満洲国,なかにし礼,日本国憲法,安倍晋三など(続・1)

 なかにし礼日本国憲法論をめぐる考察(続・1)-反戦思想を語る中西禮三の人生観,日本人であって日本人ではないアジア人の思想史的な批判-

               (2015年2月5日,2020年8月28日)

  要点:1  「21世紀ネトユヨ」的に軽薄な日本社会を,「20世紀前半の満州体験」から語る作家・作詞家の日本人(?)としての苦悩

  要点:2 なかにし礼の議論などに,なにを感じとり,なにを考えるべきか?

  要点:3 軽佻浮薄にもなられない,いまの日本の鴻毛的なごく軽さ

  要点:4 テロリストには 「『これから日本人に指一本触れさせない』と〔この国の〕首相が決意表明」したとか(http://digital.asahi.com/articles/ASH236WJHH23UTFK01B.htm l2015年2月3日22時41分),「(テロリストたちに)罪を償わせる」などと,たいそう力んで叫ぶ安倍晋三だが,戦前・戦中の記憶を忘れたか? 海外に居る日本人すべてにそこまで完璧に保障できるのか?(実績としてはけっしてそうではなかった) 演技(パフォーマンス)はたいがいにせよ

 

  なかにし礼(中西禮三)の人物紹介

 なかにし礼カニシ・れい,本名 中西禮三〔なかにし・れいぞう〕,1938年9月2日-,旧満洲国生まれ,2020年8月27日で 81歳)は,日本の小説家・作詞家)。以下,冒頭ではウィキペディアも借用する人物紹介となる。なお,この記述部分は次段(  ↓  )にリンクを指示した8月23日(上側の住所)の記述と重複するので,すでにそちらを読んでいる人は,〔 ④ の最初のあたりまで,具体的に指示すれば,岸 信介とその孫が登場するまでは〕飛ばしてもらえれば,と断わっておきたい。

 --旧満州国牡丹江省牡丹江市(現在の中華人民共和国黒竜江省)に生まれる。もとは北海道小樽市に在住していた両親は,渡満して酒造業で成功を収めていた。敗戦後,満州からの引き揚げでは家族とともに何度も命の危険に遭遇,この体験は以後の活動に大きな影響を与えた。

 補注)同じ体験をした漫画家の赤塚不二夫については,旧ブログの,2014年03月26日「大日本帝国満洲帝国の思い出-赤塚不二夫の場合-」「【帝国の欲望のなれのはて】」で書いている。本ブログでは,つぎの下側の住所における記述(  ↓  )として公表済みである。

 本日に引照した記事のなかで紹介される「なかにし礼」は,こう説明されている。

 なかにし・れい,1938年,旧満州生まれ,シャンソンの訳詞から作詞の世界に入り,「天使の誘惑」や「北酒場」で日本レコード大賞受賞。小説でも『長崎ぶらぶら節』」で直木賞受賞。核兵器廃絶を願う歌「リメンバー」の作詞も手がけた(記事は9回連載します)。

 本ブログは,その9回分の連載記事のうち,2回目については昨日〔2月4日〕とりあげていた。全9回まで全部の記事公表を待つにはまだ日数がかかり,またそれをあとで全部をまとめてとりあげるとなれば,分量も多くなる。

 そこで本日〔2月5日,前掲リンクの記述分〕は,すでにとりあげたその2回目も含めて,1・2・3回をまとめて紹介しなおし,なかにし礼が「作家(小説家)・作詞家」として抱く「文学的な政治思想のようなもの」を析出することを試みたい。

 

