国領土と決定し,重要          資源の供給源として極力之が開発ならびに民心の把握に努む

  (ロ)   前号各地域に於ては,原住民の民度に応じ努めて政治に参与せしむ

  (ハ) 「ニューギニア」等   (イ) 以外の地域の処理に関しては,前二号に準じ追て定む

  (ニ)   前記各地に於ては当分軍政を実施す

 こう書いてあったわけだが,マレーシアとインドネシア主要部(スマトラ島,ジャワ島,ボルネオ島セレベス海域)は,欧米植民地からの解放どころか,日本領土に編入してしまう方針が明記されている。ニューギニア等の地域もいずれ日本領にするつもりだった。

 また,この「大綱」では,ビルマとフィリピンは独立させるとしているが,いずれも傀儡政権であり,「独立」はみせかけだけのものだった。

 日本は1943年8月にビルマ,10月にフィリピンの「独立」を認め,両国での軍政は形式上は廃止された。しかし1942年8月の「軍政総監指示」は「この独立は軍事,外交,経済等にわたり帝国の強力なる把握下に置かるべき独立なる点特に留意を要する」としており,日本の軍事的支配という実態はなにも変わらなかった。

 この両国および満州国汪政権・タイなど対日協力政権の代表者を東京に集めて,1943年11月,大東亜会議が開かれ,「大東亜共同宣言」を発表したが,占領の実態からかけ離れた美辞麗句をならべたものであった。

 補注)この「大東亜共同宣言」については,その原文(もちろん日本語であるその当時の文章)と現代風に意訳した文章を,次項 ③ において紹介していく。ウィキペディアの解説であるが,最後に添えられていた説明文は,さきにまわして出しておく順序に変えて,引用した。

 

 大東亜共同宣言』1943年5月31日

 a) この『大東亜共同宣言』本文の5項目に関しては,1943〔昭和18〕年8月初旬には,外務省内「戦争目的研究会」で大西洋憲章(1941年)なども大いに参考にするかたちで文案作成がはじまっており,同10月には完成したものとみられる。

 それと別途並行して大東亜省は大川周明や矢部貞治に宣言案を作成させており,それは前文として追加されることになった。大西洋憲章を参考にした本文が普遍的な真理を提唱するのに対し,大東亜省の前文は「米英支配の打破」という時事的な記述に偏っており,論理の接続が悪い所以(ゆえん:理由)とされる。

 日本を除く大東亜会議参加国は,会議2週間前になりようやく意見聴取の場を与えられたが,修正意見は日本側にことごとく拒絶され,結局一字一句の変更もなされずこの文面のまま全会一致で採択された。

 b)  宣言全文』

    ★ 大東亞共同宣言 ★

 

 抑〻世界各國ガ各其ノ所ヲ得相倚リ相扶ケテ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ世界平和確立ノ根本要義ナリ

 然ルニ米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家他民族ヲ抑壓シ特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞ウシ遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ大東亞戰爭ノ原因茲ニ存ス

 大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ其ノ自存自衞ヲ全ウシ左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス

 

 一,大東亞各國ハ協同シテ大東亞ノ安定ヲ確保シ道義ニ基ク共存共榮ノ秩序ヲ建設ス

 一,大東亞各國ハ相互ニ自主獨立ヲ尊重シ互助敦睦ノ實ヲ擧ゲ大東亞ノ親和ヲ確立ス

 一,大東亞各國ハ相互ニ其ノ傳統ヲ尊重シ各民族ノ創造性ヲ伸暢シ大東亞ノ文化ヲ昂揚ス

 一,大東亞各國ハ互惠ノ下緊密ニ提携シ其ノ經濟發展ヲ圖リ大東亞ノ繁榮ヲ增進ス

 一,大東亞各國ハ萬邦トノ交誼ヲ篤ウシ人種的差別ヲ撤廢シ普ク文化ヲ交流シ進ンデ資源ヲ開放シ以テ世界ノ進運ニ貢獻ス

 c) 「現代語」風の日本語に翻訳すると,こうなる

 そもそも世界各国がそれぞれそのところをえて,たがい頼りあい助けあって,すべての国家がともに栄える喜びをともにすることは,世界平和確立の根本です。

 しかし米英は,自国の繁栄のためには,他の国や民族を抑圧し,とくに大東亜(東アジア全般)に対しては飽くなき侵略と搾取をおこない,大東亜を隷属化する野望をむきだしにし,ついには大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争の原因はここにあります。

 大東亜の各国はたがいに提携して大東亜戦争を戦い抜き,大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し,その自存自衞を確保し,つぎの綱領にもとづいて大東亜を建設し,これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

