内村鑑三「2つJ-Jesus Chris と Japan-」の日本的限界,靖国神社との関連問題

              (2014年5月12日,更新 2020年11月20日
 なぜ,内村鑑三「2つJ-Jesus Chris と Japan-」については「日本的限界という問題」があるのか,日本キリスト教史における位置づけから観た議論

 

  要点・1 国家神道に敗退した日本キリスト者の姿は,戦前・戦中期における日韓の宗教交流史-にもうかがえる

  要点・2 日本と韓国のキリスト者との間に望める深い溝 


  非宗教だというが,宗教がやはり宗教である〈国家神道の基本矛盾〉
    -海外神社の歴史に観るその特性-

 千田 稔『伊勢神宮-東アジアのアマテラス-』中央公論新社,2005年は,戦前期において大日本帝国が植民地に移植した神社の問題を議論している。西欧帝国主義諸国が植民地にキリスト教の宗教的施設を建設し,宗主国が立ちさったあとでも,現地住民による信仰が残存され継続している事例が少なくない。

 これに比較して日本帝国の神道は,現地住民の精神の深奥に根づくことが皆無であった。これには,キリスト教の教義が聖書によってえられるのに対して,神道における「日本の神」については詳細な教典がなく,むしろ,神社という自然的環境に囲まれた場所を足場にしての祝詞と祈祷という「言語性の少ない宗教」であるために,外国の人びとには理解されにくい一面があったためである。

 以上の事情にかかわる相違点を,「キリスト教の聖書による口語的饒舌と神道の寡黙性とでもいっておきたい」註記)ととらえる論者もいた。

 註記)千田 稔『伊勢神宮-東アジアのアマテラス-』中央公論新社,2005年,167-168頁。

 この千田『伊勢神宮-東アジアのアマテラス-』は,大正14〔1925〕年10月に鎮座祭をおこなった朝鮮神宮について,こう言及していた。この朝鮮神宮は,日本国内の神社と比較しても屈指の規模,境内の面積は30万平方メートルあった。当時,朝鮮神宮に関しては「祭神をめぐる問題」が議論を呼び,朝鮮の始祖である檀君を奉斎すべきだ,という意見が提出された。これは,葦津耕次郎(葦津珍彦の父)の意見であった。

 葦津耕次郎は,日韓併合に反対の立場を採り,「意見書」(1925〔大正14〕年8月)を書いた。つぎの  a) b) c)  以下にその要旨を紹介する。

 a) 日韓併合(1910年)を完成することは,両民族の思想・信仰・道徳(精神)を一致させることを根幹とする。

 

 b) 両民族の道徳の根底はともに孝道にあるが,韓国は平面的(易姓革命を繰りかえしたため,父母妻子が離散することになり,祖先を忘れてしまっている),日本は立体的(敬祖崇祖)である(天壌無窮に万世一系であるため祖先を記憶する念が強い)。

 補注)この韓国=平面的,日本=立体的という区分あるいは識別(?)は,学問論的に根拠をみいだせる〈立論〉ではありえない。その「ないことの差異」を「あることの事実」であるかのように,ただ一方的に主張するところにこそ,日本の神道関係人士側における単純思考,これに固有であった “大きな陥穽” が待ちかまえていた。

 

 c) 韓国歴代の建国の偉人を追遠奉斎することは,韓民族の孝道を立体的に向上させることになり,日韓両民族の道徳を一致させることになる。

 補注)ここでも「立体的」という用語が出ているが,立体的といえば平面的という理解・表現よりも,無条件的にただ勝って(秀でて)いるかのように想定させたいリクツが独走している。いってみれば,きわめて手前勝手な独善論になっており,これを逆走的に振り返ってみるに,こうしたいいぶんのほうが,よほど「平面的」(?)な発想になっている。それもかなり “ゆがんだ平面上で” 語られている。

 

 d) 韓国の最初の神社(国家的神社)に皇祖および明治天皇を奉斎して,韓国連邦の神を無視するのは,人道の常道を無視した不道徳で,人情を無視し,人倫をかえりみない行為である。必らず天罰と人の怒りを招く。だから,日韓両民族の融合の根本である朝鮮神宮は,かえって日韓両民族の離反の禍根となる。

 補注)この主張はもっともらしいが,日本の八百万の神々は,韓国にはふさわしくないという含意があるのかとまで,勘ぐってみたくもなる。
 
 e) 韓国教化の根本である朝鮮神宮の祭神(韓国建国の神)は,日韓両国の歴史を広く考察し,慎重に決定すべきである。

 註記)千田『伊勢神宮-東アジアのアマテラス-』188-189頁。

 

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  出所・註記)旧朝鮮神宮の2景,「朝鮮神宮入り口階段」と「朝鮮神宮本殿」,http://blog.livedoor.jp/kaikaihanno/archives/26013289.html

〔千田『伊勢神宮』に戻る→〕 ただし葦津耕次郎(ら)は,日本の立場から植民地朝鮮側を,どこまでも高見から優越的に観察した意見を開陳していた。この論調は,行間から強く感じとれる調子である。また千田の同書は,当時の用法(用語)である「朝鮮」ではなく,「韓国」にいいかえている。これは,歴史の事実に即した正確な表述ではなく,明確な断わりもなしに任意にいいかえているので,併せてこの点も注意しておく。

 ともかくも,葦津耕次郎がこのように意見を提出したとところで,大局的には,「日本の国家神道」を朝鮮に押しつけてきた「大」前提での「意見の開陳」に過ぎない。

 補注1) ちなみに,大正9〔1920〕年11月に創建された明治神宮は,境内の面積約70万mである。明治4〔1871〕年6月に札幌神社と命名され,1964〔昭和39〕年から北海道神宮と改称されたこの神社の境内は,約18万mの面積である。さらに,靖国神社は約10万m平安神宮は約3万3千m平安神宮神苑を含めればその倍)であると説明すれば,朝鮮神宮の規模が想像しやすくなる。

