経営学者村本福松の戦前・戦中・戦後史-その一貫性と断続性-

        (2008年4月18日,2014年3月30日 更新,2020年10月9日 再更新)

 戦時体制期において経営学者村本福松が語ったことの「敗戦後史的な意味」,すなわち,社会科学論として経営理論が戦争の時代のなかでみせた転回は,どのように内省されればよかったのか

 

  【要  点】 敗戦後における経営学史は,皇国史観の残滓をどのように捨ててきたのか

 

  皇国史観の問題

 長谷川亮一『「皇国史観」という問題-十五年戦争における文部省の修史事業と思想統制政策-』(白澤社発行・現代書館発売,2008年1月)という著作がある。本ブログの筆者は,戦時体制期〔昭和12-20年:1937-1945年〕における日本経営学の理論展開に学問的な関心を向けてきたゆえ,同書を自分の研究にとって重要な文献と受けとめ読んでみた。

 紀伊國屋書店のホームページによれば同書は,『戦前の歴史観の代名詞「皇国史観」は,非科学的,独善的,排外的などとして,戦後しりぞけられてきた。しかし,そもそも「皇国史観」とはなんであったのか? 誰が,なんのために提唱し,普及させたのか? 本書は,「皇国史観」の成立と流布を,戦中に文部省が行なった修史事業に着目して再検証し,従来のイメージを一新』と宣伝されている。同書は,皇国史観」のなにが,いかに問題であるのかを明らかにする,というのである。

 長谷川亮一『「皇国史観」という問題-十五年戦争における文部省の修史事業と思想統制政策-』の章構成は,つぎのようになっている。

  第1章 戦後における「皇国史観」をめぐる議論の展開
  第2章 近代国体論の変容
  第3章 「皇国史観」の提唱と流布
  第4章 『国史概説』の歴史像
  第5章 『大東亜史概説』の歴史像
  第6章 国史編修事業と国史編修院

 以上各章の記述のなかから,本ブログの筆者はとくに,第2章の結論部に書かれているつぎの部分に注目した。

 1935〔昭和10〕年から1937〔昭和12〕年ごろにかけて,日本国内において,「天壌無窮の神勅」に基づく「国体」が神聖不可侵の存在として位置づけられるようになるとともに,その中心たる「天皇」をいただく国家である日本は,「万邦無比」の「皇国」とされるようになる。これは,日本は他の「帝国」(とりわけ満洲帝国)とは絶対的に異なる存在である,という自己認識を示していた。

 

 この認識は,それだけでは「日本」の範囲内にとどまるものでしかなかったが,1937年以後の日中戦争の拡大とともに,その「国体」を「日本」の外部へと無限に拡大し,諸国家・諸民族の自立を認めつつ,その上に天皇が立つ,という「八紘一宇」の理念が国是として導入されることになる。これは,日本が帝国主義的な領土拡大を形の上で否定しながら,なおかつ対外侵略を正当化するために導入した理念であった。

 

 以後,日本の歴史は,このような「天壌無窮の神勅」に基づく天皇の永久の支配,という「国体」が「八紘一宇」の理念に従って無限に拡大していく,という「肇国の精神」の実現過程とされることになり,この「肇国の精神」を「体得」するためには日本の歴史を学ぶことが必要だとされるようになった。

 

 このため,国民教育のみならず高等教育や各種採用試験などにおいても,「国史」は極めて重要な科目として位置づけされることになる。しかし,この時点では,その「肇国の精神」に基づく公定的テキストとしての歴史書はいまだ存在していなかった。このため,教学局では1941年以後,そのような公的テキストを次々と編纂していくことになる(114-115頁)。

 書斎の本棚を探ってみたら,教学叢書第5輯,栗田元次著『国史より見たる国民性』教学局,昭和14年3月1日発行という小冊子〔パンフレット,いまふうにいえばブックレット〕がみつかった。大きめの活字で本文52頁。最後部から引用しておく。次項(2)の議論につながる記述内容である。

