明治天皇と西郷隆盛の親密な関係を介して再考する「創られた天皇制」

                  (2014年12月17日)
 明治天皇西郷隆盛とが特別に親密な関係にあったという説をめぐり,あらためて考える明治期以降の天皇問題

 

  要点・1 睦仁と西郷どんはなぜ,親しい仲だったのか?

  要点・2 南北朝問題と部落差別問題が交叉する日本史


 心中に失敗したことのある西郷隆盛

 “Samurai World”  歴史再発見-第41回「西郷隆盛は菊池一族だった !! 」(出所は後掲)の記述は,非常に興味のもてる,つぎのような粗筋を紹介している。

 --西郷隆盛の先祖は,熊本の勤皇武士・菊池一族であったといわれるが,この指摘は現在まで確証をえていない。ただし,菊池一族として西郷隆盛を考えると歴史は面白くなる。西郷は自分の先祖を菊池一族に求めていた。あの時代,西郷にかぎらず名前〔とくに名を〕をころころかえる人は多かった。伝統的な知恵でもあった。

 西郷隆盛は,月照との錦江湾入水事件〔相方は死んだが自分は死ななかった〕のあと奄美大島に流刑処分となったさい,罪人だから名前をかえて島にい行けと命令され,別名の菊池源吾を称した。これは,西郷の引渡しを求めた幕府官吏を追い返すために薩摩側が細工した方便であった。こうして,西郷隆盛はひとまず死んだ。

 水戸藩編纂『大日本史』が記すように,肥後北部,現在の菊池市一帯に勢力を有した豪族の菊池氏は,南朝方に忠勤を励んだ一族であった。明治政府は王政復古の理念に照らして,武家政権ではなくこれに抗する後醍醐天皇の政権にあくまで与した「藩屏の模範像」として,菊地一族に着目した。

 菊池氏は,藤原氏を起源とする説もあるが,もともとは九州土着の豪族らしく,代々大宰府と関係が深いとみられる。菊池氏一族の支族に西郷氏がいて,代々《隆》の一字を使用していたので,西郷隆盛も先祖として意識したと思われる。

 現在,菊池氏一族の西郷氏の居城だった増永城には,西郷隆盛先祖の碑が建立されていて,西郷隆盛は菊池一族というふれこみは既成事実化されている。「西郷氏は菊地則隆の子政隆が西郷氏を名乗ったのに始まるとされる」(この段落の引用のみ,http://www.hb.pei.jp/shiro/higo/masunaga-jyo/

 西郷隆盛という人間は,つかみどころがない。勝 海舟の西郷に対する所感と同じであって底がわかりにくい。西郷は個人写真を1枚も残していないのは,自分像の温存志向と深くかかわっている。

 西郷は,倒幕運動のなかで自分像の焦点を,中世の武将菊池武光に合わせていたと思われる。江戸幕府を倒し,天皇親政による新政権を作りだす創設者たらんとしたのではないか。

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 出所)画像は,http://rose7.exblog.jp/7423713 この西郷隆盛銅像は本人とは全然似ていないという指摘がある。

 明治天皇西郷隆盛に対する特別な親近感は,なにも明治天皇の少年期からの教育に西郷がかかわっていたということだけでなく,菊池武光の再来として西郷隆盛をイメージしていたのではないかとも観察できる。

 南朝を最後まで支えてくれた一族,その子孫である西郷に対する,明治天皇の特別な思いいれがあったと推察されてよい。「明治天皇西郷隆盛との主従関係」だけでは説明できない,なにかとても人間味あふれるその関係が感じとれる。

 註記)http://www.mmjp.or.jp/askanet/rediscover_saigo&kikuchi.htm 参照。

 

  明治天皇の「本当の出自」は?

 1) 西郷隆盛伊藤博文の存在

 以上 ① を踏まえて本論に入る。飛鳥井雅道『明治大帝』筑摩書房,1989年には,つぎのように西郷隆盛に論及した個所がある。それは,明治史研究に関する著作を多く公表している渡辺幾治郎が,明治「天皇の奇妙な言動を伝えている」と指摘していた点についてである。

 明治10年(1877) 26歳

  2月,京都行幸中に,西南戦争はじまる。天皇,この時はじめて政務をみることをきらいはじめ,「奥」にとじこもることが多くなる。

  9月24日西郷隆盛以下戦死して内乱の時期おわる。

  

 明治9〔1876〕年以後の明治天皇は,かなり明確に西郷びいきであった。だからこそ,天皇西南戦争が迫ったとき,日程変更をいい,表に出てこなくり,乗馬を拒否し,勉学をも拒否したのであった。

