天皇・天皇制について三島由紀夫を媒介にして語る宮台真司の「日本国:空っぽ」論

 明治以来の国家観念,そして21世紀においても「天皇・皇室の古代史的発想」である「万世一系・皇統連綿・八紘一宇・万邦無比」であらねばならない「荒唐無稽の政治思想」は,安倍晋三や菅 義偉が総理大臣になるや,よりいっそうの化けの皮がはげていく

 

  要点・1 若者たちにおける人文・社会科学的な思考能力の低下

  要点・2 天皇天皇制とはあいもかわらず縁遠い日常生活を過ごす国民・庶民たちであるが,いかにも近い存在であるかのように演じられている「皇室・皇族」と「国民・庶民(平民)」たちの上下関係を,

  日本国憲法は,

 第1章「天皇」において,第1条「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」と定めている。こちらでは,天皇と国家:国民の上下関係は逆転的に規定されているけれでも,現実の様相はそのとおりに簡単に理解できるのではない


  宮台真司「バカほど『それ,意味ありますか』と問う 若者の思考レベルが “劣化” している」『PRESIDENT』2017年5月1日号,https://president.jp/articles/-/23173〔~ ?page=3〕

 宮台真司は3年半ほど前のこの寄稿で,つぎのように語っていた。人口の減少問題,少子高齢社会になっている日本の経済社会を構成する人びと,なかでも若者層に向かいつぎのような辛辣(辛口)の批評をくわえている。

※人物紹介※ 「みやだい・しんじ」は1959年生まれ,東京都立大学教授。東京大学文学部卒,東京大学大学院社会学研究科博士課程満期退学,社会学博士。著書に『終わりなき日常を生きろ』『日本の難点』『正義から享楽へ』など多数。

 1)職場からの応援をもらう「事情」の伝え方

 先輩から「理不尽なマナー」を強要されたとき,どうすればいいか。社会学者の宮台真司さんは「『なんの意味があるのか』などとマナーやルールの合理性を問う者は,思考レベルが低い」という。そして「そうした『劣化』した若者が増えている」と苦言を呈する。どういうことなのか。

 2)31歳〔2020年なら34歳〕より若い世代は絶望的に「劣化」した

 私は「1986年分水嶺説」を唱えている。今年31〔34〕歳になる「1986年生まれ」と,それ以下の「1986年以降生まれ」には,実は大きな違いがある。

 「1986年以前世代」は,阪神・淡路大震災地下鉄サリン事件援助交際ブームなどを経験しており,「社会は5~7年ごとにガラリと変わる」という感覚をもつ。他方「1986年以降世代」は「社会はこのままずっと続く」という感覚をもつ。

 彼ら(後者)が思春期を迎える1997年ころから,日本社会は「平成不況」が深刻化,以降の変化が乏しくなった。だから「どうせなにも変わらないのであれば,周りに合わせるしかない」という構えになりやすい。

 世代はクリアカットに区切れないので,同じ傾向が30代前半(半ば)からみられる。いずれにせよ先行世代は,若者の「劣化」を認識したほうがいい。具体的に説明しよう。

 3)なぜ性体験のない若者が増えたか

 「1986年以降世代」は,物心がついたときからネットのコミュニケーションに依存する。だから,蔭で悪口を書きこまれるのを怖がり,「他人にどう思われるか」を気にする。「仲間外れ」を恐れ,異性との恋愛より同性との付き合いを優先する。不安が勝つので,恋愛も同性仲間との付き合いも,上辺だけになりやすい。

 絵文字やスタンプの普及がこれを加速させる。大学生のSNSをみてみると,どれも似たような絵文字やスタンプの送りあいだ。彼氏や彼女を別人に入れかえてもやりとりは成立するだろうし,入れかえたことさえ気づかないだろう。だから,どんな異性と付き合っても,しょせんは相手が交換可能だという感覚が拡がっていて,それが恋愛に乗り出す動機づけを削いでいる。

 実際,性体験のない若者が増えた。出生動向基本調査をみると,20から24歳の男性で「性体験のない未婚者の割合」は47.0%(2015年)。10年前の33.6%(2005年)に比べて13.4ポイントも上昇している。この傾向は女性も同じだ。私の定点観測でも,男子学生は2005年ころから,女子学生は2010年ころから飲み会でシモネタを避けるようになった。

 3)他者に対して想像力を働かせられない

 社会学には「主体性」の概念がある。人間の「意識」は3000年ほど前に「文字」の普及によって生まれた。それ以前も「言葉」はあったが,歌や踊りとともにあり,ダイレクトに感染を引き起こす道具だった。文字が普及すると,ダイレクトな反応に代わって,自分の反応に対する自分の反応に対する自分の …… といった反応の再帰性(折り返し)が生じるようになる。これが「意識」だ。

 単に怒ったり悲しんだりするのではなく,怒っている自分をみて悲しんだり,悲しんでいる自分をみて怒ったり。そのぶん具体的反応を相手に返すまでに遅れが生じ,再帰性の高次化に伴う個性が「主体性」を与え,抽象的思考が可能になる。

 絵文字やスタンプを使った即時のやりとりは,「主体性」を抹消した「自動機械」を生む。個性はなく入れかえ可能だ。むしろコミュニケーションに遅れが生じると「意識」や「主体性」の働きを目ざとくみつけられて叩かれる。それを恐れるから「意識」を禁圧,「自動機械」に埋没したがる。その結果,昨今の若い世代は,文脈を分析して「他者に対して想像力を働かせる」ことができなくなった。

 4)先行世代のやり方は「暗記」してしまえ

 私は大学でゼミナールを開講している。あるとき高熱が出て,保健センターから,インフルエンザの恐れがあるので授業を休止しろといわれた。偶然通りかかったゼミ生にインフルエンザで休講すると伝えて帰宅した。当然メーリングリストでほかのゼミ生に伝えてくれると思ったら,ゼミ生らから僕を長時間待っていると連絡がきた。後日,尋ねたら,その彼は「伝えろといわれなかったので…」と返答した。Oops !!

