敗戦後史における野坂参三,その「蔭の姿」の真相

 愛される共産党といった野坂參三は敗戦直後混乱期の日本政治において,どのような役目を演じていたか

          (2009年7月21日)を(2020年8月20日)に復活・再掲・補筆

 

  【要 点】 野坂參三の秘められた天皇擁護論

 

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  1946年前半の事件

 1) 野坂參三歓迎国民大会

 大森 実『戦後秘史4 赤旗とGHQ-』(講談社,昭和50年)の第3章「蜜月の終焉」は,1946年1月26日午後,中国から日本へ帰国した『野坂參三歓迎国民大会』が,東京の日比谷公園で開催された出来事に言及している(190頁以下)。この大会は,必ずしも共産党の支持者ではない日本の人びとの,つまり超党派による参加者も広範囲に集めていた。当日の主賓である野坂は,こう描かれている。

 野坂は痩せてもの静かな男で,大学教授の風格があった。演説の気どりもなく,彼は静かに語った--人民に食糧と住宅を与え,戦争犯罪人を追放し,小作人に土地を与え,産業を復興し,復員者を救済する連立内閣が政権をとらねばならない,と彼はいった(194頁)。

 

 この『野坂參三歓迎国民大会』が終わろうとしたとき,徳田球一が「いますぐ,首相官邸におしかけよ。政府に総辞職を迫れ!」と怒号すると,この号令のしたがい3万人もの大群衆が日比谷公園をあふれだし,首相官邸に向かった。当時の内閣は幣原喜重郎が首相を務めていた(195-196頁)。

 

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 1946年4月7日にはつづいて,『幣原反動内閣打倒人民大会』が日比谷公演広場で開催された。この大会への参加者は7万人,当時にして未曾有というべき圧倒的数字を記録した。当日,都電・国鉄などはその参加者を無賃で乗車させた。参加者の内訳は,関東労協2万人,朝鮮人連盟2万人,国鉄5千人,東芝5千人を筆頭に,野次馬都民もくわわって,参加者は大群衆となって日比谷へと人間津波のように押し寄せた(196-197頁)。

 この人民大会の直後,首相官邸に向かったデモ隊に対して発砲する事件が起きた。幣原内閣は4月22日に総辞職している。この年の5月1日にメーデーが復活する。

 2) 朝鮮人の参加者数

 さて,以上の記述のなかで,1946年4月7日『幣原反動内閣打倒人民大会』への参加者のうち朝鮮人2万人という数字が出ていた。日本帝国の敗戦時,日本の本土に2百万人も居住していた朝鮮人は,その大部分〔3分の2ほど〕がすでに帰国していたが,60万人近い朝鮮人はその後も日本に住みつづけていた。いまでは,その子孫に当たる在日韓国・朝鮮人は3世・4世が中心の世代になっている。

 当時,日本の全国:各地に住んでいたその「約60万人の朝鮮人のうち2万人」,つまり,それら朝鮮人すべての「老若男女30人につき1人」が,その大会に参加したことになる。これをごく単純に当時における日本人の人口に換算すると,「7千数百万人÷ 30」=「240~250万人」が東京の日比谷に集合したことになる。

 それはともかく,『幣原反動内閣打倒人民大会』へ2万人もの在日朝鮮人〔このころはまだ大韓民国(韓国)も朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)も建国されていない時点なので朝鮮人で一括表現するが,当時において彼らは旧・大日本帝国臣民であった〕が参加したいた事実に驚くほかない。敗戦後日本の闇市朝鮮人などが幅を利かし,無法な行為を重ねていたといって,これをひどく恨む日本人も多いが,そのあたりの歴史の経緯を完全に無視した感覚的な理解に留まっていた。

 だが,そうした日本人側の示した気持は,それまで奴隷同然の無権利状態を強いられ,人権蹂躙どころか虫けら同然にあつかわれていた彼らの気持を,まったく理解しない庶民の感情に終始していた。当時は,経済社会が極度に低迷・混乱し,食糧もろくに入手できず,雨露をしのぐ家さえろくになかったころ,国際法の見地でいえばまだ日本の帝国臣民(植民地出身者だから)でもあるはずの「在日する朝鮮人たち」が,内閣を打倒せよと参集した日本国民=人民大会に「万単位で参加していた」という事実があったのである。