 嘗て東洋文化をよく同化し得たる祖先に対しても,やがては西洋文化をも同化し,玆に東西文化の融合を実現すべき世界的使命を果さねばならぬ。近時の教学刷新・日本精神運動は,この大使命遂行の端として,初めてその真義を認めらるべきであらう(51-52頁)。

 

  経営学者の反応-皇国史観の具体的展開-

 1) 戦時体制期における村本福松の主張:その1

 さて,日本の経営学が理論史的に展開してきた軌跡をみるとき,村本福松という経営学者がたとえば,昭和初期(戦前期)から戦時体制期(戦中期)にかけて披瀝した「学説・理論の変質ぶり」は,前段のような「1935:昭和10年から1937:昭和12年ごろ」にかけて,日本社会に対して国策的理念として強要された「近代国体論の変容」「皇国史観の登場」が,如実に反映されていたのである。

 そこで,時代が「戦前期から戦時(戦中)期へ移行した」さい,経営学者の村本福松が披露した,その理論の変貌ぶりを説明しておきたい。

 大正時代から日本で早く,経営学研究をはじめていた村本福松は,「企業は何処へ往くか」と問い,次段のように答えていた。これは「昭和戦前期から戦時体制期へ」時代が進捗する過程での発言の変質である。時代の流れをいえば,昭和6〔1931〕年9月に「満州事変」,昭和12〔1937〕年7月に「日中戦争」,昭和16〔1941〕年12月に「大東亜(太平洋)戦争」がそれぞれ開始されていた。

 村本福松『経営学原論』千倉書房,昭和9年は,「経営学の真に正しき姿」である「経営学に於ける規範科学的意識の重視」は,「経済性の追求」=「善の実現(共同経済的厚生,流通経済における適合関係)」を志向するもの,と規定していた(同書,274頁,271頁)。

 ところが,村本福松『新版経営学概論』千倉書房,昭和17年6月になると,戦時「新体制下の国家的要請であるところの高度化企業の実成」をめざすのが「経営学の研究課題」にほかならない,と変化した(222-223頁参照)。こういっていた。

 「支那事変から大東亜戦争に進み入るに従ひ,高度国防国家態勢整備の要請は愈ゝ切実なるものあり,かねて唱へられたところの,個々の企業経営は,只管に国民経済の発展に奉仕する手段的装置たる以外の何ものでもない」こととなった。「これを換言すれば」,「企業が企業とし,経営が経営として存在し得るのは,実に企業経営が」「国民経済への奉仕なる道理の関係を作り出す限りに於てである」ゆえ,「企業し経営することを国民経済的規範目的への奉仕に関連せしめて考へる一途あるのみとなった」(村本『新版経営学概論』昭和17年,「新版の序に代へて」1-2頁)。

 村本『経営学概論』の初版昭和13年はすでに,こう表明していた。

 本書が,国体,日本精神の本義に基き,各種の学問の内容及び研究方法を研究批判し,我国独自の学問文化の創造発展に貢献し,延いて教育の刷新に資せんとする日本諸学振興の趣意にも合致することを得ば,著者の本懐これに過ぎるものはない(同書,初版「序」2頁)。

 戦前・戦中期における村本学説は,このような「国家の立場」において「真に正しき姿」を求める経営学の立場を深めていった。それは,文部省教学局が「戦時期の大学=高等教育」において国家政策上強制したものであり,また,その「真に正しき」方途に即した「皇国史観」に則る理論として提唱したものでもあった。

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 村本はさらに昭和17年7月,『経営経済の道理-翼賛経営体制の確立-』(文雅堂書店)という著作を公刊していた。まさに「名は体を表わす」とおりの著書である。村本は,大東亜戦争下「道理の経営の建設への進路が開かれる」のは「高度国防経済の確立目標が厳として存するに於ては,そこに唯一途の経営の道理は発見せられ」るからだと,高らかにとなえていた。

 2) 戦時体制期における村本福松の主張:その2

 さて,本(旧・々)ブログは「2008. 4. 18」時点における記述であったが,なにせ歴史をだいぶさかのぼっての話題であった。本日(旧ブログ)「2014. 3. 30」の記述にさいしては,村本福松が戦時体制期に『産業経済新聞』に寄稿していたので,これをつぎに紹介したい。