 「〈人生の贈りもの〉作家・作詞家,なかにし礼 1  平和の申し子たちへ,僕は語り継ぐ」朝日新聞』2015年2月2日夕刊

 昨〔2014〕年発表した「平和の申し子たちへ!」の詩はこう始まります。

   2014年7月1日火曜日  集団的自衛権閣議決定された
   この日 日本の誇るべき  たった一つの宝物

   平和憲法は粉砕された  つまり君たち若者もまた
   圧殺されたのである  こんな憲法違反にたいして

   最高裁はなんの文句もいわない  かくして君たちの日本は
   その長い歴史のなかの  どんな時代よりも禍々(まがまが)しい

   暗黒時代へともどっていく  そしてまたあの
   醜悪と愚劣 残酷と恐怖の  戦争が始まるだろう

 ◆ 新宿で昨年末,このタイトルのライブを開きました。

   ライブハウスで1人でね,詩を朗読したりトークをしたり,歌ったり。最初は客席もどう対応していいか分からない反応だったですけど,人の近くで語りかけてみたかった。

   いい年してやってみるのもいいかと思ったしだいでね。詩集「平和の申し子たちへ--泣きながら抵抗を始めよう」や絵本詩集「金色の翼」を相次いで出した,記念のライブでもありました。

 ◆ トークでは「戦後民主主義を知る人間にとってはゆゆしき時代が迫りつつある」と。

   僕はいま,意識的にこういう本を出してますよ。自己美化や自己満足的な歴史認識に立つことなく日本の歴史を客観的にみれば,いまの政権のような答えにはならないはず。安倍さん(首相)がいう「戦後レジームからの脱却」や「日本をとり戻す」というスローガンがどこから来ているのか,でしょうね。

 ◆ ライブの締めで,自作のヒット曲「時には娼婦のように」を歌いました。「淫(みだ)らな女になりな」や「私を誘っておくれ」といった甘美な歌詞は,平和とどうつながるのですか。

   平和はエロチックであり,わいせつなんです。男と女,男と男,男と複数の女,なんでもいい。国は個人のやることにはとやかくいってくれるな。僕は徹底した個人主義と平和主義でね。国家の役割は個人の自由と幸福を守ることであって,それ以外のことで口を出すのは越権行為だと思いますね。

   それはなぜか。敗戦を迎えた満州で目の当たりにしましたから。右傾化と軍国主義によって引き起こされた戦争の悲惨さに巻きこまれ,個人がどんなに翻弄され犠牲を強いられたか。この体験をいろんなかたちで語りついでいかなければならないし,そのことが僕自身の体を作り上げてきた。僕の人間形成の「基礎工事」は,日本の転落の歴史と重なっているんですよ。

 

 「〈人生の贈りもの〉作家・作詞家,なかにし礼 2 引き揚げ列車の中,歌の力知った」朝日新聞』2015年2月3日夕刊)-2月4日に記述した分であるが繰り返して引用する-

 ◆ 1938年,満州の造り酒屋に生まれました。

   北海道から満州に渡った両親が,牡丹江(ぼたんこう)で造り酒屋を始めて成功させました。関東軍の庇護もえて。うちは芸事の好きな家でね,長唄や歌舞伎の音楽がしょっちゅう流れてました。弁慶の出てくる勧進帳とかね。兄貴はタンゴを弾いたり洋楽を教えてくれたり,お袋は三味線を弾くし,おやじは謡(うたい)なんかをやって浪花節が大好きで。姉は日舞をやっててね。使用人に肩車されて中国の映画もみにいった。

 ◆ 満州での歌の原体験は。

   僕はある意味,日本人じゃないでしょ,日本人なんだけど。日本で育ってないから,大陸にいて歌謡曲や軍歌の実感なんてなにもないんですよ。兄貴が昭和19(1944)年に学徒出陣する前後からね,にわかに軍歌などが聞こえだしてきて。日本から来た杜氏(とうじ)たちが「誰か故郷を想(おも)わざる」などを歌って泣いてるのをみて,あなた方にとって日本とはそんなに素晴らしいのかと思ったものです。