 補注2) 斎藤吉久「朝鮮神宮『祭神問題』の急先鋒・葦津耕次郎」『朝鮮独立を支援した神道人 PART2』は,「韓国」という用語はいっさい使用しておらず,「朝鮮」でもって記述している。本稿は,産経新聞社発行『正論』1999〔平成11〕年4月号掲載された斎藤吉久「論稿」を,多少,修正したものとの断わりがなされていた。

 註記)http://www004.upp.so-net.ne.jp/saitohsy/chousen-dokuritsu2.html,2013年10月14日検索。

 また,『海外神社史』海外神社史編纂会,1953〔昭和28〕年。復刻版,ゆまに書房,2004〔平成16〕年の著者小笠原省三は,『神道評論』(1922〔大正11〕年創刊)の1925〔大正14〕年7月号に発表された論考「朝鮮神宮を中心としたる内鮮融和の一考察」をもって,この植民地神社のあり方について,こういう疑義を提示していた。

 イ) 檀君以外の韓国王家の先祖も祭神にすべきこと。
 ロ) 朝鮮神宮の社殿が伊勢神宮の建築様式を模したこと。
 ハ) 朝鮮独特の人情・風俗・習慣に合わず,二重の失敗をしていること。
 ニ) 祭儀に用いられる音楽・調度も朝鮮独特のものを充てていないこと。

 この小笠原の意見に対しては「賛否両説」があったが,ともに「日韓同祖論」「日韓兄弟論」〔従前でいう「日鮮同祖論」〕を前提していた。というのも,古代における日本と韓国(朝鮮)とには往来があり,その関係が緊密であったことがその根拠にされていたからである。

 だが,この論理がそのままでもって,近代国家の国際関係に適用できるととする考え方だとしたら,現在における国際政治論の視座から観るとき,まともな議論からは〈はるかかなたの詮議〉であったことを意味する。なによりも,祭神論そのものの問題もさることながら,朝鮮神宮が創紀された事実そのものにこそ,本質的な問題が背景に控えていたといわねばならない。

 註記)千田『伊勢神宮-東アジアのアマテラス-』189-190頁。

 日本帝国の植民地進出,その経営にともない各地に創設された海外神社が,同時に現地の宗教者と対立するのは必然であった。当時,朝鮮における神社不拝運動を導いたのは,キリスト教系の学生たちであった。神社は宗教かどうかについて,彼らが明確な解釈を求めたことが,その発端となった。朝鮮総督府は,学生・生徒たちを神社に参拝させるのは教育上の理由であると応えた。

 しかし,たとえ神社参拝を強制し,実現させえたとしても,どこまでも表面であったに過ぎず,被統治下の人びとの精神的自由を制限・統治することは不可能であった。また,戦時体制下におけるキリスト教徒の立場は,神道との関係において宗教者としての良心を貫くことであり,そのための辛苦は,日本におけるキリスト教団体の歴史のなかでも特筆すべきことがらであった。

 註記)千田,同書,194-196頁。

 千田の論及の参照を続けたい。--中世以来,日本という国は自国を神国と信じ,近代に至るまで,中国の土着的な宗教である道教に連なる信仰のあり方を邪宗とみなした。また,ヨーロッパ・アメリカが宣教するキリスト教の受容は,一貫して拒絶する姿勢を維持してきた。日本の植民地統治において神社参拝をなかば義務づけた事実は,他宗教に対する非寛容を意味した。その本質をいえば,日本の神道を国家宗教の根柢に据えて,キリスト教アメリカのごとく,神道国家日本として世界に対置したかったのである。

 だが,神道と国家との緊密なしばり,古代的な祭政一致の内容は,世界宗教としての普遍性からは,遠く離れていた。道教もまた,中国歴史のなかで国家宗教となったときもあったものの,全体の流れのなかでは,むしろ民俗化の道を歩んだ。だからそれだけに,民衆の精神的土壌を形成したと理解できる側面をもっている。

 道教が普遍性をもつかどうか疑問をもつ専門家が多いけれども,その最高神に,神名を時代とともにかえながらも北極星を充てていることは,宇宙という壮大な空間を視野に入れており,より体系的にとらえることができれば,宗教としての普遍性をより大きくもつものとみてもよい。

 註記)千田,同書,198-199頁。

 前項に挙げてあった小笠原省三『海外神社史』海外神社史編纂会,1953〔昭和28〕年。復刻版,ゆまに書房,2004〔平成16〕年は,日本独立の年に書かれた「跋文」の最後で,日本の神道帝国主義史を,こう反省していた。小笠原は,本書の「はしがき」において,日本の海外神社史における朝鮮神宮の祭神問題に関係して,「朝鮮人問題」にとりくんできた自身の体験を,つぎのように語っている。

 「私は大正15年11月に『朝鮮学生講座』を開設し,主として朝鮮の学生に日鮮の不可分なるを,その史的事実によりて説き明かさんとしたのも,日鮮両民族の発祥とその共同使命をと自覚させたいからであった」。

 だが,結局,以下の文章を書く顛末にもなっていた。これは,歴史が進行させてきた諸事実の継起に即して出来した帰結:皮肉をものともせず,負け惜しみ的に教訓を吐いた文句である。

 敗戦は,日本国民に反省の機を与へてくれた。わが神社神道も亦深甚なる反省をせねばならない。併しながらそれが為に我等は過去の一切を否定し去って悠久なる伝統に根ざす惟神道(かんながらのみち)大義に絶望するが如き浮薄なる過ちに陥るべきではない。

 

 反省が新たなる想像の機縁たるべく,正しき伝統の上に立脚して工夫精進する所に我等は始めて世界の進運に寄与し得べき確固たる地歩を築き得ることを知らねばならぬ。この書の発刊が左様の意味に於て良き貢献を致し得るやう念願して止まぬ次第である。

