国家神道と皇室神道の「明治帝政史的な形成過程」,21世紀になってからも天皇家・皇族集団がこの国を「後進的国家体制」に引きずりこむ材料として政治的に利用されてきた「歴史的な事情や背景」

                (2009年7月25日・30日)

 万世一系・皇統連綿・八紘一宇・万邦無比であらねばならなかった,21世紀における「天皇・皇室の古代史的発想」の荒唐無稽的な七転八倒

 

 🌑【議   論:】「明治天皇は偽物か替え玉か」🌑
 
  要点・1 万世一系のまがまがしさ

  要点・2 写真にみる,明治:睦仁天皇

  要点・3 あなたは「妊娠していてお腹の大きい皇室の女性」を撮した写真を観たことがあるか?

 

  明治天皇は偽物であった-「偽者がホンモノで,ホンモノが偽者?」-

 今日のこの記述まで,すでになんどか紹介してきた写真(画像資料)について,あらためて説明しておきたい。明治時代を造って(創って)いく有名人が数多く写っている。最前列中央付近に「40. 明治天皇」とあるので,まずこの人物〔本当は大室寅之祐という別人,のちに明治天皇に成りすました人物〕に注目しておきたい。

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 出所)ここでは,http://www3.ocn.ne.jp/~sigikain/meijisyasin.html  から借りているが,現在,この住所は削除されている。しかし,この「フルベッキ写真」はネット上には数多くが掲示されている。

 この写真はこう解説されていた。

 --「慶応1:1865年2月中旬から3月18日までのあいだ,長崎へ集結をかけられた各藩の勤皇党が,西郷南洲翁及び勝 海舟とともに,世界の情勢に明るいオランダ人宣教師フルベッキ博士を訪問し」,「大隈重信副島種臣ら門下生とともに,日本の統一をどうしたら良いか,王政復古は,どうなってゆくのかをフルベッキ博士を交え相互して議論し合った」さい,「日本の写真術の祖である長崎大村出身の写真家上野彦馬の写真スタディオで,フルベッキ博士の子どもも交え,和やかな雰囲気で記念撮影されたものである」。

 補注)また,ウィキペディアには別途,こういう説明がある。

 この写真は,フルベッキと佐賀藩が長崎に設けた英学校「致遠館」の学生と教師を写真師・上野彦馬が撮影したものとされる。龍馬没後の明治1年10月27日(1868年12月10日)に致遠館に留学した岩倉具定・具経兄弟(岩倉具視の次男と三男)が写っていることや,撮影がおこなわれた彦馬のスタジオ内の背景などから,慶応年間の撮影はありえないとされている。上野彦馬の一族である上野一郎は明治2年(1869年)の撮影であると推定しているが,岩倉兄弟などの長崎滞在の時期からみて明治元年に撮影された可能性のほうが高いともいわれている。

 

 近年,その証拠となる写真も発見されている。明治1年10月8日(1868年11月21日),フルベッキと佐賀藩中老・伊東次兵衛(外記,祐元)が致遠館教師である佐賀藩士5人(中島永元,堤 薫信,中野健明,中山信彬,副島要作)と一緒に撮影されたガラス湿板写真(撮影者は上野彦馬)がみつかった。その写真の撮影日を裏付ける伊東次兵衛の日記の存在もしられている。ガラス板に写る致遠館教師5人はほぼ同じ姿で「フルベッキ群像写真」にも写っている。

 

 「フルベッキ群像写真」に写っている致遠館の学生の名前も徐々に判明してきている。フルベッキ親子の両隣にいる岩倉兄弟をはじめ,折田彦市,相良知安,石丸安世,山中一郎など,維新の志士ほどではないにしても政治家や官僚としてのちの歴史に名を遺す人物も確認されている。

 註記)https://ja.wikipedia.org/wiki/フルベッキ群像写真

 なお,上野彦馬の父:上野俊之丞が,日本における写真術の元祖であった。上野彦馬の弟に上野幸馬がいる。この上野幸馬の息子に上野陽一(1883-1957年)がいる。上野陽一は,筆者の専攻する経営学で有名な能率学者であり,「日本の経営学の父」とも称されている。

