明治謹製になる近代天皇制について21世紀的に再考するその本質的な問題

                   (2019年3月21日)
 「皇居の森深き宮中」と表現された天皇家近現代史は,まさに「明治謹製」として「創られた天皇制」にその本質(「古:いにしえ(?)」の由来)があった

 

  要点・1 明治以来,天皇の本拠地は「東京」の皇居に移り,京都とは疎遠になった

  要点・2 明治になってから近代的に新しく再編成される方途で,天皇天皇制は初めて創造されてきた。それゆえ,われわれがふだん見聞きする天皇家関連の私的行事は「99%が19世紀後半以降の産物」

  要点・3 古代史の遺物のように「大規模な天皇陵」(孝明天皇用)の復活的な建造も19世紀後半

  要点・4 敗戦後になっても,天皇天皇制は新しい伝統を創りあげてきた,昭和天皇はなかば不承不承と,そして平成天皇は意欲的・積極的にその構築に努力していた


  小島 毅『天皇儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-』光文社,2018年5月は「明治謹製」であった天皇天皇制を明確に説明している

 光文社がこの本を宣伝するために,つぎの 3)のような内容紹介をしていた。前後に順逆するが,簡単に「章」単位の目次も  2)に添えてある。著者の略歴をさきに 1)に紹介しておく。

 1)  小島 毅こじま・つよし,1962年生まれ)は,東京大学文学部卒業,東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了,東京大学大学院人文社会系研究科教授。専門は中国思想史。東アジアからみ小島毅画像た日本の歴史についての著作も数多くある。 

  著書は以下のものがある。

   『増補  靖国史観-日本思想を読みなおす』

   『朱子学陽明学』(以上,ちくま学芸文庫

   『近代日本の陽明学』(講談社選書メチエ

   『父が子に語る日本史』『父が子に語る近現代史』(以上,トランスビュー

   『「歴史」を動かす 東アジアのなかの日本史』(亜紀書房

   『足利義満 消された日本国王』(光文社新書

   『儒教の歴史』(山川出版社)など。

  監修したシリーズに『東アジア海域に漕ぎだす 全六巻』(東京大学出版会)がある。

 2)『天皇儒教思想の目次と概要

  「目次」は,こうである。

 はじめに  第1章  お田植えとご養蚕  第2章  山稜  第3章  祭祀

 第4章  皇統 第5章  暦  第6章  元号  おわり

  「概要紹介」

 8世紀の日本で,律令制定や歴史書編纂がおこなわれたのは,中国を模倣したからだ。中国でそうしていたのは儒教思想によるものだった。つまり,「日本」も「天皇」も,儒教を思想資源としていたといってよい。その後も儒教は,日本の政治文化にいろいろと作用してきた。8世紀以来太平洋戦争の敗戦まで,天皇が君主として連綿と存続しているのは事実だが,その内実は変容してきた。

 

 江戸時代末期から明治の初期,いわゆる幕末維新期には,天皇という存在の意味やそのありかたについて,従来とは異なる見解が提起され,それらが採用されて天皇制が変化している。そして,ここでも儒教が思想資源として大きく作用した。本書は,その諸相をとりあげていく。(内容紹介終わり)

 さて,いきなりする話となる。極論していってのける。現在の天皇家に関する歴史は,その「伝統・格式・行事」のほとんどが「明治に入ってから」「創られ,ととのえられ,くわえられてきた」のである。

 だから,ましてや,1872〔明治5〕年に決めていたのだが,「神武天皇即位の年」(=西暦紀元前660年)を皇紀元年とした「当時に決めておいた事実」などは,いわせる人にいわせれば神話物語における,それも相当に荒唐無稽なる「歴史に関する時間観念」の逆戻しだと断言される。

 西暦紀元前660年に始まったとされるその「皇紀」で数えると,今年〔2019:2020年〕はなんと2679:2680年目に当たる。もっとも,神武天皇にもお父さんとお母さんが “きっといた” はずだから,この2679年という年数はさらに長くなる可能性もあっていい。この点,すなわち「神武天皇にも父母はいたはずだ」という指摘は,だいぶ以前であったが,国会のなかで自民党議員の中山正暉(1932年生まれ)が,つぎのように発言・指摘していた。

 歴代天皇,今まで125代の天皇がおられます。私は,昔,建国記念日をやるときに神社本庁35団体に呼ばれまして,なんとしても2月11日に建国記念日をやるのならば,ここで神武天皇をいえ,それから天皇陛下万歳をやれといわれましたので,私はそのときいいました。神武天皇にはお父さんもおられたでしょうし,おじいさんもおられたから,神武天皇で切るわけにはいきませんと。

 

 大分県の国東半島から出た「ウエツフミ」の話を聞いたことがありますが,その「ウエツフミ」のなかには,神武天皇以前の72代の天皇の名前が隠されているという話も聞いたことがございました。いまから2660年前に橿原宮神武天皇が即位されたということですが,確かにそれまでの先祖がいらっしゃるはずでございますから。