 註記)小笠原省三『海外神社史』海外神社史編纂会,昭和28年,はしがき5頁,跋文572頁。

 

  井上哲次郎『教育と宗教の衝突』1892年

 井上哲次郎が1892〔明治25〕年に出版した『教育と宗教の衝突』という小冊子は,キリスト教に対する積極的批判を開陳していた。井上は,当時の天皇制的国家主義者として,キリスト教を攻撃する代表的な哲学の研究者であった。明治政治思想史において,井上『教育と宗教の衝突』はよく言及される文献・資料である。

 明治天皇の〈皇祖皇宗の遺訓〉にもとづき発せられた教育勅語と,唯一神を信奉するキリスト教との相異点は,つぎの4点に整理できる。

 ☆-1 耶蘇教は非国家主義である。
 ☆-2 耶蘇教は忠孝の二徳を説かない。
 ☆-3 耶蘇教は出世問の教えである。
 ☆-4 耶蘇教は墨子の兼愛の如く,無差別の博愛主義である。

 これらについては,武田清子『天皇制思想と教育-「国家主義」と「国民主義」のあいだ-』明治図書出版,1970年に,もう少しくわしく聞いてみたい。

 ☆-1の批判点は,キリスト教は非国家主義だということである。井上哲次郎は,教育勅語国家主義であり,かつ忠孝主義であるが,キリスト教は世界主義であると観る立場から批判していた。

 ☆-2の批判点は,キリスト教は忠孝を重んじない平等主義だという批判である。井上は,キリスト教徒は「天皇も穢多も同等視され」,「ただその奉ずる神のみをもって至尊無上とする」から,「キリスト教徒がしばしば聖影に対して不敬な所行をする」と非難した。それだけでなく,男尊女卑の教えを否定するキリスト教の倫理観も攻撃の材料にしていた。

 ☆-3の批判点は,「キリスト教は未来を重んじ現在を賤しむもの,すなわち,出世間的要素が強い」と指摘し,「キリスト教の超現実的・超世俗的要素を,未来に救いを求める非現実的な宗教と理解して批判するものであった。

 ☆-4の批判点は「キリスト教の愛に関するもので」,その「博愛は墨子の兼愛〔自他・親疎の区別なく,平等に人を愛すること〕のように,無差別的愛で危険だ」とみなし,「墨子の兼愛は忠孝の道をさまたげる洪水・猛獣のように危険なものだ」と批判したのである。

 井上哲次郎はさらに,『勅語衍義(えんぎ)』1891〔明治24〕年のなかでも,「日本国民の徳義の2本柱としての忠告と愛国,これをささえる倫理のみが必要」として,「それ以外の」「それも危うくすると思えるものは徹底的に排除しようとする」主張をおこなった。井上のこうした批判文が公にされると,「一犬虚に吠えて万犬これにしたがう」で,全国いたるところにおいて,キリスト教の不敬事件が論じられ,キリスト教徒に対する迫害が露骨になっていった。

 註記)武田清子『天皇制思想と教育-「国家主義」と「国民主義」のあいだ-』明治図書出版,1970年,61-63頁参照。〔 〕内補足は筆者。井上哲次郎勅語衍義』は,『教育勅語渙発関係資料集第3巻』国民精神文化研究所昭和14年に収録されている。井上哲次郎『新修 国民道徳概論』三省堂,明治45年初版,昭和10年増訂12版。

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 出所)『日本の古本屋』から。

 井上哲次郎勅語衍義』は『教育勅語渙発関係資料集第3巻』国民精神文化研究所昭和14年に収録されている。筆者が手にできた,井上哲次郎『新修 国民道徳概論』は,三省堂,明治45年初版,昭和10年増訂12版。同書は,島薗 進,磯前順一編『井上哲次郎集 全9巻』クレス出版, 2003年の第2巻に収録されている。第10章が「忠孝一本と国民道徳」。

 関 皐作編『井上博士と基督教徒 正・続-一名「教育と宗教の衡突」顛末及評論-』みすず書房,1988年,関 皐作編『井上博士と基督教徒-一名「教育と宗教の衝突」顛末及評論-収結編』みすず書房,1988年があるが,それぞれ,哲学書院,明治26〔1893〕年刊の複製版と正続を合本した複製版である。

 井上哲次郎キリスト教「批判・非難の見地」は,明治日本における「国家神道の立場」から繰り出されていた。だが,これを対極的にとらえれば,世界主義だと指弾を受けた「キリスト教の普遍主義」の思想的な立場は,日本の国家神道の側では完全に欠落させていた。これでは,国家神道としての容貌をまといながら,海外の植民地に建立されていたた日本の神社が,現地の人びとの宗教精神をとらえることは,はじめからとうていできもしない相談であった。

 伊勢神宮に代表される日本の神社の「神」は,「記紀神話の民族的性格に規定された国家の神」に集約される信仰心を要求する。とりわけ,明治時代からの「一切の宗教的権威が天皇=現人神に収斂されていく現実そのもの」は,一方において,「極めて一神教に近い普遍性を帯びてい」ながら,他方において,「その復古的粉飾を取り去ってみれば,まさに絶対主義にふさわしい神格として立ち現れている」のであった。

 したがって,「ここでいう普遍とは,いうまでもなくナショナルなレベルでの『普遍』であ」ったがゆえ,「これが主張されればされるほど世界的・人類的普遍には背馳した排他的性格のものにならざるをえなかった」。

 註記)小沢 浩『生き神の思想史-日本の近代化と民衆宗教-』岩波書店,2010年,249頁。

 海外の日本の神道神社は,帝国日本の同伴・追随者となって侵出していったのであり,もとより,日本人にのみ支持されうる「擬似国民国家的な宗教の性格」に終始していた。これが実情・実態であった。日本の神道精神に対する受入態勢は,現地の人びとからすれば,どこまでいっても面従腹背でしかなかった。日本軍の侵略戦争の進行にともない,植民地圏内に創設されていったのが,日本の神社史そのものであった。