 さらに,「能率(学)の父」とも呼ばれる上野陽一の長男が,上野一郎(うえの・いちろう,1925-2015年)である。一郎は,日本の教育者・経営学者であり,学校法人産業能率大学理事長および産能大学・産能短期大学の学長,学校法人産業能率大学最高顧問を務めた。

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 話を上野彦馬に戻す。前掲の写真にも写っている人物,幕末の志士であった阪本龍馬・高杉晋作伊藤俊輔(のちに博文)や,さらにグラント将軍(アメリカ第18代大統領),大津事件前のロシア皇帝ニコライ2世などの歴史上の人物を撮影していた。

 補注記)斎藤毅憲『上野陽一-人と業績』産業能率大学,昭和58年,5頁。上野彦馬,鈴木八郎・小沢健志・ほか監修『写真の開祖・上野彦馬-写真に見る幕末・明治-』産業能率短期大学出版部,昭和50年もある。

 

  偽物である明治天皇の写真

 1) にせ明治天皇写真の比較検討

 本日の,この記述を書くことになったきっかけは,太田 龍『天皇破壊史』成甲書房,2002年に,つぎの記述をみつけたことにある。

 「明治神宮の祭神は明治天皇,および昭憲皇太后だ。ところが,昭憲皇太后は,明治天皇(睦仁天皇)の皇后である」。「『皇太后』とは,先帝の皇后の称号ではなかったのか」。事実でいえば「睦仁天皇は弑逆(しいぎゃく)され,長州大室寅之祐が睦仁に化けてしま」った。「祭神の神名を決定する時に,その真相がぽろりと現出した」と推理している(123頁)。

 われわれのよくみてきた明治天皇の写真に,大室寅之祐の顔を拡大した画像を比較・対照させてみたい。

    出所)https://www.youtube.com/watch?v=whnEvBrKHOc

 専門家にいわせなくても,われわれの素人判断でしても相当似ているな,これは間違いなさそうだ,といえるくらい「似ている」。髪の毛(髪形:ヘアスタイルは,丁髷から始まっているゆえ)は,だいぶ異なるが,一番かえやすい部分であるから,ここでの判断にそれほど妨げにはならない。

 要は,大室寅之祐大室寅之祐なのであって,けっしてもとの本物の明治天皇(第122代天皇「睦仁(むつひと)」1852-1912年,称号は祐宮(さちのみや)ではなかったのである。けれども,本物の睦仁天皇が暗殺されたあと,この大室が明治天皇とすぐに入れ替わって,その後の明治天皇になった,ということなのである。「しかし,この史実は,絶対に日本国民に知られてはならない禁忌中の最高の禁忌(タブー)だった」(123頁)。

 以上の真相は,玉としての天皇の性格〈性〉もよく表現している。

 2) 万世一系をとなえる虚しさ

 日本の天皇家系図については南朝北朝問題がある。太田『天皇破壊史』は,以下のように述べている。

 「本物の睦仁天皇は,慶応3〔1867〕年1月から7月,8月頃まで半年余り存在していたに過ぎない。睦仁天皇が秘かに毒殺され,首謀者の岩倉〔具視〕,薩長首脳などひと握りの陰謀集団によってその遺体は闇の中に封じ込まれ,慶応3年秋から冬にかけて,長州の『大室寅之祐』が偽の睦仁天皇の化けてしま」った(122頁。〔 〕内補足は筆者)。

 太田は,昭憲皇后は「睦仁を詐称する大室寅之祐と,名前だけの夫婦とされていたが,その間に1人の子供も産まれていない。2人の間に夫婦関係はなかったと推定するほうが合理的だ」と主張してもいる(125頁)。大正天皇は,この明治天皇と側室とのあいだにできた子どもであった。

 本ブログの筆者がいいたいのは,日本の天皇家天皇制に関しておおまじめに唱えられ,信じられてもいる「万邦無比」「万世一系」などいう「誇大妄想にもならない,この標語の虚偽性・空虚さ・無意味さ」である。歴史はまさに造(創)られる,それも捏造という方法をもってして,である。

