学術会議の本質や歴史的使命をなにも理解できていない,もちろんその説明すらかなわない日本国首相の哀れさ
政権に反対する意見や批判する識者を,ただ排斥することしか考えられない「こんな総理大臣」の国に誰がした? はたして国民たち:有権者の責任なのか
要点・1 日本語すらまともに運用できない政治屋が日本国を壟断し,破綻させつつある惨状的な醜態
要点・2 学術会議を不要化させ,抹消したい自民党自堕落政権にとってこそ,この会議体は必要ではないか
① 菅 義偉が安倍晋三以上に日本語の使い方に慣れていない事実
a)「菅〔義偉〕氏が大震災追悼式で言い間違い 開式の辞で『きねん式典』」『西日本新聞』2019/3/11 18:45,https://www.nishinippon.co.jp/item/o/493351/
菅義偉官房長官は〔2019年3月〕11日の記者会見で,東京都内で同日開かれた東日本大震災8周年追悼式の開式の辞で「追悼式」というべきところを「きねん式典」といい間違えたと明らかにした。「訂正しておわび申し上げる」と陳謝した。
追悼式で菅氏は「ただいまから,東日本大震災8周年きねん式典を挙行致します」と述べた。会見冒頭で,みずからいい間違えを説明した。「きねん」が「記念」と「祈念」のどちらの意味だったかには言及しなかった。
補注)ところで,「ついとう式」と「きねん(記念・祈念)式典」というコトバ同士を並べるかたちで,なにか忖度的に記事に表現してあげる必要があったのか? 「追悼」と「記念・祈念」ではまるっきり違うコトバであるのに(発音もしかり),そこまで配慮して “なにか” をわざわざ,いってあげる余地があったのか?
ましてや,その「きねん」と「きねん」の違いまで挙げて差しあげて,これを材料に使い報道する記事に仕上げる必要まであったのか? まったくの忖度だらけの文章ではないか? 結局,漢字がまともに読めていないだけのこと……,ではなかったのか?
b) 「国民の期待は『そこそこ』 菅首相,言い間違いか-衆院本会議」『時事通信』2020年10月29日18時29分,2020年10月29日18時29分
補注)「笑いごと」でしょうか? いつから国会は小学校並み以下になっていたのか? 「そこ」がおかしい。
「国民の政権への期待もそこそこにある」。菅 義偉首相が〔2020年10月〕29日の衆院本会議でこう述べ,議場が騒然とする一幕があった。
首相の発言が飛び出したのは,衆院解散・総選挙に関する日本維新の会の馬場伸幸幹事長への答弁。新型コロナウイルス対策や経済再生に全力で取り組む姿勢を示すなかで,「国民の期待もそこにある」というべきところを間違えたとみられる。
自民党幹部は「原稿にはそう書いてなかった。いい間違いだ」と解説。一方,政府高官は「首相が自分で『そこそこ』だと判断したのではないか」と語った。この記事の途中には,「菅首相ツイートに疑問の声 つたない英文『自動翻訳?』」という記事の見出しにリンクが貼ってあった。
補注)そのつたないもの(対象)は,けっして飜訳アプリそのものではなくて,これを使ってみた人間のほうに備わっているはずの,自身の脳内に収まっている「お粗末なアプリ」のほうではなかったのか?
