旧「満州国生まれ」に日本人としては,桜の花を日本民族(?)的に観賞できなかった「日本の知識人:山崎正和」の正直な発言

 「サクラ吹雪」は日本人にしか理解できない風物・景観なのか,旧満洲生まれの山崎正和は「それが分からない」と語っていたというが,逆に日本生まれの外国人にはそれが理解できるのかもしれない

 

  要点:1 「桜は日本だけに咲いている木」ではないいまの時代

  要点:2 昔,旧大日本帝国の属国だった〈満洲帝国〉で幼年期から少年期を過ごした山崎正和の「サクラ」観

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 「〈評伝〉社交楽しんだ知の巨匠 『登竜門』サントリー学芸賞創設 山崎正和さん死去」朝日新聞』2020年8月22日31面「社会」


 山崎正和さん〔1934年生まれ〕は青年時代にマルクス主義と決別し,思想的に保守,あるいは現実主義と分類されることが多かった。しかし,そこで強調されがちな日本的な情緒とは無縁だった。(▼1面参照)

 旧満州で育ち,14歳で戻った日本文化の世界は,みずからの大陸的な感性とかけはなれていた。「サクラをみても美しいと思わなかったし,和歌などの伝統的な文芸にもなじめなかった。俳句は年を取ってやっと分かるようになりましたが」。

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 そう聞かされて意外だった。劇作家として名を上げた「世阿弥」は室町時代の話ではないか。問い返すと山崎さんは「室町時代ルネサンスにも似た近代的世界だったのですよ」とほほえんだ。身分と無関係に個人の趣味や決断がたたえられる時代は,日本では珍しい。「日本にも室町があることを発見し,救われた思いでとびついたものです」

 この内なる違和や分裂の自覚が,劇作から文芸評論や社会評論へと手を広げるなかで,独特の人間論に昇華していったのだと思う。

 人々はたがいに異なるからこそ対話をし,社交をする。そこで求められるのはある種の演技だ。山崎さんの主著のひとつは「演技する精神」。「社交する人間」という著作もある。「柔らかい個人主義の誕生」は「現状肯定の楽観論」と受け止められることもあったが,あえて良いところをみつける演技としての楽観論だったのではないか。

 論ずるだけでなく,実際に人との対話や社交を楽しむ人だった。おしゃべりでジョークを欠かさない。「入試問題に出されると迷惑だ。若い人が僕のことを嫌いになるから」と聞かされたこともある。

 山崎流の社交の姿は,創設から30年以上かかわりつづけ,みずから「僕の一番の業績かもしれない」と語っていたサントリー学芸賞に表われていた。学際的な志向をもつ若手学者の著書を思想傾向にこだわらず顕彰した。受賞者の多くは今の主要な文化人になっている。それは日本にありがちな学閥ではなく,知的で適度な距離を保っていた。

 1960年代の黄金期の米国に留学し,ニューヨークの劇場でみずからの戯曲を上演。米論壇誌フォーリン・アフェアーズ」に執筆した数少ない日本人の1人であり,政治的には親米のスタンスが変わらなかった。

 イラク戦争でも米国の行動を肯定した。開戦から4年後,朝日新聞は賛成論を語った知識人みずか自らの言説を振り返ってもらう企画を立てた。断られるかと思ったが,山崎さんは同僚の依頼に迷うことなく登場してくれた。立場を超えて議論の場を尊重する「演技」を貫いたという意味で,フェアな人だった。

 1)芸術文化の力信じていた

 「世阿弥」「獅子を飼う」などの山崎戯曲を手がけた演出家の栗山民也さんの話。 山崎さんが舞台制作集団「ひょうご舞台芸術」で芸術監督をされていたときです。ユダヤ人迫害を描く舞台「GHETTO / ゲットー」を私が企画し,阪神大震災の半年後に上演しました。山崎さんは兵庫県に対して「おにぎりか文化か」という話をしたそうです。「いまはおにぎりだけど,人は文化なしに生きていられない」と。芸術文化の力を信じていた哲学者だと思います。

 戯曲は難解なところもあるんですが,声に出すとなにかがみえてくる。根っこのところで守るべきものをもち,言葉を自由に操った。歴史家でもありました。権威にあらがうのではなく,権威によって時代は変わっていく,という見方をされていたと思います。