 ある夏,講義のために教室に入った。冷房装置の故障で酷く暑かったので,100人を超える学生らに「窓を開けろ!」と叫んだ。授業後,最前列の学生らに「なぜ開けなかったの?」と尋ねたら,「誰も開けようとしないのに自分がやるのはどうかと……」と返された。「暑いから開けようよ」と周囲に呼びかけて開ければいいだけなのに,意味不明。KYかも,周囲から浮くかも,と不安がるあまり,自分にも周囲にも不利益が生じても,まともに行動できないのだ。Oops !!

 この種の逸話にはこと欠かない。私は30年近く,講義の試験を「自分で問題を作って自分で答える」という形式で一貫してきた。答案は原稿用紙4枚分。その答案のレベルが年を追うごとに下がってきた。1980年代に「詰めこみ教育」が批判され,1990年代以降は「自分で考える力」の養成がめざされた。だが皮肉にも以前のほうが「自分で考える力」があった。

 5) 学問の基本は武道や演奏と同じ

 なぜか。かつての教育は暗記全盛だった。追いつき追い越せの後発近代化国だったからだ。帝国大学出身の父も論語やルター訳聖書を諳んじていた。私もそうした教育を受けた。麻布中学に入るや「数学は暗記物,お前らが考えるなんて10年早い」と教員に怒鳴られた。暗記で引き出しを増やさなければ思考しても意味がないという考え方を叩きこまれた。

 学問の基本は武道や演奏と同じだ。基本動作を反復訓練して「自動機械」のように動けるようにする。そこに意識を使わなくなる分,意識に新しい役割が与えられる。「自動機械」化した自分から幽体離脱し,自分に寄り添って観察する。これを「意識の抽象度の上昇」という。

 昨今の若者は「なんの意味があるのか」と合理性を問い,合理性がないことをしない。確かに企業内には不合理にみえることが多数ある。だが企業人の初心者が逐一合理性の有無を問うても無駄。合理性を問う前に,先行世代のマナーやルールを自動機械のように振るまえるくらい身につけたほうがいい。思考する価値のある問題に注力するのはそれからだ。自分はできもしないのにマナーやルールの合理性を問う者は,思考レベルが低い。

 抽象度を上げた意識からみれば,「合理的なものが非合理で,非合理なものが合理的だ」という逆説はザラだ。若者が合理性を問うてきたら,そうした世の摂理を開陳すればいい。先行世代自身も自分を見直す機会になる。合理性は高い抽象度で判断するべきものだ。

 6) 宮台真司さんに学ぶ「30代の心がけ」3カ条

 1. 「仲間はずれ」を恐れてはいけない-主体的な行動をとって,「他人の目線」から自由になれ。

 2.   他者に対して想像力を働かせろ-「指示待ち人間」を脱して,みずから問題提起をしろ。

 3.   必要なことはまるごと「暗記」しろ-暗記しておくことで,はじめて思考する余裕ができる。

 以上,宮台真司の意見・指摘のなかには,本ブログ筆者も同感する出来事がいくつかあった。すでにだいぶ以前の出来事に関した共感であるが,すでに1980年代から宮台が言及したごとき「大学生の行動現象」は,ウンザリするほど体験させられてきた。それからすでに何十年も時間が経っているとなれば,いまの大学の学生たちの行動様式のなかには,この日本の未来を占えるエトバス(Etwas,あるもの・なにか)が含まれている。

 日本の大学教育が敗戦後しばらくの間は,エリート大学であった時期に留まっていたのち,マス大学からユニバーサル大学への肥大化し,水増し化していく過程を経ることによって,高等教育の実際的な中身は「ピン・キリ」の状態になってきた。しかし,宮台真司が教鞭をとる東京都立大学の学生でも,宮台自身が呆れるくらいに,いってみれば「人間力」の基礎代謝水準が落ちているというわけである。

 おまけに安倍晋三が首相を務めだしてから,教育基本法を改悪したり,対米服属路線をより進化させるための米日安保関連法体制を構築したりするうちに,この日本国の若者たちは自分たちが意識する間もないまま,人間的・人格的な基本資性を劣化させられるハメになっていた。

 安倍晋三や菅 義偉が政治屋としていかほどの実力(政治力)を潜在的に有しているか,いわばその底の浅さは,すでにみえみえのバレバレであったから(新しく首相になった菅については後段でさらに触れる),いまさら驚くべきことではないとしても,これからの日本を担うべき若者層そのものが,覇気やさらには蛮勇的な行動力を感じさせない傾向に向かっている光景は寒々しく映る。

 そこで,宮台真司三島由紀夫が生きていた時代,この三島と対峙・対話した「マス化しだした大学の大学生たちの存在にかこつけて,つぎの ② のように議論していた。

 

  社会学宮台真司氏「三島由紀夫 50年後の問い (2) 『空っぽ』日本  見抜いた目」「『不動点』として考えた天皇日本経済新聞』2020年10月21日朝刊40面「文化」

 「このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって,その代わりに,無機的な,からっぽな,ニュートラルな,中間色の,富裕な,抜目がない,或(あ)る経済的大国が極東の一角に残るのであろう」。

 補注)この冒頭における宮台真司の発言は,前項 ① の発言を受けていると解釈できる。つまり,東京都立大学の学生であってもすでに合理性は高い抽象度で判断するべきものだ」という個人個人の判断基準,いいかえれば自分自身に関するレゾンデートル(存在理由)が,だいぶあやしくなっている事実を憂慮した発言である。

 宮台は,21世紀におけるこの国は「無機的な,からっぽな,ニュートラルな,中間色の,富裕な,抜目がない,或(あ)る経済的大国が極東の一角に残る」ことになると懸念している。とはいっても,日本そのものが今後においていつまでも,「富裕だとか・抜け目がないとか」といえる「経済的大国」の位置を保持できて,東アジアの一角に留まれるのかどうかといえば,それほど確信をもってはいえない。

 前世紀の末からこの国はすでに,「日出ずる国」から「日沈む国」になるほかない現実を,嫌というほど味あわされているのだから,宮台真司のいう方向とは異なった「日本の未来」を創造するほかない。宮台の文章に戻ろう。

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 三島由紀夫は1970年11月25日に自裁する約4カ月前,「果たしえていない約束」と題する文章を新聞に寄せた。社会学者で東京都立大学教授の宮台真司氏(61歳)は作家の死に強い衝撃を受け,その意味を問いつづけてきた1人だ。「三島が捉えた日本の本質と彼が主張する天皇主義を理解するうえでこの文章はとても重要」と考えている。