新型コロナウイルスに感染したトランプ米大統領夫妻に見舞いのメッセージを寄せるため,菅 義偉首相がツイッターに書きこんだ英文に対し,自民党内から〔10月〕7日,「英語のレベルがあまりに低い」などと問題視する声が上がった。
菅 義偉の英語力(?)はさて置いても,まず日本語力じたいが深刻なまでに問題あり,であった。そこでいままでの彼が,首相の立場で,どのように読み間違いを重ねてきたか確認しておきたい。
※-1「アセアン(ASEAN:東南アジア諸国連合)」⇒ アルゼンチン
※-2「カバーレッジ」⇒ カレッジ
※-3「伊方(原発)」⇒ いよく(げんぱつ)。これは,官房長官時代の2016年4月16日の会見であったが,その時の様子が現在(2020年10月),SNSで話題になっている。
c) 「首相,所信で言い間違い 『重点』を『ゲンテン』」『東京新聞』2020年10月26日 16時53分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/64356(共同通信 配信)
菅 義偉首相が〔2020年10月〕26日の所信表明演説で,新型コロナウイルス対策をめぐり,医療資源を「重症者に重点化します」というべきところを「重症者にゲンテン化します」といい間違える場面があった。野党席から,やじも飛んだ。閣議決定された原稿と共同通信が照合したところ,衆参両院本会議でそれぞれ行った演説中に計6カ所のミスが確認された。
衆院本会議では「減点化」にくわえ「薬価改定」を「薬価改正」と間違え,「打ち勝った」の「打ち」を読み飛ばした。参院本会議では「重症化リスク」の「化」を抜かしたほか,「貧困対策」とすべきところを「貧困世帯」,「被災者」を「被害者」とした。(引用終わり)
安倍晋三君(前首相)も日本語の読み書きの水準は,それはもう目もあてられないくらいに低飛行ものであったが,新首相の菅 義偉君もまた,一種独特に,きわめていい加減な日本語の読み方をしている。もしかすると「漢字(や片仮名やアルファベット)そのもの」が,自身の網膜にはうまく写っていないのではないか。
d) 菅 義偉君はあげくに最近は,最初に言及した読み間違い,「政権への期待,そこそこ? 解散否定後 首相,読み間違い」(これは『朝日新聞』2020年10月30日朝刊4面「総合4」での見出し)までしていた。
冒頭では『時事通信』が配信した記事を引用してみたが,この『朝日新聞』の記事のほうが,よりまともに報道していた。
「政権への期待もそこそこある」。〔2020年10月〕29日の衆院本会議で,菅 義偉首相が早期の解散・総選挙に踏み切る可能性を問われたところ,「解散については,新型コロナ対策,経済再生が最優先だ」と早期解散に否定的な考えを示したうえで,突如,自身の政権運営が「そこそこ」期待されていると発言した。
首相周辺によると,用意された原稿には「政権への期待もそこにある」と書かれていた。議場内の笑いやざわめきに気づき,壇上で苦笑いを浮かべて,「いずれにしても1年以内には衆院選挙をおこなう必要がある。時間の制約も前提によく考えたい」と締めた。
こうして『朝日新聞』が報じた記事を,『時事通信』は,「政府高官は『首相が自分で「そこそこ」だと判断したのではないか』と語った」と報じていた。しかし,この政府高官だという人物が申しわけした点は,講釈としては度が過ぎる。
要は,菅 義偉という首相は,日本語(原稿にかかれた文章)をまともに読むことに困難があるという事実が明らかになっていた。日本国総理大臣である彼の日本語力そのものが「要警戒である(相当程度に問題ありという判定がなされてよい)」ということだけは,明快になっている。
誰でも,いい間違いや読み違いはするものである。だが,菅 義偉の場合は,聞く立場のほうにしてみると,ひどく違和感をもたせていた。その「間違いの度が過ぎていた」。それだけのことであった。