 ◆ 歌謡曲にも違和感が。

   満州で聴く日本の歌謡曲は子どもにとっては単なるイリュージョン(幻想)なんですよ。現実の生活のなかに歌謡曲が生まれる素地がないんだから。僕の乳母は朝鮮人で,お付きは中国人で,朝飯はギョーザだったり麺だったり。家庭の味は基本的にはチャイニーズですよ。日本の料理はたまに出るけど,日本の料理だからうまいっていう意識はないじゃないですか。子どもだから。それで育ってないから思い入れもない。ふるさとの味といえば水ギョーザですよ。

   僕はここ(満州)が生まれた場所と思ってましたから,日本に憧れもなにもない。物心つくまでそうやって育った。すると突然,枕けられて「起きろー」といわれたのが8月9日ですよ。

 補注)敗戦時まで旧満洲国地域には日本人が170万人〔近く〕暮らしていた。当時の日本の人口7千数百万人のうちそれだけの人口が中国東北に移住し生活していた。この人たちは敗戦によって日本に「引き揚げて」くる。とはいっても全員が日本に「戻れた」のではない。

 ◆ 1945年8月9日のソ連の対日参戦ですね。ソ連軍が満州に進攻してきました。

   7歳になる前でね。牡丹江からハルビンに脱出する軍用列車には,落ちのびていく軍人やその家族らが乗りこんでました。

   ソ連の戦闘機が,うなりを上げて急降下してくる。機銃掃射とか,この辺に落ちてくるんですよ。ババババババーって。その恐怖たるや,縮み上がるどころか,いっそ失神してしまおうかと思うぐらい。目の前で人が死んでいくわけだから。強く抱きしめすぎて,我が子を乳房で窒息死させてぼうぜんとしている母親もいました。

   そして,すし詰めの引き揚げ列車のなかで「人生の並木路」を日本人がみんなで歌い,むせび泣き,嗚咽(おえつ)するのを聞いた。歌ってこんなに力があるのかと。

 ◆ 古賀政男が作曲し,歌はディック・ミネ。「泣くな妹よ 妹よ泣くな/泣けば幼い 二人して/故郷を捨てた かいがない……」。親を失った兄と妹が生き抜こうとする歌です。

   歌に対する神秘感というのをもったのが,この「人生の並木路」でしたね。僕の歌謡曲の,言うなれば初体験というのかな。あれは別格の体験でした。(聞き手・副島英樹)
 補注)『人生の並木路』(作詞:佐藤惣之助,作曲:古賀政男,歌唱:ディック・ミネ)の歌詞は,以下である。

   (一) 泣くな妹よ 妹よ泣くな
      泣けば幼い 二人して
      故郷を棄てた かいがない

   (二) 遠いさびしい 日暮れの路を
      泣いて叱った 兄さんの
      涙の声を 忘れたか

   (三) 雪も降れ降れ 夜路のはても
      やがてかがやく あけぼのに
      わが世の春は きっと来る

    (四) 生きて行こうよ 希望に燃えて
      愛の口笛 高らかに
      この人生の 並木路

 この ③ におけるなかにし礼の発言についての筆者の論及は,本ブログ(昨日:2015年2月4日 ⇒ 前掲にリンクを付したのが,2020年8月23日)の記述の反復であった。

 

 「〈人生の贈りもの〉作家・作詞家,なかにし礼 3 『歌謡曲不感症』シャンソンに出会う」朝日新聞』2015年2月4日夕刊

 ◆ 日本に引き揚げてからの少年時代はどうでしたか。

   ラジオでクラシック音楽を聴くのだけが楽しみでした。戦後の日本人と,引き揚げてきた僕たちとのあいだには,精神的に大きな隔たりがあって,僕なんか歌謡曲に不感症なんですね。

   童謡も日本の風土に根付いたものだから,「菜の花畑」「おぼろ月夜」「秋の夕日」なんて僕にとっては異国の風景ですよ。外地でヒマワリ畑や大麦畑がずっと続く風景を見て育った。冴(さ)え渡る月と怒濤(どとう)のごとく落ちていく夕日,僕の感性を育てたものはそっちなんです。

