小熊英二の戦後日本政治社会論をめぐり,戦争と平和の問題をあらためて考えてみる

               (2015年8月31日,2020年9月10日)

 敗戦後日本の政治機構,天皇天皇制の基本問題

 小熊英二・稿「『戦後』とは何なのか」2015年8月27日について

 

  要点:1 憲法第1条と第9条の共生的な関係,東京裁判史観と日米安保条約体制の根本矛盾

  要点:2 天皇天皇制の存廃について明確に言及しなかった歴史社会学者の立場

 

 🌑 前   記  🌑

 本日:2020年9月10日の『朝日新聞』朝刊13面「オピニオン」に,「〈インタビュー〉『有色の帝国』の呪縛 歴史社会学者・小熊英二さん」というインタビュー記事が掲載されていた。今日は,この記事を紹介しつつ議論をしてみたいと思った。

 だが,いまから5年ほど前の2015年8月27日に,小熊英二がやはり『朝日新聞』朝刊「オピニオン」に寄稿していた文章があって,これをめぐり議論をしていた本ブログ筆者の記述が残っていた。これは現在,未公開の状態になっているが,これを復活することにいくらか意味もありそうだと思い,ここに再掲することにした。

 前段の小熊英二に対する「本日のインタビュー記事」は,近日中にとりあげるつもりである。最近,たまたまであったが,ようやく安倍晋三の悪政に終止符が打たれる状況が生まれたと思ったら,つづいてこんどは,安倍よりももっと悪相に映る菅 義偉(現・官房長官)を「次期の首相に選ぶ」ために,自民党内で投票をおこなう日程が組まれている。本ブログ筆者が5年前に記述したこの文章には,当時なりにこの菅 義偉をとりあげてもいた。

 

 「〈あすを探る 思想・歴史〉小熊英二:『戦後』とは何なのか」朝日新聞』2015年8月27日朝刊 

 1)「戦後」とはなんなのか-それはいったい,いつ,終わるのか-

 諸外国では「戦後」とはおおむね,終戦から10年前後を指す。そもそも多くの戦争を戦った国の場合,「戦後」はいくつも存在する。しかし日本では「戦後」は70〔75?〕年も続いている。それでは,日本にとっての「戦後」とはなんなのか。

 補注)明治以来の日本においても,その種の「戦後」はなんども反復されていた。ただし,敗戦ではなくて,おおよそは勝ち戦として迎えていた「戦後」であった。

 日清戦争(1894年8月~1895年4月)が終わってから日露戦争(1904年2月~1905年9月)が始まるまでの期間は,約10年であった。さらに第1次大戦が1914年7月に始まっていた。

 それぞれの期間を「戦後」だとひとくくりにまとめていいのか? むしろ,いまから回顧すると,つぎに来たる戦争のためのそれぞれ「戦前」の時期であったかのようにも映る「それぞれの時間の長さ」ではなかったか。

 小熊英二が指摘するように,それらに比較すれば,大日本帝国の「敗戦後してからの時代」は70〔75〕年も経過してきた。これはずいぶん長い時間である。その間,日本の位置するアジア諸国においては,たびたび大きな戦争が勃発していた。

 日本も米軍・米軍基地を介して直接・間接に重大な関与をしてきた。とくに朝鮮戦争がそうであったし,ベトナム戦争もしかりであった。近くでは湾岸戦争があり,イラク戦争もあった。これらの諸戦争に対して日本国が深い関与をしていなかったなどというふうに「歴史を理解」することは,土台からして完全に間違っている。

 それらの戦争を契機に自衛隊が誕生させられていた。のちには,この自衛隊も戦地に派遣されるに至っていた。そのなかで考案されて使用した戦争事態に関する概念が,たたとえば「非戦闘地域」であった。だが,この概念は戦争をしている「当事国内」においては,実質的に意味のない規定であった。

 というのは,後方支援という戦争概念が「切れ目なく」「戦闘地域」とつながっているかぎり,「非・戦闘地域」などといった造語は,形容矛盾を覚悟しないかぎり無意味だからである。

 ところが,2015年に入ってからは,すでに集団的自衛権行使容認を2014年7月1日に閣議決定していた安倍晋三政権は,安保関連(戦争)法案を,参議院まで送りこんで審議させている現状にある。

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 菅 義偉官房長官は,この戦争のためでしかない法案に関して,「戦争」という形容を付けて表現する点を「誤解」だと反発している。政治家として「正常で・まともな〈戦争概念〉」をもちあわせない人間が,政府・内閣側の〈要の職位〉に就いている。

 日本には「言霊思想」という素朴で,原始宗教的な,その心理次元における「概念化の効用」を期待する「社会的な雰囲気」が,なんとなくでも実際に存在する。人が駆使する言葉にしたがい,現実のほうが意味を変えてくれるかのように単純に思いこむ,いうなれば,自己・主観中心的なシャーマニズムの精神心理が,政治思想の根柢にも浸透している。