 2)好奇心でどこでもいく人

 政治学者・御厨 貴さんの話。 幼少時の旧満州での体験や政治への関心が,大学に埋もれない「行動する人」を作ったサントリー文化財団で分野を超えた研究者のつながりを作れたのも,その器の大きさゆえだ。政治の真実をみるなら中枢にと早くから内閣官房の研究会に参加したが,政府寄りになるわけでなく書くものは自律的だった。文化と政治を往復しながら,知的好奇心に突き動かされればどこにでもいく人だった。(引用終わり)

 

 満洲にちなむ有名人」『日本の新聞の見方』2008-08-15 10:15:33,https://blog.goo.ne.jp/qingmutong_2008/e/e0e6f34d96c47f13abacf37f1f23da45

 1945年8月の敗戦前は中国の東北地方に実在していた旧大日本帝国の「カイライ国家:満洲帝国」(これは1934年3月からの名称で,1932年3月に建国したさいは「満洲国」と称した)には,多くの日本人たちが移住し,暮らしていた。

 山崎正和も,以下のごとき「当時までの満洲国人口統計」のなかに「日本人の1人」として計算されていたわけである。たとえば,1940年(満洲帝国の元号では「康徳」7年)10月1日における,この満洲国の人口は4108万0907人であった。その男女比は 120対100といちじるしく不均衡であった。

 満州国・国務院国勢調査1940年によれば,同時期の満洲国の人口は4323万3954人,男女比は123.8:100であった。男女間に統計の開きがあるのは,警察戸口調査においては現住人口調査主義を,臨時国勢調査においては現在人口調査主義を採用したことによる。

 1940年における人口の構成は,こうなっていた。

 「満洲国」の全人口(と全人口に占める民族別の割合)

   満洲人(漢族,満洲族)     3888万5562人 (94.65%)
   日本人               212万8582人 (  5.18%)
   その他外国人白系ロシア人を含む)      6万6783人 (  0.16%)

  註記) https://www.weblio.jp/wkpja/content/%E6%BA%80%E5%B7%9E%E5%9B%BD_%E4%BA%BA%E5%8F%A3満州国_人口)

 上記の「日本人」のなかには,130万9千人の朝鮮人を含む。台湾人は朝鮮人に含まれているので,この1940年における日本人人口は,「212万8582人 - 130万9千人」で「ほぼ,82万人」となる。

 その後の年次において満州国に在住していた日本人は,発行されたパスポートによって把握される数値として,少し増えた87万4348人が計上されている。ただし,戦前の移民統計は外務省と拓務省により集計されており,合法的に出国した「移民」に発行されたパスポート数にもとづいており,この満洲国関連の人口統計は,より正確には把握しきれていない。けれども敗戦の年には,軍人を除けば,おおよそ100万人に近い日本人が,満洲には居住・滞在していたと推測される。

 中華人民共和国在福岡総領事館のサイト(http://www.chn-consulate-fukuoka.or.jp/jpn/xwdt/t259441.htm)をのぞくと,『侵略の道具から友好の種へ  在留日本人送還60周年 (1) 』と題するコラムが設けてあり,「100万人を数える在留日本人は,主に中国東北地方に暮らし,日本による同地方への侵略政策と密接な関係をもっていた。」という記述がみえ,上記推測を傍証する。

 註記)「田母神論文に見る岸 信介の亡霊 その9 中国人労働者にとっては『地獄の満州国』」(中編)満州住民人口推定の試み」平成21〔2009〕年2月2日,http://www.inaco.co.jp/isaac/back/023-9/023-9-2.htm

 満洲(帝)国に関してとなれば,敗戦時までのまともな人口統計は,どうやらみつけにくいというか,正式には調査のうえまとめられていなかったと受けとるほかない。ともかく,敗戦時において満洲地域に在住していた日本人(満洲国人であったが,実体は日本国籍人であった)は,100万人ほど存在していたわけである。

 註記)以下は,「満洲にちなむ有名人」『日本の新聞の見方』2008-08-15 10:15:33,https://blog.goo.ne.jp/qingmutong_2008/e/e0e6f34d96c47f13abacf37f1f23da45 から。