 補注)つまり,なかにし礼にとって日本という母国は異境の地でしかなかったことになる。自分の生まれ育った旧「満洲」国はすでに存在しない。このいまは亡き「故国の地の匂い」にしみこまれた精神的な体質を形成された彼にとって,いまの日本があらためて異境であった事実を語っている。

 思えば,なかにしが今回,このような回想録を『朝日新聞』にインタービュー記事の形式で公表しだしたことに関しては,間違いなく,特定の因縁のある歴史的背景を指摘しておく必要がある。

 なかにしは,安倍晋三政権のやりだしてきた驕慢かつ拙劣な政治展開,具体的に指摘するならば,特定秘密保護法集団的自衛権行使容認など,この「幼稚で傲慢」でしかなかった世襲3代目のボンボン政治家に対して,猛烈な違和感を抱いている。

 前段で「思えば」と表現したのは,安倍晋三の母方の祖父である岸 信介の旧満洲国とのかかわりが念頭にあったからである。政治家の岸 信介に対しては,各種各様の「毀誉褒貶があって当然」である。日米安保状条約改定時に発生した悪評は,つとに有名である。

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 敗戦後,米軍占領下を過ごしてきた日本国における政治家の1人としての岸 信介は,世界冷戦政治の情勢変化にともない,A級戦犯の指定を解除されてはいたものの,独立後は一時期,アメリカCIAの手先にならざるをえない暗い過去も含めた人生を送ってきた。 

 しかしながら,この岸 信介とこの人を祖父にもつ安倍晋三とは,政治家の資質を観察すると雲泥の差があることを思いしらされる。ネット上にはこういう解説もある。岸 信介を褒めすぎだが,いくつかの段落を飛び飛びに引用・紹介しておく。

 ジャーナリストの田中良紹が記述した「岸信介安倍晋三はこれほど違う」という一文である『Yahoo! ニュース』2014年3月15日21時54分,http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakayoshitsugu/20140315-00033588/ は,こう述べていた。

 「憲法改正」を堂々と議論することをせず,解釈改憲という「憲法の骨抜き」を画策する安倍総理に対し,安保条約の改訂で対米自立を追求した祖父の岸 信介元総理との相似性を指摘する声が聞かれる。

 

 政治を右とか左とかで考える単純な人間にはそうみえるのかもしれないが,私には「岸 信介」と「安倍晋三」はまるで異なる次元の政治家にみえる。というか,「岸 信介」は政治家だが「安倍晋三」は政治家ごっこをしているだけにみえる。

 

 安倍総理から政治の「奥」を感ずることはまったくないが,「昭和の妖怪」と呼ばれた岸元総理には「奥」を感ずるところが多い。1980年代に政治記者として二度ほどお目にかかったことがあるが,なともええない不思議な魅力を感じた。オーラル・ヒストリー『岸 信介証言録』(毎日新聞社註記)を読むと,その不思議な魅力がどこから生まれたかが分かる。

 註記)毎日新聞社,2003年。改版として,中央公論新社,2014年。

 

 椎名悦三郎らとともに満州国政府の役人になるのも左遷とみられている。満州ではソ連を真似た計画経済を実施し,帰国後は「革新官僚」として戦時統制経済体制をつくりあげた。その仕組みが戦後になって日本型資本主義による高度経済成長を生み,世界でもっとも格差の少ない「一億総中流国家」を作りあげた。アメリカの真似をして格差を拡大させるアベノミクスを「岸 信介を裏切る経済学」と私がブログに書いたのはそうした意味である。

 

 自由党のなかで吉田 茂の対米従属路線に反対し,日本の自主独立を訴えて鳩山一郎らと民主党を結成,吉田内閣を打倒して鳩山政権を作る。つぎの石橋内閣のときに与党幹事長として訪米し,アメリカのダレス国務長官と交渉するが,ソ連の軍事力と比べて自主防衛には無理があり,防衛力を強化しながら安保条約を対等なものにするしかないと考えた。

 