 神戸大学『新聞記事文庫』企業 (3-037) からの引用であるが,この『産業経済新聞』1943〔昭和18〕年11月12日に掲載された文章の題目は,大阪商大教授村本福松「軍需会社制と生産責任に就て」である。なお,本文には適宜改行を入れた。なお,画像の原資料も途中に入れておく。

 村本福松氏 明治43年阪高等商業卒業在外研究を経て昭和3年大阪商科大学教授となり現在に至る,我国における「適限経営」理論創始者,近著に経営学概論,配給機構理論,経営経済の道理その他。

 

 (1) 差迫った生産増強を実現するために色々の方策が提唱せられそのうち最も重要なるものとしては,私企業に代る国営策,或は私企業の借上案などがあったが,筆者としては,右〔上〕の何れをも賛せず生産責任制を確立せる私企業形態を主張したものであった,ここで私企業といっても,私のための企業という意味ではなく,唯その主体が私人であるというに止まり,それは皇国のためのものであることは勿論である,

 

 凡そ今日の世の中に存在が許されるものは皇国のためになるということをその唯一無二の条件とするものであるから,今更断るまでもないが,私という文字の使い方に関し誤りをなすものがあるから附言して置く次第である,而して筆者の意図した如き軍需会社制が,這般の臨時議会において成立を見たことは洵に欣快に堪えないところであり,この新制度の適正なる運営によって,我国当面の生産増強の目的が達成せられることを思えば心強き限りである

 

 ところが本制度の発展を見て以来,日常の会談において或は新聞,雑誌に現れた座談会などの記事において,考えさせられるものがないでもない,今これらの一,二の点に関し所感を述べて見たいと思う

 

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 (2) いうまでもなく,軍需会社制は生産性昂揚を目標とするものであるから,この目標達成のための条項をその法文中に多く存するは勿論であり,それらは,第11条の協力関係に関するもの,第3条の法令に基づく禁止又は制限の解除,義務の免除,許可,認可に関する手続における特例の設定及び第5条の補助,補償又は利益の保障等に要約せられるが,尚第13条の専業化に関するものも制限規程ではあるが生産性昂揚に役立つものと考えることが出来るであろう,

 

 ところが,或る座談会における一意見によれば,同法の第3条において,生産責任者及び生産担当者は国家に対し生産の責任を負うとともに,政府はこれに対し信賞必罰をもってその功過を明かにすると定めてあるが,信賞の規程は少しくして,解任,□責,懲戒の如き罰則規程が多きに過ぐる如くであるから,生産の責任を果さしめるためには,今少し積極的に,資材労力,電力,或は工作機械等についても,或る程度の自由を与えて安心して活動せしめる如き規程を必要とすると主張せられていることを読んだ。

  --〔写真あり,省略〕--

 なるほど右〔上〕は一応尤もな主張である如くであるが,実際において果してどの程度の自由なるものが与えられるであろうか疑問と思うのである,勿論今回の軍需会社制によって企図する生産性昂揚の対象は航空機を中心とする生産であるから,之に関する限り或る程度の自由性を与えることは考えられる如くであるが,国をあげて航空機中心の生産に邁進しつつある場合,要求せらるる如く自由を与えるということは結局生産を混乱せしめる原因を作ることは必定で,飽迄厳密な統制を絶対条件とし,これによって生産性昂揚が可能となる,ただしかし必要なることは,その統制が機構の円滑なる運転のごとくどこまでも円滑に科学的な計画通りに運転するということである

 

 統制が正確円滑であれば,毫もこれを排斥する理由はない,統制の正確円滑ということは,統制そのものとは別個の事柄条件に属する,この条件を欠く場合があるからとて,直ちに自由を以て統制に代えるとか,自由的要素の加味を主張することは誤りである。

 註記)http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10033792&TYPE=HTML_FILE&POS=1 文中の句読点は,現在の方式と異なっているが,原文どおりに引用した。