 

 しかし,やっぱり英国とかフランスに明治維新は影響されたようで,伊藤博文はドイツに憲法を習いにいっているようでございますが,そのとき,ウィッテに明治維新後の日本をどうして統一したらいいだろうということを相談しております。そうしたら,ドイツの人が,あなた方のところには氏神様というのがあるじゃないか,その氏神様の集中した中心が天皇だといったらどうだと。これが大きな間違いにつながった。

 註記)『第147回国会 国土・環境委員会』第17号,平成12年5月18日(木曜日)午前10時3分開会。http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/147/0013/14705180013017a.html

  つぎの ② に引用・紹介する,本日『朝日新聞』朝刊の「平成の問題」特集記事の題名は「皇居の森深き宮中祭祀」ということで,まことに意味深長であった。

 前段の引用した中山正暉の発言のなかには,伊藤博文が登場していた。この明治時代において大活躍した政治家が,実は,「近現代史としての天皇天皇制(もとは古式の政治制度)」を復活的に登場させ,新しく別様に創るために大きな貢献をした人物であった。この事実は,日本史の研究家であれば周知に属する知識であるが,天皇問題に関して世間においては必らずしも十分にはしられていない。とくに庶民のあいだでは,そこまでよくしられていない。

 「明治時代」において日本が帝国主義的な国家体制を構築していくために利用した「天皇天皇制の仕組」に関した究明をおこなっている本書,小島 毅『天皇儒教思想-伝統はいかに創られたのか?-』2018年5月は,一般教養書として新書判の体裁をもって発行されていたとはいえ,「天皇家の再構築的な新創設」であった「明治謹製の天皇天皇制」に関する専門的な研究書である。

 本書がわれわれに教えようとする「歴史の事実」は,いったいなんであるのか。ここでは,個々の内容をいちいち引用できないゆえ,小島が同書の冒頭で「天皇をめぐる諸制度は明治時代に改変された」と断わったうえで,こう指摘していた点のみ引用しておく。

 天皇をめぐる諸制度の多くは,実は明治維新の前後に新たに創られたものである。本書はこれらのなかから,農耕と養蚕,陵墓(皇族の墓。みささぎ),宮中祭祀皇統譜,一世一元をとりあげる。また,新しい制度だとすでに認識されている太陽暦の採用についてもあつかう(8頁)

 本当のところ,天皇天皇制に関するくわしい中身などなにもしらない庶民の立場からすると,いきなりこのような知識をあらためて教えられたりすると,かなりびっくりさせられる。

 というのは,冒頭でも触れておいたように,なにせ日本の天皇制度の歴史・伝統は,はるか昔の「いにしえ:古」から連綿と受けつがれてきた貴重な制度(慣習・手順?)であったし,これが有する「世界に冠たる」「万世一系」「皇統連綿」も,日本国が唯一有する正当性・妥当性(八紘一宇・万邦無比)であると説明されてきたからである。

 もっとも,明治以来に徐々に蓄積させられてきた旧大日本帝国時代におけるそうした天皇天皇制の形成史は,敗戦の憂き目に遭遇していた。天皇天皇制をかついで「近代風に神国でありうる帝国日本を形成させてきた,すなわちその『明治謹製になる「1868~1945年(77年間)」の歴史』は,ひとまず幕を引かれ,閉じていた。

 「歴史は科学ではない。基本的に文学だ-『父が子に語る近現代史』を書いた小島 毅氏(東京大学大学院人文社会系研究科准教授)に聞く」『東洋経済 ONLINE』2010/01/22 8:00,https://toyokeizai.net/articles/-/3586 のなかで小島 毅は,こうも述べていた。

 

 ★-1 明治維新,黒船来航から始めるのではなく,70~80年さかのぼる寛政の改革のころから〔この本を〕書きはじめた。これは思想史の研究者の間で,そういうとらえ方で近代を見直そうとの流れがあるので,それに乗った。

 

 もうひとつ,ここ数年日本史関連で書いたもの全体に共通するコンセプトだが,「日本史 vs.(日本を除く)世界史」ではなくて,日本が中国や韓国とのかかわりのなかで国づくりをし,歴史を育んできた,その関係を書きこんだ。

 

 さらにいえば,日本ではない国が外にあって,その国々に対して,われわれは日本だと名のる。だから日本史だけが孤立して存在することはありえない。とくに近現代の場合には,近代以前において先生として敬っていた中国がそうではなくなる。欧米に先生を替え,むしろ中国を蔑視するようになっていく。

 

 その精神的なメカニズム,人々がどういう意識をもって,東アジアをみてどう変わったかというのも,この本のもうひとつのコンセプトにしている。

 