② 総論(政治理念)不在,恣意的に選択した各論ならわずかにあっただけだった2020年10月26日の菅 義偉首相「所信表明演説」の形式的な偏狭さと内容の希薄さ
1)『日本経済新聞』10月27日社説は,菅 義偉の演説をとりあげて論説するにさいして,しっかり忖度しつつ批評していた。いいかえれば,ぬるま湯的な論説であって,かなり甘めの筆致に終始し,おまけに媚びへつらったかのような論評であった。
★〈社説〉大局観がやや希薄な首相演説 ★
=『日本経済新聞』2020/10/26 19:00(初掲)=
就任から40日間も時間があったにしては随分と素っ気なかった。菅義偉首相の初の国会演説は,デジタル庁新設などの政策課題を淡々と語る一方,人となりや大局観を感じさせる逸話はあまり出てこなかった。日本をどんな国にしたいのか。やや伝わりづらかったのではないか。
新首相の所信表明演説は長く記憶に残るものが少なくない。2001年の小泉純一郎氏は,長岡藩がなけなしの米を食糧とせず,学校を建てたと紹介し,改革への決意を印象づけた。爆発的な小泉ブームを巻き起こし,「米百俵」は流行語大賞を受賞した。
美辞麗句にばかり走られても困るが,菅首相の演説を聞き,共感を抱いた有権者はさほど多くあるまい。新型コロナウイルス対策や地方活性化などがほぼ同じ長さで並び,ほとんどの段落が「……してまいります」で終わった。
首相周辺は「役所が出してきた短冊をつなげたのではない」と力説するが,そう思われても仕方がない構成だった。
菅首相は安倍晋三前首相らと比べ,弁が立つ方ではないだけに,わざと実務的にしたのかもしれないが,それでは官僚の説明と大差ない。政治主導によって前例に縛られない政治を進めると標榜するからには,なぜ従来と違うことをするのかの説明責任を果たしてもらわなければならない。
補注)「菅首相は安倍晋三前首相らと比べ,弁が立つ方ではない」とは,どういう具合に聞いても,ただの悪い冗談にしか聞こえない。ましてや,そのように思い当たる節など,なにひとつあるわけがない。
そもそも「安倍晋三が弁が立つ方」(?)とは,いったいなにをいいたいのか? 安倍は国会のなかで「幼稚で下品なヤジを飛ばす」ことならば,そのように「弁が立つ」とかなんとかと,苦しまぎれにでも,いえないわけではない。
しかし,それにしても,ひどく理解に苦しむ「アベ・ヨイショ!!」の日経論説であった。というよりも,もとより論説にもなりえない駄弁が,勝手にのたうちまわっていた。
〔記事に戻る→〕 このことは,今後の国会論戦にも当てはまる。日本経済新聞とテレビ東京の世論調査によると,日本学術会議の新会員の任命拒否をめぐる政府の説明について「十分だ」は17%にとどまった。同会議の予算見直しには62%が賛成している。もっと上手に説明していれば,内閣支持率が11ポイントも急落しなかったかもしれない。
所信表明演説への与野党代表質問や衆参両院予算委員会では,くどいと思われるくらい丁寧な答弁を心がけるべきだ。演説であまり触れなかった財政や社会保障,憲法改正などに新内閣がどう取り組むのかも詳しく聞きたい。(引用終わり)
2) 以上の日経「社説」をつぎの『朝日新聞』社説と比較してみれば,基本的にずいぶん異なる論調である点に気づくはずである。日経は「これからに期待します」という調子になっているが,朝日は「逃げずに正面からいま答えろ」と迫っている。そうだとなれば,両紙「社説」論調の違いは対照的に明瞭である。
★〈社説〉初の所信表明 国民の胸に響いたか ★
=『朝日新聞』2020年10月27日朝刊 =
人目を引くキャッチフレーズは避け,実務重視で各論を積み上げていく。それが菅首相の流儀なのだろうが,就任後初めての所信表明演説としては,肩すかしというほかない。
菅政権発足から40日。ようやく昨日臨時国会が召集された。首相は演説の冒頭で新型コロナ対策と経済の両立を訴え,温室効果ガスの排出量を2050年までに実質ゼロにするという,安倍前政権までは打ち出せなかった新たな目標もかかげた。