 --日本人にとって天皇の存在は必要不可欠であると三島が考えたのは,さもなくば日本社会が空虚なものになるという危機感があったからだ。

「日本人は敗戦後,一夜にして民主主義者に変わった。近年では一夜にしてLGBT(性的少数者)主義者に,ダイバーシティ(多様性)主義者になった。日本人は周りを見回して自分のポジションを保ちたがる,空っぽで入れ替え可能な存在だと三島は見抜いていた」。

 日和見的な日本人の「空っぽ」を埋める存在が天皇であるという三島の思想に宮台氏は強く共感するという。「状況が変わろうとも一貫できるかどうかを考えたとき,よりどころとなる不動点が必要になる」。

 なにが国家と国民の「不動点」になるのか。宮台氏は米国を引きあいに出し,つぎのように語る。

 「合衆国憲法の解釈は時代によってまちまちになる。だから憲法学者ローレンス・レッシグは『建国の父が生きていたらなにをいうかという遺志が不動点になる』といった。同じく天皇陛下ならどう思うかが日本の不動点になりうると三島は考えたのだろう。制度ではなく事実性の問題だ」。

 天皇をあらゆる日本文化の根源ととらえ,「文化概念としての天皇」の理念を説いた三島の『文化防衛論』(1968年)は,論壇に波紋を起こした。政治思想史家の橋川文三は,三島の天皇主義は近代国家の論理と整合しない,空想的なものであると痛烈に批判した。

 「『天皇』とは単なる言葉でも人格でもなく,現人神としての存在であるということを,三島は自分の身をもって示すと答えた。そして特異な死を遂げることで,のちのち々にまで残るシンボルとなり,後世を生きる人びとに参照されつづけることに賭けたとも考えられる」。

 だが,作家が身を賭して問うたものはいまの若い世代にどれだけ響いているだろうか。反時代的とも受け止められるその思想を考える前に,作家その人をしることが重要だろう。宮台氏はその入り口として,今年公開された映画「三島由紀夫 vs 東大全共闘」(豊島圭介監督)を挙げる。自決の1年前,約1000人の左翼学生を相手に三島が討論した一部始終を記録したドキュメンタリーだ。

 「イデオロギーは異なっても自分を討議に招いた学生らを三島は意気に感じ,言葉を尽くして対話している。こんな愛のある人に教えてもらえたらと思えるだろう」。

 宮台氏は「50年前に三島が予言したとおりの状況がいまの日本にある」とみる。「人間は基本的に弱いことを三島はよく分かっていた。だから私たちが生きるための不動点をみいだせるように扉を開いてくれた。日本が『空っぽ』なかぎり,三島の問いは有効でありつづける」。(引用終わり)

 「日本が『空っぽ』なかぎり」という留保・制限は,天皇天皇制と裏表の補完関係を意味していた。つまり,日本(日本人・日本民族)は,その「空っぽ」性を,天皇という存在をなくして考えられない「一国単位の政治社会集団」である。

 宮台真司はそのように日本国家の基本問題を理解している。いうなれば,日本国憲法の示唆できる民主主義とは,アメリカからもらったという意味で,あるいは押しつけられたそれであったという経緯もあって,天皇天皇制の意味関連を削除(改憲?)できないままに来た。

 日本国の「空っぽ」である核心空間を満たすなにものかを収容させる「不動点として考えられる天皇」の存在が問題にされている。三島由紀夫は「天皇をあらゆる日本文化の根源ととらえ」たというけれども,この現代日本史観は,明治以来の「創られた天皇制」,および敗戦以来の「天皇製民主主義」の虚空性から距離を置く「空っぽ」に関する,文学的・文化主義的な立論になっていた。

 星 亮一・安藤優一郞『東北を置き去りにした明治維新文芸社,2017年は,ある箇所で「安倍〔前〕首相に垣間見える聴衆人のおごり」(160頁)を指摘していた。日本国内の問題だけでも,それも明治以後の歴史を回顧しただけでも,そういった観点はいまもなお必要であり,有益である。

 星・安藤流にいえば「東北を置き去りにした」のも,天皇明治天皇:睦仁)だったとすれば,安倍晋三のあとを襲って首相になった菅 義偉が江戸時代の秋田藩久保田藩)のあった,現在の秋田県湯沢市(旧・雄勝町)の出身である点は,興味深い点:歴史の因縁である。こういう説明が,そのある点を簡潔に言及している。

 江戸時代,久保田(秋田市)を城下町とし,出羽国秋田地方を領した外様藩。関ケ原の戦いののち,1602年,鎌倉時代以来の領主秋田氏に代わって,常陸(ひたち)から佐竹氏が移封され,明治維新に至る。表高20万石。幕末の藩主義堯(よしたか)尊王攘夷派として活躍,戊辰 (ぼしん) 戦争に際して奥羽越列藩同盟に対抗して功を認められた。


 菅首相が所信表明で言い間違い連発…予算委 “火だるま” 必至」日刊ゲンダイ』2020/10/27,https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/280543

原稿を手に読んでいたのに…(26日,所信表明演説をする菅首相)/(C)日刊ゲンダイ

 ほとんどの国会議員が眠そうな表情を浮かべていた,〔10月〕26日の所信表明演説。案の定,スカスカの中身だった。しかも,菅首相は原稿を読みながら,いい間違いを連発する始末だ。これで本当に国会論戦を乗り切れるのか。さすがに,自民党内からも不安視する声が上がっている。国会は大荒れ必至だ。
 補注)安倍晋三君も日本語力に関して相当に「デンデン」されるべき総理大臣であったが,菅 義偉君の所信表明演説のほうも,かなりひどかった。この人,自著も公刊しているらしいが,どうも安倍君と同じに日本語の,とくに今回は読み方に課題(?)がある事実を,みずから暴露していた。その実力(無力)のほどと来たら,まともに中学生水準の漢字力を備えている生徒だったら,それこそ笑われるくらいにみっともない,それも読み違いではなく,どうやら読みそのものがあやしかった。