 だが,いまどきにそのような原始時代:古代史的な信心の感情によって,現実に展開していく政治社会に対する解釈面の変更が期待しうるかのように夢想するのは,政治を魔術ととりちがえた錯覚である。

 しかし,そのような言霊思想的な発言が官房長官の口から本気で,繰りかえし飛び出てきている。もちろん,この官房長官が言霊思想を本気で信じているかどうかは別問題として,以上のような詮索をする議論が日本の政治を考えるためには有用である。

小熊英二の記事本文に戻る→〕 私の意見では,日本の「戦後」とは,単なる時期区分ではない。それは「建国」を指す言葉である。日本国は大日本帝国が滅亡したあと,「戦後」に建国された国である。

 もちろん,日本国の構成員が,一夜にして変わったわけではない。しかしそれは,1789年にフランス共和国が建国され,1776年にアメリカ合衆国が建国されたのと同様に,「戦後」に建国された国である。

 補注)アメリカは完全に共和国である。そのアメリカが日本に戦勝したさい憲法まで「押しつけた」のだが,占領方針に関する基本要領の肝心な決め方:措置のひとつとして,日本の皇室(王制)を消滅させずに残存させていた。爾来,戦後日本の政治体制は「民主化」政策の実行を強要されてきたものの,「進駐軍」がする「占領化」政策としては特定の制約が残されていた。

 その事実は,占領下における民主化政策の展開を,「状況」合理的に措置するために「天皇天皇制(天皇制度という封建遺制)」を廃止せず,いいかえれば,占領を効果的・能率的に実施するためにそのまま残置・活用したのである。

 敗戦後の日本においては,占領軍に指令された数々の民主化政策から除外されたものがあった。華族制度は廃止され,皇族の範囲も大幅に芟除された。けれども,皇室の一族のみは利用価値ありとみなされ,その残存を許された。

 2)豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』2015年7月

 敗戦後,昭和20年代における昭和天皇は,涙ぐましいまでの「天皇家サバイバル戦術」に従事・邁進していた。この彼の個人的な行為は,本ブログがすでにとりあげた文献,豊下楢彦豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』(岩波書店,2015年7月)が,これまでの研究成果に『昭和天皇実録』を重ねて吟味している。豊下楢彦の同書目次を,以下に紹介しておく。

 第1部 昭和天皇の〈第一の危機〉-天皇制の廃止と戦犯訴追-
  第1章 「憲法改正」問題
  第2章 「東京裁判」問題
  第3章 「全責任発言」の位置づけ

 第2部 昭和天皇の〈第二の危機〉-共産主義の脅威-
  第1章 転換点としての1947年
  第2章 昭和天皇の「二つのメッセージ」
  第3章 「安保国体」の成立
  第4章 立憲主義昭和天皇

 第3部 〈憲法・安保体制〉のゆくえ―戦後日本の岐路に立って-
  第1章 昭和天皇と〈憲法・安保体制〉
  第2章 岐路に立つ戦後日本
  第3章 明仁天皇の立ち位置

 この豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』などが解明してきた「敗戦後史の政治過程」は,占領下における昭和天皇の画策・工作,換言すれば,アメリカ側に対する「象徴天皇の立場からおこなっていた」「裏経路を通じての皇室保全運動」であった。

 それは,日本国民のためを第1に考えた彼の政治行動ではなかった。すなわち,象徴天皇の立場にいる彼が記録してきた「憲法違反そのもの」であり,個人的な利己のための行為であった。

 3)敗戦後「建国事情」

〔ここで,小熊英二の記事本文に戻る→〕 では日本国は,どんな骨格をもって建国されたのか。いうまでもなく,日本国憲法がその骨格である。

 憲法を指す英語 constitution とは,「骨格」ないし「構成」という意味である。まず前文に,こういうコンセプトで国を造る,という宣言が書かれる。そして,コンセプトを具体化するための国の設計図が,各条項として書かれている。

 日本国憲法の前文は,二つのコンセプトをかかげている。国民主権と平和主義である。その前提にあるのは,戦争の惨禍のあとにこの国は建国された,という共有認識である。その意味で,日本国憲法の最重要条項は,第1条と第9条だ。すなわち,天皇を「主権の存する国民」の統合の象徴と位置付けた第1条と,「戦力」放棄をうたった第9条が,前文にかかげられた国民主権と平和主義の国を具体化する条項である。

 補注)本ブログ筆者は,憲法第1条〔から第8条まで〕と第9条の明確な対位関係,あるいは相互依存関係を強調してきた。この歴史的な事実を棚に上げたまま,第9条ばかりを口角泡を飛ばすかのように議論する立場を嗤いもした。