 ここでつぎに挙げる人物たちは,敗戦時まで在満〔していた〕日本人であった。著名人のごく一部を挙げている。

 a) 赤塚不二夫

 満洲熱河省に生まれ後奉天(現瀋陽)に住む。父は憲兵で「バカボンのパパ」のモデル。近所に後同じ漫画の道に進むことになる “ちば てつや” がいた。

 タモリがまだ無名で,赤塚の家に居候していたころ,テレビに出たことがある。赤塚がうちにおもしろい男がいるんだといって,のちのタモリに「お前なにかやってみろ」といったら,タモリは北京放送の真似をやっていた。

 その後,タモリも有名になったが,彼の口から大恩人であるはずの赤塚不二夫の名前を聞いたことがなかったので,彼も忘恩の徒とか思っていたが,先日赤塚の葬儀で真情あふれる弔辞を読んだとしってみなおした。

 補注)つぎは,本ブログ内の参考記事,2019年12月29日の記述である。

 b) 小澤征爾

 満洲奉天の生まれ。父は歯科医の小澤開作。ちょっと詳しい近代史には彼の名もでてくる。もちろん歯科医としてではなく満洲青年連盟,満洲国協和会という,満洲の日本人社会にあって,満蒙を中国本土から切り離そうとする政治運動を目的とする組織の中心メンバーとして。

 彼は立場上,関東軍将校とも親しく,参謀大佐板垣征四郎の「征」と同中佐石原莞爾の「爾」をとって息子に征爾と名づけた。なお,この2人の将校は満洲事変の首謀者でもある。 板垣はのち,大将,陸軍大臣A級戦犯として死刑。石原は中将。石原については海軍の山本五十六と並んで,いまなお崇拝者が多い。

 c) なかにし礼

 満洲牡丹江市の生まれ。両親は同市で日本酒醸造会社を経営し,関東軍とのコネで商売は大いに繁盛していたが,ソ連参戦と敗戦ですべてを失った。母の一生を作詞家なかにし礼は『赤い月』に書いた。実におもしろく,上下2冊を二晩で読んだ。これも映画化されたが,あまり面白くなかった。

 補注)本ブログ筆者は,なかにし礼について,旧ブログになかでとりあげていた。現在は未公表状態なので,その復活・再掲を考慮している。

 d) 板東英二

 満洲に生まれる。詳細は不詳。元中日ドラゴンズ選手,タレント,作家。甲子園での板東の徳島商業と魚津高校との18回の延長戦は,いまでも語りつがれている。

 彼の実家のある板東町は,板東俘虜収容所のあったところでもある。ここに収容された中国青島要塞のドイツ人俘虜達が苦労してベートーベンの第九を演奏したエピソードは,一昨〔2006〕年『バルトの楽園』として映画化された(主演:松平 健)。

 なお,以上の4名は満洲で生まれ敗戦時は幼少であった人たちである。そんな人たちは歌手加藤登紀子(ハルピン),作家清岡卓行(大連)など,まだたくさんいるが,きりがないのでこのくらいにする。なお清岡は敗戦時に23歳。

 e) 新田次郎(本名藤原寛人) 

 満州国気象庁(当時新京,現長春)の役人。多くの関東軍将校が,ソ連の参戦と同時に軍の特権を利用して一般市民や兵士を見捨ててわれさきに日本に逃げ帰り,「皇軍」の末路にふさわしく振舞ったが,彼は役人としての使命感からそのまま踏みとどまり,妻子だけを帰国させた。彼はその後1年間,中国共産党軍によって抑留されたが無事帰国。

 補注)中国人は陰で日本軍(皇軍)のことを「蝗軍」と罵っていた。中国語でも「皇」と「蝗」は発音は同じだが,「蝗」は稲を食う害虫イナゴ。

 妻の藤原ていは,その惨憺たる苦労をして息子たちとともに日本に帰りついた経験を本に書いた。それが戦後の大ベストセラー『流れる星は生きている』。その子がお茶の水女子大学の数学の先生,藤原正彦。ベストセラー『国家の品格』の著者といった方がわかりやすい。