 共同通信の調べによると,〔10月〕26日衆参両院でおこなわれた所信表明演説で,菅首相は計6カ所もいい間違え。

 衆院では「重症者に重点化します」というべきところを,「重症者にゲンテン化します」と意味不明な言葉を発したほか,「薬価改定」を「薬価改正」と間違え,「打ち勝った」の「打ち」をスッ飛ばした。

 参院では「重症化リスク」の「化」をいい忘れ。さらに,「貧困対策」を「貧困世帯」,「被災者」を「被害者」と,まったく意味の違う単語に“誤変換”してしまったのだ。

 菅首相は〔10月〕19日,外遊先のベトナムでの演説でも「ASEAN(アセアン)」を「アルゼンチン」,「カバレッジ」を「カレッジ」などとありえないいい間違いをやらかしていた。

 実は,官房長官時代の2016年4月16日の会見でも,愛媛県の「伊方原発」を「いかたげんぱつ」と読むべきを,「いよくげんぱつ」と誤読。この時の様子は,現在,SNSで話題になっている。

 『原稿の中身を「消化」し切れていない』 総裁選のとき,散々「スピーチが下手」「討論ができない」と揶揄された菅首相。「自分の言葉」で語れないばかりか,用意された原稿すら読めないのでは,一国のトップは務まらないのではないか。コラムニストの小田嶋隆氏はこういう。

 「単純な漢字の読み間違えは誰しもありうることです。しかし,菅首相の間違え方は『誤読』レベルではありません。『ゲンテン化』『貧困世帯』『被害者』などは,もともとの言葉の意味とはまったく違う単語です。原稿の中身を消化し,自分の言葉にできていないから,このような間違え方をするのでしょう。首相就任後初の所信表明演説ですから,菅首相は事前に複数回,原稿に目を通したはず。事前になんど読んでも頭に入ってこなかったのだとしたら,能力を疑わざるをえません」。
 補注)それでも菅 義偉君に応えさせたら「問題ない」とか「その批判は当たらない」とか反論してくるのか(ね)?

 26日はいい間違えると野党席からヤジが飛び交った。衆院では,菅首相と全閣僚が出席する予算委員会が来週にも開かれる見通し。答弁に詰まったり,いい間違い連発なら炎上必至だ。

 「官房長官時代は何を聞かれても,『ご指摘は当たらない』『問題ない』と短く答えるだけで乗り切れましたが,総理答弁はそうはいかない。一言一句に気を配り,ていねいに答弁しなければ,野党の追及に火を注ぐことになる。

 くわえて不安なのが,2017年の『共謀罪』をめぐる国会審議で,『私の頭では対応できない』と答弁した金田勝年元法相が衆院予算委員長に就任したこと。野党に『ちゃんと答弁させろ!』などと詰め寄られたら,うまくさばけるのか……。自民党内でも不安視されています」(自民党関係者)。

 菅首相は高級ホテルの一室で秘書官と答弁の“猛特訓”をしたそうだが,まったく成果は出ていない。(引用終わり)

 いまさら菅 義偉君に対して「答弁の“猛特訓”を」させたところで,一朝一夕にそうはいくまい。それにしても,歴代の首相のなかでは安倍晋三君をのぞいての話だが,これほどいちいち国会での答えに窮する政治屋はみたことがない。こうなると俄然思いだすのが,つぎの ③ の出来事であった。つまりは,菅君には答弁とか議論とかする基本的な能力がなかった事実が,首相にもなったいま,さらに明白になったということであった。

 

 「『クロ現』降板の国谷裕子が問題の菅官房長官インタビューの内幕を告白! 『メディアが同調圧力に加担』との警鐘も」『リテラ』2016年4月14日 20:30,https://lite-ra.com/2016/04/post-2160.html〔~ 2160_4.html〕      

 a) 安倍政権からの圧力によって,23年間キャスターを務めてきた『クローズアップ現代』(NHK)を3月で降板した国谷裕子キャスター。最後の放送以降,国谷氏はメディアに姿を現わしていないが,実つは降板後初となる文章を,現在発売中の月刊誌『世界』(岩波書店)〔2016年〕5月号に寄せているのをご存じだろうか。

 しかも,国谷氏はこの寄稿文のなかで,あの “事件” についても言及。それは国谷氏のキャスター降板にいたるきっかけとなったといわれている,2014年7月に『クロ現』でおこなった菅 義偉官房長官へのインタビューだ。

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               補注)2020年10月26日,国会で。

 この日の放送は,閣議決定されたばかりだった集団的自衛権の行使容認について政権の要である菅官房長官に話を聞くという主旨だった。官邸としては格好の説明の場だと踏んだのだろうが,しかし,キャスターの国谷氏は厳しい質問を繰り出し,菅官房長官ならびに官邸は激怒。その後,政権側は『クロ現』のやらせ問題を隠れ蓑にして圧力を強め,最終的に国谷氏のキャスター降板まで追いつめた。

 b) それにしても,メディアへの圧力担当ともいえる菅官房長官に生放送で相対し,国谷氏はどのような心構えで挑んだのか。その思いを,国谷氏はこのように綴っている。

 インタビュー部分は14分ほど。安全保障にかかわる大きなテーマだったが与えられた時間は長くはなかった。私はこの憲法解釈の変更に,世論の中で漠然とした不安が広がっていることを強く意識していた。視聴者はいま政府になにを一番聞いてほしいのか。その思いを背に私はなににこだわるべきなのか。

 そして国谷氏は,菅官房長官集団的自衛権の行使にかかわる問題点をつぎつぎに質した。このときの国谷氏の質問内容はいずれも正鵠を射るものだった。国谷氏の仕事ぶりを振り返るためにも,以下に並べよう。

 「確認ですけれど,他国を守るための戦争には参加しないと?」

 「なぜいままで憲法では許されないとしてきたことが容認されるとなったのか,安全保障環境の変化によって日米安保条約だけではなく集団的自衛権によって補わなくてはならない事態になったという認識なのでしょうか」

 「憲法の解釈を変えるということは,ある意味では,日本の国のあり方を変えることにもつながるような変更だと思いますが,外的な要因が変わった,国際的な状況が変わったということだけで本当に変更していいのだろうかという声もあります」。