 それよりまえの1945年10月10日,戦前・戦時中に長期間,政治犯として刑務所に押しこめられていた政治犯約3千人が釈放されている。そのとき解放されたのが日本共産党徳田球一,志賀義雄などであった。この段落を書くために参照した文献,昭和史研究会編『事件・世相・記録 昭和史事典』(講談社,昭和59年)の該当個所「1945(昭和20)年10月10日」は,実はそのとき解放されていた共産党幹部の1人,それも朝鮮人金 天海の氏名を出していない。

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 出所)http://ja.wikipedia.org/wiki/金天海

 しかし,この金 天海は,1945年12月1日から3日まで代々木の日本共産党本部で開催された日本共産党第4回大会において,中央委員に選出されただけでなく,その中核である7人の政治局員にも選ばれていた人物である。戦前における社会主義運動史においてどのような関与をしてきたかは,フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』「金天海」が相当くわしく説明している。

 戦前における日本共産党の歴史のみならず,敗戦後,昭和20年代前半における共産党の政治活動にとって在日朝鮮人の協力・貢献,いいかえれば,とくに実働・支援部隊としてのその大きな役割・実績を無視したら,同党の歴史は画竜点睛を欠くものになる。それでも,昭和史研究会編『事件・世相・記録 昭和史事典』などは,その史実をあえて明述しない記述の方法を採っていた。それは,同事典の編集方針を反映した記述上の特徴と受けとることも可能である。

 

  敗戦直後における日本社会と日本共産党朝鮮人

 1) 日本共産党支えた朝鮮人

 つぎにかかげる写真をみてほしい。これは,1945年10月10日に府中刑務所から釈放された日本共産党関係者の写真である。先頭を笑顔で歩くのが黒木重徳,画面でその左後が徳田球一,右後が金 天海である。

 この写真に映っている出迎えた人たちの過半数は,在日朝鮮人であった。この事実は,専門の歴史研究者をのぞき,日本人自身がほとんどがしらないか,しっている人でも忘れたい記憶である。

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 出所)日付は1945年10月10日。神田文人『昭和の歴史 第8巻 占領と民主主義』小学館,1983年,93頁。

 論稿「〈証言:日本の社会運動〉救援運動の再建と政治犯の釈放(3・完)-梨木作次郎 氏に聞く-」『大原社会問題研究所雑誌』第523号(2002年6月,49頁右段)は,こう記述している。

 豊多摩刑務所や府中刑務所に,あるいは横浜刑務所に朝鮮人の方が何人も治安維持法により囚われておりました。府中刑務所には徳田さんや志賀さんらと一緒に,金 天海さんや李 康勲という李王朝の血筋をひく独立運動家が入っておりました。金 天海さんは1945年12月,日本共産党が合法再建を確認した第4回大会のとき中央委員になっていますね。私自身,調査したことはありませんけれども,敗戦の時点で,獄中にあった朝鮮人は相当数に及んでいたと思います。


 
 竹前栄治『戦後占領史』(岩波書店,2002年)は,敗戦直後における在日朝鮮人の役割について,「日本の戦後史において,政治犯が釈放されるまでの」「『十日間』の意味は決定的に重要である」「戦後史のなかで高く評価しなければならない」と指摘している(朴 慶植『解放後在日朝鮮人運動史』三一書房,1989年,53頁)。

 

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 2) ある説明-日本共産党史の一コマ-

 『ぼやきくっくり』というあるブログでこのブロガーは,日本共産党の歴史をよく勉強したうえで「共産党在日朝鮮人の関係を辿ってみよう」といい,つぎのような関連する記述を与えている。少し長めの引用となる(なお,一部分であえて順逆に引用した箇所や改行を除去した段落もある)。 

  1922年(大正11年)の創立時から,〔日本〕共産党は植民地解放の方針に基づき,朝鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン共産主義インターナショナル)の方針で,1930年代以降,日本在住の朝鮮人共産主義者は,日本共産党に所属した。ちょうど在米中の片山 潜がアメリ共産党に所属し,在仏中のホー・チミンや鄧 小平がフランス共産党に入党したのと同じである。

 