 なお,新田次郎の代表作『八甲田山死の彷徨』は気象に詳しい彼ならではの作品。これは映画化された。

 e) 三波春夫

 敗戦時一兵士として満洲にあり,シベリアに4年間抑留。帰国後歌手としての活躍は読者ご存知のとおり。浪曲と歌謡曲を融合させたのは,彼のオリジナルである。

 f) 瀬島龍三

 大本営参謀中佐。戦争末期関東軍に赴任し,敗戦とともにソ連の捕虜となり11年間シベリアに抑留。帰国後伊藤忠商事に入社。同社会長。山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公壱岐中佐のモデル。中曽根内閣のブレーン。

 彼については,日本人およそ60万人がシベリアに抑留され,およそその1割が死亡したことに責任があると主張する人もいる。私(被・引用者)の考えでは,彼の一中佐として地位からして責任を問うことはできないが,ソ連との交渉でシベリア抑留が決定されるまでの経緯についてはしっていたと思う。

 補注)この段落の記述は「高級参謀であった瀬島龍三」を,あえて過小評価している嫌いがある。

 だが彼は,敗戦後のソ連との交渉の詳細について語ることなく逝去。近代史家保阪正康はなんどか,瀬島にインタビューしたことがあるが,肝心な点になるとはぐらかして答えてくれなかったという。

 g) 岸 信介

 満州国総務庁次長。各組織の長は中国人であったので,実質的には次長である日本人がトップ。岸は日米開戦前に帰国し,東條内閣の商工大臣等を歴任。昭和19年閣内にあった岸は単独辞任を拒否し,東條内閣打倒に貢献。

 A級戦犯として逮捕されたが起訴されることなく釈放。岸らの満州国での新国家建設の経験が戦後日本の経済成長に大いに貢献したとするのは,福田和也の説。佐藤栄作実弟安倍晋三の祖父。

 以上の4名は成人として敗戦を迎えた人たち。

 このように挙げられて解説された人物たちは,「満洲満洲国」関連では非常に有名であった。本ブログ筆者の場合で思いだすと,高校時代と大学時代にめぐりあった教員たちにも,旧・満洲国生まれの出身者が何人がいた。

 筆者が高校生のとき,音楽の教員に満洲国育ちで,敗戦を契機に日本に移動した人がいたが,クラブ活動でブラスバンドをやっていたゆえ,この教員とはかなり親しく付き合っていた。また,大学・学部時代に所属したゼミナールの担当教員も,満洲国生まれの1人であった。さらに大学教員時代には,しりあいの他大学の教員に,敗戦直前に満洲国で生まれたために,敗戦後を生き抜いていくさい非常な苦労を体験させられてから,その後日本に移動(移住)できたという体験の持主もいた。


  嶋田道彌『満洲教育史』青史社,1982年〔文教社・大連市,昭和10年の復刻版〕について

 最初の話題に戻る。山崎正和が自分は「旧満州で育ち,14歳で戻った日本文化の世界は,みずからの大陸的な感性とかけはなれていた。『サクラをみても美しいと思わなかった』」と発言していた1件について考えてみたい。

 嶋田道彌『満洲教育史』から,つぎの決定的な文句を引用する。

 「郷土教育の正道は直ちに之を辿ることは満州に於ては困難なことである」!

 とりわけ,日本帝国の「満州」奪取〔わがもの化〕によって建国された満洲帝国のなかでは,「日本における郷土教育の正道を直ちに」採りえないと,逡巡させられていた。このところが,教育する立場にいた者たちにとってみれば,「悩みの種」〔苦しいところ:現地においては回避できない「当然の限界」〕になっていた。したがって,満州国在住の日本人教職者は恐らく,海のかなたに存在する日本内地の「純粋の郷土」意識を,児童にどのように教育すればよいのか,そうとう困惑させられていた。

 すなわち,戦前にあってはそのように,日本精神なり日本文化の価値はとても至高な実在とされていただけに,日本人小学校で学ぶ子どもに対しては,それが日本民族として確固たるアイデンティティをもつための源泉として与えられねばならなかった。そうした精神を子どもたちに保持させることは,まさに国家的使命でもあった。しかし,それゆえに,南洋〔ここではとくに満州〕で自然に身につけた文化に対して価値をみいだしえず,日本精神を不十分にしか身につけえなかったことには,ある淋しさを感じつづけなければならなかった。