 最後に付言すれば,万世一系でありえない人間は1人もいない。誰でも自分の祖先をさかのぼっていけば,アダムとイヴ〔が居たとすればきっとそうなるはず〕にまでゆきつけるから・・・。この表現「万世一系」で皇室の高貴さ・ありがたさそのものを,これじたいとして絶対的に証明することは,「神様であっても」とうてい不可能である。もっとも,人間すべてが高貴であり,かつありがたい存在(ヒューマン・ビーイングであるといいたいのであれば,大いに唱えてよい文句ではあるが……。

 

 🌑【議   論:2 】「明治天皇替え玉説再論」🌑

 万世一系・皇統連綿・八紘一宇・万邦無比であらねばならなかった,21世紀における「天皇・皇室の古代史的発想」の荒唐無稽的な七転八倒性(続)◆


  高橋五郎『天皇の金塊』2008年の議論

 つづけてとりあげるのは,高橋五郎『天皇の金塊』(学習研究社,2008年5月)という著書である。本書は,日本政治史における〈裏面史〉とでもいうべき内容を議論しているが,「明治天皇大室寅之祐」(孝明天皇の子息ではなく,すり替えられた〔と推理される〕偽者の人物)にも言及している。論旨が汲みとりにくいかもしれないが,我慢して読んでほしい。

 「明治政府-日本銀行ロスチャイルド家

 

 高橋五郎はしごく簡単に,明治天皇も傀儡に過ぎなかったという。1878年,世界博覧会副総裁の肩書でパリに乗りこんだ松方正義を待ちうけていたのは,ロスチャイルド家の一員であったフランス蔵相レオン・セイであった。松方は,天皇の権力を奪い,天皇を手玉にとれる別の〈国王〉を誕生させるための商法を求めて,つまり,日本支配を意味する金融支配の確立のための秘策を入手しようと訪仏した(170頁,161頁,162頁)。

 

 19世紀中葉,ヨーロッパにはひとつの権力しかなく,それはロスチャイルド家であった。現地〔ヨーロッパ〕の「国王」の顔は,いつも大金融業者ロスチャイルド一家の顔であった。同家は,日本ではイギリスには薩摩藩長州藩を,そしてフランスには徳川幕府をそれぞれ割りふって監視をつづけていた(163頁,165頁)。

 

 薩長両藩は,いわゆるロスチャイルド家が支配する欧米の精神文化の木だけをみて森をみていなかった。薩長の一部リーダーたちは,樹木の枝葉末節で目先の利益を追うサムライたちであった。薩長の彼らは,アンチ幕府派の人脈もとりこみ,各自の思惑と野心を工作させながら,松方正義のパリ訪問を手配する仕事に走りまわっていた。一方,金融商人ロスチャイルド家側の手配役は,徳川慶喜の相談役,駐日フランス大使ロッシュであり,レオン・セイであった(167頁)。

 

 ロスチャイルド家の「対立させて統治する」という支配哲学は,日本に対してもしっかり発揮されていた。ともあれ,松方はロスチャイルド家が絶対支配する世界組織に,日本を組みこませた(165頁)。松方は,セイの助言(=指示)どおり,日本の中央銀行としての日本銀行創設に走った。国法銀行条例を改正し,「国立銀行」から貨幣発行権を確実に奪った。日本金融史上,通貨発行権の廃止は最大のポイントであった。日本の金融は日銀の支配に入った(169頁)。

 

 冒頭に述べたように,日本において事実上の「国王」〔つまり日本版ロスチャイルド〕の地位に就いた松方にとって,明治天皇といえども傀儡でしかなかった。明治天皇に拝謁,途中で政策転換を命じない保証を天皇からとりつけていた。注目すべきは,松方たちが,天皇を形式上の存在として祭りあげて,天皇の絶対的な権威と権力を奪ったことである。「お飾りの地位に祭りあげられた天皇」(170頁,171頁,172頁)。