 いまでは〔日本共産〕党史のどこにも書かれておらず,すっかり忘れ去られているが,実は日本共産党は戦前から戦後にかけて,在日朝鮮人とともに歩み,大いに助けられた。戦前から,日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。たとえば,共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は,最盛時の1931年(昭和6年)ごろ,組合員数は3万人だったが,うち3割を朝鮮人が占めていた。

 

 1945年(昭和20年),敗戦の年の10月,徳田球一共産党幹部が,府中刑務所を出獄した。その際,〈歓迎 出獄戦士 万歳〉の幔幕を掲げ,熱狂的に出迎えたのは,数多くの朝鮮人だった。その後,催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは,獄中15年の不屈の闘士,金 天海であった。金 天海は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。

 

 その年の11月,共産党は再建の第一歩として,第4回党大会を準備するため,全国協議会を開催する。全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり,行動綱領草案,規約草案,日本共産党の当面の政策を採択した。さらに,1ヶ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。

 

 その準備委員に選任されたのが,徳田球一,志賀義雄,袴田里見,金 天海,宮本顕治,黒木重徳,神山茂夫の7人だった。この名簿順位は,当時の党内ランクを示している。会議では,金 天海を責任者として,朝鮮人部を設置することも決めた。実は,日本共産党の再建資金のほとんどは,当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは,党史には一行も触れられていない。

 

 金 天海は,同年12月1日に開かれた共産党第4回党大会で,7人の中央委員,5人の政治局員の一人となった。この党大会では中央委員候補に,同じ在日の宋性徹も選ばれている。翌〔19〕46年(昭和21年)2月の第5回党大会では,同じく在日の金 斗鎔,朴 恩哲,保坂浩明(李 浩明)も中央委員候補となり,後に遠坂 寛(崔 斗煥)もくわえられた。第5回党大会当時の党員数はおよそ6千人。うち約千人が朝鮮人だったという。一大勢力であった。

 

 金 天海は,1898年(明治31年),慶尚南道蔚山生まれ。本名を金 鶴儀といった。1920年(大正9年),仏教の勉強のために来日。日本大学社会科に入学したものの中退し,運動に身を投じた。活動家としてすぐに頭角を現し,1920年代には,早くも在日朝鮮労働総同盟(在日労総)委員長に就任。朝鮮共産党日本総局責任秘書も歴任する。責任秘書とは,今でいえば総書記とか書記長ということで,実質的な組織の責任者であった。人情家で在日朝鮮人の間では信望が厚かった。

 

 筋金入りのコミュニストだった金 天海は,戦前,2度投獄された。戦後,出獄後に朝連の最高顧問に就任している。1949 年(昭和24年),朝連が強制的に解散させられる際,金 天海は公職追放を受け,北朝鮮へ密出国する。北朝鮮では朝鮮労働党中央委員,社会部長,祖国統一民主主義戦線議長,最高人民会議常任委員を務めるなど,要職にあった。しかし,1970年代の金 日成個人崇拝の高まり以降,消息はまったくわからない。

 註記)http://kukkuri.jpn.org/boyakikukkuri2/log/eid289.html 〔 〕内補足は筆者。若干の補正もくわえてある。

 補注)前記の http://ja.wikipedia.org/wiki/金天海 には,もっと詳細な記述もあるので,こちらの参照も薦めておきたい。

 

  在日外国人と在日日本人

 1) 日本社会と在日朝鮮人

 敗戦直後における日本社会は,闇市などで暗躍し,横暴な行動ばかりしてきたかのようなイメージをもって在日朝鮮人像を固定化してきた。それまで,日本帝国が植民地支配をしてきた歴史的な関係のなかで,日本本土にも約2百万人もの朝鮮人が居住せざるをえなくなった〈過去の実績〉を直視することもないまま,その後においては,日本社会における在日外国人に対する「差別と偏見」ばかりを,新しく形成させ蓄積してもきた。

 日本共産党も,敗戦しばらくの期間,党の組織的な活動が在日朝鮮人のおかげをどのくらい大きく享受してきたかについて,いまではなにも思いだしたくないらしい。だが,こうした歴史の事実にフタをする姿勢を,いつまでもかえない考えなのであれば,この党の利害・関心のありか,いいかえれば党派的な独善性も,これからも同じように是正できない。敗戦後の共産党は,朝鮮人たちとともに政治活動をしてきたという史実において,まさしくインター・ナショナルな志向性をもっていたのである。その後,共産党在日朝鮮人たちとは袂を分かつことになるが,この論点について,ここではとくに触れない。