 「非常に密接な関係のある他国が強力に支援要請をしてきた場合,これまでは憲法九条で認められないということが大きな歯止めになっていましたが,はたして断りきれるのでしょうか」。

 こうした質問に対し,菅官房長官は「日米同盟の強化によって抑止力が高まる。それによって武力行使をせざるをえなくなる状況は大幅に減少する」などと詭弁を弄したが,国谷氏は一歩も引き下がらず,「戦争というものは,自国の論理だけでは説明しきれない,どんな展開になるかわからない危険を持っています」と指摘。菅官房長官の答えは「こちらから攻撃することはありえないです」の一点張りだった。

 c) そうして残り時間がわずかとなったところで,菅官房長官は「国会審議のなかで国民に間違いなく理解していただけると思う」と主張。だが,国谷氏はこのとき,もう時間は少ないと理解しつつも「再び問いを発していた」という。それは,こんな質問だった。

 「しかし,そもそも解釈を変更したということに対する原則の部分での違和感や不安はどうやって払拭していくのか」。

 この問いかけに,菅官房長官は「42年間たって世の中が変わり,一国で平和を守る時代ではない」といい,そのまま放送は終了した。国谷氏は「生放送における時間キープも当然キャスターの仕事であり私のミスだった」と振り返っているが,同時に,なぜ時間がないなかで,菅官房長官にさらなる質問を重ねたのか,その理由も述べている。

 なぜあえて問いを発してしまったのか。もっともっと聞いてほしいというテレビの向こう側の声を感じてしまったのだろうか。

 国谷氏が貫いたキャスターとしての矜持。当然,国谷氏もこのインタビュー後にどんな事態が起こるか,そのときすでに理解していたのだろう。事実,国谷氏は,「批判的な内容を挙げてのインタビューは,その批判そのものが聞き手の自身の意見だとみなされてしまい,番組は公平性を欠いているとの指摘もたびたび受ける」と綴っている。

 d) だが,視聴者の「知る権利」を守るための「公平性」とは,そのようなものではない。国谷氏はこうつづける。

 聞くべきことはきちんと角度を変えて繰り返し聞く,とりわけ批判的な側面からインタビューをし,そのことによって事実を浮かび上がらせる,それがフェアなインタビューではないだろうか。

 テレビというメディアの特性は映像がもつ力にある。しかし,それに頼ってばかりでは視聴者の想像力を奪ってしまう。だからこそ,国谷氏は『クロ現』において「言葉のもつ力」を大事にしてきた,という。さらに,国谷氏がめざしたのは, “一見わかりやすいことの裏側にあるむずかしさ” を提示するということだった。国谷氏のそんな「こだわり」が発揮されたのが,インタビューだったのだ。

 だが,番組づくりを通して国谷氏が直面したのは,「人気の高い人物に対して切りこんだインタビューをおこなうと視聴者の方々から想像以上の強い反発が寄せられるという事実」だった。これを国谷氏は “日本の社会に特有の,インタビューにたいする「風圧」” と表現する。

 風圧を最初に感じたというのは,1997年にペルーの日本大使館で派生した人質事件の後,来日したフジモリ大統領に行ったインタビューだった。

 インタビューの中心は “人質救出にいたったフジモリ大統領の決断” ではあったが,国谷氏はそれだけでは終わらせず,「憲法改正による大統領権限の強化や任期延長に疑問を呈した最高裁判事を解任するなど,大統領の手法が独裁的になってきたという声が出ているが」と質問した。

 結果,これが視聴者から多くの批判を受けることになった。その抗議の中身は「日本人を救出した恩人に対してなんと失礼な質問をしたのかという趣旨のもの」だったという。

 当時,人質を救出したフジモリ大統領に感謝したい,日本の恩人だという空気が広がっていた。そういう感情の一体感,高揚感のようなものがあるなか,大統領が独裁的になってきているのではとの質問は,その高揚感に水を差すものだった。しかし,大統領という人物を浮き彫りにするためには,ペルー国民の批判について直接本人に質すことは必要なことだった。

 e) 同調圧力と言うべき批判に対し,しかし国谷氏はインタビュアーとしての姿勢を曲げなかった。

 世の中の多くの人が支持している人にたいして,寄り添うかたちではなく批判の声を直接投げかけたり,重要な点を繰り返し問うと,こういった反応がしばしばおきる。しかし,この人に感謝したい,この人の改革を支持したいという感情の共同体ともいうべきものがあるなかでインタビューする場合,私は,そういう一体感があるからこそ,あえてネガティブな方向からの質問をすべきと考えている。

 ところが,この同調圧力はどんどんと強まる一方だ。国谷氏はこの寄稿文のなかで「メディアまでが,その圧力に加担するようになってはいないか」と疑問を呈しながら,武田砂鉄氏の著書『紋切型社会』(朝日出版社)のなかで取り上げられている「国益を損なう」という言葉を拾い,このように述べている。

 この言葉もとても強い同調圧力をもっている。本来ならば,どう具体的に損なうのかと問うべきときに,その問いさえ国益を損なうといわれてしまいそうで,問うことじたいをひるませる力をもっているのだ。

 同調圧力が強くなれば,その一方で「少数派,異質なものの排除」は進んでいく。そんな時代にあってメディアが果たすべきは,異質なもの,少数の声を掬い取ることや,大きな声に覆い尽くされてみえにくくなっている問題をあぶり出すことだろう。そう,国谷氏が『クロ現』でこだわってきた “一見わかりやすいことの裏側にあるむずかしさ” を提示する,という仕事がきわめて重要な意味をもつのだ。

 補注)その後,安倍晋三政権が長期化するなかで,同調圧力という問題に関していうと,このことばを単行本の書名につけたものまで公刊されていた。菅 義偉が官房長官として,ニュースキャスターの質問にまともに答えられず,かつまた自然に議論さえできない「政治屋」であった事実は,当時から明確になっていた。

 ところが,このようにNHKに圧力をくわえ,国谷裕子を舞台裏に追放する対応措置によって,「政権批判の質問そのもの」に政治弾圧的に答えるしか能のなかった「菅の政治〈家〉として有する本当の実力」のほどは,初めから高がしれていたことになる。