しかし,大半は前政権からの継承と,デジタル庁の創設や不妊治療への保険適用,携帯電話料金の引き下げなど,首相が自民党総裁選時から訴えてきた諸施策の説明に費やされた。
内政・外交全般にわたり,ひととおりの言及はあるものの,全体を貫く理念や社会像の提示は十分とはいえない。
「『自助・共助・公助』そして『絆』」というお定まりの言葉はあったが,その内実は相変わらずよくわからない。首相が考える自助・共助・公助のバランスに照らすと,今後の社会保障や格差是正のあり方はどうなるのか。それこそが国民のしりたいところではないか。
首相の説明責任が問われているのに,今回の演説ではまったく触れられなかったのが,日本学術会議が推薦した会員候補6人の任命拒否問題である。
法の趣旨を曲げた恣意的な人事で,学術会議の独立性・中立性を脅かすことは許されないが,首相が真に現状に課題があり,改革が必要だと考えるのであれば,まさに所信表明のなかで,堂々とその根拠を示せばよい。聞かれなければ語らないというのでは,その問題意識がどこまで真摯なものか,疑わざるをえない。
語られなかったもうひとつのテーマが,来〔2021〕年1月に発効することになった核兵器禁止条約への評価である。
確かに,批准国の数が要件を満たしたのは直前のことで,演説の中身がほぼ確定したあとだった。しかし,唯一の戦争被爆国の首相が,この歴史的な節目にさいし,どのような見解を示すのかは,国際社会にとっても関心事だろう。前例にとらわれずに,が口癖の首相である。新たな事態に即応し,みずからの考えを示すべきではなかったか。
首相は演説の最後で「結果を出して,成果を実感いただきたい」と強調した。確かに政策の迅速な実現は国民にとって利点もある。だからといって,丁寧な説明や合意形成のプロセスをはしょっていいことにはならない。今国会の会期はわずか41日間である。あすから始まる論戦で,首相は逃げずに,正面から疑問に答える責務がある。(引用終わり)
菅 義偉という政治屋にあっては,本来,自分なりに抱いていたはずの,いいかえれば,政治家として独自の構想を示すために必要不可欠な政治理念そのものが,もとからなかった。
もともと「叩き挙げ」で,したたかな政治「家」がこの新首相:菅 義偉だと強調されていた。だが,その割りには,なにをいいたのかさっぱり伝ってこず,また,本当はなにをやりたいのかも不明瞭である。それでいて,国会における所信表明演説をおこなったのだから,さまざまに無様な中身が開陳されていた。
だから,そもそも国民・庶民に対して,いったいなにを訴えたいのか。この点がまともにはなにも分かりえない。スマホの料金を下げさせるのもいいが,それは国民生活全体をみわたしてみても,ほんの一部の話題でしかない。それよりも菅 義偉は,デジタル庁を創設してオーウェル流『1984年』体制を構築したいのである。
いままででもすでに,安倍晋三政権のもとで,特高(秘密)警察的に国民監視体制を敷いて,数々の悪業を重ねてきた事実もある(「内閣情報調査室は毎日,いま,なにをしているか?」)。こうした現在の政治体制であっても,率先協力するような『ゴミウリ(読売)新聞』も存在するとなれば,21世紀における日本であっても,実際には戦前・戦中とたいして変わらない世相が実際に発生させられている。
3) それゆえ『日本経済新聞』は4日あとの10月31日「社説」では,「政権目標への道筋が知りたい」と題した論説をかかげていた。さすがに前段に引用してみた10月17日同紙朝刊の「社説」では,もの足りないと感じたのかもしれない。
ともかく,こちら10月31日の社説も引用しておくが,注意しておきたい表現は太字にしておく。これを読んだところで感じるのは,菅 義偉は所信表明演説をもう一度,よく勉強しなおしてやりなおす必要があることである。
★〈社説〉政権目標への道筋が知りたい ★
=『日本経済新聞』2020/10/30 19:00(が 初掲)=