 ★-2 日本は最初から日本であったわけではないということ,これは30年以上前に網野善彦が声を大にしておっしゃって,多くの読者を獲得したものの,残念ながらまだ一般にはそれほど認知されてはいない。

 

 むしろ,逆に司馬遼太郎のような「日本の国づくり」というコンセプトの書き物のほうが一般の琴線に触れている。それによって日本人意識なるものを再生産する仕組ができあがってしまっている。

 

 〔司馬史観が大きな影響を与えていると?〕  司馬遼太郎個人が問題だとは思っていない。司馬は小説家として,ある独自の歴史認識をもっている。ただし,いかんせん彼が小説を書いた時点でしりえた歴史研究の状況,そもそも明治以降の日本の発展についてのものの見方が,日本の欧米に追いつけ追い越せであり,中国や朝鮮はそのための道具という見方になっている。

 

 司馬は優れた人なので批判するつもりはない。彼を一種の錦の御旗としてかかげている一群の人たち,そうした頭の固い人たちがいまだにいて,彼らにとって司馬のナラティブが都合のよいものなので,利用されている

 補注)司馬遼太郎は,『坂の上の雲』と題した歴史小説産経新聞』夕刊紙に,1968年4月22日から1972年8月4日まで 1296回にわたり連載した。この歴史小説は,明治維新を成功させて近代国家として歩み出し,日露戦争勝利に至るまでの勃興期の明治日本を描いていた。

 

 司馬遼太郎は生前,戦争賛美の作品と誤解される危惧から,本作の映像化・ドラマ化等の2次使用にはいっさい許諾しないという立場を取っていた。だが,彼の死後,NHKは遺族に対して強引に頼みこみ,テレビ・ドラマ化を実現させた。

 

 このNHKのテレビ・ドラマ化が,その後における「日本人の明治観」に与えた影響は大きかった。いいかえれば,旧大日本帝国は偉大であったという記憶をさらに肥大化的に幻覚化させるのに悪用され,いわば敗戦前までの「日本かく,戦えり!」といって旧・日帝的な国家・国民意識を高揚させるために活用された。

 

〔小島 毅の記事に戻る ↓ 〕

 ★-3 明治になって日本が生まれ変わったという認識,これはヨーロッパ風の国づくりをすることによって,初めて1人前になったというとらえ方だから,東アジアの中で日本が育まれてきていることについては足りない部分がある。むしろ見方として古い偏ったタイプ。ほかに適当ないい方がないのであえていうと,それはある種「20世紀的」である。

 

 寛政年間以来,日本は中国や朝鮮を下にみるような精神構造が根付いてきて,その延長線上に日清戦争日露戦争があり,太平洋戦争につながっていく。その間に意識の変質があったとは考えていない。

 

 ★-4  そもそも人がなぜ歴史というものを考え出したかといえば,昔のことについて書きとめた文献,あるいはオーラルなものを含めて物語,語りがあったからだ。それは語りだから,数字が羅列されているデータではない。ストーリー性をもっている。

 

 それによって人びとは自分たちの過去を認識し,さきほどの話と関連させれば,そのときにある日本を過去に投影して,物語をつくるという営みをずっとしてきた。

 

 歴史は,さまざまなバリエーションをもっている。過去を振り返るときに,いまの時点で適切なものとみなすかどうかの違いであって,絶対的真理を追求しなくてもいいのではないか。それを象徴的に科学ではなく文学だといっている。(引用終わり)

 しかし,その不幸(旧・日帝の完敗)中においてただひとつ幸いだった事実は,「天皇家」がマッカーサーの手によってお取り潰しになることはなく,むしろ戦後の日本を占領・統治したアメリカ側が,この日本とこの民たちを都合よく支配をしやすくするための装置として,しかも「象徴である天皇天皇制」へと変質されられ,そのまま存続させられ,利用(活用!  それとも悪用?)されてきたことにみいだせる。

 戦後になって駐日アメリカ大使を務めたことのあるエドウィン・ライシャワーは,太平洋戦争が始まるやすぐに,アメリカがこの戦争に勝って日本を支配することになるが,そのときは天皇を “puppet” として使うようにすべきだと,政府に対して書簡(意見)を送付していた。結局,その期待どおりに敗戦した日本はなっていた。

 その「昭和天皇=puppet」を提議していたライシャワーの立場については,つぎの記述(  ↓  )が言及していた。要は,日本を戦争で負かしたあとは,占領統治にとって昭和天皇 “ a puppet for our purposes ” :「アメリカの諸目的にとっての傀儡(操人形)」になりうると主張していたのである。

【本ブログ内・参考記事】

 在日米軍基地の存在は最近,沖縄県普天間基地辺野古地域に移転させる問題をもって,格別に強調されている。日本は実質的には「アメリカには軍事的に服従させられている」国家体制に置かれている。敗戦後しばらくは,昭和天皇アメリカ側に対して「自分の希望:米軍基地の存在意義を認める意思」を,個人的に伝えていた事実があった。このことは,日本国憲法の「第1条から第8条まで」と「第9条」の関連において吟味すべき「歴史の事実」の問題であった。