 第1条つまり「天皇」のこの条項は,第9条の「戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認」のその条項と抱きあわせで,ほかの表現をとれば〈シャムの双生児〉として誕生させられていた。朝鮮戦争を契機に自衛隊3軍がその日本国の戦力として,もちろんこの戦力を使い交戦できる軍隊として登場していた。

 その初め:とっかかりは,1950〔昭和25〕年8月10日,GHQのポツダム政令のひとつである「警察予備隊令」(昭和25年政令第260号)によって,警察予備隊(National Police Reserve)が設置されたことである。

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 出所)警察予備隊員募集のポスターで,右下には「国家地方警察本部」と印刷されている。1950年8月13日(この日は日曜日なので11日あるいは12日か?)日から9月15日(金)まで募集。http://www.asagumo-news.com/homepage/htdocs/photo_sample/1950_sample.html

 1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発した。この緊急事態に応じて在日米軍が動員された。このために日本本土における軍事力は,すっかりカラッポの状態となった。この事態を補完するための兵力配備として,それも占領軍に日本国が命令される関係でもって問答無用的に編制されたのが,しかもそれを単純に理解すればまったく憲法違反であるほかなかった「日本の,日本人による,在日米軍補完のための軍隊組織」であった。ともかくとりあえずは警察予備隊の建軍になっていた。

 4)「砂川判決」の非国家的主体性

 敗戦した大日本帝国は,明治憲法を改定(改正?)させられ,新しく日本国憲法をもつ日本に生まれかわさせられていた。しかもこちらの第9条は戦力を放棄していた。

 だから,1959〔昭和34〕年12月16日の『砂川判決』(最高裁判決,最高裁長官は田中耕太郎)が,アメリカの意向をそのまま鵜呑みにし,米軍基地を「憲法第9条」の穴を埋める存在として,もともと合憲だと認めざるをえなかったのは,第1条の存在である昭和天皇にとっても十分に納得(満足)のいく判断であった。

 その最高裁の判決は「統治行為論」を適用していた。それはこう判断していた。「国家統治の基本に関する高度な政治性」を有する国家の行為は,法律上の争訟として裁判所による法律判断が可能であっても,これゆえに司法審査の対象から除外すべきとする理論である。裁判所が法令個々の違憲審査を回避するための法技術として説明されることが多く,理論上は必ずしも憲法問題を含むもののみを対象にするわけではない。

 しかし,『砂川判決』に適用された「統治行為論」は,日本国の基本利害の観点からではなく,対米従属路線のためにもちだされ適用されていた。当時日本の最高裁長官がアメリカの要請にしたがい判断したその判決の意味が,いかなる「非国民的・売国的な政治価値」を有したいたかといえば,議論=贅言を俟たないくらい明々白々であった。その最高裁長官が,すでに独立していた日本国の司法界を,どれほどまでアメリカに従属させていたかといえば,まさに属国にふさわしい地位関係を明証していた。

 ここではあらためて指摘しておく。前出の豊下楢彦昭和天皇の戦後日本- “憲法・安保体制” にいたる道-』における主要論点のひとつともいえるが,昭和天皇がみずから「在日米軍による占領体制的な継続駐留」を強く希望した事実があった。

 この種の天皇の発言・主旨はなんどにもわたって,アメリカ側に秘密裏に伝達されていた。この「歴史の事実(経緯=裏事情)」が日本側の政治学者たちの研究によって確実に判明していったのは,敗戦後半世紀も時間が経過してからであった。

 5)憲法問題-第9条という論点-

 ここで念のため,日本国憲法の第2章「戦争の放棄」〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕を,後段に書き出しておく。

 この憲法の第1条に座していた象徴天皇裕仁が,なにゆえ,前段までに言及してきたごとく,昭和20年代において「政治的な行為(裏側の顔:経路を使っていたそれ)」を盛んにおこなってきたのか,これについては深い疑念をもって吟味する必要がある。

 同時にまた昭和20年代は,昭和天皇が日本全国を「巡幸」していた時期でもあった。この「歴史の事実」も合わせて考慮に入れ,前段に示唆した問題に接する必要がある。こちらは当時における「彼が表側の顔としてみせていた政治的な行為」であった。

 第9条 日本国民は,正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し,国権の発動たる戦争と,武力による威嚇又は武力の行使は,国際紛争を解決する手段としては,永久にこれを放棄する。

   2 前項の目的を達するため,陸海空軍その他の戦力は,これを保持しない。国の交戦権は,これを認めない。

 

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  第1条「天皇」は第9条「戦力の放棄」との組みあわせ〔合わせ鏡の関係〕であったゆえ,後者の補填は在日米軍が担当していた。たまたま朝鮮戦争という隣国での動乱(内乱)が起きてしまい,これに対しては,日本を占領・統治するために派遣・配置されている在日米軍が,まず国連軍の主力として動員されていた。

