安倍晋三がこの国の過去を壊してきたのに続き,菅 義偉がこの国の現在をさらに叩きつぶしつつある,自民党極右・反動政権が創ってきた「醜い国」はどこまでいくのか

 安倍晋三と菅 義偉は日本国の品位・品格をぶち壊し,日本の伝統・文化も溶融させ,いまや敗戦後の焼け野原同然である精神世界を目前に広がらせている

 この「美しくない国」の現状は,対米服属路線を完成させた安倍晋三が「得意だった外交」の成果らしいが,この国の内政をここまでひどく破綻させてきた「アベ⇒スガ」という2人の首相は,まさに売国・亡国かつ国辱・国恥の政治屋的な内閣総理大臣

 「▼▼屋,お主も悪よのう」!

 とりわけ,安倍晋三から自民党政権を受けついだ菅 義偉の政治屋としての人相はお代官様そのものであって,いまや水戸黄門の印籠が天から降ってくる必要がありそうである

 安倍晋三と菅 義偉に共通するある特性として日本語が不得意,不如意なことである。本日の話題はそのあたりから始まる

 

  須藤 靖東京大学教授・宇宙物理学)稿「〈書評〉『日本語を,取り戻す。』 小田嶋隆・著」朝日新聞』2020年11月7日朝刊面「読書」

 この書評にとりあげられた小田嶋隆『日本語を,取り戻す。』亜紀書房,2020年9月発行,1760円は,安倍晋三の日本語力の,そのあまりにも,つまり惨劇的に低水準であった「日本語を」,われわれ側がいまごろになってしまったけれども,意識的に「取り戻す」必要を論じているという。

 f:id:socialsciencereview:20201109103236j:plain

 補注)小田嶋隆の氏名は「おだじま・たかし」と読む。

 前段の最後を「という」と表現したのは,実は,本ブログ筆者はこの書評を読んだ時点(2020年11月8日)で,この本を発注した。それゆえ,この記述を書いている公表する時間内においては,現物が届きそうにはない。それでもこの書評を題材にして,本日のこの記述にとりかかってみた。

 ともかく,この書評を以下に引用しつつ議論するが,日本語の『問題という基盤』に載せて,「日本の政治社会」が現在,はまりこんでいる〈泥沼〉的な惨状が中心に語られている。

 この本は直接語られない話題であったけれども,今〔11〕月の15日ころに〔2泊3日の日程で〕来日するIOCの会長バッハと副会長のコーツは,延期になっていた2020東京オリンピックの件について,JOC:五輪組織委員会側や小池百合子都知事などと話あう(相談? 協議?)予定になっているらしい。

 その動静に関する日本のマスコミからの報道は,まったくもって微弱であって,そのほかに,関連して存在する「特定のユーチューブ動画元」(清水有高と本間 龍が解説・批判するもの)が,継続的・即時的に伝えている関連情報の提供以外,適切に事態の推移を教えてくれる情報源がなかなかみつからない。
 
 それはともかく,須藤 靖による小田嶋隆『日本語を,取り戻す。』の書評を,次段から引用していく。なお,途中で関連する議論を筆者なり挿入する段落もある。 

  ★ 空疎な説明は「非科学的」の典型 ★

 

 タイトルから,巷(ちまた)に溢(あふ)れる怪しげな日本語に警鐘を鳴らす本だと勘違いして読みはじめたところ,良い意味で完全に裏切られた。

 

 著者〔小田嶋隆〕がいままで発信してきたコラム33編からなる本書は,政治家の発言と,それをめぐる新聞社に代表される報道機関の記事が,いずれも理解できないほど劣化しているにもかかわらず,社会がそれに慣れっこになってしまった現状を,一貫してややシニカルにしかし論理的に憂えている。

 

 著者は安倍前政権に対してきわめて批判的であり,「いちコラムニストが,日本語の守護者として,安倍晋三その人と対峙(たいじ)してきたスコアブックの如(ごと)き書物になっている」と自認するほど。

 

 その批判じたいの妥当性は別として,問題の元凶がそこで用いられている日本語の空疎さと無意味さにあるとの著者の結論には激しく同意する。そのうえで,本書のタイトルは「科学的であれ」と同義だと解釈した。