 

 「信用創造」政策は,国民の血税投入(強奪)で穴埋めする他力本願の手法を採る。近年のヘッジファンド・ビジネスを潤わせているのが,この「信用創造」の応用版である〔昨年の秋,「金融サブプライム問題」発生でその一角が損傷を受けたが,その核心は揺るぎもしていない〕。通貨発行権の独占化と「信用創造」を導入した松方の日銀政策は,通貨量を自在にする権力者の絶大な力を象徴する恐怖の政策であり,国民に恐怖を与えて支配を確実にする手法は,ロスチャイルド家一流の手法そものである(173頁。〔 〕補述は筆者)。

 

 後年の大東亜〔太平洋〕戦争の責任を天皇に押しつけ〔濡れ衣を着せ〕,天皇の権力を排除,その地位のみを国体の象徴として国民に崇めさせながら,国家をカネで縛りあげる支配方法,それがサムライ軍団の狙いであった。さらに演繹すれば,サムライ軍団とは,日本の金融利権を独占して天皇ならびに国民と経済を完全支配するためにも,明治維新政府を立ちあげた人間たちの集合体である(173頁)。

 

 彼らは,立法・司法・行政の3権分立制度に皇室(典範)を付けくわえ,「自軍団に奉仕させる」制度も完成させたのである。松方サムライ軍団は,ロスチャイルド家の商法を日本で使いつづけるバタ臭い,傀儡軍団でもあった。「通貨発行と管理権さえもらえば,法律は誰がつくろうとかまわない」。こう豪語したロスチャイルド家ならではの哲学(DNA)で完成したのが日銀であり,これを作りあげたのが明治維新政府であった(173-174頁)。

 

  大室寅之祐-明治政府-ロスチャイルド家

 高橋五郎は,「明治天皇はすり替えられた天皇だった」という巷間ではよくしられた奇抜な仮説の登場をとらえて,この「仮説内容そのものが傍証ではなく,仮説が流布された事実そのものが傍証だ」と判定する(195頁)。

 北朝系の孝明天皇の実子が明治天皇である。だが,北朝系であるはずの明治天皇は実は,孝明天皇の実子でなく,滅びた南朝王系の人物とすり替えられた南朝天皇である。孝明天皇も,その実子も暗殺された。つまり,明治維新政府はすり替えられた南朝王系の「明治天皇」を担いだ政府であった。したがって,史実が語る明治天皇の孫に当たる昭和天皇ヒロヒト)は,北朝正統の天皇を装った南朝天皇系譜に連なる天皇である(195-196頁)。

 以上のごとき〈仮説〉概要は,ナゾめいた出来事をわざわざ公然化した点で興味を引く。天皇すり替え説を,誰がなんのためにもち出したのか? 高橋五郎がこの「天皇すり替え説」を自作自演の陰謀説であると判定するのは,「攻撃は最大の防御」「肉を切らせて骨を断つ」という陰謀手法の産物とみるからである(196頁)。

 敗戦後,日本社会に登場したのが〈熊沢天皇〉事件であった。当の熊沢寛道は「南朝正系の天皇だ」とか「南朝後醍醐天皇の血統を引きついだ」だとか公言し,2人目の天皇出現に当時の世間は仰天,事件は拡大し,日本国内を沸かせた(196頁)。

 高橋はまず,「天皇すり替え説」の仕掛け人を長州藩出身の政財界実力者(サムライ軍団)である,と裁断している。さらに,この〈仮説〉の根拠は,長州藩との権力争いに敗れた薩摩藩閥の恨みを,長州藩がためにする方向で,世間に登場させた点に求めている(197頁)。

 高橋はこうもいう。--南朝正系を支援する人びとは,ロスチャイルド家の結社組織フリーメイソンがサムライ軍団を指導して,明治天皇をすり替え説を打ちださせた組織であることもしらずに熱心に活動しているのか。それとも,逆にメイソンの意図〔対決構図作戦(対立させて統治すること)〕を熟知したうえで,南朝天皇キャンペーンに走っているのか。