    1 大東亜各国は,協同して大東亜の安定を確保し,道義にもとづく共存共栄の秩序を建設します。

    2 大東亜各国は,相互に自主独立を尊重し,たがいに仲よく助けあって,大東亜の親睦を確立します。

    3 大東亜各国は,相互にその伝統を尊重し,各民族の創造性を伸ばし,大東亜の文化を高めます。

    4 大東亜各国は,互恵のもとに緊密に提携し,その経済発展を図り,大東亜の繁栄を増進します。

    5 大東亜各国は,すべての国との交流を深め,人種差別を撤廃し,広く文化を交流し,すすんで資源を開放し,これによって世界の発展に貢献します。

 さて,この大東亜共同宣言の主旨・内容であるが,問題の敗戦にさいし,昭和天皇が臣民に向けてラジオ放送をした〈玉音放送〉の「文句全体」と比較考量してみるといい。

 天皇裕仁は「大日本帝国」は戦争に負けて降参はしたけれども,けっして「まだ完全には負けていないぞ」と強がりをいっているに等しい表現をしていたことになる。つまり,いささかならず「負け惜しみ」の語感が強く前面に出されていた,と受けとるほかない〈いいぐさ〉になっていた。

 d) この「玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁(読む・考える・書く)」の書き手は,つぎのようにも非常にきびしく,昭和天皇を批判していた。

 補注)ここでその「書き手」とは,前段に出ていた,2019-08-15の「玉音放送でも嘘だらけだった天皇裕仁」と題した記事を公開していたブログ『読む・考える・書く』を指している。

〔記事に戻る→〕 だいたい,フィリピンは日本が「独立」させるまでもなく,以前から米国が1946年7月に独立を与えると約束していた(戦後,約束どおりフィリピン第三共和国として独立)。

 いや,そもそもアジア太平洋戦争じたい,日本が長年にわたって中国を侵略し,その領土を掠めとる戦争を続けてきたことの必然的帰結だったではないか。なにが「他国の主権を排して,領土を侵すようなことは,もとより私の意志ではない」だ。

 また,最終的に降伏を決断した理由も,人民の犠牲を憂慮してのことなどではなく,このまま戦争を続けては自分たち天皇家が神の子孫だという神話的正統性(=「国体」の本質)を担保する「三種の神器」が失われることを恐れてのことだった。

 補注)そのとおりであった。昭和天皇は,臣民(人民・国民)の命というものは「自分(たち)」天皇家:皇族たちが「依って立つ(?)土台(踏み台)」として,必要不可欠な民草であって,だから「汝,臣民たちが大戦争によってもしも根絶やし状態にでもなったら」「自分たちにとって必要不可欠であるその足場がなくなってしまう」と,それはもうひどく恐れたのであった。

 簡単にいってのければ,天皇の赤子(せきし)たちとされる「臣民の存在:日本人」が,民族的な基礎として存続していかなければ,天皇一族も危うくなるどころか,いっしょに消滅してしまう。だからそういった事態(最後まで総力戦を戦い,本土決戦までもやりぬいて,日本全土が焦土化し,日本民族が全滅:滅亡するところ)まで戦争をつづけてはダメだと,そのように裕仁玉音放送のなかで正直に語った。

 だが,その日本語のむずかしいことこのうえなく,ましてやラジオ放送で聴かされた臣民たちの99%は,それを聞いたときなんのことやらすぐには全然理解できなかった。

 なかには,天皇陛下は日本帝国臣民たちに対して,今後も全員が玉砕する敢闘精神をまっとうして戦えといったのではないかと,どうもよく分からないながらもそのように理解しようとする人びともいた。本当の話である。

 いずれにせよ「8月15日正午」の様子は,そういった具合になっていたのだから,これは,まったく笑うにも笑えないような, “ひどくもの悲しい事態” になっていた。

〔記事に戻る ↓ 〕
 e) また,「独白録」〔寺崎英成 = マリコ・テラサキ ミラー『昭和天皇独白録・寺崎英成御用掛日記』文藝春秋,1991年〕をみても,天皇皇位の正統性の象徴としての「三種の神器」の保持に強く固執し,「敵が伊勢湾附近に上陸すれば,伊勢熱田両神宮は直ちに敵の制圧下に入り,神器の移動の余裕はなく,その確保の見込が立たない,これでは国体護持は難しい」という判断から,ポツダム宣言の受諾に踏みきったことが分かる。

 「三種の神器」とは,歴代の天皇が継承してきた三つの神宝,八咫の鏡,草薙の剣,八尺瓊の勾玉の総称であり,そのうち伊勢・熱田両神宮には鏡と剣が祀られている。この「三種の神器」の喪失が「国体」を危うくするという論理は,あまりに神権主義的な色彩が強いために,現代のわれわれには理解しにくいが,現実の天皇の意識のなかでは,こうした判断が大きな比重を占めていたのだろう。