 明治維新の政治精神にもとづく「日本帝国向けの〈国家神道的な独自性〉」は,これが発揚されればされるほど,「宗教としての国際的な普遍性」を萎縮させていく本性をもっていた。この根本から二律背反する絶対的な逆理性は,日本神道の戦前史的な海外の展開における必然的な実相であった。戦前・戦中にあっては,軍国主義の武威をかさに着て,植民地の民衆に強いた国家的神道しかなかった。それはしかも,日本の天皇尊崇観念へと収斂していく国許の宗教精神でもあった。

 

  日本帝国支配下の朝鮮(韓国)キリスト教

 ましてや,戦前より固有の信仰,それもキリスト教徒の多くいた旧韓国:朝鮮では,国家神道宗主国の国家宗教)とキリスト教(被植民地の普遍宗教)とが衝突する事態を,回避しうるわけがなかった。結局,宗教弾圧への道をたどっていった。

 まず日本国内では,同志社大学人文科学研究所・キリスト教社会問題研究会編『戦時下のキリスト教運動-特高による- 全3巻』新教出版社,1972年・1973年や,明石博隆・松浦総三編『昭和特高弾圧史3・4-宗教人にたいする弾圧 上・下』太平出版社,1975年に詳細に記録されている。

 ここでは,関連する基本的な文献を挙げておくだけにするが,戦前・戦時中におけるキリスト教の激しさは筆舌に尽くしがたいものがあった。だがさらに,植民地朝鮮における宗教弾圧は,それに輪をかけた残酷さであった。朝鮮(旧韓国)におけるキリスト教弾圧の戦時史については,閔 庚培(ミン・ギヨンベ)『韓国キリスト教会史』新教出版社,1981年に語らせてみたい。

 朝鮮(旧韓国)において,キリスト教徒に神社参拝を強要する流れは「満洲事変」を契機としていた。その後,本格的に参拝強要の魔手が延びるのは,平壌のミッション・スクールに対して,定期的な神社参拝が強要されてからである。当時の平壌は「韓国のエルサレム」と呼ばれるほどに,教会の勢力は強大であった。

 平安南道知事安武直夫は,平壌崇実専門学校長マッキーン(G・S・MacCune,尹 山温)博士と,崇義女子高校長スヌーク(V・L・Snook)女史が,最初に学校代表として神社に参拝することを要請した。しかし,彼らは信仰良心にかけて断固これを拒否した。

 参拝を拒否すれば,学校の閉鎖と強制出国も辞さないと脅迫されたマッキーンは,平壌市内の27教会の牧師を集めて協議したところ,1人をのぞいては全員が参拝に反対であった。その根拠は「神社において神を参拝するのは神の戒めに反する」であった。そこで安武知事は,マッキューンを免職させ,アメリカに出国させたのち,大々的な神社参拝の強要に踏みだした。

 宣教師のあいだには意見の分裂が生じ,「一国民的儀礼としての政治的意味のみをもつものである」のか,それとも韓国教会が認めるように「宗教的性質を同時に包含しているものであるか否か」が,懸案の焦点となった。この混乱は,神社参拝は愛国的行動にすぎないという日本側の懐柔策のため,いっそう深刻化していった。

 かといって,教会の意思表示はけっして自由ではありえず,反対意見は黙殺と検索で弾劾され,ただ,親日の発言のみが教会の良心を代弁しているかのように引用された。監理教会の大部分は,神社参拝が政治的国民行為に過ぎないとする日本のことばを,文字どおり受けいれることにしたので,この系統の学校は閉鎖されることなく,解放〔日本の敗戦〕に至るまで生存することができた。教会としての受難も比較的軽くて済んだ。

 註記)閔 庚培,金 忠一訳『韓国キリスト教会史』新教出版社,1981年,395-396頁。〔 〕内補足は筆者。なお,ここに引用した閔 庚培『韓国キリスト教会史』1981年の記述は,呉 允台『日韓キリスト教交流史』新教出版社,1968年のⅥ「戦時下の韓国教会の苦難」「2 支那事変と神社参拝問題」258-265頁を参照した箇所であると思われる。

 閔の同書は「韓国教会の歴史が,近代史の悲劇と共に出発し,日本の帝国主義的侵略と直接的に関係しあいながら進行した点を考察するならば,呉 允台の『日韓キリスト教交流史』が見せた明晰な解釈と豊富な資料構成については,驚嘆なしには評価できない」註記)と述べていた。そうだとすれば,前段に引用した閔『韓国キリスト教会史』の記述は,引照した文献の表示がふたしかだといわざるをえない。

 註記)閔,同書,26頁。

 しかし,長老教会の立場は徹底していた。1931年9月,慶南老会において神社参拝反対決議案が通過すると,それが『釜山日報』に報道されて大きな話題となった。朝鮮総督府は1936年8月,国体明徴を図ると称して,神社規則の全面改訂を断行する。これによって難境はその絶頂に到達した。世俗教育からの宣教師たちの撤収は,宣教師たちの経費半分は学校教育費用に充てられていたゆえ,実質的な宣教事業の終焉を意味した。

 1936年の初め,長老教会の宣教師たちは事態の深刻さを認識し,宣教実行委員会を招集して,ミッション・スクールの閉鎖を決め,同年10月の実行委員会では,1938年までには平壌内外の学校を閉鎖することを決定した。延禧専門学校とセブランス医専および貞信学校の閉鎖を決定したのは,1938年の年次宣教大会においてであった。

 アメリカ本国の長老教会の宣教会においても,ジョン・マッケイ(J・A・Mackay)博士が参加した一委員会において,韓国における学校閉鎖の措置を承認し,「委員会は,いかなる形であれ,神社参拝には反対する」ということを確認した。