 その直後,その穴埋めのための部隊として早速創設されたのが,日本国民をもって編制した「警察予備隊(1950年8月10日)」であった。これは「保安隊」(1952年10月15日に警察予備)から「自衛隊」(1954年7月1日)」へと解消的な発展を遂げていった。

 天皇天皇制(天皇制度)を,敗戦した大日本帝国に残置させて利用することにしたGHQ(アメリカ)は,戦力をもたない近代国家などありえないことは百も承知であった。ただし,日本には軍隊をもたせない代わり,「在日米軍基地」がその役割を果たすことになっていた。敗戦後における日本国の政治は,そうした二重支配構造を形成していた。

 しかして,その一重目の構造面は,日本国じたいとしての政治支配構造そのものであった。また,その二重目は,在日米軍基地によって日本国が実質的に政治支配されている構造面であった。この二重構造的な日本政治のあいだに,いわば「うまくはさみこまれていた」のが,天皇天皇制であった。こちらはこちらなりに,「日本国民を占領軍がうまく治める」ための政治機構として,間接的に活用される「歴史的な役目」を発揮してきた。

 そうした二重支配構造体的な枠組のなかにおいてこそ,日本国憲法第1条「天皇」と第9条「戦力放棄=米軍基地」との相互関係性が,歴史的有意義性を高揚しうる磁場を確保できていた。

 6)日本国憲法根本矛盾

 いずれにせよ,朝鮮戦争以後,自衛隊が登場してきた事実は,日本国憲法に矛盾をはらませる基本要因であった。それゆえ,自衛隊3軍は,正真正銘の軍隊でありながらも「軍事力:兵力でないかのような擬態」を,いつも演じる暴力装置であるほかない体裁を強制されてきた。しかもその軍隊としての体裁(=仮態)は,日本国憲法のもとで65年間も維持され,その〈根幹での矛盾〉を体現・表出させつづけてきたわけである。

 大日本帝国憲法の改定になる日本国憲法天皇天皇制を廃絶できなかったがゆえに,ある意味でいえば,必然的に誘引させていたのが,この新憲法のなかにしこまれた〈特有の矛盾〉であったということができる。

 日本の憲法改正にさいして守るべき「3原則(マッカーサー・ノート)」が,憲法草案起草の責任者コートニー・ホイットニー民政局長に示されていた。

 以下の3項目のうち,a)  と c)  とは完全に矛盾する(赤字にした文言に注目したい)。アメリカが敗戦した日本に「押しつけた憲法」の民主化「度」は,その点では少しも基本的な矛盾を除去しえないまま,「占領政策」の要請に即応するだけに留まっていた。

 a) 天皇は国家の元首の地位にある。皇位世襲される天皇の職務および権能は,憲法にもとづき行使され,憲法に表明された国民の基本的意思に応えるものとする。

 

 b) 国権の発動たる戦争は,廃止する。日本は,紛争解決のための手段としての戦争,さらに自己の安全を保持するための手段としての戦争をも,放棄する。

 日本はその防衛と保護を,いまや世界を動かしつつある崇高な理想に委ねる。日本が陸海空軍をもつ権能は,将来も与えられることはなく,交戦権が日本軍に与えられることもない。

 

 c) 日本の封建制度は廃止される。貴族の権利は,皇族を除き,現在生存する者一代以上には及ばない。華族の地位は,今後どのような国民的または市民的な政治権力を伴うものではない。予算の型は,イギリスの制度に倣うこと。

 安倍晋三政権が2012年12月に成立してから,集団的自衛権行使容認を閣議決定(2014年7月1日)したうえで,いよいよ「安保関連(戦争)法案」を国会(参議院)でも成立させれば,憲法第9条は完全に名実ともに「抜け殻」化する(その後,そうなっていた)。

 第9条がそのように空洞化を遂げたときには,これとは合体的な関連性をもって存在しえていた第1条も「空位化されるか,廃位化される」かしなければ,憲法体系の全体的な均衡関係がとれず,文字どおりにますます「矛盾そのもの」であるほかなくなる。

 つまり,天皇天皇であることを止めねばならず,第1条の必要性も消滅する。したがってむろん,第9条もなくなる。これですっきりと,日本国憲法内の条項同士間における基本的な矛盾の関係性が消滅する。

 しかしながらそのときは,この憲法じたいが完全にその基本的性格を喪失あるいは破壊される事態を意味する。それゆえ,憲法の全面改定があらためて要求される状況になる。

 ところが,安倍晋三政権が過去2年以上に記録してきた為政は,日本国憲法を解釈によって変質させるばかりであって,憲法「改正」をしたかったはずの当初の意向に反して,小手先の「憲法解釈いじり」をしてきただけであった。

 

  日本国憲法の基本問題

 1)第9条の本性

 憲法第9条が骨抜き状態になれば,第1条もその状態に合わせてカラッポにしたらよいのである。これしか当面する解決方法はない。これこそ憲法改定をしなければならない根本の事情・利用になりうる。