 いうなれば,「議論に対して無視か圧力」「正論に対して排除か弾圧」という政治手法(専制独裁)しかもちあわせない菅 義偉が,いまは首相の座に就いている。この段階に経った彼が初めて国会で演説したさい,内容を理解しているのかと問われる以前に,漢字すらよく読めていなかったという事実は,安倍晋三が原稿に書いてある漢字をよく読めなかったとき以上に,菅という政治屋の実力そのものが暴露されていた。

 f) しかし,その国谷氏は政治的圧力によって番組を降板させられてしまった。そしてこの,政権が報道を意のままに操るという異常事態を引き起こしてしまった一因には,メディアじたいがジャーナリズムの使命よりも既得権益を守るべきという同調圧力に支配されている問題がある。

 だが,政治的な問題を個人的な問題へと矮小化させ「自己責任」と切り捨てる空気や,それに伴う「政治的な話題は口にすべきではない」という空気,そうした社会に流れる同調圧力も無関係ではないはずだ。

 国谷氏はこの論考で,「直接情報を発信する手軽な手段を誰しもが手に入れ,ややもすればジャーナリズムというものを “余計なフィルター” とみなそうとする動きさえ出てきている」と分析し,それゆえに「人々の情報へのリテラシーを高めるためにも,権力をもち,多くの人びとの生活に影響を及ぼすような決断をする人物を多角的にチェックする必要性はむしろ高まっている」と指摘している。

 g) 国谷氏が去り,さらには膳場貴子古舘伊知郎といった職分を果たそうとしたキャスターたちも報道番組から消えた。いまや帯の報道番組は,無難を至上命題にするキャスターと本質をはぐらかそうとする解説者による,政権の広報番組かのような状態だ。もし,国谷氏がいう “権力者を多角的にチェックする” というメディアの使命がこのまま失われてしまえば,この国は民主主義国家とは名乗れなくなる。さらには,いまがそんな危機的状況にあることさえ,多くの人は気づいていない。

 国谷氏からの警告ともいえるこの文章を,放送人をはじめとするメディアに携わる人々は,ぜひ心して読んでほしいと思う。(水井多賀子)(引用終わり)

 あらためて確認しておくが,以上に引用した文章は2016年4月14日,いまから4年半も以前の記事であった。2020年の9月16日,当時まで官房長官であった菅 義偉が首相になった。ここまで,以上のような,さんざんにごまかしばかり重ねてきた自民党政権は,完全に「政治利権屋的な基本資質」を定着させていた。

 つまり,その「私物化・死物化・負の遺産化」政治の脆弱さは,これをとりつくろうためであれば,権柄尽くの為政でもってなんでもかんでもを隠蔽・捏造することしか考えつかない。この点においてこそまさしく,そのデタラメさ加減がいまの政権の本性として端的に現われている。

 そこで議論は,天皇天皇制の問題を,それもあらゆる日本文化の根源ととらえ,「文化概念としての天皇」の理念を説いた三島由紀夫の『文化防衛論』(1968年)までさかのぼる議論をした「宮台真司の問題提起」に立ち戻ることになる。

 本日〔2020年10月28日〕『朝日新聞』朝刊15面「オピニオン」に掲載された「〈耕論〉天皇のメッセージ  新型コロナ 御厨 貴さん,瀬畑 源さん,ピーター・バラカンさん」は,執権党の堕落・腐敗した日本の政治社会に対する「祓(はらえ,はらい)」を期待するかのように,3人の意見を紹介していた。

 なお,「祓(はらえ,はらい)」とは,神道の宗教行為で,天津罪・国津罪あまつつみ・くにつつみなどの罪や穢れ,災厄などの不浄を心身から取り除くための神事・呪術である。祓の神事をおこなうことを,修祓(しゅばつ,しゅうほつ)といい,一般に,神前での祈祷を,災厄除けの祈祷(本来の意味の「祓」)以外のものも含めて「お祓い」という。

 --東日本大震災直後,当時の明仁天皇上皇さま)は,国民にビデオメッセージを出した。令和時代の新型コロナウイルス禍では,天皇のビデオメッセージは出ていない。どう考えるか。

 1)「国難の渦中,姿見せ発信を」御厨 貴さん(政治学者)

 コロナ禍で日本は国難ともいえる状況にあるのだから,天皇陛下から国民に向けたビデオメッセージのような強い発信があってよかったのではないか。5月初めに全国紙に載ったインタビューで,私はそう発言しました。

 いまでもそう考えているかと問われたら,答えはイエスです。国民の前に姿をみせてメッセージを明確に発信した方がよい,と私は思います。

 ウイルスという目にみえない敵に襲われて,国民は前代未聞の異常事態に直面し,政府もどう対応すればいいか分からない状況が生まれました。天皇陛下がメッセージを出すことには十分に意味がある,と考えたゆえんです。

 補注)断わっておくが,御厨 貴は政治学者である。しかも21世紀における発言としてこうした “天皇への期待” を語っている。

 日本国憲法の規定からは脱線してでも,天皇になにかを期待する・しなければならないと発言した政治学者の「憲法観」は,さらにあらためて訊ねてみたい “なんらかの残滓” を抱えている。

 憲法第7条に当てはまりうるのが,御厨 貴のその意見であるのかどうか,明快には議論できていない。ただ彼は,そうしたらいいといっている。

 第七条 天皇は,内閣の助言と承認により,国民のために,左の国事に関する行為を行ふ。

  一 憲法改正,法律,政令及び条約を公布すること。
  二 国会を召集すること。
  三 衆議院を解散すること。
  四 国会議員の総選挙の施行を公示すること。
  五 国務大臣及び法律の定めるその他の官吏の任免並びに全権委任状及び大使及び公使の信任状を認証すること。

  六 大赦,特赦,減刑刑の執行の免除及び復権を認証すること。
  七 栄典を授与すること。
  八 批准書及び法律の定めるその他の外交文書を認証すること。
  九 外国の大使及び公使を接受すること。
  十 儀式を行ふこと。

 それでも,御厨 貴はこう説明している。

 そう思った背景には,2011年に起きた東日本大震災の経験がありました。あのとき当時の明仁天皇は,ビデオメッセージで国民に語りかけています。救援に取り組む人びとの労をねぎらい,皆で苦難を分かちあおうと訴える内容でした。そのイメージはいまも国民の心に残っています。

 補注)一般的な抽象論ではなく,具体的に「救援に取り組む人びとの労をねぎらい,皆で苦難を分かち合おうと訴える内容」のその後は,いったいどうなっていたか,御厨 貴は考えたことがあるのか?