 

 明治10〔1877〕年秋のころ,ある日,明治天皇は皇后や女官などに西郷隆盛という題で和歌を詠じさせた。明治天皇はそのさい,ただし「西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ,唯今回の暴挙のみを論ずるときは,維新の大功を蔽ふことになるから注意せよ」といった,というのである。

 

 西郷の死は同年9月24日であったから,奥に閉じこもった天皇が,その年〈秋〉に賊の追悼歌会をおこなうのは,政治的に異常というべきである。

 註記)飛鳥井雅道『明治大帝』筑摩書房,1989年,「明治天皇年譜」314頁,180-181頁。

  西南戦争明治天皇に生じた苦衷は,信頼あつく師傅(しふ)ともいうべき西郷を討たねばならないことであった。戦争中はあまり政務をみることなく,酒に気をまぎらすことが多かった。これ以後も天皇は,西郷の想い出をなつかしそうに側近に語り,けっして反逆者としてあつかうそぶりを示さなかった。このことからも,天皇には西郷への人間的な親近感があったことが分かる。

 註記)藤原 彰・今井靖一・宇野俊一・粟屋憲太郎編『日本近代史の虚像と実像1-開国〜日露戦争-』大月書店,1990年,宇野俊一「明治天皇の実像」320頁。 

 西郷の在朝時代は,誠に短かったが,その信頼は誰にも勝って,その退官後は勿論,西南戦後の西郷歿後に於ても,常にその言行を思ひ出したまうた。

 

  『あの時に西郷がかういった』『かような折には西郷がかうした』

 

と何かにつけて,御話しあそばれた。

 

 明治22〔1889〕年2月11日憲法発布の大典に際し,西郷の昔日の功労を追思したまひ,賊名を除き,正3位を追贈された。天皇は終生彼を忘れたまはなかったのである。

 註記)渡辺幾治郎『明治天皇と輔弼の人々』千倉書房,昭和13年,90頁,97頁。

 明治天皇はこのように終生,西郷に同情以上の言動を繰りかえしていた。大日本帝国憲法発布後の明治24〔1891〕年春,西郷がロシアに逃れており,皇太子ニコライの訪日の船に同乗して帰国するとの新聞記事があふれ,人びとを楽しませたことがあった。やがて『郵便報知新聞』がつぎのように報じ,この記事は全国の新聞に転載されていった。これを飛鳥井いわく「笑談にしては毒が強すぎる」。

 西郷生存説遂に叡聞に達す。西郷隆盛翁死して復(ま)た活きんとす。道路喧伝の声叡聞に達す。陛下則ち微笑み給ひて,侍臣は宣(のたま)はすらく。隆盛にして帰らば,彼の十年の役に従事して偉功を奏せし諸将校の勲章を剥がんものか。承るも畏こし。(4月7日付)

 西南戦争の大勢が決した明治10〔1877〕年7月末,東京に帰った明治天皇は,あいかわらず政務に不熱心であった。明治6〔1873〕年の火事のために,太政官代と仮皇居が遠くになったという口実を使い,「月4度ないし6度」しか,太政官に出向かなかった(『明治紀』10年8月15日条)。

 そのころからめきめきと頭角を現わしてきた参議・伊藤博文は上奏して,こういった。--かつての功臣が罪をえて死ぬのは「昭代の美事に非ず」,天皇が「深く痛惜」するのも無理はない。しかしいま,あらためて「励精治を図るの盛意を以て」「群僚を率先」するなら,臣民も必らず感激して努力するようになる。太政官を宮中に移し,内閣の名にふさわしいものにしてほしい,と。

 伊藤博文はこのように,天皇が政務をみないなら太政官のほうから宮中へ引越そうといい,明治天皇の身辺は再び,大改革をこうむった〔この伊藤の天皇に対する影響力には注意が必要であるが,ここでは指摘だけに留めておく〕。皇族たちへの対応もかわっていった。明治1〔1868〕年,皇族・家族の外国留学を積極的に推しすすめた明治政府でもあって,そのために皇族のなかには留学先で問題を起こす者もいた。