 南朝系の熊沢天皇を担いだ人びとは,まさにサムライ軍団が描いたシナリオにまんまと嵌められ,仮説を世間に振りまくいわばチンドン屋に過ぎないともいえる(199-200頁)。

 

  若干の考察

 以上の論旨は,あくまで高橋の「直観」(200頁)にもとづいて主張されている。高橋の主張〔これも仮説のひとつでしかない〕が,完全に正鵠を射た理解ということになれば,本ブログの筆者も「チンドン屋」を開業して,太鼓でも叩いていることになる。

 しかし,本ブログ「2009.7.25」(この記述内では ① と ② )で前段に紹介した集合写真に写っている大室寅之祐が,つまり,のちに明治天皇となる睦仁〔と推理されるこの人物〕が,この集合写真の「撮影時に小道具として刀を使って写った」のでないかぎり,公家:天皇一族の人間がこの写真に登場するのは,どこまでも不自然・不可解である。

 上野彦馬,鈴木八郎・小沢健志・ほか監修『写真の開祖・上野彦馬-写真に見る幕末・明治-』(産業能率短期大学出版部,昭和50年)をみると,写真撮影のさい,小道具に「右手に拳銃をもって写っている人物」も何人かいたが,武士がもともと帯刀している姿とは妙に雰囲気を異ならせるポーズにも映っている。

 もっとも,高橋の論旨においては,「弑逆されてしまったと推理される本当の睦仁」が〔仮に?〕殺されずに明治天皇になったとしても,あるいは,これに入れ替わって大室寅之祐天皇睦仁になったとしても,その基本主張に大きく影響するものではない。

 高橋は自説=仮説を強調するあまり,本ブログの筆者が指摘したような疑問=仮説(この記述全体で関心を向けている論点)を頭から排除する見解を披露している。ただし「天皇が単なる〈玉〉あつかい」されてきた明治史の発生は,的確に説明している。

 

  考察の続き

 ⑤ までの記述を終えたあとに『教育の原点を考える-高校生と中学生の子どもを持つ父親の “教育論”』という,つぎのブログを一読した。

 ⇒ フルベッキ: 舎人学校

 ( http://pro.cocolog-tcom.com/edu/cat4229856/index.html

 全体の文書量が非常に多いので,読むのに忍耐と努力が必要である。なお,本ブログの筆者が以下に学習した中身は,2009年7月30日に閲覧しえたものである。この内容には,各種文献・資料・ブログなどからの引用や参照が多数あるが,このブログ上からの直接引照とし,原典・出所の表記は省略するので,あらかじめその旨を理解しておいてほしい。

 議論の焦点は,「大室寅之祐明治天皇」が偽説ではないか,というところに絞られている。

 a) まず「大室寅之佑(ママ)明治天皇)が写っているといった出鱈目を◎◎氏が信じているのでなければいいのですが」といったあと,「フルベッキのすぐ下で大刀を抱えて斜に構えた若者だけには姓名を当てていないが,巷間奇兵隊の力士隊に属した大室寅之佑(ママ)だという人もある」と記述されている(2007年6月28日)。

 b) 正当な歴史家の研究として,2003年に『日本のフルベッキ』を翻訳出版した村瀬寿代は,翻訳の過程でしった「フルベッキ写真」の問題を歴史学的に解明し,『桃山学院大学キリスト教論集第36号』2000年で明治1年撮影を結論付けている。この内容を基礎にした論証は『日本のフルベッキ』の注釈に載っており,私(引照されたブログの筆者の立場のこと)の調査のベースになっている。

 ここで,問題を複雑にしている明治天皇との関連を詮索しておきたい。明治天皇大室寅之祐)が写っているという話は,この時点まではどこからも出ていなかった。大室寅之祐の子孫を自称する大室近祐が明治天皇すり替え説を唱えていたことは,その支持者である歴史家の鹿島 昇の著作『日本王朝興亡史』平成1年や『裏切られた三人の天皇』平成9年でしられていた。