 東電福島第1発電所の大爆発事故「跡」の後始末は,21世紀のすべての期間をかけても終わらない。いまも,残留する放射性物質の汚染が高度である地域に住んでいた被災地住民は,もう永久にそこには戻れない。

 社会基盤面の『復興』は現象的には盛んになされてきたものの,被災地そのものの『復旧』はそうとは評価できない。とくに住民たちの日常生活は大きく破壊されてきただけであった。そこへ「天皇のなんらかの役目」を期待する発想が割りこんできている。

〔記事に戻る→〕 コロナで政府の緊急事態宣言が発せられてから半年余り。震えるような緊張感こそ現状では薄れたかもしれませんが,長期化による苦難は深まっています。終わりが見通せないなかで一種の中間メッセージを出すことには,大きな意味があるはずです。

 ずっとマスクをつけたり自粛したりしてきた国民のことを,国民統合の象徴である天皇としてどうみているのか。皆の前に姿をみせながら,感じていることを率直に伝えればいいと思います。8月に全国戦没者追悼式で語った「おことば」にはコロナに触れたくだりも盛りこまれていましたが,国民の印象に残ったかどうかは疑問だからです。

 補注)「国民・統合の象徴である天皇」はコロナ禍の問題に対して,このように発言したらよいという発想じたいに,なにか問題はないのか? また,いまの令和の天皇徳仁)をかこむ宮内庁とこの官僚組織が,どのような特性を有しているかをしっての発言か?

 つまり,安倍晋三が首相だったときに,天皇天皇家に対してどのような,われわれにはみえにくい対応措置をしてきたかについて,まさか御厨 貴はしらないわけではあるまい。つまり,議論の方向性が単純きわまりなく,いってみれば,ほとんどミーハーの水準というか,週刊誌的な話法に終始している。

 もちろん,憲法天皇は政治的権能をもたないと定められているので,メッセージが政府などへの批判と受けとめられてしまう事態は避けねばなりません。それでも,語れることはあるはずです。メッセージが必要だと私が思う理由は,今後の象徴天皇制にとっては国民からの民主的な支持の有無が重要なカギになると考えるからです。

 補注)本来の意味で「民主主義」との親和性を問うことにしたら,もっとも基本のところでは,けっして融和性のない天皇制と民主政の問題とを,このように関連づける議論は矛盾を回避できない。そもそも「象徴天皇制にとっては国民からの民主的な支持の有無が重要なカギになると考える」ことじたいが,根本的に無理筋の発言である。

 その種の核心になるべき論点は,本当は,御厨 貴も承知しているはずである〔と思いたい〕。そう理解しておかないことには,御厨の議論に対してまともに耳を傾けることができない。正直いって御厨は,まことに奇異で独特な発想をしていると受けとめるほかない。

 もし新しい世代の人びとにとって「天皇はなんのために居るのか」がみえにくくなっていけば,「なぜ私たちの税金がたくさん皇室につぎこまれているのか」という疑問を無視できなくなる日が来るかもしれません。皇室が危機に陥るとしたら,それは国民が皇室への関心を失ったとき,無関心になったときです。

 補注)ここの意見,「新しい世代の人びとにとって『天皇はなんのために居るのか』がみえにくくなっていけば」という指摘は,あまりにも孤立した,それも独自的に過ぎる観方である。すなわち,現時点に則してのあくまで〈仮定の理解〉なのであって,それでは,『旧い世代』に属する人びとにとって,「天皇がなんのために居るのか」という理解が事前に十全に判っていたのかと問われたら,いくら御厨 貴でも,即座には答えられまい。

 国難にあたって「国民みんなで苦労を分かち合おう」と日本で説得力をもっていえる存在は天皇だけです。政治家は,どうしてもその人の政治的な狙いを勘ぐられてしまう存在だからです。これは君主的な人がいる国ならではの強みだ,と私は思います。(聞き手 編集委員塩倉裕
 
 --「天皇だから説得力のある発言ができる」という御厨 貴の意見は,没論理以前の決めつけであった。政治学者であっても,戦前・戦中の国粋主義ばりばりの学究が吐くような口調に似ている。「君主的な人がいる国ならではの強みだ」ともいっているが,最近におけるタイ国の王室問題に関する報道などを,御厨はどう観ているか?  
 ここでは,こまかい議論ができないので,ネット上からこういう文句をひとつ引用しておく。

 タイの若い世代は,王室とそれが象徴するすべてを疑問視している。これは長期にわたる内面的葛藤の始まりに過ぎないだろう。

 註記)「タイ王室めぐる家族の分断 親は崇敬,子どもは批判」『BBCNEWS JAPAN』2020年10月20日https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-54597853

 このニュースが伝える含意を,1951年生まれで,東京大学名誉教授(日本政治史),天皇の退位をめぐる政府の有識者会議で座長代理を務めた御厨 貴が理解できないとは思えない。ただし,日本ではタイのような動向は起こりえない。日本の若者層は天皇天皇制の問題を真剣に自分の問題として考えるようには,少しも教育されていない。

 2)「『国民の総意』見えず困難」瀬畑 源さん(龍谷大学准教授)

 結論からいえば,メッセージを出さないのはやむをえない,と思います。天皇がメッセージを出すという印象があるのは,東日本大震災で,当時の明仁天皇によるメッセージがあったからでしょう。でも,コロナ禍のなかでメッセージは作りにくく,出しにくいと思います。

 震災直後は「みんなで復興をがんばらなきゃ」とまとまりやすかった。でも,コロナウイルス感染が拡大する状況は「国民の総意」をとらえにくいように思います。コロナをめぐる政策の評価は分かれます。さらにコロナ禍は終わりがみえず,深刻な問題としてとらえる時期もそれぞれに異なります。そのなかで,メッセージを出すタイミングも相当にむずかしく,出しようがなかったのではないでしょうか。