  要は,戦時統制経済体制のもとにあるのだから,産業経営を「自由を以て統制に代えるとか,自由的要素の加味を主張することは誤りである」と,村本福松は主張していた。当時は軍需会社という企業形態が採用され,すべての物資を戦争に動員するための戦争態勢であるゆえ,自由は不要,統制でやれという立場を,経営学者の考え方をもって断言していた。
 
 昭和18〔1943〕年11月の段階で,大東亜戦争の戦局が日本帝国にとって,どのようになっていたといえば,9月30日には「絶対国防圏」が設定されており,それよりも3カ月前6月25日には,学徒出陣が決定されていた。4月18日には連合艦隊司令長官山本五十六が戦死していた。5月29日にはアッツ島の日本軍守備隊2500名が全滅(=玉砕)していた。つまり,日本は昭和18年の前半ですでに大東亜戦争には敗北が決定づけられていた。

 山本五十六いわく,「余は日米戦争の場合,(山本)大将の見込みの如何を問ふた処,それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる」(『近衛日記』から)。そのとおりになった。このようにいいのけた当人が,大東亜戦争開始後,1年半で戦死していた。

 そうした時代の推移,戦局の激変とは別に,経営学者が戦時物資の増産を軍需会社の生産統制を強め,自由は無用,統制を強化せよという論説を書いていた。この村本福松が主張した戦争遂行体制に関する提唱は,ほとんど無益というか,戦争の進展を日本有利に転換させうるような方途に役立ちうることはなかった。(以上,② の 2) が本日〔2014年3月30日〕追筆部分である)

 

  皇国史観と無縁であるかのように戦後にはなっていた経営学説の問題性

 以下につづく議論は,関連させて,本(旧・々)ブログ「2008. 4 .4」「最近の論稿を紹介〔続・4〕」で議論した増田茂樹『経営財務本質論-もう1つの経営職能構造論-』(文眞堂,2007年3月)という著作について,若干,筆者の批判的な考察を追加するものとなる。

 補注)増田茂樹に関する本ブログ内の記述は,以下のものとして復活させてあった。

 戦争の時代,哲学論的に「行為的主体存在論の立場=国家の立場」に立つことによってこそ,「真の本格的」経営学への道が切開されると論断していた有名な経営学者,その氏名を挙げるならば,山本安次郎や山城 章がいた。しかしながら,敗戦後には彼らのその「国家の立場」=「大日本帝国」が瓦解したにもかかわらず,そしてこの立場には立たない理論主張に変質させたにもかかわらず,敗戦後も自説の「戦時中の核心」〔本当は形骸?〕だけは存続させ,生きのびることになっていた。

 山本安次郎や山城 章は戦時中も戦後も,「理論の表現」においては一貫して,国家の立場に足場をおき「真の本格的」な経営学を標榜していた。けれども,いずれもまず無意識的には,「永遠の今」(このことばは西田哲学の用法)の立場に自説が引きよせられており,つぎに意識的には,「実践的理論」科学性の主体論的な強調がなされてはいたものの,哲学論的にはもちろんのこと社会科学論的にも,三木 清の指摘したごとき「実践的時間性」を客体的に問題化できない弱点を共有していた。

 いいかえれば,戦争の時代においても平和の時代においても,ただ単純に「永遠の今」的な理論の状況としか主張できておらず,「似非的なる哲学論」の社会科学論的(?)展開でしかない経営学「論」の弱点をさらけ出していた。つまり,時代の要請に無批判的にしたがう理論構築に終始してきたのであり,その時代の本質的動向を捕捉できない経過を晒けだしていたのである。だからこそ逆には,いつの時代にも即座に順応・適応できる理論をもちえていたともいえる。

 村本福松の場合はさらに,どのように批判されればよかったのか。これまで,ほかの経営学者たちが以上のような問題意識をたずさえて,学史的な観点から村本学説を吟味したことはなかった。

 その事実は2020年10月9日の今日まで,なにも変わっていない。「この〔その〕道はいつか来た道」という文句があったが,この文句としてのみ口に出していえるだけの時代が,いつまでも続くわけではない。

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