 アメリカと日本との国際政治的な相互関係は,実質では『対米従属国:日本』という1点の認識に帰着するほかない。敗戦後における昭和天皇が,いったいどのようにアメリカとの関係のなかで,それも裏舞台で個人的に言動していたか。あるいは息子の平成天皇が「国民の立場」に「寄り添う」皇室戦略行動をもって,その「治世(!)30年」を妻美智子とともに生きてきたか。

 以上の問題は,われわれがあらためて冷静に分析しておくべき「昭和史・平成史」の論点を提供している。

 

 「〈平成とは あの時:18〉皇居の森深き宮中祭祀編集局・喜園尚史稿『朝日新聞』2019年3月21日朝刊36面「特集」

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 なお,この特集記事「『平成とは あの時』シリーズはこれ〔この18回目の連載〕で終わります」と,末尾に断わられていた。以下が本文の紹介である。

 --平成という時代が4月末に終わる。国民が目にしてきた天皇陛下は,被災地のお見舞いや慰霊の旅をする「象徴」としての姿だった。だが天皇には,皇居の森深く,日々,祭祀をつかさどるもうひとつの姿もある。

 戦後,宮中祭祀は皇室の私的行事とされたが,秋の新嘗祭(にいなめさい)には三権の長が参列する。〔2019年〕11月,29年ぶりに営まれる大嘗祭でも,前回同様に公費が使われる。「みえない祭祀」に,戦後も断ち切れていない国とのつながりが透けてみえる。

 1) 政教分離,実態あいまい  公務員が代拝

 平成に入って2年目の1990年11月22日夕,皇居・東御苑に造営された大嘗宮(だいじょうきゅう)で,大嘗宮の儀が始まった。

 宮内庁担当だった29年前,深夜の現場にいたが,暗闇に揺れる炎しかみえなかった。大嘗祭は公的性格があるとして公費が支出されたが,参列者からも儀式の中身をうかがいしることはできなかった。これが象徴天皇の即位儀式なのか。違和感だけが残った。

 皇居の森に,入り母屋(もや)造りの建物が三つ並んでいる。宮中祭祀がおこなわれる賢所(かしこどころ)皇霊殿(こうれいでん),神殿で,宮中三殿と呼ばれる。その脇に新嘗祭(にいなめさい)がおこなわれる神嘉殿(しんかでん)がある。

 元日早朝の四方拝(しほうはい)に始まり,年間約20の祭祀がある。宮中祭祀は皇室の伝統とされるが,新嘗祭などを除いて大半は明治以降に始まった。しかし戦後,新憲法政教分離規定によって,宮中祭祀は皇室の私的行事となり,祭祀を具体的に定めていた皇室祭祀令も廃止された。宮内庁職員ら公務員は関与できない建前になった。

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 だが,実態はあいまいだ。大嘗祭当日,ある掌典(しょうてんほ)は,夕刻から本番を迎える大嘗宮の儀でのお供えの準備に追われた。掌典補は,宮内庁に所属する公務員である。戦後,宮中祭祀を担当する掌典職は,宮内庁の組織から外れ,掌典長掌典内掌典(ないしょうてん)などはいずれも天皇の私的使用人に変わった。ところが,掌典補は宮内庁に残り,祭祀の補助にもたずさわることになった。

 宮中三殿にいる時は白衣白袴(はくいはっこ)姿,宮内庁庁舎に戻る時は背広に着替えるが,仕事の大半は祭祀関連だった。女性が務める内掌典が,宮中言葉「まけ」と呼ばれる月経になると,祭祀にかかわれない。その時は手伝った。

 すでに退職した元掌典補はいった。「日々の祭祀が,つつがなくおこなわれることだけを考えてきました。公務員だからこれはできないとか,意識したことはありません」。〔だが〕国家公務員が,直接的にかかわっているものもある。

 「問題の毎朝御代拝(まいちょうごだいはい)はモーニングで庭上からの参拝に9月1日から改正の由」。1975年8月16日,昭和天皇の侍従だった卜部亮吾の日記にこんな記述がある。国会で政教分離問題が議論になっていた時期だった。

 従来,侍従による朝の代拝は浄衣(じょうえ)姿で殿内でおこなわれていた。しかし,服装や形式が変わっても公務員である侍従の代拝じたいは続いている。この代拝について,宮内庁は国会でこう答弁した。「宮中三殿は,家の神棚みたいなもの」「侍従という職務からみても憲法違反とまで考えてはいない」。