 註記)以上,飛鳥井『明治大帝』181-182頁。〔 〕内補足は引用の筆者。

 2) 西郷隆盛明治天皇の親しい関係

 鹿島 曻・宮崎鉄雄・松重 正『明治維新の生贄-誰が孝明天皇を殺したか-』(新国民社,平成10年)が,西郷隆盛明治天皇の親密だった仲を,以下のように説明している。

 --明治初期,明治天皇西郷隆盛と仲がよく,実は西郷と共謀して「南朝革命」の本来の目的である部落解放政策を推しすすめていた。西郷自身はさらに,天皇家が「古代朝鮮にいた歴史」を朝鮮の李王家と語り合って親善関係を作る,源氏の母胎となった白丁・隼人の現状などを調べるという目的を抱いてもいた。

 だが,明治天皇は,西郷がその後失脚してしまい鹿児島に去るきっかけをみずから作っていたために,自分が「南朝の天子」であることを国民に発表する機会を失い,失意していた。明治天皇はまた,父孝明天皇と違い,怒りに身をまかせることがめったになく,勝手気ままや無責任な振るまいもなかった。明治天皇にはなにか〈内なる精神力〉が備わっていて,みずから作りだした行動規範からあまり逸脱しなかった。天皇は,最後の最後までこの規範に従った。

 くわえていえば,明治天皇伊藤博文は二人三脚のように国家の頂点に立っていた。けれども,伊藤に天皇すり替えのこと--ここでは大室寅之祐が睦仁(明治天皇)にすり替わっていたとする「説」にしたがって記述している--を喋ってはいけないと釘を刺されていた天皇は,酒と女に憂さをまぎらわせることになった。

 1884〔明治17〕年7月,伊藤などは,北朝系の孝明天皇父子殺しの口封じのために華族制度を作った。華族にとりたてられたのは509家,その内訳は,公爵11家,侯爵24家,伯爵76家,子爵324家,男爵74家。これによって,天皇を頂点にいただく身分制度が新しく確立された。

 〔筆者の挿入註記:1〕--ヨーロッパの貴族と日本帝国の貴族のもっとも異なる点は,独自の歴史をもっていたか否かである。日本の貴族は士族の地位にあった家族も多かったけれども,上からいただいたその地位であったゆえに,帝国政府に対する独立意識が非常に弱く,ほとんどないにひとしかった。1説によれば「その天皇すり替え」の〈真実〉を口封じする目的もあったとされる。

 

 〔筆者の挿入註記:2〕--飛鳥井雅道『明治大帝』筑摩書房,1989年は,孝明天皇の「暗殺説」は「第2次大戦後の暴露ブームのよってひろがったものではなく,死の十日後には,中山忠能〔娘の中山慶子孝明天皇典侍明治天皇を産んだ〕の耳に入っている」(117頁。〔 〕内補足は筆者)と記述している。

 だが,前段に参照されていた文献,藤原 彰・今井靖一・宇野俊一・粟屋憲太郎編『日本近代史の虚像と実像1-開国〜日露戦争-』大月書店,1990年は,こう言及・断定している。

 「むごたらしい天皇の末期を目のまえにした人びと,典医らは別として,痘瘡とくに出血性痘瘡の知識のない女官たちが,病死以外のなにものかの死因を感じたとしても不思議はない。毒殺・怨霊等々のさまざまな流言は,まず宮廷とくに後宮からでたであろうことはまちがいあるまい。もともと後宮は,こうした流言の 発生にふさわしいところである」。

 「孝明天皇の死が痘瘡死だとすると,天皇毒殺の下手人や黒幕はだれか,などといった議論はまったく無意味となる」(同書,原口 清「孝明天皇は毒殺されたか」60頁,58頁)。   

 1909〔明治42〕年10月26日,伊藤博文ハルビン駅頭で安 重根(アン・ジュングン)に暗殺されると頭を抑えられることのなくなった明治天皇は,自由に発言するようになった。そのために 1911〔明治44〕年2月,南北朝正閏問題が起こるとみずから乗りだして「南朝正統論」を主張した。論争は決着をみた。しかし,このとき宮中派をはじめとする側近の者は1人として天皇南朝革命論を支持しなかった。

 註記)以上本文では,鹿島 曻・宮崎鉄雄・松重 正『明治維新の生贄-誰が孝明天皇を殺したか,長州忍者外伝-』新国民社,平成10年,〔松重 正「長州藩とその忍者軍団」〕からは,386頁,387頁,447頁参照。

 北朝系の天皇である明治天皇が死亡する前年のその明治44年天皇決裁で「南朝」を正とし「北朝」を閏とした。明治「政府が『南北朝並立』を難じて北朝系の明治天皇の勅裁の形で『南朝』を正とし,『北朝』を閏であると決定した」のである。これはたいそう不思議な話である。正という漢字に対して閏は「正統でない天子の位」を意味する。北朝系の明治天皇みずから南朝が正,北朝が閏といったからには,聞き流せるような話ではない。