 そもそも,敗戦時に残置されて天皇天皇制は,占領軍の都合・利害のためにこそ,残されていたに過ぎない。だから,第9条の裏づけである在日米軍の実在とともに,この外国軍と合体・統合化するほどの実力(戦力)を,以前よりもちはじめていた自衛隊3軍の実在を踏まえて判断すれば,もはや天皇天皇制は要らなくなったと断定されるほかない。

 天皇は敗戦直後の被占領時代,日本帝国臣民から日本国民になった日本人たちを,在日米軍(GHQ)が統治・管理するための「ビンのフタ」の役割を果たしていた。だが,現段階における「在日米軍 + 自衛隊」という軍備実力のなかにあっては,いまさら「象徴」として民主主義国家体制のなかで存在する意味が希薄になっている。

 民主主義本来の政治体制を構築するために『天皇という「人間」』制度が必要だとか不可欠だとは考えるのは,民主主義の基本理念に照らせば,見当違いの議論でしかない。日本敗戦に当たって占領軍の都合・利害でのみ残置させてきたのが天皇天皇制である。いまではその存在意義が本来どこにあるのかさえ不可解である。

 2014年秋の話題であったが,憲法第9条ノーベル平和賞を受賞させたいと日本人のある主婦が提案し,実際にその候補として推薦までしていた。けれども,1947年5月から1950年8月10日までのその第9条に限ってのみ授賞せよという発想ならば,まだ理解できなくはない。けれども,21世紀において観るところの,在日米軍自衛隊3軍のもとにおける第9条に対するノーベル平和賞をという発案であれば,これは「腸捻転にも勝るねじれ具合」を起こしての珍妙な提案である。

 以上,本ブログ筆者によるずいぶん長い論及から,次段では再度,小熊英二の論旨に戻ることにする。本ブログ筆者が以前より繰りかえし述べていた「当面する重要な論点」だとみなした,憲法「第1条と第9条の関係問題」が,小熊英二によっても今回,真正面から議論されている。

 2)「第1条と第9条」と「東京裁判日米安保条約

小熊英二の記事本文に戻る→〕 したがってこの2つの条項(第1条と第9条)の改正は,基本コンセプトの変更を意味する。他の条項については,国民主権と平和主義をよりよく実現するための改正,ということもありうるだろう。しかし前文・第1条・第9条の改正は,国の骨格そのものの変更である。

 フランスやアメリカでも,憲法の各条項の改正はおこなわれる。しかし,人権宣言と独立宣言は変えない。それは,建国の基本的精神を変更することであり,つまりは「『フランス共和国』や『アメリカ合衆国』をやめる」ことを意味するからだ。

 逆にいえば,「日本国」を否定したい人びとは,前文と第1条と第9条の改正を目標にしてきた。これらの改正をめぐる対立は,「日本国」の存廃をめぐる争いなのである。

 だが日本国は,国内条件だけで成立してきたのではない。戦争の惨禍を経て,平和主義をかかげた国の成立は,国際的には以下の2つなしにはありえなかった。すなわち,東京裁判日米安保条約である。

 まず東京裁判なしには,日本国の国際社会復帰はありえなかった。また当時の国際情勢では,東京裁判と第9条なしに,第1条の前提である天皇の存続もありえなかった。

 そして第9条は,米軍の駐留抜きに実在したことはない。すなわち1952年までは占領が,1952年以降は日米安保条約が,米軍の駐留を正当化してきたのである。つまり「日本国」とは,第1条,第9条,東京裁判日米安保の4つに立脚した体制である。これら4つは,相互に矛盾しながらも,冷戦期の国際条件では共存してきた。

 そして「戦後70〔75〕年」とは「建国70〔75〕年」のことだ。もし,日本国の存立を支えている4要素が変更されれば,ないしバランスが変われば「戦後」は終わる。それがないかぎり,たとえなんらかの紛争に日本がかかわっても,「戦後」は続くだろう。

 補注)ところで,ここでいわれる「戦後」とは,本当はなにを意味するのか? おそらく在日米軍基地が日本の国土からすべて撤去されたときに,到来することになる歴史の瞬間であるはずである。

 だが,小熊英二の場合「も」そのことを明確に表現する手順にまでは踏まない。いうところの内容があまりにも刺激的であり,根源的でもあるからである。日本の知識人・学究の限界に相当するなにものかが,そこには潜んでいるとも感じられる。

 3)戦後という時期

 小熊英二の修辞,敗「戦後は続く〔だろう〕」という文句が意味するのは,いったいなんであるのか? 東京裁判史観を否定したい者は,米日安保条約体制もすべて丸ごとを否定しえないかぎり,その「否定の本意」は実現させえない。それも,絶対に不可能である。小熊英二が上段のように表現しているように,だから,21世紀における今後においても,この「戦後〔状態〕は続く〔ほかないだろう〕」と断わられている。