 補注)つまり,昭和天皇は,一番大事であったはずの「臣民全体の運命」よりも,この「三種の神器」によって自分が「天皇である証し」を維持できていることのほうが,数段も〔多分飛び抜けて〕大事だと認識していた。だから,この人が敗戦後になり象徴天皇に表面的には位置づけを変えられたところで,旧態依然であった自分自身の政治意識を変えることなど,至難のことがらであった。

 要は 国家総力戦(大東亜・太平洋戦争)のすえに敗戦という最終場面に至っても,裕仁はなおも,人民に対して平気で嘘を語っていたのだ。

〔以上において,原文中に参照・引用されていた文献箇所〕

  江口圭一『日本の歴史 14  二つの大戦』小学館,1993年,411-412頁。

  吉田 裕『昭和天皇終戦史』岩波新書,1992年,221頁。

 f) 以上,敗戦前までは完全に神聖視されていて,現人神だとまで崇められていたけれども,本当のところでは,ただの平凡な1人の人間でしかなかった人物が,なまじ「天皇という地位」に就いていただけに,しかも明治天皇を深く尊敬するその孫として,自分自身がこの日本という国の最高権力者(主権在君)であった戦前の時代が,第2次大戦の結果:「敗戦」によって瓦解した結果になっていたとしても,

 なお「神武天皇以来の万世一系の末裔」だと意識(信心)する「自分の立場」を必死になって守ろうとしていた,敗戦時における「あのときの態度や気持」は,その「玉音放送」のなかにも色濃く反映されていた。だが,昭和天皇の場合,はっきりいってそうした点に関する自己認識(神:意識)は,基本的に,死ぬまで変化することがなかった。

 

 「『8・15』と天皇制〈上〉『玉音放送』の正体」(『アリの一言』2019年08月15日,https://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/c81332f43ff48f61a90290df0b451967

 この ④ に紹介するのは,ネット上では2日前(旧ブログでの話なのでこの表現になっている)に公表されていた最新の関連記述である。③ の記述にもそのまま重なる内容である。「玉音放送」を歴史的にどう理解するかについて,かなりきびしい批判が披露されている。 

 --「8月15日」は「終戦記念日」とされています(ここでは「敗戦」ではなく一般にいわれている「終戦」という言葉を使います)。なぜこの日が「終戦の日」なのでしょうか?

 日本が連合国のポツダム宣言を受諾したのは「8月14日」。米戦艦ミズーリ号上で降伏文書に調印したのは「9月2日」です。国際的にはこの日が「日本の敗戦日」とされています。ではなぜ日本では「8・15」が「終戦の日」とされているのでしょうか。

 それはこの日,天皇裕仁が「終戦詔書」を読み上げた録音,いわゆる「玉音放送」が流された日だからにほかなりません。(つぎの動画資料,https://www.youtube.com/watch?v=7fazjpI_yAs  は,「聖断を拝す」として「日本ニュース 1945・9・6」が流していたものである)

      出所)https://www.youtube.com/watch?v=7fazjpI_yAs

 1945年8月16日付の朝日新聞は,1面トップに「玉音を拝して感泣嗚咽」の見出しをかかげ,「噫(ああ) 玉音を拝す」と題した社説で,「これは如何なる日ぞ。皇紀二千六百五年八月十五日。この日,われら一億国民は畏多くも玉音を拝したのだ」として「記念すべき日」と繰り返しました(佐藤卓己著『八月十五日の神話ちくま学芸文庫より)。

 国際的な敗戦の調印ではなく,天皇が「国民」に終戦を告げた日を「終戦記念日」あるいは「平和の日」とする。ここに「8・15」の第1のカラクリがあります。では,その「玉音放送」ではなにが語られたのでしょうか。

 メディアやその後の「ドラマ」などを通じて繰り返し流されるのは,「堪えがたきを堪え,忍びがたきを忍び……」のセリフですが,「終戦詔書」の中心はそんな所ではありません。要点を抜粋します。

 ※-1 「米英二国に宣戦する所以もまた実に帝国の自存と東亜の安定(のためで)…他国の主権を排して領土を侵すが如きはもとより朕が志にあらず…」

 

 ※-2 「世界の大勢また我に利あらず……ついにわが民族の滅亡を招来するのみならず延べて人類の文明をも破却すべし……朕何をもってか億兆の赤子を保し,皇祖皇宗の神霊に謝せんや。これ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり」

 

 ※-3「朕はここに国体を護持し得て忠良なるなんじ臣民の赤誠に信倚(しんい=信頼)し,常になんじ臣民とともにあり。もしそれ情の激する所,みだりに事端を滋くし(事件の糸口を多くし)……朕最もこれを戒む。よろしく挙国一家子孫あい伝え,かたく神州の不滅を信じ……国体の精華を発揚し,世界の進運に後れざらんことを期すべし。なんじ臣民それよく朕が意を体せよ」