 

 科学とは,専門家がむずかしげな知識を振りかざして,勝手な結論を押し付けるものではない。仮に自分にとって自明であろうと,誰もが納得できるような証拠を提示し,論理的にその結論を導く過程こそが科学。自分の主張とは一見矛盾するような事実であろうと包み隠さず,その解釈を論理的かつ徹底的に議論しつくすことが科学の方法論だ。

 

 いうまでもなくその方法論は,狭い意味での理系分野のみならず,社会のあらゆる局面で共有されるべきだ。それこそが科学的という言葉の本質なのである。「日本語が意味を喪失し,行政文書が紙ゴミに変貌(へんぼう)」「国民に対して,起こっていることをまともに説明しようとしない」は,非科学的姿勢の典型例だ。残念ながら,その体質は現政権でも踏襲されたままらしい。

 

 著者は,報道側もその異常さに慣れてしまい,政権に「忖度(そんたく)」し「追及しやすいネタだけ追いかけ回してないか?」と畳みかける。いま今こそその疑問をはね返すような報道を期待したい。

 評者の須藤 靖(東京大学教授・宇宙物理学)は,安倍晋三政権の時期に養育されはじめ,りっぱに成長したこの日本国の為政全般にまつわる「非科学的姿勢の典型」性が,現政権の菅 義偉ににおいても,そのまま継承されてきたと判断している。

 そこで,小田嶋隆が別に書いているというコラムを探してみたところ,『日経ビジネス』(ONLINE 版)のなかに,菅 義偉に関する記述があった。著書の『日本語を,取り戻す。』の発行年月は,2020年9月10日であった。このときはまだ安倍晋三が首相であり,9月16日に菅 義偉が首相になっていた。それ以降につづけて小田嶋が『日経ビジネス 』同誌に書いていた文章は,早速,菅 義偉の「為政ぶり」をとりあげ,批判する作業に移っていた。

 小田嶋隆が『日経ビジネス』の,2020年10月9日と10月16日に寄稿していた2編があった。ここで,その2編を併せていっしょに紹介すると長くなりすぎるので,まず10月9日の記述だけを紹介しつつ,同時に本ブログ筆者の議論も添えておきたい。こちらの「日本国・民に関する〈政治心理〉分析」だけでも,たいそう示唆的な内容になっている。

 

  コラムニスト小田嶋隆「かくして,全国民がダサくなる」日経ビジネス』2020年10月9日,https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00116/00089/〔~ 00089/?P=5〕(全6234文字)

 a) 菅 義偉総理大臣が,日本学術会議の会員候補105人のうち6人の任命を拒否したことへの反発は,意外な方向に広がりつつある。当事者たる学問の世界の人間が抵抗するのは当然なのだとして,反発の声は,映画人や出版界にも飛び火し,ネット上では署名運動もはじまっている。もっとも一方では,抗議や反発の動きを牽制する声も高まっている。

 ……と,ここまでは,よくある両睨みの定型的な書き出しなのだが,当稿では,反政権派でも政権支持層でもない第三極の人びとに注目するつもりでいる。というのも,日本人の大多数は,その第三極に当たる洞ヶ峠で,静かに事態を眺める態度を選んでいるように思えるからだ。

 重要なのは,サイレントマジョリティーの真意が「沈黙」それじたいのなかにあるということだ。

 b) どういう意味なのか説明する。思うに,うちの国の静かなる大衆は,どうやら,学問の自由を防衛しようという声にも,倒閣運動に反発する声にも耳を傾けていない。つまりわれわれは,いつの間にやら「どちらの側にも立たない私たちは,誰の味方でもありません」式の,こと事なかれ主義の権化みたいな人間たちに変貌してしまっているのだ。

 実際,世論調査の数字は,長らく「支持政党なし層」を最大多数とする結果を提示し続けている。これは,「特定の政党を支持してる人たちって,なんかきもち悪いよね」という時代の気分を代表する声なのだろう。菅政権の支持率の予想外の高さも,おそらくはこの気分を反映したものだ。