 補注)この答弁は詭弁である。この理屈にしたがえば,「日本という国家」の「神棚みたいなもの」という形容じたいが「政教分離の原則」に抵触している。日本人・日本民族〔以外の在住する在日外国人たちすべても含めて〕は,全員が神道教徒(より正確にいうと「国家神道」でも「皇室神道」の信者)ではない。また神棚を設置しているわけでもない。

 

 日本には,仏教徒キリスト教徒・イスラム教徒などがいる事実を無視した話し方は,それこそ論外の弁法である。そもそも,神棚という神道的な宗教道具とは無縁で生きている日本人・日本民族がいないのではなく,いくらでもいる。

 

 日本国とこの民の統合する象徴の地位にいる天皇(その家)の “神棚の話題” である。その話題を日本人・日本民族・日本に暮らす全員にあてはめうる性質の話題について,前段のように「憲法違反にならない」というのはきわめて恣意的であり,どこまでも勝手な解釈である。

〔記事に戻る→〕 そもそも憲法制定当時,政府は宮中祭祀をどう考えていたのだろう。宮内府(現宮内庁)法が施行される直前の1947年3月,吉田 茂首相が昭和天皇との面会に用意したとみられるメモが,国立国会図書館の憲政資料室に残されている。当時の入江俊郎・法制局長官の関係文書にあるもので,昭和天皇実録にも,同じ日に首相が天皇に報告に来た旨の記述がある。

 「宮内府に関する奏上(そうじょう)」と題されたメモは,皇室には,憲法上認められた公的事項と私的事項があるとしたうえで,私的事項でも,象徴の地位の保持に影響が深い場合には,国がお世話することは当然だ,としている。ただ,それに続けてこうも書かれている。

 「祭祀の事務は,皇室の私的事項であり,これは政教分離日本国憲法の建前からも,宮内府で扱わぬことが穏当であると存じます」。同じ入江文書のなかにある「皇室関係の事務」というメモにも「祭祀の事務は純然たる私事で,これには宮内府の職員も,たとえ補助であっても関与せぬがよかろう」との記載がある。

 皇室に詳しい瀬畑 源・長野県短期大准教授は「国として関与するのは,皇室にかかわる国家事務と規定しつつも,皇室の性質上明確に切り分けられないというあいまいな実態があった」としたうえで「それでも,当時は宮中祭祀については関与すべきではないと,少なくとも政府レベルでは考えていたことが読みとれる」と指摘する。

 2) 新嘗祭三権の長,国家との関係いまも

 昨〔2018〕年11月23日夕から,平成最後の新嘗祭がおこなわれた。新嘗祭は,宮中祭祀のなかでもっとも重要とされる。その晩,首相官邸の公式ツイッター安倍晋三首相の写真付きで更新された。「凜(りん)とした空気のなか,宮中において厳かにおこなわれた新嘗祭神嘉殿の儀に参列いたしました。五穀豊穣に感謝の念を捧げ,そして,皇室の弥栄(いやさか)と国家の安寧をお祈りいたしました」。

 補注)ここで紹介されている安倍晋三のことばは「皇室⇒国家」に関した次元だけに限定されており,国民たちの生活全般に関した直接の表現にはなっていない。

 宮中祭祀は皇室の私的行事になったが,三権の長らの参列が恒例となっているその風景は,政府の公式行事を思わせる。

 終戦から4カ月後の1945年12月15日,連合国軍総司令部(GHQ)による神道指令が出された。国家神道を解体し,宗教と国家を分離させる狙いだ。宮中祭祀はいったい,どうなるのか。政府関係者らの不安をよそに,そのまま残った。あくまでも天皇の私的信仰だというGHQの判断だった。

 終戦〔敗戦〕当時の宮内次官だった大金益次郎氏は,のちに国会の憲法調査会に呼ばれて当時の思いをこう語っている。「天皇のお祭りが,天皇個人の私的信仰かという点は深い疑問をもった」「幸いにして個人の信仰は保障されている」。宮中祭祀が生き延びた安堵の一方で,私的信仰に落としこまれた憤りも強くにじんでいる。

 天皇の行為は,(1)  国事行為,(2)象徴としての公的行為,(3)その他の行為,に3分類できるというのが政府見解だ。さらに (3) については,公的性格のある行為と純然たる私的行為に分かれるとしている。

 補注)この天皇の行為「問題」については,園部逸夫が作製した関連の図解がある。これは,園部逸夫『皇室制度を考える』(中央公論新社,2007年,72頁)に提示された関連の図解である。概念的にうまく整理:図示されている。

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 公費支出が政教分離に抵触すると指摘されている大嘗祭は,(3)  のうちの「公的性格がある行為」としているが,宮中祭祀は,大相撲観戦などと同様に「純然たる私的行為」に区分し,内廷費を支出している。しかし,皇室の伝統である宮中祭祀の重要性を指摘する声は根強い。とくに皇室への思いが強い保守層に目立つ。