 註記)閔,同書,397頁。

 ここに,長老教会が神社参拝のゆえに舐める運命の受難が始まった。日帝は,決定的な教会撲滅の計画を実践に移しはじめた。キリスト教の独立的精神,韓国精神の最後の堡塁として残っていた,教会に対する粘り強い根絶策を通じて,朝鮮(旧韓国)の民族教会をして破産に至らしめるか,さもなければ,日本に対する韓国人の忠誠を先導せしめるかの二者択一を決行させないではおかなくさせたのである。

 1938年,全国の老会が集まりはじまると,日本はこれに対して組織的な破壊工作に踏みだした。各老会は,その開会の劈頭において,まず神社に率先参拝にいくように強圧をくわえられた。その結果,各老会会長が総会を代表して,即座に平壌神社に参拝した。この実に不名誉このうえない「韓国教会史の汚点の責任」が生じていた。

 註記)閔,同書,398頁,399頁。

 ミッション・スクールは「公式的な手順」にしたがい,韓国人や日本人の財団に移譲され初めていたが,それが終わったのは1939年のことであった。延禧専門学校の経営は,元 漢慶博士の固執で1941年まで続けられたが,風前の灯火で,ついには総督府の手に渡された。利梨女子専門学校は京城女子専門学校に衣替えされた。1940年10月,駐京米公使マーシュ(Marsh)は宣教師の完全撤収を命令し,9分の5の数に該当する宣教師たちが本国に帰国させられた。

 そして,残留した宣教師に対する執拗な出国強要は,ときには想像できない名分まで動員した。その事由は,世界祈祷日の祈祷文のなかに,バッツ女史(A・Butts)あ「世界平和」という一句を書いて,日支戦争の聖戦性を冒涜したということに求められた。最後に韓国をあとにしたのが元 漢慶であり,1942年6月,数人のアメリカ人とともに釜山を離れた。これ以降,韓国の教会は,恐るべき教会迫害のなかで,精神的支援なき茨の道をみずから耐えていかねばならない運命の真っ只中に置かれることになった。

 註記)閔,同書,401-402頁。

 

  日韓キリスト教交流史の顛末

 その後,大東亜〔太平洋戦争〕戦争中の朝鮮(旧韓国)のキリスト教迫害に関する論及は,あえて割愛しておき,閔『韓国キリスト教会史』からは,最後につぎの段落を引用しておく。

 迫害の断末魔的な勢いは,猛威を振って全国を席巻した。解放後にはじめて公示された事実ではあるが,日本は〔1945年〕8月18日を期して,いろいろな教派の指導者(服役者を含む)たちをひとまとめにして殺害する陰謀をめぐらしていた。

 註記)閔,同書,412頁。

 日本帝国が敗戦する1945年の出来事であった。8月1日,日本帝国治安命令によって,朝鮮キリスト教界の全教団は「日本基督教団」に合同し,その後8月15日に解放された。獄中のキリスト者は出獄し,親日派のたとえば柳 一宣らの朝鮮会衆基督教会の人びとは追放,あるいは死刑,あるいは極刑に処せられた。

 戦後においては,戦前・戦中に朝鮮総督府と日本組合教会の説得で神社参拝し,解放時とともに大韓イエス・キリスト教団などとなった諸教と,そして,神社参拝に決死の反対をした人びとの創った「高麗派キリスト教団」-のちの韓国南部地方にいちばん勢力の強い基督教団-との2つの教勢が形成されていった。

 しかし,敗戦後における日本キリスト教界は,1945年8月15日より新しく出発した問題であるかのように,宣教を進めてきた。だが,それによって明治時代から第2次世界大戦に至る戦争協力・神社参拝は,あたかも過ぎ去った問題であるかのように過ごしてきた。

 註記)金 文吉『近代日本キリスト教と朝鮮-海老名弾正の思想と行動-』明石書店,1998年,101-102頁,104頁。

 日帝支配下の朝鮮(旧韓国)では,「神社非宗教論」の立場がキリスト教徒の多数派に強要され,神社参拝を受容されていた。しかし,それに反対したがために,朝鮮で廃止された教会の数2百があり,また投獄されたキリスト者約2千名,獄死者50余名がいた。一方における日本のキリスト教は朝鮮のキリスト者に強い,そうしてまで日帝の植民政策を宗教的に擁護し,支持し,さらに日々の地位の安泰のために,それを植民地の,あれほど迫害を受けてくるしんでいる朝鮮のクリスチャンに押しつけてきた。これは大きな問題であった。

 註記)森岡 巌・笠原芳光『キリスト教の戦争責任-日本の戦前・戦中・戦後-』教文館,1974年,47頁。

 こういうことではなかったか。「『仕えられるためでなく,仕えるために」この世に来られたイエスの福音は,民衆を差別し抑圧する側のイデオロギーを支えるような天皇の宗教性とは本質的に相容れるものではないはずであ」る。

 註記)佐治孝典『土着と挫折-近代日本キリスト教史の一断面-』新教出版社,1991年,211-212頁。

 繰りかえそう。1941年以後になって,つまり日本基督教団成立以後,朱 基徹牧師を含めて50数名の朝鮮のキリスト者たちが,「キリスト信仰と神社参拝は併存できない」というその信仰告白を貫いたゆえに,日本の官憲によって拷問され,ついに殉教の死をとげていったのである。

 註記)武田武長『世のために存在する教会-戦争責任から環境責任まで-』新教出版社,1995年,38頁。

 戦時中,日本のキリスト教徒で獄死したのは,日本ホーリネス教会の5名であった。この宗派については,山崎鷲夫『戦時下ホーリネスの受難』新教出版社,1990年が,大部の研究書として公表されている。このホーリネスの殉教者の1人となった辻 啓蔵は,1945〔昭和120〕年1月18日に獄死したが,息子の辻 宣道の書いた『嵐の中の牧師たち』(新教出版社,1992年)は,「嘘をいったり,きれいごとですませるのは私のもっとも嫌うところです」と断わったうえで,こう断言していた。