 新たに発足した政権がいきなり7割を超える支持率を獲得したことの意味を,例によって,うちの国の国民が「新しい家具であれば,どんな安物のベニヤ板で作られていようとも,とりあえず歓迎することにしている」というお話の一環として説明する声があることはしっている。

 補注)菅 義偉の政権が「安物のベニヤ板」? 本当のところは,段ボール箱製の仮政権ではなかったか? この政権は100日しかもたないとする題名を称する本も出されているのは,偶然ではあるまい。

〔記事に戻る→〕 私も,半分ほどは,そのとおりなのだろうと思っている。わが国民はなんであれ新品が好きだし,なかんずく,高度成長期の中で育った中高年は身の回りのモノを買い替える動作に嗜癖しているからだ。

 とはいえ,国会も開会していなければ,施政方針さえ明らかにしていないないないづくしの新政権に,これだけの支持が集まる理由は,「評価」というよりは「期待」ないしは「祝福」であるとみるのが穏当なところだ。

 c) さらに重要なのは,その「期待」なり「祝福」なりの背景に,「ことなかれ主義」が影を落としていることだ。

 具体的には「とにかくグダグダ文句をいわずに,しばらく様子をみようじゃないか」という「静観」こそが,もっともクールかつ賢明な態度だとするスタンダードが「令和」の日本を席巻しているわけだ。そう思ってみと「令和」という文字面からは,なるほど「静観」のニュアンスがそこはかとなく漂っている。

 そもそも揉めごとやいい争いを好まない人びとであるわれら日本人の多数派は,戦闘的な人びとの間で戦わされている議論に忌避感を抱いている。議論の中身を検討する以前に,「政局」や「論争」じたいにうんざりしているのである。

 補注)こういう民族「観」,いいかえると「そもそも揉めごとやいい争いを好まない人びとであるわれら日本人の多数派」といった認識方法は,はたしてどこまで妥当か? いまの政権は「その少数派だ」という解釈をしておけば,そのままで済ませられていられる問題なのか,という疑念が生まれる。

 というのは,菅 義偉はその「揉めごとやいい争いを好まない人びと」の1人では,けっしてないのである。現在,権力の座に就いている菅は,好んでもめごとや争いごとを起こしてきた。そのさい,自分の立場が絶対に・完全に勝利するというみこみを抱いて,率先して起こしている。

〔記事に戻る→〕 しかも彼らの厭戦気分の矛先は,どちらかといえば,尻尾を出しつづけている政府の側ではなくて,政権担当者の些細な行き違いや失策にいちいち唇をとんがらせていいがかりをつけている野党および反政権の人々の口吻に向けられている。

 「なんか,やたらと正義だの理想だのをいい立ててるあの人たちって,苦手だなあ」と。であるからして,今回の首相による任命拒否問題への反発の声も,またぞろ同じメンバーによる毎度おなじみの,コメカミに青筋を立てた形のヒステリックな倒閣運動なのであろうと思われている。

 そうしたシラけた声を代弁しているのが,つぎのツイートである。

 「なんで,いま,みんな日本学術会議に関心をもっているの? 新政権のツッコミどころだからというだけでしょう。もともとほとんど関係ないうえに興味もなかったじゃない。ぼくだってそうで,たぶん1,2回ほど部会のシンポジウムかなにかで話したことあるけれど,はっきりいえば関係ない」。

 e) この西田亮介氏による発言を「政権擁護のための策動」と決めつけるのは,早計だ。おそらく,西田氏のような若い世代の研究者のなかには,「学問の自由」であるとか,「民主主義の大原則」であるといったような,「崇高な理想」だったり「美しい理念」だったりするものに加担したり,それらの青臭い「ガクモン」の世界の約束事をおもてだって口にすることを,恥ずかしがったりするマナーが共有されているのだと思う。

 であるからして「いや,別にオレ,そういう高らかなお話とか興味ねえし」,てな調子で,「プリンシプル」だの「規範」だのに対しては,とりあえず距離を置いた態度をキメておくのが定石であるわけだ。

 補注)このとらえ方には賛成できない。すでにそのように “万事において停頓している意識水準” が控えているせいで,日本の民主主義の程度(お里)がしれている面があったし,そもそも,当初から若手の学究が学術会議の存在意義に気づいていない。