 それから岸は反共主義を強調してアメリカにとり入り,それによって日米対等の関係を追求するのである。同時に戦争で被害を与えたアジアの国々に対しては,謙虚に謝罪を表明し,「アジアの日本」という立場を重視した。

 

 岸元総理の戦略は「アジアの日本」を固めて,日本を占領支配したアメリカからの自立を図るというものである。そのために反共主義を強調してアメリカにとり入りながら「自主憲法」を制定しようとした。したがって共産中国とは敵対関係になったが,しかし「政経分離」の原則を貫き,日本の経済的利益が左右されないようにした。

 

 ところが安倍総理がやっていることは真逆である。アメリカにとり入るためと考えたのか,中国包囲網を作ってアジアに緊張を生み出し,緊張が高まれば結局はアメリカにすがりつくしかなく,日本の自立とはまるで逆方向を向いている。またアメリカと対等になるためと称して集団的自衛権の解釈変更をめざすが,それがアジアにさらなる緊張を生み出せば,さらにアメリカにすがるしかなくなる。

 

 安倍総理はこれからいちいちアメリカに振りつけられる可能性がある。日本の対米自立などとんでもない。岸元総理との比較などとんでもない。安倍総理は,未熟さを露呈して国民の失望を買った民主党政権と同じ「政治ごっこ」をやっているに過ぎない。ところがそれに気づかない政治家や学者,評論家,メディア,国民がいる。これは日本全体が幼稚化している事を示す証拠だと私は思っている。

 註記)http://bylines.news.yahoo.co.jp/tanakayoshitsugu/20140315-00033588/

  この田中良紹が論じる「岸 信介と安倍晋三の政治家比較論」は,どだい比較すべき価値などわずかもありえない「この血縁関係にある2人の政治家」をとりあげ,あえて岸 信介をべた褒めしながら,これに比べて安倍晋三のほうはこきおろしている。

 本ブログ筆者もすでに,「政治ごっこ」をやっている自分を客観的に認識できない安倍晋三の問題性を,なんども指摘してきた。

 安倍晋三は自身がハデに打ち上げているつもりである「美しい国へ」といった標語が,本当に日本国の民たちのためになっているのかどうか,ほとんど理解できないでいる。一言でいえば,安倍晋三の内政・外交は実質的にはひたすら,対米従属への迷宮にみずから入りこんでいる。筆者がいつも指摘するのは,岸 信介が旧満洲国で活躍した時代と決定的に異なる国際政治環境は,在日米軍基地の存在である。

 補注)岸 信介が満洲に居た期間は,1935〔昭和10〕年4月商工省工務局長に就任したのち,1936〔昭和11〕年10月に満州国に出向し(以後3年間),国務院実業部総務司長・産業部次長・総務庁次長を歴任。この間に計画経済・統制経済をまねた満州「産業開発5箇年年計画」を実施した。

 また満州経営に辣腕を振るい,当時関東軍参謀長であった東條英機や,日産コンツェルンの総帥鮎川義介,里見機関(アヘンの密売総元)の里見 甫のほか,椎名悦三郎大平正芳伊東正義十河信二らの知己をえて,軍・財・官界に跨る広範な人脈を築き,満州国の5人の大物「弐キ参スケ」の1人に数えられた。

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 伍堂卓雄商工大臣が当時の商工次官だった村瀬直養の反対を押し切って岸の次官起用を決定し,1939年(昭和14年)10月に帰国して商工次官に就任する。近衛文麿から第2次近衛内閣の商工大臣への就任要請されたさい,財界の人間にすべきとして断わり,企画院総裁に星野を推薦した。その後,商工大臣となった小林一三と対立,直後に発生した企画院事件の責任をとり,辞任した。

 --21世紀の現在,日本というこの自国の心臓(シンゾウ)部にはいつも,アメリカ国の〈鋭い匕首〉が突きつけられている現実がある。にもかかわらず,この日本国がふつうに「美しい国へ」向かえる可能性があるかのように信じきた安倍晋三は,脳天気でなければ,ただのオメデタイ,信じられないほどの「子どもの〈裸の王様〉」あった。もっとも,この日本国には別にきちんと「天皇という地位に座る王様」が存在する。