菅 義偉首相の就任後初めての国会論戦が本格化した。首相はデジタル社会の実現や温暖化ガスの排出削減に強い意欲を示す一方,目標達成に向けた具体的な手順の言及は少なかった。優先課題への取り組みを丁寧に説明し,議論をさらに深めていく必要がある。
国会は3日間に及ぶ衆参両院の各党代表質問を終えた。菅内閣は安倍前政権の半数近くの閣僚を再任し,重点分野に専門性がある閣僚を配置した。その割に政府側の答弁は紙を淡々と読み上げる場面が目立ち,迫力に欠けた。
野党が新型コロナウイルス対策や不妊治療,若者支援などの問題点を指摘しても,政府側が「適切に判断し,必要な支援を着実に実施します」といった答弁を繰り返すだけでは議論が深まらない。
政府は2050年までに温暖化ガス排出量を実質ゼロにするとの目標をかかげた。立憲民主党の枝野幸男代表は賛意を示しつつ,「原子力発電への依存を強めることがあってはならない」と強調した。
首相は「再生可能エネルギーのみならず原子力を含めてあらゆる選択肢を追求する」と語る一方,「原発依存度を可能なかぎり低減する」との考えを示した。政府はエネルギー源の構成をどうあらためるかを明確にし,民間の技術革新を強く後押しすべきだ。
枝野氏は新型コロナによる生活困窮者らの現状に触れ,「命と暮らしを守るうえで欠かせないベーシック・サービスをすべての皆さんに保障することだ」と提案した。
旧民主党がかかげた給付つき税額控除や日本版ベーシック・インカムとの関係や財源を含めて,くわしい全体設計をしりたい。
野党各党が社会保障や財政健全化の基本構想を明示すれば,1年以内におこなわれる次期衆院選の重要な対立軸になりうる。
野党は日本学術会議が推薦した会員候補の任命を政府が拒否した問題を引きつづき追及した。首相は人事についてすべてを明らかにするのは困難だと答えたが,任命基準などをもっと明確にすべきだ。(引用終わり)
以上のうち野党関連の記述はさておき,菅 義偉による所信表明演説の空虚さは否定しようがなかった。どだい,新しい首相になってからずいぶん長い間,逃げまわるようにして国会の壇上に立っていなかった(あのアベ君も国会からはよく待避することがあったが)。菅はともかく「首相になった自分」によほど自信がなかったとみうける。
4)だから『東京新聞』2020年10月27日「〈社説〉首相所信表明 国民の信頼得られるか」が冒頭で,つぎのように触れていたのは,あまりにも当然の指摘であった。
菅 義偉首相が所信表明演説をおこなった。内閣発足後40日が過ぎ,遅きに失した感は否めない。国民から信頼される政府をめざすというのなら,国民を代表する国会と誠実に向きあうことが必要だ。
しかし,菅 義偉にとって初めてとなったその所信表明演説は「総論なしの各論パラパラ」というきわめて貧弱な中身に終わっていた(誠実さゼロ)。この首相は学術会議の問題に関して「説明できるものと説明できないものがある」とかいっていたが,なにも説明をしない(正確にいうと説明そのものをまともにしていない)時点で,そこまで断定的にいってのける不躾さ(「政治家としての品性のなさ」)だけは一級品である。
菅 義偉のリクツは「説明できるもの」も「説明できないもの」も「説明しない」立場からのものになっていた。この点は,官房長官時代から一貫してきたド・ヘリクツ話法であった。彼は初めから一貫して,ひたすら権柄づくであった。すなわち,「答えにもなりえない」話法を常套としながら,しかも「相手を完全に無視する態度」しか採らなかった。
菅 義偉の学術会議の任命拒否問題をめぐっては,川勝平太静岡県知事が菅総理を「教養のレベルが露見した」と批判したことに抗議が相次ぎ(⇒それで川勝はその発言を謝罪した)という。
けれども,その後においても,菅自身が繰り返し披露しつづけた「教養のそのレベル(の実際の低さ)」は,その「レベルというよりもそのまた以前の次元において,その内容じたいからしてきわめて貧相・欠損だらけであった」事実が,つぎからつぎへと露見してきた。そうだとなれば,川勝はひるがえって「その謝罪を撤回しておく」のが筋であり,道理でもある。