 註記)片桐武男『新平の借用書-フルベッキの写真 悪漢常一-』佐賀新聞社,平成20年,70頁,79頁参照。

 

  問題の要点:南北朝問題と部落問題とが重なっていた「明治天皇の出自」

 1) 要点の分析

 ここまで話が進めば,筆者がなにをいいたいかはもう分かってもらえるはずである。① と ② をとおして説明したように,以下の2点に注目する必要がある。

   イ) まず,西郷隆盛が「南朝系」に忠勤を励んだ武家一族の末裔であると意識していたこと。

   ロ) つぎに,明治天皇は実は,大室寅之祐という長州出身(伊藤博文と同じ藩の故郷)の,それも南朝系の血筋を引く者として正体をもつゆえ当然,南朝の「隠れシンパ」であったこと。

   ハ) さらに,西郷は,日朝古代史における王家の同祖性,すなわち「天皇家が朝鮮から来た」という歴史認識を有していて,そして朝鮮の被差別民である「白丁(백정,ペッチョン)」にまで関心を向けていたこと。

 要するに,明治天皇〔本当は孝明天皇の息子の睦仁ではなく,これにすり替えられた大室寅之祐〕は,被差別部落出身者でもある南朝系の人間として,またこの明治天皇にとともに当時なりに社会変革への強い〈問題意識〉を共通していたのが,かつて兄事していた西郷隆盛であった。

 南朝系の皇族生き残りが部落地域にいたのはおかしいと疑問もあるが,実は,大室寅之祐の生まれた育った場所が南朝系の「落ち武者」的な集落であったがために,被差別部落におとしめられていたという歴史的背景をもっていた。

 鈴木正幸『近代天皇制の支配秩序』(校倉書房,1986年)は,第1部「天皇制と『身分制』」Ⅱ「天皇制と部落問題」において,峯岸賢太郎の研究からつぎのような図式的理解を紹介している。

 ☆-1 武士・百姓・町人=王・臣・民=  職分別身分系列

 ☆-2 天皇 -- え た    = 良・賤    =「種姓」的身分系列

 そして,☆-2「天皇--えた=良・賤=『種姓』的身分系列」が,日本近代における部落差別を考えるうえで,きわめて意義あると評価している(63頁)

 西郷隆盛は ☆-1 の階層のなかに位置していた武士であるが,☆-2 の現実問題を,日本と朝鮮にまたがって,それも「天皇家が古代朝鮮にいた歴史」との関連に関心をもっていた。

 明治天皇大室寅之祐〕は ☆-2 のなかに位置していた元被差別部落出身者として,そして「明治天皇」にすり替わっていて変身・化身してはいたもの,口にはできなくなっていた「自分の出自」に強いこだわりを抱きつづけていた。

 --以上の諸論点を踏まえておき,つづけて次段の議論に入りたい。

 明治政府のお雇い外国人,それも早い時期から日本のために働いてきたフルベッキが,維新前後に活躍していく人物たちと写した集合写真--この〈フルベッキ写真〉には謎も多く絡みついている--のなかで,大室寅之祐〔=明治天皇〕と西郷隆盛だと判断されている人物は,中央に座っているフルベッキ親子の直前と真後にそれぞれいる。( ↓ 画面 クリックで 拡大・可)

 

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 西郷隆盛が写っているとされるこの写真は,われわれがよくしっている似顔絵〔西郷の親戚を参考に描いたもの〕や上野公園の西郷さんの銅像(前掲の画像)とは,だいぶ異なっており,似ても似つかない。

 鮮明な画像となって公開されている「明治天皇の写真」は,数点しかない。しかしそれは,画家が描いた肖像画を写真に撮ったものであった。その画像と上にかかげた集合写真のなかに写っている大室寅之祐〔⇒ 40. 明治天皇〕と指名されている人物を,斎藤充功『「フルベッキ群像写真」と明治天皇“すり替え"説のトリック』ミリオン出版,2012年が表紙カバーの絵柄に使っていたので,これを参考資料として提示しておく。

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 われわれがみなれているこの有名な〈明治天皇〉の写真(上の表紙カバー画像では左側の人物の写真)と,〈大室寅之祐〉の写真(右側の写真)とを,よくみくらべてほしい。人相・骨相の酷似〔同一人物であれば当然ともいえようが,まだ詮議の余地はあるもの〕に着目したい。