 朝日新聞が昨〔2018〕年実施した世論調査では,新天皇に一番期待する役割について,「宮中祭祀など伝統を守る」は「被災地訪問などで国民を励ます」「外国訪問,外国要人との面会」に続いて3番目に多かった。

 退位をめぐる有識者会議では,こんな意見が出た。「(天皇は)祭り主として存在することに最大の意義がある」「宮中祭祀は久しく私的行為とされてきたが,国民統合の精神的基盤をなす公的行為のひとつと考えられる」「もっとも重要なことは,祭祀を大切にしてくださるという御心(みこころ)の一点」。

 大嘗祭への公費支出,新嘗祭への三権の長参列……。祭祀と国は,なお結びついている。

 3)「公的行事化」強まる動き-島薗 進さん(上智大教授〈宗教学〉)

 明治以降,欧米のキリスト教国家に対抗できる近代国家を構築するための土台として利用されたのが皇室祭祀だった。そのため祭祀が大幅に創り出され,とくに神武天皇祭をはじめ万世一系を裏打ちするような先祖祭が目立った。国民生活に直接影響する祝日も,紀元節など皇室祭祀にかかわるものばかりで,国民の意識に国家神道を根づかせる狙いがあった。

 その国家神道は,戦後のGHQによる神道指令で,神社と国家の分離という点では歯止めがかかった。しかし,天皇の祭祀は棚上げ,容認され,それに公的地位を与えようとする政治勢力が影響力を強めてきた。戦後の皇室祭祀は天皇の私的信仰のはずだが,個人的な信仰ではなくその地位についてくるものだ。

 国家主義的な立場からこれを公的行事にする動きが繰り返し生じてきた。神聖な天皇が皇室祭祀をすることで「美しい国柄」が護持されるという主張だ。しかし,天皇の祈りは,あくまでも2016年のお言葉にあったように,国民への深い信頼と敬愛をもって人として祈るということ,それこそが象徴天皇にふさわしい。(談)

 4) 私と平成 編集局(皇室担当)・喜園尚史(よしぞの・ひさし)(59歳)

 「やはり真実に生きるということができる社会を,みんなでつくっていきたいものだとあらためて思いました」。天皇陛下は2013年10月,皇后さまとともに初めて熊本県水俣市を訪問した。水俣病の患者らとの懇談で,こう語りかけた。38歳まで病気の認定申請をためらってきたという男性の思いを聞いてのことだった。

 「今後の日本が,自分が正しくあることができる社会になっていく,そうなればと思っています。みながその方に向かって進んでいけることを願っています」。象徴を生きる,というのは,どういうことなのだろう。

 「ぼくは天皇になるだろう」。天皇陛下は高校1年の時,家庭教師のバイニング夫人が将来の希望を書かせたところ,こう記した。「やはり私人として過ごす時にも,自分たちの立場を完全に離れることはできません」(2001年の誕生日会見)。その発言には,絶えず地位に伴う制約がつきまとう。

 「天皇憲法に従って務めをはたす立場にあるので,憲法に関する論議については言を慎みたい」「(即位の礼大嘗祭政教分離について)この問題につきましては,内閣が慎重にいろいろな角度から,検討をおこなっていると思います」(1989年8月,即位後初めての会見)。その発言が,大きく踏み出された。

 2016年8月,退位の意向をにじませた思いを,国民に語った。「私が個人として,これまで考えてきたことを話したいと思います」。驚いた。天皇が「個人として」と断って発言するとは。「現行の皇室制度に具体的に触れることは控えながら」「天皇は国政に関する権能を有しません」。政府との調整をうかがわせる言葉が続いた。

 それでも,最初に聞いた時は一線を越えたのでは,と思った。憲法学者から疑義も出た。ただ,こうも感じた。天皇も1人の人間だ。加齢に伴う身体の衰えを感じるなかで,今後の不安を表明した。それも許されないのだろうか。

 天皇という運命。退位という選択。それは「自分が正しくあることができる社会」に向けて,象徴としてのぎりぎりの決断にも思えた。憲法は,生身の人間に象徴という地位を与えた。天皇の発言はどこまで許されるのか。政教分離は守られているのか。問うべき課題は,そのまま次代に先送りされる。(以上で,特集記事引用終わり)

 ところで,1昨年(2018年)12月23日平成天皇の誕生日に,猪瀬直樹(作家・元東京都知事)がつぎの発言をしていた。

 A級戦犯東條英機ら7名の絞首刑が執行されたのは昭和23〔1948〕年12月23日だった。皇太子明仁の誕生日を祝う予定は急遽と取りやめとなった。極東軍事裁判は,昭和21年4月29日の昭和天皇誕生日にA級戦犯が起訴され,5月3日(翌年新憲法施行,以後憲法記念日)に開廷した。

 