 日本国憲法は,過去の歴史から天皇の行動を縛り,4条では「天皇は国政に関する権能を有しない」としています。その状況下で,明仁天皇はみずからなにができるのかを追求しました。天皇は国民とともにあることを示さなければ存在価値がない。そんなイメージは,明仁天皇が作り上げたもので,現憲法下でこれ以上はできない範囲まで活動を広げたように思います。

 メッセージを出すことも,明仁天皇が広げた活動領域のひとつです。特定の国民や個人をえこひいきせず,政治的ではない内容であれば,天皇がメッセージを出すことは「あり」と多くの人が納得している状況もあります。

 現天皇は,今〔2020〕年8月15日の全国戦没者追悼式での「おことば」で,コロナについて初めて公の場で言及しました。違和感を覚える場であっても,それほどコロナに関してなにかいいたかったんだ,という思いが伝わってきました。ただ,この発言がそれほど注目された感じはしません。ありがたいと思った人は当然いたでしょうが,反響はあまりなかったように思います。

 国民の多くはいまの皇室に対し,なんとなく敬意をもっていますが,メッセージを出してもらわなければ生きていけないという人もいませんよね。支持の内容が生温かいんです。一方,天皇にとっては,国民の役に立つと思えることがモチベーションにつながる側面もあるように思います。

 現天皇は,伝統の守護者であり,国民とともに歩む象徴像を追い求めてきた明仁天皇の姿勢を受けつぐと宣言しました。コロナ禍のなか,国民と直接触れ合い語りあうことができないいま,明仁天皇の姿勢をどのように引きつぎ,そのなかでどう変わろうとしているのか。もともと新しいことはできない皇室の環境で,手法としてネットに活路をみいだすこともひとつかもしれません。いまの皇室の活動をみていくことは,平成の皇室の検証にもつながると思っています。(聞き手・長谷文)

 --御厨 貴の意見のところまででもだいぶ長文の記述になったので,ここではつぎの点のみ触れておく。「新しいことはできない皇室の環境で,手法としてネットに活路をみいだすこと」は,はたして天皇の表現方法として適切がどうか,大きな疑問を感じる。

 3)「寄り添いより,正しい情報」ピーター・バラカンさん(ブロードキャスター

 生まれ育ったロンドンを離れて来日したのはいまから46年前でした。人生の3分の2を日本で暮らしたことになります。

 国籍はいまも英国です。危機が起きたときに君主や政治リーダーがメッセージを出して国民を安心させることがあるのはしっています。でも,僕はそういうものにあまり注目しない人間です。

 異なる二つの国で,僕は人生を過ごしてきました。自分のアイデンティティーはどこにあるのか …… 昔,よく考えた問いです。結論は「自分のアイデンティティーは国家とは関係ない」でした。

 メッセージを頼りにする人もいるでしょうし,意義がないわけではないとも思います。ただ,僕は王室を頼りにした記憶がないのです。エリザベス英女王は今回のコロナ危機でも国民に向けたビデオメッセージ(今〔2020〕年4月)を出していますが,僕はリアルタイムではみていません。

 そのビデオで女王は,医療関係者などコロナ対策を支えている人びとへの感謝の言葉を述べています。そうした人びとに拍手を送る普通の市民の存在も紹介していました。「私は国民に寄り添っていますよ」というメッセージを伝えるとともに,国民に危機克服への団結を呼びかける意図があったのでしょう。

 補注)Hillary Hoffower「ヨーロッパで最も裕福な王族 トップ10」『BUSINESS INSIDER』May. 19, 2018, 03:00 PM,https://www.businessinsider.jp/post-167344 という記事によると,イギリス王室の資産は不動産・アート・株などで構成されており,純資産:5億~6億ドル(約550億~660億円)だと推測されている。

 このイギリスの王室はヨーロッパで4位の裕福さを誇っている。また,女王エリザベス2世(イギリス)クラウン・エステートと呼ばれるバッキンガム宮殿や宝飾品といった大半の資産は,女王ではなく国に帰属するものだが,バルモラル城やサンドリンガム・ハウスは女王の所有であるという。

〔記事に戻る→〕 ユーチューブでそのビデオを観てて僕は,好感を抱きはしたものの,心理的な距離も感じました。そこにどんなに彼女自身の言葉が含まれていたとしても,公式の女王スピーチである以上,それはどうしても,背後にある伝統やそれを守ろうとする人びとの思惑に縛られるからです。

 そうした制約を崩すことができたリーダーはトランプ米大統領くらいではないでしょうか。いい意味で崩せたのなら,よかったのですが。英国ではメディアが王室を冗談のネタにもします。その点,日本ではメディアが皇室にすごく気を使いますね。天皇は戦後に神ではなくなりましたが,メディアの扱い方はそう大きくは変わっていないのではないでしょうか。

 補注)ということで,タイみたいに王室の問題をめぐって国民たちが問題を提起し,国を揺るがすような出来事は,日本では起きていない。

 2011年に東日本大震災が起きたとき,僕は東京で暮らしていて,原発事故による放射能汚染への不安と恐怖を感じていました。外出を控え,いよいよのときは車で東京から避難できるよう準備もしていた。そのさなかに,当時の天皇によるビデオメッセージがテレビで流れました。手元の原稿を読み上げる形式は映像表現として硬いなと感じましたが,型どおりでない言葉もそれなりには含まれていたように思います。

 ただ,あのとき僕がもっとも関心をもっていたのは,政府とメディアが原発危機について正確に伝えていないのではないかという問題でした。欲しかったのは天皇メッセージよりも,正しい情報でした。(聞き手  編集委員・塩倉 裕)

 --ピーター・バラカンがいいたいことは明らかである。天皇天皇制の問題それじたいを論じようとする意向よりも,国民の日常生活にとってみればもっと大切なことがあったのではないかと,この点を「3・11」の原発事故にかかわらしめて強調している。いうなれば,宮台真司が語っていた天皇天皇制にまつわる「空っぽ」性を,バラカンも,実は触れてみたかったのかもしれない。

 結局,天皇天皇制はナンゾヤ? この論点に対するまともな議論,真剣な討議がめだたなくなっているのが,21世紀のこの国。

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