 「自由,原則,理想,理念」などといった概念とはもともと無縁であるという以前に,あえて政治に対して意図的に距離を置いてみたり,あるいはまた,それらの漢字コトバの意味とは無関係に日常生活を過ごしているかのように振るまったりする人びとの存在じたいが,必ずしもこのまま許容されていていい,ということにはなるまい。

 というのは,庶民の立場にあっても「明日はわが身」だからである。この関連する問題点は歴史の事実として経験済みであった。それゆえ,この「わが身」性を忘れてしまったとはいわせない。本当にその事実をしらないというならば,もう一度,過去の記録を読んで,学習しなおす努力が必須である。

〔記事に戻る→〕 とはいえ,学問の自由を脅かされている当事者であるほかならぬ学者さんが,こういう斜に構えた感慨を漏らしたことに対しては,せめて失望の声くらいは上げておかないと筋が通らない,と,私のような戦後民主主義金科玉条として教えこまれてきた世代の人間は,どうしてもそう考える。

 で,私は,

 「私も,日本学術会議じたいには関心をもっていない。ただ,日本学術会議の人事に政府が介入した事件には当然のことながら関心を抱いている。これはたとえば,伊藤詩織さんご自身にはほぼ興味をもっていなかった自分が,彼女の性暴力犯罪被害とその告発の行方に関心を抱いているのと同じ話だと思う」

と,引用RTのかたちで,西田氏の tw に向けて,ベタな回答を投げかけている。

 斜に構えた若い人には,まっすぐな態度で臨まないといけない。まっすぐにものをいうことは確かに照れくさいことではある。しかし,ナナメに傾いてばかりいるといつしか視界までもが歪んでしまう。このことを指摘するために,年長者は背筋を伸ばして発言せねばならない。そういっている本人の根性が,本当のところは曲がりくねっているのだとしても,だ。

 補注)さて,学術会議の前会長であった山極寿一は,学術会議新会員6名拒否の問題について,こう述べていた。少し長いが,引用しておく。

   ◆ 人事めぐる事前調整「なかった」 山極前会長が首相答弁に反論〈学術会議の任命拒否〉◆

   =『東京新聞』2020年11月7日 05時50分,https://www.tokyo-np.co.jp/article/66779

 

 学術会議の間で人事の事前調整がなかったのが,会員候補6人の任命拒否の理由だとする菅 義偉首相の国会答弁をめぐり,当時会長だった山極寿一・京都大前学長は東京新聞の取材に応じ,「事前調整というのは,相互が話をして調整するもの。私は(杉田和博官房副長官と)直接会うことも電話で話をすることも,事務局長を通じて断わられた。話しあいたいとの官邸からの誘いもなかった」と反論した。大西 隆・元会長ら歴代幹部も調整を否定するなど,菅氏の発言に批判が相次いでいる。

 

 1)官邸が「うわさ」として注文,山極氏「忖度したくない」-山極寿一前会長の反論。

 〔11月〕5日の参院予算委員会で,菅氏は「以前は正式な名簿の提出前に,内閣府の事務局などと会議の会長との間で一定の調整がおこなわれていた」と発言,「(任命拒否があった)今回は推薦前の調整が働かず,結果として任命に至らない者が生じた」と述べた。会議による候補推薦の法的位置付けについても「推薦を尊重しつつも任命権者として判断する」と,首相に裁量の余地があるとの認識を示した。

 

 これに対し,山極氏は「(内閣府日本学術会議事務局の)事務局長は105人の(推薦者)名簿を提出前に杉田さんにみせていると思う」と指摘。そのうえで「(官邸側から)なにかいわれたとの話が伝わってきたが,直接いわれていない。官邸側が『うわさ』として注文を付けて,こちらが名簿の構成を変えれば,官邸は『なにもいっていない。会議が自主的にしたことだ』というだろう。そんな忖度はしたくない」と,会員の選定人事に介入しようとした官邸側の姿勢を批判した。

 