 註記)小島 勝『日本人学校の研究-異文化間教育史的考察-』玉川大学出版部,1999年,140頁参照。〔 〕内補足は筆者。

 要は,「満州国」生まれの児童も数多く誕生・生育していく状況のなかで,自分の生まれ育った郷土を「自分の郷土」と認められず,現に自分が生きている郷土に対する愛着心を育ててはならない「郷土教育」とは,いったいなんであったか。

 敗戦を契機に,「満州を全体として郷土とすると云ふことは,国民的自覚の上に,国家的使命の理解の下に満州を墳墓の地とすることを意味する」ということの現実的な「意味」は,在中・在満していた多くの日本人たちが,不幸な形態をもって体験させられた。

 そして,旧大日本帝国の敗戦というこの顛末をとおして学んだ教訓は,日本人が満州満州国に対して抱いた幻想は日本・日本国に対する「幻想〔の影絵!〕」でもあった,ということである。

 「『教育』を植民地でおこなわなければならない社会は不幸である」。
  註記)原田敬一『国民軍の神話-兵士になるということ-』吉川弘文館,2001年,260頁。

 結局,満洲国の建国理念として高唱されていた「五族協和」とは,なんであったか。それには多分,ふたつに機能すべき面があった。

 一方の,日本国内の日本人に対する「五族協和」は,日本民族が優位にあることを前提にしながらも,排外主義であってはイケナイという一種の啓蒙主義の機能があった。他方の,対外的にいわれる「五族協和」は,排外主義ではないと訴える日本の姿勢を打ちだすための,ひとつのイデオロギーとして機能していた。

 この両面のそのさらに背後には,日本の国家を相対化して,なおかつ全体をゆるやかなかたちであれ統合できるようななにか軸になるものがあるかというと,それはなかった。なおかつ,ないうえに逆に,天皇主義のイデオロギーが,日本人にしかナショナリズムとしての重しを与えられないようなしくみで作用し,そのなかで結局,天皇制を越えなければならない部分で越えられなくなった。これが「五族協和」における〈イデオロギーとしての問題〉であった。

 註記) 「〔座談会〕総力戦と抵抗の可能性-戦時変革あるいは生産力理論をめぐって-」『超克と抵抗 レヴィジオン〔再審〕第2輯』社会評論社,1999年,43頁。

 山崎正和が「サクラを愛でるさいに」「日本人であれば当然の感性」として備えているべきだとされた,いうなれば,あのサクラ吹雪が優雅にもサラサラ・ユラリユラリと舞い落ちる風景を,日本民族の立場としてなりに感じとるべき《なにもの》に関して,山崎は正直に分かりえない(共感しえない?)と告白していた。

 しかもその理由は,「満洲満洲国」において,日本人子弟・子女を皇国史観のもとに教育するよう努力をしたところで,その余儀が生まれる理由が確実には備わっていなかった「現地的な事情」にあった。いいかえれば,「風土的要因に根ざすその必然的な関連背景」を,教育学の研究者がとりあげて解説せざるをえないほど,日本「内地」と「満洲」のあいだには決定的な間隙があった。

 そこに観取できた〈特定の無理〉は,満洲国の「建国理念」を「五族共和」と提唱していながらも,その国内における実体としては

    「日本人・民族」=1等臣民,

    「朝鮮人・民族」=2等臣民,

    「中国人・漢民族」=3等臣民

として,徹底的に差別をくわえてきた事実の記録をもって,実証されていた。

 「白い飯(銀シャリ)」は,日本人・民族しか食していけなかったのが,満洲国事情を典型的に表現しうる事例になる。「食い物のうらみほど恐ろしいものはない」というではないか。

 最後に話を21世紀に戻す。昨今,日本社会の上空を「蝗」の大群のごとく盛んに飛び交う「嫌中・嫌韓」の感情〈虫〉がいるが,その根深い差別・偏見としての醜悪な社会意識は,遠い昔の「満洲国」にも因縁があったと観るほかないのか。

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