 「天皇天皇制」とは,まったき〈対〉をもって置かれてきた「在日米軍基地」の存在である。これをどかすためには,両方をいっしょにどかさねば,もともとできない相談である。この前提で日本国憲法を「改正」するとしたら,どのような方途が可能か? 自民党憲法「改悪」は時代錯誤の政治思想にこだわっている。明治時代まえの先祖返りを夢みている。まさしく,白日夢である。

 自民党日本国憲法改正草案」は,「前文」で「主権在民,平和主義,基本的人権の尊重の三つの基本原理を継承しつつ,日本国の歴史や文化,国や郷土を自ら守る気概,和を尊び家族や社会が互いに助け合って国家が成り立っていることなどを表明」している。第1章が「天皇は元首であり,日本国及び日本国民統合の象徴」であり,「国旗は日章旗,国歌は君が代とし,元号の規定も新設」するとも唱えている。

 これではまるで明治憲法の亡霊が登場したも同然である。明治時代以前に「天皇が元首」であった時代など,ふたしかにいえば古代にはあったかもしれない。だが,中世以降には否でありつづけてきた。明治維新が「神武創業」と称して,古代史への回帰を希求したものの,民主主義政治体制として本来からの中途半端さかげんは,まさしく「敗戦」によって実証されていた。

 「東京裁判史観」を否定する人びとは,ホンネがどこにあったかはみえみえである。21世紀よりも19世紀に存在していた旧・大日本帝国憲法のほうが,日本国憲法よりもすばらしいと確信(盲信)できているわけであるが,自分たちが創った「旧・憲法」が,敗戦後にGHQに押しつけられたという「新・憲法」よりも,民主主義の制度「設計・観」において勝っているというその確信(信心)は,いったいどこから湧いてくるのか摩訶不思議である。

 21世紀になってもいる現代政治体制のなかで,いいかえれば,民主主義のより健全な展開を期待したい者たちの立場・思想にとってみれば,そもそも「天皇を元首に置くとする発想」そのものが,不要・無用の長物でしかない。こういう発言をすると,これに反発する者はただちに,ならば共和国体制が至上なのかとムキになって批難してくる。しかし,政治制度として根幹的に異質である両憲法のあり方を,基本的に比較できると観念する発想には,もとより問題があった。

 それでは,最近における日本の政治・経済・社会・文化・歴史・伝統の諸実態を,真正面から観て,まともに理解しようとしたことがあるのかと,詰問したくもなる。

 とりわけ,「日本国の歴史や文化,国や郷土を自ら守る気概,和を尊び家族や社会が互いに助け合って国家が成り立っている」などと教説する部分についていえば,いまどきは「家族や社会が互いに助け合って」生きていける生活水準にもない世帯・個人が,現に,われわれの周辺にはわんさと存在しているだけでなく,これからもどんどん増える見通ししかもてないでいる。

 つまり,できもしないような時代錯誤風の美文を連ねて表現できたつもりなのか,それも戦前・戦中の国家全体主義に戻りたいかのような〈封建遺制的な政治情念〉しか感じさせえない文章(作文)が,その自民党憲法改悪案にあっては露骨である。

 4)憲法研究会『憲法草案要綱1945年12月26日

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 出所)https://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052/052_001l.html

 日本国憲法が制定されるまでには,いくつもの憲法草案が提案されていた。たとえば,憲法研究会の『憲法草案要綱』(1945年12月26日)もあった。この草案はつぎのように解説されている。

 憲法研究会とは,1945〔昭和20〕年10月29日,日本文化人連盟創立準備会の折に,高野岩三郎(たかの・いわさぶろう)の提案により,民間での憲法制定の準備・研究を目的として結成された。事務局を憲法史研究者の鈴木安蔵が担当し,他に杉森孝次郎,森戸辰男,岩淵辰雄等が参加した。

 研究会内での討議をもとに,鈴木が第1案から第3案(最終案)を作成して,12月26日に「憲法草案要綱」として,同会から内閣へ届け,記者団に発表した。また,GHQには英語の話せる杉森が持参した。

 同要綱の冒頭の根本原則では,「統治権ハ国民ヨリ発ス」として天皇統治権を否定,国民主権の原則を採用する一方,天皇は「国家的儀礼ヲ司ル」として天皇制の存続を認めた。また人権規定においては,留保が付されることはなく,具体的な社会権生存権が規定されている。

 なお,この要綱には,GHQが強い関心を示し,通訳・翻訳部(ATIS)がこれを翻訳するとともに,民政局のラウエル中佐から参謀長あてに,その内容につき詳細な検討をくわえた文書が提出されている。また,政治顧問部のアチソンから国務長官へも報告されている。