 2014年12月17日 補注)このへんの議論に関してはその後,関連する文献が公表されている。ここでは以下の3冊を挙げておく。

 

 ☆1 中村彰彦『幕末維新史の定説を斬る』講談社,2011年。                ☆2 斎藤充功『「フルベッキ群像社員」と明治天皇 “すり替え” 説のトリック』ミリオン出版,2012年。                                         ☆3 加治将一『幕末維新の暗号-歴史は “すり替え“ られていた!-』祥伝社,2014年。     以後,2020年までにさらに関連する文献が多く公刊されているが,それらのごく一部は,末尾「アマゾンの広告」に代えさせてもらう。

 以上の論旨についてはさらにくわしい議論をした論著やサイトの説明もある。

 ここではとくに,比較的最近の文章である,「口は目ほどにモノを言う」(http://aioi.blog6.fc2.com/blog-entry-2774.html?sp,2014/04/26 23:44)を,一例の記述としてあげておく。

 「明治天皇大室寅之祐」とみなす議論については,本(旧・々)ブログが議論していたが,現在は未公表状態になっている。後日,その記述は復活させるつもりである。本日時点のこの記述では,明治天皇西郷隆盛との関連問題をもって再論してみた。 

 2) 推理と解釈

 以下は,幕末・維新の歴史に関する推理となる。おそらく西郷隆盛明治天皇大室寅之祐〕は幕末から維新の時期,大いに語りあえる仲になっていた。大室が西郷に兄事する間柄であって,また父子ほどもある2人の年齢差(1828年1850年の生まれ)を超えて,両名のあいだには肝胆相照らす強い絆が形成されていた。

 西郷の没後すぐに,「明治天皇が感情的にも率直に表わした《故人西郷へのこだわり》」,これは異常だと専門の歴史研究家にも指摘されてもいるとおりであって,格別に十分な留意を向けねばなるまい。ただし,われわれはそうした解釈に跼蹐しているのではなく,重ねてこういう判断を提示しておきたい。

 --飛鳥井『明治大帝』が「異常というべき」だと解釈したところの,「賊軍首領としての西郷の死」に対して明治天皇が示した気持は「けっして異常なものではなかった」と理解してよい。この歴史解釈のほうが,当該「歴史的な出来事の経緯・事情」に対する,より妥当性があり筋も通った理解である。

 本ブログ筆者によるここまでの行論の含意ではっきりさせた論点は,日本史の専門研究家が指摘するように,明治天皇の「西郷に対する思いいれ」の態度を,単に「異常」とのみとらえるだけでは済まされない,ということであった。

 つまり,明治10〔1877〕年秋のある日,明治天皇が,同年9月24日に「和歌の題」として「西南の役」の結果死んだ「西郷隆盛」をわざわざ出した。しかも,皇后や女官などに対しては「西郷の罪過を誹らないで詠ぜよ」とか,「唯今回の暴挙のみを論ずるときは,維新の大功を蔽ふことになるから注意せよ」とかまでも断わって「和歌を詠じさせ」たという事実は,いったいなにを意味していたのか。

 そのことは素直に解釈すれば,明治天皇大室寅之祐〕が〈西郷の他界〉を,いかに深く悲しみ,かつ惜しみ・偲んでいたかを示唆している。飛鳥井はさらに,明治天皇が「賊として死んだ西郷」を題にとりあげ,その年〈秋〉に追悼歌会をおこなった事実をとらえて「政治的」だったと認識したけれども,これは歴史家の立場にあっては,ある程度は必要不可欠である「史実の深読み」の「不足」に制約された誤解というほかない。

 なぜなら,そこに観察できるのは,明治天皇の,逆立って突出した「政治的」な感情の意図などでは毛頭なく,単に「大室寅之祐」の,あくまでも個人的な追悼心の,精一杯の発露であった。明治天皇による追悼歌会とみるから「政治的」と評せざるをえないのであって,大室寅之祐が悲しみのあまりその歌会を催したと観察しておけばよい〈出来事〉であった。

 明治天皇〔=大室寅之祐〕が歌会を手段に使い,そういうふうに〈政治的な行動〉を意図的にとったからとしても,明治史の動向に対しては少しも影響を与えることができていなかった。なお,ここにおいては飛躍的な指摘になるかもしれないが,以上の論及に関して「気になる人物として登場するのが伊藤博文」である。

 なお,前掲のフルベッキ集合写真のなかで,いちばん右側よりに立って写っている人物が伊藤博文ではないかと推理されている。

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