 その王様の地位は現在,敗戦したときの天皇であった裕仁の息子である明仁からさらに徳仁へと,世襲的に継承されてきた。いまでも日本においては,アメリカの〔ある意味での〕庇護なしに,この天皇天皇制が存続させにくい政治事情を,なかでも生前に退位した平成天皇はよく理解している。

 ところが,その事実をまともに察知できてきたのが,実は安倍晋三であった。天皇自身(明仁)だけでなくこの女房(美智子)や長男坊(徳仁)までが機をみては,平和憲法を守ると言明してきた事実がある。これがもつ意味に留意しなければならない。彼らの発言はいずれも「安倍晋三が首相になってから」のものであった。

 本日の話題にとりあげている なかにし礼も,旧満洲国の出身者であったけれども,そのカイライ国家のなかでは,岸 信介とは異なった社会的階層・政治的位置において,幼少時代を過ごしてきた。なかにしの人生にとってこの旧満洲国時代は,空間的には決定的な意味を生んだのであり,時間的にも非常に重要な影響を与えてきた。

 さらにいえば,「岸 信介 ⇔ なかにし礼」という歴史的にみて,一時期を旧満洲国で暮らしていた人物2名と,戦後生まれの「安倍晋三 ⇔ 岸 信介」という血縁関係とをもって形成されるこの3名の「トライアングル(三角関係)」は,いまの日本における国際政治問題として重大・深刻な論点となっている,この「安倍晋三という〈幼稚で傲慢〉な政治家」という存在そのものの難点(救いがたさ)を考えるさい,有意義な枠組あるいは足場を提供してくれている。

 以上,補注から派生した記述部分がたいそう長くなったが,なかにしのインタービュー記事「3回目の内容」に戻る。なお,ここからは2020年8月23日の前段にリンクを紹介した記述の内容とは重複していないので,念のため断わっておく。

 ◆ では,シャンソンとの出会いは。

   18歳後半でしたね。食うや食わずで,たどり着いたアルバイトが東京のシャンソン喫茶「ジロー」のボーイでした。友人がクラシックばかりでなくシャンソンもいいよと。そこでイブ・モンタングレコの歌を聴いて,店に通った。そしたらある日,友人がドアボーイをしていた。いいなあ俺も入れてよと。

 ◆ シャンソンの訳詞を始めたきっかけは。

   店の「シャンソンの夕べ」で日本の歌手が歌って,へぇー,日本語の歌詞があるんだとしるわけです。フランス文学が好きだったからアテネ・フランセに入って,フランス語の基礎勉強はしていた。そんなときに,石井昌子というシャンソン歌手が「あんた訳詞やってみない」と。

   当時店の時給は23円でした。訳詞をやって石井さんがくれたのは1曲500円。大金なわけね。石井さんが銀巴里(ぎんぱり)日航ミュージックサロンで歌うと,「若くて,安くて,早くて,歌いやすい詩を書く人がいるわよ」ということで,僕のところに注文が来るようになった。

 ◆ 中西禮三(れいぞう)(本名)から「なかにし礼」の誕生ですね。

   誰々訳って書くとき,最初からひらがなで「なかにし」と。なにかしらないけど。「禮三」は重いなあと思って,優しい漢字の「礼」にして,性別不明にしたんですよ。男だから女だからという意識が,思考の方向性を決めてしまうのは嫌でしたね。

 ◆ 訳詞は売れましたか。

   異常なほど売れたんですよ。1曲千円になり,月に70曲のときも。月に7万円ですよ。貯金して立教大学に通い,自力で卒業できた。家賃500円のゴキブリアパートでしたけど,「あんたなんか / 趣味じゃないと / 言ってみても / セラムー」みたいに,日本語のアクセントを壊さずに向こうの歌にのせて,原詩の意味と哲学を殺さずにやっていくのは,難しいけど面白いわけね。小さな歓喜が積み上がって大きな歓喜に至るという体験を毎晩味わっていました。