 時が過ぎれば悲しみもうすらぐそんなものにしたくありません。天皇とその権力の構造を福音に立って撃つものにしなくてはなりません。そうでなければ,殺された者がまるでバカを見たことになります。

 註記)辻 宣道『嵐の中の牧師たち-ホーリネス弾圧と私たち-』新教出版社,1992年,212頁,191頁。

 富坂キリスト教センター編『天皇制の神学的批判』(新教出版社,1990年)は,つぎのように議論していた。

 「朝鮮(韓)半島におけるキリスト者の認識と実践と,日本におけるキリスト者の認識と実践とのあまりの差は,いったいどこから来ていたのかという問題に対する答えを見いだすことなくして,現在の天皇制にたいするキリスト者の責任ある歩みは生まれてこないのではないか」。「同じイエス・キリストを主と信じる日韓キリスト者の間で天皇をめぐる判断にこれほどの差が生じた原因は何であったのか。そしてその信仰的・神学的克服は可能なのであろうか」。

 註記)富坂キリスト教センター編『天皇制の神学的批判』新教出版社,1990年,160頁,175頁。 

 「思考の順序は,国家から国際ではなく,世界から地域社会へであ」り,「ましてキリスト者の国籍は天にあり(ピリピ3・20)と国家的発想は始めから棚揚げされしまっているはずなのだ」。

 「だから教会は本来的にナショナリズムにはなじまないものである」。「そこに天皇のように神道最高神が登場すると,国家自体が愛や尊敬や信仰の対象になってしまう」。

 「この場合教会と国家の問題は教会にとって第1戒--モーセ十戒の第1『主が唯一の神であること』--「による信仰告白の事態に直面している」。

 註記)富坂キリスト教センター編,同書,177頁。--内は筆者補足。

 「朝鮮では」「天皇礼拝(宮城遥拝)を宗教にあらずとしておこなっていた」「日本の教会」とは違い,「それを宗教のあるなしにかかわらず,聖書の第1戒違反と受け止めて拒否し,多くの殉教者を出した」。

 「天皇への敬愛や天皇礼拝を宗教ではないと納得する,日本のキリスト者の信仰の質が,キリスト教会の中においても戦前から戦後に持ち越されたことになる」。これは「信仰の質の問題である」。

 「戦前日本のキリスト者は」「甘美な偶像神,天皇信仰ゆえ」,この「単純な事実,天皇制の魂を売り渡して,第1戒に従わなかった」のである。

 註記)富坂キリスト教センター編,同書,178頁,179頁,187頁。

 1979〔昭和54〕年4月,当時の大平正芳首相は靖国神社に参拝した。「クリスチャンとして,大平が積極的であったとは思われないが,三木〔武夫(前々任の首相)〕と同様に,党内右派との融和を図ったといえよう」と説明されている。

 註記)福永文夫『大平正芳中央公論新社,2008年,241頁。

 前段までの議論を当てはめていえば,大平も政治家=日本国首相の立場を優先させ,第1戒に従わなかったことになる。とはいえ,これは大平に限らず,日本のクリスチャンの一大特性が顕現されざるをえなかった実例であって,格別に驚くほどのものではなかった。

 

  呉 允台『日韓キリスト教交流史』1968年

 本書はむしろ,書名を『近代日韓交流史』に改題したほうが好ましいと思われる中身である。呉 允台(オ・ユンテ)は,大日本帝国による韓国併合(合邦,1910〔明治43年〕)に対峙してからの,日韓双方のキリスト者が示した姿勢を論じる。

 --日本のキリスト者内村鑑三や植村正久など)は,戦前のアメリカによる排日政策に憤慨し,キリスト教徒として猛烈に抗議する決議文を内外に発表していた。「日本のキリスト者は」「アメリカが排日行動をとる時は,それが不義であり,国際的信義に背戻した行為であると決議し,海外にまで宣言した」。

 だが「いざ自国のこととなると,その政府が国家として公約した協約に違反しても,隣の弱い国のため戦うのだと公言し,その弱い国のため日本の安全が危いから併合するのだとして,その戦争を義戦とし,その併合する行為を正しいとし,その目的のため協力するのを義務とした」。

 「これに対して韓国のキリスト者は,祖国が敵に犯され滅亡するのは誤ったことで,生命を賭して守らなければならないと思い,かつ侵略は神の前に犯す罪の行為だと断案を下した」。「だから祖国を守るため,自分の民族が異民族の奴隷になるのは死よりまさるものだとして,この奴隷から民族を解放させる運動が自分たちに負わされた義務と思い,独立運動を展開した」。

 「ハルピン駅で伊藤博文を殺した安 重根もキリスト者,彼の友達禹 徳淳も,当時の義兵の首も,独立万歳運動の時の民族代表33人の中17人も皆キリスト者で,ほとんどが牧師であり長老であった」。「どちらが正しいか,それは神以外に判断はできないが,私見では,愛国心の相違だと思う」。

 註記)呉 允台『日韓キリスト教交流史』新教出版社,1968年,122頁。

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 呉 允台が力説したのは,こういう論旨であった。朝鮮総督府時代における日本のキリスト者と韓国キリスト者とは,愛国心に対する理解が相反しており,永遠の平行線で走ったのは遺憾に思わざるをえない。

 とくに日本組合教会の朝鮮人伝道は,第1に朝鮮人を悔いあらためさせ神の子にし,第2に朝鮮人を日本国民化することに目的を置いていた。その第1の目的は伝道の本質であり,キリスト者の当然の使命であるが,第2の目的はキリストの御旨にかなうことではない。ところが,日本のキリスト者はこの2つの目的を,福音伝道として同一視・重要視した。これは地上に属している国を愛する所為であって,この行為がかえって国を滅ぼす原因となるならば,悲劇でしかない。