 註記)http://www.ndl.go.jp/constitution/shiryo/02/052shoshi.html

 実際に制定された日本国憲法は,この憲法研究会『憲法草案要綱』の一部のいいとこどりだけをしていた。GHQの日本占領体制において,いかに統治・管理をおこなうか,その都合によい考えの部分(条項の文句)は流用されたかもしれない。つまりこの『憲法草案要綱』は,天皇天皇制を全面的に否定していなかったものの,現行の日本国憲法よりははるかに前進していた創案(草案)であった。

 ところが,21世紀にもなって前段のごとき自民党の「日本国憲法改正草案」が,反動形成的に提示されている。こちらは,20世紀の前半期(敗戦前)にまで憲法概念を逆送させるつもりである。敗戦だとか「ポツダム宣言の受諾」だとか「東京裁判」だとか「安保条約体制」だとかが,敗戦後史のなかで固有に実在し発揮されてきたそれぞれの歴史的な意味など,彼らはわずかも思いだしたくもないのである。

 5)小熊英二の結論部分

小熊英二の記事本文に戻る→〕 いま「戦後」は不安定になっている。冷戦終結と国際社会の変動,戦争の記憶の風化,経済条件の変化などが,4要素のバランスと共存を脅かしているからだ。建国70年を迎えた日本国は,今後どんな国であるべきか。いま問われているのは,それである。その議論なしに,この国の未来は探れない。(引用終わり)

※ 人物紹介 ※ 「おぐま・えいじ」は1962生まれ,慶応義塾大学総合政策学部教授,専攻は歴史社会学。著書に『生きて帰ってきた男』『平成史』など。

 本ブログ筆者にいわせれば小熊英二はとくに,「『日本国』とは,第1条,第9条,東京裁判日米安保の4つに立脚した体制である。これら4つは,相互に矛盾しながらも,冷戦期の国際条件では共存してきた」といった具合に論じていた。この認識は敗戦後史に関する当然の理解であり指摘である。

 そのさい,歴史継起・連続的に展開されてきた,それら「論点間の文脈関係」について小熊英二は,実は,もっといいたいことがあったはずだと推察する。だが,今回における論説においては,それ「以上」の次元まで立ち入る主張は,あえて披露していなかった。

 小さな寄稿文であるから,そこまで求めるのは無理があるかもしれない。しかし,敗戦後史:昭和20年代史にまつわる核心の論点,それも,21世紀における天皇制度の諸問題にまで連なる基本事項に,それ「以上」は意図的に触れていなかったとすれば,いささか隔靴掻痒の感を逃れえない。

 

  議論の前提

 以上 ① と ② の議論のなかには,昭和20年代史における昭和天皇の『禁じられたはずの政治的な行動の「裏・表」』に関する論及がなされていた。ところで,〔この記述がなされた〕4ヶ月前の2015年4月18・19日であったが,日本国営放送がNHKスペシャル番組として,「『日本人と象徴天皇』の “表と裏” 」という放送をしていた。

 ここでは,その番組の内容を批判していたブログの記述を紹介する。本日の議論に関連して,参考になる中身が記述されている。そのブログ名は『アリの一言-オキナワ,ヒロシマナガサキ,フクシマなどの現実と歴史から,人権・平和・民主主義・生き方を考える。-』である。適宜参照する(文責は引用者)。

 註記)以下は,http://blog.goo.ne.jp/satoru-kihara/e/a5439a9a11248a0d6a0677b263a952b5

 1) 表と裏のある番組

 NHKは2015年4月18日,19日の2夜連続で,NHKスペシャル「日本人と象徴天皇」を放送した。「戦後70年・ニッポンの肖像」企画の第1弾。番組はいくつかの重要な歴史的事実を明らかにする一方,肝心な点はあえて触れようとしなかったり隠そうとしていた。その “表と裏” は……。

 2)昭和天皇の戦争責任回避と「象徴天皇の誕生」

 戦後ギャラップ天皇制度調査 この番組では1945年6月の米ギャラップ世論調査「戦後,天皇をどうすべきか」が紹介されていた(画像  ↓ :クリックで拡大・可 )。 

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  それは「殺害する=36%」をトップに,圧倒的多数の米国民が昭和天皇の戦争責任追及を望んでいることを示していた。しかし,連合国軍総司令官マッカーサーは,占領政策遂行のために昭和天皇の戦争責任を不問にし,「象徴天皇」として天皇制を残した。

 番組は「新たに発見された資料」として,昭和天皇が側近に「極秘だ」として,マッカーサーから退位しないでほしいといわれた,と語ったという「稲田メモ」なるものを紹介していた。

 「象徴天皇」を国民に印象付けるための「全国巡幸」も,GHQの指示だったとするなど,「象徴天皇」はその「誕生」から「定着」まで,一貫してマッカーサー・GHQの意向・指示だったとした。