 2005年4月24日に鹿島氏が亡くなったのち,共同研究者の松重揚江が『日本史のタブーに挑んだ男』2003年のなかで,初めて「フルベッキ写真に明治天皇大室寅之祐)が写っている」と唱えた。

 一方,国際ジャーナリスト中丸 薫は『真実のともし火を消してはならない』2006年のなかで,自分が明治天皇の子孫であるとの主張し,同時に「2005年4月14日に大阪でフルベッキの孫のしりあいの人物から額に入った「フルベッキ写真」をもらった」といっている。

 その「フルベッキ写真」には全員の名前が入っており(前掲した写真はその一例である),明治天皇が写っていると主張している。明治天皇説が捏造されたのは,2005年ごろである可能性がある。誰が初めて全員の名前を入れたかいまだに不明であり,偽説によって登場人物に多少の変動が見られる。

 今後も繰りかえして「フルベッキ写真」は蒸し返されるかもしれないが,近年は古写真を重要な歴史を記録した史料として正規に認め,学問的に研究する気運が盛り上がりつつある。世界的にも日本の古写真は注目されており,このようないい加減な議論がまかりとおるのは恥ずかしいことである。これを機会に,一般の歴史研究者が古写真をみ見つめるノウハウを勉強してほしいと節に願う(以上,2007年6月3日)。

 c) 「フルベッキ写真」に関する調査結果」

 大室寅之祐については,『近世防長人名辞典』『近代防長人物誌』『防長関係者要覧』に記述なく,ほとんど無名の人物で写真現存せず。明治5年内田九一撮影の明治天皇に似た人物に当て嵌めるためでっち上げられたと考えられる(2007年1月15日)。

 d) フルベッキ写真の懲りない面々

 前出,明治天皇の孫と称する中丸 薫が,フルベッキ写真に祖父が写っていると信じこんでいることが明白である(2005年9月7日)。

 e) 「フルベッキ写真」の連載を終えて

 結論からいえば,西郷隆盛大久保利通,さらには明治天皇までもが写っているとする説は,明らかな間違い(2005年8月31日)。

 f) フルベッキ写真の考察

 似ているというだけで,人物を振り当てるのは学問的でない(2005年8月30日)。

 g) フルベッキ写真(最終回)

 明治天皇は,嘉永5年9月22日(1852年11月3日)に誕生している。松浦 玲・村瀬寿代説によるフルベッキ写真の撮影時期である〔とされる1説の〕 1868年12月(明治1年10月)~1869年1月30日(明治1年12月18日)当時の,明治天皇は16歳のはずである(ちなみに,佐宗邦皇氏等が唱える慶応元年説にしたがえば,フルベッキ写真が撮影された慶応元年当時の〝明治天皇〟は12歳)。フルベッキ写真に写る〈明治天皇〉も,だいたい同じような年格好の青年である。

 しかし,明治天皇即位の礼は1868年(慶応4年,すなわち明治1年)8月27日におこなわれており,同年11月4日(明治1年9月20日)に明治天皇は京都を出発,11月26日(明治1年10月13日)に江戸城に入っている。そうした日本の歴史が大きく転換しつつあった時期に,明治天皇が長崎のフルベッキのもとを訪れたという証拠資料はない。その点を考えただけでもフルベッキ写真に写る〈明治天皇〉は偽物であることが明らかである。

 フルベッキ写真に写る〈明治天皇〉とされた青年の意志の強そうな表情から察するに,地道ではあっても日本の近代化にそれなりの貢献をした人物ではなかったかと,ふと思った。1年間にわたって連載を続けていくうちに,フルベッキ親子,大隈重信,岩倉兄弟を除き,あとはほぼ間違いなく “贋物” であると確信が持てるようになった(以上,2005年8月29日)。

 h) フルベッキ写真(2)

 第1に,そこのフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の,のちの「明治天皇」の存在がある。しかし「刀と丁髷」の孝明天皇の皇太子「裕宮(さちのみや)」が朝廷のある京を離れて,長崎にこうして討幕派志士達とともにいることじたいが奇妙なことである。