 ◆ 書き下ろしの詩「二十歳の頃」で,ゴキブリアパートの生活を描いています。「引揚げから13年が経ったが / 死はなお私のすぐそばにあった」と。

   歓喜の一方で,いまの平和が本物か紛(まが)いものか,なんの保証もない,綱渡りの生活から落ちそうな現実があった。それほど戦争体験は衝撃的だったんですよ。

 --ここまでのなかにしの発言からは,つぎのような〈もうガマンならぬ心情〉が感じとれる。

 敗戦後の時代も10年も過ぎたころからは,幸運にも日本国は経済成長=繁栄を謳歌することができた。ところが,21世紀のいまの時代に現象している「この国の体たらく」ぶりは,「失われた10年」を繰りかえすこと早,3回目にまで入りこんでいる(2020年の8月ならば,すでにその3回目を終えているとみなしていい)。

 こうした現状における日本国政治・経済・社会の貧相・低迷・惨状は,愚かな政治家だからこそ当人の自覚あるなしさえ問われないまま,またもや前世紀と同じ轍にはまりこむような愚行として反復させられつつある。

 なかにし礼は, “安倍晋三の政治特性” に挑戦する言論を展開した,と受けとめてもおおげさな解釈になるまい。1938年9月2日に生まれていたなかにしである。この年齢に照らしてみても,なかにしがその方向に残りの人生:生き方を賭けたところで,もうなにも失わないという自信をもっている。本ブログ筆者はあえてそのように,なかにしの心境を忖度・解読してみる。

 なかにし礼は,幼少期における非常に過酷な人生を,それも《旧大日本帝国と旧満洲帝国のはざま》の深淵に放りこまれるほかなかった時代状況のなかで体験させられてきた。こうした人間でなければ,安倍晋三のような軽薄・短小の政治家の狭量さと暗愚さがまともに察知できないほどにまで,この国の人びとの〈政治的な感性〉は劣化しており,しかもマヒしたかのような状態にあるのか?

 

  なかにし礼:「すり減った 個の屈折」日本経済新聞』2015年2月4日夕刊

 実は,昨日〔2015年2月4日〕の『日本経済新聞』夕刊「文化」欄にも,なかにし礼に対する別のインタービュー記事が用意されていた。こちらのなかにしの発言を全文を引用する。本ブログ筆者の論評はあえて付けないでおく。

 ただ一言いっておくとすれば,この記述を政治(論)的に読んでみて,どう感じられるか(?)であった。

      ☆ すり減った 個の屈折 ☆
  -作家・作詩家 なかにし礼さん 「世につれ」ない現代の歌を憂う-

 昭和の終わりまでは歌が世につれ,世も歌につれた。いまはこんな歌が売れるはずというマーケティングの発想で作られていて,歌が世にへつらい,世になびくから,世につれないのです。歌が個体として確立していないと,世に呑みこまれ,時代の中に溶けてしまう。100のマーケティングがあっても,1人の美空ひばりも生み出せません。

 かつてはレコード会社も作家も独立性が高く,それぞれの創造力を競っていた。やがて音楽業界が複雑化し,それにつれて個性がどんどん摩耗して,できあがった作品は平凡になる。その無限の繰り返しの結果がいまですよ。

 a) 歌がヒットする理由は「屈折」にあるとなかにしさんは考える。--たとえば,僕の作った「時には娼婦のように」は平和の歌です。直接的に平和を語ってはいませんが,ばかばかしいひとときがうれしいなんて,これ以上の平和はないわけでね。大衆は平和や自由,解放などのメッセージをちゃんと読みとって歓迎してくれた。

 その意味で,たとえば東日本大震災の後に,いまこそきずなを大切にといった露骨なメッセージを直接的に歌っても,学校唱歌としてはいいかもしれないが,人びとの心を本当に打つとは思えません。

