ピーター・F・ドラッカー(1909-2005年)は経営学者ではなく,自称,文筆家であった-第三帝国と知識人の理性-

          ファシズムドラッカー

                  (2008.1.19,更新 2020.9.29)

 

〕ピーター・F・ドラッカーの紹介

 ピーター・F・ドラッカー(Peter  Ferdinand  Drucker,1909-2005年)は,オーストリア生まれの有名な経営学者・社会学者である。このドラッカーまた,「大学教授であると同時に,経営コンサルタントでもあり,文筆家でもある。大学では経営学だけでなく,政治学まで教えた」(伊藤邦雄)とも形容されるほど,幅広い学識と哲学を有する人物であった。

 ドラッカーは自分を,「少なくとも経済学者ではない。基本は文筆家だと思っている」そうである(『日本経済新聞』2005年2月1日「〈私の履歴書ピーター・ドラッカー①」)。

 ドラッカーが数多く公表した著作のひとつに,『傍観者の時代-わが20世紀の光と影-』(ダイヤモンド社,昭和54年。原題:Adventure  of  Bystander, 1979)がある。彼が2005年2月いっぱい,27回をかけて日本経済新聞私の履歴書」欄に寄稿した文章は,ピーター・F・ドラッカー『20世紀を生きて-私の履歴書-』(日本経済新聞社 ,2005年)という題名の単行本として発行されている。

 なお,日本において売れたドラッカーの著書は,ダイヤモンド社刊行分だけで累計400万部あまりにもなるというから,日本の実業界を中心に驚異的な人気を博してきた点がわかる。

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ヒトラーに直接取材したことのあるドラッカー

 1909年生まれのドラッカーは,21歳で国際法の博士号を取得し,ドイツの大学で助手を務めていたとき,講師になることを打診されたが,これを断わっていた。大学当局の任命職である講師になると,自動的にドイツの市民権を与えられる規定があり,ドイツ市民になってヒトラーの臣下になるのは真っ平ごめんだと感じていた,というのである。

 当時「私はファシズムの嵐が吹き荒れると踏んでいた」。「再就職の当てがないのは分かっていても,英国がどこかへ一刻も早く脱出しなければならない。こんな決意を固めたばかりの1933年1月,ナチスが政権を掌握した」ときだったという(『日本経済新聞』2005年2月1日「〈私の履歴書ピーター・ドラッカー⑨」)。

 

ナチス政権下のドイツの大学でなにが起こったか

 ドラッカーの『傍観者の時代-わが20世紀の光と影-』1979年は,フランクフルト大学からのユダヤ人教員追放が1933年3月15日に始まった事実を,この大学の関係者の1人として回顧している(ドラッカー『傍観者の時代』248-249頁)。

 ドラッカーはその光景をこう描いていた。「なかにはユダヤ人の同僚と肩を並べて退出するだけの勇気の持主も2,3いないではなかった。が,大部分の教員はわが身に災難がふりかからぬ程度の距離をユダヤ人教員との間に保って退出した--ほんの数秒前まで,親友同士だったというのに! 私は死ぬほど胸がむかついた,そして固く決心した--48時間以内に絶対にドイツを出よう,と」(同書,249頁)。

 

ドラッカー著『経済人の終わり-全体主義はなぜ生まれたか-』1939年

 この『経済人の終わり-全体主義はなぜ生まれたか-』をドラッカーが書き始めたのは,1933年ヒトラーが政権をとった日の数週間後だったという。ナチズムの悪魔学における反ユダヤ主義の位置づけについて書いた部分は,1935年から36年であり,オーストリアカトリック系出版社から小冊子として発行されていた。そして,残りのほとんどを書きあげたのは,ドラッカーがイギリスからアメリカへわたった1937年4月から年末にかけてだった。

 本書は,書名にあるように,全体主義の起源を明らかにした世界で最初のものだった。初版以来,今日にいたるも広く読まれている。すでに何度か再版され,そのもっとも新しいものが1969年版である。そして近ごろ,本書は再び関心を集めるにいたった(上田惇生訳『「経済人」の終わり-全体主義はなぜ生まれたか-』ダイヤモンド社,1997年,新版への序文ⅰ-ⅱ頁。本書の日本語初訳は,岩根 忠訳『経済人の終り』東洋経済新報社,1963年である)。

 

〕平井泰太郎という日本の経営学者と,ユダヤ経営学者の存在・消滅

 平井泰太郎は,戦前において神戸大学経営学部(現在)の基礎を築きあげた有名な日本の経営学者である。ドイツ留学中の1925年に“Quellenbuch  der  Betriebswirtschatslehre”(『経営経済学泉書』:その中身は文献案内の本)という著作を,Alfred  Isaac との共著で制作・公表していた。ところが,本書が1938年に再刊されるさい共著者だったアルフレート・イザークの氏名はなくなり,その代わりに Paul  Deutsch という氏名が出ていた。

 さて,学究同士としての平井泰太郎とアルフレート・イザークの友人関係は,こう記述されていた。

  平井教授(画像)は,1924年すでに,ドイツの経営学イザーク氏との共同研究において,真の協力がいかに重要であるかということを体験した。このことについて『泉書』の1人の編集者は,その序において,つぎのように語っている。

 

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 「2人は異なった国の出身である。しかし,まだ幼い経営学の研究に対する同じ目標と,真の学問愛とを通じて,知らず知らずのうちに結びつき,友情を見いだしたのである」と。この協力と相互交換の精神が,平井教授の一生涯を通じての学問的心構えの特徴を示していた(平井泰太郎先生追悼記念事業会『種を蒔く人』昭和49年,333頁)。

 しかし,そのように「平井教授は,1924年すでに,ドイツの経営学イザーク氏との共同研究において,真の協力がいかに重要であるかということを体験した」(同書,同所)といわれていたものの,実は,1933年を区切りに前掲『経営経済学泉書』の共著者を,ユダヤ人からドイツ人(それも Deutsch! という姓の)に替えていたのである。

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 前段,の段落における文章を,平井泰太郎先生追悼記念事業会『種を蒔く人』昭和49〔1974〕年に寄せたのは,当時すでにフランクフルト大学名誉教授だったカール・ハックス(Karl  Hax)である。なお,ハックスは,1961〔昭和36〕年に「日本経済発展における成長力の分析」に関する大部の著作(独文,25㎝版で632頁)を発行している。

 Karl Hax,Japan : Wirtschaftsmacht  des  Fernen  Ostens :  ein  Beitrag  zur  Analyse  des  wirtschaftlichen  Wachstums,Köln :  Westdeutscher Verlag,1961.

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