 敗戦直後,まったく元気をなくした日本国民であった。けれども,占領軍の総司令部(GHQ)が,戦後の民主化--日本の経済・労働・農業・教育などの改革--の一環として,一定の枠組は踏まえながらも,共産党民主化を相応に担う政治勢力とみなしていた。もっとも,1947年2月1日に決行しようとしたゼネストは,占領軍当局に一喝・干渉され,とたんにしぼんでしまった。日本国はいかんせん,連合軍の占領統治下にあった事実を,日本国民は思いしらされた。こうした時代状況のなかで一時期,庶民の目先では闇市などで解放国民だといって大きな顔をしてのさばった朝鮮人たちを憎み,帝国日本の時代からもっていた骨絡みの差別・偏見もあって,彼らをより強く嫌う日本社会の風潮が生まれた。

 日本社会においては,日本人自身はその存在をよくしらないけれども,非常に多くの在日韓国・朝鮮人があらゆる方面で活躍しながら,この日本という国をいっしょに支えてきている歴史が,いまなお事実として継続している(その点をインターネット上であれやこれや詮索するサイトも多くある)。敗戦直後の日本共産党からして,朝鮮人の強力な活動や身を挺した支援があってこそ,存在しえていたのである。他方で,日本政治にかかわっては保守・右翼・国粋の諸集団勢力に,またヤクザの世界を裏側から強力に支えてきた実働勢力としても,多くの在日朝鮮人が参画してきている。

 ウヨクだサヨクだ(最近はネトウヨだパヨクだ)と軽いノリで政治的立場を形容・分類・裁断する風潮が強くある「最近の軽佻浮薄なSNS的素人論評家たち」にとってみれば,なんということだ,日本の政治史をみると左にも右にも,在日韓国・朝鮮人がものすごく濃い関係を保ちながら共存・共生してきた歴史がある,ということになる。密やかに日本国籍を取得し〔帰化し〕,韓国・朝鮮の血筋である事実を必死になって隠しとおしている在日系の芸能人もたくさんいる。

 このごろは,戦前・戦中から日本に暮らしてきた在日韓国・朝鮮人も,外国籍ではいろいろ面倒なことも多いため,実利的な立場からも日本国籍をとる者がますます増加している。属地主義の立場による国籍の付与・取得であれば,帝国主義の時代からの遺産集団である「定住・在日外国人としての韓国・朝鮮人」は,とうの昔から日本国籍をもっていて当然であったが,敗戦後の日本政府はその措置を徹底的に拒否していた。

 かつては帝国臣民としてともに戦争も戦わせ,ともに艱難辛苦も味わせてきた見地からみても,彼らが日本国籍保有していて,しごく当たりまえであった。ところが,この日本国は血統主義の立場から,くわえてアジア諸民族に対する差別・偏見の価値観をいつまでも払拭できなかったせいもあって,長いあいだこの国に暮らしてきた「かつての帝国臣民」を,まともに仲間あつかいしようとしてこなかった。こうした処遇は歴史的に回顧するに,あまりにも不当であり,また非人道的であった。 

 2) 「愛される共産党」の虚妄-歴史的に果たしたその反動的な性格-

 本日の本論の話題に戻る。以上の記述に鑑みれば日本共産党は,在日する韓国・朝鮮人の権利や生活をもっと大事する政党であるべきである。創価学会政教一致的な支援団体とする公明党は,現実的な利害,すなわち創価学会員には在日韓国・朝鮮人も多くおり,またとくに日本国籍を取得した彼らの票がほしいために,この「在日」関係者の利害を意識的にとりいれた党略を採用している。日本共産党は党略的な観点でも,もっと在日韓国・朝鮮人を大切にすべきであり,北朝鮮や韓国との政治的な反発・敵対の関係にばかりとらわれてきた姿勢は,抜本的に修正・改善すべきである。

 さて,野坂參三が敗戦後,「愛される共産党」といっていたが,それまで彼はすでに「ニセ共産党員:国際的4重スパイの立場」から日本の天皇天皇制を残すように画策してきた。これは,日本共産党出獄同志〔徳田球一・志賀義雄・外一同〕が「1945年10月10日に公表した」『人民に訴ふ』の基本精神に反する「天皇天皇制に関する」思想とその実践を記録したことになる。 