 註記) 呉,同書,165頁。

 柏木義円は,朝鮮伝道の目的に関して,こう批判していた。「彼らをして神の国の民たらしめんとするいわゆる純宗教的立場」と,「彼らを同化させてわが忠良なる臣民たらしめんとする二重の目的」「があるとは聞いたことがない」。「いわんや互いに相対立する二重の目的があるはずがない」「と鋭く批判し」た。それだけでなく,「信教の自由の大義を傷つくるを顧みられざるや」「非キリスト教的だ」と,強く反対した。

 註記)呉,同書,167頁。

 植村〔正久〕は,総督政治を鋭く批判した。日本のキリスト者の中で福音信仰をもった人々は,このように正しい考え方をもっていたにもかかわらず,組合教会のように2つの目的をもって朝鮮伝道に着手し,しかもその牧師の給料を総督府からもらったというのは,神様の前にはいうまでもなく申しわけないことであるが,またそれは地上に属する国民の立場からみても,愛国心とはいいえないであろう。

 組合教会の朝鮮伝道は実にキリスト者として芳しくないことで,遺憾千万なことである。日本のキリスト者のこのような信仰の流れが継続的に流れて,ついに第2次世界大戦中,いわゆる「大東亜共栄圏に在るキリスト教徒に送る使徒的書翰」にまで発展したのである。

 一方,韓国のキリスト者の国家民族に対する愛国心と義務感は,日本の組合教会のとは正反対であった。伝道の目的は唯一のキリストの福音宣布であって,イエス至上命令である地の果てまで福音を宣べ伝えることに全力をつくし,また他民族に無断に侵略されて滅亡した国家と,自由を失った自分の民族を愛する愛国心の表現は,生命を捧げることをもってするのが当然と思われた。

 一民族が他民族を侵略するのは許すべからざる罪であって,自由を奪われた自分の民族のため独立運動をするのはむしろ神の御旨にかなうものであって,当然キリスト者が率先してやるべき義務だと考えた。

 ゆえに祖国を失って行く霊は天国に至らず地獄に行くのだと思うほど正義心が強く,だからこそ伊藤博文を殺した安 重根もキリスト者であり,歴代の民族運動の最高の指導者たちはほとんどキリスト者であった。

 キリスト者は,祖国を回復し,自分の同胞に自由を与えるために独立運動をするのは,地上にいる時のキリスト者の最も緊急な大事であると信じ,そのことに限って血を流し,生命を捧げることをあえて辞さなかった。

 註記)呉,同書,169-170頁。

 

  〈2つのJ〉以外はみえなかった内村鑑三

 呉 允台は結局,「朝鮮総督府が治安に最大の邪魔と思ったのは韓国キリスト教であったが,それはそのとおりであり,むしろそれ以上であるかもしれない」とまで論断した。くわえて,呉がとくべつになんども強調した表現があった。

 すでに,一度出ていた文句である。日韓「両国のキリスト者の間には,腹を割って打ちあける対話というものはまったくなく,いつでも沈黙が守られていたけれども,その心の中にはどこまでいっても交わることのできない平行線が引かれていた」というのが,それであった。

 註記)呉,同書,190頁,238頁。

 内村鑑三を根源より批判する呉は,こうまで喝破していた。

 日本の国が滅びるのは神が欲せざることだとするなら,その同じ愛の神が韓国が滅びるのは欲するのか。日本の国の代理になる国が世界にあるはずがない。これはまったく理にあわない理論で,矛盾だらけの正義心であり,自分だけが気づかない自己中心のキリスト者である。そしてこのような点で,韓国のキリスト者と日本のキリスト者は永遠に平行線上を歩くのである。

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 出所)この切手画像は,内村鑑三を描いた8円切手,1951年発行。 http://www.yushu.co.jp/shop/g/g120181/

 実際に怒るべきところは怒らず,怒るべからざるところに憤慨するのが内村の憤慨だと韓国のキリスト者は判断し,内村の愛国心を妥当なる愛国心と思わず,「我田引水」のような片側だけの偏見の愛国心と判断せざるをえない。いわんや無罪の民族を虐殺するのに沈黙するのが偉いというのは,話す余地もない無価値なものだというのが韓国のキリスト者の見解であり,そのために両者の間には永遠の平行線が横たわっているのである。

 日本のキリスト者は,自己の民族が他から侮辱され時は憤慨し,怒りを発するのは正義であるが,いざ自分も最も愛する自国民族が隣国を侵略し,約祖国を破り,自由を奪い,虐殺までしても,なんら発言しないのは,政府の機嫌取りのためか,それとも同じ同胞の世論を恐れるか,いずれにしても人間と国家と世界の歴史を左右する神を恐れず,人間を恐れるものに過ぎないことである。

 韓国キリスト者と日本のキリスト者とは,心と心が通じないまま平行線を辿ったのであった。

 註記)呉,同書,240頁,241頁,243頁。

 以上,呉 允台「自身も,戦争中,日本の官憲によって過酷な拷問を受けた」体験をさせられていた。呉のキリスト教思想の立場からする議論は,「内村の愛国心とはなんであろうか」と,その本質を根源から問うものであった。

 註記)呉,同書,大村 勇「喜びの言葉」ⅱ頁,239頁。

 筆者は,生前の呉 允台から「拷問を受けた体験」を,直接聞いたことがある。内村鑑三キリスト教思想をもってしては,「キリスト者としての信仰愛が徹底されていなかった」というほかない。内村が独自に,自身のキリスト者の立場だと論理的に表現した,「自分は2つのJ-Jesus Chris と Japan-を愛する」ことは,その意味「愛国心に敗北したキリスト者の信仰愛」の次元でしか捕捉できないものであった。

 ましてや,内村にとっては,Jesus Chris の前に Japan が存在しえても,隣人である Korean などは視野のそとであった。「2つのJ」の「そのどちらをより多く愛するか,自分はしらない」といって,自問自答の範囲をみずから狭めていたくらいであるから,内村のキリスト者としての思想には,もともと,論理的に説明できない〈キリスト教思想としての日本的限界〉が架せられていた。