 その一方,昭和天皇(日本)が必死に戦争責任追及を回避しようとしたことには触れず,「(巡幸で)戦争の傷の深さを自覚した」(コメンテーター・保阪正康氏),「(天皇は)国民の心を支えてくれる存在だった」(NHK司会者)などと昭和天皇を美化していた。

 3)昭和天皇とサンフランシスコ体制・「沖縄メッセージ」

   a) 番組は,日本国憲法に「象徴天皇」が明記されたのち,マッカーサーが日本との早期単独講和をめざしていたとき,昭和天皇が芦田 均外相(当時)を呼び,「日本としては結局アメリカと同調すべき」と指示した(『芦田日記』の)こと,

 補注)この場面はいわゆる「内奏」の具体的な様子を指している。つまり,象徴天皇になっていた昭和天皇自身が,日本の政治に直接介入していた事実に触れている。

   b) さらに,マッカーサーとの会見(1947年5月6日)で,「日本の安全保障を図るためには米国がイニシアチブを執ることを要するのでありまして,そのために元帥の御支援を期待しております」(『昭和天皇マッカーサー会見』より)と述べたことを紹介していた。

   c) くわえて番組は,昭和天皇がGHQに対し,「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」とするメッセージ(「沖縄メッセージ」1947年9月20日付,画像  ↓  )を送ったことも紹介していた。

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 こうした史実は,昭和天皇憲法の「象徴天皇」の権限を逸脱し,政治・外交の根本問題に積極的に介入・指示していたことを示している。それが今日の沖縄の軍事植民地状態を作り出したサンフランシスコ条約日米安保体制の根源でもある。

 ところが番組は,「象徴」を逸脱した昭和天皇のこうした憲法違反には一言も触れず,さらに「天皇の沖縄メッセージ」についても,「長期租借という措置で日本に主権を残したという面もあり,難しい問題だ」(コメンテーター・御厨 貴東大名誉教授)として,その売国的重大性を事実上,免罪した。

 4) 天皇明仁への手放しの賛美

 昭和天皇については,否定できない事実を紹介しつつ,その評価をあいまいにする一方,現(前)明仁天皇については,「沖縄に心を寄せつづけるというみずからの誓いを実践されている」「イデオロギーや偏りがいっさいない中立性をつくりあげた」(御厨氏)など,手放しで賛美していた。

 以上のように,NHKの「日本人と象徴天皇」が触れようとしなかった問題が,少なくとも2つある。

 ★-1 ひとつは,現在の「象徴天皇制」は,昭和天皇の戦争責任回避,さらに象徴を逸脱した日米軍事同盟路線推進の延長線上にあり,それらの問題と切り離すことはできないということである。

 とりわけ沖縄にとっては,いままさに焦点の辺野古新基地建設はじめ,米軍基地,日米軍事同盟の犠牲を差別的に負わされている現実が,「象徴天皇」の昭和天皇によってもたらされた事実をあいまいにすることはできない。

 保阪正康氏は現(前)天皇を,「過去,現在,未来の連続性のなかに自分を位置づけている」と賛美したかのような解説を披露していた。だが,それならばなおさらのこと,平成天皇昭和天皇から引きついだ「過去」の責任から逃げることが,基本からして許されえないはずである。

 ★-2 もうひとつは,たとえ(前代の)天皇明仁が主観的に「中立性」を保ちえたいと考えていたとしても,「象徴天皇」はつねに国家権力が政治的に利用しうる対象である。その典型的な例が,2013年4月28日,安倍政権が沖縄県民の批判・抗議を無視して強行した「主権回復の日」式典に,天皇・皇后を出席させたことにも表出されていた。

 補注)その式典の終了まぎわ,安倍晋三たちが式次第にはなかった「天皇陛下,万歳三唱」を叫んでおり,問題になっていた。

 敗戦70年。「象徴天皇」の「過去・現在・未来」は,NHKとは別の視点から,私たち自身が考えなければならない問題である。( ③ の記述参照・終わり)

 以上の議論は,すなわち,本日紹介してきた小熊英二の寄稿「『戦後』とは何なのか」(2015年8月27日)は,いったい,敗戦後史の「なにを・どのように・考えればよいのか」について,基本から再考をうながす論及であった。

 ただし,その方向性について小熊が,具体的に明示していたとは受けとりにくかった。そういった寄稿の意図ないしは内容に限定されていたという感想をもった。

 前段の記述のなかに登場した識者,保阪正康や御厨 貴にも「同質の制約要因」がないはずがない。天皇天皇制の問題を真っ向から否定的に批判する議論が,彼らにできるわけもないし,するつもりもない。しょせん,体制内的な発言しかなしえないのが,彼らの立場に固有である限界・制約といえる。

 本ブログの記述は,そのあたりを忖度しながら,あえて肝要な問題に関する意見を,率直に提示してみたつもりである。

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