 やがて昭和が終わり新天皇が即位すれば,戦犯が処刑された日は天皇誕生日として祝日となり,日本人は否が応でも歴史的事実に向かいあわなければならないはずだった。しかし日米安保体制下,ディズニーランド化した日本人はすっかり戦争の記憶を忘れ,昭和の時代も思いのほか長くつづき,GHQが刻印した死の暗号は読み解かれず意味を失った。それを忘れることができないたった1人を除いて。

 註記)https://newspicks.com/news/3551871/ 

 この猪瀬直樹の指摘は,エドウィン・ライシャワーが太平洋戦争の開始を受けて,戦争で日本帝国を負かしたあとは天皇を puppet に位置づけて」おき,戦後の日本を支配・統治していく路線を推奨していた事実にも,当然のごとく関連する。ところが,21世紀の現在もいまだにその路線は堅持されている。

 (前略) Edwin O. Reischauer in September 1942.  Already at this early date in the war, Reischauer proposed retention of the Japanese emperor as head of a postwar “puppet regime” that would serve U.S. interests in East Asia.

 註記)T. Fujitani,THE REISCHAUER MEMO : Mr. Moto, Hirohito, and Japanese American Soldiers“Journal Critical Asian Studies”,Volume 33, 2001  の  Abstract  から。

 昭和天皇は,大日本帝国大元帥の立場をもって「大東亜・太平洋戦争」に敗北した。その屈辱は,敗戦後も天皇の地位を保持しながらも味わってきた。 “敗戦の将は兵を語らず” とはいうものの,そのまま日本国憲法のなかで象徴天皇の地位に横滑りできた彼の生涯は,けっして後味のよいものではなかった。もっとも,意図的にも結果的にも,自身に関する戦争責任の問題は完全に棚上げしてきた。

 1975年10月31日,訪米から帰国したさいにおこなわれた日本記者クラブ主催の記者会見で,記者からの質問に対して昭和天皇は,つぎのように返答していた。

 問い   陛下は,ホワイトハウスの晩餐会の席上,「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが,このことは,陛下が,開戦を含めて,戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は,いわゆる戦争責任について,どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)

  天皇  そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究していないので,よく分かりませんから,そういう問題についてはお答えできかねます。

 

 問い  戦争終結にあたって,広島に原爆が投下されたことを,どのように受けとめられましたか? (中国放送記者秋信利彦)

  天皇  原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが,こういう戦争中であることですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないことと私は思っております。 1975年10月31日,訪米から帰国したさいにおこなわれた日本記者クラブ主催の記者会見で,記者からの質問に対して昭和天皇は,つぎのように返答していた。

 

 問い  陛下は,ホワイトハウスの晩餐会の席上,「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが,このことは,陛下が,開戦を含めて,戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか? また陛下は,いわゆる戦争責任について,どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)

  天皇  そういう言葉のアヤについては,私はそういう文学方面はあまり研究していないので,よく分かりませんから,そういう問題についてはお答えできかねます。

 

 問い  戦争終結にあたって,広島に原爆が投下されたことを,どのように受けとめられましたか? (中国放送記者秋信利彦)

  天皇  原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが,こういう戦争中であることですから,どうも,広島市民に対しては気の毒であるが,やむをえないことと私は思っております。

 現在,在日米軍基地に実質的に統括・支配される国家となっているこの日本については,敗戦後における政治過程のなかでアメリカ側に対して「そのような自国の状態になってもいい」と希望を伝えたことのある昭和天皇であった。昭和20年代史からの「日本の政治と経済」は,基本的にはアメリカ好みの国家を形成していく方途となっていた。

 平成天皇は,昭和天皇が自分の父親として「敗戦後の昭和時代」をどのように生き抜いてきたか,一番よくしっている立場にいた。だから平成天皇は,沖縄県をはじめとして日本だけでなく,国外の地にまで「慰霊の旅」に出かけていった。

 この「父と子」の歴史的な組みあわせによって描かれてもきた「現代日本史の展開模様」は,日本の政治史のなかで有する意味についていえば,その解釈をいくつかに分岐させる論点を提示していた。いずれにせよ,そうした事実じたいは,けっしてないがしろにできない「天皇家」の歴史に生じていた経歴:記録であった。

 最近〔この記述がなされていたころ〕,安倍晋三が自分を第3者からはみえないように隠しながら,平成天皇をいい気になって物陰からいじめているという情報も流れていた。この事実は,いま〔2020年10月〕となってみれば,自明の事情である。

 そこで,最後につぎの ③ の指摘も聞いておきたい。ごく粗っぽく断わっておくが,歴史のなかに発生していた「安倍晋三天皇明仁天皇裕仁」間の「乱流的な政治関係」も意識しつつ,聞いておきたい批評である。

 敗戦から74〔75〕年が経った21世紀の現在でもなお,その「敗戦」問題にまで遡れる因果関係中の「肝心な系列の問題」が,以下の論述のなかには表現されている。

 