 2)大西氏も「事前に調整したこといっさいない」

 一方,菅氏から「一定の調整がおこなわれていた」と指摘された大西氏も取材に応じ,「官邸に事前説明はしたが,要望を受けて選定過程も含め,事前になにかを調整したということはいっさいない」と反論,「2016年の補充人事では官邸が難色を示したが,選考委員会で議論し『官邸の要望は受け入れられない』と判断したまで。調整をしたとは思っていない」と回答した。

 

 大西氏と同時期に選考委メンバーだった別の幹部も「首相は,調整は会長と『内閣府の事務局』との間でおこなわれたといっているが虚偽だ。会長と事務局が人事で実質的なやりとりをすることはあり得ず,相手はあくまでも杉田副長官。杉田氏を表に出さないために『事務局など』と姑息な説明をしている」と指摘した。 

 ここで,つぎの人物画像数点を観てもらう。歴史上の人物になっているが,まず岩倉具視である。

f:id:socialsciencereview:20201109094603j:plain   f:id:socialsciencereview:20201109094719j:plain

   f:id:socialsciencereview:20201109103109j:plain

   補注)男の顔は履歴書であるといわれる。この岩倉具視の人相・面倒は,徹底して「悪相・凶顔」である。伊藤博文は若いときテロリストであったが,対してこちらの男,岩倉具視は,たちの悪い知恵で明治維新を引っかきまわし,その意味では,アナーキストであった側面ももっていた。

 岩倉具視というこの人物は,明治維新の立役者の1人であったが,その維新史のなかでは一番暗い部分を抱えていた。京都の公家のなかでも最下級のこの岩倉具視が,いったいどうやって明治の偉人になれたかという議論を詰めていったら,はっきりいってろくでもないものしか姿を現わさない。

 つぎが菅 義偉首相であるが,すでに「スガーリン」というあだ名が謹呈されていた。この顔つきは「葵の紋章」でスキャンしてみると,いろいろと反応があるはずである。まだ,スターリンのほうがかわいいというか,愛嬌でもありそうにみえるところが,不思議……。

 f:id:socialsciencereview:20201109094933j:plain

 補注)たとえば,テレビ番組で『水戸黄門』を放送するさい,この人相・面相の役者がいたとして,はたして「助さん」や「格さん」の役に使えるか? 否である。やはり「悪・代官様」あたりが順当。つぎの画像は参考まで。

 

 f:id:socialsciencereview:20201014140541j:plain

 f) さて,私がこの場を借りて強く訴えたいのは,学問の自由それじたいではない。まわりくどいいい方になるが,私は,「学問の自由を守ろうとする心がけの大切さ」ひいては「人びとが理想を抱き,それをかかげることがいかに不可欠であるのか」を強調したいと考えている。

 というのも,21世紀にはいってからこっちの永久不況の中で生まれ育った人びとによる世論の大勢は「いや,理想は理想として素敵滅法なんだろうけど現実はさ……」だとか,「まあ,ガクモンの自由っていわれたらそりゃ,タイセツにいたしましょうってなことになるんだろうけど,コトは税金の投入先の問題でもあるわけで,だとしたらここは一番現実的なところを優先すべきだと考えるわけですよ,お花畑の理想主義者じゃないオレみたいなヨゴれた人間は(笑)」といった,大人ぶった振る舞いに落着しつつあるように思えるからだ。

 ついでに申せば,この種の浅薄なシニシズムは,その後にやってくる苛烈な全体主義を導くための案内役ないしは先兵として機能する決まりになっている。このことは人類の歴史のなかでなんども証明されてきたことだ。

 とすれば,

 「長いものには巻かれろっていうし」
 「寄らば大樹の生命保険ともいうよね」
 「だからオレは政府のやることにはとりあえず賛成だよ。徴兵の一歩手前まではなんであれ」
 「だよな」

という感じの肩をすくめた空気に対しては,年長者が背筋を伸ばしたかたちの青臭い説教をカマしておかなければならない。なぜというに,青臭さが年寄りの特徴になってしまっているような社会に,マトモな未来がやってくる道理はないからだ。

 g) そんなわけで,首相が日本学術会議による推薦名簿の内容をそのまま任命するのは,長年守られてきた慣例である以上に,法律の定めるところでもあれば,国会答弁で時の政府が明言していたところでもある。この慣例を覆すためには,しかるべき手順を踏んだ法改正が必要だし,そうでなくても最低限の説明責任を果たすことが求められるはずだ。