 孝明天皇はきわめて保守的な考えの持ち主であり,その外国人嫌いによるその「攘夷」の気持が皇室の過激派を育て,「尊王攘夷」運動を引き起こした。一方で,その京都守護職松平容保に対する深い信頼や親近感や妹和宮を降嫁させたことからも,討幕派には同調してはいなかった。

 そこで,孝明天皇の皇太子「裕宮」が,追放され長州藩に匿われてていた三条実美ら尊攘過激派公家らと同調する討幕派の結成大会に参加しているはずがない。すなわち,このフルベッキ博士の前方に岩倉一家に囲まれて存在する当時14歳の後の「明治天皇」は,孝明天皇の皇太子「裕宮」ではないのではないか?

 となると,1866年12月25日の孝明天皇暗殺のさいに,同時に皇太子裕宮も父親と共に暗殺されていて,ここに写っていた14歳の少年とすり換えられて明治天皇として新たに擁立された可能性が強い。それで翌年1月7日の明治天皇即位までの2週間の空白も,すり替えに要した時間と解される。

 補注)なお,以上に論述された説については,写真撮影の時期(これには諸説あるので)を考慮すると,難点・齟齬が生じる余地があることも指摘しておく。明治天皇すり替え説に関した議論は,よく読みこまないと理解しにくい内実があるが,以上の『教育の原点を考える-高校生と中学生の子どもを持つ父親の “教育論” 』というブログの内容は,一読しただけでただちにすんなりとは頭に入りにくく,論旨がゴタついている嫌いもあった。

 さらに,江戸への遷都のさいにも,女官や公家らこれまでの朝廷の人びとは,ほとんど連れていかなかったということや,そもそも遷都しなければならなかったというのも,京都近辺の皇太子裕宮をしる人々の目を恐れてと読みとれる。事実,明治末期に,北朝南朝の正統性について質問された明治天皇は,本来は自分が北朝出身であるはずなのに,「南朝」の方が正統だと思わず口を滑らしていた。

 長州藩防府に代々住みつづけてきた「大浦」(大室の間違い)という南朝の末裔が,岩倉具視らにかつがれて皇太子裕宮に成りすまして明治天皇になったとも推定される(以上,2005年8月19日)。

 --以上「大室寅之祐明治天皇」説に関して,その賛否両論を混ぜて紹介する記述となっていた。要は,どちらか片方の説を完全に否定・排除することはできない。「大室寅之祐明治天皇である」と十分にいえるだけの議論が与えられていない。「大室寅之祐明治天皇」とみなす主張には,学問的実証性,科学的な裏付けが不足していることはたしかである。かといって,この「大室寅之祐明治天皇」がまったく根拠のない説ともいえない。歴史研究家による専門的な解明をさらに期待したい。

 

  補 説

 標題〔の文句〕などには,いきなり表現として出さないほうがよいと思われる話題を提示しておきたい。本ブログ筆者がそうであるが,それはいままでの人生のなかで,皇室内の女性たちが妊娠している姿を, “写真に写っているもの” で観たことがない「事実」について,である。この指摘を受けて,そういえば「自分もそうだったな」という人も,大勢いるはずである。

 なぜ,そうなっているのか? 時代が近い例としては,現天皇の配偶者が愛子を妊娠(懐妊)中,当然お腹が大きくなっているゆえ,写真を撮ればそのとおりに写るわけだが,どういうわけがあるのか,不可解ともいえるのだが,そうした皇室の女性たちの姿を,われわれ国民・庶民たちは観たという記憶がない。もっとも「あるという人」がいたら,ぜひとも教えてほしい。

 それにくらべてイギリス王室関係者にあっては,つぎのような写真がすぐみつかることからも,日本とは事情を根本から異にする事実が理解できる。ともかく,日本の皇室はなぜ,そのように隠すのか? 摩訶不思議なことである。

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 ただし,皇族関係の女性で「一般の国民(平民)」と結婚した人物(いわゆる「皇籍離脱」した場合)については,つぎのような写真がみつかる。念のため挙げておく。

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