 きずなを大切にというのは,当たりまえの公の価値観です。それにもとづいて歌を作っても,芸術的なものは生まれない。ものを作るのは,あくまでも個なのです。自分のなかにある日本人のスピリット,仏教学者の鈴木大拙(  ↓  )のいう「霊性」で物を語らないと,日本人の心には響かない。

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 b)謡曲は日本文学の1つのジャンルと明確に意識していたという。--万葉集から連なる伝統のなかにいると意識していた。歌舞伎や落語など,さまざまな言葉の芸術を消化し,日本語を西洋音楽に乗せていく。その違和感に抵抗も感じながら,どうすればその抵抗を乗り越えて完璧なものができるか,つねに模索していました。

 たとえば,先輩方からは「七五調で書かないと,歌は売れないよ」とさんざんいわれながら,僕はあえて七五調を避けた。結果的にうまくいきました。いまの若者は西洋音楽に日本語を乗せるなんて当たりまえだと思っていて,そういう闘いがないのでしょうね。

 c)今年は作詩家・作家生活50周年。これまでのヒット曲を著名な女優が歌うCD「なかにし礼と12人の女優たち」が話題だ。女優は自分のなかで歌詞の物語を再構成し,彼女なりの解釈をくわえて歌うから,独特な歌になる。たとえば「人形の家」を歌ってくれた大竹しのぶさんには,僕が気づかなかった作品の魅力を教えられた。

 自分の過去の作品でアルバムを編んだわけですが,結果的に1枚を通して僕の平和のメッセージになった。もう戦後70年ですが,昭和の歌謡曲には,戦争の余燼(よじん)があるなかで,平和な歌を歌うことに対する喜びがあったのだと,あらためて感じます。平和が当たりまえになったいまは,なにに喜んでいるのか。そのあたりが希薄になったのかもしれません。

 世にへつらい,世になびくから,世につれない。「歌は世につれ」の時代をリードした作詩家のなかにし礼さんが歌謡曲衰退の理由を語った。

 ※「こちらでの人物紹介」 ※ 「なかにし・れい」は,1938年旧満州(現中国黒竜江省)生まれ,立教大卒。作詩,訳詩家として「今日でお別れ」「石狩挽歌」「北酒場」「天使の誘惑」などヒット多数,2000年に「長崎ぶらぶら節」で直木賞

 歌謡界の「なかにし礼」に匹敵するのが,この記述(前編)で触れていた「赤塚不二夫」の漫画界における大活躍であり,さらに映画界で寅さんに日本・日本人の心情(真心?)を演じさせつづけてきた「山田洋次」の存在があった。いずれも満洲・旧満洲国出身者たちであった。

 日本の芸能界にあっては,「彼らの存在」とともに「在日1世と2世以下の韓国人」が多数,顕在と潜在とを問わず活動しているが,こちら側の存在に限りなく近くて,かつ似ていると位置づけてよい人たちが「なかにし礼赤塚不二夫山田洋次たち」であった。

 彼ら〔など〕はいずれも,旧・大日本帝国時代に「海外の中国東北」で生まれたり育ったりしてきた者たちであったが,いまの日本国にとっては大事な「遺産の伝承」を初発・創造的に形成してきた。いうなれば「日本の伝統」に相当する『なにか』を,新たに用意しくわえて形成したのだから,それまでの「日本の文化」の蓄積をさらにより重厚な中身に充実させていくのに,多大な貢献をしてきた。

 ところが,この『対象の片翼』を切り落としておきたいのか,ただにバカの一つ覚えの要領でもって,終始一貫,「在日よばわり」(とヘイト発言で罵倒)しつつ,その実在じたいを真っ向から否定・抹消したがる「愚昧・固陋な一群の人々」が居る。

 いってみればこの種の精神病理は,実は,日本・日本人自身が「この日本と日本人(民族性?)」を歴史的に形成してきた「大昔から今世紀まで連綿と続いてきた〈基本的な社会特性〉」の一端すら,直視も正視もできていないところから発症している。

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