 「前例踏襲で良いのか」という菅総理の発言は「改革」と「横紙破り」を同一視する暴言と受け止めるほかに解釈のしようがない。論点をそらして,学術会議の権威的体質がどうだとかいった話は論外だ。仮に学術会議のガバナンスやメンバーに問題があるのだとして,それは会議のメンバーが自分たちで解決すべき問題だ。

 同じく論点そらしとして,学術会議に国庫からの支出(すなわち税金)が投入されていることを問題視する議論がある。ここでいわれる「税金が使われている以上,国民から選ばれた政治家による適切な指導と監督がおこなわれるべきだ」というお決まりの論法は,バカげたポピュリズムの行き着く先に過ぎない。

 どこの国のアカデミーであれ,国の補助金を受け取りながら,政府から独立したガバナンスで運営されている。それこそが学問の独立であり,政治権力からの独立を勝ちえ得ていない学問は飼い犬の芸に過ぎない。

 学術会議が軍事研究を禁じていることを問題視する議論もあるが,この件も政府が人事に介入して良い理由にはならない。中国をはじめとする仮想敵国の影響や策動をうんぬんする意見は,ネット内に蟠踞する排外主義者による妄言であって検討にすら値しない。

 といったあたりの定型的なお話は,ここでは,ひとまとめに箇条書きの形で列挙しておくにとどめる。ここに書き並べたお話は,私のような素人がくどくど繰り返すまでもなく,さまざまな媒体で,その道の専門家がより論理的な書き方ですでに説明してくれている。興味のある向きは,そちらを参照していただきたい。

 h) 私が書いておきたいのは,菅総理による人事介入が法律的に間違っていることや,政治的にゆき過ぎであることや,学問の自由を侵害する暴挙であるといった当然の指摘とは別の,もう少し感覚的なお話だ。

 というのも,私がこれからもち出すような一向に論理的でないお話の方が,令和の日本人の最大多数であることなかれ主義の支持政党なし層の心情に,より直接的に響く気がしているからだ。

 なんというのか,菅さんの今回の一連のやりざまは,なによりもまず「ダサい」のである。ここのところが私の強調したいポイントだ。いい方としては,「みっともない」でも「見苦しい」でもよいし,その他「醜い」でも「醜悪だ」でもかまわない。

 だが,ともあれ,一番ふさわしいいい方が「ダサい」という直截な断言である点は,動かない。なにがダサいのかといって,その権力誇示の方法がどうにもセコい。105人選ばれたうちの学術会議のメンバーのなかから,政府に対してネガティブな発言を明らかにした実績をもっている6人を選んで,その人びとの任命を拒絶するという,その持ってまわったやり口の陰険さが極めてダサい。

 補注)ところで,そのダサさはいったいどこから湧いてきているのか? それは,警察官僚出身の高級国家官僚たちが主に,菅 義偉を補佐し,この政権の「中枢・運営」を支えているからである。こちらの高級国家官僚たちは,公安警察が世の中をとりしまるための観点でもって,日本社会全般の動きを把握しようとする。というよりは,そのような立場でしか社会の仕組をみようとしない。

 学術会議新会員拒否の件でその黒幕となっている「実質的な補佐官」は杉田和博である(正式な地位は「官房副長官」である)が,われわれが常識的な次元で保有する触覚とはまったく別次元の感性で,つまり,何事に対しても何人に対しても,現政権(菅 義偉)の意向に反対したり批判したりする者は,無条件に「けしからぬ奴」「要警戒対象の人物」とあいなる。

 しかし,首相官邸に詰めている彼ら警察官僚たちは,あくまで「首相の補佐官」であって,政府や内閣の要人ではけっしてない。国民・有権者が選挙で選んで国会や官邸に送りこんでいた人たちではない。

 菅 義偉の首相としての学術会議問題に対する発言を聴いていると,この会議に新会員として推薦された6人の学究たちが,いったいどのような研究をしているのかについて,その概略(おさわりの程度)すら理解していない(聞かされていないか,聞かされていても,今回の問題に限っては性質上,なにも理解できていなかった)。