 「安倍政権が3億円の寄付をした米シンクタンクの正体!  アーミテージレポートで日本属国化を進めるジャパンハンドラー」『リテラ』2019.03.17 12:06,https://lite-ra.com/2019/03/post-4610.html〔全3頁のうち1頁目だけを引用〕

   f:id:socialsciencereview:20201020085845p:plain

 補注)この画像による記事の紹介は,本文として引用している『リテラ』の記事とは直接関係したものではないので注意されたい。関連する説明のためにここにもちだし,参照してみた。

 トランプ大統領におねだりされて戦闘機やミサイルなどを爆買いし,普天間返還の見通しも立たぬまま辺野古新基地建設を強行,そしてトランプのノーベル平和賞推挙……。

 “対米隷属” が甚だしい安倍首相だが,ここにきて,さらなるえげつない “アメリカへの貢物” が判明した。あのジャパンハンドラーたちの巣窟である米シンクタンク戦略国際問題研究所」(CSIS)に,日本政府が巨額の寄付金をつぎこんでいたというのだ。

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 〔2019年3月〕14日付の『しんぶん赤旗』によれば,第2次安倍政権の2013年度からの6年間で,日本政府がCSISへ寄付した金額はなんと2億9900万円にのぼるという。共産党の宮本徹衆院議員の追及によって外務省が明らかにしたもので,外務省は「国際情勢に関する情報の収集および分析」「海外事情についての国内広報その他啓発のための措置および日本事情についての海外広報」などを寄付の理由にあげている。

 だがいうまもなく,寄付の原資は税金だ。国民の血税を米国の一民間シンクタンクに勝手に寄付するなんてことが許されるのか。しかも,問題は寄付した相手の正体だ。「戦略国際問題研究所」(CSIS)は前述したようにワシントンに本部を置く民間シンクタンクだが,アメリカの政財界の意向を受けて,日本をコントロールする “任務” を帯びた知日派「ジャパンハンドラー」の巣窟といわれているのだ。

 補注)すでに氏名の出ていたエドウィン・ライシャワーも広い意味では,戦前からもともとジャパンハンドラーズに似た存在であったといえなくはない。

 実際,このシンクタンクが,日本の政治家や官僚を「客員研究員」や「ゲスト」として大量に招き入れ, “親米保守” “米国の利害代弁者” にとりこんでいるのは有名な話。

 補注)小泉進次郎もそのお仲間に入れてもらっている事情などについては,以下の記述(  ↓  )も参照してほしい。

 さらに,CSISの日本政府への影響力を象徴するのが,同研究所が定期的に発表するリチャード・リーアーミテージ米元国務副長官とジョセフ・ナイ元米国防次官補による「アーミテージ・ナイレポート」だ。同報告書には日本の安全保障政策や諜報政策などのプロトプランが含まれており,日本政府はその提言のことごとくを実現してきた。

 たとえば,2012年の第3次アーミテージ・ナイレポートでは,〈平時から戦争まで,米軍と自衛隊が全面協力するための法制化を行うべきだ〉 〈集団的自衛権の禁止は日米同盟の障害だ〉などとして,集団的自衛権の行使容認や自衛隊の活動を飛躍的に拡大させる安保法制策定が “指示” されていた。

 また 〈日米間の機密情報を保護するため,防衛省の法的能力を向上させるべき〉 〈日本の防衛技術の輸出が米国の防衛産業にとって脅威となる時代ではなくなった〉などとされている部分は,読んでのとおり,安倍政権下での特定秘密保護法の成立や武器輸出三原則の見直しにつながっている。

 第3次報告書では,ほかにも〈原子力発電の慎重な再開が正しく責任ある第一歩だ〉 〈女性の職場進出が増大すれば,日本のGDPはいちじるしく成長する〉などとあり,第2次安倍政権は原発再稼働政策や「女性活躍推進法」によってこうした “対日要求” を叶えてきた。

 そんなところから,CSISとアーミテージ・ナイリポートが日本の政策をすべて決めているなどという陰謀論めいた見方さえ,ささやかれるようになった。(『リテラ』引用終わり)

 「因果」ということばを使ってみたが,安倍晋三のいじめを受けてきた平成天皇でさえ,とくに対米従属関係といった日本の政治における基本問題には,元来いっさい口出しすることなどできていない。この点は,父親である昭和天皇の生き様を息子の立場から観てきた平成天皇の考え方としては,絶対に自身が守るべき「天皇家にとっては越えてはいけない一線」としてしかと認識されている。

 平成天皇日本国憲法を守ると数回にもわたり告白してきた事情の裏には,父の代から骨身に染みて自覚させられてきた「戦争責任問題」へのこだわりがある。しかし,安倍晋三が米日安全保障関連法案を成立・施行(2016年3月下旬)させてからは,第9条の裏張りがあってこそ,その存在意義がみいだせていた第1条から第8条にも,なんらかに顕著な異常現象が発生している。

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