 『人民に訴ふ』は,こう訴えていた。その「三,我々の目標は天皇制を打倒して,人民の総意に基く人民共和制の樹立にある」。しかし,日本はいまだに「象徴としての天皇」を《疑似君主》として戴いている国である。ところが,新しい日本国憲法をもって占領軍が日本に与えた天皇の地位は,共和制が日本に根付く条件を奪ったのである。

 以上の記述については,2日前に記述した「本(旧・々)ブログ,2009.7.18」「日本共産党野坂参三」があった 註記)。21世紀のいまとなっては,野坂の言動が,日本の天皇天皇制,つまり 1945年までの立憲君主制を共和制に変革することを妨げる政治感覚の持ち主であったことが,より確実に理解できる。

 註記)この関連する記述は本稿よりもさきに公開されていた。できれば,なるべく早く復活させるつもりである。再掲・公表ができしだい,この記述の末尾にその住所(リンク)を提示する。

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 出所)https://ja.wikipedia.org/wiki/女性参政権

 補注)1946年4月10日の第22回衆議院議員総選挙では,日本共産党が合法政党として認められ,さらに女性参政権が認められた初の総選挙になった。女性議員39人が当選した。

 

  「02 - 徳田球一 - 1946」(2010/05/12,https://www.youtube.com/watch?v=4sKTDZydyUk)の動画のなかには,当時のデモ行進を映した場面がある。その『先頭に共産党の幹部と「コーリアンズ」(在日する朝鮮人たち)がいる』という英語のナーレーションも聞きとれる。

 野坂參三は,共産党員がよって立つべき社会主義的な政治思想に忠実にしたがい,実践する政治行動をしていなかった。野坂は,日本民族の〈過去からのしがらみ〉を振りほどくしぐさを表面上は演じていながらも,根本では天皇天皇制廃絶のために必要な日本人民の意識改革を,故意に先送りさせていた。彼はそうした意味で,敗戦後における日本の民主主義の状態を不全な水準に足止めさせておく仕事をした。つまり,反動的な役目を存分に果たしてきた。

 社会主義天皇天皇制は水と油の対立関係にあり,両立しえない相手同士である。だから,旧日本帝国は治安維持法まで制定・公布・施行し,社会主義思想とこの実際の運動を徹底的にとりしまってきた。特高や軍警察が,日本共産党をはじめ,反体制運動につながる政治思想を有するあらゆる結社を目の敵にしてきたのは,すべて天皇天皇制を守護するためであった。

 野坂は,大日本帝国支配層から共産党に送りこまれた第五列の一員,すなわち共産党の裏切者であり,それも最初からの確信犯であった。野坂が口にした,天皇を否定しない「愛される共産党」という標語は,これを逆立ちさせれば「愛される天皇制」の合言葉になる。実に,みえすいた,下手なパロディになっていた。それでは,共産党の存在価値はゼロである。

 戦前・戦中に共産党の仲間を日本政府当局者に売りわたしていた野坂の行為は,戦後になると「象徴」天皇--国民に愛される平和(!)が好きであったと,根本的に修正された裕仁像(という虚偽のイデオロギー)--を頂点に置いた,この国家体制を支持し補強するためのものになっていた。彼は,共産党を否定する国家側に対して,この党の秘密情報を提供していた。

 共産党の最高幹部であった野坂はもちろん,一貫して「天皇制打倒」を政治信条としていた。ところが,本当は,心の底で日本民族の1人として天皇天皇制にこだわり,否定などしていなかった。それでいながら,天皇天皇制を全面的に否定し,この国体の変革を意図する仲間を,国家権力側に密告しつづけてきた。野坂は,共産党幹部として日本国のためによく働いてきた〈正真正銘のスパイ〉であった。

 昭和天皇は生前,野坂に感謝のことばを送ったことがあるのかどうか,筆者は寡聞にしてしらない。

 --本項につづけて復活・公表す本(旧・々)ブログ「2009.7.18」「日本共産党野坂参三」(  ↓  )は,以上に指摘した野坂参三の問題をさらに議論している。

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