 だから,国会の当然で二言目に出てくるお決まりの応答は「人事に関することがらは具体的にいえない」と拒否する態度であった。もともと,学術会議新会員の6名を排除した理由がどこにあったかは明々白々であった。

      ◆ この記事のみそは「複数の政府関係者が明らかにした」点だ! ◆
  =『半歩前へ』2020年11月08日,https://kot8asb9070.at.webry.info/202011/article_79.html

 

 政権批判が任命拒否の理由だということは分かっていた。官房副長官杉田和博が指示して関係者の「思想調査」をやっていたからだ。杉田は警備・公安担当の警察官僚上がりで安倍内閣の時代から「官邸のゲシュタポ(秘密警察)」と呼ばれている。共同通信のこの記事のみそは,「複数の政府関係者が明らかにした」という点である。

 

 首相官邸日本学術会議の会員任命拒否問題で,会員候補6人が安全保障政策などをめぐる政府方針への反対運動を先導する事態を懸念し,任命を見送る判断をしていたことが〔11月〕7日,分かった。

 

 安全保障関連法や特定秘密保護法に対する過去の言動を問題視した可能性がある。複数の政府関係者が明らかにした。菅義偉首相は国会審議で6人の任命拒否に関し「個々の人事のプロセスについては答えを差し控える」と繰り返し答弁。

 

 拒否理由は今回の問題の核心部分となっていた。日本学術会議法は会議の独立性をうたっており,政治による恣意的な人事介入に当たるとして,政府への批判がさらに強まる可能性がある。

 i) おそらく,菅さんにしてみれば,70%超の支持率をえて出発したことで,「これくらいはやってみせてもよいだろう」と考えての踏みこみだったのだろう。その,世論を上目遣いで眺めた仕草がまたダサい。

 で,かねて圧力をかけたいと考えていた学術会議に対する示威行為に出たわけだが,その手口がまた猛烈至極にダサい。まるで,掃除を終えた嫁に向けて,姑が障子の桟を指でなぞってみせるみたいな底意地の悪さだ。

 ちなみに,いま私が書いた「障子の桟をなぞる」動作は,昭和のホームドラマでは定番だった「姑根性」の描写なのだが,40歳以下の読者にはいまひとつピンと来ないかもしれない。

 「あら,ミチコさん。障子の桟にこんなにホコリが積もってますよ。あなたは育ちがおよろしいからご存じないのでしょうけれど,宙を舞っているホコリは,思わぬところに積もるもので,それをハタキで丁寧に落としてから雑巾をかけるのが,家を守る主婦の最初の心がけなのですよ」

 というセリフを,決して口には出さずに,それでいて,片眉を上げ,半眼の目にモノをいわせるのが,姑の姑たるところで……,総理大臣たる人間が,そんな昭和の姑の嫁いびりじみた陰気陰険陰湿な手口でアカデミアに圧力をかけているその手法と心根が,どうにもダサいと,そのことを私は先ほどから申し上げている。

 j) いいわけもダサい。「法解釈は変わっていない」といういい草は,説明を拒否したいがための強弁だ。変わっていないのなら拒絶できるはずはないのだし,変わっているのであれば,変わった理由と変えた根拠を説明せねばならない。要するに,説明できないだけの話ではないか。

 補注)菅 義偉はそれでいて,「説明できないこと」と「説明できること」があるなどと,実にたわけた,他者を小バカにしたヘリクツにもなりえない舌先三寸だけは,コトバにしていた。

 「前例踏襲で良いのか」というほのめかしは,一部の改革教徒に向けたポピュリズム丸出しの言明にみえる。「(学術会議の)総合的・俯瞰的な活動を確保する観点から,今回の任命について判断した」という回答に至っては,日本語としての意味すらなしていない。

 補注)すでに判明している事実であったが,菅 義偉の日本語力は安倍晋三に勝るとも劣らない水準(実質)であった点に向けては,すでにあちこちから批判の矢が集中していた。