『朝日新聞』のあるインタビュー記事には,見出しを「説明しない菅政権と絶対王政の共通点 任命拒否の科学史」とか題されたものがあった 註記)。
註記)「説明しない菅政権と絶対王朝の共通点-任命拒否の科学史」asahi.com 2020年10月9日,https://digital.asahi.com/articles/ASNB74K3YNB2UCVL01B.html
そもそも「モリ・かけ,桜を見る会」などの問題に関してからして,公文書を隠蔽・改ざんしまくってきたまま,いまもなおその事実の解明を妨害している前官房長官が,いまでは首相の地位にいる。となれば,どだい「説明できるも・できないもあったもの」ではなかった。それ以前における問題があって,この菅 義偉のみならずあの安倍晋三たちが,自民党極右・反動形成の政治集団以外のなにものでもない点,いうなれば「前近代的な政治体質」そのものの原始的な幼稚性が,まえもって問題にならざるをえない。
③「世界の民主主義ランキング 日本は民主国家? 独裁国家?」『世界を見える化するサイト ミエルカ』2020年5月23日,https://mieluka.com/144/
政治体制は国を特徴づける大きな要素である。われわれが暮らしている国が民主主義か独裁主義かによって,価値観や幸福度が大きく異なってしまうこともあるからである。しかし,実は,政治体制は民主主義か独裁主義のどちらかに単純に分けられるわけではなく,民主主義のなかでもより民主主義的な国と独裁主義に近い国がある。
また,単に選挙制度があるというだけで民主主義国というわけではなく,選挙が形骸化している国も多い。さらに,国名に「民主」や「人民」が入っているからといって民主主義国であるわけでもなく,むしろ,独裁主義国家ほど国名に「民主」や「人民」を入れたがる傾向にある。
ここでは,民主主義指数によって “2018年の世界各国の民主主義のレベル” をランキングにしてみた。民主主義指数はイギリスの週刊新聞『ザ・エコノミスト』の調査機関である「エコノミスト・インテリジェンス・ユニット(Economist Intelligence Unit)」が2年おきに発表している,各国の政治の民主主義レベルを評価する指数である。
評価項目はつぎの5点からなる。
選挙と多様性
政府機能
政治参加
政治文化
人権の尊重
スコアによって政治体制は,つぎの4つに分類される。
完全民主主義
欠陥民主主義
混合政治体制
独裁政治体制
以上までを引用してから,それでは日本はどこに分類されているかというと,次表を観てごらんのとおりである。日本は欠陥民主主義の1国であり,人びとによってはなにかと気にしたがる隣国「韓国」のすぐ下に着けている。
「昔,韓国は独裁国」(混合政治体制)であったはずだが……。現在では,日本とたいして変わらぬ順位,近いところに位置している。韓国が急に上げてきたのか,それとも日本がいつの間にか下げてきたのかといえば,両方の要因があった。
民主主義の「成熟度と実践度」に関しては,いろいろな指標を基準に使った判断が,あれこれなされている。それゆえ,前段に紹介した「日本の順位:そのもの」が絶対的な指標ではない。ひとつの判断として受けとめておけばいい。
ただし,以前の政権の時期(具体的には民主党政権時代,2009年9月~2012年12月)に対して,その後に登場した第2次安倍政権を比較してみたら,日本における「民主主義の質感」がいちじるしく悪化させられてきた実情が,ただちに感得できるはずである。
結局,安倍晋三が首相を務めたのち,菅 義偉が官房長官から首相になった時期,いいかえれば,2012年12月から2020年9月を経て現在までは,日本の政治の品質(品位・品格)が確実に劣化・腐敗するだけの過程になっていた。この事実は誰も否定できない。
------------------------------