 内村鑑三1886年3月,25歳のとき,愛用の聖書の見返しに英語で,「わが墓に刻印されるべきこと」( To  be  Inscribed  upon  my  Tomb )と生涯の誓願を書きこんでいた。69歳で召天するまで,天の羅針盤となって内村を導いたというその文句は,こういうものであった。「我は日本のため,日本は世界のため,世界はキリストのため,そして万物は神のために( I  for  Japan,Japan  for  the  world,The  World  for  Christ,And  All  for  God )」。

 註記)「代表的日本人キリスト者 内村鑑三 2つのJ」『福音 キリストの幕屋』,http://www.makuya.or.jp/forjapan/kirisuto/uchimura.htm,2014年5月10日検索。

 この表現,「内村→日本→世界→キリスト・万物・神」の順番のなかで,欠落していたものがなんであったかは,あえて指摘するまでもない。ここでは,この内村鑑三の宗教的な精神世界の背景に控えていた,それも明治期に創られていた「日本的精神の特性」に注目しておく必要がある。柳 東植『韓国のキリスト教東京大学出版会,1987年に説明させよう。

 国家神道は,明治維新に始まる天皇制国家が創りだした宗教であり,神社神道皇室神道とが結合された日本の民族宗教である。つまり,天皇崇拝と神社信仰を主軸とする,天皇制の宗教的・政治的イデオロギーであった。この国家神道の教義は,すなわち,日本帝国の国体の教義であった。それは,現人神である天皇が統治する日本帝国の神聖性を主張と同時に,神社信仰の民族国家にとっての宗教的意味を明らかにしていた。

 

 国家神道のこのような教義にしたがえば,天皇の支配する土地には日本の神々が降臨すべきであり,これを奉る神社が建立されるべきであった。したがって,日韓併合後,日本は朝鮮半島に多くの神社と神祠を建てた。天照大神明治天皇を祭神とし,植民地支配のイデオロギー的拠点とされた朝鮮神宮の建立がその代表的なものである。1925〔大正14〕年までに,ほかに神社42,神祠 108の多くを建て,これらに参拝させることによって,朝鮮人に政治的・宗教的服従を強いた。

 

 しかし,超越的な唯一神を信じ,人権の平等と博愛を主張するキリスト教は,その構造そのものが国家神道とは相容れないものであった。クリスチャンにとって,天皇崇拝と神社信仰とはひとつの偶像崇拝に過ぎなかった。それにくわえて,国家神道が選民意識にかられた排他的な民族主義的宗教であったのに対して,朝鮮のキリスト教は,はじめから朝鮮の民族主義と結ばれた宗教であった。

 

 そこでは,国家神道キリスト教の衝突は,宗教的に避けられないものであると同時に,民族主義の立場からも不可避のものとなった。この抵抗は宗教的・民族的なものであり,ここに神社参拝問題の本質があった。

 註記)柳 東植『韓国のキリスト教東京大学出版会,1987年,93-94頁。

  内村鑑三の場合,確言できることがある。「2つのJ-Jesus Chris と Japan-を愛する」という立場は,日本のキリスト者においても不可避であったはずの国家神道キリスト教の衝突」を,意識的かそれとも無意識的かを問わず巧みに回避しえていたからこそ,唱えることができていたのである。

 しかしながら,日本のキリスト者にあっても,日帝のために殉教を余儀なくされたホーリネスのキリスト教徒たちがいた。この歴史の事実は,内村の「逃げ口上」にも聴こえる「2つのJ」に対して,弁明の余地など,寸毫も与えない。もちろん,許しもしていない。

 他方で,アジア‐太平洋戦争期において,「日本の祖先神,天照大神に対する礼拝」を強制され,「朝鮮語をなくすことによって民族文化を抹殺」され,「創氏改名によって人格を破壊した日本は,ついに神社信仰の強要によって朝鮮人の魂を奪い去ろうとした」。これに必死の抵抗をしたのが「朝鮮のキリスト教」であった。「教会のなかでは抵抗運動がつづけられ」,「牧師」など「50余名の信徒が殉死と遂げた」のであった。

 註記)柳,同書,107頁,109頁。

 澤 正彦『南北朝キリスト教史論』日本キリスト教団出版局,1982年は,「1944年4月平壌監獄で,殉教した」朱 基徹牧師が,「神以外の何の権威も恐れない姿で,神社参拝を公然と批難した」ことに触れ,さらにこう述べていた。

 「日本統治時代において,韓国教会に,教会としての最大の試練を与えたこの神社問題は」,韓国「教会の恥辱史」を形成させ,また「世界教会に誇る尊い血の殉職者をも」たせた。「約2000人の教会員が,この神社参拝のために投獄され,50人の教会指導者(牧師,長老,伝道師)が,獄死し,200の教会は,このために閉鎖されてしまった」。

 註記)澤 正彦『南北朝キリスト教史論』日本キリスト教団出版局,1982年,122頁,117頁,121頁。

 民族主義キリスト教の感情は,韓国初代崩壊から現代に至るまで教会全体を支配している。大衆もエリートも,この民族主義的感情を基底にしながらも,日本の統治が,苛酷であればあるほど,希望を失った大衆は,神秘主義,彼岸主義に避け所を求め,エリートは憂国の志士として,国の内外にあって,民族運動を進めていったのである。

 註記)澤,同書,80頁。

 いまさら指摘するまでもないけれども,内村鑑三の「2つのJ-Jesus Chris と Japan-を愛する」といったキリスト教観は,以上のごとき「日帝植民地における民族主義キリスト教の感情」という実体を,まずまっとうに受容したうえで,さらに超克するための「宗教普遍的な基本精神」を,当初よりもちあわせていなかった。「ジャパンのJ」も「ジーザスのJ」も身内の圏内だけで通用する「国家と宗教の想念」に留まっていた。

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