 仮に,任命を拒んだ6人が「総合的・俯瞰的な活動を確保する」ための妨げになると判断したのであれば,その6人のどこがいったいマズいのかをきちんと説明しなければならないはずだ。

 私の耳には,「総合的・俯瞰的」は,「具体的・個別的」な説明を回避するためにもち出してきたいい方にしか聞こえない。というよりも,勉強のできない中学生が大人ぶったいい方で大人をダマそうとしているようにみえる。

 そこのところがはてしなくダサい。

 k) きちんと目を開いてものをみることさえ面倒くさがっているような目つきで,「総合的・俯瞰的」だとかいう,まるで自分が賢い人間であるかのような言明とともに敢行したのが,今回のこれ見よがしな恫喝であったのだからして,そのマッチョぶりのダサさは筆舌に尽くしがたい。

 やくざの事務所から30メートルほど離れた路上で,聞こえない声量できょろきょろしながらいいがかりをつけているみたいな,みているこっちが恥ずかしくなるほどのダサさだ。これ以上書くのは不毛なのでやめておく。

 補注)われわれ(国民・庶民たち)が現実に相手にせざるをえないでいる相手は,政権を正式に組んでいても,全有権者の「25%にしか支持されていない自民党」であった。しかも,この自民党と組んで現政権を維持してきたのが,政党としては格別に無節操である「創価学会の下部組織:公明党」であった。

 日本の政治の内情はいまでは,けっして,ヤクザを大々的に相手にするような政治の過程になっていない。現在まで,安倍晋三政権から菅 義偉政権にかけてだが,より深刻な問題なってきた政治の現実(「私物化・死物化・負の遺産化」の為政)は,いうなれば,宿痾的に拡大再生産させられるばかりであった。

 いまの日本の政治の進路を本気になって変えさせえないかぎり,すでにファシズムの玄関口まで到達している現状そのものすら阻止できない。実はすでに,現政権の本性を比喩的に表現するとしたら,『国家そのものがヤクザな組織(自公野合政権)に取ってかわられている』と形容するのが,一番似合っている。

 ダサいもののダサさをあんまりくどくどと責め立てるのはダサい。トップがダサいと,それに対抗する側もダサい方法で戦わざるをえなくなる。かくして,全国民がダサくなる。まあ,理想が再び力をもつようになるのは,われわれが自分たちのダサさに心底から失望したその後なのだろう。ダサい結論になってしまった。また来週。

(以上で,小田嶋隆からの引用終わり)

 「フーン,そうか」と思うのだが,「ダサい」という用法は,もっとほかの表現にとりかえたほうが適当にも思える。だが,これを「ダサい」というコトバを充てて,議論していなければならない日本の政治が,まさしくいまでは,完全に腐敗・劣化・堕落しきっていることになる。

 まさしく,その惨状・窮状は,よりいっそう露骨になっている。あたかも,安倍晋三がその種を播いて育て,菅 義偉が刈り入れているごとき「昨今における日本の政治状況」である。

 最初に触れておいたように,安倍晋三から菅 義偉へと,亡国・売国であり,国辱・国恥だけがとりえある自民党首相の国家支配が,もう満8年近くになりつつある。20世紀以降,ファシズムの国家体制となっていた国々で,まともに栄えた国はなかった。社会主義国としては,旧・ソ連や東欧諸国しかり,中国(中華人民昭和国)はまだ当分はもちそうであるが,いずれは同じ経路をたどるはずである。

 全体主義国の場合,旧ドイツ第3帝国(1933-1945年)はどうなっていたか? スペインのフランコ政権(1939-1975年〔にフランコ死亡〕)は長もちしたけれども,やはり潰れた。

 現時点においてドイツと日本の民主主義国家体制を比較すると,どちらがよりマシか? ドイツでは,安倍晋三や菅 義偉に相当するような,悪品質(劣等生)の国家最高指導者は,いままで1人として輩出されていない。

 ともかく,日本のほうはハズレばかり……。この国の首相の,毎度,劣悪化していく速度の早さにだけは感心する。


------------------------------ 

【未 完】 明日以降につづく。出来しだい,ここにリンク(住所)を貼っておく。 

------------------------------

【参考記事】

------------------------------