 以上を現代語で要約すれば,

  1 戦争を始めたのは日本とアジア(東亜)の安定のためで,侵略・植民地支配の意図はなかった

  2 戦局は不利で,臣民を保ち,「皇祖皇宗の神霊」に感謝するため,ポツダム宣言を受諾した

  3 今後も「国体(天皇制)を護持」する

  4 感情に走って事件を起こすな

  5 国を挙げ「神州(帝国日本)の不滅」を信じ,「国体」=天皇制を発揚して世界に後れをとるな

  6 臣民たちよ,この私の思いをよく理解し実行せよ。

 すなわちこれは,天皇裕仁侵略戦争・植民地支配責任の回避,日本の大国主義の継続,その根幹である「国体」=天皇制維持の宣言にほかなりません。これこそが「玉音放送」の正体です。

 補注)ここでは『朝日新聞』2019年8月16日夕刊1面「素粒子」の意見を挙げておく。天皇のことはヨイショ気味に言及するが,首相に対してはそれなりにきびしい発言である。

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 とりわけ,「明仁徳仁」の戦争観と「安倍晋三の戦争観」とは対位的(ほぼ対立的)な関係性にあると理解されうるものの,「裕仁」と「現在の総理大臣」との基本的な立場(歴史観)が意味する帰結は, “ほぼイコールである” という解釈しか導き出せない。

〔記事に戻る→〕 なかんずく,この「玉音放送」が流された日を,日本人は毎年「終戦の日」として記念してきたのです。ここに,今日の日本政府・日本国民の侵略戦争・植民地支配責任に対する無反省・無責任の原点があるのではないでしょうか。

 そしてもうひとつ,銘記しなければならないことがあります。

 それは,「あの放送が日本本土だけでなく,朝鮮の地でも流されたこと…あの放送はその地に住む日本人とともに,朝鮮人にも向けられてい(た)」(歴史学研究会編『日朝関係史を考える』青木書店)という事実です。

 補注)それはそうである。前段にも触れてみたように,戦争中の「一億,火の玉!」は植民地支配下に置かれていた朝鮮人や台湾人も,帝国臣民の仲間に入れて(道連れにして)叫ばれていた標語であった。

【参考画像】


  ◆-1「進め一億火の玉だ・画像1」『『朝日新聞昭和16年12月24日夕刊から。

 

     f:id:socialsciencereview:20200812085126j:plain

    出所)http://photozou.jp/photo/show/489837/102003801/?lang=vi

 

  ◆-2「勧め一億火の玉だ・画像2」  

   

     f:id:socialsciencereview:20200812085738j:plain

   出所)https://japaneseclass.jp/trends/about/進め一億火の玉だ

 

  ◆-3 この画像は現代へのパロディ。人物はマスター「アベ・シンゾウ兄」である。この人は「軍国主義を志向する」がゆえに,「戦後レジームからの脱却」に恋わずらいしつつ,国家全体主義を愛する「日本国首相」であった。しかし,そのまた実体は対米服属路線の積極的推進者であり,国民たちを不幸のドン底まで誘導しないうちは,総理大臣の地位から去るつもりがない。

 

     f:id:socialsciencereview:20200812091453j:plain

   出所)https://matome.naver.jp/odai/2147048809784018001

 

 裕仁は日本人だけでなく朝鮮人に対しても,植民地支配の責任をいい逃れ,反発を抑え,さらに天皇制を維持することを宣言し,それに従うよう命じたのです。なんというおぞましさでしょう。戦争に敗れてもなお朝鮮に対する植民地支配意識が抜けない,天皇裕仁・日本の根深い差別性がここに表われています。(引用終わり)

 話が若干飛躍するかもしれないが,最近の日本国内でインフルエンザ〔2020年に入ってだと新型コロナウイルス〕のようにはやっている嫌韓意識は,もしかすると,大日本帝国時代から連続する「この国の伝統的な社会意識」の「再発症状」だったのかとまで,疑いたくもなる。

 日本が第2次大戦で敗戦に至るまでのその以前の段階で戦争を止めていれば,台湾と朝鮮はその後も植民地として保有できていたはずだと回想することは,関係する歴史研究家にいわせるまでもなく,「歴史のイフはない」けれども,そのひとつのありえた〈歴史の選択肢〉だったといえる。ただし,その後において独立運動が必らず起きる必然性を含めたうえでの “仮の話題” であるが……。

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 本ブログ内では,以前に紹介したことがあるが,天皇裕仁に関する韓国紙のカリカチュアを,最後に(上に)重ねて出しておく。日本人自身が昭和天皇の「玉音放送」に関して抱いて理解してきた次元とは,また完全にといっていいくらい別個に異なっていた「歴史の展開」が,旧大日本帝国の植民地支配を受けてきた国々の側においては,記憶されている。

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